ZENSHIN 2005/02/21(No2186 p06)

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週刊『前進』(2186号4面)(2005/02/21)

 青年は革共同に結集しよう

 労働者一人ひとりが決定的な歴史的存在、社会変革の原動力

 労働者党員は心から訴える

 はじめに

 すべての読者とりわけ青年のみなさんにわが革共同への大結集を心から訴えます。みなさんも承知のように、国家権力を始めさまざまな勢力が、私たちを「過激派」「暴力集団」などと非難し、人びとを遠ざけようとしてきました。しかし、日本共産党や他のすべての政治勢力が、帝国主義の絶望的な危機と「戦争と弾圧」の激しい攻撃に屈服し総翼賛化する中で、真剣に闘おうとする多くの人びとが、私たちを信頼しともに立ち上り始めています。昨年はこのような人びとと心をひとつにして11・7国際連帯集会の成功にまで登りつめることができました。
 しかし私たちは、この現状に立ち止まっているわけにはいきません。05年は、政府・支配階級にとっても、私たち労働者人民にとっても歴史的決戦の年になるからです。もし、この年に私たちが何もできずに日帝の攻撃に蹂躙(じゅうりん)されてしまったら、労働者人民の生活が極限まで破壊されるだけでなく、破滅的な世界戦争への道が掃き清められてしまいます。今やここに一切の幻想が入る余地はありません。「善戦はしたけれど」「反対はしたけれど」というのは第2次世界大戦前がそうであったように、ただの言い訳にしかなりません。「絶対に2度と再び侵略戦争は許さない」「国家権力や反動勢力の嘘(うそ)にだまされない」――こうした点で私たちは非妥協で過激であることをむしろ誇りとしています。
 私たちの確信は、日本労働者階級人民の根底的な力を信頼するところにあります。それは、究極的には人間自身−自分自身を信頼するということでもあります。ブルジョア政党に本質的人間的信頼関係はありません。実際に嘘、ごまかし、利用、弱肉強食の思想・論理に支配されています。これを批判しているかにみえる日本共産党なども労働者人民とその闘いを信頼したことはなく、利用の対象でしかありません。宗教も「現実」社会への幻滅や人間自体への不信の上に成立し、結果として現実社会を肯定していくものです。そしてファシズムは、人間と「現実」への絶望の上に成立します。
 こうした存在と私たちがどう違うのか、その基本的考え方についてあらためて明らかにしたいと思います。

