SANRIZUKA 2000/10/15(No569 p02)

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週刊『三里塚』(S569号1面1)

実は廃道計画だった
団結街道問題 成田市、虚偽の回答

 公団暫定滑走路建設にともない天神峰団結街道を廃道にしようとたくらんでいる問題について、成田市は公団と一体となって反対同盟に虚偽の回答を行うなど、数々のペテンを弄していることが分かった。天神峰団結街道を封鎖する計画なのか、という反対同盟の追及に対する成田市の回答で、市は「現市道(天神峰・十余三線=通称・団結街道)を廃止するものではない」(一回目の回答)としていたが、実は現在の団結街道を完全に封鎖し、新たに空港外周線に沿った別ルートの道路を造る計画であることを隠していたのである。そのために市は、工事にともなう「道路区域変更の公示」など、道路法上必要な手続きを行わず、公団に工事を強行させていたのである。
 成田市が反対同盟にウソをついてまで事態を隠す理由は、将来の現闘本部への収用攻撃や、私有地への農地強奪に備え、現在の団結街道を空港予定地の外側に追いやるためだ。周知のとおり、団結街道や現闘本部、市東さん方の畑が、暫定滑走路わきの誘導路をふさぎ、逆「く」の字に曲げてしまうなどの状況を生み出している。未買収地をそのままにして滑走路を造ってしまうという公団の農民無視と軒先工事のなれの果てだ。
 公団は力ずくで軒先工事を進め、生活・営農環境を圧迫し、警察によるイヤガラセも含めた脅迫で、地権者を追い出すことしか考えていないのである。
 団結街道は天神峰・市東さんをはじめ地域住民の生活道で、市東孝雄さんは、地役権者でもある。これを無視して生活道を勝手に変更することは法的にも許されない。(本紙566、567号参照)
 反対同盟に虚偽の回答を行ってまで、公団の農地強奪攻撃に手を貸した成田市の罪状は極めて思い。土木部はもとより、市長・小川国彦体制全体の責任を厳しく追及しなければならない。

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週刊『三里塚』(S569号1面2)

実力阻止の臨戦態勢
暫定滑走路粉砕10・8全国集会
 「とめさん、徳さんの遺志継いで」

 反対同盟は十月八日、三里塚現地(萩原方)に千六百人の労農学を結集し暫定滑走路建設阻止の全国集会を開催、団結街道封鎖攻撃や東峰神社立ち木の伐採攻撃をめぐる攻防を柱とする一年間決戦を宣言した。
 鈴木一夫さん(長原部落)と鈴木加代子さん(中郷部落)が司会。基調報告を行った北原鉱治・事務局長は「臨戦態勢で(立ち木伐採など)有事の際は宿泊体制もとる。三十五年前のようなたたかいを再現しよう」と暫定滑走路実力阻止を訴えた。
 また萩原進事務局次長は「勝利したい、勝利できる、勝利するという堅い意志で臨む」との決戦アピール。天神峰の市東孝雄さんは「権力やガードマンが二十四時間監視する人権侵害を許さない」などと訴えた。さらに本部役員の鈴木幸司さんは「成田用水裁判で最高裁が上告棄却。理屈も言えず反対運動を否定する権力は許せない」「心を一つにすれば必ず勝てる」と決意を語った。
 また故・郡司とめ婦人行動隊長の夫で、一坪共有地の地権者でもある郡司一治さんは「遺志を引継ぐ」と宣言。婦行隊長を引継いだ小林なつさん(長原)も、故人の遺志を継いでたたかうと決意を表明した。
 共闘団体その他の発言では動労千葉、関西新空港反対住民、沖縄反戦地主・知花昌一さん、北富士忍草母の会、都政を革新する会・長谷川英憲さん、反戦共同行動委で杉並区議の結柴誠一さん、全学連(大山委員長)などが発言した。
 このなかで動労千葉の田中書記長は「国労闘争団への国家的不当労働行為を許さず、闘う労組の全国ネットを作ろう」と呼びかけ、沖縄の知花さんは「沖縄は反戦・反権力、買収に負けないなど、三里塚と同じ思いでたたかってきた。三里塚の暫定滑走路阻止と沖縄新基地建設阻止は同じたたかいだ」と連帯を訴えた。また関西・淡路町空港反対同盟の永井満さんは、「監獄のような敷地内の状況にはらわたが煮えくり返る。関西も決戦体制入る」と宣言した。

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週刊『三里塚』(S569号1面3)

