SANRIZUKA 2009/08/01(No780 p02)
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週刊『三里塚』(S780号1面1)(2009/08/01)
NAAは不在地主、農地法6条違反
7・21二つの市東さん裁判で県・会社追及
西側誘導路(3本目)建設の暴挙許すな
「とことん闘う」 市東さん
北延伸前倒し供用阻止 夏〜秋の激戦・激闘へ
7・21市東さん裁判(行政訴訟と農地法裁判)は、県と成田空港会社(NAA)を圧倒する勝利的な弁論闘争として闘いぬかれた。三里塚夏〜秋の決戦は7月末新東側誘導路の供用開始、3本目の西側誘導路建設攻撃そして10月北延伸滑走路の前倒し供用と真っ向から対決する過程に入った。世界大恐慌の深まり、北朝鮮の体制転覆を狙った戦争情勢、自民党支配の崩壊という戦後かつてない激動情勢の中で、動労千葉との強固な労農連帯で闘いぬく三里塚の前進に追いつめられた日帝・国土交通省、NAAの攻撃も強まっている。10・11三里塚全国集会から11月労働者集会1万人結集へ闘おう。8・2革共同政治集会に結集しよう。
7月21日の2つの市東裁判=行政訴訟、農地法裁判(いずれも堀内明裁判長)には85人の労農学が結集し、市東孝雄さんの農地を守るために傍聴闘争を闘った。
裁判に先立つ9時40分、反対同盟、弁護団は、6月25日に行われた天神峰現闘本部裁判での仲戸川隆人裁判長の訴訟指揮に抗議・申し入れを行うために、民事第5部の書記官室に向かった。
北原鉱治事務局長が「仲戸川裁判長に面会したいから取り次いでほしい」と担当書記官に告げると書記官は「仲戸川裁判長は会えない」と回答した。一同はこれに強く抗議するとともに、別室を用意させて北原事務局長が書面を読み上げて手渡した。
申し入れ書は事実を明らかにするための天神峰現地闘争本部の検証、石橋恵美子証人の再喚問の2点を要求している。
10時30分から601号法廷で、千葉県を相手取って市東さん側から起こした行政訴訟の第3回弁論が始まった。市東さん側弁護士が、市東さんの家の前の土地5筆について権利取得経緯を縷々(るる)展開し、契約および時効取得による賃借権の取得を主張した。
つづいて重要な論点として、NAAによる2カ所(家の前と天神峰現闘本部先)の農地の取得が農地法6条違反であることを鋭く追及した。農地法6条とは、何びとも住所地以外の小作地を所有することはできないという規定だ。戦前の地主制を廃止するために制定された農地法は、その地主制を復活させないための保障条項も制定してある。それが農地法6条だ。
空港公団(現NAA)は本社を1996年まで東京都内に置き、住所地は東京だった。しかし、その間に前記2つの農地を買収していた。一番古いもので1970年、一番新しいものでも1988年だ。NAAは空港用地に転用せず、20年から30年も小作地所有者であり続けた。これは明白に農地法6条違反でありNAAは不在地主だった。弁護団は語気鋭くこの点を追及した。千葉県側代理人は「書面で回答します」としか言えなかった。
さらに、県側は前々回(2月3日)に市東さん側から行っていた求釈明に対する居直りの回答を行ってきた。求釈明の内容は、県が市東さんの賃借権解除許可の決定を行うにあたって、NAAの数々の違法を調査したのか、どうかというものだったが、回答は「そのような調査は賃借権解除の検討と関係ない」という、市東さんを愚ろうしたものだった。次回以降この点も追及していくことになる。
11時10分からはNAAが市東さんの契約地について明け渡しを求める農地法裁判の弁論が始まった。まず、弁護団が行政訴訟と同趣旨の農地法6条違反と地代の詐取(さしゅ)について再求釈明した。
ここで堀内裁判長が「釈明はできるようだったらやって下さい(できなかったらやらなくてもいい)」とNAA側に助け船を出したことに対して、傍聴席から一斉に抗議の声が上がった。
さらに弁護団は、NAA側による市東さんへの契約地明け渡し要求が無効である根拠を8点に渡って全面展開した。
すなわち県による賃借権の解除決定自身が違法であり、無効であること、数々の農地法違反をくり返してきたNAAに訴えの資格はないこと、本来土地収用法で行うべき公用収用を農地法を使って行うことは、適正手続きを定めた憲法に違反すること等々を展開し追いつめた。
(写真 弁論終了後の記者会見・報告会。勝利感にあふれていた【7月21日 弁護士会館】)
さらに傍聴の力を 27日市東耕作権裁判へ
弁論終了後、場所を移して記者会見と報告会が行われた。市東さんは「NAAは農地法6条に違反しています。ますます押していると思います。27日の耕作権裁判もよろしくお願いします」とあいさつ。
