SANRIZUKA 2001/01/01(No574 p02)

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週刊『三里塚』(S574号1面1)

反対同盟若手新春座談会
 “俺たちは政府に負けない”

 暫定滑走路阻止決戦 「新たな村起こし」の心意気

 出席者
 市東 孝雄さん(天神峰部落)
 伊藤 信晴さん(白桝部落・事務局員)
 木内 秀次さん(白桝部落・事務局員)
 鈴木 謙太郎さん(中郷部落)
 小林 一夫さん(長原部落)

 二〇〇二年の暫定滑走路供用粉砕へ、決戦のただなかにある三里塚闘争。今年も反対同盟若手の皆さんに恒例の新春座談会を開いていただいた。一昨年末に三里塚現地・天神峰部落に戻ってきた市東孝雄さんも新たに加わり、闘争談義は大いに盛り上がった。地域に根をはって生活しながら「長いものにはまかれたくない」という心意気。三里塚闘争は新たな時代への手応えを着実に増している。(編集部)

 軒先工事が「話し合い」か 伊藤
 家をのぞき込む私服警官 市東
 国のいいなりにならない 木内

《まず軒先工事の問題について伺います。運輸省や公団は、公式的には「二〇〇二年五月ワールドカップまでに二五〇〇b(平行滑走路)をめざす」ともいっていますが…》
 市東 バブルの時の「地上げ」と同じやり方だと思う。公団は農家の上空四十メートルを飛ばすといってる。強引に飛ばせば出て行くと思っている。家のすぐ脇までフェンスを張って部落中が監獄みたいになる現実はほとんど世間に知らされていないでしょ。
 木内 人の家の前まで滑走路造ってしまうやり方は尋常ではないよな。やっぱり三里塚には人権も民主主義もないと思う。
 伊藤 民主主義なんてどこにもないよ。暫定滑走路は計画そのものが暴力でしょ。農家の前まで滑走路造るなんて通常では考えられない。俺も最初はここまでやるかと驚いたんだよ。
 シンポ・円卓会議は何だったか。「強制的手段はとらない」と約束したんでしょ。「地権者の合意なしには着工しない」とかね。ペテンだとは思ったけど本当にペテンだった。(笑い)
 鈴木 報道の仕方も問題あるよな。常軌を逸した軒先工事がまかり通っている現実をどこの新聞も批判しない。これ自体が異常だよ。戦争中と同じで報道管制というのがあるのかもしれない。
 木内 天神峰に張られた高圧電線はすごいだよ。触ってみたことあるけど死ぬかと思ったよ。俺の場合は死ななかったけど(笑い)。心臓悪い人だったら死んじゃうよ。現実は今もこういう戦争状態だということを知って欲しい。

《ところで昨年は権力の嫌がらせもずいぶん問題になりましたが》
 伊藤 俺の仕事先にも私服は付け回ってくる。仕事の現場まで。一部始終全部掌握するという考えでやってる。露骨な業務妨害なので今度しかるべく法律的に対応しようと思ってる。
 市東 それはやった方がいい。私服(警官)の連中は抗議しないと図に乗ってくる。どこ行くにもついてくる。嫌がらせとしか思えない。俺もついに我慢できなくなって、尾行してきた私服の車を止めて「降りてこい」なんてやっちやったんだけど、やつらは顔も見せない。これが国のやることなんだなあと改めて思いましたよね。
 神崎(元条件派農民)のやってる警備会社のナス(NAS=成田空港警備)という会社。あれが警察と同じことやってる。家の前に車を止めて中をのぞき込んでくる。誰がいるのかチェックしてるんですよ。それを帳面につけたりして。何さまかと腹が立つ。やつらは民間人でしょ。とんでもない勘違いをしてる。
 鈴木 あいつら自分が警官になったようなつもりなんだよ。俺らの畑にも警備会社の連中がきてのぞき込んでくる。出荷の時も必ずくるんだよ。私服と一緒にきて。あれで嫌がらせのつもりなんだろうな。
 木内 そういう奴は人間として最低だよな。こういうことをやるから「ただではすまない」わけだよ(笑い)。
 伊藤 なぜ三里塚は実力闘争になったかよく分かる。権力はハナから叩きつぶすことしか考えてなかった。力を見せれば屈服すると。機動隊の暴力と札束の力。自分の体を盾にして抵抗する以外にないんだよ。実は、いまもこの関係は変わっていないわけだよな。