55年の伴侶 遺志を継ぎ闘う
 郡司一治さんの発言

 さる八月九日、妻のとめが亡くなりました。多くの激励をいただき大変ありがとうございました。たたかいのなかばに斃れたわけですが、多くの方々に見守られ、さぞかし安らかに眠っていることと思います。
 とめは生前、全国の支援団体の集会にでかけ三里塚闘争を訴えるのが楽しみでした。ただひとつ残念なのは、この七月沖縄現地に行けなかったことです。早くから楽しみにしていたのですが、直前に入院を余儀なくされました。
 私はとめと同じ八十歳です。三里塚闘争三十五年間を含め五十五年間一緒でした。今後も気持ちはひとつです。とめの遺志を引継いで空港反対のたたかいを続けて行きます。
 私は平行滑走路予定地に一坪共有地をもっています。これを守り抜き、暫定滑走路粉砕、空港廃港までたたかうことをお約束し、お礼と決意といたします。います。

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週刊『三里塚』(S569号1面4)

暫定計画許可は違憲
弁護団 建設差し止めなど請求

 顧問弁護団の葉山岳夫弁護士は、集会で暫定滑走路建設の違法性について明らかにし、新たに取り組んでいる暫定滑走路建設差し止め訴訟など、裁判闘争への支援を訴えた。
 東峰神社の立ち木問題に関して公団側が航空法を盾にした仮処分を準備しているが、本件の場合、暫定滑走路の認可自体の違法性が明白で、仮処分は法的根拠のないものであることが明らかになっている。

●顧問弁護団事務局長・葉山岳夫弁護士の発言
 成田空港が有事に米軍を受け入れる軍事空港であることが明らかになる中で、暫定滑走路計画の違法性が浮き彫りになっています。民家の上空四十メートルにジェット機を飛ばし、地上ではジェット噴射を民家に直撃させるという、信じがたいような国家的地上げ行為の横行を認めるわけにはいきません。
 また暫定滑走路は、一坪共有地などの未買収地があるため、着陸帯の幅が規定に満たないなど、国際民間航空条約にも違反する計画であることが明らかになっています。滑走路南端に住宅があることを承知で暫定滑走路計画を認可したこと自体が違法なのです。
 また滑走路南端にある東峰神社の立ち木を伐採しなければ(南側の)暫定滑走路は着陸も離陸もできません。公団は来年夏までに仮処分による伐採を考えていますが、部落の総有関係にある東峰神社の存在を無視して暫定滑走路計画を認可したこと自体が違法なのであります。
 反対同盟と弁護団は、かかる違法だらけの暫定滑走路計画による工事実施計画取り消しや、暫定滑走路の建設差し止めを請求する裁判闘争を闘っています。皆さんの大きなご支援をよろしくお願いするものです。

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週刊『三里塚』(S569号1面5)

10・8集会主要な発言(上)
 ”まるで収容所、何が共生か” 

 10・8集会での反対同盟の発言を紹介する。

●事務局長・北原鉱治さん

 暫定滑走路なるものは何を意図しているのか。大型機が主流の今の航空事情で二一八〇bの滑走路に何の意味もない。しかも二一八〇bすらできずに一七四〇bしか使えないのが暫定滑走路です。こんな意味のない空港を造る理由は、敷地内農民のたたき出しという一点なんです。農民をたたきだして三五〇〇bの軍用滑走路を造ってしまおうというのが、敵のもくろみです。反対同盟は絶対にこのような攻撃を許さない。
 成田市は暫定滑走路攻撃に全面的に加担し、団結街道の廃道をたくらんでいる事実が明らかになった。これまで「元に戻す」といっていたのは、全部ウソだった。郡司とめさんの葬式の日を選んで団結街道の迂回工事を強行した理由は、廃道が目的だったからだ。だから市は、法律を犯してまで(道路区域変更の)公示をせず、隠していたのだ。
 ご覧のとおり天神峰はフェンスで囲まれ収容所のようです。フェンスには高圧電流が通され、危険極まりない。天神峰は反対同盟員が農業を営み生活している地域です。これを農民殺しといわず何というのか。何が人命尊重か。何が共生か。こんな空港作りに反対するのは当然だ。
 また公団は東峰部落の総有財産である東峰神社の立ち木を強制的に伐採するといっている。この木を切らなければ暫定滑走路は飛行機が飛べないという惨状です。反対同盟は臨戦態勢を取っています。一朝有事の際には、宿泊体制も用意します。三十五年前のようなたたかいを再現しようではないか。
 時代は再び侵略戦争に向かっています。東京都知事・石原のような戦前回帰を許してはならない。首都が自衛隊で制圧されるという事態は深刻です。三里塚は反戦の砦としての責任を果たし、全国の労働者・学生諸君とともにたたかう決意です。

