SANRIZUKA 2002/11/15(No619 p02)

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週刊『三里塚』(S619号1面1)

 暫定路 開港半年で“底割れ”寸前

 「北延伸」攻撃を粉砕

 用地部「必ず落ちる」の傲慢許さず

 暫定滑走路の四月開港から半年、農家の上空四十㍍飛行やジェット排ガス直撃などの国家犯罪で成り立ってきた成田空港が、ついに°底割れ″を始めた。開港後、一日わずか五十数便増えただけで、暫定路のみならず空港全体が事故の危険水域を超えてしまった。致命的欠陥の露呈だ。地権者の屈服を見込んで、それを前提に開港した公団は、完全に色を失っている。公団・黒野は暫定滑走路の「二五〇〇㍍化」を事実上棚上げする発言を行った。軍事空港の廃港へ、三里塚闘争は大きく動き出す。

 成田空港゛崩壊゛の始まり

 三十七年間、国の暴力をたてに農民から農地を強奪して進められてきた成田空港建設が、ついに「完成」への道を最終的に断たれつつある。公団総裁の黒野は十月三十一日の定例会見で、二〇〇四年度に予定される成田空港民営化前の暫定滑走路延長を事実上断念する意思を明らかにした。
 民間資本となる空港会社が三里塚闘争を相手に滑走路延長などできるわけもない。公団・黒野の発言は事実上の敗北宣言である(解説参照)。
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 今年四月、空港公団は「ジェット機を飛ばしてしまえば、地権者は必ず落ちる(屈服する)」と公言して暫定滑走路(二一八〇㍍)の見切り開港に踏み切った。反対農家の頭上四十㍍に航空機を飛ばし(東峰地区)、わずか五十㍍の距離から自走ジェット機の噴射ガスを農家に直撃させる事態(天神峰地区)を生み出したのである。
(写真 市東孝雄さん宅をジェット機の排ガスが直撃する。”叩き出し”を狙う公団の意図的な嫌がらせだ)
 これは本格滑走路(当初計画の三三〇〇㍍=暫定路の北ずらし分を含む)への延長を前提に、農家が騒音に耐えかねて出て行くことを前提にした開港だった。暴力団の地上げ行為と同じ手口だ。公団はそれを国家ぐるみで強行した。通常の感覚では考えられない非人間的な暴挙である。
 政府・国交省はごく最近まで「地権者の同意なしに平行滑走路の着工はしない」との円卓会議の公的°確約″(九四年)を建前としていた。一部の脱落派農民と国交省(当時は運輸省)との政治談合で、反対派を取り込むための見え透いた芝居だったが、案の定、わずか五年で反故にされた。九九年十二月、公団は地元住民の怒号渦巻く中、農家の軒先で暫定滑走路の着工を強行したのである。当時の公団総裁・中村徹は「地権者と交渉するつもりは毛頭ない」と内部では公言していた。
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 これが「民主的空港建設」の実態だ。人の家の真ん前まで滑走路を一方的に造って「出て行かなければ飛ばすぞ」と脅迫する。地権者が売却を拒否すると、本当にジェット機を農家の頭上に飛ばしてしまって「土地を売れ」と迫る。これが政府や公団が常々強調する「話し合い」の実態である。「農家は必ず落ちる」と公言していたのは用地部(買収部局)の幹部だが、公団の立場や発想が凝縮された言葉である。彼らは自信たっぷりに言い放っていた。「(騒音で)生活できなくなるんだから」と。
(写真 頭上40メートル飛行という国家犯罪は、地元農民の怒りを充満させている【10・13全国集会】)
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 生存条件そのものを奪ってたたき出す。これは国家犯罪である。三十七年間におよぶ成田空港建設の非道がここに凝縮されている。反対同盟・地権者の農民たちが屈服をあくまで拒否し、自らの身を晒(さら)してでもこの現実を告発する道を選んだことは、あまりに正当である。

