COMMUNE 2001/10/01(No310 p48)

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 ●特集/激動するパレスチナ情勢

(銃で武装した戦士とともにデモ行進するパレスチナ人民)


 第1章 武装闘争段階に突入したパレスチナ解放闘争

 開始された新たな武装闘争 

 2000年9月に極右・リクード党のシャロン元国防相が数百人の武装した護衛警官を引き連れてエルサレムのイスラム教聖地への挑発的訪問を強行したことに抗議するパレスチナ人民の闘いの爆発を突破口として新たなインティファーダ(対イスラエル抵抗闘争、第3次インティファーダ)が開始されて以来、パレスチナ情勢は全く新たな段階に突入した。
 2000年9月以降、2001年8月中旬までに560人のパレスチナ人がイスラエル軍によって殺され、150人のイスラエル兵やユダヤ人入植者が死亡したことに見られるように、この闘いはパレスチナ人民とイスラエル政府との間の文字通りの戦争情勢へと発展している。
 とりわけ8月に入ってからの激突情勢はすさまじい。8月9日にはエルサレム中心部のレストランでのハマスによる爆弾闘争で16人が死亡した事件以降、イスラエルの報復攻撃はいちだんとエスカレートしている。
 10日未明にはイスラエル軍は西岸のラマラのパレスチナ自治警察本部をF16戦闘機でミサイル攻撃するとともに、東エルサレムのパレスチナ解放機構(PLO)の事務所「オリエントハウス」やアラファト議長の警護隊施設など計10カ所の関連施設を接収した。
 「オリエントハウス」はPLOや自治政府が、将来の国家独立時の東エルサレム首都化をにらみ、執務拠点や外交に使用している施設であり、PLOの本部とも言うべきものだ。ここを強制接収し、建物にイスラエル国旗まで掲げたことは、東エルサレムをパレスチナ側には絶対に渡さないという意思表示であり、これまでの「和平」交渉での合意を完全に反故にする決断をイスラエルがしたことを象徴的に示すものだ。
 以後、イスラエルは対パレスチナ戦略を転換し、「テロへの報復」という形式を取らずに恒常的に自治政府の警察・治安施設を攻撃する態勢に入っている。自治区へのイスラエル軍の侵攻と破壊攻撃をくり返し行うことで、自治の形式さえも破壊しようとしているのである。
 こうして、93年の「オスロ合意」以降展開されてきた米帝の中東「和平」策動はパレスチナ人民の闘いによって粉々に粉砕され、むき出しの暴力的激突局面へと情勢はラセン的に回帰したのだ。パレスチナ人民は「和平」交渉のテーブルの上で自らの運命を決定されることを拒否し、イスラエル・米帝との激突の中で、自らの民族解放と独立を勝ち取っていく偉大な闘いの時代を切り開きつつあるのだ。
 今日のパレスチナ情勢の最大の特徴は、イスラエルのパレスチナ解放勢力せん滅戦争に対して武装したパレスチナ人民の不屈の民族解放戦争が真正面から激突するという、これまでと次元を画する新たな情勢が到来したということだ。
 パレスチナ人民の新たなインティファーダは、第1次(87年から93年ころ)、第2次インティファーダ(97〜98年)と同様に投石戦術によるイスラエル軍との闘いから始まった。だがこれまでのインティファーダと異なるのは、イスラエル軍の実弾による弾圧に対抗して銃や迫撃砲、爆弾による反撃が組織されたことである。
 当初は散発的で自然発生的なものとして開始された銃撃戦は、イスラエル軍の弾圧のエスカレーションに伴って、次第に自治政府の民兵組織や治安機関の構成員、ハマスやその他の諸政治組織の構成員が横断的連絡を取りつつ組織的に参加する銃撃戦に発展していった。
 イスラム政治運動諸組織による爆弾闘争などの武装闘争は、94年ころから展開されていたが、PLOの主要な軍事組織による武装闘争は、基本的に80年代以来放棄されていた。とりわけ93年のオスロ合意以降、PLOは「和平」交渉の枠の中に封じ込められ、武装闘争はむしろ自治政府そのものによる弾圧の対象になるような状態が続いた。

