SANRIZUKA 2002/11/15(No619
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暫定滑走路の開港は、あくまで地権者の屈服を前提にしたものだった。反対派農民の闘争継続が確定した瞬間、滑走路の致命的な欠陥性があらわになり、公団は窮地に陥った。
まず滑走路長の「二一八〇㍍」は国際空港としては論外だ。大型機の離発着はできず、用途も国内線とアジアの近距離便に限定される。滑走路と平行する誘導路が市東孝雄さんの畑と反対同盟現闘本部に遮られ、滑走路側に大きく「へ」の字に湾曲している。航空機の離着陸時は「赤信号」で通行止めとなり、地上渋滞の原因となっている。
ターミナルとの連絡誘導路は幅が狭く一方通行。ラッシュ時は入り口で順番待ちの列ができる。しかも大型機は通過できない。仮に暫定滑走路をこのまま延長しても、大型機は滑走路に入れない。
空港全体の運用面でも、暫定滑走路の開港はマイナス面ばかりが目立つ。その典型が「一時間枠上限」の引き下げだ。成田空港全体の一時間当たりの離着陸回数上限は三十二回だったが、これが暫定路開港で三十回に減ってしまった。
問題は空域にあった。成田空港は滑走路は二本になっても飛行コースは南北とも一本しかない。成田発着の航空機は、この「トンネル」を一列になって通過する。周辺空域が自衛隊百里基地と米軍横田基地にはさまれ極端に狭いゆえの措置だ。内陸空港ゆえの騒音対策で飛行コースが制限される影響も大きい。
つまり成田空港は、滑走路が二本になっても一本の滑走路と同じ運用しかできないのである。この問題に前記の地上誘導の問題が重なり、暫定滑走路を飛び立つ航空機は、スポットを離れてから離陸まで最大四十~五十分もかかるという惨状を呈してしまった。Aランから離陸した航空機が六・五キロ離れてからでないと暫定路の便は出発できず、ストップをかけられる。
同じ問題は着陸時にも起こる。滑走路が二本あっても航空機は同時に進入できない。混雑時は上空旋回での待機を強いられる。待機空域が満杯になればどうなるか。羽田空港へ緊急変更着陸だ。これは実際に何度も起きている。羽田では乗客は降りられない。時間調整の後、もう一度羽田を離陸し成田へ向かう。当然にも乗客の怒りは爆発する。
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暫定滑走路は現在、一日百回強の離発着数(五十便)だ。暫定路供用後、成田空港全体では約二〇%の便数増となった。これで早くも満杯状態となっている。開港後初の冬ダイヤで、暫定路は一日あたり百二十回程度、年間換算で約四万三千回にまで増便される予定だが、ここで公団総裁自身が早くも「満杯宣言」を出した。地上での誘導上の問題、空域の制約、滑走路の短さ、離着陸の遅れの続出、事故の危険の高まり…、その他あらゆる面で、これ以上はどうやっても増やせないのだ。すでに事故が起きる寸前の危険水域に入っているのである。国際空港の滑走路として論外の能力だ。
暫定滑走路の公称処理能力は「年間六万五千回」。これ自体が国際空港の滑走路としてはなはだ貧弱だ。現代の国際空港は、滑走路一本で年間二十万回程度の処理能力(二十四時間運用)が常識化している。ところが暫定滑走路では、公称の数字(六万五千回)すら実体のないものだった。
膨大な税金を投入した上、地元農民に多大な犠牲を強いて強行した暫定滑走路の開港は、航空運輸政策の観点からは、ほとんど意味のない開港だった。
軍事空港=成田を廃港に追い込もう!
