SANRIZUKA 2009/10/01(No784 p02)
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週刊『三里塚』(S784号1面1)(2009/10/01)
10・11へ2週間の総力戦を
労農同盟の真価示す時だ
10・22北延伸前倒し供用阻止!
市東さんの農地守れ
11・1日比谷1万人結集へ
民主党・連合の結託政権を打倒する最大の闘いは、11・1日比谷に1万人の労農学を結集し、動労千葉派が新たな政治潮流として圧倒的に登場することだ。そのための突破口が10・11三里塚全国集会の成功だ。大恐慌下での労働者人民の総反乱の開始に追いつめられる日帝は、動労千葉とならぶ反戦・反権力闘争の砦=三里塚の破壊なしに延命ができない所に追いつめられている。戦争・改憲と民営化・労組破壊の攻撃は8・30情勢を実現した労農学人民の怒りを増幅させる。その激動が三里塚43年の闘いの核心と結合した時、日帝の崩壊的危機が現実化する。市東孝雄さんの農地を守れ。、天神峰現闘本部への撤去攻撃許すな。10・11全国集会の成功へ。
天神峰現闘本部への撤去攻撃、市東さんへの農地強奪攻撃、10・22北延伸滑走路の前倒し供用を軸とした三里塚闘争破壊攻撃の激化については、本紙782号、783号で詳述してきた。ここでは、攻撃激化の背景について述べていきたい。
その第一は、治安政策としての闘争拠点破壊攻撃だ。自民党政権を倒した8・30総選挙は、戦争・改憲と大失業攻撃に対する労働者・農民の積もり積もった怒りが爆発した結果だ。マスコミですら「無血革命」の言葉を使っている。
この背景には、労働者・農民を食わせていけなくなった資本主義体制そのものへの根底的な怒りがある。民主党・連合の結託政権への期待などからではなく、当面提出されている選択肢の中から民主党・連合政権を選んだに過ぎない。
動労千葉・三里塚派がプロレタリア革命を実現する力と展望を示すなら、圧倒的に合流への動きを開始する、そのような根源的な怒りなのだ。
日帝・ブルジョアジー=民主党・連合政権は、まさにこの事実に恐怖している。だから43年間という、近代史にもまれな長期・強靭かつ非妥協的な闘いを継続する三里塚闘争の破壊に出ているのだ。市東さん、萩原進さんらを空港の中に囲い込む第3誘導路計画や北延伸滑走路の供用前倒しなど、従来に比べても突出した攻撃のエスカレーションにうって出てきている。
(写真 1420人を結集した昨年10・5全国集会後のデモ行進【成田市東峰】)
農業破壊との攻防 朝鮮情勢と一体の軍事化
さらに、空港・航空政策の底なしの危機が日帝・国土交通省、NAA(成田空港会社)の焦りを増幅させ、やみくもな攻撃に向かわざるをえなくさせている。
ナショナル・フラッグ日本航空の危機は目を覆うばかりだ。6月の政府保証融資の1000億円でも経営危機を突破できず、ついにアメリカ航空資本の支援をあおぐ手段まで検討され出した。ナショナル・フラッグの位置の放棄以外の何物でもない。
その結果、NAA(成田空港会社)自体が激しい減益の脅威にさらされているだけでなく、地方空港は軒並み存亡の危機に突き落とされている。
その根源には、日帝の国策・成田空港建設への抵抗闘争を頑強にやりぬいてきた全人民の共闘と結集の砦・三里塚闘争の存在があった。日帝の空港・航空政策再建と三里塚闘争の存在はもはや一瞬たりとも共存することはできない地点に来ている。
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また、農業・農民切り捨て政策にとっても300万農民の怒りの先頭に立つ三里塚は、その前に立ちはだかる最大の壁だ。農地法を悪用しての市東さんに対する農地強奪攻撃こそ激突の最先端だ。
現在の日本農民は戦前の全日本農民組合のような闘う組織を奪われて久しい。農民の棄民化、耕作放棄地の拡大など労働者と同様に農民の置かれている状況は悲惨だ。しかし、結集する核が奪われている。