 第1章 マルクスの共産主義とは何か

 共産主義について、崩壊した旧ソ連や北朝鮮に対する非人間的なイメージからすでに歴史的に破産したもの、あるいは理解しがたい体制としてずいぶんと縁遠いものに思われています。このため日本共産党も共産党という党名変更を考えたことがあります。しかし、名前は変えずに内容を変えるという選択をして、資本主義を肯定する「愛国者」の党に変わっています。また、かつて日本共産党を批判して誕生したいわゆる「新左翼」の運動も70年代の「連合赤軍事件」や「内ゲバ」などの陰惨なイメージで、危険でなるべく近寄らない方がよい存在と思われています。
 私たちは、このような歴史や現状について日本共産党のように「自分たちと無関係」で「間違ったことはない」などという立場は取りません。また、だからといって「宿命」などと考えて無力感に陥ることもありません。人間自身の成長や発展の歴史と同様に、現実の運動の発展も直線的に進むのではなく矛盾があります。矛盾があるからこそ発展があるという考え方なのです。大事なことは矛盾に負けないということです。
 実際、私たちが共産主義運動の発展をめざし新たな党を結成して以来約半世紀になりますが、その歴史は誇張でなく「血と汗と涙」の歴史でした。私たちはこの歴史を第6回大会で全面的に総括し、日本革命−世界革命に向けた新たな進撃を開始することに成功しました。日本の革命運動は確かに特殊な発展経過をたどりました。しかし、実は世界の革命運動の歴史を見た場合にはそれほど特別のことではないのです。大切なことは、どのような立場や考え方で、どのような行為が行われ、どのような結果がもたらされたのかということです。この立場や視点の置き方によって、物事の見方や評価はまったく変わってしまいます。簡単に言えば、労働者階級の立場から見るのか、資本家−支配者階級の立場から見るのかということです。もちろん中間的に動揺する人びともいますが、基本的にはこのどちらかです。
 ですから、私たちは物事を見たり考えたりする場合に労働者階級の立場から見る(階級的視点)ということを心がけています。ブルジョアジーやこれと利益をひとつにする人びとは、自らの搾取と支配の現実をごまかさなければ支配を維持できないので、どんなにもっともらしいことを言っても真実から遠ざかります。労働者であっても資本に買収されたり、蹂躙されている人も同様です。これに対し労働者階級にとっては、真実こそが武器になります。「共産党は、労働者階級の利益以外に特殊な利益を持たない」と『共産党宣言』の中でマルクスは言っています。共産主義の考え方の出発点は「労働者階級の立場に立つことによって嘘や幻想から解放され真実をつかみ取る」ことにあります。
 また、共産主義は宗教のように「神の国」を夢想して現実から逃げたり、「理想の社会」を想定して今生きている人間が犠牲になるというものでもありません。さまざまなことに悩み、孤立し、蹂躙されている今生きている人間が、資本の価値増殖運動を原理とする資本主義社会の現実と闘うことを通して人間本来の共同性を奪還し、人間生命の根源的能力に基づく社会を実現していくということなのです。
 したがって、人間社会の発展の現在的到達点である資本主義社会を労働者階級の立場から根底的に批判し(理論)、同時に私たち労働者階級人民自身の行為・運動(実践)によって、自分と他者との関係としての社会を根本的に変えていくこと(プロレタリア革命の実現)が共産主義の運動です。資本主義社会は、一方で商品経済の全社会化によって人間存在の極限的疎外と怒りの深まりをもたらし、他方での生産と交通の全面的発展によって労働者階級とその団結の発展をもたらします。これが共産主義運動の現実性の基礎となります。
 ここで大切なことは、共産主義社会が自然に実現するのではなく人間自身の意識的主体的行為によってのみ引き寄せられるということです。生産力の発展に伴う社会的な発展は、資本主義社会とその高度に発達した帝国主義に到達します。この社会は自動的に新たな社会に発展するのでなく、その危機を恐慌−戦争として破滅的に爆発させます。これは歴史的にも繰り返され、現在的にも明らかなことです。この野放図な発展の限界と危機を、人間が意識的主体的に突破するための指針・保証となる考え方を「弁証法」と言います。
 弁証法は、すべてのものを固定したものとして捉えるのではなく、すべてが絶えざる運動・変化の中にあり、同時にそこに一定の発展法則があることを見出し、自然やその下で発展してきた人間と社会そのものを正しく捉える考え方です。この運動発展の考え方を適応することが共産主義運動の原理になります。自然や社会に蹂躙され観念や宗教などの「幻想」に支配されてきた人間が、プロレタリアートの存在と闘いの発展によって資本主義社会の危機を革命によって止揚し、真に歴史の主体となって人間的な共同性に基づく社会を実現するということです。

 第2章 暴力の問題にも階級的な視点を

 私たちに対し「極左暴力集団」と非難する人びとがいます。そこで「暴力」の問題についても触れておきたいと思います。私たちは、人間性を蹂躙、破壊する手段としての暴力を心から憎んでいます。だからこそ暴力によってしか維持されない社会的人間的関係を、根本から変えなければならないと考えているのです。これを実現するのが共産主義社会です。私たちは真剣であるがゆえに、願うだけでは何も実現しないことを知っています。はっきりすべきことは、現在の社会で一般的に暴力反対を主張することは、帝国主義国家権力や反動の暴力を容認することにしかならないということです。この点でも階級的視点が大切です。
 「テロ反対」「民主化」の名のもとで、最大の破壊兵器を独占使用し、すさまじい大量殺戮(さつりく)を絶えず行っているのは誰なのか。また、これと闘う人びとに、軍隊、警察、監獄を使い日常的にどのような暴力的弾圧が行われているのか。私たちが暴力を恐れる意識は、実はこの巨大な暴力装置によって支配され蹂躙されていることから発生しています。この暴力装置を根本から破壊しない限り、私たちが暴力から解放されることはないのです。その場合、階級闘争と被抑圧人民の反乱の鎮圧、さらには他帝国主義国家との争闘戦を生命線としている帝国主義ブルジョアジーが自ら良心的にその武器を手放すことなど、歴史を見るまでもなくあり得ない幻想なのです。ブルジョアジーとその手先の破滅的暴力は、全労働者人民の武装した闘いによってしか粉砕できません。この人間的共同性を奪還するための革命的暴力まで否定することは、実際には労働者階級人民への血の弾圧と敗北しかもたらしません。これは、幾多の歴史の血の教訓なのです。
 同時に、ブルジョアジーの恐怖支配をのりこえて、自ら武装して立ち上がった労働者階級人民の歴史が、人間性を破壊する陰惨な暴力とはまったく別の解放感と人間的共同性にあふれた生き生きとした創造的過程であったという事実も押さえておきたいと思います。