 危険水域での運用 住民犠牲意味ない暫定開港

 暫定滑走路の開港は、あくまで地権者の屈服を前提にしたものだった。反対派農民の闘争継続が確定した瞬間、滑走路の致命的な欠陥性があらわになり、公団は窮地に陥った。
 まず滑走路長の「二一八〇㍍」は国際空港としては論外だ。大型機の離発着はできず、用途も国内線とアジアの近距離便に限定される。滑走路と平行する誘導路が市東孝雄さんの畑と反対同盟現闘本部に遮られ、滑走路側に大きく「へ」の字に湾曲している。航空機の離着陸時は「赤信号」で通行止めとなり、地上渋滞の原因となっている。
 ターミナルとの連絡誘導路は幅が狭く一方通行。ラッシュ時は入り口で順番待ちの列ができる。しかも大型機は通過できない。仮に暫定滑走路をこのまま延長しても、大型機は滑走路に入れない。
 空港全体の運用面でも、暫定滑走路の開港はマイナス面ばかりが目立つ。その典型が「一時間枠上限」の引き下げだ。成田空港全体の一時間当たりの離着陸回数上限は三十二回だったが、これが暫定路開港で三十回に減ってしまった。
 問題は空域にあった。成田空港は滑走路は二本になっても飛行コースは南北とも一本しかない。成田発着の航空機は、この「トンネル」を一列になって通過する。周辺空域が自衛隊百里基地と米軍横田基地にはさまれ極端に狭いゆえの措置だ。内陸空港ゆえの騒音対策で飛行コースが制限される影響も大きい。
 つまり成田空港は、滑走路が二本になっても一本の滑走路と同じ運用しかできないのである。この問題に前記の地上誘導の問題が重なり、暫定滑走路を飛び立つ航空機は、スポットを離れてから離陸まで最大四十~五十分もかかるという惨状を呈してしまった。Aランから離陸した航空機が六・五キロ離れてからでないと暫定路の便は出発できず、ストップをかけられる。
 同じ問題は着陸時にも起こる。滑走路が二本あっても航空機は同時に進入できない。混雑時は上空旋回での待機を強いられる。待機空域が満杯になればどうなるか。羽田空港へ緊急変更着陸だ。これは実際に何度も起きている。羽田では乗客は降りられない。時間調整の後、もう一度羽田を離陸し成田へ向かう。当然にも乗客の怒りは爆発する。
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 暫定滑走路は現在、一日百回強の離発着数(五十便)だ。暫定路供用後、成田空港全体では約二〇%の便数増となった。これで早くも満杯状態となっている。開港後初の冬ダイヤで、暫定路は一日あたり百二十回程度、年間換算で約四万三千回にまで増便される予定だが、ここで公団総裁自身が早くも「満杯宣言」を出した。地上での誘導上の問題、空域の制約、滑走路の短さ、離着陸の遅れの続出、事故の危険の高まり…、その他あらゆる面で、これ以上はどうやっても増やせないのだ。すでに事故が起きる寸前の危険水域に入っているのである。国際空港の滑走路として論外の能力だ。
 暫定滑走路の公称処理能力は「年間六万五千回」。これ自体が国際空港の滑走路としてはなはだ貧弱だ。現代の国際空港は、滑走路一本で年間二十万回程度の処理能力(二十四時間運用)が常識化している。ところが暫定滑走路では、公称の数字(六万五千回)すら実体のないものだった。
 膨大な税金を投入した上、地元農民に多大な犠牲を強いて強行した暫定滑走路の開港は、航空運輸政策の観点からは、ほとんど意味のない開港だった。
 軍事空港=成田を廃港に追い込もう!

 《2期着工以来の主要な出来事》

1986年10月 二期工事(軒先工事)着工
1988年5月 公団・秋富総裁が土地収用法発動による強制収用を明言。収用審理再開の準備始まる
同 9月21日 県収用委会長に鉄槌下る
同 10月 収用委の委員全員が辞任。同委は崩壊し、強制収用は不可能に
1989年9月~ 団結小屋への成田治安法の一斉適用。翌10月まで現闘本部を含む5カ所を強制封鎖・除去処分
1990年11月 新天皇即位儀式。中核派に破防法の組織適用攻撃(粉砕)
1991年5月~ 運輸省と脱落派の政治談合=公開シンポ・円卓会議始まる。脱落派は「平行滑走路」を容認。運輸省は「地権者の同意抜きには着工しない」等確約
1996年4月 日米安保共同宣言。安保ガイドライン見直し着手
同 12月 運輸省、成田平行滑走路「2000年完成」打ち出す(7空整)
1998年4月 三里塚現闘5人逮捕の一斉弾圧。この年、平行滑走路着工への動き強まる
1999年4月 周辺事態法(新ガイドライン関連法)衆院で可決
同 5月 運輸省(黒野次官)が暫定滑走路計画への変更を一方的に発表
同 12月 地権者拒否のまま暫定滑走路の着工強行
2001年6月 土地収用法改悪案、衆院で可決(収用手続き迅速化)
公団が東峰神社の立木を盗伐
2002年4月 暫定滑走路開港を強行
同 7月 黒野匡彦・新総裁就任。暫定滑走路「北延伸」打ち出す

