第2章 完全に破産した米帝による中東「和平」策動
「和平」策動の本質
米帝の中東「和平」策動は、91年1月のイラク・中東侵略戦争以降の米軍によるペルシャ湾岸地域の軍事的制圧と、アラブ産油諸国によるPLOへの援助の停止、100万人近くのパレスチナ人の産油諸国からの追放によるPLOの弱体化、イスラエルによる占領地封鎖によるパレスチナ人民の疲弊という情勢を背景にして、パレスチナ人民の民族解放の闘いをペテン的な「和平」交渉の枠組みの中に封じ込め、圧殺しようとするものであった。
93年8月、オスロでのイスラエル政府とPLOの間の秘密交渉で、ガザ地区と西岸のエリコでの先行自治の実施、西岸でのイスラエル軍の再展開、パレスチナ警察の設置、パレスチナ評議会の選挙の実施などが合意されて以降、米帝の「和平」策動は急進展するかに見えた。
だが、93年9月に暫定自治協定が調印され、実施細目についての交渉が開始された段階で、94年2月、西岸のヘブロンで極右のユダヤ人によるパレスチナ人39人の射殺事件がおき、「和平」策動はパレスチナ人民の怒りの爆発の前に、たちまち破綻の危機に瀕した。
先行自治の開始
この危機をかろうじて乗り切り、94年5月のガザ・エリコ先行自治実施協定(カイロ協定)で5年間の暫定自治が開始され、95年9月の暫定自治拡大合意(オスロU合意)と97年1月のヘブロン合意、98年10月のワイ・リバー合意で西岸地区での自治拡大が約束されたが、結局、パレスチナ人の土地はユダヤ人入植地を除いたガザ地区と西岸の40%にとどまった。
これはパレスチナ全域(2万6300平方キロ)のわずか9・6%であり、しかも拡大する一方の入植地とイスラエル軍駐屯地に二重三重に包囲され、入植地を結ぶ軍用道路などによって相互に分断された地域でしかなかった。
4〜500万人と言われる厖大な難民の帰還問題やエルサレムの地位問題、入植地問題などについてはこれらの交渉過程では全く問題にされず、最終地位交渉で扱うとして先送りされた。
わずかこれだけの「成果」を与えることと引き替えに、パレスチナ自治政府のアラファトはイスラム政治運動勢力による爆弾闘争などの対イスラエル抵抗闘争の抑圧、「テロリスト」の逮捕や「非合法武器」の取り締まりなどの措置を要求された。しかも「テロ防止」措置の効果的実施のためという口実で、パレスチナ治安機関は米CIAの監督を受け入れさせられ、イスラム政治運動勢力のハマスやイスラム聖戦機構などの弾圧のためにイスラエル治安機関との協力を要求された。
イスラエルと米帝は、イスラエル軍の軍事的包囲のもとにパレスチナ人民をごく一部の「国家」とはとうてい言い難い分断された狭い地域に永遠に封じ込めると同時に、パレスチナ自治政府と闘う人民の分断を策することによってパレスチナ解放闘争のエネルギーを雲散霧消させ、イスラエルの安全を確保しようとしたのだ。
さらにはパレスチナ「『和平』交渉の進展」という仮象のもとに、94年9月のモロッコ、イスラエル間の外交関係樹立、同月のGCC加盟6カ国によるイスラエルにたいするアラブ・ボイコットの正式の廃棄、94年10月のイスラエル・ヨルダン間の平和条約調印、イスラエルを中心とする中東広域市場形成構想に基づく同月の「中東・北アフリカ経済サミット」の開催とその定着策動など、イスラエルの国際的承認と中東経済圏の基軸国化による経済危機からの脱却を狙ったのである。
第2次インティファーダ
だが、パレスチナ人民の民族解放闘争はアラファト既成指導部の屈服を乗り越えて、米帝とイスラエルのこうした策動を根底から粉砕する新たな発展を開始する。
ヘブロン虐殺事件以後、ハマスやイスラム聖戦機構はイスラエル内でのパレスチナ人虐殺に対する報復の爆弾闘争を展開していたが、96年に入ると2〜3月だけで60人近くのイスラエル人が死亡する大規模な爆弾闘争を戦略的に展開し、イスラエル全土を震撼させた。
95年11月、「和平」策動を推進していたイスラエルのラビン首相が極右ユダヤ教徒によって暗殺され、96年5月に極右リクード党のネタニヤフが首相に選出されると、PLO既成指導部の制動を受けないハマスなどの突出した独自の闘いと連動して、第2次インティファーダとも言うべきパレスチナ人民の主体的で大衆的な抵抗闘争が街頭で激しく爆発する。