1986年10月 | 二期工事(軒先工事)着工 |
1988年5月 | 公団・秋富総裁が土地収用法発動による強制収用を明言。収用審理再開の準備始まる |
同 9月21日 | 県収用委会長に鉄槌下る |
同 10月 | 収用委の委員全員が辞任。同委は崩壊し、強制収用は不可能に |
1989年9月~ | 団結小屋への成田治安法の一斉適用。翌10月まで現闘本部を含む5カ所を強制封鎖・除去処分 |
1990年11月 | 新天皇即位儀式。中核派に破防法の組織適用攻撃(粉砕) |
1991年5月~ | 運輸省と脱落派の政治談合=公開シンポ・円卓会議始まる。脱落派は「平行滑走路」を容認。運輸省は「地権者の同意抜きには着工しない」等確約 |
1996年4月 | 日米安保共同宣言。安保ガイドライン見直し着手 |
同 12月 | 運輸省、成田平行滑走路「2000年完成」打ち出す(7空整) |
1998年4月 | 三里塚現闘5人逮捕の一斉弾圧。この年、平行滑走路着工への動き強まる |
1999年4月 | 周辺事態法(新ガイドライン関連法)衆院で可決 |
同 5月 | 運輸省(黒野次官)が暫定滑走路計画への変更を一方的に発表 |
同 12月 | 地権者拒否のまま暫定滑走路の着工強行 |
2001年6月 | 土地収用法改悪案、衆院で可決(収用手続き迅速化) |
同 | 公団が東峰神社の立木を盗伐 |
2002年4月 | 暫定滑走路開港を強行 |
同 7月 | 黒野匡彦・新総裁就任。暫定滑走路「北延伸」打ち出す |
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【解説】 平行滑走路の未買収地間題について、黒野総裁は十月三十一日の記者会見で「現時点では反対派農家との交渉に期限を設けない」考えを示した。さらに「平行滑走路(二五〇〇㍍)ができていなくても民営化することはあり得る。民営化を遅らせるつもりはない」と明言した。
これは黒野が七月の総裁就任以来掲げてきた暫定路「北側延伸」計画の撤回表明だ。二五〇〇㍍への延長問題は今後、東峰地区住民の買収と三里塚闘争の消滅を前提にした当初の「南側延伸」計画に戻るが、これは不可能であり二五〇〇㍍化の棚上げ表明に等しい。
黒野は七月の総裁就任早々「暫定滑走路の北側延伸」を打ち出した。「地権者を落として南延伸。ダメなら『北延伸』で農家の頭上にジャンボを飛ばす」という「両にらみ方針」を公言した。
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しかし北側延伸は空論だった。連絡誘導路が狭くジャンボ機はそもそも暫定路に入れない。新たな誘導路の用地確保も地権者が五十軒にもなり、不可能と分かった。しかも「北側延伸計画」に成田市や下総町から強い批判が起こった。特に騒音直下の久住地区住民は「全員署名」で反対の意思を明らかにした。あの千葉県堂本知事にまで、黒野の住民無視は「やりすぎ」と揶揄された。鳴り物入りの新総裁・黒野の権威は地に落ちた。
この上に成田空港の民営化スタートが〇四年度と決まった。形態も国交省の当初案「上下分離」は撤回され「上下一体」の民間移行となった。
利潤追求が唯一の行動原理となる民間資本が三里塚闘争をつぶすことは百パーセント不可能だ。暫定滑走路の延伸計画自体が、事実上粉砕されたに等しい決定である。
公団の当面する方針は本来計画である南側(東峰部落)買収だが、そもそも買収の行き詰まりが「北延伸」デマの発端だった。黒野総裁の周囲には敗北感がただよう。
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ロンドン国会議事堂を射ぬくように照らされた「イラクへの戦争反対」のスローガン(10月31日)。9月28日には40万人集会が開かれた |
プエルトリコ「ブッシュこそテロリスト」と兵器工場前をデモ(10月26日) |
