●特集/侵略と戦乱のアフガニスタン
はじめに
第1章 米帝の世界戦略のための一方的介入と侵略史
第2章 侵略と戦争と暗黒の道を強制する参戦3法案
(10月7日のニューヨークの反戦デモ)
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はじめに
10月7日、アメリカ帝国主義はアフガニスタン空爆をもって、アフガニスタン・イスラム諸国に対する長期の残虐な帝国主義的侵略戦争に突入した。日本帝国主義も10月118日、衆院でテロ対策法を可決し、この侵略戦争への本格的参戦へと踏み切った。
「テロ根絶」を口実とする米帝のアフガニスタン侵略戦争は、勢力圏と資源の再分割戦を戦争的手段の全面的発動によっって貫徹し、イスラム諸国における民族解放闘争を総せん滅しようとするものである。それは、全世界を第三次世界大戦へと引きずり込むものだ。われわれは今こそ、アフガニスタン・イスラム諸国に対する米・日・欧帝国主義の侵略戦争に対して、「闘うイスラム諸国人民と連帯し、帝国主義のアフガニスタン侵略戦争を阻止せよ」の国際反戦闘争スローガンを掲げて巨大な反戦闘争の爆発を実現し、米・日・欧帝国主義打倒の闘いに決起していかなければならない。
そのためには、9・11反米ゲリラに対する「テロ非難」の帝国主義的扇動を粉砕し、この侵略戦争の階級的性格を全面的に暴露することが急務である。こうした観点から、第1章ではソ連軍のアフガニスタン侵攻以来、今日に至るまでの米帝のアフガニスタン侵略の歴史と現実について全面的に暴露した。アフガニスタンにおける内戦の爆発とアフガニスタンにおける破壊と貧困の蔓延、民族間対立の激化こそ米帝の侵略政策が生みだしたものであることを徹底的に弾劾する。第2章では、アフガニスタン侵略戦争への参戦を決める重大法案が、ほとんど審議もなしに衆院で可決された事態を弾劾している。さらに3法案の侵略戦争のための、武器使用の緩和、自衛隊の活動範囲の拡大、防衛秘密の罰則強化の3点を批判し、もはや帝国主義の打倒以外にないことを訴えている。
アフガニスタンとは
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● 国勢
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面積は65万平方`(日本の1・75倍)で、国土は真ん中を貫くヒンズークシ山脈によって南北に分断されている。国土の平均海抜高度が1200bの山岳国家であるが、南部と北部では地勢が大きく異なる。全土のわずか10〜12%が耕作可能。人口は約2400万人、平均寿命は男47・35歳、女46・29歳(1998年現在)。
「民族の博物館」といわれるほどの多民族国家でパシュトゥー語を話すパシュトゥン人が全人口の38%、アフガンペルシャ語を話すモンゴル系のタジク人とハザラ人がそれぞれ25%と19%、トルコ語系言語を話すウズベク人が6%であるが、その他トルクメンなどの少数民族も多数いる(130の言語集団)。
イスラム教徒はスンニ派が84%、シーア派が15%。
言語はアフガンペルシャ語を話す人口が50%、パシュトゥー語35%、トルコ語系言語が11%となっている。
産業は農業および牧畜が主で全労働人口の67・8%が従事、工業は10・2%、建設業が6・3%、商業が5・0%、サービス業その他が10・7%と言われていたが、21年間の戦争と内戦でほとんどが崩壊状態にある。とりわけ農業と牧畜は壊滅状態になっており、アヘンの生産が拡大している。
現在は飢餓が蔓延しており、飢餓人口は700万人に達していると言われる。 |
● 略史
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アフガニスタンはかつて、中央アジアとペルシャ文明が融合した世界の最先進地帯であった。16世紀に成立し、アフガニスタンのヘラートを首都としたムガール帝国はインドを統治、英国が侵略するまで支配した。征服と被征服の歴史のなかで複雑な民族的、宗教的、文化的混合がもたらされた。
1747年、ペルシャ、インド両国の弱体化に乗じてドゥラニ王朝が成立。1838年以降3回にわたって英国の侵略を受けるがそのつど英国軍を撃退した。その後、1893年に英国の干渉下でインドとの国境が画定され、パシュトゥン人が現在のパキスタンとアフガニスタンに二分され弱体化させられた。英国の保護領となるが、1919年に独立を達成した。英国はアフガニスタンをロシアの南下を阻止する対ロシア緩衝国と位置づけた。王制下で西欧文明を取り入れた近代化が進む。しかし他方で、部族的伝統とイスラムの生活習慣・文化は保持された。
第二次大戦では中立を維持し、戦後はまず米帝の援助で開発計画を進めようとしたが、開発計画の失敗とともにソ連に援助を求めた。ソ連は、56年から武器の供与や軍人のソ連での教育を行っていたが、60年からニングラハール河域開発計画などを通じて影響力を拡大した。
64年には新憲法が公布され、王族が政治活動から排除された。65年には、反体制的学生運動や労働運動の発展を背景にスターリン主義政党が勢力を拡大。73年7月、ザヒル・シャー国王のいとこのダウドによるクーデターでアフガニスタン共和国が成立した。ダウドは近代化のために援助を求め、ソ連に接近した。
その後、78年4月の親ソ連の軍部クーデターによりスターリン主義的な人民民主党政権が成立。この政権のもとでイスラム教への過酷な弾圧が行われたために、イスラム勢力は反乱を起こす。
これを鎮圧するために、79年12月ソ連軍が軍事侵攻し、カルマルかいらい政権が成立。ソ連軍・親スターリン主義政権とイスラム勢力との間で激しい戦争が続く。86年5月ナジブラが書記長就任。89年2月、ソ連軍が敗退して完全撤退。92年4月、イスラム勢力の軍事攻勢でナジブラ政権が崩壊し、イスラム政権が成立するが、イスラム勢力各派間の主導権争いのなかで内戦状態が続く。94年頃から米帝・パキスタン・サウジアラビアの支援を受けたタリバンが勢力を拡大し、96年9月に首都カブールを制圧する。その後現在に至るまでタリバンと反タリバン勢力を糾合した北部同盟との間で内戦が続いた。
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