SANRIZUKA 2010/02/01(No792 p02)
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週刊『三里塚』(S792号1面1)(2010/02/01)
2・25現闘本部裁判反動判決許すな
三里塚2010年決戦勝利を
JR検修外注化阻止2・13集会へ
30万回化協議粉砕!
空港危機が日航破綻強制
資本主義を打ち倒す世界史的な激動、大動乱の時代が始まった。日本の階級闘争はその最先端で1047名解雇撤回・検修業務全面外注化阻止決戦および、これと一体の三里塚決戦を爆発させる時が来た。見よ、国策航空会社・日本航空の破綻を。これこそ三里塚44年の闘いに追いつめられた日帝の空港・航空政策の惨状だ。この中で成田空港会社(NAA)社長・森中小三郎は年頭会見で「B滑走路の再延伸を実現したい」旨公言した。三里塚闘争は、鳩山民主党政権の「東アジア共同体構想」を阻止する最大の拠点だ。日帝の危機を逆手にとって、2・25現闘本部裁判の反動判決粉砕、市東さんの農地を守り、第3誘導路・第3滑走路粉砕へ全力で闘おう。
NAA社長・森中小三郎は1月4日の年頭会見で、「東峰地区の未買収地問題を解決し、『B滑走路』の南側への再延伸に全力をあげる」旨語った。さらに年末に地権者宅を訪問したことも明らかにした。
2010年は、北延伸前倒し開業を迎え撃った09年以上の激闘の年となる。何よりも、世界大恐慌下で国際帝国主義の最弱の環・日本帝国主義が、争闘戦での敗勢の巻き返しに必死となっているからだ。
日帝の延命の道は《改憲・戦争と民営化・労組破壊》の攻撃と「東アジア共同体構想」の名によるアジア侵略・勢力圏化以外にない。危機にかられた日帝は、JRにおける検修業務全面外注化=動労千葉・動労水戸破壊の大攻撃を開始し、アジア侵略のためのインフラである成田空港建設の拡大と三里塚闘争破壊に訴えてきている。
三里塚闘争破壊攻撃の第一は、2・25天神峰現闘本部裁判における反動判決の策動だ。仲戸川隆人裁判長は、4年間にわたる法廷での反対同盟側弁論の圧倒的正義性を踏みにじり、国交省・NAAの先兵としてあくまで反動判決を策動している。1、2月の闘いで千葉地裁を包囲しこの反動判決を打ち砕く決意を固めよう。さらに、反動判決によって切迫する現闘本部破壊攻撃に対して、本部死守の闘いの陣形を圧倒的に強化しよう。
現闘本部裁判は、市東孝雄さんの農地をめぐる三つの裁判に連動する。2月1日の耕作権裁判、2月16日の行政訴訟・農地法裁判でNAA・千葉県を追いつめよう。
さらに、前原「羽田ハブ空港化」発言を契機に、成田市・芝山町など地元自治体を先兵とした成田空港拡張攻撃が、一気に激化している。「深夜・早朝便の緩和、新たな3500b滑走路を」という「成田空港圏自治体連絡協議会」での相川勝重・芝山町長の提案と合意を受けて昨年12月25日、「成田空港問題に関する4者協議会」では「2014年の30万回化実現」にむけた「行程表」と呼ぶべきものが提示された。「2011年に25万回化、2012年に27万回化」なる得手勝手な騒音地獄拡大プランだ。
地元自治体によるこの計画の承認(期限が2011年3月末とされる)と地元切り崩し攻撃を断固粉砕しよう。これが2010年決戦のもう一つの闘いだ。だが、危機と焦りにかられた国交省―NAA―地元自治体の攻撃は、2010年決戦の“えじき”でしかないことをはっきりさせよう。
(写真 暫定滑走路を東にずらして3500bにするとの計画を示す地図。4ミリの太い線が「3500b」滑走路。現在の暫定滑走路は「誘導路に」)
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週刊『三里塚』(S792号1面2)(2010/02/01)
空港政策が立たず
地方空港乱造、腐敗を放置
1月19日、60年の歴史を持つ国策航空会社・日本航空が会社更生法の適用を申請し、ついに破綻した(2面に関連記事)。これこそ、三里塚闘争が44年もの長きにわたって、あらゆる困難と苦闘を乗り越えて闘ってきた、地平が強制した日帝への痛烈打だ。 日航破綻の根底には、日帝の空港政策そのものをずたずたに切り裂いてきた三里塚の闘いが厳然として存在している。成田空港政策が行きづまる中で、しかし成田空港建設に死活をかけざるをえなかった日帝の空港政策の不在が、何の見通しもない地方空港の乱造をもたらし、空港整備特別会計なる腐敗の温床を作りだし放置した。
航空争闘戦では、航空自由化競争に決定的に立ち後れ、日航の破綻の遠因を作った。これも「成田」の破綻による空港発着枠の制限が強制したものだった。
