●特集/侵略と戦乱のアフガニスタン
はじめに
第1章 米帝の世界戦略のための一方的介入と侵略史
第2章 侵略と戦争と暗黒の道を強制する参戦3法案
(10月7日のニューヨークの反戦デモ)
|
第1章 米帝の世界戦略のための一方的介入と侵略史
ソ連軍の侵攻と米帝の介入
10月7日の空爆をもって開始された米帝の長期かつ残忍なアフガニスタン・イスラム諸国に対する帝国主義的侵略戦争は、アフガニスタン人民を塗炭の苦しみにたたき込んでいる。米帝は都市・農村の居住区に対する爆撃で10月下旬時点ですでに7百人以上のアフガニスタン人民を虐殺している。また石油備蓄基地や、通信・交通施設の破壊などアフガニスタン人民の生活を徹底的に破壊している。
爆撃には巡航ミサイルだけでなく、親爆弾から多数の子爆弾をまき散らし、大量の人民を殺戮する集束爆弾(クラスター爆弾)や、防空壕破壊爆弾GBU28(バンカーバスター)などの非人間的兵器も大量に使われている。
21年間におよぶ内戦で生産施設や灌漑施設が徹底的に破壊された上に、30年来の干ばつで750万人もの人民が飢餓線上にあるなかで、この空爆は恐るべき数の餓死者、戦死者、負傷者、難民を生み出しかねない。
米帝の戦争目的は、「テロへの報復とその根絶」を口実としてアフガニスタンに対する「長期にわたる大規模な包括的・計画的な軍事行動」(ブッシュ発言)の発動という侵略戦争を仕掛け、それを通じて中央アジアとカスピ海周辺諸国の勢力圏分割=石油・天然ガス資源争奪をめぐる帝国主義間相互の、そしてロシア、中国を巻き込んだ強盗戦争に勝利することである。
米帝は9・11反米ゲリラの衝撃を逆テコとして世界大戦級の戦争にあえてうって出ることによって、没落帝国主義=米帝の政治的・経済的危機を乗り切るとともに、旧スターリン主義圏中央アジアとカスピ海周辺諸国の勢力圏化に全面的に乗り出すことを決断したのだ。
それは同時に、パレスチナ人民の新たなインティファーダと武装闘争の一体的展開によって完全に追いつめられ、パレスチナ・中東「和平」策動が破産したことに対する巻き返しのための戦争だ。パレスチナ人民の英雄的闘いが全世界のイスラム諸国における民族解放闘争の発展を牽引し、帝国主義の新植民地主義的支配体制の崩壊的危機を促進していることに対し、イスラエルによるパレスチナ人民せん滅戦争政策と一体で全世界の闘うイスラム諸国人民に対する絶滅戦争を仕掛けているのだ。
この侵略戦争の階級的本質を明らかにするために、われわれはまず、米帝のアフガニスタン政策の真の姿を暴露しなければならない。
ソ連軍のアフガニスタン侵攻
米帝の戦後アフガニスタン政策は常に対ソ連政策として立案され、ソ連崩壊後は旧ソ連圏の中央アジア諸国の再分割戦の観点から立案されてきた。アフガニスタンは石油資源が少ないため、戦後の米帝の世界戦略的関心はアフガニスタンの石油などの資源や市場の獲得にはなく、中東への進出と海洋への出口を求めるソ連の南下政策を阻止することにあった。
戦後、この地域ではアフガニスタンに比べて重要な位置をもつ産油国イラン、巨大な市場であるインドの新植民地主義体制への組み込みと勢力圏化に重点をおいていた米帝は、そうした政策の実現のために忙殺され、50年代中頃以降のソ連のアフガニスタン進出を許してしまった。
とりわけ60年代中期以降のアフガニスタン内の親スターリン主義政党、人民民主党のハルク(人民)派とパルチャム(旗)派の勢力拡大と、73年7月のザヒル・シャー国王のいとこで親ソ派のダウドによるクーデターによるアフガニスタン共和国の成立は、米帝に重大な危機感を抱かせた。
ソ連は56年から78年の間に総額12億6000万jの経済援助と12億5000万jの軍事援助を与え、アフガニスタンをソ連圏へと包摂しようとした。だが、ダウド政権は米帝の意をうけたイラン・パーレビ反動王制の切り崩し策動によって74年以降急速にソ連離れを深めた。
そのためにソ連は78年4月、ハルク派とパルチャム派によるダウド政権転覆の軍事クーデターを行わせ、親ソのハルク派タラキ政権を成立させた。タラキも、その後タラキを粛清して権力を握ったハルク派のアミンも軍の武力を背景とした上からの強権的「土地改革」を強行し、アフガニスタン農村における部族的伝統に基づく農業生産構造を徹底的に破壊した。
しかし農地を配分された農民は、大土地所有制と部族共同体のもとで確保できた生産手段や種子、肥料などを確保できず、農業生産は極度に低下し、生活も困難となった。
タラキもアミンもこれに加えイスラム教に対する激しい宗教弾圧を強行したため、伝統的部族指導者やイスラム教指導層による激烈な反乱が開始される。農業生産の崩壊と内乱の開始によって大量の難民が発生し始めると、ソ連は「改革」を強行するアミンを暗殺して、ソ連に従順でコントロールのきくタラキに首をすげ替えようとするが、失敗におわる。アミン暗殺の失敗はアミン政権のソ連離れを急速に押しすすめた。
こうした情勢下で米帝のイスラム勢力への支援政策が展開されるなかでソ連は、アフガニスタン親ソ政権の崩壊とイスラム勢力による権力奪取を回避するために軍事介入を決断する。アフガニスタンでのイスラム政権の成立は、全人口の5人に1人を越えるまでに増大したソ連内のムスリムのスターリン主義による抑圧からの解放闘争をうながし、ソ連の中央アジア支配の大崩壊を意味するからだ。
こうして79年12月、ソ連軍は4万5000人(最終的には10万人)にのぼる兵力を投入してアフガニスタンに軍事侵攻しアミンを処刑した。
だが、反政府イスラム勢力とアフガニスタン人民はソ連軍に対する徹底抗戦に決起した。多数の政府軍兵士が政府軍から離反してイスラム勢力側を支援したため、ソ連軍はイスラム勢力や住民の抵抗闘争弾圧の前面に立ち、首都カブールの市民蜂起の徹底弾圧、世界最古の都市の一つであるヘラートの無差別砲撃(2万人の死亡)などによってアフガニスタン人民を大虐殺した。
ソ連のアフガニスタン侵攻は、当時の米帝による中ソ分断、NATO核戦力の飛躍的強化、アフガニスタンのイスラム勢力への支援などの対スターリン主義対決・帝国主義間争闘戦激化政策と、ソ連スターリン主義自身の根本矛盾の激化、国内のムスリム諸民族支配政策の破綻などによって、ソ連が追いつめられた結果であった。