 

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週刊『三里塚』(S619号1面2)

 「平行滑走路2500メートル化」 ついに破綻へ

 団結固く 用地絶望

 黒野表明 民営化移行で事実上棚上げ

 【解説】 平行滑走路の未買収地間題について、黒野総裁は十月三十一日の記者会見で「現時点では反対派農家との交渉に期限を設けない」考えを示した。さらに「平行滑走路(二五〇〇㍍)ができていなくても民営化することはあり得る。民営化を遅らせるつもりはない」と明言した。
 これは黒野が七月の総裁就任以来掲げてきた暫定路「北側延伸」計画の撤回表明だ。二五〇〇㍍への延長問題は今後、東峰地区住民の買収と三里塚闘争の消滅を前提にした当初の「南側延伸」計画に戻るが、これは不可能であり二五〇〇㍍化の棚上げ表明に等しい。
 黒野は七月の総裁就任早々「暫定滑走路の北側延伸」を打ち出した。「地権者を落として南延伸。ダメなら『北延伸』で農家の頭上にジャンボを飛ばす」という「両にらみ方針」を公言した。

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 しかし北側延伸は空論だった。連絡誘導路が狭くジャンボ機はそもそも暫定路に入れない。新たな誘導路の用地確保も地権者が五十軒にもなり、不可能と分かった。しかも「北側延伸計画」に成田市や下総町から強い批判が起こった。特に騒音直下の久住地区住民は「全員署名」で反対の意思を明らかにした。あの千葉県堂本知事にまで、黒野の住民無視は「やりすぎ」と揶揄された。鳴り物入りの新総裁・黒野の権威は地に落ちた。
 この上に成田空港の民営化スタートが〇四年度と決まった。形態も国交省の当初案「上下分離」は撤回され「上下一体」の民間移行となった。
 利潤追求が唯一の行動原理となる民間資本が三里塚闘争をつぶすことは百パーセント不可能だ。暫定滑走路の延伸計画自体が、事実上粉砕されたに等しい決定である。
 公団の当面する方針は本来計画である南側(東峰部落)買収だが、そもそも買収の行き詰まりが「北延伸」デマの発端だった。黒野総裁の周囲には敗北感がただよう。

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週刊『三里塚』(S619号1面3)