葉山岳夫弁護士が「全体に押し気味に展開している。さらに傍聴闘争の力も加えて勝利していきたい」と発言。弁論を担当した西村正治弁護士らからも「不在地主の禁止規定違反の追及は有効だし面白くなる」旨の発言がなされた。
ここで市東さんが挙手して再び発言、「第3(西側)誘導路の計画が発表されて進められている。私の家と畑を空港の中に閉じ込めてしまおうという攻撃で絶対に許せない。今まで以上にがんばる」との強い決意が表明された。次回は10月20日(火)午前10時30分からの弁論闘争だ。さらなる傍聴闘争に取り組もう。
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週刊『三里塚』(S780号1面2)(2009/08/01)
7・19 関空反対集会が大高揚
「道州制粉砕し廃港へ」
住民と労働者の団結訴え
7月19日、関西新空港反対全国集会は、大阪泉佐野市内において「関空の軍事空港化絶対反対!道州制粉砕!橋下打倒!」をメインスローガンに275人の結集で大成功をかちとった。
地元からは、60人の多数が結集した。関西・中四国・東海の労働組合旗、星野救う会のノボリ、婦人民主クラブ全国協・全学連などの旗が会場を埋めた。当日は、夏真っ盛り、時折の強い日差しをものともせず、意気高く集会・デモは貫徹された。
司会は、泉州住民の会の中山綾子さん。「今日の集会は泉州住民の会の単独の集会になりました。14人の役員が一致団結して今日の集会を成功させるために討議に討議を重ねて、開催することができました」と開会を宣言した。
連帯のあいさつのトップで入江史郎・労組交流センター代表は次のように発言した。「今日は、関西新空港反対闘争の新しい出発の時です。絶対にこれを成功させなければなりません。これを同時に、市東さんの土地の取り上げという攻撃を受けている三里塚闘争とともに闘い、関西新空港・軍事空港阻止していく、勝利していく。軍事空港化の突破口は、関西空港だ。その旗振り役が橋下知事だ。労働者を組織し、道州制の露払い=関西空港を廃港にしよう。われわれが三里塚闘争の先頭に立とう」
つづいて、動労千葉の滝口誠特別執行委員が熱のこもったあいさつを行った。「地元泉州住民の皆さんの元気に力を分けてもらっています」と切り出し、さらに「都議選では民主党が伸びたというより、自民党が自滅した。今こそ、労働者階級の一人ひとりが持っている歴史的な階級的な力を確信し立ち上がろう」、そして「泉州住民の会の声明を支持する。関空闘争の主体は地元・泉州住民と労働者。長年地道に闘ってきた」と熱烈に発言した。また関実声明や反対同盟声明にもふれ、発言は大きな拍手に包まれた。
その他、8・6ヒロシマ大行動実行委員会、婦人民主クラブ全国協議会、部落解放同盟全国連西郡支部があいさつした。国賀祥司・泉州住民の会事務局長が、鮮明な基調報告をした。「今日は、記念すべき集会。泉州の会が単独で主催する初めての全国集会。責任の重さを痛感」と述べ、恐慌情勢の中、関空闘争の勝利をつかめる絶好の情勢を迎えたことを提起。特に、年間90億円の国の補助金でようやく維持されている関空の危機と道州制攻撃の中軸に位置していることを述べ、橋下打倒の労働者の闘いの爆発が不可避なことを強調、「関空闘争は、泉州住民の会が責任を取ってきた。脱落した人たちは、関空闘争に責任を取ってない、闘いの路線も違う。関空闘争は、道州制攻撃であり、改憲と戦争攻撃。私たちは、三里塚闘争勝利の路線は不動。3・8分裂で脱落した連中を引き込もうとする変質策動は許さない。10・11三里塚全国集会に決起しよう」と闘いを呼びかけた。決意表明は、泉州住民の会、地元労働者、全学連。それぞれ労働者こそが関空闘争を担うことを訴えた。
閉会のあいさつは、泉州住民の会・井上敏幸さんが行った。「泉州の会の草の根・土台は拡がっている。侵略戦争の飛行機を飛ばすな、軍事空港反対。来年5月泉佐野市議選に勝利しよう」ときっぱり。
住民の注視の中、デモは、関西新空港対岸のりんくう公園まで行われたた。りんくう公園では、スケボーを持った若者2人が、「財政破綻の泉佐野市をつくりだした関空弾劾」の宣伝カーの声に「そのとおりだ。頑張って下さい」と駆け寄ってきた。
総括集会は、海上に見える関空へ弾劾のシュプレヒコールを叩きつけ、新たな関空闘争の躍進を確認した。7・19泉佐野闘争の勝利を引き継ぎ、東西両空港反対闘争の大前進を今こそかちとろう。関空は1兆円を超す負債のため今や沈没寸前。廃港へ闘おう。
(写真 デモ隊は、解散地でシュプレヒコールを行った【7月19日 りんくう公園】)
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週刊『三里塚』(S780号1面3)(2009/08/01)
西側誘導路の建設攻撃
市東宅を空港内に囲い込む攻撃だ!