 武装解放闘争の巨大な意義

武装してデモするパレスチナ活動家 米帝とイスラエルは、パレスチナにおける武装解放闘争の発展を最も恐れている。イスラエルによるパレスチナの占領と領土の略奪・併合、厖大な数の難民の帰還の拒否、非人道的な圧政と一切の解放運動の圧殺は、分割軍事基地国家イスラエルの人為的創出をテコとする帝国主義の戦後中東支配の非人間的性格を如実に示すものとして、パレスチナ人民のみならず、全中東のアラブ諸国人民の怒りの的となっており、パレスチナにおける武装した民族解放闘争の爆発は、全アラブ人民の民族解放闘争の爆発を引き出し、帝国主義の中東支配体制を総崩壊の危機にたたき込みかねないものとしてある。

 実際、60年代から70年代にかけて展開されたパレスチナ・ゲリラの対イスラエル戦闘は、パレスチナ解放闘争の勝利の展望を赤々と照らし出すとともに、全アラブ人民を勇気づけて中東における民族解放闘争の高揚局面を切り開くものとなった。
 だからこそ米帝はパレスチナ自治政府の所持する武器を軽火器に限定し、パレスチナ人民の武装に関しては一切認めなかったのである。さらにその上に、パレスチナ解放闘争の武装闘争的発展を徹底して阻止するためにわずかばかりの利権の付与と引き替えにPLO既成指導部を「和平」策動の中に引き込み屈服させる一方で、「和平」策動に反対する武装勢力を徹底的に軍事的にせん滅しようとしてきたのだ。
 そうした政策は91年の米帝によるイラク・中東侵略戦争とその後の米軍の中東制圧態勢の確立、産油国による財政的締め付けと諸援助の停止によってPLOを軍事的、政治的、経済的に追いつめ、「和平」交渉のテーブルに引き出すという形をとって具体化された。
 だが、PLO既成指導部の屈服にもかかわらず、80年代末に開始された占領地のパレスチナ人民の大衆的武装闘争(インティファーダ)は、一定の調整期を経ながらも大衆の新たな闘争形態として90年代に定着した。またそれと一体をなす闘いとしてハマスなどの占領地人民の中から生まれた武装闘争が展開された。
 それは革命的前衛党の指導のないなかでの自然発生的闘いであったにもかかわらず、武装闘争の伝統を守り、いかなる弾圧にも屈服しない英雄的な民族解放の闘いとして発展してきた。そうした闘いが基礎にあって今日の武装闘争の発展がある。

 新世代の軍事指導部の登場

 占領地で生まれ育ち、80年代末から90年代初頭にかけてインティファーダを闘いぬいた当時10〜20代の青少年層が今日の新たなパレスチナ解放闘争の政治的・軍事的指導部に成長したことによって、従来の伝統的社会に根ざし、既得権益の維持に汲々とするPLO既成指導部を乗り越える新たな質を持った闘いが実現されている。
 とりわけ武装闘争の発展に関しては、何の変哲もない路傍の石だけであらゆる兵器で武装したイスラエル軍と闘ったインティファーダの英雄的精神を持ち、同時にその限界を徹底的に教訓化した30〜40代の若い世代の軍事指導部の存在は大きい。多くのインティファーダ経験者が自治政府の治安機構やPLOの軍事組織や民兵組織に大量に流入し、新世代の軍事指導部の下に置かれたことによって、武装闘争はアラファトなどの既成指導部の反動的統制を排除して発展した。
 またハマスなどのイスラム政治運動グループの成員も同様に、占領地出身のインティファーダを経験した青年層が軸になっており、PLOの諸組織とは思想的政治的傾向の違いや運動方針の違いがにあるにも関わらず共にインティファーダを闘った者として、現在のPLOの新世代の軍事指導部に対して強い連帯感を感じている。
ヘブロンでのインティファーダ ハマスの旧来の指導部はイランとの関係があったが、新世代の指導部が成長してきたことによって、ハマスのイラン依存の体質は大きく変化している。
 1万1000人の死者と4万人の逮捕者を出した20万3000波の第1次インティファーダの中で家族や兄弟姉妹を虐殺され、友人・知人を獄中に奪われ、拷問され、家をダイナマイトやブルドーザーで破壊されるという共通の経験をもつPLOやハマスの新世代の指導部は、相互に連帯感を持ち連携した行動をとろうとしている。
 したがって、アラファトなどの既成指導部がハマスの爆弾闘争などを弾圧することにたいし、PLOの新世代の指導部たちは抵抗し、むしろハマスの爆弾闘争をも武装闘争の総体的発展のテコと位置づけようとしている。
 こうして大衆的武装闘争としてのインティファーダと、PLOの軍事組織ファタハや武装民兵組織タンジームなどの武装闘争、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)などの武装闘争、ハマスなどの爆弾闘争が一体となって発展するパレスチナにおける民族解放・革命戦争が開始されたのだ。
 それは現段階ではイスラエル軍の弾圧からのインティファーダの防衛、パレスチナ人の住宅破壊に対する防衛と反撃、イスラエル軍のPLO軍事機関や軍事指導者に対する攻撃からの防衛などの武装自衛闘争から始まり、入植地やイスラエル軍基地への迫撃砲などを使った積極的・組織的攻撃やイスラエル領内での爆弾闘争へと発展し、イスラエルと占領地を完全に「レバノン化」状態に叩き込んでいる。
 パレスチナ人民のこうした闘いはイスラエルを建国以来最大の危機にたたき込み、米帝の「和平」策動を完全に破産させただけでなく、中東における今後のアラブ民族解放闘争の武装的発展にとって限りなく巨大な意義を持つであろう。

