SANRIZUKA 2010/12/15(No813 p02)
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週刊『三里塚』(S813号1面1)(2010/12/15)
11・26行訴農地法裁判
明け渡し請求、根拠ふっとぶ
NAAが「市東さんは占有せず」と明言
第3誘導路工事阻止 12・19緊急現地闘争に立て
空港会社と県追撃を
市東裁判勝利への正念場だ
釣魚台略奪をめぐる日中間の対立につづいて、朝鮮半島での米日韓による侵略戦争策動が火を噴いた。まさに「朝鮮半島有事には米軍の戦略的空輸基地に変貌する成田」という危機が現実化しようとしている。反戦・反権力の砦・三里塚で反対同盟は、使命を自覚しつつ、現地における第3誘導路工事攻撃との闘い及び裁判闘争を闘い抜いている。11月26日の市東さん行政訴訟・農地法裁判では、空港会社を青ざめさせる大きな勝利がかちとられた。空港会社は明け渡しを求めている農地が実際には占有されていない。つまり、明け渡し請求の根拠喪失を認めざるをえなくなり、提訴の根幹がゆらぐ窮地に追いつめられた。12・19三里塚緊急現地闘争に立とう。
反対同盟と支援の労農学は11月26日、千葉地裁601号法廷で行政訴訟と農地法裁判を闘った。まず、午前10時30分からの行政訴訟で弁護団は、南台41−9の畑が市東さんの契約地ではなかったことを明らかにし、暫定滑走路の危険性、違法性を明らかにして、千葉県に突きつけた。
これに対して千葉県の代理人は、「解約許可決定は、あくまで農地法20条にもとづいて許可したに過ぎず、空港会社の行為が農地法・憲法違反かどうかについては許可決定とは無関係」という態度を取り続けた。
しかし、対象地の位置特定を調べることなく、申請が法に違反していないかどうか検討もせずに、どうして許可を与えることができるのか。しかも、明け渡しを求める農地の位置特定が間違っている事実については、2006年7月の成田市農業委員会の段階から市東孝雄さん側は、声を大にして訴えてきた。千葉県農業会議に対しても同様だ。「見落とした」などという問題ではない。
にもかかわらず、農業会議と知事は、形式審理だけで空港会社に解約許可を下したのだ。こんな行政処分がまかり通ったら、農民の権利はどのようにして守られるのか。さらに証言、証拠を積み上げて、千葉県の逃亡を許さないことを反対同盟と弁護団は決意した。
(写真 空港会社側代理人を追いつめた勝利感をもって記者会見・報告会を行った【11月26日 千葉県弁護士会館】)
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週刊『三里塚』(S813号1面2)(2010/12/15)
「提訴取り下げろ」
弁護団の追及に立ち往生
農地法裁判では、前回弁論(9月10日)で多見谷寿郎裁判長が「南台41−9」問題について、「重要だ」という認識を示した。
南台41−9について空港会社は「市東さんの賃借地だから明け渡せ」と言い、市東さんは「祖父の代から一度も耕したことがない」と、主張が真っ向から対立する土地だ。同土地が市東さんの契約地でなければ、「明け渡せ」という賃借地の位置特定が間違っているという、提訴の根幹にかかわる重大問題になる。
多見谷裁判長は過去の航空写真(右)を見て「耕作していた状況はうかがえませんね」と述べ、今回の裁判でまさに41-9問題が焦点となった。
まず市東さん側は、南台41−9に関わる藤崎氏や石橋氏との交渉記録をすべて提出するよう、空港会社に迫った。
1987年までは旧地主の藤崎氏も空港公団(当時)も石橋政次氏の耕作地だと認識していた。それがなぜ1987年12月28日作成の「藤崎メモ」から「市東さんの耕作地だ」と事実をねじ曲げたのか。空港会社の隠し持つ証拠(交渉記録)が明らかになれば、はっきりするはずだ。
弁護団の追及に押されるように、裁判長は、南台41―9の土地について、空港会社の代理人に「現状では占有しているのか」と見解をただした。すると空港会社の代理人は、「今、今ですか。現在は占有していないが、賃借地である」と言い張った。
その言葉に市東さんが立ち上がり、「うちはじいさんの時から90年間使っていない」と声を荒げた。弁護団も「2008年の訴状では占有していると書いてある。占有していないというなら、それはいつからなのか。この食い違いは一体何だ」と迫った。