《「話し合い」で解決するルールが確立したと、転向した石毛(脱落派)や朝日新聞などはいっています》
 市東 うちの前で一方的に工事やってるのは「話し合いのルール」ですかね。現実を知らない人は恐ろしいね。よくそういうことが言えると思うよね。私は実家に帰ってまだ一年だけど、政府はこういうやり方を三十年以上やってきたわけでしょ。信じられないですね。国がひとつも反省しないという現実がね。「民主主義」といわれる国の実態が少し見えた気がしますね。
 伊藤 地域の推進派の圧力もあるよね。長いものには巻かれろという。
 小林 あるよな。俺もこのあいだ同窓会があっていったんだけど、「もういいかげんにやめろ」と。(笑い)いわれましたよ。
 でもね。闘争やりながら生活の基盤もなんとか作り上げてきたことが俺らの自信になってると思うよな。札束でひっくりかえる奴はいるかもしれねえけど、ここまで国に対して突っ張ってきたものをいまさら頭を下げる方がおかしいと思うよな。ここまで頑張った以上、最後まで気持ちを曲げないという考えも正しいと思う。長いものにはまかれたくねえというな。
 だけど一時みたいに寄ってたかって「闘争やめろ」という雰囲気は随分なくなったようにも思う。
 鈴木 菱田(平行滑走路予定地の南側)の雰囲気も変わった。一時は一軒残らず移転して反対運動はきれいさっぱりなくなると言われていた。だけど結局、移転組は十件くらいしかまとまんなかった。プライドも魂も権力に売り渡してまで移転するほど得でもねえという雰囲気も生まれたんだよ。だから俺らも堂々と気兼ねしないで反対同盟やってられる。

《マスコミは「反対派は孤立している」かのような書き方をしますが、実は孤立していない》
 小林 孤立してる感じはまったくねえよな。反対同盟も昔に比べれば少なくなったけど、一歩も引かないで頑張り通している誇りというかさ。そういう同盟の心意気も周囲の人らに伝わっているような気がするよな。
 伊藤 全国の支援陣形も大きな問題だよね。この座談会を初めた十年くらい前のスローガンが「三里塚闘争は六千万労働者と連帯しよう」だった。三里塚の問題は三里塚の問題にとどまらない。だから労働者や学生と共闘する。この問題は反対同盟の分裂に発展した歴史もある。
 木内 転向した脱落派は「三里塚に政治闘争を持ち込むな」というわけよ。あくまで「地域住民運動」。地域住民闘争はその通りだけど、政治は「持ち込む」云々の問題ではない。

 既成政党の枠を超える 鈴木
 長いものに巻かれない 小林

 木内 三里塚でも政治と政治が現にぶつかってるわけ。それが現実だよ。政治の都合で農村に殴り込みをかけてきたのが権力。それは今も続いてるでしょうよ。だから三里塚闘争は最初から政治闘争なんだよ。
 伊藤 石毛なんかは「党派が反権力闘争に位置付けている」と非難するけど、位置付け以前に三里塚は反権力闘争になってきた現実がある。好き嫌いの問題でもない。権力と現にぶつかってる。位置づけの問題ではなくて、たたかうか屈服するかの問題。
 木内 新左翼党派が槍玉にあがることもあるけど、既成の政党は三里塚闘争から全部逃げちゃったでしょうよ。それが問題なんだよ。共産党も社会党も最初は毎朝きていたよ。ところが権力とぶつかった瞬間逃げちゃった。
 市東 今の成田市長(小川国彦)も元は社会党の代議士として反対してたわけでしょ。そういうことを考えると、逃げずに頑張ってきた人のほうがえらいと思う。逃げた以上、頭を下げて黙るのが人の道でしょ。自分は逃げといて残った支援者を批判するのはどうみてもおかしい。