 クリントンの最後のあがき

 米帝・クリントンは1月20日の任期期限切れを直前にして最後の「和平」策動に打って出た。イスラエルの極右勢力の台頭とパレスチナ人せん滅政策の全面展開とそれに対抗したパレスチナ解放闘争の武装闘争的発展が中東全域の民族解放闘争を活性化させ、中東危機を連鎖的に一挙に激化させることに恐怖した米帝・クリントンは最終的な仲介案を提示し、なんとかイスラエル政府とパレスチナ自治政府を「和平」交渉の枠内に引き戻そうとした。
 今年1月7日に公表されたこの最終的仲介案の内容は、
 @ガザ地区と西岸の94〜96%を領土とするパレスチナの主権国家としての独立を認める。この国家は治安部隊を保持するが、重火器は保有できない(事実上の非武装国家化)
 Aイスラエルは西岸の入植地の80%をイスラエルに併合し、これと土地交換するかたちでガザ・西岸間の連絡道路をつくる
 B東エルサレムのパレスチナ人の居住する地域をパレスチナの首都とし、米は東西エルサレムに大使館を置く
 Cパレスチナ国家が帰還を望む難民の集約地になることを提案し、イスラエル領内への帰還は事実上制限して人道上の枠内にとどめる
 Dパレスチナ国家のヨルダン渓谷沿いに国境警備のための国際部隊を配置する。この国際部隊の指揮下でイスラエル軍が3年を限度に駐留する。西岸各地にはイスラエル軍の緊急武器庫を用意する、というものであった。
 これは一見して東エルサレム問題などでこれまでと比べて大幅な譲歩をしているかに見えるが、実際には東エルサレムの主権の及ぶ範囲があいまいにされ、難民の帰還権を否定し、主権を制限するという点でパレスチナ側にとっては決して受け入れることができないものであった。また、イスラエルの右派勢力にとっても、東エルサレムにパレスチナ側の主権を認めるという点で容認できないものであった。
 この仲介案が発表された翌日の1月8日には、東エルサレムの主権をパレスチナ側に譲るなと叫ぶ極右宗教勢力などの右派勢力が10万人の集会をエルサレムで開催し、政府に仲介案を拒否することを迫った。
 他方、パレスチナ側もその受け入れを拒否した。1月11日に行われたアラブ外相会議も、米帝の仲介案を批判し、その受け入れに反対した。
 こうして米帝・クリントン政権の最後の「和平」策動は破産し、パレスチナ情勢は再び激しい戦争状態へと回帰する。それは3月の極右シャロン政権の成立と、1月に政権を発足させたブッシュによる中東政策の転換によって、加速度的に激化していった。

