■T 無実の決定的証拠
沖縄闘争で獄中38年
星野文昭さんの無罪解放を!
表紙の写真を見て驚いた人もいると思う。
左側のきつね色の背広の人は、71年11・14渋谷闘争時に機動隊を殴打しているデモ隊員の服装だ。
右側の薄青色の背広の人が星野文昭さんの服装だ。当日星野さんの服装は薄青色の背広だった。
殴打者の背広はきつね色、星野さんの背広は薄青色、星野さんは殴打者ではない、無実だ。星野さんは警察官を殴打していない。近くの十字路にいた。そこからNHK方面の自動車のフロントガラスが光るのを見ている。
無実の決定的な事実が明らかになっているのに逮捕から38年間たっても、今なお星野さんは徳島刑務所に無期懲役囚としてとらわれている。
多くの労働者人民が無実の政治犯・星野さん救援運動を行い、2013年内に取り戻そうと運動を展開している。 1971年11月14日、沖縄返還協定に反対する渋谷闘争が闘われた。機動隊の壁を突破して数万のデモ隊が渋谷を制圧した。この闘いの中でデモ隊と衝突して1人の機動隊員が死亡した。警察は、国家の威信をかけて犯人捜しに乗り出し、少年を次々に逮捕しウソの自供を強制した。
デモ隊員だったKrという1人の少年がでっち上げ逮捕された。
「きつね色の背広を着た人が機動隊員を殴ったのを見た」
「きつね色の背広を着た人は星野さんしかいない」
「だから殴打した人は星野さんだ」という供述を強制された。この供述が星野さん有罪・無期懲役の核心証拠になっている。
だが、星野さんの当日の服装は薄青色だった。
無実が明々白々な星野さんを取り戻すためにどうすればいいのか。
1975年8月の不当逮捕以来、星野さんの獄中闘争は実に38年目に突入している。最高裁での上告棄却、徳島刑務所移監からでも25年の超長期拘束である。まさに星野闘争は星野さんの人間としての、人生の全てをかけた闘いである。それは日本の労働者人民の先頭に立つ闘いだ。ここまで激しい階級的激突点になっている星野闘争の対決の内容を理解してほしい。
星野さんの再審闘争は、第2次再審闘争に入っていたが12年3月30日、東京高裁によって棄却された。4月3日異議を申し立て、現在異議審の段階に入っている。第1次再審請求(08年に最高裁が特別抗告棄却決定)は重大な成果を勝ち取ったが、第2次再審請求はそれをも上回る重大な展開を切り開いた。
それを貫いたものは星野さんの「無実だ!!」の叫びであり、不屈の闘魂だ。同時に暁子さんをはじめとする家族の方々の支えであり、弁護団のすさまじい努力であり、とりわけ「星野さんをとり戻そう! 全国再審連絡会議」を中心とする支援・救援活動の粘り強い取り組みにほかならない。
また、労働者階級の闘いとしては、12年2月5日に、労組交流センターを中心とした600名による徳島刑務所包囲闘争が闘われ、星野闘争を全階級のものへと発展させる上で重大な地平を勝ち取ってきた。
12年11月23日には再審連絡会議の主催で「全証拠開示大運動で無実の星野さんを奪還しよう!」をめざした星野再審全国集会が開催され、全証拠の開示を求める運動を基軸にして、決意も新たに星野さん奪還闘争を巻き起こしていくことが宣言された。星野闘争は勝利をめざした新たな局面に入ろうとしている。
それを担うのは労働者階級人民だ。新自由主義と対決する労働者階級の闘いは、労働組合の階級的再生をめざす闘いを中心として、全世界的スケールをもって怒涛のような発展を作り出そうとしている。労働組合も全運動もその発展のために死力を尽くしている。
星野裁判闘争では、殴打場面における「背広の色」の問題、火炎びん投てきの「指示」をめぐる「声」による判定の問題、星野さんが十字路で確認した「NHK方面の車のフロントガラスの光」問題の〈3点〉が中心として浮かび上がってきている。
本特集は、2013年に無実の星野さんを奪還するために、星野さんの無実を全面的に明らかにして、全証拠開示大運動の一翼を担うものである。
裁判・再審の経過 |
一審(東京地裁刑事第7部)
1979.2.13死刑求刑
1979.8.21判決(懲役20年) |
↓↓ |
二審(東京高裁第11刑事部)
1983.7.13判決(無期懲役)
[確定判決になっている] |
↓↓ |
三審(最高裁第2小法廷)
1987.7.17上告棄却決定
↓↓
第1次再審闘争
1996.4.17 再審請求(東京高裁第11刑事部)
2000.2.22棄却決定
↓↓
2000.2.24異議申立(東京高裁第12刑事部)
2004.1.19棄却決定
↓↓
2004.1.23特別抗告(最高裁第2小法廷)
2008.7.14棄却決定 |
↓↓ |
第2次再審闘争
2009.11.27再審請求(東京高裁第11刑事部)
2012.3.30棄却決定
↓↓
2012.4.3異議申立(東京高裁第12刑事部) |
星野さんが最先頭で闘った1971年11・14渋谷闘争
星野文昭さんが先頭に立って闘い、そのゆえにでっち上げ弾圧を受けた「1971年11・14渋谷闘争」とはどういう闘いだったのだろうか。
労働者人民が全力で粉砕しようとした「沖縄返還協定」とは、沖縄県民の「本土復帰」の要求に応えるポーズをとって、実は日本帝国主義の責任において基地沖縄の現実を維持・固定化するものだった。この返還協定が批准されて、翌1972年5月15日に「沖縄の本土復帰」が行われた。その後40年、事態はまさに労働者人民が反対したとおりになっている。米軍基地の大半が沖縄に置かれ続け、次々と新型兵器が持ち込まれ、米軍による事件・事故は後を絶たない。端的に言えば、11・14闘争はこういうことに対する闘いだったのだ。
沖縄は、歴史的に日本帝国主義のもとに差別・抑圧されてきた。太平洋戦争では「国体護持」(天皇制死守)の捨て石として戦場にたたき込まれ、実に県民の3分の1の命が奪われた。米帝は戦後のアジア・太平洋地域の制圧の要として沖縄を位置づけ、1952年4月28日発効の対日講和条約で、沖縄を切り離して軍事支配を続けた。19
50年代には銃剣とブルドーザーで基地をさらに拡張した。こうした米軍政支配のもとで、沖縄の労働者人民の中から「本土復帰」の要求が高まった。
本土では、70年安保闘争に向かう中で、全学連の学生と反戦青年委員会(労組青年部を始め闘う青年労働者が結集)は、沖縄県民の本土復帰要求の意義を真っ向からとらえ、その怒りをわがものとし、「沖縄の永久核基地化阻止、本土復帰・基地撤去」「沖縄奪還」の旗を掲げて闘った。 69年4・28沖縄奪還闘争は「首都制圧・官邸占拠」を掲げて闘われた。この闘いの爆発の趨勢に恐怖した権力は、前日の4月27日、破壊活動防止法を左翼の闘いに対して初めて適用し、革共同の本多延嘉書記長らを逮捕した。まさに沖縄奪還闘争が日本の国家体制の根幹を揺るがすものであることを、敵の側が認めて襲いかかってきたのだ。
(写真 高崎経済大学の闘争を記録した映画『圧殺の森』に登場した星野さん【1967年】)
沖縄返還政策の本質
政府の沖縄返還政策は、沖縄県民の「本土復帰」への島ぐるみの強い要求を逆手にとって、沖縄を日本に包摂することによって「基地の島・沖縄」の現実を維持し固定化し強化しようとするものだった。それは、ベトナム侵略戦争が沖縄を最大の侵略出撃基地として展開されている現実に、日帝自身が積極的に参加していくものでもあった。沖縄県民の「平和な沖縄を取り戻したい」という要求を踏みにじるものだった。
このようなペテン的沖縄「返還」協定に対して、19
71年5、6月の協定調印阻止闘争と、10、11月の批准阻止闘争が爆発した。しかもその中で、全軍労(米軍基地内で働く軍雇用員の組合)など沖縄の戦闘的労働組合が極めて大きな役割を果たした。
沖縄では、5月の調印阻止闘争でのゼネストに続いて、11月10日、協定批准阻止の全島ゼネストが闘われ、10万の労働者人民が決起した。各所で機動隊と激突し、機動隊の催涙ガス銃に対して、石と火炎びんが飛び交い、鉄パイプによる肉弾戦が展開された。この日、浦添市の路上で、デモ隊との衝突で機動隊員1人が死亡した。それは沖縄県民の返還協定に対する怒りの激しさの表現だった。
本土では警視庁は、全学連に対して2度目の破防法を適用し、首都に戒厳体制を敷き、集会・デモを次々と禁止した。こうした中で、全国反戦青年委員会など闘う労働者学生は、「渋谷で大暴動を」と公然と呼びかけ、あらゆる手段で渋谷に突入し、敵権力・機動隊との闘いに決起した。11月14日、渋谷に向かう過程の池袋駅ホームで、機動隊に襲撃された大阪の教育労働者、永田典子さんが虐殺された。渋谷は1万2000人の機動隊で押さえられ、封鎖された。しかし、数万の民衆が渋谷に押し寄せ、権力に対する怒りの決起を自主的に闘い、渋谷に登場した全学連、反戦の軍団と呼応して闘った。予告通りの東京大暴動が人民の手で実現したのだ。
こうした中で、星野さんを先頭とした部隊の渋谷に向かっての突進の闘いがあったのだ。
(写真 全学連、反戦青年委員会とともに数万の民衆が道玄坂で機動隊と対峙【1971年11月14日)=三留理男撮影)
権力によるでっち上げの構造 機動隊撃破・死亡への報復
11月14日、小田急線代々木八幡駅に降りたデモ隊は、真っ直ぐ渋谷駅に向かった。途中、神山交番前で阻止線を張っていた機動隊を撃破した。その時1名の機動隊員が逃げ後れ、捕捉され、翌日死亡する事態が発生した。
「星野さん主犯説」をねつ造
機動隊員の死亡に大打撃を受けた日帝・警視庁は、当初、労働者に弾圧を集中した。12月から事後逮捕が始まり、不当逮捕された労働者は総計で20名にも上る。だが、完全黙秘のたたかいによって権力に付け入るスキを与えなかった。
そこで、後藤田警察庁長官を司令部とする日帝・権力は「何がなんでも警官殺害の犯人を検挙せよ」の大号令を出し、なりふりかまわぬ弾圧に乗り出してきた。
翌72年に入るや、日帝・権力はデモ隊のリーダーだった星野さんをでっち上げることを目的にする。星野さんが高崎経済大学の学生であったことから、11・14闘争に多数決起した群馬の学生への見込み逮捕に踏み切っていく。いわゆる「黒ヘル」の学生への逮捕を「突破口」に、大「フレームアップ」作戦が展開されていったのだ。
全部で14名の群馬の学生を次々に逮捕し、暴力的で卑劣な手口を使って「殺人罪」でっち上げに走った。
こうして、奥深山幸男さんと、Kr、Ao、Arの少年3人を「殺人罪」ででっち上げ、「星野さん主犯、実行犯」説をねつ造していった。さらには、闘争現場に行っていない荒川碩哉さんをも「共謀共同正犯」で逮捕・起訴し、大坂正明さんを全国指名手配した。
このすべてが、日帝・国家権力による、おそるべきでっち上げであった。11・14沖縄闘争の爆発に対する、焦りに満ちた報復として強行されたのだった。