マニラ米国大使館前をデモするフィリピンの青年(10月25日) |
アメリカ・ブッシュによるイラクへの侵略戦争策動に対して、ベトナム反戦闘争以上のたたかいが全世界で巻き起こっている。アメリカをはじめイギリス、イタリア、ドイツなどヨーロッパ、さらにイラクなど中東、フィリピン、インドネシア、オーストラリアなどアジア・オセアニア、プエルトリコ、コロンビアなど中南米各地で、それぞれ数千から数十万人規模のたたかいが爆発している。日本でも胎動が始まった。一片の正義性もないアメリカの侵略戦争に全世界の人民が怒りを表現し始めた。歴史が動き始めたのだ。パレスチナ、ムスリム人民をはじめとした非抑圧諸国人民、そして全世界の人民と連帯し、参戦国・日本の地でこそ巨大な反戦闘争を爆発させよう。
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バグダッド米国関連部門のあるポーランド大使館前で抗議するアルバニア、米国、アイルランドの市民 |
ワシントン10月26日、イラク侵略戦争に反対する集会・デモがワシントンで20万人を結集して開かれた。ベトナム戦争以来の規模。サンフランシスコ、デンバー、ロサンゼルスなどでも行われた |
フィレンツェイタリアでも9月28日、10月5日、26日とデモ・集会が展開された。写真は5日、「戦争を拒否する開かれた都市に」の横断幕でデモする市民 |
「始まる前にイラク攻撃を阻止せよ」を合言葉にして、ベトナム反戦闘争以上のたたかいが世界で爆発している。
アメリカの反戦団体「Not In Our Name(戦争の口実にわれわれの名前を使うな)」は9・11から10・7(アフガニスタン侵略戦争開戦日)の一カ月間を「行動月間」に位置づけ、全世界に向けて共同決起を呼びかけた。
これに応えてイギリスでは「SWC(Stop War Coalition=戦争阻止のための連合)」がロンドン国会を取り巻く四十万人デモを実現し、ブッシュの盟友ブレア首相に打撃を与えた。イタリアでも同日、再建共産党の呼びかけで十万人デモがたたかわれた。
行動月間の最終日十月六~七日にはアメリカで巨大なたたかいが展開された。ニューヨーク、サンフランシスコ、シアトル、ロサンゼルスなど全米数十カ所で八万六千人が参加する実力行動を伴ったデモがたたかわれた。
同日、オーストラリアでは米軍最重要の通信基地の一つパイン・ギャップ基地前で四百人以上が抗議行動を行い十七人が逮捕された。ベルギー、ギリシャでも連帯行動が行われた。 次の焦点は連邦議会がブッシュに開戦権限を与えた十、十一日だった。決議に抗議してサンフランシスコの連邦ビル前で九日から十一日まで五百人が座り込み、四十四人が逮捕された。逮捕者の一人は「イラクの人々の悲惨に比べたら平和の意志表示の手段として逮捕されることは喜びだ」と語った。
もう一つの反戦団体「ANSWER(戦争と人種差別を阻止するために行動を)」が呼びかけた10・26世界反戦デーは、空前の盛り上がりを見せた。
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ベルリン10月26日、ベルリン2万人集会はじめ国内80カ所で反戦闘争が闘われた |
ストックホルム10月26日の大規模集会。右は息子が米軍に拘留された父親 |
マドリッドスペインでも10月27日、マドリッド始め7つの都市でデモが闘われた |
アメリカではワシントンの二十万人、サンフランシスコの十万人を先頭にロサンゼルス、デンバー、シアトル、ハワイで大デモがたたかわれた。イギリス、ドイツ、イタリア、スペイン、スウェーデン、デンマーク、ベルギー、オランダ、プエルトリコ、コロンビア、トルコ、イラク、フィリピン、インドネシアそして日本などでも数千から数十万の巨大な街頭行動がたたかわれたのだ。デモの先頭には「パレスチナに自由を」という横断幕が掲げられた。地殻変動的な時代のうねりが起こっている。小泉政権による対イラク参戦攻撃・有事立法攻撃に対してこの日本で、パレスチナ・ムスリム人民をはじめ世界の労働者人民と連帯した空前の反戦闘争を爆発させよう。