であるがゆえに、2010年、鳩山民主党政権は三里塚破壊にしゃにむにのめり込む。2010年三里塚決戦の位置はますます重大となった。
JR検修業務外注化阻止決戦を切っ先とする6000万労働者の闘いと、三里塚を先頭とする300万農民の労農同盟の力で三里塚闘争破壊を打ち破ろう。沖縄基地撤去の闘いと連帯し、2010年決戦に断固として勝利しよう。
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週刊『三里塚』(S792号1面3)(2010/02/01)
2・1市東耕作権裁判へ
「藤崎メモ」デタラメ暴け
2月1日、午後2時から千葉地裁で、市東孝雄さんの耕作権裁判闘争が闘われる。2・25天神峰現闘本部判決情勢の中で、重大な闘いとなる。傍聴闘争への大結集を訴える。
市東さんの耕作権裁判とは天神峰南台の市東さんの4カ所の畑のうち、NAAが賃借権の解約請求を行わなかった2カ所について、NAA側が勝手に「不法耕作だ」といいなし、市東さんに農地の明け渡しを求めている裁判だ。
解約請求を行った2カ所については、別に農地法裁判で明け渡しを求めている。
今回の弁論闘争の核心は、NAA側が「契約地」「不法耕作地」と主張する根拠となっている旧地主の藤崎政吉メモ(写真)および藤崎の地籍測量図のデタラメを徹底的に暴く闘いだ。
中でも藤崎メモは写真にあるように、手書きのずさんなものでおよそ証拠と呼べるような代物ではない。そもそもこのメモは、市東さんが一度も耕したことのない「41−9」番地の畑をめぐって、市東さん側が関根とめ証言、元永修一証言、藤崎地籍測量図を元に「何の根拠があって41−9を市東さん耕作の畑、と主張するのか」と追及してきたことに対し、苦しまぎれにNAA側が出してきた「聞き書きメモ」だ。
「聞き書き」とは、藤崎が市東東市さん(孝雄さんの父)から聞き書きしたものをメモにしたという意味。メモ右端の所に「62・12/26 市東が藤崎宅を訪問し、賃料を支払った時に陳述した内容(市東が賃借して(ママ)面積及び位置)」と書かれているが、市東東市さんが立会いの下に現場を測量したものでもなければ、市東さんの確認の署名・印鑑もない、すなわち内容の正しさを示す根拠となるものが何もないものでしかない。
そのメモの中には「石橋赤線の処を渡らねばならないので内緒でこうしてしまった」などと意味不明の文言まで書かれている。
(写真 「41−9」の畑を市東さんが耕していた「証拠」として提出された藤崎メモ。手書きのずさんなもので市東東市さんの署名・捺印もない)
求釈明で追及
すでに弁護団は、NAA主張の矛盾点をつく求釈明書を提出済みで、法廷の場で徹底追及する。
「41−9」について、市東さん宅が一度も耕したことがない、と証明されると、NAA主張の根幹を突き崩すテコの支点になる。すなわち、契約地の総面積は確定しているので、「41−9」が契約地でないとなると、不法耕作とされている部分の中に契約地が存在しなければいけないことになる。つまり、畑の特定をめぐるNAAの全主張がくつがえり、農地法裁判や行政訴訟への波及も重大となる。
以上のような重大な口頭弁論となる第14回弁論への総結集を訴える。
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週刊『三里塚』(S792号1面4)(2010/02/01)
2・25現闘本部決戦へ B
22回の弁論でNAAを論破
「登記された建物」を突きつける
「木造建物は解体・吸収された」と暴論
2004年6月に始まった天神峰現闘本部裁判。22回に及ぶ弁論では、NAA・千葉地裁を圧倒し、「訴えの棄却」しかないところに追いこんだ。前半の攻防をふり返る。仲戸川隆人裁判長による反動判決を断固阻止しよう。
第2回目の2004年9月9日の弁論闘争で、早くも反対同盟とNAA側の全面対決となった。(これ以降、前回掲載の「年表@」参照)
同盟側は、天神峰現闘本部が成田治安法で封鎖されている問題を追及したのだ。NAA側が反対同盟に要求したことは「現闘本部の底地を買収したので、その上に立つ現闘本部を撤去せよ」というものだった。
ここで同盟側が主張したのは、「成田治安法で封鎖されている建物をどうやって撤去しろというのか。実行不可能だ」「実行不可能な請求の実現を求めることには訴えの利益がない。提訴は直ちに棄却されるべきだ」という内容だった。