確定判決の脆弱性 物証はない
星野さんへの「殺人罪」がでっち上げであることによって、確定判決(1983年、東京高裁・草場良八裁判長が下した「無期懲役」判決)の証拠構造は極めて脆弱で、破綻的である。
確定判決が星野さんに「無期懲役」の判決を下した理由は、@星野さんが、数人のデモ隊員と共に機動隊員を殴打した。A星野さんが「火炎びんを投げろ」と指示した。という2つの「行為」によってである。しかし星野さんは、このどちらも全くやっていない。完全なでっち上げである。
この星野さんの「行為」を認定した「証拠」の中に、物証、写真、第三者の目撃供述などの客観的証拠は一切ない。あるのは、6人の群馬の学生の「供述調書」のみである。6人のうち3人が少年で、少年3人の「供述調書」が確定判決の証拠構造の柱をなしているのである。少年3人は、自らも「殺人罪」ででっち上げられた。
供述調書のつまみぐい
確定判決は、「星野さんが機動隊員を殴打した」ことの「証拠」はKr「供述」から拾い、「星野さんが火炎びん投てきを指示した」ことの証拠は、AoとArの「供述」から拾い出している。1人の「供述」について、ある部分は信用できるが、ある部分は信用できないというご都合主義を満展開させており、得手勝手な調書のつまみぐいである。
公判証言を採用せず
さらに、でっち上げ「供述」をさせられた学生6人のうち5人は、星野さんの裁判で、「調書は、誘導と強制によってでっち上げられたもの。機動隊殴打現場で星野さんを見ていない」と、詳細に証言した。1人は証言拒否した。
ところが、確定判決はこの法廷証言は信用できないと退け、「供述調書」のみで星野さんに無期懲役を下したのだ。検察・警察の取り調べこそ、密室で長期間、連日にわたって行われた誘導と強制に他ならず、「供述」は星野さんをでっち上げる目的でねつ造された。
確定判決を打ち砕け
星野さんは無実である。無実の星野さんが、38年間も獄中に閉じ込められていることに心底から怒りがわきあがる。こんな不正義・理不尽が許されていいわけがない。
日帝・東京高裁と真っ向から対決し、でっち上げを打ち破って、必ずや星野さんを取り戻そう。
(上図 表【画像】)
供述者
/
星野さんの行為 |
機動隊「殺害」に加わったとして起訴された学生 |
周りで見ていたと「自供」した学生 |
Kr
18歳 |
Ao
19歳 |
Ar
16歳 |
It
20歳 |
Si
21歳 |
Ot
21歳 |
星野さんが機動隊員を殴打した |
供述調書 |
○ |
/ |
否定 |
○ |
否定 |
○ |
公判証言 |
否定 |
/ |
否定 |
否定 |
否定 |
証言拒否 |
星野さんが「火炎びんを投げろ」と指示した |
供述調書 |
/ |
○ |
○ |
/ |
/ |
/ |
公判証言 |
/ |
否定 |
否定 |
/ |
/ |
/ |
○は供述者が星野さんの行為を認めて、確定判決が採用したもの
斜線は、供述していないか、「わからない」と供述したもの
否定は、積極的否定
でっち上げの象徴は「背広の色」 Krが見たのは「きつね」色、星野さんは「薄青」色
(図 Kr供述の「3段階」【画像】)
星野さんは「きつね色」の背広を着させられて「無期懲役」にされた
星野さんに対する国家権力のでっち上げを象徴するものが星野さんが闘争当日に着ていた「背広の色」の問題だ。星野さんは薄青色の背広を着ていた。
ところが星野さんは最高裁の上告棄却・確定判決によって、「きつね色」の背広を着させられて無期懲役の重罪に処されている。
Krが見たのは、機動隊員を殴打するデモ隊員の「後ろ姿」、しかも「若干半身ぐらい」を一瞬見たというあやふやな「目撃」に過ぎない。だから殴打者の背広の色が決定的とされたのだ。検察は、Krを最大の核心的目撃者に仕立て上げ、殴打者は「きつね色の背広上下を着ていた」との供述を星野さんでっち上げの柱にすえた。
Kr供述の三段階
Kr供述は次の三段階で成り立っている。
A 「機動隊を殴打していた人はきつね色の背広を着ていた」
B 「きつね色の背広を着ていたのは星野さんしかいない」
C 「だから殴打していたのは星野さんだ」
この供述の原型は72年2月16日(2月2日逮捕)の警察官取り調べ調書である。これは警察官によってでっち上げられたものだ。
Krは以下のように供述させられている。
「顔を覆っている手を、うすいクリーム色の背広の人が鉄パイプでしきりに殴りつけていました」
「この時、このような服装の人は星野さんしかいない」
「顔は見ていませんが、この殴っていた人は星野さんだったと思います」
Krは、殴打者の背広の色について、きつね色とか薄いクリーム色と言っている。
しかしKrは、公判において警察官の誘導を暴き、この供述(星野さん断定)を否定している。
警察官による誘導
星野さん一審裁判(4回)で以下のように証言している。
「その場で見ているのは『きつね色の背広の服を着た人』です。鉄パイプで殴っているのを見ている。現場でほとんど初めて会った人たちばかりで、人物として特定しがたい」
「警察官に『お前の記憶の範囲で名前を知っているか、見たことのある人間の名前をあげろ』『星野さんじゃないか』と問い詰められ」
「他の人間も言っているから、それは間違いないだろうということで、調書に記載されていった」
このように警察・検察による取り調べ過程を生々しく再現し、すべて権力のでっち上げであることを暴露した。
しかし確定判決は、Krの公判証言を認めず、2・16警察官調書の基本骨格を維持して、星野さんをきつね色の背広を着ていた殴打者としたのだ。
「殴打者の背広はきつね色」とKrは一貫して主張
ここで重要なことは、Krにとって確かなものはAの「きつね色の背広の人が殴っているのを見た」しかないということだ。これだけはKrが「見た」「確言できる」と言っていること、ここをしっかり押さえる。
だが、権力にとって重要なのはCの「だから星野さんが殴ったと思う」だけなのだ。
この「ズレ」が一切のポイントである。つまり、検察・警察にとって「殴ったのは星野さん」の言葉さえ得れば、「後はどうでもよい」としたのだ。権力は「色など(第二義的なことで)どうでもよい」「星野の名さえ得れば」という立場をとったのだ。
星野さんの背広の色は薄青色(あらゆる証拠・証言で明らか)であるのに、Bの「この時、きつね色の背広を着ていたのは星野さんしかいなかった」という間違った「土台」の上に権力にとって最も重要な「殴っていたのは星野さん」という「結論」を構築したのだ。
したがって、いつまで経っても「きつね色」か「薄青色」か不確定というふうに土台そのものが揺らぐから、構築物全体が揺らぐのだ。この動揺の原因は、直接的「証拠」とされた検察・警察の調書(Kr供述)であるがそれだけではない。確定判決がそれを「確定」づけたのだ。
確定判決は色問題でグラグラ
そもそも、星野さんの背広の色をきつね色と断定した確定判決自体が、色問題でグラグラなのだ。
確定判決は以下のように述べる。
「本件当日の被告人星野の服装についての関係証拠は、薄水色、空色、灰色あるいは白っぽいブレザーであるとか、薄いねずみ色の作業服であるとか、薄青色の背広であるとかとなっており、Krのみが薄いクリーム色ないしきつね色の背広上下と供述している」
「同人の供述が特異に過ぎて、直ちにはこれを信用し難いのかどうか」とまで言う。
他の証人は皆、星野さんの背広は薄青色(ないし同系統)と言っているのにKrだけが「きつね色」と言い張るのは、あまりに「特異に過ぎて」、これを同一人物を見た証言とするには無理があり過ぎるのか? という寸前まで動揺する。その動揺を押し隠すため、「他人の服装、とくにその色の区別については、特段の事情のない限り、目撃者の記憶に残り難いことを示すものと言うべきである」といったん逃げを打つ。
しかし、Kr供述(「殴っていたのは星野さんだと思う」)はどうしても不可欠と判断した確定判決は、「中村巡査(死亡した機動隊員)殴打という特異な状況下における認識として、同被告人の服装の色に関する記憶が保持されていたものと言うべく、またその認識に、他との混同があるとも解し難い」と、今度は「特異な状況下にあった」から、なおさら記憶が鮮明であったと「きつね色」にしがみつく。
確定判決はさらに、神山交番のところで星野さんが肩車にのって演説しているのを現認した大竹巡査(阻止線を張っていた機動隊員)が「同被告人が黄色か、茶色っぽい服装をしていた旨供述している」とまで言い出す。
こうして確定判決は真実(星野さんの背広の色は薄青色=Krが見た背広の色とは全く別の色)からどんどん遠ざかって、星野さんはきつね色の背広を着ていた、だから星野さんが殴打していたという完全に虚偽の判決に転落した。
薄青色の背広を着ていた星野さんは、この誤った確定判決によってきつね色の背広を着せられ、殴打者とされ、無期懲役を強制されている。
Kr供述は権力の誘導
星野さんを無期懲役に追いやった核心的証拠とされるこのKr供述(目撃)が、権力の誘導による作り話だったことがどんどん明らかになっていった。
Krは闘争当日はもとより、Krが逮捕された時点(72年2月2日)でも星野さんを全く認識していなかった。Krは次のように証言している(星野一審第4回公判)
検察官の「中野駅のホームで星野文昭という人の姿は見たといわれましたね」「その人はこの法廷にいる被告人(星野文昭さん)ですか」との問いに対してKrは以下のように答えている。
「確定しがたいです」「当日初めて会って、それほど時間的に顔を見ていないわけです」「星野文昭さんだと確定的に聞いたのは、取調べの段階だった」「人物として特定しがたい。じゃ、お前の記憶の範囲で名前を知っているというか、見たことのある人間をあげろということだったわけですね。そのとき、星野さんだったんじゃないかという、その人、きつね色の上下を着た人ですね。それに対して、ほかの人間も言っているから、それは間違いないだろうということで、調書に記載されていった」
続く検察官の 「中村巡査ですけれどもこの人をシャッターの前でかこんでいた状況についてお聞きします。この現場で星野君は見ているのですか」との質問に対して、Krは以下のように答えている。
Kr「星野さんというかたちでは見ていないです」「先ほど申し上げたとおり、4〜5人の人間がいてその中にきつね色の上下を着てる人が若干半身くらい影だけ見えたわけです」
検察官の 「今この被告人を見て、この人がこの現場でちらっと見た、いわゆるきつね色の背広上下の人だということは言えますか」との問いに対して、Krは「それはちょっと絶対に言えないことだと思います」と答えている。Krは、殴打現場にいたきつね色の人が星野さんだということは、絶対に言えないと強く否定している。