 ”成田の敗北”決定的

 羽田空港に本格国際線ターミナル

 新滑走路09年完成で

 国交省は、羽田空港の沖合展開で生じた跡地約二百ヘクタールのうち、約百五十ヘクタールを使って本格的な国際線旅客ターミナルと国際線貨物施設を建設する計画案をまとめた。すでに東京都などと調整作業に入っている。
 羽田空港は、再国際空港化が本決まりとなり、四本目のD滑走路を沖合に新設する計画がスタートしている。今回の国際線ターミナル新設計画は規模の大きさが際だっており、成田空港建設の行き詰まりがついに最終局面に乗り上げた結果でもある。成田の°沈没″は確定的となった。
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 国際線ターミナルと国際貨物基地建設の用地が百五十ヘクタールとは本格的である。成田の第一、第二ターミナルビルの敷地面積を合わせて約十五ヘクタール。貨物地区を合わせて全部で約四十六ヘクタールだ。国交省は「国際線の定期便就航を視野に入れた計画」だとしているが、成田発着のアジア便はすべて羽田に移管する計画だ。成田の平行滑走路(当初計画)分を全部移すのである。
(写真 羽田空港の航空写真。下方が国際線ビル用地)
 これを裏付ける動きは、羽田D滑走路建設を国交省が異常に急ぎだしたことにも現れている。
 羽田D滑走路は当初、〇三年の着工で工期は十年、二〇一三年頃完成予定となっていた。しかし最近国交省では〇九年完成予定への工期短縮を真剣に検討している。工法も一番早い浮体工法(メガフロロート)が再浮上した。
 工法問題では、当初は建設費が比較的安い浮体工法が有力視されたが、旧建設族の猛烈な介入で埋立て工法に傾いていた。ところが国交省は十月に「工法を限定せず入札で選ぶ」との方針を決定。しかも「設計・施工の一括発注」で、契約後の建設費水増しを認めない内容となった。メガフロートに有利な決定だ。
 成田の°満杯宣言″と羽田D滑走路はタイアップしている。
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 羽田D滑走路が〇九年供用開始予定となると、成田暫定滑走路の「二五〇〇㍍化」は見る影もなくなる。成田空港は空域問題の制約が大きく、たとえ暫定路を二五〇〇㍍化しても処理能力は変らないからだ(別記事参照)。もはや暫定路の「延長」は意味を失ったといって良い。必要性の根本が失われたのである。
 しかも成田暫定路の二五〇〇㍍化が、羽田のD滑走路より早く完成すると考える関係者はもはやいない。黒野公団総裁は「暫定路の二五〇〇㍍化は民営化後でも良い」と明言した。成田の民営化移行は〇四年。これ以後は延長問題も純粋に民間資本の論理で進む。「採算性」だけが基準となり、三里塚闘争を相手に流血の用地買収は不可能だ。
 八六年の二期工事着工以来、十八年続いた成田拡張工事は、明らかに現状で打ち止めである。

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週刊『三里塚』(S619号1面4)

ピンスポット 自衛隊が遂に空中給油訓練へ

 北朝鮮爆撃を想定

 F15機、米軍と共同で

 自衛隊がイラク・北朝鮮侵略戦争への参戦を目的に、米軍から空中給油機を借り受けて、来年四月から給油訓練を行う計画である事が判明した(11・4付東京新聞)。
 自衛隊はすでに二〇〇六年三月を期して空中給油機を導入することを決定し、すでに発注済みだが、「情勢に間に合わない」として、米軍嘉手納基地所属の空中給油機KC135を使い、空自のF15戦闘機四機に給油する訓練を東中国海上空で行う計画だというのだ。空中給油に精通した操縦士八人を養成する狙いだという。
 これはイラク侵略戦争への直接的参戦と北朝鮮への軍事圧力の強化に目的がある。
 自衛隊はアラビア海への海自派遣を六カ月再延長する方針を内定した。さらにアラビア海へのイージス艦、P3C対潜哨戒機派遣を行おうとしている。それに加えてF15の派遣まで策動していることが判明した。今こそイラク・北朝鮮侵略戦争反対へ史上最大の反戦闘争を爆発させよう。

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週刊『三里塚』(S619号1面5)

 団結街道

 いまアメリカ国内はもとより、世界の多くの反戦派市民が「9・11の原因を作りだしたのはアメリカ自身である」と告発している事に、産経新聞は次のような罵倒を浴びせた▼「民主主義や市民社会、個人の自由などを自分たちも満喫しているのに、その価値観を暴力で破壊しようとする側が正しいとするのは矛盾の極みである」(ワシントン駐在・古森義久氏=9・15付)と▼例の「正義の民主主義と不正義のテロ」というブッシュ式の単純・浅はかな思考だ。「民主主義」国の成員は問題や疑問を感じても告発してはいけないという主張だ。小森氏は滑稽にも、自分がブルジョア民主主義の理念そのものを否定していることに無自覚だ▼9・11は、いわゆる先進国(帝国主義段階の資本主義)の「民主主義」が、世界の大多数を暴力で犠牲にして成り立っている歴史的事実を突き出した。中東石油権益の欧米による独占は、気の遠くなるような殺りくの歴史である▼「全世界を百人の村に縮小すると…六人が全世界の富の五九%を所有し、その六人ともがアメリカ国籍…八十人は標準以下の居住環境…七十人は文字が読めず…五十人は栄養失調に苦しみ…たった一人だけがコンピューターを所有している」(百人の村)▼いわゆる「富の偏在」は百数十年にわたる侵略と殺りくの歴史の結果だ。これを「民主主義」と称する価値観が、殺され続けた人々の怒りで破壊されることはさしあたり正しい。これが歴史的なものの見方だ。ましてや、怒れる民衆を全部殺せという米ブッシュ政権の対応こそ野蛮の極みである。