 第3章 なぜ革命的共産主義運動なのか

 なぜ革命的共産主義なのでしょうか。現在みなさんが共産主義運動だと思っているのは、スターリン主義によって歪曲され労働者階級人民の利益と対立する偽りの共産主義運動だからです。世界史上初めてブルジョアジーを打倒しプロレタリア革命を実現したロシア革命は、さまざまな困難に直面しました。しかも、革命を指導したレーニンの死という決定的危機のもとでスターリンによって世界革命が裏切られ、「一国社会主義」として固定化され、資本主義と共存する体制にされてしまいました。そして、本来資本主義を打倒する運動としてあった国際共産主義運動は、ソ連を防衛するための運動に変えられてしまったのです。その結果「労働者階級の利益以外に特別の利益を持たない」はずであった共産党は、ソ連のため=党のために労働者階級とその闘いを従属・抑圧する存在になりました。ソ連が崩壊した今でも日本共産党の思想と運動の本質は、このスターリン主義に貫かれています。
 また、日本の左翼運動や労働組合運動もこの影響を深く受けています。党や指導部を労働者階級人民の上に置き、労働者階級人民は革命の主体ではなくこれに従属するという考え方や運動スタイルがそれです。このように資本主義による搾取と抑圧の現状を容認し、党と労働者階級人民の関係を別のものとして固定化し疎外する考え方は、マルクスやレーニンの弁証法に基づく共産主義運動ではありません。私たちは、このスターリン主義が階級闘争−労働運動に圧倒的な権威と影響力を持っていた時代にこれと対決し、真の共産主義運動を復権させるために自らを革命的共産主義と名乗ることになりました。私たちの運動は、スターリン主義の硬直化した非弁証法的な偽りの共産主義運動と意識的に対決し、現実の労働者階級人民の闘いを大切にし、共産主義への発展を切り開くための運動です。

 第4章 プロレタリア革命に未来あり

 マルクスは、ドイツの哲学者、経済学者であり革命家です。彼は、それまでに人間が到達した哲学的経済学的地平を批判的に継承し、人間の根本から解放を目指しました。そしてそれを空想から現実のものとするために資本主義社会を徹底的に分析・批判し、これを実際に打倒し未来社会を切り開く存在がプロレタリアートであることを明らかにしました。資本主義社会で最も疎外された存在として圧倒的多数を占めるプロレタリアートは、資本にみずからの労働力を商品として売ることによってのみ生存できる存在です。それゆえに階級的利害が本質的に一致し、しかも規律的で組織的なので、他のどの階級よりも団結することができます。この考えに基づいて世界で初めてプロレタリア革命を実現したレーニンも「労働者階級は、組織以外のどんな武器も持たない」と言っています。
 現在の共産党や労働組合があまりに労働者人民からかけ離れているため、労働者階級の闘いを否定する市民運動があります。しかし、こうした運動は一過性のブームしかつくれず強靱(きょうじん)な運動にはなりません。それはこの間の有事法などとの闘いにも歴然と現れています。労働者階級の闘いとは、私たちが生きている資本主義社会の現実に対する根本からの闘いなのです。現実から逃げたところでの市民主義やNPOなどの運動は、根本的には無力で結局ブルジョアジーの支配を容認するものになってしまいます。プロレタリア革命というのは、資本主義社会の根本的で、口先でない実践的批判です。
 また、私たちのめざす革命政権を「プロレタリア独裁」といいます。これは労働者階級と、その最も意識的な人びとが構成する党が、労働者階級の闘いを発展させ、すべての被差別被抑圧人民をも獲得しブルジョアジーの権力を打ち倒し、その反動を粉砕する政権です。ですから最大限の民主主義の実現であり、反動的反人民的な独裁のイメージではありません。スターリン主義下でのソ連や北朝鮮のような反人民的独裁は、共産主義と切断したところに発生しています。これはプロレタリア独裁ではなく、反プロレタリア的スターリン主義官僚の独裁であり、それゆえに必ず崩壊します。
 共産主義の実現−すべての国家権力とすべての抑圧機関の消滅−搾取や抑圧・暴力から解放された社会とは、資本主義と共存したところには実現できないのです。本当の共産主義は、プロレタリアの国際的連帯と団結に基づく世界革命によってしか実現できません。私たちはこれをめざす党です。実際この点で、昨年の11・7集会で、このスターリン主義の反動を越えて日米韓の闘う労働組合が一致団結したということは、私たちの主張と運動が空論などではなく実現可能なものであることを示し、本当に大きな展望を切り開いているのです。