Krは権力の激しい圧力の下で動揺を繰り返していく。逮捕当時(72年2月2日)18歳だったKrは家庭裁判所送りや検察逆送を受けながら、逮捕時から4月26日の検事調書までの2カ月余の間に、何と28通もの「供述調書」を作成させられている。
Kr供述の決定的弱点
権力は、2・16警察官調書を作成したが、そこには決定的な弱点があった。事実と異なる「この時、このような服装の人は星野さんしかいない」という点だ。
ところがKr証言以外に目ぼしい「手がかり」がない。困り果てた権力はKr証言に全てをかけた。だから、事実とは全く違う「きつね色の背広を着た星野像」が形成されてしまった。だが一方では、「きつね色の背広の人が殴打していた」という事実は、揺らがずに残った。
Kr供述の意義は、多くの動揺や屈服にもかかわらずKrが自身の眼底(脳裏)に焼きついた真実、「きつね色の背広の人が殴打していた」という事実を曲げることはできなかった点にある。その点は一度として揺らいでいない。
確定判決は、「きつね色の背広を着ていたのは星野さん」のところで誰が見ても破産している。それはKr供述に全体重をのせた確定判決の矛盾点であるのだ。確定判決は、この矛盾点を抱えたまま星野さんを一審での「20年」という不当判決を、「無期懲役」に超エスカレートした。
最高裁が上告棄却(1987年7月17日)して確定した判決が、星野さんにきつね色の背広を「着せた」とんでもない虚構であることをしっかりと押さえ、怒りを爆発させて追撃しよう。
(図 星野さんはデモ指揮者として殴打現場を左に見て十字路にたった)
最高裁・第1次再審請求「棄却決定」で「Kr供述の誤り」認める。 「星野さんの背広の色は薄青色」
長く粘り強い闘いはついに敵の一角を切り崩した。
星野さんと第1次再審請求を担った弁護団の追及により最高裁は、特別抗告棄却決定の中で、確定判決の中に明白な誤りがあったことを認めた。
「これら証拠を総合すると、本件当日の申立人(星野さん)の服装が薄青色の上着であった可能性が高く、この点に関するKr供述には誤りがあると認められる。(中略)申立人が着用していた背広の色に関するKr供述に誤りがあることが明らかになったとしても、なお、確定判決の挙示する検察官調書2通を含め、申立人が中村巡査の殴打に関与していたとのKr供述の信用性は揺らがないというべきである」
確定判決は、Kr供述を土台にしていた。
「殴打者はきつね色の背広」
「きつね色の背広を着ていたのは星野さんしかいない」
「だから殴打者は星野さん」
最高裁・棄却決定は、星野さんの背広は薄青色と認めたのだから「殴打者=きつね色=星野」論は完全に崩壊した。それゆえ、「星野さんは薄青色」「だから星野さんは殴打者ではない。星野さんは無罪」となるはずだ。
ところが特別抗告棄却決定は、Kr供述のうち、色を棚上げにして「殴打者を見た」という部分だけに切り縮める。「星野さんは薄青色」はしぶしぶ認めざるをえないが、その矛盾点を「Krの見たきつね色というのは実は薄青色だったのだ」というとんでもない“解釈変え”をはかる。それゆえ「殴打者は星野さん」とするのだ。
その理由として、Kr供述における「殴打者」の背広の色に関する認識は誤りだが、Krは殴打現場以前の段階でも星野さんをきつね色と供述している部分があるから、殴打者を星野さんとしても問題ないとした。
最高裁がこの色の違いに「矛盾がない」と言い張っても、それは次のKr証言がその経過を完全に説明してくれている。すなわち、Krは次のように述べている。(星野控訴審7回)
「いや、星野さんがその服装をしていたというんじゃなくて、先ほど申し上げた点在する記憶の中で、まあ警察の取り調べもそうですけど、事件の現場に、そのきつね色の上下の人がいたということは記憶があるわけです。そこから逆にさかのぼっていって、最初会った時にその服装だったというような供述になったというように記憶しています」と。
つまり、権力は取り調べの中で、「星野さん=きつね色」はどうしても矛盾があるのだが、そのためにKrに「星野さんの服装は最初からきつね色だったということにせよ」と強制していたのだ。「星野さん=殴打者」説を強制したいがための権力の暴力的強制、これが(殴打現場以前からも)「星野さん=きつね色」説の真の原因であるのだ。すべてでっち上げだった。
Krは実際に「殴っていたのはきつね色」と繰り返し主張しているのだが、最高裁はそれを「薄青色を見たことにせよ」と命令するのだ。これこそ虚偽の「自白の強要」そのものではないのか。最高裁が先頭切って暴力的な「虚偽自白の強要」をしようというのだ。その破綻は直ちに暴かれる。この最高裁決定の最大の難関は実はKr供述自身にある。
Kr供述はビックリするほど「きつね色を見た」に関しては「固い」のだ。それは殴打現場との「唯物論的」かかわりがあるからだ。それ以外はすべて類推であり虚構なのだ。この点はしっかりと再確認していく必要がある。それが星野裁判闘争の最大のポイントなのである。
最高裁はなぜ「きつね色」の検討を嫌がるのか
最高裁が、星野さんの背広は薄青色だった、これまでのきつね色は誤りだったと認めると、絶対に避けたい別の「問題」を表面化させざるをえない。最高裁は「星野さん=薄青色説」に修正したいのだが、そうなると「別のきつね色のデモ隊員」がいたかどうかという問題が浮上する。星野さんの背広の色を「変えた」だけではすまない。Kr供述の「殴打者はきつね色」の真実性が急速に浮かび上がってくるからだ。
最高裁はついにその重大な「誤り」を認めた。その一方で、「別のきつね色の隊員」の存在に言及せざるをえなくなった。最高裁は自分でその「弱点」を弁解せざるをえない。
「Ab(殴打現場近くのタクシー会社の整備士)が目撃した男がこれに該当すると主張するが、同人は上着は茶系統とうかがわれるものの長さ2メートル前後の鉄パイプのようなものを持っていたというのであり、また、同じく該当する可能性があるとされるFu(通りがかりの人)が目撃した男についても『ベージュの薄いコート』を着ていたなどというのであって、いずれも所持品又は服装においてKrのいう『きつね色の背広上下の男』とは異なっており」としぶしぶではあるが、「きつね色」(同系統)の男性のデモ隊員の存在に言及せざるをえなくなっている。
なぜそのような弁解が必要になったのかだ。理由は簡単である。最高裁はついに星野さんの背広の色を「撤回」した。だが、そのことによって今度は別の「きつね色」(デモ隊員の存在)問題が「残った」のだ。
この点につき、第2次再審請求の補充書(3)は「すなわち、Kr供述の誤りについて、色を見誤ったのではなく、きつね色の服を着た男を請求人(星野さん)と誤って特定したところに合理的疑いが生じてくる」と明確に述べている。
最高裁はこの問いに答えなければならない。最高裁決定は何ら問題を解決できずにいる。最高裁決定が依然として泥沼状態であることをここでは教えてやるだけで十分である。さらなる追撃に移ろう。
第2次再審請求の勝利的地平
しかも、第2次再審請求ではさらに重要な前進が勝ち取られている。
『週刊朝日』(1971年12月3日号)グラビア特集のカメラマンが撮影した「未公開」写真のうちに、デモ隊の最前列に「反戦」のヘルメットをかぶった「きつね色」の男性の姿がとらえられている(表紙裏の写真)。
また、強力な証拠開示の要求を通して、星野さんの姿が「殴打」現場の後に撮影されたものが新たに発見されたが(警察官・一郎丸角治撮影)、その鉄パイプには包装紙の破れなど全く損傷がないことが明らかにされている。これらの事実を積み重ねていけば、星野さんの無実はますます明らかなのだ。
東京高裁と最高裁はこれらの事実を平然と無視して「無期懲役」(死刑の求刑!)を宣告してきたのだ。
何ということだ。
しかも、その判断の「誤り」を認めるのに確定判決からでも25年、不当逮捕からは実に33年かかっているのだ。「誤り」をかかえた状態で人を20年、30年も拘束することができるのか。
不当に33年間も身柄を拘束しておいて「可能性が高い」とか「誤りが認められる」とは何たる言い草か。そもそも最高裁は87年7月に二審判決が誤りを含んだままの状態で「上告棄却」の決定をしているのだ。そのことで二審判決が確定判決になったのではないか。
その責任はどうするつもりか。
まず徹底的に謝罪するべきなのではないか。
まず釈放すべきではないのか。
本当に血が逆流する思いだ。この責任についてはもっともっと厳しく追及しなければならない。
最高裁もそれを認めざるをえなくなった「きつね色」証言とは次の通りである。
Ab証言(71年11月29日検察官調書)
Abは「殴打」現場から70b手前の『都民交通』の整備士であった。目の前をデモ隊が通過した過程を窓から身を乗り出して詳細に目撃している。
「一番初めに、すごい速さで機動隊員を追い駆け、持っていた2b近い竹竿の様な物で隊員を殴った(殴打現場で)男は、前に黒字で反戦と書いた白いヘルメットをかぶり身長は,私と同じくらいに見えたので178a位、少しやせ型の年齢22〜23歳、タオルで覆面をし、その両端を下に下げておりました。めがねをかけていたかどうかははっきりせず、着衣は黄土色の作業着か背広のような上着にGパン」
Fu証言
Fuは、車で現場を走行中、デモ隊に遭遇し、現場交差点より一つ先の交差点を右に曲り車を止め、降りて十字路角から現場を目撃していた。11・14からそれほど経っていない11月23日に検察官に証言している。Fuは、特に印象の深い者として、以下の人物をあげている。
「ヘルをかぶっていたかどうかはよく判りませんが、長髪で身長170a位、細面青白い顔でベージュ色の薄いコートを着た男が図面にAと記した地点で警棒を振るって機動隊員の頭を何回も殴りつけていたことです」
もう一つ決定的に重要なことは「反戦のヘルメット」の存在を認めざるをえなくなったことである。星野さんのヘルメットは「中核」の文字があった。これも彼らの「星野=犯人説」の崩壊に直結する問題なのだ。これらの存在の「表面化」は実は権力の捜査とこれまでの全ての判決を根底から覆すことに直結するものなのだ。
星野「確定判決」を支える「証拠(供述しかない)」を見ると、「群馬の学生」関係者以外の人物・デモ隊が誰一人存在しなかったのではないかという錯覚を覚えるほど不自然なのだ。
まるで群馬の学生8〜9人による『真空空間』での犯罪であるかのように描かれている。これが星野裁判の特徴なのだ。
もちろん、それは完全な虚偽である。