87年12月以来、6年間にわたって1万1000人の死者と4万人を超える逮捕者を出しつつ英雄的に闘われた第1次インティファーダを質的に乗り越える第2次インティファーダの爆発は、アラファトの屈服によって逼塞状態に追い込まれていたパレスチナ人民の闘いの不死鳥のような復活を意味するものであった。
97年2月、ネタニヤフ政府が東エルサレムのハルホマ入植地の建設を決定し、東エルサレム併合策動を強力に推進しだすと、投石用の石を手にした若者たちがパレスチナ自治警察の制動をうち破って街頭に進出し、イスラエル軍と激しく衝突した。
こうした闘いの爆発に激しい衝撃を受けたネタニヤフ政権は、イスラエル軍の再配置と自治拡大合意の実施を停止し、96年5月に開始された最終的地位に関する交渉も中止した。このため「和平」策動は完全に暗礁に乗り上げたまま、99年5月4日、5年間の暫定自治の期限切れを迎えるのである。
「和平」策動の破産を目前にして、クリントンは98年11月、ガザ、イスラエルを訪問し、ネタニヤフ政権に「和平」策動を継続するように圧力をかけた。だが、閣内の極右宗教勢力である国家宗教党などの入植地建設強硬推進派の右からの激しい圧力を受けたネタニヤフが、米帝の「和平」策動を継続する意志も能力もないことが明らかになると、米帝はイスラエルでの政権交替による「和平」策動の継続政策を追求した。
バラクの「和平」策動
こうして99年5月に前倒し的に総選挙と首相公選が実施され労働党バラク政権が登場する。
バラクはレバノンからのイスラエル軍の撤退とシリアとの交渉の推進、西岸地区の自治拡大を約束したワイ・リバー合意の完全実施を提案し、「和平」策動を全面的に推進する政策を打ち出した。
この方針に基づいて99年9月、エジプトのシャルム・エルシェイクでバラク、アラファトの会談が行われ、
@イスラエル軍の再展開を99年9月、11月および00年1月の3段階に分けて実行に移し、完全ないし部分的な自治地域を西岸全体の41%にまで拡大する、 Aイスラエルで服役中のパレスチナ人350人の釈放、
Bガザ海港の建設、ガザと西岸を結ぶ回廊の開設などの合意がなされた。
交渉期限がすでに切れていた最終地位交渉については、9月13日までにしきりなおして再開し、難民帰還問題、入植地問題、エルサレムの地位問題などの最終的地位に関するすべての問題に関して2000年2月までに交渉のための枠組みつくりを行い、2000年9月までに最終合意に達するという合意が行われた。
だが最終的地位に関する交渉は相互に妥協の余地のない困難な諸問題を取り扱うため、枠組みつくりさえもできない状態に陥り、期限の2月はおろか夏に至るも何の成果も上がらなかった。
クリントンの策動
こうした中で、任期を半年残すのみとなったクリントンが全面的に介入し、2000年7月中旬、バラク、アラファト、クリントン会談が約2週間の長期にわたって米大統領山荘キャンプ・デービッドで行われる。
米帝・クリントンはこの会談
によって最終的地位に関する交 渉に強引に決着をつけ、パレスチナ解放闘争を最終的に終息させようとした。だからこそクリントンは連日、連夜にわたってバラクとアラファトを恫喝し、沖縄サミットへの出発を1日遅らせることまでして自ら交渉の陣頭指揮をとったのだ。
(写真 キャンプデービットで協議する米,イスラエル、パレスチナ首脳)
だが、最終地位交渉の内容は、パレスチナ人民の根本的利害に関わる問題であり、アラファトといえども容易に妥協できる問題ではなかった。またそれはバラクにとってもイスラエル国家の存立に関わる問題であるため、同様に簡単に妥協することはできなかった。
パレスチナの最終的地位を決定するこの会談で提示された調停案では、米帝とイスラエルによるパレスチナ解放闘争の圧殺の意図が極めて露骨なかたちで明らかになった。
クリントンの調停案は第1に、将来の「パレスチナ国家」は対外軍事権を認められず、実質的に非武装の「国家」となるばかりでなく、161カ所・20万人のユダヤ人人口を有する入植地は再編されて入植地ブロックを形成し、イスラエルの主権下に置かれるとした。