7月4日に報道された「3本目の誘導路(西側誘導路)」計画への怒りが高まっている。ルートは下の写真のようになる。ホテル東横インの向かい側から小見川県道を北方向に横断し、市東孝雄さん宅の裏側(西側)を通り、さらに団結街道も横断して、「DOWN WITH NARITA AIRPORT(成田空港粉砕)」の大看板の北側で現行誘導路に接続するものとなっている。
まさに、市東さんの家と作業小屋、離れ、畑をすっぽり空港の中に囲い込んでしまおうという前代未聞の攻撃だ。
これは、市東さんへの許しがたい攻撃である一方、実に脆弱で場当たり的な弥方(びほう)策であることも見ておかなくてはならない。
この西側誘導路建設の目的は、現在供用されている連絡誘導路(市東さん宅前から第2ターミナルへ向かう誘導路)が、東峰部落の開拓道路と私有地に挟まれて狭く、しかも約90度近くカーブし坂道となっているため(写真の一番下の部分)、大型機を通せないことから、急きょ持ち出された計画だ。
当初、暫定滑走路の北延伸で大型機が離着陸できるようになった場合、一方通行(東側誘導路を入り口専用に、連絡誘導路を出口専用にする計画)にすれば大型機が連絡誘導路も通れるかのように虚勢を張っていたのが、供用開始が迫って来ると、「やはり危険だ」との関係者の声が高まり、あわてて西側誘導路の方針を固めたというのが真相だ。
マスコミの記者に「なぜ北延伸滑走路の供用開始が迫っているこの時期に、急に西側滑走路の計画を固めたのか」と突っ込まれると、まともな答えができない、というのが実態だ。
要するに、暫定滑走路の開業時(2002年4月)、暫定滑走路の北延伸計画決定時(2005年8月)とまったく同じ失敗を今回もくり返したというわけだ。すなわち「飛ばすぞと脅せば、空港反対運動は崩れる」「大騒音で追い出したい」という根拠のない淡い願望である。
「北延伸滑走路が開業すれば今度はジャンボ機が飛ぶ。今度こそ音を上げるだろう」との”期待”が当然にも外れ、大慌てで今回の計画を発表したのだ。
(写真 新たに打ち出された西側誘導路のルート図【破線】。市東さんの家と畑をすっぽり空港の中に囲い込んで追い出そうとする暴挙だ)
成田空港は永遠に完成しない
市東さんは「絶対に許さない。私は負けない。ますますがんばりたい」と闘志を燃やしている。
北延伸の供用を6カ月も勝手に前倒しし、東側誘導路の供用を9カ月も前倒しし、その上にこのような地上げ屋的やり方で誘導路を新たに造るなど、断じて許すことはできない。反対同盟を先頭とする労農学は夏〜秋の決戦を西側誘導路計画粉砕・北延伸滑走路前倒し供用粉砕の闘いとして、10・11全国集会を頂点に断固として展開することを決意している。
新聞報道に紹介されていた国交省関係者の言葉が的を射ている。「反対運動を解決しないと、いびつな空港のままで抜本的な対策にはならない」(!)。そのとおりだ。
まさに日帝・国交省の敗北感がにじみ出ている。三里塚闘争が前進する限り、成田空港の完成は永遠にありえないのだ。
国土交通省とNAAは、今月末に開催される「成田空港対策4者協議会」(国土交通省、NAA、千葉県、地元自治体で構成)で地元自治体に計画を説明する、としている。
成田市や芝山町を始めとする地元自治体は、この前代未聞の西側誘導路計画を拒否せよ。 違法と理不尽のかたまりである暫定滑走路をただちに閉鎖せよ。
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週刊『三里塚』(S780号1面4)(2009/08/01)
「農政改革」チーム破綻、解散へ
米作切り捨て策動
減反見直しに怒り噴出
麻生首相の指示で今年2月に発足した「農政改革特命チーム」が、目標であった米の減反の撤廃を実現できないまま、7月15日の会合で、議論を終了することを確認した。
この「改革」チームには、農林水産省、財務省など中央省庁の課長クラスが召集され、減反見直し―小規模・家族経営農家の切り捨て―農地の大規模化という「改革」路線の強行をもくろんでいた。
しかし、肝心の大規模農家の中からでさえ減反見直しに対する反対の声が噴出し、政権自体の迷走がこれに加わって、「改革」チームの破たん・解散が決定づけられた。
このチームは減反を廃止した場合のシミュレーションなるものを行なって、反対の声の鎮圧を行なおうとした。その値段は、現在10`1万2000円前後であるものが、何と6000円に。
しかし「チーム」は、農地を集積させれば米を作れる量が増えるから農家の収入は増えると主張した。15f規模の大規模農家の収入は「一級建築士並み」と。
だが、モデル地区とされている秋田県大潟村の15fの米農家が今現実に破たんしているのだ。まさに米農家を切り捨てるための空論だ。
(写真 「改革」チームは解散【7月16日】)