 第5章 共産主義の党はぜひ必要である

 私たちが、党への加盟を働きかけると「どうして党に入らなければならないですか?」と言われる場合があります。党はどうして必要なのか、なぜ同志として迎えたいのかを明らかにしたいと思います。
 資本主義社会の最終段階としての帝国主義は、その危機を極限的に深め社会の隅々に至るまで全面的に矛盾をもたらします。そこから必然的に、さまざまな問題や水路を通じて社会を変えなければならないと立ち上がる人びとが生まれます。その人びとは、問題や矛盾の根源、すなわち真実に近づこうとします。そうでないと根本的解決にならないからです。しかし、こうした「決起」や「行動」はバラバラで、そのままでは矛盾や問題の根源である帝国主義を打倒する運動として大きくひとつになりません。下手をするとオウムのようなカルトや、あるいは民主党や共産党のような資本主義社会を支えるような運動にからめとられ、真実から遠ざけられて、まったく別の運動に利用されてしまうことになりかねません。
 こうした政党や運動を正しく批判し真実に向けてひとつになるために、党はどうしても必要です。実際、私たちの党が労働組合だけでなく、部落解放闘争、入管闘争、「障害者」解放運動、反戦運動などさまざまな課題を闘っているのに、なぜ団結して闘っていられるのでしょうか。党として一体となって協力し、矛盾と問題の根源に立ち向かっているからなのです。
 さらに、私たちは、帝国主義の矛盾と危機を根本的に突破するためにプロレタリア革命をめざす党であるということを明らかにしてきました。そして、「労働者階級の唯一の武器は組織である」ことを確認しましたが、この主要な組織とは労働組合と党です。しかし、現在の労働組合をそのまま見た場合、無力なだけでなく反動的な役割を果たしていて、とても期待できる存在には見えません。しかし、どうしてこうなのでしょうか。これらの労働組合の大半は、民主党や共産党などを支持する人や党員によって握られ、その思想の下で組合の方針や運動が決められているのです。そのため一人ひとりの労働者は、自らの存在と力に目覚めるどころかいっそう無力な存在に追い込まれています。労働組合が資本主義と共存する思想を持った勢力に支配されているため、会社や国家権力に追随する組織にされてしまっているのです。
 しかし労働者が商品として買われ、搾取され、人間性を蹂躙されている存在から解放されるためには資本主義を打倒するしかありません。労働組合は、労働者が資本による蹂躙から自らを守るために生まれた組織ですが、これを超えて「賃金制度の廃止」=資本主義の打倒の武器へと発展すべき組織なのです。労働組合は、自分たち自身の利益を守るための小さな団結から始まります。しかし個々の闘いはたまに勝利してもほとんど敗北します。
 そこから、大きな勝利のためには労働者間の階級的団結の拡大が必要であることを学び、さらにすべての人間の解放のために被差別被抑圧人民の利益を共同の利益として引き受けることで、自らの階級的使命を自覚し、革命の主人公になるのです。こうして初めて資本主義を真に打倒する展望をつかみ取ります。労働者を革命の決定的な主体として据え、労働組合を資本主義打倒の決定的な武器として発展させていく。この発展もまた、自然のままではかちとれないのです。やはり、そうした意識性を持った人間の組織が不可欠なのです。これが私たちの党なのです。
 主要な労働組合、地域、闘いの中に、この共通の目的と意識性を持った人間と組織の存在なしに革命が実現できるはずもありません。それは空想であり、結果として現状容認になります。怒りや反対を貫き本当に勝利するには党が必要であり、人間的共同性に満ちた同志とその組織を至る所につくらなければなりません。ですから私たちは、大切な人びとに対して支持者ではなく同志としてともに立ち上がることを強く呼びかけているのです。