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週刊『三里塚』(S619号1面6)

 闘いの言葉

 経済的圧迫、奴隷・野蛮状態から人民を解放するために、自らの全力を捧げることこそ人間の神聖な義務であると考えた。
 元ナロードニキのレフ・ジェイチ『シベリアの16年』1903年

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週刊『三里塚』(S619号2面1)

全世界でイラク反戦闘争が爆発

ロンドン

国会議事堂を射ぬくように照らされた「イラクへの戦争反対」のスローガン(10月31日)。9月28日には40万人集会が開かれた

プエルトリコ

「ブッシュこそテロリスト」と兵器工場前をデモ(10月26日)

マニラ

米国大使館前をデモするフィリピンの青年(10月25日)

 

 アメリカ・ブッシュによるイラクへの侵略戦争策動に対して、ベトナム反戦闘争以上のたたかいが全世界で巻き起こっている。アメリカをはじめイギリス、イタリア、ドイツなどヨーロッパ、さらにイラクなど中東、フィリピン、インドネシア、オーストラリアなどアジア・オセアニア、プエルトリコ、コロンビアなど中南米各地で、それぞれ数千から数十万人規模のたたかいが爆発している。日本でも胎動が始まった。一片の正義性もないアメリカの侵略戦争に全世界の人民が怒りを表現し始めた。歴史が動き始めたのだ。パレスチナ、ムスリム人民をはじめとした非抑圧諸国人民、そして全世界の人民と連帯し、参戦国・日本の地でこそ巨大な反戦闘争を爆発させよう。

 

 ”始まる前に阻止するぞ”合言葉に

バグダッド

米国関連部門のあるポーランド大使館前で抗議するアルバニア、米国、アイルランドの市民

ワシントン

10月26日、イラク侵略戦争に反対する集会・デモがワシントンで20万人を結集して開かれた。ベトナム戦争以来の規模。サンフランシスコ、デンバー、ロサンゼルスなどでも行われた

フィレンツェ

イタリアでも9月28日、10月5日、26日とデモ・集会が展開された。写真は5日、「戦争を拒否する開かれた都市に」の横断幕でデモする市民

 「始まる前にイラク攻撃を阻止せよ」を合言葉にして、ベトナム反戦闘争以上のたたかいが世界で爆発している。
 アメリカの反戦団体「Not In Our Name(戦争の口実にわれわれの名前を使うな)」は9・11から10・7(アフガニスタン侵略戦争開戦日)の一カ月間を「行動月間」に位置づけ、全世界に向けて共同決起を呼びかけた。
 これに応えてイギリスでは「SWC(Stop War Coalition=戦争阻止のための連合)」がロンドン国会を取り巻く四十万人デモを実現し、ブッシュの盟友ブレア首相に打撃を与えた。イタリアでも同日、再建共産党の呼びかけで十万人デモがたたかわれた。
 行動月間の最終日十月六~七日にはアメリカで巨大なたたかいが展開された。ニューヨーク、サンフランシスコ、シアトル、ロサンゼルスなど全米数十カ所で八万六千人が参加する実力行動を伴ったデモがたたかわれた。
 同日、オーストラリアでは米軍最重要の通信基地の一つパイン・ギャップ基地前で四百人以上が抗議行動を行い十七人が逮捕された。ベルギー、ギリシャでも連帯行動が行われた。 次の焦点は連邦議会がブッシュに開戦権限を与えた十、十一日だった。決議に抗議してサンフランシスコの連邦ビル前で九日から十一日まで五百人が座り込み、四十四人が逮捕された。逮捕者の一人は「イラクの人々の悲惨に比べたら平和の意志表示の手段として逮捕されることは喜びだ」と語った。
 もう一つの反戦団体「ANSWER(戦争と人種差別を阻止するために行動を)」が呼びかけた10・26世界反戦デーは、空前の盛り上がりを見せた。