空港会社は3年前、その土地を市東さんが占有すなわち耕しているから「明け渡せ」と、訴訟を起こしたのだ。傍聴席からも「占有してないっていうなら、何のために裁判やってるんだ」「提訴を取り下げろ!」と次々声が飛び交った。
多見谷裁判長も「占有の事実がないなら、(提訴の)要件事実を欠いていますね」と言わざるを得なかった。そして空港会社に対し、次回までに「占有」についての見解を書面で明らかにするよう申し渡した。空港会社の「言い訳」「すり抜け」を許さず、徹底的に追及しよう。現地では第3誘導路工事がエスカレートしている。反対同盟が呼びかける12・19緊急現地闘争(右に要項)に立ち反撃しよう。
(写真 下の部分が「41−9」。当時から耕作していないことは明らかだ【1989年航空写真】)
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週刊『三里塚』(S813号1面3)(2010/12/15)
成田を朝鮮侵略の基地にするな
12・3帝国主義打倒の闘いを
反戦共同440人が渋谷デモ
日米帝国主義の朝鮮侵略戦争が切迫している。11月28日からの米韓合同演習に続き、12月3日から日米合同演習が強行されている。この朝鮮侵略戦争前夜情勢に対し12・3反戦共同に結集した440人の青年労働者の渋谷デモは、排外主義・国家主義の台頭に抗して渋谷の街を席巻した。集会において三里塚現闘の同志は、成田駅頭での反戦アピールに地元青年・高校生が強く共感したことを報告し「軍事空港反対の三里塚闘争の真価を発揮する時」と訴えた。「絶対反対・農地死守・実力闘争」を闘う三里塚闘争は、「帝国主義を打倒することなくして人民は生きることはできない」という労働者人民の闘いの指針だ。
(写真 「朝鮮侵略戦争阻止!」を叫び夜の渋谷をデモする反戦共同行動委のデモ隊【12月3日】)
「新成長戦略」と対決 アジア勢力圏化許さぬ
大恐慌が激化し危機と没落を深める米帝オバマは、北朝鮮スターリン主義の戦争瀬戸際政策=反プロレタリア的な軍事行動をも口実に、新たなアジア支配をめざして戦争に打って出ようとしている。これは韓国・民主労総など闘う朝鮮人民への侵略そのものだ。絶対に阻止しよう。その決定的かぎは、日本労働者の闘いである。米帝の戦争政策・アジア政策は日帝に対する激しい争闘戦に貫かれている。それは日帝の対米対抗的な独自政策と東アジア共同体建設・勢力圏の形成をたたきつぶすものとしてある。日帝は、帝国主義の最弱の環として体制存続の危機に入った。菅政権は労働者人民に一切の犠牲を転嫁する「民営化・労組破壊、大失業」の階級戦争と朝鮮侵略戦争参戦攻撃を激化させているのだ。
戦争をしなければ生き延びられない帝国主義を打倒する労働者人民の闘いが、今こそ求められている。「戦争か、革命か」、帝国主義の戦争にプロレタリ革命を対置しよう。
三里塚闘争は、日帝のアジア侵略と真っ向から対決する反戦闘争の不抜の拠点である。成田空港は朝鮮侵略戦争発動時の空輸拠点だ。大型輸送機が離着陸するためには4000b滑走路を必要とするが、これは横田・嘉手納・成田にしかない。現代戦においては、兵站戦が勝敗を決する。兵站部門は民間を総動員させることを前提にしている。米軍の「5027」などの軍事作戦計画では、兵員の宿泊・糧食・移動、医療施設、貨物輸送、航空機の整備などの総動員計画が練られ、「警備体制」「対空ミサイルの設置場所」の調査まで行われている。
これを報じたロサンゼルスタイムズ紙(94年6月12日付け)は「成田、千歳、新潟空港を空輸基地として使用」と成田の軍事使用を特定した。最近公表されたペリー元国防長官の証言でも、94年北朝鮮の核開発に対し米帝は「外科的空爆」の計画と日本の民間空港の使用を具体的に検討し、日本政府にも協力を要請したことを明らかにした。(日経12・2)
有事体制構築に動労千葉と三里塚反対同盟は絶対反対で闘いぬいた。三里塚闘争は、自衛隊の成田空港使用を許さない闘いを貫徹している。
44年の抵抗闘争
さらに三里塚は、日帝のアジア侵略=東アジア共同体を阻んでいる。菅民主党・連合政権「新成長戦略」は日帝のアジア侵略と独自の勢力圏の構築をめざしたものである。新成長戦略は航空インフラ整備と規制改革の重点施策として羽田の24時間国際拠点空港化、オープンスカイ(航空自由化)を掲げている。これは、羽田空港を基軸とする羽田・成田の一体的運用によるアジア侵略のためのインフラ再構築計画だ。三里塚闘争は成田空港をアジアハブから陥落させた。日帝の空港建設計画をズダズタに引き裂き、帝国主義の基幹産業である航空・航空機産業の立ち遅れを決定的にさせている。