 極右シャロン政権の成立

 シャロンは81年のベギン政権のもとでは農相と閣僚会議議長を兼務し、西岸での入植地拡大政策を積極的に推進し、82年のレバノン侵攻の際には国防相として右派キリスト教民兵によるパレスチナ難民キャンプでの大量虐殺を黙認した極悪の人物である。すでに見たように、2000年9月にエルサレムのイスラム教聖地に多数の武装警官を護衛として連れて突入し、新たなインティファーダ(アクサ・インティファーダ)のきっかけを作った人物でもある。
 このような人物が首相となり、「和平」交渉を真っ向から否定し、パレスチナ人民の闘いを徹底的に弾圧する政策を取り始めたことによって情勢は一挙に緊迫した。
 シャロンは首相就任当初から、「独立パレスチナ」の承認については遠い将来の努力目標でしかなく、まず「不戦合意」を勝ち取ることだと言明していた。つまり、パレスチナ人民のインティファーダをまず暴力的に終息させることを当面の目標とし、そのためには「パレスチナ側の管轄地域にも兵士を派遣する考えだ」と宣言していたのである。
 「和平」交渉に関しても非合法の占領地であるガザと西岸の42%のみをパレスチナ領土とし、エルサレムに関してはパレスチナの主権は認めない、入植地の撤去は拒否する、難民の帰還権は認めないとして、それまでの「和平」交渉での合意事項さえも一切否定する立場を表明した。
 シャロンはこのような立場を表明することによって、パレスチナ側を刺激し、あえて武力対立の激化を促進するなかで、闘うパレスチナ人民を根こそぎせん滅する方針を明らかにした。ペテン的な「和平」策動がすでに完全に破産したという現実に踏まえて、シャロンはパレスチナ解放勢力を根こそぎ軍事的にせん滅する方針へと転換したのだ。
 これに対して、米帝・ブッシュ政権はブッシュの大統領就任直後から「われわれの(イスラエルとアメリカの)同盟関係は岩のように強固であり、イスラエルの安全保障に関する米国の対応もまた確固としている」と述べ、イスラエル断固死守の立場を明らかにした。
 その一方でクリントンの提示した仲介案については「すでに死んだ提案だ」として清算したばかりか、「和平」交渉の仲介からは当面手を引く姿勢を明らかにし、10年間にわたってクリントンと緊密な連絡をとりつつ中東「和平」策動を推進していたロス中東特使の辞任後には後任を置かないと発表した。
 つまりブッシュは、「和平」策動をあえていったん中断することによってイスラエルにフリーハンドを与え、闘うパレスチナ人民を暴力的に弾圧、せん滅する時間的余裕を与えたのだ。
 「和平」交渉中断期間に「和平」交渉に反対する勢力を徹底的にせん滅するというイスラエルの戦争政策に米帝が承認を与えたからこそ、シャロンは米帝の口先だけの警告や批判をまったく無視して野放図な暴力的弾圧に打って出ることができたのだ。

 本格的武力弾圧の開始

 こうしてシャロンは、3月7日、連立工作によって労働党を含む7会派による連立政権を形成し、国会の総議席120議席のうち73議席を与党で占めて政治的基盤を固めると、満を持して本格的な武力弾圧政策に打って出る。
 連立政権形成までに、インティファーダの銃撃による弾圧、自治区の一部の封鎖などの措置を取ったシャロンは、政権発足後、自治政府に対する全面的攻撃を開始した。
 シャロンは、
 @自治政府の治安関係者やパレスチナ政府・武装組織指導者らの暗殺
 A自治区内へのイスラエル特殊部隊の投入による「テロ支援基盤」の壊滅
 B自治政府高官への優遇措置の廃止、などの広汎な措置を取る計画を立案したシャロンは、それらの措置を次々に実施していった。
イスラエル軍に破壊されたジェニンのパレスチナ警察施設(8月14日) まず3月28日、イスラエル軍は、シャロンの首相選出以来連続したハマスなどの爆弾闘争(シャロンの首相就任から連立政権成立までに4件起き、80人が死傷。連立政権成立後も、3月9日にベンエリエゼル・イスラエル国防相の銃撃事件、3月27・28日に40人以上が死傷した3件の爆弾闘争が起きている)への報復だとして、西岸のラマラやガザの自治政府関係施設(自治政府議長アラファトの警護隊本部、アラファトがガザで使っているヘリポート、警察隊の施設、アラファトの自宅など)を武装ヘリからのミサイルで空爆した。この攻撃で2人が死亡、60人以上が負傷した。
 これは重大な戦争的エスカレーションだ。イスラエルはこれまで街頭でのデモの弾圧やハマスなどの爆弾闘争への個別的弾圧を行っていたが、パレスチナ自治政府そのものを標的にして攻撃したのはこれが初めてである。
 しかもそれまでのように軽火器を使用した攻撃ではなく、武装ヘリからミサイルを使用して空爆したことに見られるように、武器使用の面でも一挙にエスカレートさせている。自治区内へのイスラエル軍の侵入と戦闘行動という点でも、オスロ合意を完全に無視した重大なエスカレーションだ。
 29日には、シャロンとペレス外相、ベンエリエゼル国防相が今後の対パレスチナ軍事行動について対応策を検討し、以後は閣議決定なしでもこの3者で攻撃実施を決定できる緊急態勢を確立した。
 3月31日から4月1日にかけては、イスラエル軍特殊部隊が西岸自治区内のラマラに突入し、5人のアラファト警護隊フォース17の隊員5人を含む6人のパレスチナ人活動家を拉致した。4月1日には、西岸のヘブロンもイスラエル軍の戦車砲によって激しく砲撃された。