《三里塚闘争もついに二十一世紀に突入します。時代も大変な激動期に。反対同盟としての抱負は》
 鈴木 自民党政権が崩壊するとか言われているけど、俺が思うにどの政党が政権とっても変わんねえと思う。これだけははっきり言える。民主党だろうが何だろうが、今の政党が政権とっても変わんない。ちょっと前に社会党が総理大臣になってひどかった。自衛隊容認したり。
 だから既成の政党に頼らない。俺らは俺らの力で進んで行くという考え方でいきたい。抱負というほど大袈裟(おおげさ)なものではないけど、こういう運動がひとつやふたつあってもいいんじゃねえかと。
 伊藤 国の言いなりにならない。既成の政党に頼らず、ここまで政府をおいつめてきた三里塚闘争の力は、必ず新しい時代の流れをつくると思う。三里塚闘争が最後の勝利を勝ち取るのは三里塚だけの力ではない。二十一世紀は世の中全体が動き出す。
 木内 土地収用法改悪とか、どんな悪い法律が出てきても、国民が言うことを聞かなかったらそれで終わり。それが三里塚闘争の流儀だよ。これからはこういう闘い、こういう考え方でないと世の中何も変わらないと思う。
 鈴木 闘争はじまった時(一九六六年)は俺は小学校六年。代執行(七一年)の時は穴の中にも入った。こんな激しい闘争がここまで続くとは思わなかったけど、今はじっくり腰据えて農業を続けて行くことが闘争の基本と思えるようになった。気負いはねえよ。普段着のままで闘争を続けていくことが大事。
 小林 うちのばあさん(小林なつ婦人行動隊長)は富里なんだけど、反対同盟はやっぱりえらいといわれるって聞いたよ。陰ながら応援していると。こういう話を聞くとやっぱり嬉しいよな。孝雄さんも跡を継いだし、まだまだ負けないという気になった。俺の所も息子が農業継いでくれることになったし。
 市東 間違った闘争だったら三十五年も続かなかったと思う。親父(故・市東東一さん)をみていてそう思った。俺たちは野菜や米を作って別に何も悪いことはやってない。誰に気兼ねすることなく闘争続けて行けばいいと思ってる。
 それに去年のこの座談会で俺が現地に帰ってくれば百姓の面はみんなでめんどう見るよと言ってくれたよね。俺読んだんだよ、この座談会。
 鈴木 そんなこと言ったっけな。(笑い)
 市東 新しい村起こしをやるくらいの気分で行こう。
 木内 二十一世紀を三里塚と人民が取るか、権力が取るか。むこう二年間のたたかいではっきさせよう。
《どうもありがとうございました》(二〇〇〇年十二月三日収録)

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週刊『三里塚』(S574号1面2)

侵略戦争阻止は譲れない 「権力恐るるにたらずだ」
 北原 鉱治さん ●反対同盟事務局長

 一年間、軒先工事の暴挙とたたかってきた。一昨年十二月、運輸省・公団は「サッカー・ワールドカップに間に合わせる」と称して敷地内の゛地上げ″に着手した。「着工は地権者の合意を得てから」と約束したシンポ・円卓会議はペテンだった。
 彼らのねらいは、滑走路の土木工事を農家の目の前で強行し、部落を鉄板フェンスや高圧電流で囲い、強制収容所のような環境に追い込んで反対運動をつぶすことだった。公団総裁は「滑走路が完成すれば農家の頭上四十bを飛ばす」と脅迫した。
 しかし「権力恐るるに足らず」だ。追い詰められているのは運輸省・公団の側だった。暫定滑走路はそのままでは使い物にならない。南側に東峰神社がある。反対同盟の物件や一坪共有地もある。これで滑走路は一七四〇bになってしまった。それでも公団は、着工すれば反対派地権者は落ちると踏んでいた。それで見切り着工というわけだ。三十年前と変わらぬ農民無視。民主主義のカケラもない。それが成田空港の現実だと知ってほしい。
 郡司とめ婦人行動隊長、小川徳太郎さんというかけがえのない同志を失った。しかし全国の皆さんが改めて三里塚に熱い思いを寄せてくれた。決戦カンパも予定を大きく上回った。心から感謝します。
 三里塚闘争は一地域の空港反対闘争を超えて、日本の民主主義そのものを左右するたたかいとなった。安保ガイドラインで成田は名実ともに軍事空港となった。今年は教育基本法改悪から有事法制、憲法改悪にまで進むという。土地収用法の改悪も動き出した。まさに戦前への逆戻りだ。
 侵略戦争を許さない。これは絶対に譲れない。これだけは次の世代に引き継ぐ義務がある。三里塚は胸を張って反戦・反権力の砦だと自負できる。これはすべての人民の財産です。
 三里塚闘争の歴史的決着を求める決戦ですが私たちに迷いはありません。団結を固め、ともに前進しましょう。