この怒りの原野に、小なりと言えども三里塚を先頭とした決起の号砲が打ち鳴らされるならば、300万農民の決起は不可避だ。この火点である三里塚の存在そのものが、日帝の農業政策と非和解の存在になっているのだ。
そして朝鮮半島情勢の緊迫化は成田空港の軍事基地化攻撃を促進する。成田は朝鮮有事の際に米軍40万が飛来する戦略的な空輸基地に指定されているのだ。また、自衛隊の海外派兵にとっても恒常的な派兵基地となっている。この軍事化攻撃の観点からも、日帝にとって三里塚闘争は許容できない内乱の砦だ。
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以上を見てくると、どちらの側に利があるかは明白だ。8・30情勢を実現した労農人民の怒り。大恐慌―大失業攻撃の激化に対して、さらに資本主義打倒へ上りつめようとしている闘いのうねり。
これらの前進の軸ともなり、先頭に立っている動労千葉と三里塚の労農連帯の闘魂。勝利への階梯を上っているのは圧倒的に三里塚の側だ。その焦点となるのが10・11全国集会の成功だ。そして11・1労働者集会の爆発だ。1万人決起へ全力で奮闘しよう。
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週刊『三里塚』(S784号1面2)(2009/10/01)
9月17日鈴木裁判 県・仲戸川裁判長を徹底追及
「本部裁判」で弾劾行動
「契約書はない」 原告のウソを暴き抗議
9月17日、鈴木さん夫妻の一坪共有地裁判が千葉地裁で闘われ、千葉県と仲戸川隆人裁判長への追及を行った。
仲戸川裁判長は天神峰現闘本部裁判の裁判長でもある。この日の闘いは現闘本部裁判と一体の行動として展開された。支援連は早朝から千葉地裁前を制圧して仲戸川弾劾の宣伝を展開した。つづいて、9時45分から、千葉地裁民事5部の書記官室で、仲戸川に対する面会要求・申し入れ行動を行った。内容は天神峰現闘本部裁判の訴訟指揮に関して7月21日に提出した申し入れへの回答を求めるものだったが、仲戸川は書記官を通して「面会しない、回答もしない」と、予断と偏見に満ちた対応をしてきた。行動団は仲戸川の対応を口々に批判し、新たな申し入れ書を突きつけた。
次に弁護団が千葉地裁所長の安井久治裁判官に対して、仲戸川の不当な訴訟指揮への法律に基づく所長による監督・更迭措置を要求した。
601号法廷で弁論が午前10時30分に始まった。葉山岳夫弁護士を先頭とする弁護団が、先の申し入れに対する回答を仲戸川に求めたが仲戸川は拒否。傍聴席を埋めた70人の傍聴団が、反対同盟を先頭に猛然たる抗議をあびせた。開き直る仲戸川。鋭さを増す弾劾の刃。仲戸川は立ち往生し対応不能に陥り、ヤジと怒号が廷内を支配した。
仲戸川が動揺をあらわにする中、葉山弁護人が、鈴木裁判に関する陳述を開始した。この日の陳述と応酬では主に二つの点について千葉県側を追いつめた。第一は、前回求釈明に対するまったく不誠実な県側の態度。第二は、県側が鈴木さんの一坪共有地を奪い取った後に、「NAAに譲渡する計画である」と陳述していることに関連して、NAAとの譲渡契約書、買い付け証明書、購入申し込み書の提出を県が拒否している問題。
特に第二の問題についてNAAは、「07年4月に譲渡予定だった」とまで陳述していながら上記の3つの文書について、何と「そのようなものは存在しないから提出できない」と見え透いたウソをついたのだ。この点を弁護団は代わる代わる徹底追及、仲戸川裁判長に対して「もう一度捜して提出して下さい」との訴訟指揮を強制したのだ。
弁論後の総括では、葉山弁護士が「すばらしい傍聴闘争で法廷内の主導権を握ることができた。仲戸川をさらに追いつめよう」と提起した。反対同盟から鈴木いとさん、謙太郎さん、北原鉱治事務局長、萩原進事務局次長があいさつ、「現闘本部裁判、市東裁判、この鈴木裁判をさらに闘おう」と発言してこの日の闘いをしめくくった。
(写真 鈴木さん裁判の弁論終了後、意気高く総括集会【9月17日】)
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週刊『三里塚』(S784号1面3)(2009/10/01)