実に明瞭かつ正当な主張だ。本来ならこの時点で裁判打ち切り、公訴棄却の判断が下されるべき内容だが、NAAの先兵・仲戸川裁判長は「将来における建物撤去の実行を求める判決を現在の時点で得ておきたい」なる珍論を不当にも認め、裁判の続行を強行した。
05年、2月3日の第4回弁論では訴状の中に記載してあった「天神峰現闘本部は未登記」という文言について追及した。 そして、3月24日の第5回弁論では1988年9月の現闘本部建物増築時の写真多数を証拠として提出、その中にはっきりと旧現闘本部である木造建物がいわゆるお神楽造りの形式で鉄骨3階立て増築部分の中にしっかりと保存されている様子が写しだされていた。 この木造建物が厳然と登記されているのだ。このことと次回詳述する地代の支払いによって、現闘本部の土地利用に関する地上権、ないし賃借権が完全に証明されている。それらの権利は民法によって保護されており、底地を買ったからといって、土地の利用権を剥奪(はくだつ)することはできないのだ。
(写真 2009年6月25日の第21回弁論闘争のあとの報告会【千葉県弁護士会館】)
窮地に追いこむ
同、6月9日の第6回弁論で、同盟側はNAAを追撃した。「建物を撤去して土地を明け渡せ、というがその明け渡し部分の特定を行え」と要求したのだ。その意味は、鉄骨造り建物の中に存在する木造建物は、「明け渡し部分に含まれるのかどうか」を迫るということだった。
これはNAAにとって、痛い弱点だった。「明け渡し部分に含まれる」と答えれば、登記された建物が存在していることを認めることになる。「含まれない」とすれば、現闘本部建物を撤去しても木造建物は残ってしまうことになる。
どちらに転んでも現闘本部を撤去して「へ」字誘導路を解消したい、という訴訟目的は遂げられない。
同7月28日の第7回弁論でNAAがひねり出した屁理屈が「木造建物は鉄骨建物に解体・吸収され独立の建物としては残っていない」という文言だった。
しかしこれも、本部建物の実地検証を行い、中をのぞいて見れば一目瞭然だ。ここから「現闘本部の実地検証を行うか否か」が一大争点として浮上し弁論闘争の中心になっていった。(つづく)
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《現闘本部裁判年表》A
【2007年】
2・22 「石橋政次に地上権契約の意思能力はなかった」とのNAA側主張に対して、移転直後に石橋宅を訪れた加瀬勉氏の「会話能力はしっかりしていた」との証言を提出。
5・10 第16回
7・19 第17回 仲戸川裁判長を裁判官忌避。 この後約11カ月にわたって弁論停止。
【2008年】
6・12 第18回 証拠調べに入ろうとする裁判長の訴訟指揮を阻止。
9・25 第19回 裁判長、検証要求を却下。これに対して同盟側は再び裁判官忌避。
【2009年】
3・12 第20回 忌避中の弁論再開強行とビデオリンク方式での石橋恵美子証人他の尋問に抗議して、同盟側は出廷拒否。これに対して仲戸川裁判長は一旦認めた同盟側の証人調べを取り消す暴挙。
6・25 第21回 証人調べを再び認めさせ、萩原事務局次長が証言。この後、裁判長は審理打ち切りを強行。
11・12 第22回 最終弁論。NAAによる「訴因の訂正」を認めた裁判長に対し、裁判長弾劾集会に転化。
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週刊『三里塚』(S792号1面5)(2010/02/01)
社保庁平口さん525人決起の先頭に
40人が不服申立て
前代未聞の解雇攻撃許すな
1月19日、社会保険庁525人の分限免職者の一人である平口雅明さん(福山社会保険事務所)は、人事院中国事務局に、分限免職処分の取り消しを求めて「不服申立」を行った。そして、広島県庁の記者クラブで記者会見を行い、分限免職粉砕・解雇撤回の戦闘宣言を発した。525人もの国家公務員の大量解雇は戦後革命期(第3次吉田内閣)の総定員法以来だ。
平口さんの屹立が、525人の決起を生み出した。平口さん以外にすでに40人の不服申立が行われており、壮大な闘いに発展することは不可避だ。
同日夕方、広島市内で30人の結集で「社会保険労働者解雇撤回集会」を開催した。(写真)。不服申立代理人からの基調報告に続き、発言に立った平口さんは、第2の国鉄1047名闘争として闘う決意を明らかにした。連帯の決意が動労西日本、自治体労働者、教育労働者、全学連から述べられ、本集会をもって「社会保険労働者の解雇撤回闘争を支援する会・広島」の結成が確認され、事務局体制が決定された。国鉄決戦・三里塚決戦を一体で平口さんと固く団結し、社会保険庁525人の分限免職粉砕・解雇撤回に向けて闘う。