だからこそ、星野さん以外の「きつね色」の服の存在を認めることも、また「反戦のヘルメット」を認めることも判決の基本構造が完全に虚構であることを直接に証明するものになるのである。そうした意味で、最高裁が「誤り」を認めたことは星野さん=でっち上げ有罪を証明する突破口なのである。
Kr供述に「誤り」があると言うのであれば、その全面的撤回しかない。Kr供述は色の判別が核心である。核心となる証拠・証言が行き詰まるのであれば、裁判のやり直し=再審しかないはずだ。そのためにも全証拠の開示がますます求められると言わなければならない。
(図 『時間と距離』)
声で人物特定は出来ない 推測での無期攻撃許すな
第1次再審請求で、最高裁は、Kr供述の服の色の誤りを認めざるを得ない所に追い詰められた。だが、「服の色は間違ったが、殴打者が星野さんだと声で分かった、後ろ姿で分かった」という許しがたい言い逃れに走り、特別抗告を棄却した。これを引き継いで、第2次再審請求で東京高裁は、あくまでも「声で分かった」と言い張り、3・30棄却決定を強行したのである。
服装の色による星野さん識別が崩壊したために、もっと脆弱な声による識別にすがりつかざるを得なくなった。だが、声による識別に依拠するのはさらに一層の破綻である。
そもそも、声だけで人物特定はできない。最近の「振り込め詐欺(オレオレ詐欺)」の激増はこのことを何よりも良く示している。被害者は、他人の声を、自分の息子や夫だと簡単に思いこんでしまう。それほど危険なのだ。
高裁の棄却決定が主張するように、Krが声で星野さんを識別したとは供述調書のどこにも書いていない。
闘争現場は、様々な音や怒声の飛び交う喧噪の中であった。その中で、星野さんの声を聞き分けることなど全く不可能だ。
さらに、Krは星野さんと当日初対面であった。良く知っている人の声を聞き分けたのではない。
その上、Krが聞いたとされるのはごく短い単語に過ぎない。演説や会話を聞いたのではない。
こんなことでKrが声で星野さんを識別したというのは全くデタラメである。
「火炎びんを投げろ」も嘘だ
確定判決が星野さんに無期懲役刑を下したもう一つの理由は、火炎びんを投げるように指示したということである。これはAo、Arの各供述調書を証拠としている。これも全くのデタラメである。
闘争現場では、多くの人が叫んだり、指示を出したりしていた。複数の人が「火炎びんを投げろ」と指示していたことは、確定判決自身が認めているではないか。その中で、星野さんの声だけを聞き分けることなどできない。Ao供述もAr供述も、検察官によるでっち上げである。
Ao、Arの2人は法廷において「星野さんの声を聞いていない」と明らかにした。
Arは法廷で、弁護人が「貴方はその声が星野さんだと思ったのはどうしてですか」と質問したのに対して、「星野さんが指揮者であるから、そうだというふうにほとんど思っていました」と証言している。
第2次再審請求にあたり弁護団は、日本大学の厳島行雄教授に供述調書の鑑定を依頼した。『厳島鑑定書』は、声による人物特定がいかに不確かで、危険であるかを明らかにした。
また、「騒音下の声の識別は問題が多く、元来識別が許されないケースと考えるべきである」としている。
科学的知見を踏みにじる東京高裁の棄却決定を、断固打ち破ろう。
星野さんは十字路にいた NHK方向に光る車を見た
星野文昭さんは、終始十字路にいた。そこで、NHK方向で走る車のフロントガラスが光るのを見た。
星野さんは、第2次再審請求の陳述書で、そのことを完全に明らかにした。星野さんの陳述書は、実際に体験した者にしか言えないはく迫真性がある。以下は陳述書から。
「当日、集会、デモなどの反対行動が禁止された。行動を始めたら直ぐにも妨害、弾圧、襲撃が四方、八方から予想された。
それをはね返し、かいくぐって渋谷に到達すること、結集している人々と合流し、批准阻止闘争を闘いぬくこと、そのために、最短のコースを最短の時間で、妨害、弾圧、襲撃をはねのけ、デモ隊を守りきって渋谷に到達する、その一点に私の役割があった。そのことに全意識を集中していた。
とりわけ、池袋などのほかのグループが、途中で襲撃を受け、合流できなくなって独自で行動することになったことで責任が一身に集中することになったことで、その一点にさらに集中した。それは、個別的で派生的なそれ以外のこと一切に意識が向かう余地がないほど凄まじい緊張と集中力と責任を伴うものだった。
そして、私は、その責任を果たした。私はこの事実を否定しない」
「私は、20〜30名に遅れる形で阻止線に向かった。阻止線は一瞬で崩れ、路上に機動隊の楯が転がり、炎と煙が立ち込め、視界がきかず、仲間と機動隊員で混乱するなかを一直線に進んだ。途中2〜3人の機動隊員が捕まり、1人が炎を背にして右側の商店に逃げ込む姿などを見つつ一直線に進んだ。
そこを抜けると、視界が開ける感じで、前方20〜30bに、機動隊の1人が後ずさりしつつガス銃を私たちの方向に向け、その先をもう1人が逃げる、その2人を仲間の10名ぐらいが追う光景が見え、それを追うような形で一直線に進んだ。
そして、左手に2〜3名が1人の機動隊員を捕まえている状況(中村現場)を見つつ、一直線に進み、その先に誰もいないことを確認して、そこに止まった。
そこが、十字路だった」
「私は、中村巡査に対する攻撃には一切関与していない。では、何をしていたのか。どこにいたのか。
私は十字路にいた。一貫して明らかにしているように、私は、終始十字路にいた。これは、一点の曇りのない事実だ。
私は、デモのリーダーだった。だから、阻止線を突破して、一直線に駆け抜けて先頭に立った」
「そこで、私たちが阻止線を完全に突破できたことを確認した私は、そこを先頭に、バラバラになったデモ隊を再結集するために、今来た、代々木八幡方向に体を向け、その周囲に十数名ぐらいいて、その後から続々と結集しているのを確認した。
そして、そこが十字路だったからこそ、リーダーとして、四方からいつ襲いかかってくるかもしれない機動隊の出現に最大の関心を向けた」
「そして、私は、NHK方向に機動隊の部隊の姿を見た。十字路から見て、NHKあたりの路上に、NHKのある建物のある方向から、左から右へ動いて出てきてるように見えた。路上で隊列を整えつつ、十字路に正対する形になった。この機動隊が私たちに攻撃してくるのは時間の問題だと思った。いつ攻撃してくるのか、ギリギリの緊迫状態になった。
この機動隊の動きから、一瞬も目が離せなくなった」
「今まさに機動隊が襲撃してくる、という一刻を争う状況のなか、一刻も早く出発すること、それが私の思いの全てだった。NHK方向の機動隊の動きと、代々木八幡方向のデモ隊の結集を見極めるために交互に見る、そのギリギリの極度に緊迫した連続だった。決断が迫られた。
路上に密集するほどデモ隊が揃ったなと思った時、もうそこに止まっているわけにはいかなかった。私は『道案内』と大きな声で叫び、出てこなかったが、一刻を争うので、直ぐに『行くぞ』と声をかけて駆けだした」
十字路に立っていた星野さんはそこで、「NHK方向の道は、のぼりつつ右に曲がっている感じで、そこを右から左に車が流れていて、その車のフロントが光っている光景を見ている」
弁護団は星野さんが十字路に立ち続けていたことを証明するために、09年11月14日、15時20分を前後する時間に本件交差点で検証を行った。朝から小雨がぱらつき、事件当日の気象条件よりも雲が多いと思われるにもかかわらず、NHK方向の車のフロントガラスが空の明るさを反射して光るのを確認した。
12年11月14日にも、弁護団は現場に行った。この日は快晴。本件のあった15時25分頃、ちょうどバスが来て、その瞬間光がシュワッと出てまた光がシュワッと戻ることを確認している。車がある位置に来るとピカッと光ったのだ。(裏表紙裏の写真参照)
1971年11月14日当日は、曇りだった。日の入りが16時36分。15時23分頃の太陽は西南西で仰角約12度の高さだ。その方角からの雲を通した太陽の光がNHK交差点の前を通過する車のフロントガラスに当たり、反射して丁度、十字路に跳ね返ってきたのだ。
事実はもはや鮮明だ。星野さんは十字路に立ち続けていた。中村巡査殴打には加わっていなかった。星野さんが中村巡査殴打の「実行犯」だ、というのは権力のでっち上げなのだ。権力のこの政治的意図をもったでっち上げを星野さんと一体となった怒りで粉々に打ち砕いていこう。
少年に国家暴力を振るい ウソの供述調書をねつ造
取り調べの実態
Kr、Ao、Ar等6人の供述調書は、密室の取調室で強制され誘導されて、でっち上げられたものである。
権力は、18歳、19歳、16歳の彼らに、あるいは病気を徹底的に利用し、あるいは親を取調室に引き入れ暴力を振るわせて、連日、朝から晩まで12時間から、14時間(!)もの長時間、常時3人、多いときには5人もの警察官で取り囲み、威圧して、予め作りあげた「既成の事実」に添った供述を強制したのだ。この衝撃的な取り調べの実態が、彼らの法廷証言で暴露されている。
怒りを込めて明らかにする。
病気のKrに長時間の取り調べ
Krは72年1月4日に蓄膿症の手術を受け2週間ほど入院していた。退院直後の2月2日、まだ通院中に逮捕されたが、直ちに長時間の取り調べを強制された。
【松尾破防法裁判56回】
「弁護人 取り調べは毎日行われたんですか。
Kr 取り調べは毎日です。
弁護人 何時から何時まで取り調べを。
Kr 通院した医院が始まる前に行くわけですから、もう8時頃には、病院に行ったと思います。で、30分ぐらいで帰ってきて、取り調べで、時間的にははっきりしないですけど、晩飯が5時か6時頃ですね。それで、帰ると、ほとんど、みんな寝ていましたから、たぶん9時か10時頃まではやっていたと思います。」
検事調べの場合は、朝9時か10時ごろから、深夜の、11時か12時ごろまで続いた。
親に殴らせ供述強いる
権力は未成年のArの取り調べ過程で、連日母親を密室の取調室で面会させた。4月3日には、黙秘を解かせるために、父親にArの顔面を殴らせた。「中津川検察官は、……同人の両親が面会に来たことから、両親と同人とを、小机の周囲に座らせたうえ、自らは母親の斜め後ろに位置し、両親を案内してきた警察官は同検察官の後ろに、検察事務官は、父親の後ろにそれぞれ座った」(確定判決)
その時の状況をArは次のように証言している。
【控訴審第12回】
「弁護人 (父親は)何と言いました?
Ar 立ち上がって眼鏡をとれ、と言いました。
弁護人 殴るぞ、という意味ですか。
Ar そのときはまだ殴られるとは考えませんでした。
弁護人 それで、お父さんは殴り始めたわけですか。
Ar そうです。
弁護人 何回ぐらい?