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週刊『三里塚』(S780号1面5)(2009/08/01)
コラム
今年は、太宰治、松本清張の生誕100年の年とされているが、同様に反戦川柳で有名な鶴彬(つるあきら)の生誕100年でもある▼「暁を抱いて闇にゐる蕾(つぼみ)」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」「万歳と上げた手を大陸に置いてきた」「枯れ芝よ団結をして春を待つ」など数多く名作を残している▼鶴の本名は喜多一二(きたかつじ)で石川県高松の生まれ。「暴風と海の恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、反戦運動の高まりのなかで成長し、19歳でナップ(日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦句を作って戦争反対を貫いた。21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』を持ちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の刑に▼俳句から派生して、身辺雑事の中から諧謔(かいぎゃく)を見出す軽い遊びであった川柳を、一句で世相を切る鋭利な武器に変えたのが、プロレタリア川柳だった▼徴兵された兵営の中でも、鶴彬は自分の信念を曲げることなく、度重なる懲罰にも屈しなかった。1938年8月、2度目の治安維持法違反で投獄された野方署で死去。小林多喜二と同じ29歳の若さだった。最後の句が「胎内の動き知る頃骨が着き」というすごい作品。「胎内の動き」は胎動、「骨」とは夫の遺骨のこと▼本紙2002年4月1日号の「闘いの言葉」欄で鶴を紹介したことを覚えておいでだろうか。
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週刊『三里塚』(S780号1面6)(2009/08/01)
闘いの言葉
農民をコンミューンに加入させる目的で直接、間接の強制手段を用いるようなソヴェト代表者は、厳重に責任を取らせなければならない。
1919年ロシア共産党第8回大会
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週刊『三里塚』(S780号1面7)(2009/08/01)
日程 8・2革共同政治集会
「大恐慌の到来と世界革命の展望」
基調報告 鎌田雅志
●8月2日(日)午前11時30分
●東京 豊島公会堂
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週刊『三里塚』(S780号2面1)(2009/08/01)
労農同盟論の発展のために
農民と労働者は連帯をせずには生きられない
労働者への《改憲・戦争と民営化・労組破壊》の攻撃と一体となって、300万農民に対する攻撃が襲いかかっている。「労農同盟を切り開くことは、21世紀の革命にとって重要な位置を持っている」(2008年『前進』夏期特別号)との提起をさらに深め闘いぬこう。
1917年ロシア革命の勝利を切り開いたレーニンとボルシェビキ党は、その勝利を実現する上で、労働者階級による職場生産点の支配とともに、労働者階級と農民の同盟をプロレタリア革命の成否を決する重要な階級的基礎として提起した。そして、この強固な同盟を基礎に世界史上初のプロレタリア革命に勝利し、革命後の国内建設をやりぬいた。
今日、最末期帝国主義の新自由主義攻撃とその総破産のもとで、この問題はむしろレーニンの時代以上に決定的なものとなりつつある。
帝国主義に農業問題は解決できない
何よりも、資本主義・帝国主義は農業・農民問題を決して解決できないことが、今日の現実の中であらためて衝撃的に突き出されていることである。
今日、世界大恐慌のもとでの急激な経済危機の爆発は、都市の労働者階級を耐えがたい生活苦にたたき込んでいる。そして農民や漁民にもこのままでは農業や漁業など第一次産業自体が成り立たない状況に追いやった。 全世界で、労働者のストライキと並んで食糧暴動や農民や漁民の決起が続々と起きている。最末期帝国主義の新自由主義とその破産が食糧危機の爆発をもたらすと同時に、他方で農業を破壊し、膨大な農民を破産にたたき込もうとしている。
そもそも資本主義は、その歴史的発展の内部において農業・農民問題を根本的には解決できない。帝国主義段階への突入はそのことを明確にした。すなわち、帝国主義のもとでは土地問題のブルジョア革命的解決はもはや不可能と化し、逆に農業と農民への金融資本による収奪が限りなく強められ、農村は潜在的過剰人口のプールと化した。