また79年2月のイラン革命とその後の米・イラン間の緊張激化のなかで、米帝がイラン革命の絞殺と中東の武力制圧に本格的に乗り出したことが、ソ連を決定的に追いつめ、アフガニスタン危機への激甚な反応を引き出したのだ。米帝の世界軍事戦略の展開がソ連スターリン主義の反人民的対抗行動を引き起こしたのだ。
米帝の反革命的介入
米帝はアフガニスタンの親ソ政権が重大な危機に直面し始めたことを見極めると、ソ連をさらに追いつめ、ソ連のアフガニスタンへの影響力を一掃しようとした。
当時の米帝・カーター政権の安全保障担当の大統領補佐官、ズビグニュー・ブレジンスキーが今日明らかにしているように、米CIAはソ連軍がアフガニスタンに侵攻する5か月前から反政府イスラム勢力に対して秘密援助を与えて親ソ政権転覆を策動し、ソ連軍が介入せざるをえないように挑発した。
さらにブレジンスキーは、イスラム勢力の対ソ戦争が始まるとソ連軍を撤退させるためにだけでなく、ソ連の支配秩序を混乱させるためにソ連南部のムスリム系諸共和国にイスラムや民族主義の感情を復興させることが必要だとして、海外放送を通じて中央アジアのムスリム系住民に対しイスラム急進主義のイデオロギーを宣伝した。
米CIAと英MI6(対外情報部)、パキスタンのISI(軍統合情報部)などは、ソ連のタジキスタン共和国、ウズベキスタン共和国へのゲリラ攻撃を仕掛けることを計画し、アフガニスタンのイスラム勢力にそうした任務を引き受けさせようとした。
米帝はこうした立場から当時、イランのイスラム勢力を「原理主義」と非難して封じ込め政策を取りながら、アフガニスタンではイランと同様の傾向をもつイスラム急進主義勢力に全面的な援助を開始した。
米CIAはパキスタンを通じてソ連と戦うイスラム勢力に武器や軍事技術、資金を供与した。まず、ソ連軍侵攻直後に米帝はそれまで中止していたパキスタンへの軍事援助再開を決定し、1億5000万j分の装甲兵員輸送車、サイドワインダー・ミサイル、戦車部品などを引き渡した。パキスタンからは米帝が買い集めたソ連・中国製の武器がイスラム勢力に供与された。
86、87年には、CIAは対ソ戦に決定的役割を果たした米製スティンガーミサイル900基をイスラム勢力に供与し、ゲリラを訓練するために米軍事顧問を派遣した。
資金面でも米帝は80年から92年まで40〜50億jを直接供与したうえに、サウジなどのイスラム諸国と欧州諸国からも50億jを供与させた。
人員面では、パキスタンのアフガニスタン人難民キャンプなどからイスラム勢力に戦闘員を供給すると共に、サウジアラビアの富豪でサウジ王室と密接な関係をもっていたオサマ・ビン・ラディンを通じて中東・北アフリカ、東アフリカ、中央アジア、東アジアなどの43カ国からイスラム急進派3万5000人を傭兵として送らせた。国内の反体制的急進主義者を国外に送ることによってサウジから一掃しようとしたサウジ王室はこれを全面的に援助した。
こうした米帝の全面的支援を受けたイスラム勢力の攻勢に追いつめられ、総額450億jの戦費をつぎ込みながら、3万人とも言われる戦死者を出したソ連軍はついに89年、アフガニスタンからの撤退を強いられた。
この戦争によってアフガニスタンは、民間人120万人、政府軍25万人、イスラム勢力100万人が死亡し、数百万人が難民化するという重大な打撃を受けた。戦争による交通網、水道、灌漑施設などインフラストラクチャーの破壊、農地や果樹園の破壊などはアフガニスタン経済を崩壊させた。
アフガニスタンの社会構造の激変
米帝の介入は戦争を激化させ、人的・物的に巨大な損害をもたらしただけでなく、民族間・部族間の微妙な均衡を保っていたアフガニスタンの社会構造を激変させた。
なによりも、多民族国家・アフガニスタンにおける民族間の微妙な均衡と共存体制を支えていた穏健なイスラム勢力の一掃と民族対立を激化させる結果をもたらしたイスラム急進派の勢力拡大である。
アフガニスタンのムスリムは90%がスンニ派で、その4学派のうち最もリベラルなハナフィ派に属しており、伝統的に他の宗派、他宗教、西欧的ライフスタイルに対して非常に寛容だった。これが多民族、多宗教国家アフガニスタンではゆるやかな連合を促進する要因としてあったからこそ、アフガニスタンの国家的統一は保たれていた。
だが、侵攻したソ連軍は伝統的な宗教勢力の敵視政策を取り、穏健なイスラム勢力の主要な指導層を虐殺したり、投獄したりして壊滅状態に追い込んだ。
さらにその上に米帝とパキスタンが、対ソ戦のための戦闘力確保の観点から伝統的イスラム勢力ではなく、戦闘的なイスラム急進派を支持し、援助を選別的に供与しだすと、これらの伝統的イスラム勢力の影響力はしだいに衰退した。
【このような手法は、かつて1838年以降の最初の2回の侵略戦争で大敗北した後、イギリスがアフガニスタンを支配するために使った手法を学んだものだ。戦争的手段で勝てないとみたイギリスはアフガニスタンへの財政的・軍事的支援をテコとしてアフガニスタン支配階級を取り込み、ロシアに対する緩衝国に仕立てるとともに、民族間・部族間・宗派間の抗争をあおり、アフガニスタンを弱体化させた。その上で1893年にインド北西部の支配にともなってパシュトゥン人の住地をアフガニスタンとインド北西部(現在のパキスタン)に二分し、パシュトゥン人勢力の弱体化を図り、アフガニスタンの民族間対立をさらに促進したのだ。】
アフガニスタンのイスラム急進派は、ソ連スターリン主義のイスラム教弾圧に抵抗してパキスタンに亡命し、そこで共産主義と民族主義を否定してムスリム世界を再統一する新たなムスリム国際主義を提唱したムスリム同胞団系のイスラム協会から感化を受けた勢力であった。
これらの勢力は現在のタリバンに比べれば硬直的でなく、女性の教育と社会活動への参加も否定しなかった。だが、サウジアラビアの資金援助とともに意識的に注入された、サウジ反動王制の保守的で反動的なワハビズムのイデオロギーの影響を受け、イスラム教が本来もつ、多様な社会的・宗教的・民族的潮流を統合する包容力を欠如していた。
各民族ごとに分裂したイスラム急進派は、伝統的な宗教勢力の影響下にあった部族的武装集団を掌握し、ソ連軍と戦闘的に戦うとともに、アフガニスタン社会の複雑な現状を無視し、上からの「イスラム革命」による伝統的社会構造の強行的変革をめざした。それはアフガニスタン社会を分裂させ、激しい内戦の引き金になった。
イスラム勢力間の内戦の勃発