●本部役員・鈴木幸司さん

 成田用水の裁判で、最高裁が反対同盟の上告を棄却するというとんでもない決定を出しました。一度も現場をみることもせず、理屈も語れず空港には逆らうなという判決です。
 成田用水は一九八三年に農民買収事業として始まった。八六年に提訴。推進派は、この地で農業を続けるために用水が必要だといって買収にのった結果、ほとんど全員が集団移転した。
 成田用水闘争は頂点に立ったばかりです。私の階級闘争の新たな出発点としてたたかっていく決意です。
 郡司とめさんは、必ず三里塚は勝利すると確信して亡くなりました。この遺志をわれわれが引継ぐのは当然です。かつて戸村委員長が「心を一つにしてたたかえば必ず勝てる」といった言葉は真実です。皆さんも、それぞれの職場で、ともに悔いのないたたかいを貫きましょう。

●事務局次長・萩原進さん

 昨年十二月三日、暫定滑走路着工に際して二年間決戦を宣言してたたかってきた。暫定滑走路はわれわれ農民を追い出すための工事でした。そのまやかしの実態は完全に明らかになった。先日も東峰・天神峰に小見川県道の迂回道路と称して民家の竹林を伐採する、警備用道路を建設するという強権的な軒先工事を始めてきた。敵の姿勢は三十四年間何も変わっていない。このことを改めて身をもって体験しました。
 公団やマスコミは「共生」「共生」といいますが、敷地内で生活するわれわれと空港との共生はありません。力ずくでお前たちはここから出ていけと。これが共生ですか? 
 東峰部落に張り巡らせたフェンスには、「平行滑走路二〇〇二年供用」と書いてあります。暫定がいつの間にか「平行」に変わっている。この会場(萩原方)も平行滑走路の用地内です。平行滑走路用地には民家も畑も一坪も神社も全部あるわけで、二〇〇二年に供用など百二十パーセントできません。それで暫定滑走路を着工したことの意図は、たたきだし以外の何物でもないわけです。
 成田市の闇討ちも明らかになった。市はわれわれ反対同盟をだまして団結街道を廃道にしようとしていたわけです。
 来年十一月三十日に暫定滑走路を完成させるといいますが、反対同盟はむこう一年間の決戦を宣言します。あらゆる手段で一年間をたたかいます。時代は戦争に向かっていますが、空港は戦争の道具です。つい先日も羽田空港が防災と称する自衛隊の軍事演習に使われた。米軍は有事には成田空港を使うと公言しているわけです。三里塚闘争は反戦の砦、戦争を阻止するたたかいです。
 大事なのは多くの人々の参加と結集です。学生、労働者、すべての闘う人々が一つになって、人民の巨大なたたかう隊列をつくりだそうではありませんか。われわれは勝利したいし勝利できるし、勝利するんだと。この堅い意志のもとに、政府・運輸省が三里塚から撤退を余儀なくされるような一年間決戦にしようではありませんか。

●天神峰・市東孝雄さん

 公団は郡司とめさんの葬儀の日をわざわざねらって、天神峰団結街道の封鎖を強行しました。反対同盟と弁護団は、成田市に対して公開質問状を提出、抗議しました。市は元に戻すといっていますが、本当は今の街道を封鎖する計画であることが分かりました。非常に腹立たしく思います。そもそもこの道路は、私の祖父の代の人々が入植後に土地を出し合って拓いた道路です。住民を無視して空港のために公団が勝手につぶすことはできない道路です。成田市のウソと闇討ちも絶対に許せません。
 工事の騒音と振動も激しくなってきました。団結街道の破壊ぶりをよく見てください。連日、機動隊の検問は長々とやります。私へのいやがらせです。私服警官は買い物に行くにも尾行してきます。民間のガードマンまでが二十四時間監視している。私服と同じように私の自宅や畑をのぞいている。大きな怒りを感じます。生活権の侵害以外の何物でもありません。
 これからが本当のたたかいです。今日ここに結集した皆さんのパワーとエネルギーをいただき、残る二〇〇〇年決戦のさらなる原動力となり、いかなる弾圧にもまけず全力でたたかいます。全国の皆さんのご支援をよろしくお願いします。