9・21 昨年を倍する結集で 群馬集会が大成功
9月21日、10・11三里塚集会―11・1労働者集会の成功を目指して、「市東さんの農地を守ろう!9・21群馬集会」(群馬・市東さんの農地を守る会主催)が、昨年を倍する80人の結集をえて高崎市で開かれた。
三里塚現地から市東孝雄さんと三里塚現闘が参加し、市東さんの農地取り上げに反対する会(略称=市東さんの会)から井村弘子共同代表と北総米農家が参加した。
「農地を守る会共同呼びかけ人」の石川眞男さんが開会のあいさつを行い同じく共同呼びかけ人の高階(たかはし)ミチさんが主催者あいさつを行った。高階さんは「(三里塚ビデオの)クイの上に立って自分の体に鎖を巻きつける映像は衝撃的」「市東さんの畑に立った時、これを守らないと自分の存在もないと思った」と語り、市東さんを守る運動の拡大を訴えた。
基調報告は「守る会」事務局長の大塚正之さん。大塚さんは8・30総選挙での自民党政権打倒の意義を語り、今焦点になっている八ツ場ダム問題のカラクリを明快に暴露した。そして三里塚が43年も闘い続けて来た根っこに動労千葉を先頭とする労働者との労農同盟があったこと、市東さんの農地を守り、三里塚への攻撃を打ち破る闘いが労農学の未来を切り開くことを鮮明に提起した。
「成田現地と千葉県での取り組みから」としてまず、市東さんが登壇。「オヤジは収用法と闘ったが私は農地法と闘う」「なぜあの畑でなければならないか。手塩にかけて育ててきた畑。そして3代90年の畑。他に代えることはできない」「第3誘導路の暴挙が言われていますが、絶対に阻止する。負けません」ときっぱり結んだ。
三里塚現闘の発言をはさんで、市東さんの会の井村さんが、「農業は大切、農民は宝。家を囲って人権を抹消するなんて許せない。市東さんを守ってこう」と訴えた。
さらに北総の米農家が、自民党の大敗と農民の怒りをコメ農家の立場から話し、「市東さんの農地の闘いが大事だ」と支援を訴えた。
自治労や青年弁護士など会場からの発言、カンパ要請を受けて、最後は青柳晃玄さんが行動提起。裁判支援と共に10・11三里塚現地、11・1労働者集会(日比谷)を呼びかけ、成功裏に集会の幕を閉じた。
集会には道州制攻撃と闘う全農林はじめ県内各地から多数の労働者が結集、「守る会」には新たに3人が入会する成果をあげた。
(写真 昨年を倍する労農学市民を集めて成功した群馬集会【9月21日 高崎市】)
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週刊『三里塚』(S784号1面4)(2009/10/01)
日航、“国策会社”から転落へ
外資での延命画策
航空政策が完全破たん
本紙782号で紹介した日本航空の危機が新たな展開を見せている。国内16路線の削減という6月段階のリストラ策では、年末に償還期限が来る社債の返還費用など1000億円の調達のメドがつかず、さらなる削減に追い込まれた。
すなわち、国際線で30路線、国内線で20の路線削減と3年間で6800人の人員整理という激しいものだ。その結果、海外ではアムステルダム、ローマ、メキシコ空港など9空港から撤退。国内でも神戸、静岡、松本、西広島などの7空港から撤退するという。地方空港にとっての打撃は深刻だ。
さらに、ワラにもすがる思いで、アメリカのデルタ航空、アメリカン航空など外国資本の導入にまで踏み切ろうとしている。「ナショナル・フラッグ」としての位置の最終的な放棄だが、そこまでしないと存続できないほどの危機に追いつめられているのだ。
すべては日帝の空港政策の根幹を打ち破り、迷走を強制してきた三里塚43年の闘いの地平に源を発しているが、一方、6800人などという人員整理が航空労働者に受け入れられるはずがない。動労千葉派への合流は不可避だ。
(写真 苦しい会見に臨む日航幹部)
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週刊『三里塚』(S784号1面5)(2009/10/01)