第2次大戦後の帝国主義は、プロレタリア革命圧殺のために労働者と農民を分断し、国家独占資本主義政策のもとで農民への一定の「保護政策」を打ち出すことで支配の安定を図ろうとした。だがそれが完全に行き詰まる中で強行された新自由主義への転換は、帝国主義の矛盾を労働者とともに農民に押し付け、農業と農村を徹底的に破壊しつくすものとなっていった。
とりわけ日帝がこの間やってきたこと、やろうとしていることは、実に恐るべきことだ。
FTA(自由貿易協定)・EPA(経済連携協定)の締結を水路とした日帝によるアジア勢力圏化や道州制導入の攻撃は、金融資本・独占資本の利害のために日本の農業と農村を根底的に破壊し、農業・農民を抹殺していく攻撃である。麻生政権と御手洗経団連は「攻めの農業」と称して、国内農業の切り捨てを決断、小経営では成り立たない状態を強制して、耕作地放棄に追い込まれる農民を大資本が徹底的に食い物にしようとしている。他方で中国やアジアの農村から食糧を略奪する構造をつくっていく。さらに大都市圏と地方(農村)を対立させ、地方の過疎地化を促進して住民丸ごと棄民化する。
日帝ブルジョアジーは今やこれを、自らの延命をかけてとことん推し進めようとしているのだ。
今や日本の農民は、生きるためには労働者階級と連帯して、ともに帝国主義を打倒しプロレタリア革命を実現する以外にない。これは全世界的にも同じだ。
労農の同盟は革命の勝利に不可欠だ
労働者階級は、資本主義・帝国主義がもたらした一切の社会的諸矛盾の根本的な解決をかけて、プロレタリア革命を完遂しよう。ここに、労働者階級自身の解放だけでなく、農民を始めすべての勤労諸階級人民の生活と未来の一切が、全人民の解放が、かけ値なしにかかっているのだ。
そのためにもプロレタリアートは、決起した農民を帝国主義の打倒と新社会の建設をともに担う主体として、プロレタリア革命の戦略的な同盟軍として獲得し、ともに闘うために全力を挙げるのだ。この労農同盟は、資本家階級の打倒のために不可欠であるだけでなく、革命後の共同社会のもとでの農業・農民問題の究極的な解決、労働者と農民の新たな関係の創出、都市と農村の対立の最終的な止揚などを闘いとっていくためにも不可欠である。
動労千葉と三里塚の連帯が不抜の柱
三里塚闘争はまさにこの労農連帯・労農同盟をその43年間の不屈の闘いをとおして、日本階級闘争の中に不動の柱として打ち立てた。日本の農民が今、日帝への新たな総反乱を開始しようとする時、その中心に立つのは何よりも三里塚だ。
三里塚反対同盟の農民が、成田軍事空港の建設という日本帝国主義の第一級の国策と真っ向から激突して闘い、空港の完成を半世紀近くにもわたって阻み続けてきたことは、人民の反戦・反権力、反帝国主義の闘いの金字塔である。それは何よりも、敷地内を始め反対同盟農民の全人生をかけ、農民魂をかけた不撓(ふとう)不屈の決起によって切り開かれてきた。
と同時に、三里塚現地での激戦激闘を全国の労働者や学生が反対同盟とともに文字どおり血を流し、生死をともにして闘う中で築き上げてきた、労農学の〈血盟〉によって支えられている。そしてこの血盟の軸となっているのが反対同盟と動労千葉との労農連帯だ。この血盟はどんなことがあっても守られなければならない。
とりわけ動労千葉が1977年から81年にかけ、成田空港へのジェット燃料貨車輸送阻止闘争を4人の解雇者を出しながらも決然と闘いぬいたことは、歴史的で決定的意義を持っていた。帝国主義打倒の革命に向けた労農同盟の不抜の柱、その原型がここにあった。
階級的労働運動と三里塚闘争のさらなる発展をかけて、労農同盟の新たな力強い前進を切り開こう。
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週刊『三里塚』(S780号2面2)(2009/08/01)
国際連帯は今、世界を揺るがす
韓国双龍自動車労組の闘い
1000人が2カ月をこえ籠城
殺人的な強制執行許すな
●韓国・民主労総の金属労組双龍(サンヨン)自動車支部が整理解雇撤回を要求して工場占拠ストライキを続ける平沢(ピョンテク)工場に対する強制執行攻撃が開始され、一大激突が始まった。
5月22日以来の工場占拠ストは7月20日で、60日を迎えた。労組員1000人は6月27日以来、工場内の塗装工場を砦として立てこもっている。
労組が占拠している塗装工場には大量の引火物質が保存されており、これが爆発した場合、半径1〜2キロが火の海になるとも予想されている。
7月11日には京畿(キョンギ)地方警察庁が平沢工場の四つの門を確保した。正門前に労組が設置していたコンテナを会社側が用意したフォークリフトで撤去した際、これを迎え撃った労組員2人が検挙された。警察部隊200人が工場内に侵入した。