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週刊『三里塚』(S574号1面3)

収用法の改悪は有事法制 「三里塚闘争の神髄とは」
 萩原 進さん ●反対同盟事務局次長

 着工から一年。暫定滑走路の破たんはだれの目にも明らかになった。公団の広報紙は暫定滑走路のことを「平行滑走路」と呼んでいる。「暫定」では短くて役に立たないと認めたわけだ。
 昨年の着工に際して反対同盟は二年間決戦を宣言した。連月闘争を打ちぬき、用地内に入って一坪共有地の確認行動もやった。軒先工事とたたかう自信もできた。このなかで東峰神社の立ち木問題も暴露された。団結街道や現闘本部が滑走路の欠陥に拍車をかけている。公団は成田市と結託して団結街道を破壊しようとしたが、反対同盟の機敏な反撃で粉砕できた。
 暫定滑走路を延長することは百パーセン不可能だ。民家も開拓道路も墓地もある。一坪共有地も十カ所以上ある。全部買収するなんてできない相談だ。
 羽田国際化や首都圏第三空港が動きだした理由は、成田がどうにもならなくなったということ。しかし政府は成田の敗北を絶対認められない。国のいうことを聞かない農民や労働者を放置すると戦争体制にならないわけだ。追いつめられた運輸省は禁じ手も使って闘争破壊に乗り出してくるだろう。結局彼らは暴力しかない。
 扇建設大臣が土地収用法の改悪を言い出した。「一坪共有地の強制収用」とも公言した。成田の事業認定が失効した事実も知らないとはお粗末な大臣ではある。しかし強権発動の布石だ。反対同盟の対策は万全だ。三里塚闘争の神髄はここからだ。
 収用法改悪は有事法制の先取りだ。戦争体制の中心は有事法制。その実体は土地収用制度と人民の動員だ。反戦の砦=三里塚闘争の重要性は明らかだ。
 安保に反対する国会勢力は弱い。超反動法案が簡単に通過する。労働者、学生、農民の現場のたたかいが大事だ。「三里塚のようにたたかおう」というスローガンが光り輝く時代にしなければならないと思う。郡司とめさん、小川徳太郎さんの遺志を受けついで団結を固めたい。

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週刊『三里塚』(S574号1面4)

団結街道

 三里塚闘争もついに二十一世紀に突入する。反対同盟をひきいる北原鉱治事務局長は同盟結成当時四十二歳だった。筆者の現在の年齢に限りなく近い。それから三十五年。まさに半生を費やしての戦いとなった▼一群の農民たちが”お上”に真っ向から楯突いて三十五年。第一級の「国策」がいまだ完成しない様は爽快ですらある。山が動き出すような手応えを感じる。乱暴、狼藉(ろうぜき)の限りをつきした権力の顔色もさえない▼運輸省は今年から建設省と合体する。「国土交通省」と称し公共事業の八割を握る巨大官庁となる。その初代大臣・扇千景建設相が「開港から二十三年もたって二本目の滑走路ができないのは千葉県の努力が足りない」と放言なさった。わが同志たちは爆笑。県の幹部は「爆発」である。何しろ成田空港の建設主体は運輸省なのだ▼暫定滑走路が使い物にならないことはもはや定説に。県や周辺自治体の危機感は尋常ではない。知事は「特別立法で収用しろ」と叫ぶ。県自民党は空港利権にぶら下がって生きてきた支配政党だ。羽田国際化による成田の「後景化」は死活問題というわけ。成田特例で公共事業にからむ贈収賄が一切追及されない。「慣例」も危うくなる▼なにしろ成田の建設利権「割り付け」は、過去三十五年間一度も追及されたことがない。「割り付け」とは新聞の話ではない。役人が政治家の「口利き」で工事を割り振る行為。「金権千葉」の異名をとる役人たちはさぞかし潔癖なのだろう。「極左」との対決案件ゆえ、成田での汚職追及は論外というのが当局の論理▼暫定滑走路が短くて使い物にならんと嘆く諸氏へ。ここまで腐った空港はやはり廃港だろう。それが世紀を超えた歴史の道理というものだ。