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週刊『三里塚』(S792号1面6)(2010/02/01)
コラム
前回この欄で、中国経済の存在感の高まりの一方で、労働者・農民との矛盾が高まっている現実を指摘したが、それを裏付けるように、人民の決起が本格化している▼1月15日、中国の江蘇省蘇州工業区において、携帯電話の液晶板を製造している台湾企業・聯建科学技術公司(1万5千人)で、7000人の労働者がストライキに入り、これを抑え込もうとした警察と衝突した▼労働者は「腹黒い工場、われわれの年末一時金を返せ」という横断幕を掲げ、工場の看板や設備を破壊し、警察と激突し、その車両を破壊した(2面記事参照)▼一方、土地収用をめぐり、中国各地で地方政府と農民の衝突が頻発していることが報道された(1月19日付東京新聞)。浙江省温州市永嘉県と広西チワン族自治区馬嶺鎮では1月13日、土地収用での「補償が少なすぎる」として農民が相次いで暴動を起こし多数が負傷した▼広東省仏山市南海区では7日、約60年前の証明書を基に使用権を主張する農民に対し、地元政府が農地を競売にかけ、強制収用の際、農民48人が逮捕された▼また江蘇省運河鎮では7日、当局に雇われた武装集団と農民との衝突事件も発生した。ここでも農地の8割が地元政府に強制的に借り上げられており、武装集団が残りの農地も奪おうとすることに対する闘いだった。中国での抗議・暴動は年間約10万件に上る。スターリン主義権力を打倒する労農のさらなる決起は時間の問題だ。
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週刊『三里塚』(S792号1面7)(2010/02/01)
闘いの言葉
国家権力に素手で立ち向かい血を流す農民達!これに教会はどう向き合うべきかという自己批判から権力、教会、農民の問題を直視した。
戸村一作『わが十字架』
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週刊『三里塚』(S792号1面8)(2010/02/01)
集会要項
2・13全国労働者総決起集会
●午後1時開始
●東京・代々木公園B地区野外ステージ
2・25現闘本部裁判判決闘争
●千葉地裁包囲デモ 午前9時千葉市中央公園で集会 午前9時30分デモ
●判決法廷午前10時30分
●千葉地裁601号法廷
【三里塚裁判】
☆1月28日(木)鈴木一坪裁判
午前10時30分千葉地裁
☆2月1日 市東さん耕作権裁判
午後2時 千葉地裁
☆2月16日(火)市東行政訴訟・農地法裁判
午前10時30分 千葉地裁
【法大闘争裁判】
☆暴処法弾圧裁判
恩田君、増井君、織田君、内海君、新井君
2月10日(水)午後1時30分
2月22日(月)午後1時30分
☆4・24集会弾圧裁判
斎藤君、恩田君、増井君、倉岡さん、冨山君、内海君
1月27日(水)午後1時30分
2月9日(火)午後1時30分
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週刊『三里塚』(S792号2面1)(2010/02/01)
三里塚44年の闘いで日航が破綻
成田の挫折が致命打
空港政策、数十年の遅れ
1951年に創設された日帝のナショナル・フラッグ・キャリアー=日本航空が1月19日、東京地方裁判所に会社更生法の適用を申請して破綻した。負債総額2・3兆円は戦後最大だ。
日航の破綻に象徴される日帝の空港・航空政策の危機を強制してきたものこそ、三里塚44年の闘いとそれによる成田空港建設の行きづまりである。
そもそも1965年の富里・八街空港計画の時点から日帝の空港建設政策はデタラメきわまりないものだった。「ブルー14」と呼ばれる米軍横田空域に関東の空を軍事占領されたことから、内陸空港に逃げ道を見出さざるをえなかった佐藤栄作内閣。それが、富里で1000戸という農民の実力決起の前に立ち往生すると規模を半分にし、滑走路も半分に減らして三里塚に“強制着陸”させた。
その後は国家暴力と金の力を使い、違法・不当な農地収奪・農地追い出し攻撃を繰り返してきたが、ついに「絶対反対」の原則を守り通して闘いぬいてきた三里塚闘争を破壊できず、日帝の空港政策は44年の遅れを強制された。
その結果、日帝中枢で空港・航空問題に責任を取ろうという人間がついに現れず、日帝には空港政策と呼べるものが成立しなくなったのだ。
残されたのは運輸−国交省官僚による場当たり