また日帝・菅は、TPPに参加することで新成長戦略による日帝の存続を図ろうとしている。TPPは侵略と農業破壊の攻撃であり、労働者に対する一大攻撃だ。労働者・農民を犠牲にしてブルジョアジーは生き延びようとしているのである。断じて許すな。
そして菅はTPP攻撃の一環として、農地法の改悪を言い出した。民営化を唱える一方で、FTAで農業破壊を行おうとした安倍内閣のアジアゲートウェイ構想と同じ攻撃だ。「国策」と称する帝国主義の農地強奪に対して、44年間不屈に闘う三里塚農民の闘いを先頭に、朝鮮侵略戦争阻止・TPP粉砕・戦争と大失業の菅政権打倒へ前進しよう。
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週刊『三里塚』(S813号1面4)(2010/12/15)
動労千葉スト決起
検修業務の外注化阻止 3人が新たに加入
動労千葉は12月3〜4日、「12・4ダイ改阻止! 検修外注化阻止」を掲げて検修職場を対象とするストに決起した。このストを契機に幕張支部で2人、京葉支部で青年労働者1人が新たに動労千葉に加入した。JR当局の組織破壊攻撃を跳ね返し、うち破ってかちとった勝利だ。
3日午前、スト拠点の幕張車両センターには動労千葉他支部の組合員や多くの支援が駆けつけ「検修外注化阻止! 動労千葉とともに闘おう!」とシュプレヒコールを繰り返した。
組合員と支援は午後2時から、意気高く「スト貫徹! 動労千葉総決起集会」を開催し、230人が集まった。
あいさつに立った田中委員長は「当該支部の仲間のがんばりで今日、3人の仲間が動労千葉に加入してくれた。当局は大打撃を受けている。3人の仲間の『なんとしても外注化を止めたい』という熱い気持ちに応えたい。2月の京葉車両センター構内運転業務の外注化を阻止し、もう一度、検修全面外注化を止めよう」と檄を発した。
加入した3人の新組合員があいさつに立つと、会場全体からひときわ大きな拍手が上がった。集会には三里塚反対同盟の北原鉱治事務局長も駆けつけ、熱い連帯あいさつを送った。動労千葉は12・3〜4ストで、検修全面外注化阻止へ決定的な突破口を開いた。
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週刊『三里塚』(S813号1面5)(2010/12/15)
ピンスポット
軍事基地化阻止を訴え成田街宣
「一夜で軍事空港」
全学連行動隊が奮闘
12月1日、三里塚闘争支援連絡会議は恒例の京成成田駅頭での街宣を実施した。今回は真っ向から「成田を軍事基地にしてはならない!」と訴えた。
ビラでは、1994年6月12日付け「ロサンゼルスタイムズ」紙の記事を載せ、「朝鮮半島有事には成田空港、千歳空港、新潟空港が米軍の空輸基地に位置付けられている」との報道内容を紹介した。さらに2001年2月に成田空港に飛来した自衛隊機C130機の写真を掲載、民間空港が一瞬にして軍事空港に切り替わる事実をアピールした。
今、まさに朝鮮半島有事情勢が到来している。街宣では支援連の仲間が交代で「50万人の米兵が本土から日本列島にやってくる」「その降り立つ空港は成田だ」と訴えると、600枚用意したビラがみるみる無くなっていった。
広島大学から派遣されている全学連行動隊も学生の反戦闘争の前進を紹介し、新鮮な感動を巻き起こした。
(写真 12月1日、京成成田駅前でまいた「成田を軍事基地にするな」のビラ)
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週刊『三里塚』(S813号1面6)(2010/12/15)
切り回し道路建設を許すな
市東孝雄さん宅南側で第3誘導路工事のための切り回し道路工事が強行されている。畑にむかう道路が封鎖され営農がさらに困難になる。12・19緊急現地闘争で反撃しよう。(写真はフェンス支柱工事 12月2日)
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週刊『三里塚』(S813号1面7)(2010/12/15)
団結街道