しかし、米帝はこれらのイスラム勢力を統合する方向で援助を行わなかった。ソ連軍のイスラム勢力による放逐、ソ連の崩壊という目的を達すると、米帝はむしろアフガニスタンにおけるイスラム急進派勢力の強大化を恐れ、あえて分裂・対立させることを望んだ。ソ連軍撤退後はこれらのイスラム急進派への援助を停止し、戦争で破壊されたアフガニスタン社会の再建には何らの関心もはらわなかった。
こうしてソ連軍を敗退させたイスラム勢力は、民族ごと宗派ごとに分裂し、軍閥化していき、相互に激しく政治的支配権を争った。
主な勢力は、@ラバニとその軍事司令官マスードが率いるタジク人勢力(イスラム協会)、Aドスタム将軍が率いる北部のウズベク人勢力(アフガニスタン・イスラム民族連合)、Bヘクマチアルの率いるパシュトゥン人勢力(イスラム党)、B少数派シーア派のハザラ人勢力(イスラム統一党)などであった。
いずれの勢力も周辺の同民族・同宗派の国家から援助を受けた。ラバニ派に対してはタジキスタンが、ドスタム派に対してはウズベキスタンが援助を与えた。ハザラ人勢力に対しては同じシーア派のイランが援助を送った。ヘクマチアル派にはパシュトゥン人が2000万人以上もいるパキスタンが援助を送った。
1992年、ナジブラ親ソ政権が最後的に打倒されると、政権をめぐってこれらのイスラム勢力間で内戦が勃発する。各勢力は相互に連携・対立をめまぐるしく繰り返しながら、アフガニスタン全土を激しい民族間戦争に巻き込んだ。
こうしてアフガニスタンでは戦乱と無秩序、イスラム急進派の横暴がはびこり、大量の難民が新たにパキスタン、イランなどに流出した。
第1項 タリバンの創設
ソ連軍侵攻以来の戦争と内戦で150万人以上が死亡し、国土が荒廃するなかで、アフガニスタン人民は果てしない内戦を繰り広げるだけで、人民の生活の安定について配慮する余裕のないイスラム急進派に対する不信の念を強めた。
こうした状況下で94年ごろ、パキスタンの難民キャンプの難民や数百のイスラム神学校の生徒を集めてタリバンが創設され、アフガニスタンに進出した。
当初のタリバンは、アフガニスタンの同じパシュトゥン人地域に進出したということもあって、アフガニスタンにおける軍閥勢力の不正や横暴をただし、人民に対して規律正しい部隊として登場した。内戦で疲弊しきった人民はタリバンが平和を回復してくれることを期待した。パシュトゥン人住民の支持を受けたタリバンは急速に勢力を拡大し、アフガニスタン南部を制圧した。
だが、タリバンは、アフガニスタン人民の民族解放と平和への期待に応えることのできる勢力では決してなかった。
パキスタンには19世紀以来、反英闘争のなかで生まれたデオバンドというムスリム復古主義的運動があった。この運動は戦後、パシュトゥン人が流入し、反動王制サウジからの資金援助を受け、ワハビズム(厳格なイスラム法解釈が特徴)の影響を受けて次第に急進化し硬直化を強めながら急速に発展した。
それは、イスラム法とコーランに関する独自の硬直的解釈と、20世紀のイスラム世界での政治的、理論的発展について考慮しない勢力であり、20世紀の中東・アラブ世界の民族解放闘争の発展と不可分に結びついたイスラム急進主義とは明らかに異なる勢力であった。
デオバンドの宗教運動組織であるウレマ・イスラム協会(JUI)が93年以降、パキスタンのブット政権の連立与党に加わり、軍、軍統合情報部、内務省との連携を強めると、これらの機関からの資金の受け取りを通じてJUIの宗教的、思想的影響を受けたタリバンへの支持を米、欧、サウジなどに求めはじめた。
パキスタン政府は、ソ連軍撤退後の内戦当初はヘクマチアルのパシュトゥン人勢力に資金や武器を供給していたが、JUIのこうした活動によってタリバンに対する支援を強化していく。
米帝やパキスタンの介入と援助は、タリバンを政治的に利用するためのものであった。タリバンはこれを受け入れることによって次第に変質していく。イスラム法よりも農山村における部族的伝統やパシュトゥン人の慣習法を重視し、それと混合した独自の厳格なイスラム法解釈を行動原理とするタリバンが、圧倒的な武装力を背景に都市住民や他宗派、他民族に対してそれを強要するようになると、激しい反発が起きた。タリバンがそれを武力によって抑えこみ、他民族・他宗派の虐殺を行ったために内戦はむしろさらに激化するのである。
また、パシュトゥン人部族共同体および共同体間の合議・決定制度という部族的伝統の当初における重視も、他民族・他部族・他宗派のそこからの排除という問題をはらむものであり、次第にタリバン指導部の独裁体制へと取って代わる。
米帝石油戦略とタリバン援助政策
パキスタンは従来から中央アジア諸国に直結する陸上貿易ルートを開くことに関心をもっていた。だが、カブールを経由するルートは内戦のために利用できなかった。このためカンダハル、ヘラートを経由してトルクメニスタンに至る新ルートがJUIや軍部から提案された。このルートを強引に開拓し、その安全を確保するために、カンダハルに迫っているタリバンへの援助が行われることになった。
こうしてタリバンは94年10月、パキスタンの暗黙の了解のうちにアフガニスタン領にあるヘクマチアル派の武器庫を襲撃し大量の銃砲、弾薬、車両を獲得した。
パキスタンは、さらに新ルートの試験的調査の名目でトラック部隊をカンダハルに向けて発進させ、アフガニスタンのイスラム急進派を挑発した。トラック部隊が当然にもアフガニスタンのイスラム急進派によって差し押さえられると、その救出を口実としてタリバンに奇襲攻撃をかけさせ、カンダハルに突入させた。カンダハル占領でタリバンはさらに数十台の戦車、装甲車、軍用車、6機のミグ21戦闘機、6機の輸送用ヘリという決定的武器を入手する。
パキスタンはこういう形でタリバンを武装するとともに、パキスタン軍内でタリバン兵士を訓練し、パキスタン人の神学校生のタリバンへの参加も認めた。実際、タリバン兵力の30%がパキスタン人の神学校生であると言われている。またタリバン兵士の供給源としてあるアフガニスタン人難民キャンプの運営権も、ヘクマチアルの手から取りあげられタリバンに引き渡された。