ベルリン

10月26日、ベルリン2万人集会はじめ国内80カ所で反戦闘争が闘われた

ストックホルム

10月26日の大規模集会。右は息子が米軍に拘留された父親

マドリッド

スペインでも10月27日、マドリッド始め7つの都市でデモが闘われた

 

 アメリカではワシントンの二十万人、サンフランシスコの十万人を先頭にロサンゼルス、デンバー、シアトル、ハワイで大デモがたたかわれた。イギリス、ドイツ、イタリア、スペイン、スウェーデン、デンマーク、ベルギー、オランダ、プエルトリコ、コロンビア、トルコ、イラク、フィリピン、インドネシアそして日本などでも数千から数十万の巨大な街頭行動がたたかわれたのだ。デモの先頭には「パレスチナに自由を」という横断幕が掲げられた。地殻変動的な時代のうねりが起こっている。小泉政権による対イラク参戦攻撃・有事立法攻撃に対してこの日本で、パレスチナ・ムスリム人民をはじめ世界の労働者人民と連帯した空前の反戦闘争を爆発させよう。

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週刊『三里塚』(S619号2面2)

 アメリカによる侵略と虐殺の歴史

 米反戦団体ANSWERの資料から(1890年から1999年)

1890 サウスダコタ州で軍隊が先住民ラコタ族300人を虐殺
1890 アルゼンチンを米軍が侵略
1891 チリの軍隊を海兵隊が攻撃
1891 ハイチで蜂起した黒人労働者を鎮圧
1892 アイダホ州で銀山労働者の反乱を鎮圧
1893 ハワイで王制を転覆
1894 シカゴで鉄道労働者のストを急襲し、34人を虐殺
1894 ニカラグアを米軍が1カ月占領。
1894-95 日清戦争時、海兵隊が中国に上陸
1894-96 日清戦争時、海兵隊がソウル駐留
1895 パナマに陸海軍、海兵隊が上陸
1896 ニカラグアのコリント港に海兵隊が上陸
1898-1900 中国義和団事件鎮圧で出兵
1898-1910 対スペイン戦争でフィリピン出兵
1898-1902 対スペイン戦争でキューバ出兵。この時グアンタナモ基地奪う
1898 プエルトリコに出兵。スペインから奪う
1898 対スペイン戦争でグアム島に出兵
1898 ミネソタ州の先住民オジブワ族を攻撃
1898 ニカラグアのサンフアン港に侵攻
1899 サモアに出兵、王制を転覆
1899 ニカラグアのブルーフィールズ港に侵攻
1899-1901 アイダホ州の鉱山地区を占領
1901 オクラホマ州のクリーク族反乱を鎮圧
1901-14 パナマに出兵しパナマ運河を強奪(1999まで)
1903 ホンジュラスの反乱鎮圧に海兵隊出兵
1903―04 ドミニカの反乱に軍隊で介入
1904-05 日露戦争時、朝鮮に侵攻
1906-09 キューバの選挙で海兵隊が侵攻
1907 ニカラグアに侵攻し保護国に
1907 ホンジュラスに侵攻
1908 パナマの選挙戦で海兵隊が侵攻
1910 ニカラグアのブルーフィールズ、コリント港に海兵隊が上陸
1911 ホンジュラス内戦で軍隊派兵
1912 ハバナの米国権益を守るため軍隊派兵
1912 パナマの選挙戦で海兵隊侵攻
1912-23 ニカラグアのゲリラ部隊鎮圧のため軍隊を派兵して空爆、20年間占領
1913 メキシコ反乱時、米国人撤退で軍が侵攻
1914 ドミニカのサントドミンゴでゲリラ部隊鎮圧のため海軍派兵
1914 コロラド州の炭鉱ストライキを軍が鎮圧
1914-18 メキシコ革命に対して軍が介入
1914-34 ハイチの反乱に空爆、19年間占領
1916-24 ドミニカを海兵隊が8年間占領
1917-33 キューバを占領、経済租界作る
1917-18 第1次大戦、ドイツと戦う
1918-22 ロシア革命に対してシベリア出兵
1918-20 パナマへ「選挙の混乱」口実に出兵
1919 ユーゴへイタリア支援のため軍事侵攻