 第6章 私たちの主張は空想ではない

 このような私たちの主張は、途方もないことでしょうか。けっしてそうではありません。
 第一に、帝国主義の発展があまりに巨大に見え、逆に労働者階級人民一人ひとりが分断され無力だと思わされているということです。私たちは、まずこの見方と対決します。労働者階級人民こそが本質的に決定的であり、この存在は党や労働組合の主体になることで資本主義社会に蹂躙された存在から世界を捉える存在に飛躍していくのです。
 第二に、資本主義の社会・世界がどうしようもない矛盾と危機に陥っているという現実です。このままでは、破滅しかないことを誰しもが感じ始めています。
 戦争−核、自然破壊、失業・貧困・飢餓などの根本原因は何か。人間が到達した生産力は、人類全体に人間らしい生活を実現できるのにどうしてこのような事態になっているのか。今やこの事態に警告を発する人びとや書物には事欠かなくなっています。しかし、この原因が帝国主義の世界支配にあり、これを「国際プロレタリアートとすべての被抑圧人民の力で打倒せよ!」とは言わないのです。スターリン主義の裏切りや失望があまりにも大きかったからです。しかし、このままで良いとは誰も思っていません。私たちは、困難にひるまず、真実を見据え、解決の道を訴えているだけなのです。
 第三に、9・11事件が起きた01年以降、世界に戦争を激しく拡大し国内支配を反動的に転換している帝国主義諸国、特に日本帝国主義に対し、すべての政治勢力が無力化する中で、事実としてわが党と党員だけが力強く確信も新たに前進しているということです。このことを多くの人びとが感じていると思います。もちろん、まだ不十分であることは自覚しています。しかし、不抜の団結力で現実に立ち向かい、前進を切り開いてきたからこそ、絶望などせず、いきいきと闘うことができています。私たちは、必ず世界を捉えられると確信しています。

 第7章 多くの積極的な同志が必要です

 私たちが、どんな攻撃にも負けず、人生をかけて守り抜いてきた党の一端があらためて理解していただけたと思います。この党の権威は、獄中30年の不屈の星野同志を始めとするわが党の同志たち一人ひとりの存在と闘いです。
 先に触れたように、党に入るといろいろとしばられると思う人もいます。しかし、こんな壮絶な闘いが強制などでできるはずがないのです。もちろん党には最低限の規律があります。それは、労働者階級における原則的規律でもあります。例えば、仲間や同志を警察や反動勢力に売り渡さない−守るということです。このような基本的なことが守れない組織や人格が信用されるはずがありません。またそのような組織が国家権力や反動的勢力から防衛されるはずがないのです。これが縛りなどではなく当然の規律であることは理解していただけると思います。党として団結し統一的な闘いを実現するための機関紙の購読と基本会議への参加、党組織を維持するための党費の納入、基本的にはこれが党員としての義務なのです。
 しかし、あくまで党の運動の発展は、労働者階級人民である党員一人ひとりの共同性に基づく積極性にこそあるのです。運動の発展のために意見を述べ批判する権利、さらにはどうしても自分の意志に反する場合に、同志や仲間を裏切らないという前提の上で党を脱退する権利もあります。
 組織に対する暗いイメージは主にスターリン主義によって自分たち自身の組織から引き離されてきた日本労働者階級人民の意識の反映なのです。この党は私たちの組織であり、その主体は党員一人ひとりです。それと別なところに党は存在しません。労働者階級一人ひとりが決定的歴史的存在であり、人間社会を変える原動力であるという党の思想的信念は、決定的な「一粒の麦」を獲得し育てることで初めて現実のものになります。「一粒の麦もし死なずば」という聖書の言葉をマルクスはよく引用します。さまざまな困難や攻撃に負けずに頑張り続ければ必ず大きな実りをもたらすという深い意味を込めていると思います。みなさん一人ひとりがかけがえのない一粒の麦なのです。
 わが同志たちが、さまざまな困難をのりこえ精一杯闘い党を守り抜いてきたからこそ、巨大な実りを実現するためにさらに多くの決定的で積極的な同志が必要です。05年の決戦の大きさは、待ったなしでこの課題を突きつけています。すべての闘いと運動に党建設−マル青労同建設を基軸に据え、党的団結を圧倒的に広げ、真に実り豊かな歴史的一年にしようではありませんか!

 革共同中央労働者組織委員会 大原武史

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