Ar 3回か4回か、それくらいだったと思います。
弁護人 どういう形で殴られました? 平手ですか、こぶしですか。
Ar こぶしです。」
ショックを受けたArは以後、詳細な供述を始めた。Arはこの事件について、「検事が殴るように言った」と母親から聞いている。事実、その時直ぐ側にいた検事は全く止めようともしなかった。
まさに戦慄(せんりつ)すべき場面である。このようにして取調室における暴力的な「供述の捏造」が行われていったのである。
既成の事実ができていた @既に位置関係が書いてあった
さらに「供述」は次のように作られていった。Krは3カ月も前の出来事について、ほとんど断片的記憶しかなかった。もちろん、殴打者の位置関係など覚えていなかった。しかし、Krはそれを覚えていたかのごとく供述したが、その理由を次のように証言している。
【星野さんの一審裁判(4回)】
「Kr (検察官の尋問に答えて)位置関係も、ぼくははっきり覚えてなかったわけですね。調書には、はっきり覚えていたというふうに記載されているわけですけれども、なぜ、そういうふうに記載されているかということは、ぼくは現場検証に連れて行かれたとき、すでに、そこに位置関係が石墨で道路に書いてあったということが一つあります。」
これはまた、激しい誘導ではないか。本来、「現場検証」に被疑者を連れて行くのは、現場で事実関係を供述させるためである。ここでは逆に、Krが捜査官から「既成の事実」を教えられている(!)。
既成の事実ができていた A「Aoも火炎びんを投げた」
Aoは、「星野さんが火炎びんを投げろと言った」旨の虚偽供述を強いられたが、自らも、火炎びんなど投げていないにも関わらず、「投げた」と虚偽自白を強いられた。その場面の証言である。
【控訴審第8回】
「中根弁護人 火炎びんを投げたと認めないと捜査が終わらない趣旨のことを先程言われましたね。もう少し詳しく言うと、どういうことなんでしょう。
Ao 既成の事実がもうでき上がっていて、その中の1人の登場人物として自分を設定するように供述してしまわないと終わんないと、で、ほかの人間がもう供述し終わっていると、そういうふうなことを言われますと、自分だけとり残されると言いますかね、そのへんの心理よくわからないんですけれども、そういうことで、とにかくそこまで供述してしまわないと終わらないというそういうふうな意味なんですけど。
中根弁護人 そうすると……この中村巡査の現場であなたは火炎びんを持っていましたか。
Ao 持っていませんでした。
中根弁護人 と、投げる以上火炎びんをどうしたかという話になりますね。
Ao はい。
中根弁護人 それはどういうふうに供述しました。
Ao それで後ろから走って来た女の子にもらったというような、これ、全くの創作なんですけど、その子から火炎びんもらって、それでそれを投げたという供述をしていると思いますけど、それはかなり自分で、警察官に言われて創作したものじゃないものですからね、変な言い方ですけど、自分で創作したという記憶がはっきりしていますから。」
(写真 神山交番前を進むデモ隊【1971年11月14日15時19分)=中村巡査撮影写真)
既成の事実ができていた B「星野が殴打していた」
次は、星野さんが殴打していたとでっち上げるために、krに殴打者が星野さんという特定を強いた時の、取り調べの様子である。
【星野さん一審裁判(4回)】
「被告人(星野文昭) (きつね色の男を星野だと)なぜそう思ったのかということ、これから大事なんだけれども。
Kr 先程も言いましたけれども、要するに中肉中背で服を着ていると、それでヘルメットかぶっていると、星野じゃないか、星野じゃないかという形で言われていて、わかんないわけです。ぼく自身としては星野さんという名前、その人と一致しなかったですし、ですからわかんないということ言っていたわけです。だけど、まあ何回かそういうこと言われて取り調べがあって、何回かというよりほとんど朝から晩まで毎日だったわけですけれども、そういう取り調べがあってその段階で、ひょっとしたらそうだったんじゃないかということ言った段階で名前がそういうふうに記載されていったということです。」
Krは、当時は星野さんの名前も知らず、現場で、殴打者も後ろ姿しか見ていなかった。だから「わかんない」と言い通していた。
そのKrに殴打者を星野だと言わせるために、毎日まいにち、朝から晩まで、「星野だと言え」と攻め続け、ついに、「ひょっとしたらそうだったんじゃないか」との言質を引き出した瞬間、調書には「星野」と断定して記載していったと言うのである。実に、怒りなしに読めない場面である。
でっち上げを強いたその他の手口
これまで見てきた取り調べの実態は、でっち上げの手口のほんの一部に過ぎない。
6人の法廷証言から明らかになった、他の手口を列挙する。
▼恫喝・攻め
@殺人罪・重罪で脅す。
Aしゃべらなければ友人を逮捕すると脅す。
B記憶が途切れているのは、お前が隠しているせいだと攻める。
B認めるまで取り調べを終わらせない、調書を作らない。
C情状が悪くなると脅す。
▼誘導
D先に先入観を植え付ける。
E検事の創作。
「殴打者の名前は、検事さんの言うとおり入れた」「取り調べで詳しく述べたことは、全部教えられたこと」、Itはこのように証言している。これもまた、露骨な誘導である。
Fその他、懐柔、屈辱感を強いる、等々である。
6人の供述調書はこうしてねつ造された。このような取り調べがどうして許せるか。満腔の怒りを込めて弾劾する。
あり得ない詳細な記憶の喚起(『厳島鑑定書』)
6人の供述調書は、いずれも、2カ月半も前の出来事を述べたものでありながら、実に詳細に供述されている。この一点で、全く信用できない。第2次再審請求において弁護団は、日本大学の心理学者・厳島行雄教授にKr、Ao、Arの供述分析を依頼した。
『厳島鑑定書』は、心理学的知見と本件に即した実験結果に踏まえて、供述調書は「彼らの真実の記憶に基づくものではあり得ない」ときっぱりと断言している。
例えばKrの2・14検察官調書では、機動隊員がデモ隊に捕捉された直後から、デモ隊が殴打現場を出発するまでの、たった35秒間程度の出来事を、実に27項目にわたり詳細に供述している。
殴打者の人数、人物特定、各人の所持していた武器・その長さ・色、殴打者の位置、殴打の順番、殴られている機動隊員の様子、さらには近所の人が何人どこで見ていたか、その人たちの服の色等々である。
人間の記憶は、目撃時間が短い時には、出来事を十分に記憶できない。また、強い怒り、驚き、悲しみなど、強い感情が起きている時には記憶は阻害される。krたちは、神山交番前での、催涙弾と火炎びんの飛び交う機動隊との激突で、興奮、怒り、緊張感など感情は極度に高まっていた。詳細な記憶などなし得るはずがない。
また人間は、時間が経つほど物事を忘れる。Krの供述調書は、事件から丸3カ月も後に取られたものである。
ある実験では、強盗を目撃した被験者の、56日後の想起で、正解は7%しかなかった。仮にKrの任意の供述であったとしても、3カ月後の人物特定など全く信用出来ない。
そして、思い出す段階では、面接者(取調官)の誘導によって、記憶が誤って思い出されることが明らかである。さらに、供述された出来事は突発的事態であった。Krは後に供述しようと、自覚的に目撃したのではない。
このような条件で、詳細に述べられた供述調書は、真実の記憶に基づくものでは断じてない。取調官によりねつ造されたものに他ならない。
変遷するKr供述
Kr自身も機動隊員を殴打していない。だが、Kr供述は、自身の機動隊員殴打を巡ってめまぐるしく変遷している。▲72年2月2日、逮捕。自身の殴打行為を否認。▲2月16日、殴打を自供。▲3月6日、少年鑑別所に送致。▲3月21日、家裁審判で殴打を再否認。地検に逆送。▲3月25日、再自供。▲73年3月19日、控訴審で再々否認。
自身の殴打行為に関して、このようなめまぐるしい変遷を繰り返しているのは検察官に強制されてのことだ。
任意の供述ならば、このような変遷は決してあり得ない。
このことは、供述調書の他の部分の信用性をも否定している。
6人の供述調書がでっち上げられたものであることは明白である。確定判決は、唯一これに依拠して、星野さんに無期懲役を科しているのだ。満腔の怒りを爆発させて、星野さんの解放に立ち上がろう。
闘う労働組合を甦らせ星野さんを取り戻そう
(写真 星野さんのいる徳島刑務所を包囲するデモ【2012年2月5日】)
(写真 全証拠の開示を求めて東京高裁包囲デモ【2012年7月1日】)
星野闘争は、国家権力と労働者人民との激突の最前線に立っている。新自由主義の破綻と司法反動の突出に対して、真正面から激突する闘いになっている。
12年3月30日、東京高裁第12刑事部は、再審請求棄却決定を出した。棄却決定は、闘いの前進に追いつめられて出されたもので、国家のむきだしの暴力そのものだ。正義と真実を踏みにじり、星野闘争の破壊を狙った攻撃だ。東京高裁は、弁護団が要求した民間目撃者6人の「供述調書」も写真のネガも開示しないまま棄却決定を強行した。
4月3日、星野さんと再審弁護団は、怒りに燃えて異議を申し立てた。
第2次再審請求は、3通の「補充書」と「厳島鑑定書」等を合わせて、星野さんの無実を完全に明らかにするものであり、東京高裁が出すべき決定は、再審開始しかありえない。しかし棄却決定はこれから逃げ、「捜査官の誘導もそれが不当なものでない限り有効な記憶喚起の方法になる」という暴論を展開している。あからさまに警察官・検察官の誘導を擁護した裁判所を許すことは出来ない。
12年9月28日、再審弁護団は、棄却決定を全面的に批判・弾劾し、その誤りを完全に明らかにした「異議申立補充書」を提出した。
星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議は、3波にわたる東京高裁弾劾の波状デモに決起し、裁判所前で街頭宣伝を行い、労働者人民や司法関係者に訴えている。
新自由主義と闘う
野田政権が強行した衆議院解散・総選挙は、支配階級の分裂・抗争を一層激化させ、政治支配の危機と統治能力の崩壊を一層促進するものでしかない。
資本主義の最後の延命形態としての新自由主義は、社会そのものを根底から破壊し、生きていけない現実を労働者人民に強制している。今や、民営化や外注化、非正規職化と無縁な職場はなくなった。そこでは解雇、労働強化、偽装請負、労働基準法違反などのオンパレードだ。
誰が労働者人民を圧殺するかを競い合うような選挙を許すことはできない。こんなものを根底から吹き飛ばす闘いとして、国鉄闘争と反原発闘争、そして階級的労働運動の再生と発展が全国で進められている。12年は、この運動がかつてない巨大な地平を切り開いた。
大恐慌、大失業、戦争
世界大恐慌はいっそう深化し、いまや真の奈落へと転落しつつある。資本主義は、自らが生き延びるためなら、人類全体を地獄に引き込むことも厭わない存在だ。
アメリカでもオバマ大統領が再選されたが、選挙戦ではあらゆる意味で、世界大恐慌に苦しむアメリカの没落を見せつけた。アメリカは新軍事戦略に基づいて中国対決政策を激化させつつ、絶望的で泥沼的な戦争政策に訴えようとしている。
ヨーロッパの危機は深刻だ。世界大恐慌が最も激しく進行している。国家債務危機が進行し、労働者人民の生活を破壊する財政緊縮政策に怒りが高まっている。11月14日(奇しくも渋谷闘争と同じ日)、ヨーロッパの23カ国、40のナショナルセンターの参加で、歴史的なゼネストとデモが闘い抜かれた。
中国は、第18回共産党大会で習近平体制が発足したが、歪みきった経済・社会構造がもたらす現実に労働者人民の大反乱が起きている。その危機を、アメリカの中国対決に対抗して、軍拡・戦争政策で乗りきろうとしている。
世界大恐慌は、世界経済を縮小させ、帝国主義諸国やBRICS諸国の間の為替戦争、通商戦争、市場争奪戦を激化させている。それは不可避に世界戦争・世界核戦争に繋がる動きだ。日本政府は、中国や韓国・北朝鮮に対する排外主義をあおり、日米安保の強化、改憲・核武装・戦争政策に向かっている。
日米両政府は沖縄県民の全島をあげたオスプレイの沖縄配備反対闘争に敵対して配備を強行した上、連日、住宅地の上で飛行訓練をしている。岩国や全土でオスプレイの飛行訓練を狙っている。米軍と自衛隊は「尖閣列島防衛」と称して大規模軍事演習を繰り広げている。
野田も安倍も石原も橋下も、「安全保障」=核武装を目指して、原発再稼働と原発政策をあくまでも推進しようとして、どこまでもフクシマを踏みにじろうとしている。
これに対して、国会前には反原発の10万、20万人の人たちが集まり、100万人規模の闘いへ前進している。