1919 ホンジュラス選挙介入で軍隊派兵
1920 グアテマラの政変に対し2週間軍事介入
1920-21 ウエストバージニア州の鉱山労働者の反乱に空爆
1922 トルコ・スミャーナの愛国主義者を攻撃
1922-27 中国の反乱に対し海軍を配備
1924-25 ホンジュラスの選挙抗争で2度侵攻
1925 パナマのゼネストを海兵隊が鎮圧
1927-34 海兵隊が中国全土に進駐
1932 エルサルバドルの反乱で軍艦を派遣
1932 ワシントンDCで軍隊がデモを阻止
1941-45 第2次大戦に参戦。原爆投下
1943 デトロイトで黒人暴動を軍事鎮圧
1946 イランでソ連の動きに対して核で脅迫
1946 ユーゴで米機撃墜に反撃
1947 ウルグアイに核搭載爆撃機を配備
1947-49 ギリシャ内乱で極右支援へ軍事演習
1948-49 中国で軍艦を使って在留米人を避難
1948 ベルリン空輸で核攻撃用爆撃機が防衛
1948-54 フィリピンのフク族反乱にCIAが鎮圧指揮
1950 プエルトリコの独立闘争を鎮圧
1951-53 朝鮮戦争で朝鮮を侵略
1953 イランでCIAが軍事クーデター
1954 ベトナム戦争で「核攻撃」を仏に申し出
1954 グアテマラでCIA軍事クーデター
1956 エジプトのスエズ危機で海兵隊出動
1958 レバノンで反乱鎮圧のため軍事占領
1960-75 ベトナム侵略戦争、200万人虐殺
1961 キューバに対するCIAの侵攻失敗
1962 キューバ危機で海上を軍事封鎖
1962 ラオスで軍事演習
1964 パナマで運河返還運動を攻撃
1965 インドネシアでCIAクーデター
1965-66 ドミニカの選挙戦で侵攻、空爆
1966-67 グアテマラ反乱に軍事介入
1967 デトロイトで黒人暴動を鎮圧
1968 キング牧師暗殺後、軍隊が全米に展開
1969-75 カンボジアで侵略戦争
1970 オマーンへのイラン軍の侵攻を指揮
1971-73 ラオスに侵略戦争
1973 サウスダコタのラコタ族反乱を再び弾圧
1973 中東戦争で全世界の米軍が警戒配備に
1973 チリでCIAが政権転覆のクーデター
1976-92 アンゴラでCIAが親米反乱を支援
1980 イラン革命鎮圧で軍事侵攻、失敗
1981 リビア軍機を海軍機が謀略で撃墜
1981-82 エルサルバドルで反乱軍攻撃を支援
1981-90 ニカラグアでコントラゲリラを支援
1982-84 レバノンでPLO追放戦に参加、ムスリム、シリア軍を攻撃
1983-89 ホンジュラスで基地建設のため謀略
1983-84 グレナダに対して侵略戦争
1984 2機のイラン軍機をペルシャ湾で撃墜
1986 リビア政権転覆のため空軍が攻撃
1986 ボリビアでコカインマフィア攻撃を支援
1987-88 イラン・イラク戦争で軍事介入
1989 リビア軍機2機を撃墜
1989 フィリピンの反乱計画鎮圧で制空支援
1989-90 パナマ将軍追放のため軍事侵攻
1990 リベリアで米人避難のため軍派兵
1990-91 湾岸戦争でサウジに軍事展開
1991 湾岸戦争でイラク攻撃
1992 ロサンゼルス暴動鎮圧で軍出動
1992-94 ソマリアに軍事侵攻
1993-95 セルビア、モンテネグロを経済封鎖
1993-95 ボスニアを空爆、2機を撃墜
1994-96 ハイチに軍派兵、軍事政権を打倒
1995 クロアチアを空爆
1996-97 ザイールの内戦に軍事介入
1997 リベリアで米人避難のため軍隊派遣
1997 アルバニアへ外国人避難のため軍派遣
1998 スーダンを巡航ミサイル攻撃
1998 アフガニスタンを巡航ミサイル攻撃
1998 イラクを空爆
1999 コソボ撤退を決めた後のセルビアを空爆

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週刊『三里塚』(S619号2面3)