米帝は96年までは、パキスタンによる米国製武器のタリバンへの供与やサウジによる資金提供などを容認し、事実上の援助を供与していたが、公然たる援助供与をしていなかった。だが、96年4月、米国務省のロビン・ラフェル南アジア担当次官補のアフガニスタン訪問、各勢力根拠地の訪問、中央アジア三カ国の歴訪をもってアフガニスタン情勢への本格的介入とタリバン援助を公然と開始する。
95年3月、ヘラートに進軍したタリバンはマスードの部隊に大敗北を喫したが、95年夏、パキスタンとサウジの提供した武器、弾薬、車両で軍を再建し、パキスタンの軍事顧問の援助で指揮系統を一新した。このテコ入れでヘラートを占領したタリバンは96年には首都カブールに迫る。この時期、タリバンの政権奪取近しと見たパキスタン、サウジはタリバンへの武器供与を本格的に強化した。サウジは燃料、資金、小型トラック数百台をタリバンに供与し、パキスタンはタリバン空軍強化、弾薬供給、通信網の整備を行った。
こうした情勢下でクリントン政権はタリバンの圧倒的強化を開始する。アメリカのタリバンへの援助はCIA秘密予算の注入などに見られるように、秘密裏に行われたり、第3国を介して行われており、公表された資料はほとんどない。
だが、タリバンが使用している米国製の武器・弾薬・車両の数が96年中頃より急激に増大していることを見れば、米帝がタリバン全面支援に踏み切ったことは明らかである。
タリバンはこのような大量の支援をうけることによって96年9月にはカブールを占領し、全土の90%まで支配権を拡大できたのである。
米帝の石油戦略
米帝はなぜタリバンを支援したか。それはカスピ海地域と中央アジアにおける帝国主義間の争闘戦に勝利し、石油・天然ガスの生産と輸送を米帝が独占しようとする戦略に基づくものである。また、それは中央アジアの旧ソ連圏諸国の再分割をも射程に入れた戦略に基づくものでもある。
カスピ海地域の石油と天然ガスは比較的最近発見されたものが多く、その埋蔵量はまだ未知数であるが、湾岸につぐ石油と天然ガスが埋蔵されているといわれる。99年のカスピ海地域の石油確認埋蔵量160〜320億バレルで、中東全体の確認埋蔵量の10分の1程度といわれている。
92年以降、国際石油資本はカスピ周辺諸国の石油開発に乗り出し、94年から98年の間に13カ国から24の会社が石油資源開発に関する契約に調印している。
カスピ海周辺諸国の石油の推定埋蔵量は、カザフスタンで850億バーレル、アゼルバイジャンで270億バーレル、トルクメニスタンで320億バーレル、ウズベキスタンで10億バーレルとされている。
カスピ海地域の天然ガスの確認埋蔵量は236〜333兆立法フィートとなっている。推定埋蔵量はトルクメニスタンで159兆立法フィート、ウズベキスタンで110兆立法フィート、カザフスタンで88兆立法フィート、アゼルバイジャンとウズベキスタンでは共に35兆立法フィートとされている。
これだけ豊富なこの地域の石油・天然ガスの生産と輸送を掌握することは、米帝の石油戦略にとって極めて重要な意味をもつ。
90年代初頭に沖合に5億dの原油が埋蔵されていることが確認されたカスピ海の石油生産はソ連崩壊後の90年代前期に外国資本と技術の導入によって再度活発化した。それに伴って帝国主義諸国による石油再分割戦も激化した。
まず、92年には米・英・ノルウェーが2010年までにはクウェートと同量の産油が見込まれるアゼルバイジャンの油田開発契約を獲得した。この契約には後にアゼルバイジャンでの石油権益の確保を主張するロシアも参加して国際コンソーシアムが結成された。97年8月には、米のエクソン、モービル、シェブロンがアゼルバイジャン共和国国有石油会社との間で、石油の共同採掘に関する協定に調印し、98年には英BPなどと石油資源の探査と掘削に関する50億j相当の契約に調印した。
カザフスタンも97年に中国との間で石油資源に関する95億jの契約を結んだ。カザフスタンはロシアの支配からの脱却のためにそれ以前に米帝との合弁会社を設立し、カスピ海沿岸のテンギス油田の開発を行ったり、イランとの間での石油スワップ協定を締結している。
97年1月には、世界第3位の天然ガスとクウェートのおよそ2分の1の石油を埋蔵すると言われるトルクメニスタンが米国の巨大石油資本モービルと米のモニュメント石油とトルクメニスタン西部の大鉱区の探鉱・開発協定に調印している。
こうした情勢下で、米帝はカスピ海周辺諸国の石油・天然ガスの独占のためにさまざまな策動を開始している。
パイプライン建設の決定的意味
だが、米帝にとって最大の問題は、ロシアが石油・ガス搬出のためのパイプラインを唯一保持していたことであった。パイプラインの独占は、産出国の支配のための決定的武器になる。搬出手段がなければ産出された石油を輸出することができないからだ。カスピ海諸国をロシアにつなぎ止める役割を果たしているパイプライン以外の搬出ルートの建設が米帝にとって焦眉の課題となった。
このため米帝は97年にカスピ海油田の開発を中心とする相互投資協定をアゼルバイジャンと結び、バクーからグルジアを経由してトルコに至るパイプラインの敷設を計画した。また97年7月には両国間の軍事協力協定を調印し、ロシアの影響力を遮断しようとした。
97年10月にはトルクメニスタンとユノカル(ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官が顧問で米では12番目に大きい石油企業)などのアメリカの7つの石油会社で構成されるコンソーシアムの間で、トルクメニスタンからアフガニスタンを経てパキスタンに至る天然ガスパイプラインの建設に関する20億jの契約を調印した。
この地域最大の埋蔵量をもつトルクメニスタンの天然ガスはソ連時代に年間800億立法メートル生産されており、大部分がソ連の他の共和国に輸出されていた。
だが、ソ連崩壊後、ロシアをはじめ旧ソ連圏の諸共和国が経済危機で代金を支払えなくなると、供給の停止と生産の極端な落ち込みが進んだ。こうしてトルクメニスタンの側からもロシアのパイプラインに依存しない輸送体制の確立が求められていた。
米帝はここに目をつけた。イランとの接近を深めるトルクメニスタンをイランから引き離し、トルクメニスタンの天然ガスの再分割と独占のためにすでにのべたルートを通るパイプラインの建設計画を立てたのだ。このパイプラインにウズベキスタン、カザフスタンのパイプラインを接続すれば、中央アジアからの天然ガスをパキスタンに送る事も可能となる。その意味でアフガニスタン経由のトルクメニスタン・パキスタンルートはこの地域の天然ガス支配にとって決定的な意味をもったのだ。