 反撃の開始

 シャロンが全面戦争に打って出たことに対し、パレスチナ人民の反撃も直ちに開始された。3月30日には、西岸のラマラ、ヘブロン、ナプルーズで数千人のデモが行われ、イスラエル軍と激突し6人の死者を出した。同日は、76年3月30日に、理不尽な土地略奪に抗議したアラブ系イスラエル人6人の虐殺25周年にあたる日であったため、アラブ系イスラエル人1万人も街頭でイスラエル軍の残虐行為に抗議する闘いを繰り広げた。
 3月31日には、西岸のナプルーズで4万人が、イスラエルの戦争政策と闘う決意に満ちたデモを行った。またガザ南部のラファや西岸の入植地、イスラエル軍事拠点の周辺ではイスラエル軍とパレスチナ人民の間で銃撃戦が展開された。

 攻撃のエスカレーション

 4月に入って、イスラエル軍はさらに攻撃を激化させた。9日、10日にはガザでイスラエル軍のミサイル攻撃が行われた。ガザ近郊のパレスチナ海上警察本部や軍事情報部の建物などがミサイルや戦車砲によって攻撃された。
 11日には自治区のハンユニス難民キャンプに10台ほどの戦車とブルドーザーを先頭にしたイスラエル軍が突入し、パレスチナ人の住宅30軒を「入植地への攻撃の拠点や遮蔽物として使用されている」として有無を言わせず破壊した。これは自治区内に昨秋以来初めて地上軍を投入した大規模な侵攻作戦であった。
 14日の夜にもガザ南部のラファに戦車とブルドーザーが突入し、パレスチナ警察の施設や民家16棟を破壊した。パレスチナ人民とパレスチナ自治警察はこうした攻撃に対して激しい銃撃で反撃した。
 だが4月中旬ころより、ハマスなどの爆弾闘争と、パレスチナ武装勢力による入植地や入植者にたいする銃撃や迫撃砲攻撃が強化されたため、イスラエル軍はそれへの対応に追われた。占領地に散在する161カ所の入植地と20万人の入植者を防衛するのは、イスラエル軍にとっても困難な任務であり、パレスチナ人に対する攻撃は一時鈍らざるを得なくなった。
 だがそれでも5月6日、7日には西岸のトルカレム、エルサレム南部の自治区域、ガザ南部のハンユニスの難民キャンプなどに対するイスラエル戦車の砲撃が行われ、13日から14日にかけてはガザで、16日はガザ、ジェニンでイスラエル軍がミサイル攻撃を行っている。
 18日には、前日のイスラエル北部のネタニヤのショッピングセンターでの爆弾闘争で6人が死亡したことへの報復として、ナブルスのパレスチナ警察本部やラマラのアラファト警護隊の拠点をF16戦闘機によって攻撃し、9人を殺害、50人を負傷させた。F16戦闘機による攻撃は67年の第3次中東戦争以来初めてである。
 5月21日には、迫撃砲を製造していたとして、ガザにある民間の小さな鉄工所まで爆撃している。

 卑劣な暗殺作戦

 イスラエルは自治政府の軍事機関や政府機関に打撃を集中しつつ、他方では卑劣な白色テロルを開始した。4月2日には白色テロ専門の特殊部隊がイスラム聖戦機構の活動家の乗った車にヘリからミサイルを撃ち込み殺害した。5日には西岸のジェニンで、イスラム聖戦機構の幹部が公衆電話を使おうとしたところ、イスラエルが仕掛けた爆弾が爆発し、殺害された。30日にはガザで特殊部隊がワゴン車に仕掛けた爆弾が爆発、イスラム系活動家2人が殺害された。5月15日には戦車による砲撃でハマスのメンバー2名が殺害された。
 4月下旬に入ると暗殺作戦はついに自治政府の最大の軍事組織ファタハの活動家をも標的とするようになる。23日にはファタハの活動家4人がイスラエル軍によって暗殺される。30日にはラマラ中心部のビルに仕掛けられたイスラエル軍の爆弾が爆発し、パレスチナ武装民兵組織タンジームの活動家ら3名が殺害される。
 このような暗殺作戦はイスラエル治安機構が長期にわたって綿密な調査活動を行い、極めて計画的に実施しているものだ。とりわけ96年以降、パレスチナの治安機関が米CIAの監督下でイスラエルの治安機関と協力してハマスやイスラム聖戦機構の活動家を弾圧していた時代に手に入れたイスラム政治運動諸組織の情報や、パレスチナ治安機関の情報を徹底的に利用してテロ作戦に出てきているのだ。
 また最近ではパレスチナ人の中にスパイを養成し、軍事指導者の動向を探らせ、暗殺のための情報を収集させるなどの卑劣な作戦を展開し、パレスチナ人民の間に分断を持ち込もうとしている。