●婦人行動隊長・小林なつさん

 婦人行動隊長の郡司さんが亡くなり、私は郡司さんのようには行きませんが、遺志をついで頑張りたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
 公団と成田市が団結街道の迂回道路を勝手に造って道路を封鎖しようとしているなんて許せないことです。円卓会議では強制手段はとらないと約束しながら、もうこういうことをするのが政府・公団です。ウソとペテン。これで多くの人がだまされて家と畑を取られてきたわけです。(一九七一年の)大木よねさんの代執行も、「今日はやらない」と知事がウソをいって、皆が引き上げた後に騙し討ちで代執行をやりました。三十五年間の空港建設は全部だまし討ちです。
 今度は公団は東峰神社の立ち木伐採をねらっています。これは東峰部落の鎮守様で部落の人たちのものです。こんなものまで力ずくで切らないと空港ができないわけです。
 反対同盟は沖縄や北富士、関西の住民、そして全国の仲間の皆さんとともに邁進したいと思います。

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週刊『三里塚』(S569号1面6)

ピンスポット
 小川徳太郎さん安らかに
 一途な棟梁の執念 病押して闘争現場に

 小川徳太郎さん(写真)が九月二十七日、多発性骨髄腫のため成田市内の病院において亡くなられた。享年六十四歳。
 小川さんは昨年、敷地内天神峰・市東孝雄さん宅の離れ改修作業の棟梁を務め、年末年始を返上して作業に専念していた。その頃から体の変調を訴えていた。その後骨髄腫が発見され治療に専念していた。
 皆から「徳さん」という愛称で親しまれていた。何事も一途な性格で、闘争に打ち込む迫力は並大抵ではなかった。つい先頃の七月二日の三里塚集会にも酸素ボンベを引きずって参加、その後の郡司とめさんの葬儀にも同様の姿で参列していた。
 一九八三年三月、脱落派との分裂攻防の時にも、「敷地内は敷地内でやればいい」と言い放つ脱落派に対して「何のための反対同盟なんだ」と怒りをあらわにし、北原事務局長率いる反対同盟を選択した。
 八四年の成田用水闘争の時も、部落内の脱落派が用水推進に転じた厳しい状況で、ただ一人絶対反対を貫き、自分の庭を反対同盟や支援部隊の結集場所として提供した。
 本職の大工は一流だった。代執行当時の地下壕掘りでは構内の支えを組んだ。バリケードづくりもお手のもの。市東さん宅の改修では本当にいい仕事をしてもらった。晩年、あれほど好きだった酒をピタリとやめた。徳さんの勝利への執念に目を見張る思いだった。
 わが現闘は徳さんの勝利への執念を引継ぎ、たたかいぬくことを誓うものです。,3,1,‐1(M)

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週刊『三里塚』(S569号1面7)

コラム 団結街道

 東部落の小川徳太郎さんが棟梁をつとめた市東さん宅離れの改修作業での話。お茶菓子を買うのに「徳さんは何が好き?」と誰かが聞いた。答えは「恋と焼酎」。一同大いに納得▼体をいたわり大すきな酒を完全に絶ってからの話だ。北総農民群像が様々な諧謔(かいぎゃく)のセンスで三十五年の歴史を彩る三里塚闘争。その中でも小川さんは出色の存在。ジョークばかり取りあげては失礼だが▼八〇年代半ばまで徳さんは岩山の田んぼで自主耕作をやっていた。彼の大工の腕前も田んぼ仕事は別世界の悪戦苦闘。やっと収穫した米の中から半たら(半俵)を北原事務局長宅に届けた。故北原キノさんは「徳さんは苦労しているのに」と感じ入った▼彼は八四年の成田用水闘争の渦中で最愛の子息を亡くし肩を落としていた。それでも闘争現場には必ず駆けつけた。多くの仲間が感銘を受けた。つい先日の郡司とめさんの葬儀には、病床から酸素ボンベを引きずって参加した。立っているだけで大変だったろうに▼入院した徳さんを見舞った反対同盟員に、彼は「家の者がたくさん集まるのはいまわの際というから俺も終りかな」と言って笑ったそうだ。彼はそういう言いかたで「はは」と軽く笑う▼すでに彼は死期を悟っていたのか、この夏の猛暑をおして病床から身を奮い立たせ、昨年自ら増築した自宅のまわりを片づけた。菱田現闘の同志は、これが彼の「闘いの中での大工仕事」の総決算で、苦労を共にした家族への手向け(たむけ)だったのかもしれないと語った▼どうか徳さん、安らかに眠ってください。

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週刊『三里塚』(S569号1面8)