また米帝は95年以降、ウズベキスタンへの進出も強化しており、95年から97年の間に米との貿易額は8倍化している。97年9月には、米の第82空挺部隊とカザフスタン、キルギス軍がウズベキスタン軍とともにNATO共同軍事演習を行ってもいる。
米帝にとってはグルジアやアルメニアを通過するパイプラインやイランを経由するパイプラインも選択肢のうちに入っているが、90年代中頃には前者のルートではアブハジアやナゴルノカラバフなどの民族問題が爆発しており、後者のルートはイランに対する制裁措置の発動のために当面建設したり利用したりすることはできなかった。
他の帝国主義に先んじて安全な搬出ルートを確保することはカスピ海周辺の石油・天然ガス支配にとって決定的な意味を持つ。
こうした観点から計画されたのが、トルクメニスタンからアフガニスタンを経由してパキスタンに至るパイプラインなのだ。
アフガニスタンのタリバンへの支援は、米帝のこのようなカスピ海、中央アジアの石油・天然ガス独占戦略に基づいて行われたものだ。このパイプラインはタリバンの出身民族・パシュトゥン人の多いアフガニスタン南部を通るものとされ、米帝はこの地域の安定を維持するためにタリバンによるアフガニスタンの支配を必要とした。だからこそ米帝はタリバンの独自の激しいイスラム政治運動について十分知りつつ、それを利用しようとしたのだ。
タリバン側は、このパイプライン計画が米帝によるタリバン政権承認へのステップともなりうるためそれを受け入れる姿勢を示した。これに応えて米帝は96年9月、タリバンのカブール占領から数時間もしないうちに、タリバンと外交関係を開く用意があることを発表した。これはすぐ撤回されたが、米帝がいかに早くこのパイプラインを建設しようとしていたかを如実に物語るエピソードだ。97年春にはタリバンの拠点であるカンダハルにもユノカルのオフィスが設けられた。
だがこのパイプライン計画自身は、ユノカルが98年初めからの工事開始を約束した協定をトルクメニスタンと調印したにもかかわらず、タリバンが97年5月にマザリシャリフで決定的な敗北を喫したために着工期限が1年延期になってしまった。
98年6月にはタリバンの戦力たてなおしのために、サウジ情報局長官がカンダハルを訪問し、タリバンに小型トラック400台と資金援助を行い、パキスタンも約500万jの援助と難民やパキスタン人の志願兵を大量に送った。
だがにもかかわらず、98年8月のケニア、タンザニアのアメリカ大使館を標的とするオサマ・ビン・ラディンらの「国際イスラム戦線」による反米ゲリラを契機として、米帝がスーダンとアフガニスタンを攻撃したことからこのパイプライン建設計画はついに中止になってしまうのである。米帝のタリバンへの援助もパキスタン、サウジを通じた間接的なものを除いてこの時点で中止された。
91年1・17イラク・中東侵略戦争とイスラエルによるパレスチナ人虐殺にたいする怒りが米帝の思惑を越えてタリバンと共同歩調をとっていたビン・ラディンらの組織に大きな影響をあたえ、反米ゲリラが爆発するなかで、この計画自体が粉砕されてしまったのだ。
このため米帝は再度イラン・ルートの再検討を開始し、イラン封じ込め政策の見直しを行わざるをえなくなったのである。そうした徴候はすでに97年7月、クリントン政権がトルクメニスタンからイランを経由してトルコに至るパイプラインの建設に「イラン・リビア制裁強化法」を適用しないことを決定した段階で現れていたが、98年8月の反米ゲリラは米帝のこれまでのイラン政策もろともカスピ海・中央アジアの資源戦略を重大な危機に叩き込んだのだ。
米帝の資源戦略に基づくタリバン支援政策こそ、アフガニスタン内戦を激化させ、アフガニスタン人民を塗炭の苦しみにおいこんだ最大の原因なのだ。その米帝が今日タリバンを「テロ支援勢力」として非難し、再びアフガニスタンに侵略戦争を仕掛け、アフガニスタン人民をさらに悲惨な状態に追い込もうとしていることをわれわれは絶対に許してはならない。
なおイスラエルも今日、「テロ根絶」を叫んでタリバンを非難しているが、かつてイスラエルもアフガニスタンや中央アジアにたいするイランの影響力を弱めるのに役立つと見て、タリバンを支持していたのである。
内戦の激化
ここではタリバン登場以降のアフガニスタン内戦の経過についてまず簡単におさえておこう。
94年11月にタリバンがカンダハルを占領して以降、わずか3か月あまりでタリバンはアフガニスタン31州のうち南部のパシュトゥン人地域を中心に12州を支配した。だが、南部に比べ残った地域は大きな軍閥が支配し、複雑な政治的、民族的状況が存在していた。
92年にカブールを占領して政権をとったラバニ、マスードらに対する各派の政権奪取を狙う攻撃は95年以来激化し、1月には全グループがカブールを攻撃した。パキスタンが大量のロケット弾を反カブール政権勢力に供給したため戦闘は熾烈を極め、各勢力間の憎悪は極限に達した。このためこの戦闘以後、民族間で相互に虐殺しあうという悲惨な事態が生じた。
95年2月にはマスード軍がハザラ人を虐殺し、97年にはハザラ人がタリバン数千人を虐殺、98年8月のマザリシャリフでの戦闘ではタリバンがハザラ人7〜8000人とウズベク人を虐殺、98年9月のバーミヤンを占領したタリバンによるハザラ人の虐殺とハザラ人地域の封鎖、100万人の飢餓の意識的拡大による民族浄化作戦など、いずれもアフガニスタン史上例のないできごとが起きた。
96年9月にタリバンがカブールを占領すると、ラバニ、マスード、ドスタム、ハザラ人の間で反タリバン同盟が結成されるが、これ以後もこの同盟とタリバンの間の憎悪はエスカレートする。
タリバン政権の性格
政権を奪取したタリバンによる統治は事態をさらに悪化させた。タリバンは、サウジ反動王制のワハビズムに影響を受け、シャリーア(イスラム法)の極端に厳しい解釈を適用したといわれるが、現実をよく検討してみればわかるように、パシュトゥンワーリという部族長会議に判断を下す権限を与えたパシュトゥン人の社会規範や農山村の部族の慣習法をアフガニスタンの全民族に強制的に適用しようとしているというほうが正確であろう。