 米帝の介入

 イスラエル軍とパレスチナ武装勢力の間で壮絶な戦闘が展開されていた5月下旬、米帝は突然、両者間の交渉を仲介すると称して介入策動を開始した。
 5月21日、パウエル国務長官はイスラエル軍とパレスチナ側の激突の原因と打開策を盛り込んだ国際調査委員会(委員長・ミッチェル元米上院議員)の5月21日発表の報告書を支持し、「暴力の即時・無条件停止」を双方に求めるとともに、両者が交渉できる環境を整えるため、米政府が「建設的な役割」を果たす用意があることを明らかにした。
 ミッチェル報告書の勧告内容は、@まずこれまでの合意の尊重と暴力の停止、A次に交渉再開前の信頼醸成措置として、イスラエルによる入植地拡大の凍結などを求める、Bパレスチナ側に対しては、テロの停止とテロ行為予防、テロリストの処罰を要求するなどというものであった。
 この方針に基づいてパウエルは双方による交渉を促進するためバーンズ次期国務次官補(中東担当)を特別補佐官に任命したと発表した。これは前任の中東担当国務次官補のデニス・ロスの後任は置かないとした当初のブッシュ政権の立場を転換し、パレスチナ情勢に積極的に関与する立場を明らかにしたものである。
 これに対してシャロンは5月22日、「一方的な停戦措置」の実施を発表した。その内容は、イスラエル人の生命の危険がある場合以外は発砲しない、パレスチナの武装活動家の暗殺作戦を停止する、パレスチナ自治政府支配地域へのイスラエル軍の侵入は政治的判断にゆだねるなどというものであった。
 米帝が交渉への復帰を提案し、イスラエルがそれに即座に応じたのはなぜか。それは米帝が、3月初旬以来、2カ月半にわたるイスラエル軍の激しい軍事的攻撃によって自治政府とその軍事機構に重大な損害を強制し、必要とあればアラファト本人さえも標的とする姿勢を示すことで、自治政府を再び交渉に引き込み、全面的に屈服させることができると判断したからである。
 これに対して戦争情勢の激化に動揺し、イスラエルの暗殺作戦で身の危険を感じて恐怖していたアラファトはミッチェル報告書の勧告を受け入れる屈服的姿勢を示す。アラファトは6月1日に、テルアビブのナイトクラブ前の爆弾闘争でロシア系イスラエル人の若者ら21人が死亡、90人前後が負傷した事件を非難し、爆弾闘争の停止と即時無条件停戦を呼びかけた。3日には停戦をパレスチナの全軍事機構に命令した。また非合法武器の回収と迫撃砲攻撃の中止、マスコミを使った暴力扇動の中止なども認めた。