政策しかなくなった。地方空港の乱造と開港のデタラメぶりもその結果と言える。97空港の内、80空港近くが赤字という惨状だ。それをもたらした空港整備特別会計という腐敗の温床の放置。日本航空も赤字路線の運行を強いられ打撃をこうむっている。
(写真 会社更生法の適用を申請した日本航空の破たんを報じる各紙【1月20日付】)
自由化協定もできず 航空争闘戦でも敗勢に
他方、航空争闘戦での敗勢も深刻だった。全世界でいわゆるオープンスカイ(航空自由化)政策が常識となっている中で、日本は昨年末まで、アメリカとのオープンスカイ協定を締結することができなかった。それもこれも成田の未完成による空港容量不足が原因である。
だが、今回の日航の破綻で、日帝は航空争闘戦での巻き返しにむけた大攻撃を狙っている。激化する帝国主義間の争闘戦を貫くために、今回、日航の「法的整理」をあえて強行し、大リストラ攻撃に踏み切ったのだ。日本航空労働者約4万7000人のうち、3分の1の1万5700人を解雇する大攻撃だ。
他にも退職者の年金を3割もカットするなど、すべての犠牲を労働者にしわ寄せし、ナショナル・フラッグ・キャリアの復活をあくどく狙っている。
2010年の三里塚闘争破壊攻撃が強まることは明白だが敵はグラグラだ。この攻撃を断固受けて立ち、2010年決戦の勝利をもぎりとろう。
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週刊『三里塚』(S792号2面2)(2010/02/01)
2・13全国から代々木へ
JR検修・構内外注化絶対阻止を
動労千葉など動労総連合4組合と動労千葉を支援する会が主催する2・13全国総決起集会に全力で結集をかちとろう。
JR東日本は2月1日、第3次のライフサイクル配転と、動労千葉幕張支部の役員を幕張車両センター本区から転出させる強制配転の攻撃をたくらんでいる。1月下旬には強制配転の事前通知が予想され、動労千葉はストライキも辞さず対決する構えを固めた。
JR東日本が08年以来強行してきた「ライフサイクル深度化」の攻撃は、40歳以下の運転士を駅業務に強制配転するというものだ。ライフサイクル発令の対象となるのは平成採の青年労働者だ。JR資本や東労組カクマルに激しい怒りを燃やし、人生をかけて動労千葉への結集を選択した青年が、この攻撃の矢面に立たされている。
この攻撃を粉砕する闘いは、文字どおり動労千葉の存亡をかけた組織攻防戦にほかならない。幕張支部役員に対する強制配転の策動は、検修・構内業務の全面外注化攻撃そのものだ。
動労千葉は、幕張支部を先頭に、01年以来9年間、検修・構内業務の外注化を阻んできた。JRは、この力関係を一挙に逆転するために、支部役員の強制配転で動労千葉の団結を解体しようと策しているのだ。
だがそれは、動労千葉の総力を挙げた反撃を引き起こすだけだ。
JRの検修・構内業務外注化を絶対阻止する闘いには、労働者階級全体の命運がかかっている。
JR東日本は、外注化の実施日を4月1日としている。だが、資本の思惑どおりに事態が進むことなど絶対にない。
JR資本は、動労千葉・動労水戸−動労総連合を解体するために、その拠点職場に狙いを定めてこの攻撃を仕掛けてきた。だが、そこにこの攻撃の絶対的な矛盾がある。外注化阻止の決戦は、国鉄分割・民営化に革命的決着をつける闘いだ。
JR東日本は、01年以来、保線や電力、信号通信など設備部門の外注化を強行してきた。その結果、下請け労働者の労災死、レール破断の続発、給電システムの崩壊、相次ぐ信号トラブルなど、安全はとことん損なわれた。これに加え、車両の検修業務が外注化されたら、安全は最後的に崩壊する。第2、第3の尼崎事故は不可避だ。
攻撃のターゲットとなる若い平成採労働者の怒りは爆発寸前だ。この怒りを引き出すことで動労千葉への結集を実現し、青年部樹立のチャンスにしていこう。これは三里塚闘争にとっても決定的な援軍だ。2・13全国総決起集会へ。
(写真 外注化阻止決戦にむけた動労千葉旗開き【1月9日】)
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週刊『三里塚』(S792号2面3)(2010/02/01)
国際連帯は今、世界を揺るがす
トルコ、中国で労働者の決起
スト権求め民営化・賃下げと激突
「業績回復」の裏で極限的な強搾取
今週はトルコと中国での労働者の決起を伝える。
トルコでは民営化や外注化に反対し、労働運動弾圧に反対する労働者階級の巨大な決起が開始された。11月25日に、公務員労組連盟(KESK)は進歩的労組連盟(DISK)との連携の下、団体交渉権、ストライキ権を求めて断固たるストライキを貫徹した。11月29日には、全国からアンカラに結集した数十万人のKESKとDISKの戦闘的な集会とデモが行われた。