日本経済新聞の最終面に「私の履歴書」というコーナーがあり、12月1日から、米クリントン政権の時の国防長官・ウィリアム・ペリーが半生をつづっている。その中で、1994年春のいわゆる朝鮮危機での作戦計画について内情を暴露している▼注目すべき点は朝鮮で開戦の場合には40万人の米軍増派を計画していたことを語っていることだ(12月2日付)。反対同盟が「朝鮮半島で戦争が起きれば50万人の米軍が派遣される」と指摘してきた内容を基本的に裏付けている▼さらに、それらは「順次、日本を経由して朝鮮半島に送り込む計画だった」「その後方支援のために在日米軍基地の使用が必要」と話し、「朝鮮半島情勢は今、かつてないほど緊張している。オバマ政権は、同盟国・日本の全面的な支援を必要とするだろう」と94年時の作戦計画が現在も生きていることを証言している▼「支援」の中身については「在日米軍基地の自由な使用」をあげる一方、日経新聞の独自取材で「民間の港湾、空港の使用要請」が行われたことが報道されている。細川政権は空港の使用について「制約がある」と説明した▼しかし兵員の輸送は民間機が行う。同年6月12日付「ロサンゼルスタイムズ」も「民間パイロットが熟知しているから成田使用を要求する意向だ」と報じている。米兵の空輸は成田空港の強制使用なしには成り立たない。「朝鮮半島有事に50万の米兵が成田に飛来する」は事実だった。
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週刊『三里塚』(S813号1面8)(2010/12/15)
闘いの言葉
10・8羽田闘争で北小路敏さんが機動隊の装甲車を占拠して闘ったと聞いて、彼の演説は実践による説得力を持つものだ、と納得した。
11月26日 反対同盟萩原進事務局次長
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週刊『三里塚』(S813号1面9)(2010/12/15)
日程 12・19緊急三里塚現地闘争、裁判闘争スケジュール
第3誘導路工事阻止
12・19緊急現地闘争
●12月19日(日)午後1時30分
●成田市天神峰 市東孝雄さん宅南側開拓道路
《主催》 三里塚芝山連合空港反対同盟 三里塚闘争支援連絡会議
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【三里塚闘争裁判】
★1月24日(月)午前10時30分 市東さん耕作権裁判 千葉地裁
★2月4日(金)午前11時 現闘本部裁判控訴審 東京高裁
★2月22日(火)午前10時30分 市東さん行政訴訟 午前11時10分 農地法裁判 千葉地裁
★3月1日(火)午前11時 団結街道裁判 千葉地裁
★3月10日(木)午前10時30分 鈴木さん一坪裁判 千葉地裁
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週刊『三里塚』(S813号2面1)(2010/12/15)
一体で勢力圏の拠点造りへ
羽田拡張政策と成田空港
10月20日、羽田空港の第4滑走路が開業し成田空港の地盤沈下が言われている。しかし、菅政権の「新成長戦略」に盛り込まれているように、狙いは成田と羽田を一体にしたアジア侵略の拠点化造りだ。
新成長戦略はアジアゲ
ートウェイ構想と同じ
10月20日に羽田第4滑走路の供用が始まり、10月30日から国際線の運航が本格的に始まると、マスコミは一斉に羽田空港の利便性をキャンペーンし始めた。いわく「ハブ(拠点)機能強化、国際線17都市へ」「ライバルは韓国・仁川」、「都心に近く新駅もオープン」「都心で残業後出発、現地で朝会議も」「金曜の夜出発しハワイで遊んで月曜の朝帰り、即出社」
また、「乗客以外の観光客が多数ターミナルを訪れ、海外航空会社からも乗り入れ希望が多い」(11月12日 東京新聞)等々。さらに羽田では国際線貨物用の新施設が11月21日に完成し、貨物面での施設充実も明らかにされた。
沈没の危機感に駆られる成田空港では、空港会社はもちろん、それ以上に地元自治体や経済団体、利権団体が沈没間際の船のネズミよろしく、焦りにかられている。
その結果、「羽田第4滑走路開業前に何としても打ち出す」として、住民同意の手続きも省略して「飛行回数の年間30万回化」合意を強行した。さらに千葉県経営者協会は森田健作千葉県知事に「成田空港の飛行時間規制の緩和」を申し入れ、24時間空港化まで言い出している。
三里塚闘争44年の不屈の闘いが、成田空港建設に決定的な打撃を与え、日帝の空港政策をズタズタにした結果、前国土交通省・前原誠司は、「羽田のハブ空港化=国際線化」を決断せざるをえなかった。三里塚闘争の重大な勝利である。一定の範囲で成田の地盤沈下は避けられない。