コラム
「神の存在論的証明」という議論をご存知だろうか。中世の神学者は、キリスト教支配を護持するために、神が存在することの証明に必死となっていた。その議論の内の代表がこの論法だ▼それは@神は全能である。A全能という概念の内には「存在する」という要素が含まれていなければならない。Bだから神は存在するという、人をみくびったような議論だ。ところがこのような子どもだましが中世以降のヨーロッパで大真面目に論じられていた▼デカルトはこれを@神は完全である。A「完全」には、「存在する」という内容が含まれていなければならない。Bゆえに、神は存在する、と論じた▼現代の有名な哲学者ゲーデルも大真面目にこの証明に取り組み1970年に発表したが、その後、間違いに気づき、体に変調をきたしたという▼ところで、この議論のどこがインチキか。前提の内に結論が含まれている点だ。「神は全能である」という@の議論の内にすでに「存在する」という証明すべき結論が含まれている。単純な循環論法なのだ。「AはAだからAだ」という以上の議論ではない▼実践的・批判的な立場を持たないと世の中に横行するこの種のインチキにコロリとだまされることになる。サブプライムローン詐欺を準備した金融工学のインチキも同類だ。代表者マイロン・ショールズは1997年にノーベル経済学賞を受賞したが、ノーベル賞の権威もこの詐欺師と同程度だということだ。
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週刊『三里塚』(S784号1面6)(2009/10/01)
実りの秋、市東・鈴木さん宅で稲刈り
9月16日、市東孝雄さん宅、9月14日、鈴木幸司さん宅で恒例の稲刈りが行なわれた。市東さんでは8俵の豊作。鈴木さん宅でも例年よりはるかに多い収穫高となった。(写真左は市東さん=右=と萩原富夫さん。写真右の鈴木さんは乾燥作業)
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週刊『三里塚』(S784号1面7)(2009/10/01)
闘いの言葉
飽くことを知らぬ支配階級の科する重税のために、我々は餓死の自由しか持たない。闘うために農村の無産者は組合を作って団結せよ。
1925年八街町 農民組合西部支部
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週刊『三里塚』(S784号2面1)(2009/10/01)
「一軒になっても闘う」
騒音下・菱田地区の闘い
空港内、周辺に拠点数々
三里塚紙上現地調査 (下)
(写真上左 暫定滑走路と鈴木さん宅、横堀団結小屋の位置を示す写真)
(写真上中 @芝山町菱田地区を圧する「菱田廃村化阻止」の看板。後ろが鈴木さん宅の木立)
(写真上右 A空港内のど真ん中に位置し、横風用滑走路を阻む横堀団結小屋と鉄塔)
(写真上左 B4000b滑走路南端にそびえる岩山記念館。開港を阻止しつづけた岩山鉄塔跡に建設された【全景写真にはない】)
(写真上中 C誘導路を「へ」の字に曲げている天神峰現闘本部【全景写真にはない】)
(写真上右 D横堀団結小屋のすぐ脇で、監視のためだけに2人組で24時間配備されるガードマン)
三里塚芝山連合空港反対同盟は、空港予定地の敷地内農民と騒音下の敷地外農民の団結によって闘い抜かれてきた。今回は敷地外の反対同盟の拠点と闘いを紹介する。なお前回写真を掲載できなかった天神峰現闘本部の勇姿も紹介する。
写真@は暫定滑走路から南へ約2`、航空機騒音の直下で闘う鈴木幸司さん宅下に設置されている看板だ。ここは芝山町菱田地区中郷部落。
1984年〜1988年の成田用水闘争によって部落が真っ二つに割れ、かつ1983年3・8分裂の直接の引き金になった地域でもあった。
成田用水というのは、敷地外の反対同盟を切り崩すために、1軒あたり1000万円にも相当する補助金を、運輸省(当時)の空港予算からつけて(農林省予算でない所がミソ)、地域農民の伝来の願いであった圃場(田んぼ)整備を行う攻撃だった。