この集会でDISKの委員長は「労働者諸君、今や行動するときだ。経済危機はわれわれを直撃した。政府が議論している危機の解決策とはボスどもや資本家を救済しようとするものだ。これはわれわれの危機ではなく、資本主義制度の危機だ」と語った。
労働者階級の怒りを集約したDISK、KESKの総決起闘争に危機感を抱いた国家権力は、激しい弾圧を開始している。11月25日に一日の「警告ストライキ」を実施した鉄道労働者たちは、スト参加者16人の解雇処分攻撃を受けた。だが、鉄道労働者たちは12月16日には反撃の反処分ストライキに打って出た。「処分粉砕、弾圧でわれわれを止めることはできない」というスローガンを掲げたこのストライキは、この40年間で最大規模の鉄道ストといわれている。
12月15日、民営化と外注化・非正規職化に反対するTEKEL(タバコ・アルコール公社)の数千人の労働者は、警察の築いたバリケードを粉砕して全国各地から首都アンカラに結集した。デモ隊は政権党の公正発展党の事務所前でデモを行った。これに対して、知事はデモ禁止を通告、政府は多数の警官を派遣し、公正発展党の事務所の前には戦車が配備された。だが労働者たちは道路封鎖を回避して首都に突入し、デモを貫徹した。TEKEL民営化反対の集会・デモは17日にも闘われ、警察機動隊による暴力的襲撃・大量逮捕を打ち破って、闘いを継続した。
こうした労働者の闘いは、完全にトルコ政府を追い詰めた。労働運動の爆発的発展情勢と、クルド人の民族独立をめざす闘いが同時並行的に展開される中で、国家権力は労働運動への大弾圧とクルド人への弾圧を全面的に開始した。12月17日の闘争以降今日までに、DISKの組織局長や事務局長、運輸労組の委員長を始め多くの指導部と組合員が逮捕された。だが、労働者階級は逮捕された労働者の釈放を要求して激しい反撃の闘いに出ている。
他方、階級情勢の激化の中で、トルコの労働者階級とクルド人民の独立闘争の結合を恐怖するトルコ政府によるクルド独立闘争への弾圧も急激に激化している。
アルジャジーラの報道によれば、12月11日、トルコの憲法裁判所は、「武装した分離主義戦士と関係をもっている」として、クルド人と連帯して闘っている民主社会党(DTP)を閉鎖し、非合法化した。DTP党首のアーメット・チュルクを含むこの党の2人の国会議員を国会から追放し、さらに数十人の党員に5年間、他の政党に加入することも禁止した。
DTPは2005年にクルド労働者党(PKK)との協力を理由として解散されたクルドのいくつかの政党が合併して形成された党である。この判決は、クルド人の独立国家を求めて闘っているPKKの創設者であるアブドラ・オジャラン氏に対する刑務所の取り扱い方への怒りの抗議行動で、警察と衝突するデモが数週間続いた後に出された。クルド人のデモ隊への襲撃事件も頻発している。
世界大恐慌情勢下で、トルコでも労働者階級人民の闘いが爆発的な発展段階に入った。われわれもこのトルコ労働者階級人民と連帯し、プロレタリア革命に向かって断固たる進撃を開始しよう。
中国江蘇省で
1月15日、中国の江蘇省蘇州工業区において、携帯電話の液晶板を製造している台湾企業・聯建科学技術公司(1万5千人)で、7千人の労働者がストライキに入り、これを抑え込もうとした警察と衝突した(写真)。労働者は「腹黒い工場、われわれの年末一時金を返せ」という横断幕を掲げ、工場の看板や設備を破壊し、また労働者に襲いかかる警察と激突し、その車両を破壊した。一部の労働者が警察に連行されたが、労働者の怒りの前に釈放せざるを得なかった。
ストライキの直接の原因は、年末一時金の支給が取り消され、また住宅積立金の支給が停止されたことにある。この企業では、昨年8月に洗浄液のパラフィン中毒で2人の労働者が死亡し、5人の労働者が依然として入院しているという事故が引き起こされ、防護措置の設備と賠償を求めて、関係工場でストが行われている。しかし企業側は、中毒した女子工員が休暇を求めたのに対し、解雇するという処置をして平然としている。
さらに、賃金の遅配や欠配をしばしば行っており、従来から労働者の怒りが積み重なっていた。今度の年末一時金の取り消しを契機にして、それが一気に爆発したのである。
この企業は1999年に蘇州工業区に設立され、2000年から操業が開始されたが、アップル、ノキヤ、モトローラなど名だたる巨大企業の携帯電話部品の受注によって急速に生産を伸ばしてきた。労働者への待遇はひどく、中国の蘇州工業区の責任者さえ認識していたほどだった。