軍事拠点としての入植地は西岸ではヨルダンとの国境地帯、東エルサレムを取り囲む地域に配置されて、西岸地域を南北と東西に分断している。ガザでは、イスラエル領と隣接する地域や海岸地域などの戦略的に重要な地域に配置され、その周辺にイスラエル軍が駐留しガザを軍事的に制圧する態勢が取られている。
このようにして線引きが行われたパレスチナ国家とは、まさに独立国家とは名ばかりのものでしかなかった。
第2に、エルサレムは不可分であり、イスラエルの主権下に置かれるとした。
のちに東エルサレムの一部にパレスチナ側の主権を認めるという提案もされたが、イスラエル側はそれを拒否した。67年の第3次中東戦争によって占領されたイスラム教の聖地・東エルサレムを「パレスチナ独立国家の首都にする」という立場をとるパレスチナ側にとってはこれは絶対認められなかった。
第3に、パレスチナ難民の帰還は離散家族の再会としてのみ認め、イスラエルは難民問題の発生についての責任は負わないとした。
これを認めれば4〜500万人の難民は帰国を最終的に拒否され、何の補償もされないことになるのであり、こんな調停案はパレスチナ人民としては絶対に認められないものだ。
このようにキャンプ・デービッドで提示された「最終解決」の調停案は、パレスチナ人民に解放闘争の放棄と全面的な屈服を迫り、ごく一部の地域にパレスチナ人民を永遠に封じ込めるものでしかなかった。パレスチナ人民の激しい怒りの前に、アラファトもこの調停案を拒否せざるをえなくなったのである。
こうして最後の最後まで交渉議題として残されてきた「最終解決案」なるものがこういうものでしかないことを嫌というほど認識させられたパレスチナ人民の米帝・イスラエルに対する怒りは、キャンプデービッド交渉の決裂の時点で爆発寸前にまで高まっていった。
これに加えて、「テロ防止」という口実で行われたイスラエルによる自治区の封鎖は、イスラエルに出稼ぎにいっていたパレスチナ人労働者の生活を窮乏化させ、怒りの炎に油を注いだ。
また交渉期間中も行われた入植地の拡大とパレスチナ人からの土地の強奪や住宅の破壊によってパレスチナ人は生きるためには闘うしかないという決意を固めるしかなかった。
極右シャロンの登場
もはや「和平」交渉によって与えられる「自治」や「パレスチナ国家」などというものに対する幻想は完全に吹き飛び、パレスチナ人民は真のパレスチナ国家独立の達成のためには自ら蜂起し、武装して闘う以外にないことをはっきりと自覚したのだ。
他方、イスラエルの側も、イスラエル国家存立のためには最終地位交渉での譲歩を一切拒否するしかないことをあらためて確認した。とりわけイスラエル国内の右派勢力にとっては、交渉継続のためにバラクがこれ以上エルサレム問題などでの「譲歩」を行うことは認めがたいことであった。
バラク連立政権内の右派勢力は、これ以上の譲歩を認めないレビ外相が辞任すると、次々と譲歩反対の立場から閣僚を辞任し、バラク自身が23の閣僚ポストのうち11を兼任する事態にまで至った。
こうした情勢を背景として、「和平」策動よりさらに直接的なパレスチナ人民せん滅政策への転換を目指して極右リクード党のアリエル・シャロン元国防相が反革命的決起を強行したのが9月28日の東エルサレム訪問事件なのである。
米帝の思惑をも超えたシャロンの反革命的突出に対し、パレスチナ人民は断固たる反撃に打って出た。こうした情勢の流れの中で見れば、9月以降の新たなインティファーダと武装解放闘争が、「和平」策動の破産のなかで登場し、闘うパレスチナ人民を総せん滅することによってパレスチナ解放闘争を最後的に解体しようとする極右勢力との真正面からの激突として爆発していることが明らかになるであろう。
まさに9月以降の闘いは、シャロン的反革命と戦争的に激突し、真のパレスチナ解放と独立を勝ち取る最後の闘いとしてあるのだ。
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