田の基盤整備をしてやるから空港反対運動を止めろ、という露骨な買収・切り崩し工作だった。基盤整備とは、あちこちに分散している田んぼを交換し合って、それぞれの農家の近くの場所にまとめ、田の区画を大幅に拡大して機械が入りやすいようにし、かつ湿田を改良するための暗きょ排水設備まで完備する工事。水はけの悪い田に苦しんできた農民の願望を逆手に取って空港反対闘争を切り崩す、まさに“毒まんじゅう”だった。
写真にある看板の手前に広い田んぼが広がっているのだが、この地域に機動隊が1万人も動員される激しい肉弾戦を展開した結果、反対同盟の骨格が守り抜かれた。それが、今日1軒になっても闘争原則を護持している鈴木幸司さん一家の存在だ。その闘いの象徴が写真の看板だ。
部落の共同体的圧力に屈服せず、さらに国家権力の執拗ないやがらせとと日々闘い抜いて、敷地内の仲間との団結の道を歩む鈴木さん一家の闘いは、敷地内で闘う反対同盟員とはまた違った重みと誇りを持っている。敷地内にとっても心強い存在だ。
写真Aは横堀団結小屋だ。横風滑走路を敢然と阻止し、空港のど真ん中にそびえている。最近NAAは写真にあるように、高さ20bにもなる、沖縄の象のオリのような鉄柱と金網で囲い込んだ。いかに恐れているかが分かる。ここも三里塚43年の闘いの勝利性を一目で実感させてくれる拠点だ。
写真Bは、4000b滑走路の南端750bに今もそびえ立つ岩山記念館。鉄骨3階建て。1977年5月6日にだまし討ちで倒された岩山大鉄塔(62b)の跡地に、急きょ建設され、三里塚闘争のシンボルにもなっている。(全景写真には載っていません)
そして写真Dにあるのが、“三里塚名物”ガードマンの監視台だ。
成田空港には1県警をはるかに上回る1500人の空港警備隊が常駐している。その他に警察車両7台が、反対同盟と現地支援を監視、尾行、いやがらせをするためだけに配備されている。それでも足らず、写真Dのような民間ガードマンが、東峰神社、横堀団結小屋などの闘争拠点および空港内数十箇所にある監視台に配置され、農作業などを含めた反対同盟の日常を24時間見張っている。その他に、民間ガードマンの車両が、独自で敷地内全体をパトロールしている。
これら全体が、三里塚闘争43年の闘いの偉大さと敵権力にとっての打撃感を如実に表している。まさに、三里塚現地を体験すること自身が“革命の学校”となるのだ。
韓国・民主労総の労働者をはじめ、三里塚を訪れた誰もが「闘えば勝てる」という闘いの真理を実感する。市東さん宅わきの「DOWN WITH NARITA AIRPORT!(成田空港粉砕!)」という英語の大看板を見て、取材に訪れる外国放送局も数多い。(ドイツ放送、オーストラリア放送など)
集会に参加するだけでなく三里塚のこの空気を土を直接感じよう。
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週刊『三里塚』(S784号2面2)(2009/10/01)
「車の両輪」論を提唱
階級的敵がい心を貫く 戸村思想を学ぼう@
動労千葉との連帯こそ
世界大恐慌情勢、民主党・連合の結託政権の反動的な登場の中、今こそ革命を掲げ、世界の労働者人民とともに立ち上がる時だ。大恐慌と戦争、民営化と労組破壊の攻撃と対決し、国鉄決戦を基軸に4大産別決戦に立ち上がろう。この闘いとともに、三里塚暫定滑走路北延伸10月供用粉砕、市東さんの農地強奪阻止の闘いを労農学人民の総決起でかちとろう。労農連帯を発展させよう。三里塚闘争の勝利は階級闘争全体の勝利と一体である。
本紙では今回から「階級的敵がい心を貫く戸村思想に学ぼう」と題して、故戸村委員長の思想のエッセンスを紹介していきたい。
三里塚闘争の歴史は、戸村一作委員長(1909〜1979年)、敷地内天神峰の市東孝雄さんの父、市東東市(しとう・とういち)さん(1914〜1999年)の存在と闘いなしに語れない。
不世出の指導者
常に闘いの先頭にあって革命的な闘いの言葉を遺(のこ)した2人の先達の語録は、2009年の今も生きている。