タリバンがパシュトゥン人地域を統治している間は、このような方法による統治は比較的スムースに貫徹したが、他民族、他宗派地域においては大きな摩擦を引き起こした。
内戦の過程で増幅された民族間・宗派間対立と憎悪のために、タリバンの統治は大きな強制力を伴い、それが再び民族間・宗派間の対立を激化させた。
音楽やスポーツの全面禁止、歌や踊りの禁止、あごひげ剃りや長髪の禁止、偶像崇拝の禁止、女性の服装の厳しい統制などは、都市住民などの激しい反発を招いた。
とりわけ女性の教育の禁止、外出の禁止、職業の禁止、親族同伴の場合以外の男性医師による診察の禁止などは重大な社会的問題を引き起こした。小学校教員と医療関係者のほとんどが女性であったために、女性の職業禁止によってアフガニスタンの教育、医療はほとんど崩壊状態に陥った。
カブールだけで2万5000人いるといわれている戦争未亡人の場合はさらに悲惨であった。これらの人々は家族を養うために働くこともできないし、病気になっても医療機関にかかることもできない。生きていくためには自分の身を売るか、物乞いするしかない。禁止規定を破れば、宗教警察による厳しい処罰が行われる。
そもそもこうした禁止規定はイスラム教に本来的なものではない。女性の社会的活動を促し、教育や医療を受ける権利を尊重し、ユダヤ人など他民族・他宗教を保護したきたのがイスラム教の本来の姿であった。むしろこのような禁止規定は、最小限の教育機関・医療機関しかなく、部族的伝統の色濃く残る農山村の生活習慣を規定するものであった。農山村における部族共同体や山村共同体が確固として存在していればこれらの生活習慣から生ずる矛盾を柔軟に解決できるために存続してきたものであった。
そのような性格をもつ社会規範を、パシュトゥン人と同様の部族共同体をもたず、固有の部族共同体を長期の内戦によって破壊された諸民族や、都市生活に適合している諸民族・諸宗派に適用すれば必然的に摩擦が激化するのである。
もちろんわれわれは、帝国主義がタリバンのこのような統治の方法を「イスラム過激派の蛮行」などと非難することを許すわけには行かない。自分たちの帝国主義的利害のためにアフガニスタンの多民族社会に適合した部族的伝統やイスラム法や生活慣習を意図的に破壊し、諸勢力への援助を通じて内戦と民族対立をあえて激化させ、タリバンを全面的に援助してきた帝国主義こそが最大の責任を問われるべきだからだ。
この点に関連して「麻薬」問題にも言及しておこう。現在のタリバンの収入源は密輸貿易の中継とアヘンの生産・売却にあると言われている。帝国主義はタリバンが世界のアヘンの供給量の50%を生産・輸出していると非難して、タリバン攻撃の材料にしている。
しかし、アヘン生産の拡大は、米帝自身がタリバンの支配の安定を図るためにずっと容認してきたものだ。タリバンは、アヘン生産の禁止を公式には表明しながら、実際には長期の内戦で農地と灌漑設備・水路が破壊されてアヘンの生産・運送によって生計をたてるしかない農民のアヘン生産を容認した。アヘンの生産を禁止すれば、生きる手段を奪われた農民のタリバン政権にたいする反乱は必至だからだ。米帝もそれを知っていたからこそ、今までタリバンによるアヘン生産容認を非難してこなかったのである。(今日では北部同盟の支配地域でもアヘン栽培が行われているが、米帝はこれについては北部同盟支援のための政治的配慮から非難を控えている。)
アフガニスタン産アヘンの爆発的生産増大と近隣諸国への膨大な量のアヘンの流入は米帝の内戦激化政策による農業生産の破壊と、アヘン容認政策の結果なのであり、ここでも最大の責任は米帝が負うべきなのだ。
このような矛盾を解決するためには、アフガニスタン人民は帝国主義の介入と侵略戦争を粉砕する民族解放闘争のるつぼのなかで諸民族間の連帯を勝ち取り、それを基礎とした国家的統一と生産の回復のための闘いに決起する以外ないであろう。それはアフガニスタン人民自身の民族自決の闘いと一体のものであり、帝国主義の侵略戦争と軍事介入によっては決して解決しない問題なのだ。
タリバンと北部同盟
タリバンによるカブール占領後、米帝とパキスタン、サウジに支援されたタリバンとロシア、イラン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、トルコなどに支援された北部同盟の内戦が続いた。
反タリバン勢力が制圧する北部地方は農業生産の60%と工業の大部分、天然ガス資源などが存在する重要な地域だ。したがってタリバン政権は、国家建設と経済開発のかぎをなすこの地域の支配を全力で追求した。
だが、98年にタリバンへの米帝の援助が停止される一方で、北部同盟に対するロシアや周辺各国の援助が強化されたため、北部同盟の支配領域の制圧は困難になった。
ロシアや周辺各国はそれぞれの国家的利害から北部同盟を支援した。ロシアは、ソ連崩壊後の国内におけるイスラム急進主義の急速な勢力拡大とチェチェン紛争などへのその影響力の拡大を恐れ、北部同盟をタリバン的急進主義に対する防波堤として位置づけた。
また、タリバン政権の強化を通じて米帝やパキスタンがカスピ海周辺諸国や中央アジアの旧ソ連圏諸国の資源への接近ルート、搬出ルートを確保し、勢力圏化することに対する警戒感から、北部同盟へのてこ入れを強化した。
米帝がシーア派を異端として極度に敵視するスンニ派のタリバン政権への支援を通じてイランへの圧力をかけるとともに、カスピ海資源をアフガニスタン経由で搬出するルートを開くことで、カスピ海資源の搬出ルートとしてのイランの戦略的重要性を低下させようとしていることから、イランは反タリバン勢力を支援した。米帝のイラン封じ込め政策に対する反撃のてことして北部同盟を位置づけたのだ。
タジキスタンやウズベキスタンは、同民族がパシュトゥン人のタリバンと戦っているからという理由からだけではなく、国内におけるタリバン的勢力の浸透に対する恐怖から北部同盟を支援した。特にタジキスタンは国内の空軍基地をマスード派が出撃拠点として使用することを許可した。
こうして、タリバンと北部同盟の力関係は拮抗し、戦線は膠着状態に入った。
このような情勢下でおきたのが9・11反米ゲリラであった。米帝は、9・11への報復と「テロ撲滅」を叫びながら再びアフガニスタン情勢に全面的に軍事介入し、中東、中央アジア、カスピ海地域における支配権の一挙的拡大を狙おうとしている。同時に、これらの地域における民族解放闘争の解体を策動しているのである。