中国の企業の「利益回復」なるものの背後で、極限的な搾取強化がさらに進んでいることを示す事態だ。中国の労働者のストライキ決起がこれから各地で燃え上がってくることは確実だ。
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週刊『三里塚』(S792号2面4)(2010/02/01)
三里塚営農だより
鈴木幸司さん宅
モチ作りに精出す
決戦の2010年の幕が開けた。旗開きで団結をうち固め、闘いの日々が始まる。同時に野菜の出荷作業も再開し、畑仕事が始まった。
年が明けてからは本当に寒い日が続いている。畑には毎朝のように霜が降りている。昼近くまで地面が凍っていて、葉物を収穫しようにも「刃が立たない」こともあった。昨年12月前半の異様な暖かさがウソのようだ。
これからじっくりと育っていく葉物を除けば、産直野菜の冬の出荷は畑に残っている野菜、保存してある野菜を順次届けていくので、次第に一品二品と品数が減っていく。
そんな季節でも、消費者に届けるケースの中身を少しでも充実させようと、鈴木謙太郎さん、加代子さんは意欲的に餅作りに精を出す(写真)。餅米はもちろん昨秋しっかりと収穫できた自家米だ。
昨年末にはのし餅をつくった。庭で餅米をふかしながら手作業で餅を伸していくので、1日に150枚がやっと。各消費者に届けるために、丸々2日を費やした。
年が明けて、今度はかき餅作りだ。こちらは餅米とうるち米(普通の飯米)を混ぜてつくる。均等に混ぜたつもりが、「今のは餅米の方が多かったんじゃない? ずいぶん柔らかかったよ」なんてこともご愛嬌。
のし餅にしてもかき餅にしても手作業だから時間はかかるし、形やできばえはバラバラだ。「それでも消費者の人に少しでも安心なものを食べてもらいたいからね」と加代子さん。まだまだ寒風の中での農作業が続く。
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週刊『三里塚』(S792号2面5)(2010/02/01)
三芝百景 三里塚現地日誌 2010
1月12日(火)〜1月19日(火)
●日航の国際線2カ月連続減少 日本航空は昨年11月の輸送実績を発表した。それによると国際線の旅客数は85万4785人で前年比5・8l減だった。2カ月連続での減少。(12日)
●羽田空港に16の中国便枠
今年10月に4本目の滑走路が稼動する羽田空港の発着枠の配分が判明した。外国航空会社向けの昼間の発着枠1日20便のうち、中国に最多の8便が割り当てられる。日本の航空会社向けの発着枠20のうち中国便は8便となり、定期便計16となる。(13日=写真)
●日航1万5700人のリストラ 企業再生支援機構の管理下で日本航空が作成した「事業再生計画」が発表された。それによるとグループ会社を含め1万5700人の削減、海外27支店閉鎖、国際線14路線閉鎖、国内線17路線閉鎖などとなっている。(13日)
●成田―羽田で管制トラブル 成田と羽田両空港の空域が統合され、航空管制を羽田で一括する運用が始まったこの日、航空管制システムにトラブルが起き、成田、羽田両空港で200便以上に欠航や遅れが相次いだ。(14日)
●NAAが横断幕取り外し
反対同盟が1月10日の新年デモで、現闘本部に取り付けた「『第3誘導路』計画粉砕 現闘本部を守り抜こう」の横断幕をNAAが取り外した。(15日)
●動労水戸旗開きに伊藤さん JR検修業務全面外注化阻止にむけた動労水戸の団結旗開きに反対同盟から伊藤信晴さんが参加しあいさつした。「天神峰現闘本部死守の闘いと検修業務外注化阻止決戦は一体の闘い」と確認した。(16日)
●日航が会社更生法適用を申請 経営危機に陥っていた日本航空が会社更生法の適用を申請し破綻した。負債は戦後最大の2・3兆円。成田空港建設の挫折をはじめとした空港建設政策のツケが最も深刻な形で回ってきた。千葉県内にも関係企業が165社。森中NAA社長、森田千葉県知事、小泉成田市長らが悲鳴を上げている。(19日)
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週刊『三里塚』(S792号2面6)(2010/02/01)
階級的敵がい心を貫く
戸村思想を学ぼうE
戸村一作の生涯(上)
父、武芳さんの生き方見て
“教会の立場はいかにあるべきか”
「農民が国家権力の下で公共事業という空港建設に農地を奪われる。それに対して素手でたちむかって血を流す農民!