しかしこれは問題の半面だ。今回の攻撃の本質は羽田対成田の客の奪い合いにあるのではなく、羽田と成田を一体にしたアジア勢力圏・アジア侵略の拠点にむけた空港インフラ造りの攻撃にある、という点をはっきりさせよう。
(写真 羽田空港の第4滑走路開業・国際線化をキャンペーンするマスコミ【10月21日 毎日新聞】)
新成長戦略はアジアゲートウェイー構想と同じ
この点で2007年に出された安倍内閣のアジアゲートウェイ構想を想起すべきだ。当時安倍内閣は「航空自由化と成田の拡充、国内農業の切り捨て」を打ち出した。
すなわち@アジア市場でのアメリカや中国への敗勢を巻き返すためのFTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)推進とそのための航空自由化と空路の充実=巨大空港整備、A列島丸ごと自由化・規制緩和、B「攻めの農業」なる国内農業破壊が骨子だった。
同構想では、「航空の分野が構想実現の最大の焦点」「航空は、人、モノ、カネのすべての交流の基礎となる重要なインフラ」「産業競争力の強化といった国益のために、スピード感をもって航空自由化など政策の大きな転換を図る」と述べていた。
当時社長に就任した森中小三郎は「成田空港がアジアゲートウェイ構想の中心だ」とし「(空港反対農民には)空港に反対してもしょうがないと思ってもらえるようにしたい」(NHK)などと傲慢にも語っていた。
問題は菅内閣の「新成長戦略」だ。民営化・労組破壊、首切りの新自由主義政策とともに日帝のアジア侵略と独自の勢力圏の構築をめざした空港・航空政策を位置づけている。同戦略は航空インフラ整備と規制改革の重点施策として羽田の24時間国際拠点空港化、ハブ空港化、オープンスカイ(航空自由化)を掲げている。
さらに、総合開発研究機構レポートでは東アジア共同体を構築するために「複数の都市を循環する形でネットワークアジア=『ワンスカイ』を実現すべき」とまで提案している。
つまり、航空分野に関しては、菅内閣は完全に安倍のアジアゲートウェイ構想を引き継いでいる。大恐慌の深まりの中で、日帝が延命しようとすれば、東アジア共同体構想による勢力圏化造りにしがみつくしかなく、そのためには、アジアゲートウェイ構想を内容とする侵略政策を夢想するしかないのだ。
実際、韓国・仁川空港に対抗するといっても羽田だけでは狭すぎ、今以上の拡張は非現実的だ。日帝・国交省は、羽田・成田一体化にむけた交通手段の整備など策動を開始している。
そしてTPP(環太平洋パートナーシップ協定)への参加攻撃だ。われわれは、アジア侵略・勢力圏化のための成田空港拡大攻撃と真っ向から対決し、日帝の空港建設計画をズダズタに引き裂こう。労働者・農民に犠牲を転嫁するTPPを粉砕し、日帝・菅政権打倒へ突き進もう。
(写真 アジア勢力圏造りを目ざす「新成長戦略」の中で航空インフラの拡充を打ち出した菅首相)
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週刊『三里塚』(S813号2面2)(2010/12/15)
北小路敏さんを追悼する
11・28お別れ会 萩原進さんの発言
革命家の魂に触れ 力ある演説に敬服
革命的共産主義者同盟の副議長で、一貫して革共同を指導してきた北小路敏同志が敗血症のため11月13日逝去した。16日に通夜、17日に告別式が催され、28日、東京・杉並で故北小路敏同志のお別れの会が開かれた。延べ1000人を超える同志、友人、知人が弔問に訪れ偉大な革命家の業績をしのんだ。反対同盟から萩原進事務局次長が参加して追悼の言葉を述べ、功績を讃えた。以下全文
* *
私が北小路敏さんを初めて見たのは、1970年前後の革共同集会だったかと思います。反対同盟の一員として集会に参加し、その演説を初めて聞いたわけですが、時代の危機を的確にとらえ、闘いの方針を鮮明に示す、実に明快でわかりやすいお話でした。いわゆるアジ演説ではない、訴える力のある語り口に魅了されたことを鮮明に覚えております。
私が革共同の闘いに直接触れたのは1967年11月12日の佐藤首相訪米阻止闘争でした。当時、日本共産党のいわゆる反トロツキストキャンペーンで「三派全学連は権力から金をもらっている」「権力と闘うふりをしながら実は裏で権力とつながっている集団だ」「そんな集団と三里塚共闘すべきではない」と宣伝していた。この真偽を確かめようと、青年行動隊の4人といっしょに千葉県反戦青年委員会の隊列に入れてもらい、11・12闘争に参加し、一瞬にして共産党のデマを見抜いたわけですが、この11・12に先立つあの有名な10・8羽田闘争で北小路敏さんがヘルメットをかぶり、機動隊の装甲車を占拠して闘ったということを聞いて、北小路さんの演説はまさに、実践に裏付けられている、と納得したわけです。