米帝の真の戦争目的
米帝のアフガニスタン侵略戦争の真の目的は何か。それは「世界中でテロ活動を行うオサマ・ビン・ラディン一派の逮捕とそれをかくまうタリバンの撃滅を通じて世界からテロを撲滅する」といったような単純なものではない。
9・11反米ゲリラは米帝に侵略され抑圧されてきた被抑圧民族人民の怒りの爆発としてあった。それは米帝の経済的・軍事的中枢を直撃するものとして、米帝支配階級に巨大な衝撃を与えた。帝国主義世界の盟主としての米帝の軍事的威信も地に落ちた。
米帝はこうした危機を乗り切るために、「非人道的テロの根絶」をスローガンとして国論を統一し、アフガニスタンに対する侵略戦争を開始したのだ。
その真の目的は第1に「テロ組織の撲滅」などではなく、それを口実とした軍事侵略によるアフガニスタンのタリバン政権の暴力的打倒と親米政権の樹立、及びその過程を通じて中央アジアやカスピ海周辺諸国、中東諸国への侵略と侵略戦争態勢を全面的に強化することである。
米帝はアフガニスタン侵略戦争の過程で、「テロ組織やそれを支援する国家の側に立つのか、アメリカとともにテロ撲滅のために戦うのか」という二者択一を迫り、米帝に協力する国に対しては援助を全面的に投入する約束をして取り込みを図っている。
アフガニスタン侵略戦争への協力に反対するパキスタン人民の闘いを押さえ込み、パキスタンを侵略戦争の拠点として確保し、侵略戦争に動員するために、米帝は98年のパキスタン核実験と99年軍事クーデター以来の制裁の解除、米国製兵器の部品輸出の解禁、債権国会議にも諮らない単独でのなりふりかまわぬ3億7900万jの債務返済繰り延べ、IMFの1億3600万jの融資承認、諸経済支援加速などを矢継ぎ早にパキスタン政府に約束した。
中東諸国に対しても援助と恫喝の「アメとムチ」の政策によってサウジとアラブ首長国連邦のタリバン政権との断交、米帝の軍事作戦支援を約束させた。かつてビン・ラディンを保護していたスーダンに対しては、同国外交官の入国を制限した国連制裁の解除とスーダンの原油開発に携わる外国企業を米証券市場から締め出す法案を凍結し、米への協力を約束させた。イランの取り込み策動も開始している。また世界最大のムスリム人口を有するインドネシアに対しては、さまざまな援助を約束して、インドネシア人民のアフガニスタン侵略戦争反対の闘いを抑え込ませようとしている。
そして極めて重要なことは、米帝が将来の援助の約束や国内のイスラム急進勢力の資産の凍結を行うことなどと引き替えに、タジキスタンとウズベキスタンにアフガニスタン侵略戦争のための軍事基地を確保したことだ。
とりわけウズベキスタンは当初、米軍の後方支援基地としてハナバード空軍基地の使用を許可したと言われているが、実際には輸送機だけでなく爆撃機や戦闘機も配備され、米軍の空爆や特殊部隊投入の拠点となることが明らかになっている。ハナバード空軍基地はアフガニスタン国境までわずか200`bの位置にあり、かつてソ連がアフガニスタン侵攻の拠点として使用した中央アジア最大の空軍基地である。この基地の使用が可能になったことは、サウジやパキスタンの基地が両国人民の侵略戦争反対運動の爆発によって軍事作戦の拠点としてフルに活用することが困難になっているために、決定的な意味をもつ。
米帝は対アフガニスタン攻撃の拠点として空港や領空を利用する見返りに、米軍が長期的にウズベキスタンを防衛することを示唆する内容を盛り込んだ声明を10月12日にウズベキスタンと共同で発表し、米・ウズベキスタンの準安保同盟関係が成立したことを明らかにした。
これによって米帝はアフガニスタン侵略戦争の拠点を確保しただけでなく、中央アジア侵略の決定的軍事拠点を旧ソ連邦諸国の中に確保し、この地域におけるロシアとの戦略的競合関係を決定的に米帝に有利に転換したのだ。
その上で米帝は、北部同盟への支援を開始して取り込みを図る一方で、タジク人を中心とした北部同盟が首都カブールを米軍に先んじて占領しないように、カブール北部の戦車200両、数百の重火器をもつタリバン主力の機甲・砲兵部隊に対する攻撃を遅らせた。これは「タリバン後」の元国王、ザヒル・シャーを軸とした親米政権構想を米帝主導で実現しようとしているからだ。米帝はアフガニスタンに親米政権を樹立し、戦後の復興過程に全面的に関与することによって、中央アジアやカスピ海諸国への侵略拠点を構築しようとしているのだ。もちろんカザフスタンとパキスタンを結ぶ天然ガスパイプラインの建設計画を再開することも射程に入れている。
このように米帝のアフガニスタン侵略戦争は、この地域の米帝による独占的支配体制の暴力的確立を目指したものなのだ。
民族解放闘争の総せん滅政策
米帝のアフガニスタン侵略戦争の第2の目的は、パレスチナを始めとする全世界のイスラム諸国における民族解放闘争の総せん滅である。
なによりもそれはパレスチナ解放闘争の圧殺を目指すものだ。パレスチナ解放闘争は全世界のイスラム諸国人民にとって米帝・イスラエルのせん滅攻撃と真正面から対決して英雄的な民族解放・革命戦争を切り開く牽引車としての位置を占めている。それは帝国主義の民族抑圧と植民地支配の恐るべき実態を全面的に暴くとともに、新たなインティファーダ開始以来の大衆的武装闘争と本格的武装闘争の結合と発展の闘いによって、それを根底から粉砕する展望を全世界のイスラム諸国の被抑圧人民に指し示している。
イスラム諸国人民は米帝とイスラエルの虐殺攻撃に対するパレスチナ人民の怒りを共有し、「テロ絶滅」を口実として全世界の民族解放闘争の絶滅攻撃に鋭く反応し、反撃の闘いに続々と決起している。
だからこそ米帝・ブッシュとイスラエルは、パレスチナ人民の武装闘争に対し、「テロ根絶」を合い言葉に総せん滅攻撃をいっそう強化しているのだ。
9・11以降、イスラエルは世界的な「反テロ」キャンペーンに乗っかり、ガザやヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治区に対する攻撃を一挙にエスカレートさせた。多数の戦車を先頭にして自治区に突入して「テロ活動の拠点」と勝手に見なした地域を砲撃で破壊し、占拠するという攻撃をくり返している。まさに闘うパレスチナ人民を虐殺し、再占領政策を強行しようとするもの以外のなにものでもない。