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1890 | サウスダコタ州で軍隊が先住民ラコタ族300人を虐殺 |
1890 | アルゼンチンを米軍が侵略 |
1891 | チリの軍隊を海兵隊が攻撃 |
1891 | ハイチで蜂起した黒人労働者を鎮圧 |
1892 | アイダホ州で銀山労働者の反乱を鎮圧 |
1893 | ハワイで王制を転覆 |
1894 | シカゴで鉄道労働者のストを急襲し、34人を虐殺 |
1894 | ニカラグアを米軍が1カ月占領。 |
1894-95 | 日清戦争時、海兵隊が中国に上陸 |
1894-96 | 日清戦争時、海兵隊がソウル駐留 |
1895 | パナマに陸海軍、海兵隊が上陸 |
1896 | ニカラグアのコリント港に海兵隊が上陸 |
1898-1900 | 中国義和団事件鎮圧で出兵 |
1898-1910 | 対スペイン戦争でフィリピン出兵 |
1898-1902 | 対スペイン戦争でキューバ出兵。この時グアンタナモ基地奪う |
1898 | プエルトリコに出兵。スペインから奪う |
1898 | 対スペイン戦争でグアム島に出兵 |
1898 | ミネソタ州の先住民オジブワ族を攻撃 |
1898 | ニカラグアのサンフアン港に侵攻 |
1899 | サモアに出兵、王制を転覆 |
1899 | ニカラグアのブルーフィールズ港に侵攻 |
1899-1901 | アイダホ州の鉱山地区を占領 |
1901 | オクラホマ州のクリーク族反乱を鎮圧 |
1901-14 | パナマに出兵しパナマ運河を強奪(1999まで) |
1903 | ホンジュラスの反乱鎮圧に海兵隊出兵 |
1903―04 | ドミニカの反乱に軍隊で介入 |
1904-05 | 日露戦争時、朝鮮に侵攻 |
1906-09 | キューバの選挙で海兵隊が侵攻 |
1907 | ニカラグアに侵攻し保護国に |
1907 | ホンジュラスに侵攻 |
1908 | パナマの選挙戦で海兵隊が侵攻 |
1910 | ニカラグアのブルーフィールズ、コリント港に海兵隊が上陸 |
1911 | ホンジュラス内戦で軍隊派兵 |
1912 | ハバナの米国権益を守るため軍隊派兵 |
1912 | パナマの選挙戦で海兵隊侵攻 |
1912-23 | ニカラグアのゲリラ部隊鎮圧のため軍隊を派兵して空爆、20年間占領 |
1913 | メキシコ反乱時、米国人撤退で軍が侵攻 |
1914 | ドミニカのサントドミンゴでゲリラ部隊鎮圧のため海軍派兵 |
1914 | コロラド州の炭鉱ストライキを軍が鎮圧 |
1914-18 | メキシコ革命に対して軍が介入 |
1914-34 | ハイチの反乱に空爆、19年間占領 |
1916-24 | ドミニカを海兵隊が8年間占領 |
1917-33 | キューバを占領、経済租界作る |
1917-18 | 第1次大戦、ドイツと戦う |
1918-22 | ロシア革命に対してシベリア出兵 |
1918-20 | パナマへ「選挙の混乱」口実に出兵 |
1919 | ユーゴへイタリア支援のため軍事侵攻 |
1919 | ホンジュラス選挙介入で軍隊派兵 |
1920 | グアテマラの政変に対し2週間軍事介入 |
1920-21 | ウエストバージニア州の鉱山労働者の反乱に空爆 |
1922 | トルコ・スミャーナの愛国主義者を攻撃 |
1922-27 | 中国の反乱に対し海軍を配備 |
1924-25 | ホンジュラスの選挙抗争で2度侵攻 |
1925 | パナマのゼネストを海兵隊が鎮圧 |
1927-34 | 海兵隊が中国全土に進駐 |
1932 | エルサルバドルの反乱で軍艦を派遣 |
1932 | ワシントンDCで軍隊がデモを阻止 |