生前、市東東市氏は、語っていた。「戸村思想、これぬきに三里塚闘争は語れないよ。農地死守も俺(おれ)は言うよ。言うけど、最終的に敵を倒すのは革命思想だよな。階級的憎悪の強弱によって決するんだと戸村さんは言ってたな。農民が何らかの形で敵と談合したら、すでに条件闘争に入っているんだって。階級闘争ってことだよ」(84年9月15日 反対同盟発行『大地をうてば響きあり』から)
三里塚闘争の不屈の指導者、戸村一作反対同盟委員長の逝去から30年の今年は、同時に生誕100年の年でもある。戸村さんは、日本の、いや世界の階級闘争史に残る傑出した指導者だった。帝国主義国家権力に対して絶対に妥協することのない姿勢と怒り、憎悪、階級的敵がい心、労働者・農民・学生・人民の闘いに対する限りない信頼と愛情、全世界の闘う人民に対する階級的連帯、動労千葉と三里塚を先頭とする労農同盟の中にプロレタリア革命の勝利を展望して「この道を進めば必ず勝利する」と説き続けた生涯だった。
何よりも晩年、動労千葉の動労本部カクマル松崎との闘い、ジェット燃料貨車輸送阻止闘争では、労農同盟についての戸村さんの考えを確定させた。
彼は「動労千葉は鉄路を武器に、反対同盟は農地を武器に闘う。これが労農連帯だ」と明快に喝破し、「車の両輪」論を鮮明に提起した。動労本部カクマルを弾劾してやまず、動労千葉の分離独立の闘いに大いに貢献した。
戸村委員長は、「敵権力に何をもって応えるか」の問いに、こう答えた。「戦いにとって、不可欠なものは敵愾心(てきがいしん)だ。敵愾心とは私憤や怨恨(えんこん)ではない。あくまでも階級的視点から見定めた敵に対する心からの怒りだ」と。
最期の病床から
最後に、戸村委員長が、病床から発した1979年10・21集会へのメッセージを紹介する。当時の三里塚闘争は、後の脱落派に行く島寛征事務局次長(当時)らによる自民党・加藤紘一らとの「話し合い」条件派化策動との闘いの渦中にあった。戸村委員長は亡くなる10日あまり前(11月2日逝去)最後の力をふり絞って同盟員に徹底非妥協・実力闘争の闘争原則死守を訴えたのだ。
「いま三里塚の農民にとって必要なことは革命的な闘いの魂ではないでしょうか。14年間闘い続けてきた闘いの精神に立ち戻らなければならない。三里塚と動労千葉の革命的連帯こそ勝利の道だと私は思う。この道こそ80年代の日本を革命にまで導く不可欠のものです。……
三里塚は日々勝利しているのです。そして必ず勝利するのだ。この無様な空港をご覧なさい。われわれの闘いは目前で敵権力を圧倒しているではありませんか。同志よ! 手を固く握り合って心を一つにして最後の勝利まで戦い抜きましょう」。 (つづく)
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週刊『三里塚』(S784号2面3)(2009/10/01)
三里塚営農だより
鈴木幸司さん宅
農民は自然と共に
9月14日、鈴木さん宅の稲刈りが終わった。鈴木さん宅では、フサオトメ(早稲)、コシヒカリ、月見(餅米)という3種類の米を作っている。だから稲刈りは1日では終わらない。今年は台風の襲来が多く、コシヒカリは強風で稲が倒れてしまった。長引かせるわけにはいかないと集中して稲刈りし、予定より早く終えることができた。
天候不順で凶作が伝えられる割には、まずまずの出来だ。(取れ高はヒ・ミ・ツ。自慢できるほどじゃないからね)
鈴木さん宅の農業は産直の畑が軸だけど、やっぱり農家にとって米は特別。スルス(もみすり)までやり終えると、「収穫の秋」の喜びがわいてくる。
さあ、秋・冬野菜の作付けに全力だ。大根の種をまき、葉物の種をまき、これからニンニクの植え付けがある。雑草は相変わらず成長が早いし、ブロッコリーの周りを蝶々が飛び始めた。自然相手の野菜作りは、苦労が全て報われるわけではない。
今年、ゴボウはほぼ全滅。しっかり芽を出したはずの人参がいっこうに育たない。「今年の正月野菜、品目がそろうだろうか?」と不安になる。そんな時、加代子さんの声が響いてくる。