こうした攻撃は、イスラム諸国人民の正当な反帝国主義の民族解放闘争まで「イスラム過激派によるテロ」と規定して一挙に絶滅する攻撃を米帝が全面的に開始したことと一体をなすものだ。
それは米帝がアフガニスタン侵略戦争にロシアを協力させるために、チェチェンでのロシア軍の侵略行為を容認し、タジキスタン、トルクメニスタンなどのイスラム急進派への攻撃を強化し、イラクへの軍事攻撃をエスカレートを示唆し、インドネシア、マレーシア、フィリピンのイスラム武装勢力への軍事作戦を拡大することを公言したことからも明らかである。
以上の点からあきらかなように、米帝は9・11の衝撃を逆テコとしてイスラム諸国に対する侵略戦争を拡大しつつ、危機の乗り切りと米帝の建て直しのための帝国主義的国益をかけた帝間争闘戦の激化と世界大戦級の戦争にあえてうってでたのである。
旧ソ連圏中央アジアの勢力圏分割と石油・天然ガスの独占のための強盗戦争をもって、米帝はロシアや残存スターリン主義中国、日帝、西欧帝との対立を全面的に促進する世界大の戦争政策と、全世界のイスラム諸国人民の皆殺し戦争政策を一体のものとして展開しはじめたのだ。それは中国・朝鮮をめぐる帝国主義間戦争情勢をもさらに激化させるとともに、帝国主義の新植民地主義体制諸国全体に対する侵略戦争情勢を一挙に激化させ、第三次世界大戦の危機を激しく促進するであろう。
反撃の闘いの爆発
だが、他方で、米帝のこうした戦争政策は、イスラム諸国人民の反撃の闘いと、帝国主義諸国における反戦・反帝国主義の闘いの爆発を不可避とせざるを得ない。
アフガニスタンよりも多くのパシュトゥン人が居住する隣国パキスタンでは、アフガニスタン侵略戦争に反対する人民の決起が全国的に開始され、内乱直前の情勢が成熟している。
10月15日には全イスラム政党で構成する「アフガニスタン防衛評議会」の呼びかけで全国規模のゼネストが計画され、アフガニスタン侵略戦争に協力するパキスタン政府を決定的に追いつめている。
インドネシアでも連日、大規模な反米デモが繰り広げられている。イスラム急進派だけでなく、一般のムスリムの間にも反米意識が拡大している。
サウジアラビアやクウェートなどにおいても急速に反米意識が高まり、これら諸国の支配階級は国内の米軍基地を戦闘出撃基地として使用させれば、政権自体の危機を招くことは必至だとして、米帝の侵略戦争への全面協力を拒否せざるをえなくなっている。
アフガニスタン、パキスタン、カザフスタン、タジキスタンなどとも国境を接し、これらの国におけるイスラム急進主義運動から大きな影響を受けている中国の新疆ウイグル自治区でも米帝のアフガニスタン侵略戦争に反対するウイグル民族独立運動勢力の活動が活発化し、ウイグル民族抑圧政策を続けている中国政府を追いつめている。
ソ連崩壊直後の92年頃からイスラム政治運動が活発化し、97年まで内戦状態がつづいたタジキスタン、97年以降、イスラム勢力の活動が活発化しているウズベキスタンなどの旧ソ連圏中央アジア諸国の現政権のアフガニスタン侵略戦争への動員と国内イスラム勢力への弾圧強化は、これら諸国の内戦的危機をさらに激化させるであろう。
このように米帝のアフガニスタン侵略戦争を契機として、全世界のイスラム諸国における民族解放闘争と帝国主義の侵略戦争、被抑圧民族虐殺政策との激突はかつてないほどに激烈化し、第3次世界大戦か世界革命かを根底的に問う情勢が成熟しているのである。
反戦運動の大爆発を
帝国主義国における反戦運動も、9・11直後からかつてない規模で広がりをみせ、アメリカ、西欧諸国で大規模なデモが繰り広げられている。とりわけアメリカ人民の反戦運動は、9・11のイスラム諸国の被抑圧人民による帝国主義国人民の糾弾の闘いを真剣に受け止め、米帝の侵略戦争を弾劾する闘いに決起していることは極めて重大な意味を持っている。
アメリカ国内における反戦闘争の発展こそ、9・11にあらわれた被抑圧民族人民の帝国主義国プロレタリアートに対する不信の念を払拭し、全世界のプロレタリアート人民と被抑圧民族の国際的連帯を決定的に強化する突破口をなすものである。
われわれ日本のプロレタリアート人民は、こうした国際反戦闘争の高揚局面において、その最先頭に立って決起する決意を固めなければならない。
日帝こそ、米軍攻撃部隊の軸をなす第7艦隊の基地が存在し、特殊部隊の訓練基地を有する国であり、沖縄を始めとする在日米軍基地の防衛に武装した自衛隊を出動させている最前線国家である。
また日帝・自衛隊は侵略戦争を遂行する米軍に弾薬や食糧などの兵站業務や医療を提供する共同侵略軍であり、難民支援を口実に米軍に先んじてパキスタンに上陸し、アフガニスタン・パキスタン人民に敵対している。
さらには、日帝は国内におけるアフガニスタン人13人の不当極まりない入管法違反での拘束など、入管体制の戦時的強化によって、排外主義と差別主義を扇動して日本人民を侵略戦争に動員しようとしている。
ODA援助を通じて中央アジアとカスピ海周辺諸国の石油・天然ガス再分割戦に必至で参入しようとし、橋本政権のもとで「ユーラシア外交」を展開してきた日帝は、この機会に権益の一挙的拡大を狙っており、そのためにアフガニスタン人民の虐殺戦争に全面的に参戦しようとしているのだ。
米英軍による最初の空爆が行われた後の最初の金曜礼拝の日である10月12日の反米デモに決起したパキスタン人民が「ジャパンコイズミ・ブッシュは犬だ」と書かれた紙を示して日帝が米帝と共同侵略を行っていることを弾劾していることをわれわれは厳粛に受け止めなければならない。
この侵略戦争への本格的参戦を通じて戦争国家化を一挙に実現するために、憲法改悪に等しいテロ対策法案や自衛隊法改悪案を強権的に推進している小泉政権を打倒する巨大な反戦闘争を今こそ大爆発させ、闘うアフガニスタン、イスラム諸国人民、朝鮮・中国、アジア人民との真の連帯を勝ち取らなければならない。
われわれは今こそ、「米英帝の空爆弾劾!日帝の参戦絶対阻止!」「闘うイスラム諸国人民と連帯し、帝国主義のアフガニスタン侵略戦争を阻止せよ!」のスローガンを掲げて今秋の反戦闘争に断固として決起しなければならない。この闘いの圧倒的実現の中で、有事立法粉砕・改憲阻止決戦の大爆発を勝ち取ろう。
|
●特集/侵略と戦乱のアフガニスタン 特集第2章 侵略と戦争と暗黒の道を強制する参戦3法案 につづく |