闘いの言葉

 今の法律を作る者は唯だ十円以上の納税者階級のみにあらずや。社会多数の利益は全く少数の為に犠牲となし了(おわ)らるる也。
  一九〇四年十月
  幸徳秋水 

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週刊『三里塚』(S569号2面1)

なぜ「防災訓練」に「3軍動員」なのか 人民に銃をむけた石原知事(4)
 2000万人を虐殺した侵略戦争を居直り「大東亜共栄圏の復活」叫ぶファシスト 石原都知事の反動主張(下) 

 極悪の戦犯・東条英機に心酔 「大東亜宣言は評価できる」

 石原都知事がかかげる政治主張の決定的な特徴は、日帝が戦前行った朝鮮・中国・アジア侵略戦争の開き直りであり、全面的賛美である。「大東亜戦争は白色人種に対するアジア有色人種のたたかい」だったと強弁して、アジア人民二千万人を虐殺した史上未曾有の侵略戦争を居直るのである。その実践的結論は新たな「大東亜共栄圏」の構築であり、日帝の新たな勢力圏の確立である。こうした政治綱領をかかげ「三国人が騒じょうを起こす」の差別暴言で排外主義を煽り、9・3治安演習で自衛隊の国軍としての登場と軍事クーデターの予行演習を強行したのだ。戦後最悪の体制的危機に陥っている日本帝国主義にたいし、「現状の変革」「体制批判」を右から唱え、実際には日帝の救済者として登場しているのが石原都知事である。日帝の絶望的な危機が石原のようなファシストの登場を駆り立てているのである。労働者人民の未来は、石原に表現されるファシズム勢力との本格的な激突と、その勝利の中にこそ切り開かれることが鮮明に突き出されている。ファシストを打倒し、日帝のアジア侵略を革命的内乱へ転化し、労働者階級人民の未来を切り開こう。
 「アジアは日本の勢力圏たるべし」と主張してはばからない石原のスローガンで、度外れて侵略主義的なものが、「大東亜共栄圏の復活」の主張である。石原は『宣戦布告 NOと言える日本経済』の中で、新たな「アジア憲章」なるものを提唱し、戦前のアジア侵略の象徴であった「大東亜共同宣言」を褒めちぎっている。
 「こうして改めて(大東亜共同宣言を)見て見ると実は今も生きている、これからも活かせるアジア憲章の例文として評価をしてもおかしくはないと思う」。 残虐なアジア侵略を隠蔽するためだけにでっち上げられた「大東亜共同宣言」について「実は今も生きている」「これからも活かせる」「評価できる」と絶賛する石原の感性について、怒りで血が逆流する思いだが、こういう戦前の軍国主義の再来のような徒輩が都知事の座に居座り、もてはやされていることに対して言い知れぬ屈辱感と危機感を抑えることができない。

 蹂躙の限り

 石原の賛美する「大東亜共同宣言」とは、太平洋戦争も敗色濃厚となった一九四三年十一月、アジア諸国への侵略と占領を隠蔽し、国際社会を欺瞞するため、東条英機が各国の傀儡(かいらい)政権首脳を東京に集めて開催した大東亜会議での「共同宣言」のことである(写真下)。
 参加したのは「満州国」、南京政府、フィリピン、ビルマなどの日帝の“操り人形″たち。
 こうした「代表」たちを眼の前に、対米英戦の主唱者で極悪の侵略者であった東条英機は「大東亜共同宣言」を提唱し、「アジア諸国の共存共栄」、「独立尊重」、「互恵提携」など、ウソ八百の美辞麗句を振りまいたのである。
 ところが石原は、「大東亜共同宣言」の政治目的を偽り、内容空疎な言葉だけを取り出して礼賛するのである。これは「大東亜共栄圏」の再現を公然と主張する新たな侵略宣言である。石原はこの言辞だけで罪万死に値する。
 言うまでもなく「大東亜共栄」のスローガンは戦前日帝の侵略を押し隠すためのぺてんであった。
 石原を含む自由主義史観派(藤岡信勝、小林よしのりなど)のファアシストどもは、戦前の侵略戦争について、あたかも「アジア解放」の意図があったり、「アジア諸国独立を手助けしたりした」かのようなデマゴギーを並べ立てて日帝を免罪しようとしている。
 しかしかれらの議論は一から百までペテンであり、聞くに耐えない虚言のオンパレードである。戦前日帝の行ったアジア侵略戦争は、悔恨と謝罪の念を抱かずには語ることすらできない人類的犯罪行為であった。
 日帝とそれに動員された侵略兵は一九三一年から一九四五年まで、中国・アジア諸国を蹂躙しまくり、実に二千万以上という無辜(むこ)の人民をあらゆる残虐な方法を用いて、殺戮し去ったのである。