サンヨン自動車支部は11日、緊急声明を発し、「退く所も、押し出す所もない労働者たちにとって塗装工場は最後の砦であり、決死抗戦の戦場、墓場だ」との壮絶な決意をあきらかにし、「15万金属労組の力が必要だ。公権力投入時のゼネスト実践闘争を宣言する必要がある」と金属労組15万組合員に呼びかけた。緊急声明は、「“一緒に生きよう”という労働組合の主張に対し、“お前らだけ死になさい”という公権力投入で合意した資本と政府の今日の決定が、結局“第2の龍山(ヨンサン)惨劇をつくる”ということならば、そのようにしろ! しかし、それに伴うすべての責任は使用側と政府にある」「公権力によって私たちの戦いが終わることは絶対にない。サンヨン自動車支部は私たちと子どもと家族の人生を守るための正当な戦いが公権力によって踏みにじられるとしても、最後の一人が残る瞬間まで決死抗戦で対抗することを明確にする」と宣言した。
*
●7月16日、工場は警察に包囲され、上空には警察のヘリコプターが旋回している。イチャングン双龍自動車労組企画部長は、「対話と交渉が行われている状態で再度、公権力がスト中の労働者たちを刺激し、弾圧するなら、私たちは明け渡すことはできない」と断言した。
双龍自動車側は17日、正門に物品搬入禁止札をかけて食料品などの搬入も阻止している。
午前1時には労組が占拠している塗装工場屋上に大型パチンコ2個が新しく設置されるなど、緊張が極点に達している。
16日には、支援に集まった金属労組など82人が連行されるという大弾圧が強行された。
15、16日と6時間ストライキで闘った起亜自動車支部のキムジョンソク支部長もマイクを握り、2交代勤務と月給問題で闘っている支部の現況を報告し、「雇用安定と労働者の希望を作るために双龍車問題に連帯闘争する」と決意を語った。
最後に平沢工場の70bの煙突の上で座り込み65日目を迎えたサンヨン自動車支部整備支会キムポンミン副支会長と電話がつながった。「サンヨン自動車の整理解雇反対闘争はサンヨン自動車だけの闘争ではなく、この地の全労働者の闘争になった。ここで崩れればこの地の労働者はこれ以上、生きていけなくなる。同志らの連帯の力を絶対忘れない」と語り、「最初の確約どおり勝利しなければ、自分の足で歩いて降りることはない」と決意を明らかにした。
*
●7月20日午前9時30分、双龍(サンヨン)自動車労組が立てこもる塗装工場の電気が切られた。午前10時、裁判所の強制執行に合わせて平沢工場に武装警察が電撃投入された。工場占拠・座り込み中の労働者らは正門から100bほど入ったところでタイヤを焼いて抵抗している(写真)。労組はマイクで「私たちは人間らしく生きるために死ぬことを覚悟して決死抗戦をする」と宣言し、ストライキに参加しなかった組合員には「絶対に工場の中に入ってくるな」と呼びかけた。
攻防最中の午後1時すぎ、労組幹部の妻が自宅で自ら命を絶った。労組は声明を発した。「解雇は殺人だ! これ以上殺すな! 会社側の整理解雇強行と政府の無責任が労働とその家族の命を相次いで奪っている。会社側はスト破壊策動をただちに中断し、整理解雇を撤回せよ。政府は直接対話を行い死の行進を防ぐために対応せよ!」
*
●激突から一昼夜が過ぎた7月21日早朝、スト鎮圧作戦が再開された。警察部隊は増強され、消防車、放水車など各種車両も増強された。警察特攻隊も待機態勢に入っている。午前6時すぎ、この日の戦いが始まった。工場に接近を図る警察部隊に対し、労組が塗装工場の屋上から射程距離200b以上の大型パチンコでボルトを発射。火炎ビンも飛び、着火した古タイヤの黒鉛が平沢工場を包んだ。
午前11時半ころには上空を低空で旋回するヘリコプターが塗装工場の屋上をめざして催涙液がぶちまけられた。さらに催涙液投下のヘリは3機に増えた。そのヘリを歓迎する会社側の歌と「公権力が投入される前に早く抜け出して下さい」などという「啓蒙放送」が響く。労働者をどこまで愚弄する対応か! 交渉を拒否し、死ねとばかりの鎮圧作戦を強行しているのは政権と資本だ。
午後6時半、警察部隊は塗装工場の西方300bに建っているプレス第2工場と新プレス工場に接近。ここには労組が常駐しており、火炎びん、パチンコが飛び、鉄パイプでの血みどろの白兵戦となった。
民主労総は7月22日、双龍自動車ストへの公権力投入による殺人鎮圧決死阻止を掲げてゼネストに突入する。非正規職法改悪と言論統制を狙った言論悪法との国会攻防も頂点に達している中、「MB悪法阻止! 双龍車闘争勝利!」を2大課題として80万民主労総が立ち上がろうとしている。工場占拠62日目に突入、塗装工場に赤旗が翻っている。どこにも退くところのない労働者が整理解雇撤回と総雇用死守で団結している。新たな歴史がここから始まる。