1941-45 | 第2次大戦に参戦。原爆投下 |
1943 | デトロイトで黒人暴動を軍事鎮圧 |
1946 | イランでソ連の動きに対して核で脅迫 |
1946 | ユーゴで米機撃墜に反撃 |
1947 | ウルグアイに核搭載爆撃機を配備 |
1947-49 | ギリシャ内乱で極右支援へ軍事演習 |
1948-49 | 中国で軍艦を使って在留米人を避難 |
1948 | ベルリン空輸で核攻撃用爆撃機が防衛 |
1948-54 | フィリピンのフク族反乱にCIAが鎮圧指揮 |
1950 | プエルトリコの独立闘争を鎮圧 |
1951-53 | 朝鮮戦争で朝鮮を侵略 |
1953 | イランでCIAが軍事クーデター |
1954 | ベトナム戦争で「核攻撃」を仏に申し出 |
1954 | グアテマラでCIA軍事クーデター |
1956 | エジプトのスエズ危機で海兵隊出動 |
1958 | レバノンで反乱鎮圧のため軍事占領 |
1960-75 | ベトナム侵略戦争、200万人虐殺 |
1961 | キューバに対するCIAの侵攻失敗 |
1962 | キューバ危機で海上を軍事封鎖 |
1962 | ラオスで軍事演習 |
1964 | パナマで運河返還運動を攻撃 |
1965 | インドネシアでCIAクーデター |
1965-66 | ドミニカの選挙戦で侵攻、空爆 |
1966-67 | グアテマラ反乱に軍事介入 |
1967 | デトロイトで黒人暴動を鎮圧 |
1968 | キング牧師暗殺後、軍隊が全米に展開 |
1969-75 | カンボジアで侵略戦争 |
1970 | オマーンへのイラン軍の侵攻を指揮 |
1971-73 | ラオスに侵略戦争 |
1973 | サウスダコタのラコタ族反乱を再び弾圧 |
1973 | 中東戦争で全世界の米軍が警戒配備に |
1973 | チリでCIAが政権転覆のクーデター |
1976-92 | アンゴラでCIAが親米反乱を支援 |
1980 | イラン革命鎮圧で軍事侵攻、失敗 |
1981 | リビア軍機を海軍機が謀略で撃墜 |
1981-82 | エルサルバドルで反乱軍攻撃を支援 |
1981-90 | ニカラグアでコントラゲリラを支援 |
1982-84 | レバノンでPLO追放戦に参加、ムスリム、シリア軍を攻撃 |
1983-89 | ホンジュラスで基地建設のため謀略 |
1983-84 | グレナダに対して侵略戦争 |
1984 | 2機のイラン軍機をペルシャ湾で撃墜 |
1986 | リビア政権転覆のため空軍が攻撃 |
1986 | ボリビアでコカインマフィア攻撃を支援 |
1987-88 | イラン・イラク戦争で軍事介入 |
1989 | リビア軍機2機を撃墜 |
1989 | フィリピンの反乱計画鎮圧で制空支援 |
1989-90 | パナマ将軍追放のため軍事侵攻 |
1990 | リベリアで米人避難のため軍派兵 |
1990-91 | 湾岸戦争でサウジに軍事展開 |
1991 | 湾岸戦争でイラク攻撃 |
1992 | ロサンゼルス暴動鎮圧で軍出動 |
1992-94 | ソマリアに軍事侵攻 |
1993-95 | セルビア、モンテネグロを経済封鎖 |
1993-95 | ボスニアを空爆、2機を撃墜 |
1994-96 | ハイチに軍派兵、軍事政権を打倒 |
1995 | クロアチアを空爆 |
1996-97 | ザイールの内戦に軍事介入 |
1997 | リベリアで米人避難のため軍隊派遣 |
1997 | アルバニアへ外国人避難のため軍派遣 |
1998 | スーダンを巡航ミサイル攻撃 |
1998 | アフガニスタンを巡航ミサイル攻撃 |
1998 | イラクを空爆 |
1999 | コソボ撤退を決めた後のセルビアを空爆 |
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