教会は、中立的な立場を見せかけて国家権力に協力の立場をとる。ここに教会の決定的な問題がある。教会とはいったい何か。三代目のキリスト者とはなんだったか。という自己批判から、私は必然的に国家権力、教会、農民を直視しなければならなかった」(「わが十字架」)
このように戸村さんにとって三里塚闘争は、自分の信仰=キリスト者の自己批判と結合し、それを貫徹するものだった。農民が生活を奪われるのに反対するのとは異なるが、戸村さんも人生をかけた闘争に立ち上がったのである。1967〜78年三里塚農民の怒りと必死の闘いは、戸村さんを変革させ、彼は孤立をものともせず教会と対決する。
(写真 戸村さんの家族。前列左が夫人の澄江さん、隣が一作さん、その隣が父の武芳さん。後列中央が弟の義弘さん)
宗教批判に進む
教会に屈しなかった彼は、さらに宗教批判へ進み、「自分は、農民とともに生きる」と立場を鮮明にした。決定的なテコは、一切の妥協を排したことである。三里塚闘争が国家権力と非妥協になればなるほど、彼は自分の闘争者としての立場を固めた。
これは、良心的な宗教者の階級移行の姿だった。簡単に、三代目キリスト者としての戸村さんの生涯をふりかえる。
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戸村一作さんは、1909年5月29日に生まれる。祖父からのクリスチャンホームの三代目であった。祖父・丑之助さんは、西南の役の出征途上の横浜で路傍説教に感化され、三里塚で農具製作所を開いたのち、自宅の一隅に「日本メソジスト三里塚講義」を設置した。メソジスト派は、18世紀イギリスの中下層階級を基盤に生まれ、規則正しい生活方法(メソッド)を推奨し、信仰覚醒の信徒運動の性質をもつプロテスタントである。
社会改良に取り組むので知られ、年末に「社会なべ」を実施して困窮者への救援運動を行う救世軍などもこの流れである。あとを継いだ父の武芳さんは、農具製作業を堅実に拡大し、特許をとった農具の販売は海外にまでおよんだ。職人を10数人使用し、当時では成功した事業家といえた。
武芳さんは、祖父をついだ敬虔なクリスチャンであった。信仰上、気魄に満ちた人である。
会堂を建設するときのこと。戦前、三里塚地区一帯は、天皇所領地(御料牧場)の借地であった。丑之助さんの建設した教会堂は、牧場長の意向をくんで自ら教会らしくない外観に変更した。武芳さんは、これを強く悔やみ、キリシタン弾圧に屈しなかったかつての信徒に鑑みて現代の教会者は慚死すべし、と憤慨する。そして「迫害を受けても、私共の精神力はこれに打ち克ち、これを善用して益々美化せられてゆく」と論じている。
また、武芳さんは「今日の資本主義の堕落(剰余価値の吸収と資本蓄積)は、富は神からの依託であるということを忘れた結果であり、ブルジョアは社会的必要を覚(さと)りて弱者のため神に返納せよ」(「千葉県消防新聞」1930年)と社会問題への提言も発表する人士であった。
武芳さんが息子の一作さんをいかに教育し期待したかは、詳しい述懐はない。しかし、武芳さんにみられる社会的な実践倫理として信仰と行為の一致を求めるキリスト者の生き方は、一作さんの人格を形成した大きな要素といえる。
旧制成田中学(現成田高校)に進学した一作さんは、油絵を始める。戦前、三里塚は御料牧場の西洋風な牧歌的風景、戸村さん曰く「バルビゾン派のミレーやルソーの絵に見るような風景」が広がっていた。多くの画家が写生に訪れた。
彼は、この情景を「人間としての私をはぐくんでくれた唯一の自然環境」というほど愛おしみ、青年期を三里塚の牧野のなかで一日中過ごした。卒業後、家業を手伝うが、暇さえあれば絵を描いていた。34年小樽出身の澄江さんと結婚後、北海道にわたり肖像画謝礼などで暮らしていたが、戦後直後に武芳さんが逝去し、大きな転機が訪れる。
彼は、父の死の早朝、「神の霊感」を受けたことを告白し、「福音こそ父より受け継ぐ最大の資産なり。父の遺髪を継ぐものは立ち上がれ」、富・地位は物の数ではない、とキリスト者の道を決意する。
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農機具商の生業のほうも、戦後農地改革の結果、農村の生産力が増大し、農業経営に機械類が取り入れられることで販売収入が拡大する。戸村さんは、三里塚のみならず富里・八街の農家を回ってセールスをした。一緒に回った弟の義弘さんは次のように述べている。
「もうこの辺で終わりにするであろうかと思えるときが来ても、農家の明かりがついている間は帰路につこうとしなかった。彼は楽しんで事に当たった。手がけたモノは行き着くところまで骨惜しみをしなかった」。(「棕櫚(しゅろ)」第7号=三里塚教会会報)
一作さんが、楽しんで生業に勤しんだ理由は、一家の大黒柱になった個人的な要因もあるが、戦後の農村の発展期という社会情勢にあったことも結びついていた。この農村・農民生活との結びつきが富里空港反対の決起へつながっていった。
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ちなみに、三里塚闘争に対して三里塚教会がいかなる態度を取るかに関しては同教会が属する日本キリスト教団の中でも大問題になった。戸村さんが先頭で三里塚の闘いに積極的に関わっていった三里塚教会は、キリスト教団本部によって処分され、現在も処分撤回の闘いがつづいている。(つづく)
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