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週刊『三里塚』(S574号1面5)

闘いの言葉

 大工業の発展と共にブルジョアジーは自分達の墓掘り人を生み出す。彼らの没落とプロレタリアートの勝利は不可避である。
一八四八年『共産党宣言』/マルクス・エンゲルス

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週刊『三里塚』(S574号2面1)

写真で見る三里塚二期工事阻止決戦(1985〜2000)

 “機動隊せん滅!”世紀を超えて 2001年、有事法制・改憲阻止闘争との合流へ

 一九八六年二期工事着工から二〇〇一年で十五年目を迎える。八六年十月二十七日に見切り発車した二期工事攻撃は、八七年末から九〇年初頭にいたる力対力の対決の時期、九〇年から九五年までの成田シンポ・円卓会議による「話し合い」=懐柔策の時期、そして一九九六年から今日まで続く力による攻防の時期と大きく四つの時期に整理できる。二一世紀を迎えるにあたって、二期工事阻止決戦の総括を行い、再び力の攻防として展開されている暫定滑走路建設阻止決戦の後半戦へ前進していきたい。

 ●第1期 中曽根、2期工事見切り発車

 自民党・中曽根反動政権(当時)は、一九八六年七月六日の衆参両院のダブル選挙で三百議席(衆議院)という空前の多数を獲得した。この力を背景に中曽根は同年十月二十七日、成田空港二期工事の見切り発車を強行、同十月二十八日には国鉄分割・民営化法案を可決・成立させた。
 一九八二年に登場した中曽根内閣は、本格化する帝国主義間の争闘戦に対応するため、敗戦国としての戦後的制約を突破する「戦後政治の総決算」をかかげていた。労働者の階級的抵抗を根絶し、日本を「不沈空母」にするという戦争国家化攻撃を真っ向から打ち出した。世にいう八〇年代反動攻勢である。
 この八〇年代反動の柱が国鉄労働運動破壊のための分割・民営化であり、労働者人民のたたかいの拠点・三里塚闘争を解体する二期着工攻撃だった。
 脱落派系党派がこの二期決戦から完全に逃亡するなか、反対同盟とわが中核派は真っ向から反撃のたたかいを挑んだ。一九八五年秋の10・20三里塚十字路戦闘、同11・29浅草橋戦闘は、二期決戦にかけるわが革命派の決意の深さを満天下に示した。
 前述のように、翌八七年十月二十七日に運輸省・公団は二期工事着工を強行、日帝権力との血みどろの攻防の幕開けとなった。
(写真 10.20戦闘。 中曽根の「戦後政治の総決算攻撃」に対して1985年10月20日、「成田空港突入・占拠・解体」へ労農学の三里塚十字路戦闘がたたきつけられた)

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週刊『三里塚』(S574号2面2)

写真で見る三里塚二期工事阻止決戦(1985〜2000)