 人体実験も

 資源を奪い、女性を陵辱し、国土を荒らし、暴虐の限りを尽くした。非戦闘員への無差別爆撃を強行し、毒ガス兵器や細菌兵器の使用をほしいままにし、おびただしい人体実験まで行った。
 これらの一事をもって、石原や自由主義史観派の一切のデマはたちどころに粉砕されるのである。何が「共存共栄」か。何が「独立尊重」か。まったく噴飯ものとはこういうことを言うのだ。
 アジアの一部諸国において、イギリスやオランダ帝国主義の支配に日帝が取って代わり、その日帝が敗戦したことによって、独立を勝ち取った国々があることは事実である。
 しかしそれは日帝支配の崩壊によるものであって、ファシストどもの言うように、日帝が「独立の手助けをした」などとは強盗の居直り以下のウソでありぺてんである。
 日帝が、欧米帝国主義の支配に対抗するために、民族解放闘争勢力に接近し、利用したことはあった。しかしそれもイギリスやオランダを駆逐するための道具としてであって、日帝支配が成立した瞬間、日帝は血の弾圧をもってかれらに襲いかかったのである。

 「南京大虐殺は嘘」(!?)

 藤岡・小林らと結託ファシズムの手法 デマ宣伝が目的
 日帝の目的は資源・市場の略奪であり、労働力の搾取であり、アジア諸国の植民地支配にあった。これが帝国主義なのだ。
 日帝はアジア諸国への侵略にあたって、「占領地域における国防資源に付き優先的地位を留保する」(一九四一年軍部文書 )こと、すなわち軍需や基幹産業の重要資源について、日帝が真っ先に強奪することを最高経営方針としていたのであり、実際その通りの軍政支配を行ったのである。ところがファシスト石原はこれらの厳然たる事実に頬かむりし「改めて見て見ると実は(大東亜共同宣言は)これからも活かせる憲章の例文として評価をする」などとのたまっている。これは、戦前の右翼や軍部とまったく同じ感覚で「アジアは日本の勢力圏たるべし」と今日主張するものであり、新たなアジア侵略の宣言そのものである。われわれは、ファシスト石原のデマゴギーを一つ一つ的確に暴き、粘り強い弾劾のたたかいをやりぬかなくてはならない。
 さらに問題なのは、石原や自由主義史観派のデマゴーグどもがこうしたデマとぺてんをきわめて意識的・政治的にキャンペーンしていることである。

 意識的ウソ

 その典型が南京大虐殺問題である。石原は一九九一年の雑誌インタビューで「あのすさまじい大虐殺は正当化できませんよ」(『日本語版プレイボーイ』11月号)と米記者に追及されたことに対し「日本軍が南京で虐殺をおこなったと言われていますが、これは中国側の作り話です。これは嘘です」と居直った。
 しかし「南京虐殺自体がなかった」というデマを維持するのはさすがに無理と思ったか、その後は、自由主義史観派のすりかえと同じく「虐殺された人間の数」の問題にずらして、実際には南京虐殺否定論にしがみついている。
 「日本軍が非戦闘員三十万を殺しまくったことになっている。これが正確な数であり正確な事実であるならば、異形異常な話であって(事実ではない)…」(『亡国の徒に問う』)と。

 ”天皇神聖不可侵”

 元首化のため改憲叫ぶ
 強調したいのは、石原や自由主義史観派の人民を惑わそうとする政治目的である。かれらには正確な事実などはどうでもよい。「南京大虐殺はなかった」というデマキャンペーン自体が目的であり、そのキャンペーンに利用できる「それらしい話」なら何にでも飛びつくのだ。
 例えば「人口二十万人の南京市で三十万人を殺すことは不可能」といった類の話である。南京市は城内と城外に分かれ当時の人口は両者で約四、五十万人だった。また「三十万人」には非戦闘員だけでなく、中国軍の戦闘兵、後方兵、雑兵、軍夫などの相当数が含まれている。
 市民と中国兵十五万人を合わせた当時の南京市全体での人口はおよそ六〜七十万人というのが事実に近い。(『南京大虐殺否定論一三のウソ』参照)