オキナワ・フクシマの怒りを体制変革にまで進めるのは、闘う労働組合、労働運動の復権にかかっている。
今こそ、「生きさせろ」と叫んで立ち上がる労働者人民と一体となって闘おう。
獄中38年間を闘う星野さんを取り戻す全証拠開示運動は、新自由主義の破綻と司法権力の反動的突出を打ち破り、労働者人民の広範な決起の先頭に立つ闘いだ。ここに展望を見いだし、多くの運動や弁護士の賛同が集まっている。
星野さんは、国家権力のどんな弾圧にも屈せず、「人間が人間らしく生きられる社会」を目指して闘い続けている。労働者民衆が必ず勝利することを確信して不屈に闘い続けている。それが自らを解放する道であると懸けている。
全証拠開示大運動の前進と星野さんの解放もまた、労働組合を甦らせることにある。労働者階級の団結を拡大し、その力で星野さんを取り戻そう。
■V 再審弁護団から
再審闘争が切り開いた地平
全証拠開示大運動で追撃しよう
無期懲役の2つの論拠崩壊
再審弁護団長 鈴木 達夫
弁護団長として、この再審闘争の現段階について、ごく簡単に報告したい。
私たちは、第1次、第2次の再審請求審を通して、裁判闘争的にはその核心点で権力を打ち崩していると考えています。つまり、星野さんは、現場で機動隊員を直接殴った、また火炎びんを機動隊員に向かって投げろと指示した、という2点が無期懲役の根拠とされていますが、そのいずれも崩れ去ったということです。
きつね色の服を着た者が機動隊員を殴っていた→星野さんの服はきつね色だった→だから星野さんが殴っていたとする、捜査段階のKr供述。ところが、第1次請求の最終審で最高裁は、「本件当日の(星野さんの)服装が薄青色の上着であった可能性が高く、この点に関するKr供述には誤りがあったと認められる」
と言わざるを得なかった。にもかかわらず、後ろ姿と声で星野さんと識別できるとして、再審を退けた。後ろ姿からの人物特定など論外ですが、「声の記憶」(目撃に対し「耳撃」といわれる)ほど頼りにならないものはない。声を聞いたときから時間が経てばたつほど、その記憶は急速に減衰する。心理学的実験では、1週間、2週間、3週間の時間経過により、それぞれ50%、43%、9%に低下した。
そもそも、声で分かると言うのであれば、いわゆる「振り込め詐欺」の被害が、なぜいまもって激増しているのか。これだけ社会的に大騒ぎになり、その手口もマスコミで暴露されていながらです。厚生労働省刊行の08年版『生活白書』もこの問題に触れて、「日常生活においても、ある一定の情報だけで判断がつかないような時は、それ以外の様々な断片的な状況を基に総合してイメージを作り上げるということが、私たちの脳内で行われている」、「不安感や恐怖感を煽ったり、時間的に切迫した状況を作り出すことで、被害者に熟慮的な思考をさせ」ないことを、この犯罪の「落とし穴」と指摘しています。
しかし、権力側はなおもKr供述等の破綻を繕おうと、「誘導は不当でない限り有効な記憶喚起の方法」とまで言い出しています。
全面的な証拠開示のたたかいが、そこに位置づくと思います。
本日の集会第1部での客野さん、佐々木さん、大津さん、恩田さん、金さんのご発言の熱さと深さに、私は心から感激しました。運動が勝っていくときは、そういうもの。それが人を動かし、運動を広げ、権力を圧倒する。
弁護団も今後の闘いの軸にこれを据えていくことの正しさに改めて確信を持ちました。
この証拠開示の賛同人約600名のうち弁護士が約2
40名、ほんの短期間で集まりました。
一つは、弁護士が日々直面している検察の証拠隠しと、その開示に冷淡な裁判所に対する怒りとして。もう一つは、沖縄闘争を闘った星野さんということ。いま弁護士は激増し平均年齢は30代半ばとなっています。沖縄と連帯して闘い、自分が生まれる前から38年間獄中にある。その長さ、むごさ。10万人県民集会を蹂躙(じゅうりん)してオスプレイ配備が強行される、今の沖縄が結びつく。
最後に私の個人的な経験から。1954年山口県の仁保で一家6人が殺され、岡部さんという青年が逮捕起訴されるという事件がありました。62年山口地裁で死刑判決、広島高裁控訴棄却、最高裁で差し戻し。72年広島高裁で無罪判決が出て確定しました。
かつて1970年頃、私は長崎県労協の書記を何年間かやっていました。その岡部さんが最高裁差戻判決で釈放され、当時の労働組合ナショナルセンター総評の支持で全国を行脚します。私は、それを受け入れる県労協の係として、段ボール箱に資料を詰め、岡部さんと2人で長崎市内60くらいの労組を歩いて翌日の集会を伝えて回りました。そして県労協の講堂が満杯になる集会が開かれ、岡部さんは取調時の拷問の末の自白、悔しさ、自分の無実を信じて欲しいと涙で訴えた。
私は、その時に、労働者人民は、この世界のどこで起こっていることでも、理不尽な権力の攻撃に対して1人の人間が闘っているとき、絶対にそれを見放さない、そういう存在であると確信しました。先日の恩田さんら法政大学暴力行為等処罰法の大弾圧で全員無罪を勝ち取る過程もそうでした。
「沖縄を闘い獄中38年の星野さん奪還」を私たちが真っ向から訴えたときに、それは日本と世界の労働者人民の胸にストレートに届き、確実にその心を揺さぶり、ともに決起する。そう私は確信をあらたにしています。
(写真 全国から集まった再審連絡会議の人々が壇上に勢揃いした【11月23日 東京・赤羽会館】)
現場目撃者の証拠開示請求
主任弁護人 岩井 信
再審請求の棄却決定と異議申立
本年3月30日、東京高等裁判所第11刑事部は、星野さんの第2次再審請求を棄却しました。私たちは、直ちに異議を出し、現在は東京高等裁判所第12刑事部で、異議審としての審理になっています。
再審の棄却決定の主文は、「本件再審請求を棄却する」となっており、理由は「上記各証拠はいずれも新規性、明白性を欠くもの」と言っています。この棄却決定をどうみるか。
典型的な冤罪事件の証拠構造
星野さんを有罪とする証拠の決め手は供述証拠で、物証がありません。学生(20歳以下の「少年」)を含むデモ参加者の「共犯者供述」のみを証拠として有罪判決を下しています。これは典型的な冤罪の構造です。「共犯者」は自らの責任を軽減しようとして、他人に責任を転嫁しがちです。「少年」は、特に取調官に迎合しやすい傾向があります。星野さんが殴打し、火炎びんを投げろと指示を出したとする物的証拠や第三者証言は全くないのです。
新規性、明白性について
棄却決定は、新規性、明白性がないと判断しました。この決定は、事実上、新証拠一つで確定判決を覆すことが明白であることを求めています。しかし、再審の扉を開いたとされる最高裁の白鳥決定では、「疑わしいときには被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則は再審においても適用されるべきだという画期的なものでした。
すなわち、再審開始決定に必要な「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいい、そのような明らかな証拠であるかどうかは、「当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断」すべきなのです。そして、この判断に際しても、「再審開始のためには、確定判決の事実認定につき合理的疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、『疑わしきは被告人の利益に』という鉄則が適用される。」のであり(白鳥決定)、具体的には、確定判決が認定した犯罪事実の不存在が確実であるとの心証を得ることを要するものではなく、確定判決の事実認定の正当性についての疑いが合理的な理由に基づくものであるかどうかを判断すれば足りるのです。
財田川決定
ところが、棄却決定は、あたかも新証拠一つで確定判決を覆すことが明白であることを求めており、再審開始のハードルを不当に上げているのです。
第1次再審請求の獲得の上に
それでも東京高裁は、確定判決が依拠した証拠が誤りであると明確に書いています。書かざるを得ませんでした。なぜなら、これは第1次再審請求の中で最高裁が認めたことだからです。私たちは第1次再審請求までの貴重な営みの上に立っています。
新たな証拠開示―写真が示す真実
その上で第2次再審請求においては、幾つかの証拠を開示させました。その中に星野さんの写真の新しい証拠が出てきました。
再審請求の中で開示された新証拠の写真には、ヘルメット姿の星野さんが写っていて、ヘルメットには中核の“中”の文字が書かれていました。第三者の目撃証言では、殴打者は「反戦」と書かれたヘルメットを被っていたとありましたが、やはり星野さんは「反戦」と書かれたヘルメットは被っていなかったのです。
さらに私たちは秘密兵器のような新証拠を出しました。ある週刊誌のグラビアに、渋谷闘争の当日の写真が掲載されていました。グラビアには掲載されませんでしたが、この一連の写真のネガの中に、「反戦」のヘルメットを被ったきつね色の服の人が写っていたのです。それはまさに目撃証言で、「思い切り殴っている人を見た。それは『反戦』という文字の書かれたヘルメットを被っている人だった」という証言と一致しています。つまり、星野さんが殴っているのを見たと捜査段階での学生の供述は、実は、星野さんではなく全く別人を見ていたんです。
もう一つ、開示させた写真に写っていた星野さんが手にしている白い紙が巻いてある鉄パイプですが、殴った跡がありません。これは捜査報告書に添付されていた写真で、「犯行後」に撮影されたことに間違いありません。「犯行後」なのに、鉄パイプはキレイじゃないかと私たちは主張しました。これに対して東京高裁は、殴っても鉄パイプには跡がつかない可能性があると書いています。「可能性」で全てを排除するのは、日本の刑事裁判の特徴ですが、ここには「合理的疑いが残る」という発想はありません。
デモ隊のリーダーとしての行動
星野さんは当日デモのリーダーとして先頭を切って全体を見て指揮をしていました。殴打の輪の中にいたら、絶対、デモ隊全体を見ることができません。そういう意味でも、デモのリーダーだからこそ、今回の事件には入っていないということは明らかなわけです。
本件現場の先に十字路があり、星野さんはそこにたどり着くと全体を見渡して、機動隊はどっちにいるんだとNHK側や渋谷駅側を見たりしていました。その際、車のフロントガラスがキラッと光ったということを星野さんは思いだし、私たちに報告してきました。これは、私たちが思いつきもしなかった小さなことです。しかし、細部に真実は宿っているのです。
本件と同じ11月14日、私たちは、もう一度その瞬間、十字路に立ってビデオを撮ろうと現場に行きました。事件のあった午後3時25分頃、この前後を撮りました。同じ日の同じ時刻でなければ、本当にその光ったという瞬間があるかどうか説得力がないわけです。
丁度そこにバスが来て、バスのフロントガラスが、右の方から左の方に、星野さんが言うとおりに動くと、光がシュウッて光り、また光がシュウッて見えなくなるんです。ずっとまぶしく光り続けるのではなくて、まさに「光った」という印象なんです。これを事件の当日と同じ時刻に見たことで、私はもう一度星野さんの無罪を確信しました。このような「小さい出来事」は、当日十字路で全体を見ていた星野さんでしか経験していません。星野さんの無実を証明する事実です。
心理学鑑定について
今回、棄却決定の一つの理由には、私たちが新証拠として提出した日本大学の厳島行雄教授の鑑定書について、「捜査官による誘導もそれが不当なものでない限り、有効な記憶喚起の方法になる」と言っています。このような誘導を行った上での学生の調書と、誘導を一切行わないことを条件とした厳島鑑定では相応の差異が生じるのはむしろ自然、と言っているんです。
しかし、これは本末転倒の議論です。私たちは、これは誘導されたんだ、これは記憶に基づくものではないんだと、心理学鑑定に踏まえて立証したのです。そうしたら、東京高裁は、誘導なんだから詳しいのは当たり前じゃないかという、訳の分からない反論が出てきたのです。
他の事件では無罪に
本件で取調官だった中津川検事は、別件で当日の星野さんのデモ隊のメンバーを取り調べ、さらに別の人が「現場にいた」という供述調書を作りました。しかし別件の裁判では、その別の人にはアリバイがあることが分かり、無罪になっています。デモ隊のメンバーは誘導され、強制され、虚偽供述を強いられたのです。そうすると、この虚偽供述を作成した中津川検事が作った本件における調書も同じように、不当な強制と誘導によって作られた虚偽供述である可能性がきわめて高いわけです。