 “機動隊せん滅!”世紀を超えて 2001年、有事法制・改憲阻止闘争との合流へ

 ●第2期 力の攻防=収用法発動vs実力闘争

 二期工事着工後、力による攻撃は、成田治安法適用による木の根団結砦破壊攻撃で始まった(87年11月24日)。八八年から土地収用法による強制収用攻撃が一気に動きだした。手始めは反対同盟の本丸・天神峰での自主耕作地破壊攻撃だった。部落全体をバラ線で囲い込み、自主耕作地をブルドーザーで破壊した。自主工作とは、敷地内農民が自分の畑を、隣接する公団用地からの雑草・害虫被害から防衛する手段である。その破壊は営農破壊攻撃そのものであった。
 そして同五月、公団総裁・秋富公正が雑誌誌上で強制収用の発動宣言を行ったのである。「土地収用法という法律があって、どうしても話し合いで譲っていただけない時には、この法律に照らして用地を取得することになります」。公団幹部は「強制収用」を次々と公言。運輸省は千葉県に収用委員会の収用審理を十五年ぶりに再開するための準備を指示、県収用委はただちにこれに応じ、審理再開への事務手続きを開始した。
 当時の新聞はこの事実を「成田空港の土地収用審理、今秋再開へ」(サンケイ7・15一面トップ)と報じた。こうして運輸省・公団はついに「伝家の宝刀」に手をかけたのである。
 これにたいして、反対同盟と支援勢力は、全力で反撃に立ち上がった。木の根育苗ハウスに高さ十三bの鉄塔を建設して反対同盟の決意を示した(7月12日)。また天神峰現闘本部もぶっ通しの突貫工事によって増築された(23〜25日日)。
 こうした反撃の頂点として九月二十一日、強制収用機関の中枢、県収用委の会長に革命的鉄槌が下った。十月二十四日には、強制収用攻撃への人民の激しい弾劾の声のなか、収用委員会の委員全員が辞任。強制収用機関たる千葉県収用委員会は実力で解体に追いこまれたのである。
 力ずくで農地を奪おうとした運輸省・公団は、逆に人民の実力で強制収用機能を解体されてしまった。
 日帝・運輸省は、収用委解体への取り戻しをかけて、力ずくの攻撃を続行した。八九年九月の成田治安法一斉適用(19日)に始まり、天皇即位儀式に伴う破防法発動攻撃と一体となった団結小屋破壊攻撃を次々と強行した。
 十二月十九日の政府声明(「過激派にはあらゆる法令を適用して組織に打撃を与える」)は破防法発動の表明であった。
 十二月四〜五日に東峰団結砦を強制撤去、九〇年一月十五〜十六日には天神峰現闘本部を強制封鎖、三月十九〜二十日には木の根育苗ハウスを強制撤去、八月二十二日三里塚闘争会館強制撤去、十月十五日大清水団結小屋強制撤去と成田治安法は空前の暴圧となって反対同盟に襲いかかった。
 しかし各砦死守戦士の英雄的たたかいを先頭に、反対同盟と支援部隊はたたかいの陣形を守りぬき、「力の攻防」に勝利したのである。
 核心的には収用委員会を解体した実力闘争の地平が、敵の強制収用攻撃を根底から突き崩したことが決定的だった。収用委員会は以後今日まで十二年間再建できず、この地平が三里塚闘争の勝利を支えている。

(写真 上 収用委解体 運輸省・公団が収用法発動攻撃を強めてきたことに対して、1988年9月21日、収用委会長に革命軍の鉄槌が下り収用委員会は解体された)
(写真 中 2期工事着工 中曽根内閣は1986年10月27日、二期工事の着工を強行した。ここから今日にいたる二期工事阻止決戦が始まった)
(写真 下 現闘本部守る 天神峰現闘本部への成田治安法攻撃に対して反対同盟は全員篭城の覚悟で防衛戦に立ち上がった(1990年1月15日〜16日))

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週刊『三里塚』(S574号2面3)

写真で見る三里塚二期工事阻止決戦(1985〜2000)