 ペテン的「停戦」合意

 米帝はこのようなアラファトの屈服的姿勢を見極めた上で、3月以来中止されていたイスラエル・パレスチナ・米の三者間の定期的な治安協議を再開し、CIA長官のジョージ・テネットを仲介活動に投入した。テネットは6日間の集中的治安協議を開催し、両者に仲介案を提示した。両者は仲介案の内容については相互に解釈の余地を残しながらこれを受け入れた。
 テネットの仲介で6月12日にはイスラエルと自治政府の間の停戦合意がなされ、停戦発効から1週間後に6週間の冷却期間を置き、その後に新たな交渉を開始する取り決めがなされた。これを受けて、アラファトはファタハに「停戦順守、武装闘争終結」声明を出させた。
 だが、パレスチナ人民の武装闘争を弾圧し、自治政府の全面的屈服を引き出そうとする米帝の策動は、自治政府の制動を排除したパレスチナ人民の不屈の武装闘争の継続と、そうした闘いを根こそぎせん滅しようとするイスラエルの強硬姿勢の前に破産を余儀なくされる。
 イスラエルは一方的停戦を宣言して以降も、パレスチナ側の攻撃があれば軍事的報復を行うことを治安問題閣議で決定し、「報復」と称する5月23日と6月9日のガザ自治区の戦車砲による攻撃や、6月23日のガザ南部のラファ難民キャンプやガザ中部のネツァリムの民家のブルドーザーによる破壊など、自治区への攻撃を停止しなかった。インティファーダの弾圧や暗殺攻撃もやめることはなかった。イスラエルの暗殺作戦による死者は停戦合意後も増え、6月下旬には30人に達した。
 結局イスラエルの目的は、停戦合意でアラファトら指導部を屈服させ、合意反対派を孤立させ集中的に攻撃してせん滅することであった。
 これに対してパレスチナ人民は、アラファトとファタハ中央委員会が「停戦合意を尊重しないことは祖国の最重要の利益に反する行為で法に反する」という恫喝をはねのけて断固として闘いを継続した。
 ハマス、イスラエル聖戦機構、ファタハ左派、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)などが停戦を拒否する立場を明らかにし、爆弾闘争や武装闘争、入植地攻撃を継続した。停戦合意に反対するパレスチナ人民のインティファーダも停戦後、数的には減少したが継続的に闘われた。このため、停戦は崩壊の危機に直面した。

 停戦合意の崩壊

 こうしたなかでシャロンは、パレスチナ人民の支持を得てしだいに勢力を拡大する合意反対派の武力弾圧と暗殺攻撃をさらにエスカレートさせた。
 7月1日には、イスラエル軍はハマスの活動家らの車を空爆し、3人を殺害した。7月4日にはイスラエルは安全保障閣議を開き、パレスチナ武装勢力にたいする暗殺政策の続行など軍事的強硬策を取ることを決定し、26人の暗殺リストと250人の逮捕リストを作成した。以後、イスラエルは停戦合意など完全に無視した攻撃に打って出る。
 9日と10日にはイスラエル軍は、エルサレム北の難民キャンプとラファでパレスチナ人の住宅計31軒を戦車とブルドーザーで破壊する攻撃を再開する。ラファでは、戦車とブルドーザーを先頭に突入してくるイスラエル軍に対し、ゲリラ部隊と自治政府の治安部隊が一体となって銃撃で反撃した。
 12日にはイスラエルの戦車が西岸のナブルスでパレスチナ人を砲撃し、17日には西岸の自治区ベツレヘムでイスラエル軍の攻撃ヘリが民家にミサイルを数発撃ち込み、ハマスの幹部らパレスチナ人4人を殺害、14人を負傷させた。この攻撃ではハマスの幹部の家族ももろともに虐殺されている。イスラエル軍は事前の周到な情報収集に基づいて攻撃しており、意識的にハマスの幹部を家族もろとも虐殺する非人間的作戦を実施したのだ。
 こうして停戦合意は1カ月もしないうちに崩壊し、再び全面戦争情勢に突入した。イスラエル軍は7月17日深夜から西岸に戦車や装甲車を大量に投入し、厳戒態勢を敷いた。動員規模は昨年9月末の衝突開始以来最大であり、自治区への大規模進攻の準備が整えられた。18日の緊急閣議では、ハマスなどの活動家の暗殺作戦継続が確認されるとともに、ベツレヘムと西岸北部のジェニン周辺で重点的にイスラエル軍が増強された。
 米国務省も「米政府はアラビア半島における米国の権益に対する差し迫ったテロ行為が計画されているとの徴候をつかんでいる」との警戒情報を出し、ペルシャ湾岸に駐留している全米軍を最高の警戒態勢に入らせた。 
 アラファトも「最高警戒態勢」を取ることを自治区内の全治安機関に指示した。まさに一触即発の事態に突入したのだ。
 情勢の緊迫化のなかで、ユダヤ人民間極右組織による襲撃事件も発生した。19日、ヘブロン近くでパレスチナ人の乗った乗用車が銃撃を受け、生後3カ月の乳児を含む3人が射殺され、4人が負傷する事件が起きたが、この事件の犯行声明を「道路安全委員会」を名乗るユダヤ人入植者の極右組織が出した。これはメイヤ・カハネが創設し、80年代、90年代に活動していたユダヤ人武装地下組織「カハ」につながる集団と見られている。
 21日、PFLPの軍事組織もイスラエル内での爆弾闘争に関連し、軍報を出し、イスラム政治運動勢力以外の政治組織も爆弾闘争を開始したことが明らかになった。