北総の空の下で 絶品の自然薯

 芋掘り名人の季節

 十一月です。別名霜月。晴れた日の夜長、足元からはい上がってくる寒気に暖房が恋しくなる今日この頃です。
 イモがおいしい季節になりました。ホカホカの焼きイモ。イモの子汁といえば里イモ……。ところで皆さん、山イモは食べたことがありますか?里の畑にできるイモに対して山林に自生する山イモを自然生(じねんじょう)、転じて自然薯(じねんじょ)と言います。
 畑で作る大和イモや長イモの仲間ですが、ねばりの差は歴然としていて、すりおろした山イモはハシでつまみ上げることができるほどです。とろろご飯にする時は出し汁で伸ばします。
 山イモは葉を見つける眼力と固い土の中から掘り出す技術がなければ手に入れることができない高級食材で、一般には比較的粘力の大きい大和イモで代用します。幸い現闘メンバーの中に山イモ掘りの名人がいるので、都会の人ではめったにめぐり合えない味覚を楽しんでいます。山イモや里イモの類は、皮をむいたり、すり下ろしたりすると手がかゆくなって往生します。シュウ酸カルシウムの針状結晶が皮膚に刺さって起きるのだそうです。おいしいものを食べるためにはその程度の苦労は仕方ないですよね。
 寒くなって食卓に登場するのが煮物や鍋物。それ自身が旨みを持っているイモ類もいいけれど、合わせる食材によって変幻自在の大根や冬瓜の奥の深さには脱帽です。おでんの中の大根、鶏ガラスープなどで煮込んだ冬瓜が、口の中でとろけて、ジュワッと汁が染み出すあの瞬間、幸せを感じます。
 年末にむけて忙しさと寒さが加速して行くこの季節、おいしい野菜で健康を維持していきたいものです。(北里一枝)

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週刊『三里塚』(S619号2面4)

 三芝百景 三里塚現地日誌 2002

 10月16日(水)~11月5日(火)

●米航空会社5社すべて赤字
 アメリカの航空大手5社がすべて赤字になったことが判明した。5社はアメリカン、ユナイテッド、デルタ、ノースウエスト、コンチネンタル航空。(19日)
●相模原の反戦集会に北原事務局長 神奈川県相模原市で開催された「有事立法に反対する集会」に反対同盟から北原鉱治事務局長が参加して、「反戦の砦」からの決意を訴えた。集会では日弁連の高山俊吉弁護士、住基ネットに反対して活動する佐藤文明さんの講演も行われた。(20日)
●国際反戦デー闘争に木内さん 反戦共同行動委員会の主催で東京代々木公園で開かれた国際反戦デー統一行動に反対同盟から木内秀次さんが参加、「反戦反基地のたたかいの砦として、三里塚は廃港までたたかう」とあいさつした。この日のたたかいには、「イラクへの攻撃を止めさせよう!10・26世界行動」を訴えているアメリカの反戦団体「ANSWER」からメッセージが寄せられ、国際連帯を深めるたたかいとなった。(21日)
●成田市、回答よこさず 市東孝雄さん宅わきのジェットブラスト対策塀問題で反対同盟は公団と成田市を粘り強く追及しているが、「市の責任で対策を行え」と要求した文書への回答期限のこの日になっても回答せず、住民無視の小川国彦市政の姿があらためて浮き彫りになった。(25日)
●芝山鉄道開業に抗議 反対同盟は空港公団などが出資する芝山鉄道開業式典に抗議して菱田デモを行った。芝山町中郷で闘う鈴木幸司さんは「空港建設の見返りと称して反対運動を買収しようとする芝山鉄道開業を許さない」と決意を述べた。(26日=写真)
●不当逮捕の学生2人を奪還 
 10・13全国集会のデモで不当逮捕されていた2人の学生を奪還した。所属大学の仲間は約10回、反対同盟宣伝カーを使って拘留されていた千葉西署と八千代署周辺で激励の宣伝行動を展開、獄中闘争を支えた。(11月2日)
●富山大学生が現地調査 富山大学の学生7人が三里塚現地を訪れ、車2台に分乗して現地調査を行った。(3日)●作物の生育に遅れ 21号台風とその後の雨によって秋野菜の収穫が半月遅れている。「8月につづいて2回目の端境期になっちゃうがこれを乗り切れば順調に収穫できる」と萩原進さん。(3日)

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