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週刊『三里塚』(S780号2面3)(2009/08/01)
三里塚営農だより
鈴木幸司さん宅
強風と尻もち事故
雨が降り続いた6月。日照時間はわずかで、晴れ間が待ち遠しい日々だったけど、一転して何と7月14日に梅雨明け。「えっ、ホント」。関東地方でこんなに早い梅雨明けは聞いたことがない。
そんな季節の変わり目に問題の風は吹き続けた。7月8日から3日続けて吹いた強風は夏野菜を直撃した。鈴木さんの畑ではピーマンやシシトウ、トウガラシなどの枝が折れ、キュウリやニガウリのツルをはわせたアーチ状のネットはずたずたに。ようやく収穫量が増えてきた所だったのでホントに悔しい被害だ。市東さんの家でもナスがやられたらしい。
風がやむのを待って必死で修復作業。ネットをひもで補修したり、倒れかけたニガウリやトマトの棚を直したり。「やれやれ」と思っていたところにまた強風。自然の猛威にさらされる野菜を前に「何とか耐えてくれ」と思うばかりだ。
そこへ飛び込んできたニュース。成田空港に着陸した大韓航空機が強風で機体後部を滑走路にこすり、あわや大惨事。「またか」 死者が出たフェデックスの貨物機事故はまだ記憶に新しい。「この突風一つとってみても、この地に空港は無理なんだ。前回の大惨事も我が家の畑から見える所だったし、市東さんは毎日大きな危険にさらされている。無理に無理を重ねた危険な空港。こんなモノ、絶対許せないよ」。
強風で傷ついた野菜を前に加代子さんが語る。やっぱり暫定滑走路は閉鎖以外にない。
(写真 枝が折れたピーマン)
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週刊『三里塚』(S780号2面4)(2009/08/01)
三芝百景 三里塚現地日誌 2009
7月8日(水)〜7月21日(火)
●大規模農家ほど減反継続を希望 農林水産省は、米の減反(生産調整)見直しに関する国民アンケートの結果を発表した。それによると、10f以上の大規模農家ほど、減反の見直しに反対する意見の強いことが分かった。(7日)
●森田知事が敷地内に潜入
千葉県の森田健作知事は、敷地内東峰の空港反対地権者宅を訪れ、切り崩しを図ったが追い返された。「要望があったら言って下さい」と言い残すことしかできなかった。(10日)
●大韓航空機が尻もち事故
瞬間最大風速16・5bという強風が吹いたこの日、大韓航空機のボーイング777機は、4000b滑走路に着陸しようとして、機体後部を滑走路に接触する事故を起こし、滑走路は一時閉鎖された。「機体が2度バウンドしあわや大惨事という状況だった」と目撃者は語っている。(13日)
●トヨタ関連会社が農業に参入 トヨタグループの商社・豊田通商は農業生産分野に本格的に参入する計画を発表した。宮城県栗原市でパプリカを2010年度から830d生産する計画との内容。(14日)
●「農政改革」特命チームが解散へ 今年2月に麻生首相の指示で発足した「農政改革」特命チームはこの日会合を開き、目的であった減反政策の見直しについて、断念することを決めた。同チームは9月に報告書を出して解散することになる。(15日=1面に記事)
●「巨額負債の関西新空港、窮地」 関西新空港が開港以来の危機に陥っている、との報道が行われた。そもそも経営危機に陥っている所へ、日本航空が経営再建策として、5路線もの関空関連路線廃止を打ち出
したことが原因。(17日=朝日新聞=写真)
●市東さんの行訴、農地法裁判で県、NAA追及 千葉地裁で市東さんの行政訴訟、農地法裁判が連続的に闘われ、千葉県(行訴)、NAA(農地法裁判)を徹底的に追及した。(21日=1面に記事)
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週刊『三里塚』(S780号2面5)(2009/08/01)
解放のうぶ声 下総農民の開墾と闘いの歴史
蘇るむしろ旗第2部(27)
第3部 八街で闘われた小作争議
日農県連牽引した八街
浅沼稲次郎らも積極支援
戦前の千葉県農民運動
今回は、戦前千葉県農民運動の概略を振り返る。千葉県の農民組合は1924年10月に結成準備会が開催され、12月に県連を結成する。24年中に13の支部を結成し、印旛・八街、本埜(もとの)・白井また山武・香取(これらは、下総開墾にかかわりがあった村落)そして長生などの南総地区が拠点であった。
そのうえで、25年3月2日成田で第1回県連大会を開催する。午前創立、午後第1回大会。会場は、宗吾霊堂に予定したが、解散命令により、成田の遊園地で続行。400人参加。組合員数500人、理事長清宮清、主事石橋源四郎、会計は、本連載第22回で紹介した鈴木豊である。