 自治政府の反動的制動

 だが、新たな大激突不可避という緊迫した情勢下で、またしても自治政府はパレスチナ人民の期待を裏切り、自己保身的後退を開始する。
 23日、治安、情報、警察の全組織がつくるパレスチナの最高治安会議は、「停戦を破り、政府の利益を損なう者には、厳しく対処し、だれであれ逮捕する」として、イスラエル軍への攻撃を続ける勢力を取り締まることを決定した。このため闘争継続派と治安部隊との衝突が各地で発生した。
 22日には、ガザ北部で武装したパレスチナ人が乗った車が自治政府の治安部隊の制止を振り切って検問を突破しようとして銃撃され、ファタハ左派の3人が負傷。23日にはハマスの活動家5人が逮捕された。同日、ハマスやファタハなどの支持者1000人ほど(大部分がハマス系の「人民抵抗運動」の支持者)が、ハマス活動家の逮捕に抗議してガザ市内のムーサ・アラファト治安情報局長宅に押し掛け、ハマス、ファタハの活動家20人と治安部隊との間で銃撃戦となった。
 米帝とイスラエルは、自治政府が延命のために屈服し、破産した停戦合意維持のためにパレスチナ人民の闘いに制動を加え始めたにもかかわらず、自治政府への攻撃とさらなる屈服要求をくり返した。
 27日にはイスラエル軍の戦車が西岸のラマラで自治政府の警察施設などを砲撃し、28日には、ガザのハン・ユニス難民キャンプ周辺で「武器工場」とみなしたビルをヘリにより攻撃した。30日には西岸地区で自治政府警察施設がロケット弾で攻撃された。
 30日には、西岸のファラでファタハの武装組織「アル・アクサ旅団」に属する6人のパレスチナ人が戦車砲の攻撃で殺害された。6人はイスラエルの暗殺リストに載せられていた人物であった。
 そして31日、イスラエル軍の攻撃はさらにエスカレートした。この日、イスラエル軍は西岸のナブルスでハマスのビルを攻撃し、ハマスの政治部門のメンバー2人と巻き添えの子ども2人を含む8人を殺害した。軍事部門以外のメンバーも暗殺対象とし、近くに子どもたちが遊んでいようともミサイルやロケット弾を撃ち込む悪逆非道なやり方に、パレスチナ全土で怒りが噴出し、さすがにパレスチナ自治政府も2日間の服喪を指示せざるをえなくなった。
 ナブルスの襲撃事件の後、ガザでは5万人のハマス支持のデモが行われ、ジェニン、ラマラ、ナブルスでも数千人のデモが行われた。緊迫した情勢下でパレスチナ人民は屈服的姿勢をとるアラファトの自治政府ではなく、闘う武装勢力を支持し、みずからもインティファーダを断固継続する闘いに決起している。
 予断を許さない厳しい情勢であるが、パレスチナ人民の闘うエネルギーはかつてないほどに充実しているし、この闘いの勝利の展望も次第につかみつつある。
 この闘いの帰趨は、パレスチナ人民が米帝・イスラエルに対して武装解放闘争としての民族解放闘争を非妥協的に闘うことのできる新たな前衛党を創設できるか否かにかかっている。
 すでにこの間の不屈の闘いのなかで、パレスチナ人民は真に闘う勢力がだれであるかを見極めつつある。パレスチナ人民は大衆的武装闘争としてのインティファーダと、ハマスやファタハ左派などによる武装闘争としての武装闘争の有機的結合を勝ち取るなかで必ずや新たな前衛的指導勢力を生み出し、そのもとに英雄的闘いを貫徹していくであろう。
 問われているのは、帝国主義諸国におけるプロレタリアート・人民の連帯のための闘いだ。米帝・イスラエルの中東侵略戦争と真に対峙しうる闘いを帝国主義諸国において作り出すことが闘うパレスチナ人民と唯一連帯する道である。
 帝国主義間争闘戦勝利の観点から打ち出されている米帝の新たな中東侵略戦争政策と真っ向から対決する闘いを、日帝の対抗的中東侵略政策粉砕の闘いと一体のものとして展開することが日本のプロレタリアート・人民にとって緊急に要求されている。パレスチナ人民の苦闘に学び、断固たる連帯の闘いに決起しよう。
  ●特集/激動するパレスチナ情勢 特集第2章「完全に破産した米帝による中東「和平」策動」  につづく