私たちは、この無罪判決を新証拠として異議審に出しました。棄却決定では、捜査官の誘導もそれが不当なものでない限り有効な記憶喚起の方法になると言っているけれども、まさに不当な誘導がなされたから別件では無罪判決が出たんです 第11節 耳撃証言は信用できない
確定判決は「殺せ、殺せ」というしゃがれ声が、星野さんの声だったとして、星野さんが叫んでいたとの証言を採用しています。しかし、声だけで初対面の人の声を特定できるのかという「耳撃証言」の問題があります。厚労省の生活白書は、オレオレ詐欺を特集しているのですが、その中に、人間は思いこみがあり声だけで人を特定することは危険だと指摘し、これは心理学的にも明らかと書いてあるのです。厚生労働省も、声だけで息子や家族と信じてはいけないと言っているのです。
真実の開示へ
現在、証拠開示請求をしています。これは、民間の目撃者の調書が捜査の段階で作られているのが分かっているので、それを開示せよと今、異議審に突きつけています。
星野さんが無実であることは真実です。真実は、隠すことができません。証拠開示によって、真実を明らかにさせたいと思います。
心理学を否定した再審棄却
再審弁護人 酒井 健雄
厳島行雄先生のおっしゃることをまとめると、人間は見たままのことを写真やビデオカメラのように記憶するものではなく、自分の置かれた状況に即して、意識的無意識的に情報を取捨選択しています。
あるいは、機動隊と激突し、火炎びん、催涙弾が飛び交うような危機的な状況、高い興奮状態の下では記憶できることは非常にわずかのことです。
さらに、人間の記憶は後から外部の働きかけがあると直ぐ変わってしまう。取り調べで、こうじゃないか、こうじゃないかと、毎日、朝から晩まで攻められる。そういう中で記憶が変わってしまい、元々の記憶に無かったことをしゃべってしまったということは、大いにあり得るわけです。
また、目撃や耳撃といった受動的な出来事による記憶は、時間の経過とともに衰える、とりわけ最初の数日間で急激に減退してしまいます。
こうした厳島先生の研究結果に基づいて、Krさんたちの供述調書を見た場合、明らかに異常です。調書は事件から3カ月以上も経って作られたものですが、非常に危機的な状況の下でのほんの一瞬の出来事であったにも関わらず、5、6名の殴打者の持っていた武器の種類や長さ、殴打回数、位置関係などまで、また出来事の複雑な経過が詳細に述べられています。厳島先生の行った実験結果に照らしても、あり得ないことです。
今回の棄却決定は、本当に無茶苦茶な、心理学など知らんという決定です。「不当でない誘導であれば正確な記憶が甦ってくる、あるいは長時間調べると記憶は詳細に甦ってくる」など、とんでもない主張をしています。しかし、元々知覚されていない情報が、甦ってくるなんてことはあり得ない訳です。異議審では、そういう裁判官の非常識さを訴えていきます。
それでは、裁判官は心理学を全く知らないのかというとそうではなく、最高裁から出ている文書も心理学的知見は非常に大事だというものもあります。では、何故この事件だけ非常識な判断をしているのか。それは「星野さんは出さない」という結論があるから、無茶苦茶な判断が出てくる訳です。だから、やっぱり運動の力をどこまで伸ばせるかが勝利の鍵だと思います。
原発とかオスプレイ配備反対の運動が非常に盛り上がっています。原発事故への怒り、沖縄の皆さんの怒りと、無実で獄中38年を強いられている星野さんの怒りは、根本的に同じだと思います。そもそも、刑事訴訟法では「疑わしきは被告人の利益に」が鉄則です。また、近時、再審無罪の事例が出始めています。こうした運動と一緒になって闘うことで、星野再審だって勝てると確信しています。私たちが一丸となって努力することが勝利の道です。共に頑張りましょう。
獄中弾圧を打ち破る闘い
再審弁護人 西村 正治
星野文昭さんを取り戻す闘いが、労働者階級の闘いとして大きく前進していることを、大変力強く思っています。この闘いの中で、刑務所の弾圧を許さず、獄中の星野さんの健康と権利を守る闘いは非常に重要です。運動全体の土台をなす闘いであると思います。
とりわけ、面会や手紙のやり取りという外部交通を確保する闘いは重要です。再審闘争を闘う者にとっては、死活のかかったものです。面会・手紙国賠を、その重要な闘いとして進めています。
徳島刑務所においては、大反動攻撃が2010年5月から強まりました。それまで星野さんとの面会が認められていた人も含めて、友人や再審支援者の面会が拒否されるようになったのです。明治時代の監獄法に代わる「受刑者処遇法」ができて、家族以外の面会も認められるようになり、総計94人が星野さんに面会しましたが、それを逆転して、事実上、監獄法時代に戻そうという攻撃です。
9月には、親族である星野暁子さんの面会まで拒否しました。その前に岩井信弁護士が面会したから、「回数オーバーになった」と突然言い出したのです。その上、暁子さんが星野さんに送った手紙も、次々に墨塗りされました。これに対して、昨年11月14日、暁子さんと支援者、計8名を原告とする国賠訴訟を起こして反撃に立ち、当局を追い詰めてきました。
今年2月5日には、全国の救援会や労組交流センターの労働者600人が、徳島刑務所を包囲するデモを行いました。これは獄壁を越えて、星野さんを大変元気づけるものでしたが、同時に徳島刑務所にとってものすごい打撃だったのです。それへの報復として、再審闘争の中心としてこれまで面会を認められてきた事務局の金山克巳さん、徳島現地の仙田哲也さんに対して「デモの首謀者」だという理由で、「禁止」処分をかけてきました。これは、面会も手紙も差し入れも、一切禁止するものです。
さらに、徳島刑務所は前代未聞の攻撃を行ってきました。星野暁子さんが送った徳島弁護士会の「勧告書」や、私が送った国賠裁判の訴訟資料も星野さんに渡さないのです。国が裁判所に提出した「準備書面」さえ、差し入れを認めない訳です。常軌を逸した攻撃だという他ありません。
10月17日に星野さんと面会し、その後、刑務所当局に抗議しました。記者会見を開いて暴露したところ、7社が集まり、朝日新聞や地元の徳島新聞に報道されました。
こうした攻撃は徹底的に弾劾し、打ち砕かねばなりません。全国で怒りの声をあげましょう。
みんなで力を合わせて、星野さんを防衛しましょう。闘いを大きく前進させて、星野さんを取り戻しましょう。
現場写真開示で大きな成果
再審弁護人 和久田 修
私は、2月5日の徳島刑務所包囲闘争に、弁護団を代表して参加させて頂きました。その時、600名の皆さんの熱い気持ちが獄壁を越えて星野文昭さんに届いた実感が、ものすごくありました。その皆さんの力と星野さんという存在が、徳島刑務所に収監されている他の服役囚にも、影響を与えているようです。
私はデモの翌日に、星野さんに接見しました。星野さんは大変元気で、デモの声が一つひとつ、明瞭に聞こえたと言っていました。その後、他の再審事件の関係者で徳島刑務所に服役している方二人に面会しました。「昨日のデモは本当に良く聞こえました。私も星野さんの無実は確信しています」と、なんの関係もない方が語ってくれました。2・5のデモは、刑務所の中で、大変な評判になったのだと思います。
星野さんの存在と皆さんの力が、この国を変えていく力になっていると共に確信して、再審の勝利に向かって闘って行きたいと思います。22年前に再審弁護団を結成した後、本当に少しずつですが、ここまで前進して来ました。この闘いの上に、全証拠開示大運動が提起されています。
皆さんの力のおかげで現場写真が開示されて、ヘルメットの文字が違うこと、服の色が違うこと等、色んな客観的な証拠が出てきました。客観的な証拠が出てきたということは、それだけ星野さんを取り戻す日が近づいて来たということです。必ず、星野さんを取り戻しましょう。
弁護団も共に闘います。
(写真 星野文昭さんが収監されている徳島刑務所の全景)
■W 大運動賛同人の訴え(11・23集会での発言要旨)
広がる全証拠開示大運動
再審無罪判決をかちとろう
なぜ全証拠開示運動なのか
再審弁護人 藤田 城治
証拠開示の重要性
まず、証拠開示の重要性、意義についてですが、裁判をゲームに例えると、検察側と弁護側がお互いに手持ちのカードを出し合うという構造になっています。ここで手持ちのカードというのが裁判では「証拠」ということになります。
しかし、このカードゲームと、現実の裁判とで違うのは、裁判の場合、カードが検察と弁護側に公平に配られるものではないということです。警察・検察は、圧倒的な力と人員とお金を費やして大量の捜査を行い、証拠を収集致します。物証とか写真、目撃者の目撃証言、様々な報告書です。この捜査活動によって収集された証拠や資料の全貌を、我々が見る手段は現在のところありません。
この膨大な証拠の山の中には、強引な取り調べなどでねつ造された証拠もありますが、一方で真実を裏付けるような、あるいは、その糸口になるような証拠というものもあります。物証はまさにそうですが、捜査官が作った報告書などでも、捜査方針が固まっていない初期段階の証拠には、加工されていない生の事実(真実)が記載されていることもあります。
このような膨大な証拠の山の中から検察官は、ベストエビデンス=最良の証拠と称して、自分の描いた筋に合う証拠だけを選別して、裁判所に提出して有罪の立証をします。他方で、検察官の描いた筋に合わない証拠、ましてや無罪を裏付けるような証拠は提出されません。その存在すら明かされません。
この検察官が隠し持っている手持ち札を弁護人・被告人が見る手段は原則としてありません。唯一これを可能とするのが証拠開示という手続きです。
最近、再審無罪判決が相次いでいます。それはいずれも再審段階での証拠開示が糸口になっています。今月、再審無罪判決が出されたゴビンダさんの事件、昨年5月に再審無罪判決が出された布川事件も同じです。
今までの自白や目撃者の証言を重視した有罪判決が、その後の証拠開示で信用性が覆される例が増えています。その意味で、今、まさにこういった供述証拠中心の刑事裁判からの転換期を迎えていると思います。
星野さんの無罪を表す証拠が隠されている
星野さんの有罪判決の証拠とされたのは、当時少年であったKr氏の証言です。そこでの証言内容は、薄いクリーム色上下の服を着た人が巡査を鉄パイプで殴っていた。薄いクリーム色の服装の人は星野さんしかいなかった。このKr氏の証言を若干補強するものとして、第三者の供述証言・目撃証言というものもありました。そこでは、きつね色の着衣の人物が鉄パイプを持って警官を殴打していた。その人物は「反戦」と書かれたヘルメットをかぶっていた。これによって星野さんは有罪判決が出された。
しかし、この有罪判決は誤っていることをすでに裁判所自身が認めています。第1次再審の特別抗告審で最高裁は、星野さんの着衣が、実は、薄青色であったということを認めました。「クリーム色」が星野さんであるとのKr氏の供述の重要部分が揺らぎ始めました。
ところで、この薄青色の根拠となったのは、警察が作った捜査報告書にちょっと書いてあったのです。この報告書は、星野さんとは別な事件で証拠として出されていたものです。星野さんの事件では、その報告書は証拠として出されていません。隠されていたわけです。
弁護団としては、Kr氏の供述に出てくるきつね色の着衣の人物は、星野さん以外の第三者だという確信の下に、第2次再審請求において証拠開示を迫って参りました。そこで開示された写真には、デモ隊に、実際に星野さん以外のきつね色の着衣の人物がいました。そのヘルメットには、「反戦」と書かれていました。一方、もう一つ開示された写真には、星野さんの姿が写っていました。その星野さんのヘルメットには、「中核」の「中」の字がはっきりと写っていました。そして、手にしている鉄パイプには、全く打撃痕といわれるような痕跡はなく、真っ白で綺麗な状態でした。
この証拠をさらに解析・分析し、鉄パイプに全く損傷がないことを明らかにしたいということで、ネガの開示を求めました。ネガを開示してもらえれば、その写真のコントラストを変えたりすることでもっと鮮明に損傷などを見ることができます。しかし、裁判所は、「証拠開示の必要性はない」とこれを退け、再審請求も棄却しました。証拠開示、写真分析の必要性が高まっていることは明らかです。にもかかわらず、これを退けるというのは、裁判所が最初から結論ありきの姿勢でいるからです。
私たちは、写真以外にも、目撃者の供述調書を開示せよと裁判所に迫っています。
これ以外にも、私たちが知らない膨大な星野さんの無罪を表す証拠が隠されていると思っております。だから、「全証拠開示運動」なのです。