 謝罪行わず

 ところが石原らは「二十万の中国人市民」という、当時の南京安全区国際委員会の文書の一文だけを引っ張り出してきて「南京の人口は二十万人だった」「三十万人虐殺は不可能だ」などと騒ぎまわっている。
 ところがここでいわれている「二十万人」とは南京市全体の一部である安全区=難民区に限定した人口にすぎず、事実は前述したとおり、総数六、七十万人の南京市民及び中国兵のうち約半分が虐殺されたという史上未曾有の大虐殺事件なのである。(写真右)
 中国兵の犠牲者も戦闘中ではなく大半が捕虜になってからの殺戮である。
 このほか、「外国特派員が居たのに報道されていないから南京事件はなかった」とかいった、たちどころに底の割れるデマが撒きちらされているが、すべてためにするウソ八百である。(下に反論を掲載)
 前述の石原の発言でも最初は「南京事件はウソ」「そんなものは中国の作り話」といっておきながら、いとも簡単に「三十万人も殺していない」という数の話にすり変わっている。
 変更にあたって謝罪もなければ自己切開もない。「芥川賞作家」石原からはついぞそんな言葉は聞かれない。石原が「三国人発言」を行った時ロサンゼルスの地震と暴動を取り違えて「騒じょう事件発生」の根拠とし、「別々の事象だ」と誤りを指摘された後も何の謝罪も訂正も行っていないのと同じだ。(注)

 民族排外主義と対決し

 反撃の闘いを
 石原らファシストにとっての政治目的は、戦前の残虐極まりない侵略戦争を居直り免罪し、日帝の延命のための新たな侵略戦争の露払いをしたい−−ただその一点なのだ。
 そのために右派ブルジョアジーや右翼学者と結託し、御用新聞や雑誌、書籍の類を使ってデマの洪水を撒き散らし、人民を惑わせるというファシスト特有の政治手法に訴えているのだ。こうした石原が最後に依拠するよりどころは右翼ファシストらしく天皇制である。石原は天皇神格化のために「天皇は日本文化の核たる神道の最高の祭司たるべき」「天皇は神秘的存在。みだりに人前に出るべきではない」と主張し、天皇の神格化を叫ぶ一方憲法改悪攻撃の中で「天皇元首化」を押し出している。
 以上のような「政治綱領」をかかげ石原は「三国人発言」を行い、9・3治安演習で自衛隊の国軍としての登場とクーデターの予行演習を行ったのだ。全人民にファシスト石原の正体と危険性を暴露し、打倒のたたかいへの決起を呼びかけなければならない。
 石原の主張は以上見たように荒唐無稽で底が浅くデタラメな代物である。しかしこのような人物が、帝国主義によって再生産される民族排外主義や差別主義を背景に、人民の中に一定程度受け入れられている現実がある。われわれは戦前の侵略への自己批判(血債)とアジア人民への連帯の立場からこうした現実に警鐘を鳴らし、ねばり強くたたかわなければならない。ファシスト石原を打倒し、有事法制・改憲攻撃への広範な反撃を開始しよう。

(注)ロサンゼルス地震と暴動 ロサンゼルスで起きた地震も暴動も同じ一九九二年の事件だが、両者はまったく別の事柄で関係はない。ところが石原は「三国人発言」の時、ロサンゼルス地震によって暴動が起きたものと勘違いし、「地震が起きればロサンゼルスのように三国人が騒じょう事件を起こす」と発言した。新聞記者に間違いを指摘されたが居直ったまま発言の訂正も謝罪もしていない。

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週刊『三里塚』(S569号2面2)