「やきもきしたってしょうがないよ。自然とともに生きる農民は何度でも立ち直るのさ」。そう言い切れるのは消費者(労働者)との固い絆があるから。金しか信じられない連中にはこれが理解できない。10・11集会がもうすぐだ。
(写真 種まき機で作業をする鈴木加代子さん)
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週刊『三里塚』(S784号2面4)(2009/10/01)
三芝百景 三里塚現地日誌 2009
9月9日(水)〜9月22日(火)
●デルタ航空が日航吸収の意図表明 世界最大のアメリカ航空会社・デルタ航空が、倒産の危機にあえぐ日本航空に対して、資本参加の意向を表明した。(11日)
●アメリカン航空連合も“参戦” 第2位の航空会社・アメリカン航空も、イギリスのブリティッシュ・エアウェイ、豪州のカンタス航空と組んで、日航の吸収合併戦争に“参戦”(13日)
●千葉での裁判員裁判反対集会を実現
この日、千葉県で初の裁判員裁判が開かれることに抗議して、裁判員制度はいらない、千葉県実行委員会主催の集会デモが千葉市で闘われた。動労千葉と共に三里塚現闘も参加して先頭で闘った。(14日=写真)
●日航が新たなリストラ案
国土交通省や金融資本から経営再建計画の提出を求められている日本航空は、この日開かれた「有識者会議」に対し、国際・国内あわせ50路線からの撤退、3年間で6800人の大量リストラ案を発表。(15日=1面に記事)
●三里塚現闘、3回目の成田駅頭街宣 (15日)
●日米航空自由化協定を年内に合意へ 航空会社が路線や便数を自由に設定できる航空自由化(オープンスカイ)協定の締結に向け、日米航空当局者が年内合意を目指す方針で一致した。(16日)
●鈴木さん一坪裁判で仲戸川裁判長、県を追及 (17日=1面に記事)
●脱落派共有者を提訴 NAAは、旧脱落派本部など4カ所の一坪共有者69人を相手取って、明け渡し裁判を起こした。(18日)
●現闘本部、岩山団結小屋などへの成田治安法による使用禁止処分が延長される (18日)
●反戦共同委全国活動者会議に北原事務局長がメッセージを送り、三里塚現闘が10・11集会をアピールした。(20日)
●「群馬・市東さんの農地を守る会」集会が成功 「群馬・市東さんの農地を守る会」が高崎市で10・11集会の成功にむけた集会を開催し大成功した。(21日=1面に記事)
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週刊『三里塚』(S784号2面5)(2009/10/01)
解放のうぶ声 下総農民の開墾と闘いの歴史
蘇るむしろ旗第2部(31)
第3部 八街で闘われた小作争議
400人が実力耕作やりぬく
故三浦五郎さんも応援に
大鐘争議の激闘 A
1925年小作料の引き下げ要求から開始された大鐘争議の本格的攻防は、28年、地主からの小作人の小作地立入禁止請求提訴から始まった。
26年、霜害が八街町を襲い、夏には旱ばつで農家の減収に。西村郡司などの地主の多くが小作料を減免した。しかし大鐘は、小作人のこの要求を拒否するだけでなく、逆に前回述べた法廷和解を口実に完納を迫り、農民組合の解体を狙った。小作人側の滞納を口実に組合員5人を選別し、10町歩の土地立入禁止の提訴を28年6月に行った。
千葉地裁は29年、土地明け渡しの処分を下す。小作人側は農民組合の支援を受け闘いぬく。地裁判決に控訴。31年2月に控訴棄却、上告。8月、大審院判決(上告棄却)。全国農民組合は、この闘いを重視し、大衆動員して大鐘闘争支援集会を開催し、滞納小作料差し押さえ反対・強制執行反対の実力行動に立ち上がる。
31年10月26日、小作人は実力で共同耕作に立ち上がった。大鐘の立入り禁止通告に対して、全農で総決起を呼びかけた。全農(総本部派)は、県連本部そのものを八街町に移した。「大衆動員による非合法戦術によることとし、犠牲者を覚悟して土地を死守する協議をなした」(「千葉県八街町大鐘小作争議の概況」)。組合は、家族100名そして周辺組合員300名の動員を計画した。