*
三里塚現地で直接話をする機会はそれほど多くはありませんでしたが、何度か、私の家にも新年のあいさつに来ていただき、杯を酌み交わしたことがありました。野太く響く声で、何度も激励を受けた思い出を忘れることはできません。
その中で、忘れることができないのは、1983年の3・8分裂を前後する脱落派との攻防における北小路さんの活躍でした。実は後に知ったわけですが、成田用水を推進する連中の「用水賛成・空港反対」「独まんじゅうも毒と知って食えば毒じゃない」など闘いの原則を踏みにじる屁理屈に対して、何度か出された革共同の声明が北小路さんの手になるものと聞いて、脱落派や用水推進派のたくらみを、闘いの最も深い核心の中から、見事に暴露し切り裂いて見せた、その革命家魂と言葉の力に敬服したものです。
*
北小路さんは反対同盟の中では故市東東市さんと信頼関係が深く、1984年5月の家の新築の時には、激励にかけつけ、長靴に履き替えて、材料となる材木の皮をはぐ作業を手伝っていたのを見て、北小路さんの庶民性を感じるとともに、人間性も垣間見た思いです。
東市さんの入院時には、病院までかけつけて勇気づけ、すでに会話もかなわなかった東市さんの手を握って三里塚闘争の勝利を誓ったそうです。
国家権力をむこうに回した44年間の抵抗闘争は、勝利の展望を握りしめるところまで前進しました。しかも釣魚台問題、朝鮮半島での侵略戦争情勢を見たときに、反戦・反権力の砦・三里塚は責任の大きさに身の震える思いです。
北小路さん! 反対同盟は必ずや成田空港を阻止し、廃港のその日まで闘い抜くことを誓って追悼の言葉とします。
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週刊『三里塚』(S813号2面3)(2010/12/15)
闘えば必ず勝つ (6)
闘魂貫いた鈴木幸司さんの生涯
用水攻撃に仁王立ち
誰より動労千葉に熱い思い
日帝・運輸省、空港公団(いずれも当時)は、1978年5月の成田空港暫定開港の既成事実をもって、2期工事着工への圧力を強めた。1979年6月のいわゆる島寛征「話し合い」策動(メモ参照)はその表れであったが、これと軌を一にして成田用水事業の菱田地区への拡大攻撃が始まった。
用水推進派のボス・小川総一郎は空港公団と一体となって、自分の影響力の及ぶ範囲の農家を囲い込んで、1980年12月23日、成田用水菱田工区の設立を強行した。ここから成田用水との闘いが全面化していく。 用水推進派に対して、反対同盟は全力で対決していくが、鈴木幸司さんは当該の農家としてその先頭に立った。80年10・21国際反戦デー集会での発言。「今、成田用水というものが出てきている。それは明らかに反対同盟を分断する懐柔策だ。成田空港計画がなかったら、成田用水の菱田地区への拡大というものはなかった。だれがみても空港関連事業。空港反対の大義を裏切るもので絶対に許せない」と声を大にして弾劾した。
一方、用水推進派は、反対同盟事務局次長であった石井英祐を先兵にして、反対同盟への分断策
動を強めていった。その中で、動揺を深めていったのが、その後一坪再共有化運動を提唱し、83年3・8分裂をもたらした青年行動隊だった。
1981年になると7月7日、当時の首相・鈴木善幸と運輸大臣・塩川正十郎が会談し、鈴木みずから「空港見返り事業のなかでも成田用水は重要」と発言して、内閣レベルでの全体重をかけた攻撃として成田用水事業に乗り出してきた。
これらは82年2月に顕在化する当時副委員長だった石橋政次への切り崩し策動とも連動していた。
まさに、島「話し合い」、石橋切り崩し策動と一体となった第2反対同盟でっち上げ策動として用水推進攻撃が菱田地区に対して、行われたのだった。
これに対して立ちはだかったのが鈴木幸司さんだ。石橋の裏切りに対しては、82年2月12日、「石橋、内田両氏が解任されたからと言ってすべてが解決したわけではない。長い脱落の過程があったはず。その根を絶たなければならない。闘い17年。数多くの犠牲者。尊い命をなくした人。そういう人たちのことを何と思っているのか。苦闘を喜びに。闘いの本質を失わぬ限り必ず勝つ」と後の「闘えば必ず勝つ」という信念を偲ばせる激しい闘いの言葉をぶつけた。