謝罪なきゴビンダさん再審無罪
「無実のゴビンダさんを支える会」事務局長 客野 美喜子
東電OL殺人事件「無実のゴビンダさんを支える会」の客野です。1997年に発生した東電OL殺人事件において、無期懲役の有罪判決を受け服役していたゴビンダ・プラサド・マイナリさんは、6月7日東京高裁第4刑事部による再審開始と刑の執行停止の決定を受けて釈放され、18年ぶりに故国ネパールに帰国することができました。
その後、東京高検の異議申立はあっさり棄却され、8月7日開始決定からわずか2カ月という異例の速さで再審開始が確定しました。そもそも開始決定は、現場の部屋に陰毛を残し、精液や唾液を残した第三者Xの犯行とみるのが自然であり、これらの新しいDNA証拠が確定審で出されていたならば、被告人の有罪認定には到達し得なかったと明快に述べています。
10月29日の初公判では、弁護側、検察側ともに控訴棄却を求め、11月7日判決公判で、控訴棄却、実質的な無罪という判決が言い渡されました。しかし手放しで喜ぶ気持ちにはなれません。
なぜなら今回の判決は、誤判原因について一切言及せず、閉廷後も謝罪の言葉さえ無かったからです。再審とは無辜(むこ)の誤判からの救済であると思っておりましたが、裁判所の辞書には誤判という言葉は存在しないようです。確定判決はあくまでも正しいというのが前提であり、だからこそ再審を開くのは明かな証拠を新たに発見した時に限るというわけです。
では新規明白な証拠というのはどこから発見されるのでしょうか。ゴビンダさんの場合は、再審開始の決め手となった新証拠、すなわち再審請求審の中で昨年から行われてきたDNA鑑定の対象となった数々の物証ですが、これらは全て検察の手持ち証拠の中にあったものばかりです。それでも検察は隠していたのでは無いと言っています。
再審の扉を開く鍵が証拠開示だということは明かです。そもそも検察が有罪立証に役立つ証拠だけしか法廷に出さなくてもよい、被告人の無罪に働くような証拠は出さなくてもよいという現行制度は間違っています。私たちは、11月12日に最高裁と最高検に対して謝罪と検証を求める要請を行い、誤判の原因究明、そして再発防止にむけた抜本的な改革、特に全面証拠開示制度や第三者機関の必要性などを訴えてきました。
ゴビンダさんは再審無罪に寄せたコメントの中で、「どうして私が15年間も苦しまなければならなかったのか。日本の警察、検察、裁判所はよく考えて、悪いところを直して下さい。無実なのに刑務所に行くのは私で最後にして下さい」と訴えています。
全証拠開示の大運動により、星野さんと皆様の不屈の闘いに必ずや勝利のときが訪れるものと信じています。
刑務所の重い扉を開けよう
桜の聖母短期大学名誉教授、福島・取り戻す会呼びかけ人 佐々木 信夫
福島から参りました佐々木と申します。星野さんの問題について、クリスチャンとしての考えに立って、あれはおかしいじゃないかと、立ち上がらなければならない、そういう気持ちで今日はここに立っています。
衆院が解散になりました。この解散をウソつき解散と言うそうです。このウソというのは日本に蔓延しているんです。まず、東京電力。福島に原発を作りまして、毎日のように「原発は安全、安心」と放映していました。私たちは安心しておりました。
3月11日の事故を何と言ったか。「予想外です」と。今度は爆発し、崩壊してしまった。その処理の仕方すら全部隠してしまった。全くこれはウソです。いまだかつて誰も責任者として処分された者がいない。今、仮設住宅で寒い冬を迎えて、自殺する老人が次々といます。そして、今度は、復興予算を、予算を復興と言う名前がつけば何でもいいと、他に使っているんです。こんなこともウソです。
そして放射能。私は保育園を運営していますが、こんな大きなケヤキの木があったんですけれども、それが切り倒されるときは、小さい子ども達は「かわいそうに、かわいそうに」と言って嘆いていました。外へ出て遊ばれません。そういう状態に今、置かれているんです、福島は。
そしてまた、沖縄の問題です。米兵による暴力、オスプレイの配置、国益という名の下に強行されました。あの戦争末期にどれだけの苦しみを沖縄の人たちが味わったか。戦後もそのような苦しみを沖縄にかけているんですよ。星野さんが沖縄で怒ったのもそこなんですよ。
検察のウソ。ストーリーを作って参考になる証拠は集め合わなければ改ざんする。これは星野さんだけじゃない、我々一人ひとりがそういう危険性を持っているんです。我々も無実であっても刑務所に入れられることがある。
私たちの人権が無視されていることが戦争につながっているということを考えなければならない。刑務所においては依然として星野さんが闘っている。それを刑務所の役人どもがいろいろな弾圧を加えてきている。奥様の暁子さん、面会をすぐ妨害する、友人が行きますと妨害する。お母さんの葬儀に出る星野さんさえ妨害させられました。手紙や何やら全部検閲する。戦争中もそうでした。ウソで固められている。
弁護士さんのおっしゃる星野さんを解放する扉は重い。しかし、多くの人たちが、星野さんは無実であると、私たちが一人ひとり手をつないで、刑務所の重い扉を開けようではありませんか。その中から、星野さんは光に包まれて堂々と出てまいります。それを私たちは信じてこれからも闘いましょう。
正義感の強い感情豊かな人
映画カメラマン 『圧殺の森』撮影者 大津 幸四郎
大津幸四郎です。私が最初に星野さんとお会いしたのは高崎経済大学の自治会室です。67年だったと思います。高経大というのはその前の年あたりから、学生自治会と大学側と団体交渉があって、コップが割れたり、窓ガラスが飛んだりというようなことになると規律違反ということで、自治会の役員が次々と排除される、警察に告訴される、逮捕される。ほぼ百人近い学生が退学処分にあい、百人近い学生が逮捕された。
退学処分された学生たちは自治会室に泊り込んで抵抗している。学校側は、自治会室に出入りした学生の親を次々と呼び出して脅した。一般学生はだんだん遠のき、学校に隠れて自治会室の委員と接触する状況だった。
星野さんは大学の2年の時に自治会室に入り込んだ。その時に私は星野さんを撮影しようとした。自治会の委員は「この人は将来の闘争を担う人だ」「だから大学側に分からないように顔を撮るとかしないで欲しい」ということで真正面から顔を撮ることはしなかった。
いつ処分になるか分からない段階にどういうふうに闘争を組んでいったらいいかを考えている、正義感の強い人だったと思うんです。絵葉書とかカレンダーを見ると分かりますけれども、暖かい色でやわらかい色で描いているんですね。これだけのやわらかい絵を描ける人というのは、やっぱりとっても柔らかな思想と暖かい感情を持っているんです。そういう人が闘争で鉄パイプを持って人を殺すというところまではやるかどうかということは誰が見てもあり得ないことだと思うんです。
獄中38年の星野さん奪還を
法政大学「暴処法」弾圧裁判・無罪被告人 恩田 亮
星野さんとの出会いは裁判所でした。新井拓さんの裁判の第1回公判です。生まれて初めての裁判傍聴は想像を超えた体験でした。新井さんが、「この闘いは、星野さんの闘いと一体である」と言いました。これが私と革命家星野文昭との最初の出会いです。
法大での弾圧は日に日にエスカレートし、不当逮捕者も増えていきました。そんな過酷な状況下で、08年に文化連盟が学内から立ち上がります。私も指導部に参加しました。そして09年、暴処法弾圧により、不当逮捕され獄中に入ることになります。取調室での警察官との対峙で分かったことは、法大闘争の絶対的な正義性です
我々の世代は、社会を変えるために「闘う」ということにいまいちピンときません。労働組合は悪の権化(ごんげ)、学生運動の末路は連合赤軍といったステレオタイプなデマに圧迫され、小さな世界に生きることを余儀なくされています。しかし獄中に身を置くことで、五感が鋭く研ぎ澄まされる環境によって、沖縄の怒りに応え渋谷で権力と交戦した星野さんの闘いが、すんなりと身に入ってきました。
3・11が起き、日本は変わりました。原発事故をきっかけに人々の政治への怒りが爆発し、一気に政治の季節が到来しました。
昨年の5月31日、我々、暴処法弾圧裁判被告団と弁護団は、無罪判決をかちとりました。
法大闘争の圧倒的高揚と、そして反原発運動の爆発的高揚を、必ずや政治的成果につなげましょう。
無実で獄中38年の星野さんを、運動の力で必ず奪還しましょう。
労働運動の復権で星野さん奪還
全国労働組合交流センター事務局長 飯田 英貴
交流センターは今年の2月5日に星野暁子さんと600名の仲間と共に、徳島刑務所の包囲デモをついに実現することができました。獄壁を越えて、「星野さんを返せ」という心からの叫びを、星野さんに直接届けることができました。星野さんは感想で、「みんなと心が一つになった」とおっしゃっていました。
今度は本当に星野さんを取り戻すために、2013年をその時とするために、その鍵はやはり労働運動の復権にあると思っています。
この数十年、労働運動は後退を強いられてきました。しかし、2012年、労働運動は大きな前進を遂げたと思っています。動労千葉が外注化阻止、非正規職撤廃をかけてこの新自由主義の時代に、これを打ち破る労働運動が可能だということを示しました。沖縄の闘いが爆発しています。根底には、基地労働者のストライキがあります。反原発で国会を包囲した20万人の闘いの中には連合の下で闘いを虐げられてきた原発労働者の闘いがあります。そして、非正規労働者が自分たちの力で労働組合を作って、今、非正規職撤廃というスローガンは全世界共通の労働者のスローガンになっています。この決起の中に、星野奪還の力があると確信をしています。
星野闘争の前進が、労働運動の前進につながる。労働運動の前進が星野闘争の前進につながる。そういう豊かな運動をもっと大きくしていくために、交流センターは外注化阻止、非正規職撤廃の闘いともう一つ大きな柱として全証拠開示大運動の闘いに打って出たいと思います。
今年3月韓国で再審無罪宣告
国鉄闘争全国運動呼びかけ人 金 元重
キムウォンジュンと申します。日本生まれの在日韓国人二世です。現在、千葉商科大学で教員をしております。
1974年に日本で大学を卒業してから、韓国に母国語・韓国語を習得するために留学しました。翌75年秋、私は大学に進みましたが、韓国中央情報部によって令状なしに連行され、不法拘禁のまま過酷な調査を受け、拷問を受け、虚偽の自白を強制されました。そして、北朝鮮のスパイ容疑で起訴され、懲役7年の有罪判決を受けました。
当時韓国は、パクチョンヒ政権の維新体制と呼ばれる反共軍事独裁体制が猛威を振るっていた時代です。私の事件は韓国では、母国留学生学園浸透スパイ団事件と呼ばれましたけれども、日本では75年11月22日に中央情報部の新聞発表があったことから、11・22事件と呼ばれています。
私は1982年12月に7年の刑期を終えてテジョン刑務所を出て、日本に帰ってきました。事件から36年、刑務所を出てから30年経った昨年4月にソウル高裁に再審を申請しました。11月に再審開始決定が出て審理が始まり数回の審理を経て、今年3月29日に無罪の宣告を受けました。検察側が、上告を放棄したために、4月6日には無罪が確定したわけです。
私は長い間、再審などは夢にも考えていなかったんですけども、再審を決意して比較的スムーズに無罪判決を勝ち得た背景には、2000年代に入ってからの韓国の過去の軍事独裁政権における公安事件に対する再調査、見直しという動きがあります。
再審無罪宣告・勧告のポイントは、起訴状に示された犯罪事実を立証するような証拠は一切ないの一言に尽きます。裁判長は判決の後、「長い間、我が国の現代史の痛みを誤った部分を変えようと大変なご苦労をなさったと思います」と述べました。謝罪という形ではないにしても、過去の権力の都合で権力犯罪に荷担した事に対する、慰めの言葉が込められていると思って私もよしとしました。
3月29日の韓国での宣告公判前の打ち合わせの時に、弁護士に暁子さんから送っていただいた星野再審ニュースと星野カレンダーを差し上げたんですね。
韓国では昔は政治犯の長期囚がいたけども、今は10年以上の長期囚はいないはずだと言われます。弁護士は、日本の国民は星野さんの事件に対してあまりにも無関心だし、長期投獄を許すというのは人情として冷たすぎるんじゃないかと言っていました。
今38年の獄中生活を送っている星野さんの根本的な解放のためには、併せて私たちが刑務所のあり方、監獄のあり方というものも告発していくようなそういう幅と考えをもっていく必要があるかなというふうに思っています。