すでに述べた八街での農民組合関東同盟支部の結成が呼び水となり、日本農民組合(以下、日農という)は千葉への工作に本腰を入れる。日農本部は、杉山元治郎・三宅正一・浅沼稲次郎らを派遣し、千葉県連結成を組織した。日農千葉の結成を日農の側から見よう。
日農は、22年4月結成された。理事長杉山元治郎、理事賀川豊彦等。彼らは友愛会のメンバーで、クリスチャンであった。大会では「農は国の基なり、農民は国の宝である」と創立を宣言。階級的性格は弱く、地主と小作人との協調を説く農本主義的性格が強かったが、結成後すぐに階級闘争的組織に発展する。第一次世界大戦、シベリア出兵など打ち続く戦費調達のために、地主は小作料を引き上げてきた。地主階級に対する小作農民の反撃が開始され始めていて、日農は結成直後から大阪・三島村争議、岡山・藤田争議、熊本・郡築争議などを闘い、一挙に全国組織に拡大した。
日農の転機は、同年11月日本農民組合関東同盟会の設置(責任者・壮原壮、東大新人会出身)である。10年代から労働組合が結成され、各種の自由主義的博愛主義的な団体のなかからも社会主義的サークルが結成された。その典型が、東大新人会・および早稲田建設者同盟である。彼らは、農民組合運動に深く係わっていき、日農総本部および日農関東同盟の活動家となる。彼らは「社会主義」の影響をうけ、「人民のなかへ」を実践し、農村における小作争議の組織化をおこなった。ちなみに建設者同盟は早稲田大学を軸とする学生の雑多な社会主義思想サークルで、もともと「ギルド社会主義」を標ぼうする教授が責任者。レーニン主義の物質化とともに分解し、歴史的な役割を終え25年に解散する。
日農と関東同盟は重層的な関係で、日本労働総同盟(21年友愛会から発展)が日農の成功を受けて東日本の小作組合を日農総本部から半ば独立に組織しようとしたのが関東同盟である。労働総同盟に結集する東京の活動家は、賀川や杉山の人道主義を超える農民運動を望み、実践に着手していた。この勢力を背景に、鈴木文治は日農総本部の分身という形で別組織をつくった。
日農は、全国組織の結成をめざしたが、創立大会代議員(64名)のうち東日本の小作人は数人にすぎなかった。組織の実体的な足場は西日本地区であり、東日本連合は実質上、無活動であったので関東同盟を了承した。
この関東同盟の創立は、建設者同盟などの学生出身者の社会変革の情熱や行動性を発揮させ、「運動の上昇期という条件の中で、まことに有効に働いた」(建設者同盟史刊行会「建設者同盟の歴史」)。関東同盟は、新潟・木崎村闘争(三宅正一)、山梨・鏡中城村争議(平野力三)を指導して圧倒的な影響力を勝ち取った。
千葉県では、木下(現印西市)に連絡場所を設定し、建設者同盟の川俣清音(戦後社会党国会議員)を派遣した。彼は千葉県だけでなく茨城の利根川付近の組織化も担当する。浅沼稲次郎(60年安保闘争時の社会党委員長)や林実が応援する。24年2月、八街農民組合主催の演説会をきっかけに、3月から4月にかけて印旛郡一帯で演説会を開催し、12月に県連を結成するようになる。
次のようなエピソードもある。関東同盟のオルグたちは後の千葉県連の幹部・石橋源四郎、山本源次郎らと木下駅前の飲食店で会議を開いていた。その店の主人・伊藤貴一は、彼らの話に共感し、出身の茨城県北相馬郡東文間村の小作争議を組織し、後に全日農茨城県連委員長になった。
また、それとは別系統であるが学連出身(日大)の実川清は、地元(現芝山町)に帰り「山北農民組合」を結成した。これは後に述べる。
川俣は、すぐに秋田・小阪銅山煙害争議で秋田県の専従となり、書記は林に交代する。林も1年もたたずに出身地の日農山梨県支部の役員(会計、委員長は平野力三)となり、27年甲府市の衆議院補欠選挙の労農党公認候補、「対支非干渉同盟」常任委員となる。
日本農民組合の結成、日農千葉県支部の結成は、天皇制支配とテロルが吹き荒れる当時の政治情勢の中では歴史的な快挙だった。中でも八街小作争議の歴史に基づいた千葉県支部の果たした役割は大きい。80年を経た今日、労農が連帯した新たな闘いの前進が求められている。(つづく)
(写真 日本農民組合の結成大会【1922年4月】)
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メモ ●藤田農場争議……
21年から31年まで闘われた戦前の代表的小作争議の一つ。治安警察法などで82人が起訴された。明治期の大開墾事業である岡山県児島湾開拓で土地を手に入れた藤田財閥は、439戸を入植させ債務奴隷的搾取をした。農民は小作料の永久3割減を闘い取る。三菱・川崎争議(21年)で解雇された労働者活動家が加わって運動が発展した。
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