さらに、厳しさを増す成田用水攻防について、82年8・1革共同集会では「いま、勝敗を決する時をむかえている。成田用水攻撃という形をとった2期攻撃、反対同盟破壊攻撃を全人民の怒りをもって粉砕しなければならない。戸村委員長は『闘っていることが勝利していることだ』と言った。三里塚が勝つか負けるかは成田用水を許すかどうかにかかっている。かつてない怒りをもって決起しよう」と檄を発した。
ボスである小川総一郎が力をふるう中郷部落の中で、この時点で成田用水反対を言うものはすでに、鈴木さん一軒になっていた。
陰に陽に鈴木さんに圧力がかかった。小川総一郎を先頭に十数人が夜半、家におしかけることもあったという。しかし、戦争経験、抑留経験、天皇制への怒りなどに発する三里塚闘争への信念が、その圧力を跳ね返す力となっていった。
さらに、全国の労農学との連帯・きずなが鈴木さんの何よりの力となっていた。1977年から1981年にかけて、鈴木幸司さんの闘いの真骨頂を示したものこそ、動労千葉との連帯闘争だった。
死も恐れぬ決意
すでに1977年の時点で、鈴木さんは動労千葉との連帯を次のように語っていた。「動労千葉の闘いというのは本当に順法闘争になったら運転手個人の闘いになる。運転手がいかに闘っていくか。乗客が石を投げたりしてきたら、どうやって守るか。そのためには反対同盟と動労千葉が生死をともにする覚悟でやらなければならない。闘争の始めの頃、空港を阻止する特効薬がないかと、仲間と考えたが、それは闘う人民の数と質だ」(77年9・22関西集会)
また1978年8月11日には次のように闘争哲学を語っている。「闘いというものは苦しい。しかし、闘いというものは、この苦しみを乗り越えなければならない。やはり闘いは生と死です。生あるか死あるかです。このきびしい、しかしそれを乗り越えたものが勝利する。現在闘っている全人民が本当に連帯して闘う同志として死をも恐れない決意をもたなければ勝利はない!」
80年7月5日には次のように発言した。「私は非常な怒りを持って、ここに立っている。動労本部のやろうとしていることは三里塚への敵対でもある。われわれの闘いは日本人民の先頭に立つ闘いとして、資本の奴隷にある立場から立ち上がろうではないか。闘えば闘うほど、勝利の展望は開ける」と。
いよいよ反対同盟は1984年、鈴木さんを先頭にして成田用水工事そのものと激突する実力阻止の闘いに入っていく。(つづく)
(写真 成田用水攻撃をはね返す武器となった自主基盤整備事業【1982年12月4日】)
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メモ 1979年に大平内閣の加藤紘一官房副長官と反対同盟の事務局次長だった青年行動隊の島寛征らとが秘密交渉。同盟を条件派に変質させようと4月19日に覚え書きを交わす所までいったが6月15日に暴露。粉砕された。
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週刊『三里塚』(S813号2面4)(2010/12/15)
北総の空の下で
法廷ドラマ
密室裁判を粉砕へ
11月26日、今年最後の市東さんの農地裁判がありました。振り返れば、日常の一部になるほど多くの裁判を闘った1年でした。
裁判員裁判のためとはいえ、改装工事で傍聴席が増えてほぼ全員の傍聴が可能になったため、現闘も法廷闘争に直接参加できるようになりました。
弁護団が連携して各々違った角度から弁論を展開したり、裁判長の失言を見逃さず直ちに追及したり、さながら法廷ドラマを見ているような場面では、傍聴席も一体になって声を上げました。
対する空港会社や行政の代理人は、だんまりを決め込んで裁判長の救済を待つのみ。それでもじわじわと追い詰められているのが素人目にも明らかです。 26日の市東さんの農地裁判で、空港会社は耕作地の特定を誤って提訴するというありえない失態を誤魔化そうとして、身動きできなくなっています。
鈴木さんの一坪裁判では、弁論を重ねるうちに県が使用目的とした事業が破産して、土地を取り上げる前提が崩れ去りました!
現闘本部裁判では、法廷闘争と運動の広がりが一体となってこそ裁判を動かす力になることを痛感しました。
検察が隠し持つ証拠や証人を法廷に引きずり出すためには、法廷という密室を衆人環視の場に作り変える力が必要なのです。沖縄と三里塚を闘った星野文昭さんの再審を勝ち取る闘いも全く同じです。三里塚と星野さんの闘いでつかんだ手ごたえを、来年さらに大きく!