全農全会派も、7月に大鐘争議支援の取り組みを決定し、全県の闘いへ発展した。反対同盟の故三浦五郎さんは、弱冠18歳、自転車で1時間かけて駆けつけた。
いよいよ実力闘争だと、皆気持ちが高ぶっていた。すでに山本源次郎(争議部長)と平賀寅松(委員長)は来ている。平賀は、先月、日本は中国東北部への侵略戦争を開始したことをとりあげ、「地主の攻勢に団結して闘いましょう」と提起し、地元の南総小作争議(メモ参照)について「八街も南総も地主と小作が向かい合った農民闘争の川中島だ。家族ぐるみの野戦だ」と発言し、盛大な拍手が送られる。
青年部の者は「南総では、子供は同盟休校で、少年行商隊をつくって宣伝した。オッカアらも、子供がやられては気が気でないと一緒に闘った。野戦では女子供も重要」と、訴える。
共同耕作は麦だ。これなら半年は地主に取られない。当日は日の出前から準備し、暗い内から畑を耕す。別の一隊が、土を入れながら更に土を砕きながらならす。その後に麦のモミを蒔く。
行動隊が結成された。午後から街の家々にビラを配った。自転車部隊が、「大鐘を許すな」とペンキで書いた古新聞を電柱に張っていく。青年部は、大鐘宅地の近くの空き地に行き演説を始める。大声でやれば大鐘にも聞こえる。その内巡査がきて「脅迫罪だ。解散しろ」というが、「集会じゃない。演説の練習だ」と言い返す。巡査は、結局メモ帳に演説を盛んに書き写しているだけだった。
争議団の山本文一は「警官出入り禁止」の立て札を家の前に立て、権力の破壊策動を粉砕した。
大鐘は、31年秋、農民組合の攻勢の前に手出しができなかった。新聞でも「地主は何ゆえ強制執行を行いえずにいるか」と問われ、「強硬な地主も係争地の桑10万本の処置に窮し休戦」と揶揄(やゆ)される始末であった。強制執行そのものが地主のデタラメな要求であり、反対者の存在するかぎり不可能なのだ。
また、地主階級が分裂していた。大鐘は、差し押さえ処分の強制執行にそなえ「千葉県地主協会」の設立を準備した。地主協会は、農民組合に対抗するもので全国的に設立されていた。しかし、八街においては、大地主・西村が小作争議の泥沼化を恐れて大鐘の提案を拒否、そのため地主協会の設立は流産した。このことが、大鐘に強硬手段をとることを躊躇((ちゅうちょ)させた。
これらを覆すため大鐘は、32年5月、暴力団=関東国粋会を引き入れる。八街の暴力団員・渡辺輿四郎外数人の発起で、関東国粋会八街支部を結成。5月8日の発会式には同会顧問陸軍中将・高山公道、陸軍少将・木田伊之助が出席した。渡辺は「危険分子に極力対抗し撲滅を期す目的から組織した」と言い放った。権力は各紙新聞報道で、「無産党の発祥地・八街町は、町治に紛争を重ね県下の難治町として注目されていたが、国粋会支部が生まれ皇室中心主義で…すさみきっている町の挽回が目的」と意図を明らかにした。
関東国粋会は、1919年設立。親組織である大日本国粋会は、第一次世界大戦以後の労働運動の発展に危機感を抱いた当時の原首相や内務大臣のバックアップで、博徒系右翼の全国組織として結成された。初代総裁に伯爵・大木遠吉(司法大臣)、顧問に頭山満、その綱領において「皇室中心」「労使共同」を掲げ、会社側の暴力装置となった。
1920年の八幡製鉄ストでは2万8千人の労働者を襲撃するほか、千葉県では、野田醤油争議に介入した。20年代半ばからは、地主会の意向を受け小作争議をも攻撃、千葉の小作争議では大鐘争議で初めて登場した。(つづく)
(写真 戦前の小作争議での共同耕作風景【写真は1930年宮城県の闘い】)
●メモ・・・南総小作争議
千葉県の小作争議の大きなものの一つ。24年、県中部の東村高谷争議と土睦村北山田・大谷木争議など。前者は、小作人宅井戸への毒薬の投入・馬の毒殺、報復に地主の屋敷に放火と対立が激化した。後者は、「少年隊」を結成、同盟休校・行商隊を組織し、北総地区カンパの落花生やサツマイモを売りながら情宣活動を行った。
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