 “機動隊せん滅!”世紀を超えて 2001年、有事法制・改憲阻止闘争との合流へ

 ●第3期 「話し合い」一転、再び力の対決

 九〇年の決戦の裏では、運輸省と脱落派の取り引きが進んでいた。収用委員会の解体で「話し合い」以外の攻撃手段を失った運輸省・公団は、脱落派を取り込んで闘争終結に導く路線に転換した。いわゆるシンポ・円卓会議の茶番劇である。脱落派は権力と激突する反対同盟をよそに「敗北主義」を決め込み、運輸省との談合に飛びついた。
 八九年十二月四日、東峰砦死守戦の最中に江藤隆美運輸大臣は脱落派にたいして公式に謝罪、これを手土産に九〇年一月三十日、現地を訪れ、「対話集会」をもった。反対同盟が天神峰現闘本部の死守戦をたたかっている最中の、対照的な談合政治だった。
 流血の団結小屋破壊攻撃が続き、新天皇即位の大反動が吹き荒れる最中の十一月一日、後のシンポ・円卓会議の母体となる地域振興連絡協議会が発足した。これは、一連の「話し合い」の反動的性格を象徴する出来事だった。反対同盟と人民が血を流してたたかう最中に、脱落派は運輸省との「手打ち」(脱落派事務局長=石毛の言葉)に走っていたのだ。
 九一年十一月から九四年十月まで約三年間にもわたって行われたシンポ・円卓会議のペテン性、犯罪性は明らかだった。その結末は、脱落派と運輸省が口をそろえて「平行滑走路の建設」を承認(円卓会議最終報告)するというものだった。地権者農民の存在は完全に無視された。運輸省がシンポの中で「確約」した「二期工事の白紙撤回」なるものは一瞬にして反古にされた。運輸省はこの円卓会議決定をたてに、以後二期工事再開へ動きだすことができたのである。
 一方この過程で運輸省は、収用委員会の再建が不可能という現実をわが反対同盟と中核派につきつけられ、土地収用法に基づく事業認定失効の承認を強要されるはめに陥った。成田空港建設の「終わりの始まり」である。運輸省と脱落派が何を「決定」しようと、反対同盟がたたかいぬくかぎり空港の完成はおぼつかなくなったのである。
(写真 左上 治安法攻撃と一体で策動されていたシンポ・円卓会議の「話し合い」攻撃に対し、反対同盟は反撃の闘いに立ち上がった(92年7月16日))
写真 左下 砦死守戦 成田治安法による連続的な団結小屋破壊攻撃に対して1990年3月19〜20日、木の根育苗ハウス死守戦が闘われた)
(写真 右上 闘争会館防衛 三里塚現地最大の団結小屋であった三里塚闘争会館への攻撃に対して、死守隊が徹底抗戦を貫いた)
写真 右下 シンポ 運輸省と脱落派のシンポ・円卓会議は、一部マスコミも巻き込んで3年間も行われたが壮大なゼロに終わった(1991年11月21日の第1回シンポ))

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週刊『三里塚』(S574号2面4)

写真で見る三里塚二期工事阻止決戦(1985〜2000)

 “機動隊せん滅!”世紀を超えて 2001年、有事法制・改憲阻止闘争との合流へ

 ●第4期

 運輸省・公団は「円卓会議決定」を盾に、一九九七年、平行滑走路着工にむけた地権者工作を全面的に再開した。一九九六年四月十七日に日米で結ばれた安保共同宣言が、着工攻撃の背景にあった。
 朝鮮危機が現実化する中で、成田空港の米軍受け入れ基地としての位置づけが高まり、三里塚闘争を破壊する治安政策の要請も強まった。公団は九七年六月、「農地強奪本部(空港づくり推進本部)」を設置、地権者切り崩しに総力をあげた。このなかで十一月、敷地内反対同盟の一角(加藤清)が切り崩されるという大反動が生まれた。
 この過程で朝日新聞は運輸省の闘争破壊プロジェクト・共生会館建設準備委員会に組織として参画するという前代未聞の暴挙に手を染めた。そして『ドラム缶が鳴り止んで』なる連載(四月〜十月)を組み、「もう闘争はやめるべき」というキャンペーンを大々的に行った。加藤切り崩し攻撃と有無通じた反動工作の一環だったのである。
 九八年は全学連現闘への弾圧(4・21弾圧=五人逮捕)、五月には隅谷三喜男による「成田空港問題は社会的に解決」との最終所見の発表と続く。運輸省の着工宣言であった。運輸省は「共生大綱」(7月15日)で十月着工方針を決定した。平行滑走路の見切り着工の方針である。
 一方反対同盟は「着工時総力決戦」(7・4集会)を宣言、天神峰に大看板建て、現地−全国を結んだ闘争体制を打ち固めた。
 ぎりぎりの攻防のなか、運輸省は着工断念を表明(11月17日=鈴木審議官)、その後すぐに現在の「暫定滑走路」計画への転換をはかった。
 九九年五月、運輸省・黒野事務次官は暫定滑走路計画を正式発表、「農家の頭上四十bにジェット機を飛ばす」という国家公認の地上げ攻撃に訴えることを表明した。そして十二月三日、暫定滑走路工事に着工した。暫定滑走路は短すぎて使えないなどの破綻ぶりが明らかになるなか、建設省は今年五月から土地収用法の改悪作業に秘密裏に着手。扇千景建設大臣は「成田の一坪共有地は強制収用できるように法改正すべき」と公言した。こうして二期工事阻止をめぐる三里塚のたたかいは新たな決戦情勢に突入したのである。