「南京虐殺否定論」のぺてん暴く
 「人口20万」とウソ デマの羅列で馬脚現す

 石原らが南京大虐殺事件(一九三七年十二月初め〜一九三八年二月末)の抹殺を企む手口の内代表的なものは本文で述べたが、その他にも「日本国内で全く報道されなかった」「軍の上層部ですら知らなかった」「特派員がいたのに外国に報道されていない。国際問題にもなっていない」||だから事件はなかった等、否定派は考えつくあらゆる手段で事件を抹殺しようとしている。しかしすべてウソである。
 虐殺否定論の「古典」である田中正明著『“南京虐殺″の虚構』は、「日本人は、戦後の東京裁判で初めて知った」「それまでは、誰一人として知らなかった」と断言し、だから「事件はなかった」と強弁する。 しかし、田中やそれに乗っかる石原の主張こそが「事実無根」なのである。確かに一般民衆の間では南京虐殺について知られていなかった(皆無ではない)。理由は軍と内務省による厳しい検閲である。それでも、現地の軍関係者は知っていたし、外交官僚の上層部も情報を得ていた。
 例えば当時外務省東亜局長だった石射猪太郎の日記には「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼之れが皇軍か」(1938・1・6)とあり、一九四二年一月に全権大使として南京に赴任した重光葵も「南京事件の実相を知るに及んで、我軍の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった」と回想している。
 「外国特派員がいたのに外国に報道もされなかった」という否定論もすぐにばれるウソだ。旧内務省警保局『出版警察法』(復刻出版されている)を見れば、南京事件の報道を理由に発売禁止にした外国の新聞・雑誌のリストが膨大に記録されている。南京事件はリアルタイムで全世界に報道されていたのだ。アメリカの公文書館にも、南京大使館発の膨大な資料が保存されている。
 「国際問題になっていない」というのもウソ八百。日帝の中国侵略そのものが国際連盟で非難決議され、アメリカは独自に南京事件とパナイ号事件(アメリカ人避難船を撃沈した事件)を理由に対日製品不買運動まで起こしている。国際社会は南京虐殺など無数の残虐行為にたいして弾劾と警鐘を鳴らしていた。これが歴史の事実である。この他の否定論もすべて五十歩百歩。その卑劣さに怒りを禁じえない代物であることを付記しておく。

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週刊『三里塚』(S569号2面3)

2000三里塚現地日誌 反対同盟と共に歩む
 9月20日(水)〜10月10日(火)

●関西実行委の集会に北原事務局長 10・8三里塚全国総決起集会の成功に向け、関西実行委員会が大阪で決起集会を開いた。参加した北原鉱治事務局長は「三里塚はどこまでも代償を求めぬたたかいの原点貫く」とあいさつし、10・8集会への大結集を訴えた。(21日)
●三里塚教会の集いへ三浦さんら参加 戸村義弘さんが世話人となって三里塚教会で開かれた「平和をつくる集まり」に反対同盟から三浦五郎さんと小林なつさんが参加して、三里塚闘争の現状を説明し教会員と交流を深めた。(24日)
●再質問状にデタラメな回答 反対同盟の弾劾に追いつめられた成田市は、回答期限を4日も過ぎて再質問状に回答してきた。しかし中身は、謝罪を拒否し居直りに終始する不当なもの。反対同盟は怒りを増幅している。(26日)
●成田用水裁判で最高裁が上告棄却決定 芝山町菱田地区で強行された成田用水事業で、破壊された水路の現状回復を反対同盟が求めていた裁判の上告審で最高裁は不当棄却決定を下した。(26日)
●小川徳太郎さんが逝去 芝山町東部落の実行役員であった小川徳太郎さんが多発性骨髄腫で逝去された。(27日)
●那覇空港が一時閉鎖 那覇新港でコンテナ船が座礁したため、マストが滑走路の進入表面を塞いで、那覇空港が一時閉鎖された。成田空港暫定滑走路を塞ぐ東峰神社の杉の木は、距離との割合で換算するとこのマストよりも3倍も高く立ち木問題の深刻性を浮き彫りにしている。(28日)
●動労千葉大会に北原事務局長 千葉市DC会館で行われた動労千葉の第29回定期大会に北原鉱治事務局長がかけつけ激励とあいさつを行った。(10月1日)
●木内さんが京大熊野寮の集会に 反対同盟の木内秀次さんが京都大学熊野寮で行われた交流会に参加して、代執行の時の実力闘争の経験を話し、10・8集会への結集を訴えた。(1日)
●羽田−ソウル間の深夜・早朝チャーター便検討 政府は日韓間の航空便不足に対応するため、深夜と早朝のチャーター便を運航することで、調整に入った。(3日)
●反対同盟、3回目の公開質問状 第2回目の質問状にたいする成田市の回答が不当なため、反対同盟は3回目の公開質問状を提出した。特に団結街道を破壊するのか否かを問いただしている。(4日)
●木内さん宅に援農隊 10・8集会に参加する労働者3人が、芝山町白桝部落の木内秀次さん宅で援農を行い、交流を深めた。(7日)
●10・8全国集会が成功 敷地内東峰の萩原進さんの畑で行われた10・8三里塚全国集会には各地から1600人の労農学が結集して大成功を収めた。集会では来年11月末とされる暫定滑走路工事完成を断固として阻止するたたかいが宣言された。(8日=写真)
●暫定滑走路認可取消訴訟の公判 暫定滑走路の認可処分取消を求めて反対同盟が提訴している民事訴訟の公判が千葉地裁でたたかわれた。(10日)

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