北里一枝
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週刊『三里塚』(S813号2面5)(2010/12/15)
三里塚営農だより
萩原進さん宅
鍋料理が美味しい季節になりました。萩原さんの食卓にも野菜たっぷりの大鍋が家族と援農の人達を迎え、冷えた身体を芯から暖めてくれます。 その主役の白菜ですが、天候不順で作付けが遅れた事と気温が一気に下がった影響で、平年なら11月中頃に出荷出来ているものが、なかなか結球せずに農家をヤキモキさせています。
正月野菜のケースにギリギリ間に合うかな〜?と、白菜を植えた畑を見回しながら、進さんがつぶやいています。その他のキャベツ、ブロッコリーも生育が遅れ2月中頃からの収穫となりそうです。
この天候不順の中、頑張ってくれたのが長ネギと葉物類でした。ネギは1本100円前後の高値(品薄)の時期から途切れることなくケースに入り、葉物は量は多くはないものの、オレンジ色のコンテナに緑の葉物が映えて、野菜がより一層美味しく見えます。
ただ今、年明けの端境期に向け、春出荷用の大根の蒔き付けと保温ビニールかけに大忙しです。10月全国集会が行われた畑には、その大根と4種類の葉物が植えられ、来年の収穫に向かい順調に育っています。
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週刊『三里塚』(S813号2面6)(2010/12/15)
反戦闘争の最高舞台
全学連行動隊 広島大・H
大恐慌がますます深化し、米日帝が朝鮮侵略戦争へと突き進む中、三里塚闘争の持つ位置はますます重要になっている。 そもそも空港建設はベトナム戦争のための米軍のチャーター機が羽田の50%を占め、代替空港が要る、という軍事的な必要性から出発した。
そして、日米安保体制下の地位協定による米軍管制空域「ブルー14」に支障のない土地として選ばれたのが三里塚だった。
三里塚闘争は、軍事空港反対を掲げ、沖縄と連帯し安保を粉砕する闘いとして44年にわたって闘われ、空港の完成を阻んできた反戦の砦だ。
さらに、戦争を阻止し革命に転化する決定的武器を手にしているのが三里塚闘争だ。それは、新自由主義に勝ち抜いた動労千葉と反対同盟を基軸とする労農連帯と国際連帯の地平だ。
大恐慌情勢の中、農業・農民が切り捨てられることと、労働者が食えないことの根は同じであることが、ますますはっきりしてくるなかで、帝国主義は分断に必死だ。
TPPは、資本による、労働者、農民の分断であり、被抑圧諸国人民との分断であり、帝国主義国家間の労働者の分断だ。今こそ階級的団結の力で資本主義を打倒する時だ。
11月労働者集会で示された労農同盟と国際的団結の力をさらに拡大しよう。
全学連は「戦争か革命か」の歴史選択をかけ、12月反戦闘争から2011年決戦に立つ。
辺野古新基地建設阻止の「力対力」の激突段階に突入した沖縄、そして第3誘導路建設、現闘本部破壊、市東さんの農地取り上げをめぐる決戦に突入している三里塚をどうするのか。
敵が恐れているのは、支配の鎖を引きちぎって青年・学生が反戦政治闘争に決起することだ。その最高の舞台が三里塚闘争だ。ともに闘おう!
同時に全国の学生に援農闘争への決起を訴えたい。5月、市東さんが不当逮捕されている時に植えられたサツマイモは、分けつするはずのところが弾圧への怒りで団結したのか、ひっついてしまい大きすぎて出荷できないものが多数という状況になった。
同じ時期に植えられた分けつネギも例年よりも大きく育っている。耕しつつ闘う反対同盟の闘魂に触れよう。
何よりも援農で汗を流した後のメシが最高だ。全力で反対同盟を支えよう。
(写真 市東さん宅でのサツマイモ掘り作業【11月30日】)
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週刊『三里塚』(S813号2面7)(2010/12/15)
三芝百景 三里塚現地日誌 2010
11月24日(水)〜12月7日(火)
●成田市の小泉一成市長は、騒音下住民の怒りをなだめる慰撫政策として住民との協議の場を12月に立ち上げる方針を発表した。 (24日)
●北小路同志お別れ会で萩原事務局次長が追悼の発言
東京・杉並区で故北小路敏同志のお別れ会が開かれた。反対同盟から萩原進事務局次長が参加して、追悼の言葉を述べ、故人の三里塚闘争勝利への貢献を讃え、冥福を祈った。(28日=写真 別掲)
●日本航空の客室乗務員で作る「日本航空キャビンクルーユニオン」は、整理解雇方針の撤回を求め、12月24日、25日にストライキを行う方針を決めた。(28日)
●菅内閣は、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)への参加を決めるため、「食と農林漁業の再生推進本部」なるものを立ち上げ、初会合を開いた。「農業競争力強化のための基本方針」を来年6月に策定する、と決めた。農民の怒りをごまかすためのペテン組織のデッチ上げだ。(30日)
●東京地方裁判所が、1万6000人の人員削減などを内容とする日本航空の更生計画案を認可した。(30日)
●「成田空港を軍事基地にしてはならない」と街宣
三里塚闘争支援連絡会議は、恒例の街宣行動の一環として成田の軍事基地化反対のビラまきを行った。(12月1日=1面に記事)
●アメリカの元国防長官W・ペリーは日経新聞の「私の履歴書」で、1994年の朝鮮危機時、日本列島を兵たん基地とした40万人型の兵員増派計画を策定していたことを明らかにした。(2日)
●「朝鮮侵略戦争を許すな」 朝鮮侵略戦争阻止の反戦集会に三里塚現闘も参加して決意表明を行った。(3日)
●萩原さん、投書でアピール 朝日新聞投書欄に萩原進事務局次長の「成田空港問題は終わっていない」と題した投書が載った。大きな反響が起こっている。(4日)
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