(写真 1年間決戦 暫定滑走路着工から約1年を迎えた今年10月、反対同盟は新たな1年間決戦を宣言し、暫定滑走路完成阻止へ闘うことを決意した)

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週刊『三里塚』(S574号2面5)

《2期工事阻止決戦関連年表》

86・7・6 衆参ダブル選挙で自民が300議席獲得
  10・27 中曽根内閣、成田空港二期工事を見切り着工
  10・28 国鉄分割・民営化法案が成立
87・4・11 公団、現闘本部を鉄パイプの塀で囲む
  9・4 小川派が脱落
  11・24 成田治安法による木の根団結砦破壊に死守戦で対抗
88・3・8 公団、天神峰自主耕作地の破壊に乗り出す
  4・20 平行滑走路着工
  5月  秋富公団総裁が土地収用法適用の宣言
  7・12 高さ13メートルの鉄塔を木の根育苗ハウスに建設
  9・21 革命軍、小川彰収用委会長をせん滅
  9・23〜25 突貫作業で天神峰現闘本部を増築
  10・24 千葉県収用委員が全員辞任
89・4・10 天神峰の軒先工事が激化
  9・19 団結小屋9カ所に成田治安法使用禁止命令
  11・21 総評解散、連合発足
  12・4〜6 治安法による破壊に対し東峰団結砦死守戦に決起
  12・19 「過激派に破防法適用」の政府声明
90・1・15〜16 天神峰現闘本部封鎖に対して反対同盟が決起
  1・30 江藤運輸大臣と脱落派が「話し合い」
  3・19〜20 木の根育苗ハウス死守戦闘われる
  8・22 三里塚闘争会館死守戦闘われる
  10・15 大清水団結小屋死守戦闘われる
  11・1 成田シンポにむけ地域振興連絡協議会発足
91 5・15 隅谷調査団が発足
  11・21 成田シンポジウム始まる
92・12・6 第2ターミナル供用開始
93・5・24 シンポ最終回、隅谷提言を採択
  6・16 収用裁決申請を取り下げ  
  9・20 円卓会議がスタート
94・10・11 円卓会議終了、最終報告出る
95・1・24 実験村検討委スタート
96・4・17 日米安保共同宣言
  12・13 第7次空整を決定。「平行滑走路2000年度完成」決定
97・4・2 朝日『ドラム缶が鳴り止んで』連載(〜10月)
  5月  共生会館建設準備委員会が活動開始
  7月  公団、農地強奪本部を設置
  11・7 加藤清、反対同盟を裏切り移転に合意
98・4・21 現闘本部員5人を不当逮捕
  5・18 隅谷三喜男、「成田空港問題は解決」との最終所見
  7・15 公団、共生大綱を提示し10月着工方針を内定
  10・11 反対同盟、全国集会で「10月着工阻止」宣言
  11・17 鈴木審議官、共生委員会で「着工断念」発言
99・4・27 新ガイドライン法成立
  5・21 暫定滑走路計画を発表。年内着工の最後通牒
  10・10 「軒先工事着工阻止」で全国集会
  12・3 暫定滑走路着工。反対同盟2年間決戦を表明
00・5月  建設省、土地収用法改悪の研究会開始
  6月  反対同盟、東峰神社立ち木問題を暴露
  12・5 扇国土交通大臣「一坪共有地は強制収用」と発言

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