週刊『三里塚』(S567号1面1)
市と公団の共謀だった 団結街道封鎖 違法承知、告示せず
反対同盟 市へ抗議、現地調査も
「認識不足」の大ウソ 成田市 反対闘争恐れ、闇討ち
反対同盟と顧問弁護団は八月三十一日、天神峰・市東孝雄さん宅と同耕作畑を結ぶ通称・団結街道が空港公団によって一方的に形状変更され、生活環境を圧迫している現状について、道路の所有・管理者である成田市当局への責任追及行動を行った。
通行地役権者(民法・市東孝雄さん)が存在する道路を形状変更する際、通常行われるべき「道路の区域変更の公示」(道路法十八条)などが本件では行われず、事後追認を強要する形になった。反対同盟はこれが公団と成田市の意図的な所業であることを追及し、成田市への公開質問状を提出した。その後天神峰部落での現場調査および記者会見を行い、軒先工事による意図的な「たたきだし」攻撃を弾劾した。
午前十時半、反対同盟は北原鉱治事務局長、三浦五郎さん、小林なつさんの三人と顧問弁護団・葉山岳夫さんが、足立満智子市議の立ち会いのもと成田市土木部(道路維持課)の窓口を訪れた。応対にでた黒田重行・道路維持課長に対し、北原さんが申し入れの趣旨の概要を明らかにし、葉山弁護士が公開質問状のポイントを説明した。
質問状は、団結街道が地域に不可欠の生活道路であり、市東孝雄さんが団結街道北方の耕作地に通う道路であることから、公団が道路を勝手に封鎖・う回させたことは道路法などに違反するとして五点にわたり問題点を指摘した。
内容は、@封鎖区間を廃止する計画なのか否か、A道路区域変更の公示(道路法十八条)は行ったか、B県または公団から工事のための道路占用許可申請が出ているか、C住民に周知させる公示は行ったか、D人権侵害ゆえ即刻現状に復せ、というもの。
その後一行は天神峰に移動、市東孝雄さんと木内秀次さんも加わり、う回道路の現状を視察後記者会見を行った。会見では北原事務局長が現場視察の結果を報告し「高いフェンスに高圧線を張るなど、天神峰はまるで収容所のような状態。反対派たたきだしをねらった意図的な攻撃だ」と厳しく弾劾した。そして当事者の市東孝雄さんが「道路封鎖直後に始まった工事の騒音と振動がひどい」などと訴えた。
成田市土木部は、反対同盟抗議行動後の報道陣の質問に対して「告示が必要だったが、つけ替え道を造るので住民に影響ないと判断した」「認識不足で告示しなかった」「道路法の手続き欠落は成田市のミス」などと答えたと報じられている(9・1各紙)。
この成田市の答弁はまったくのウソである。成田市の一般的な道路工事では、市は公示もやり回覧板を住民に回すなど周知手続きも踏んでいる。「道路占用許可」の看板も必ず掲げられている。「認識不足」はありえず、意図的な所業だったということだ。
理由は反対同盟の工事反対闘争をやらせないためだ。反対同盟は「団結街道封鎖阻止」を三月の全国集会から掲げていた。これが暫定滑走路工事の障害となることを恐れ、工事をあえて抜き打ち的に強行したのだ。郡司とめ婦人行動隊長の通夜と葬儀当日に、私服警官と大量の機動隊を動員して工事を強行したやり方に、公団と成田市の意図は露骨に現れている。
もうひとつの理由は天神峰・市東孝雄さんに軒先工事で奇襲的に圧迫を加えるためだ。工事騒音と振動で農家の闘争意欲をそぐ手口は公団の常とう手段。地上げ屋と同じ発想で生活環境を圧迫すること自体が、今回の道路工事の目的だった。これに成田市が全面的に加担し、公示なしの工事強行となった。これは市東孝雄さんが「工事の振動がひどい」と記者会見で訴えたことにも示されている。
そもそも暫定滑走路建設工事で天神峰部落がどうなるのか、空港公団は今に至るも公表していない。自宅の目の前をジェット機に自走させるという常軌を逸した計画ゆえ、公表できないのだ。公団と成田市の責任を厳しく追及しなければならない。
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週刊『三里塚』(S567号1面2)
軒先工事の暴挙に報復 革命軍 運輸省幹部宅を爆破 8月26日
革命軍から以下の軍報が発表された。
反対農家たたきだしのために農家の軒先まで滑走路を造ってしまうという、暫定滑走路建設の暴挙にたいする渾身の反撃がたたきつけられたのである。
【革命軍軍報速報】
革命軍は八月二十六日午前二時五十分、運輸省運輸政策局情報企画課システム分析室長・山口勝弘の東京世田谷区奥沢七−四九−八にある自宅にたいして爆破戦闘をたたきつけた。山口は七月まで大臣官房航空局担当企画官を務め、農民の営農破壊、生活破壊のためだけに暫定滑走路工事を強行してきた張本人である。怒りの爆破戦闘を叩きつけるにふさわしい人物であった。
八・二六戦闘は、政府・運輸省、空港公団の暫定滑走路建設工事強行、わけても八月十日、十一日と故・郡司とめ反対同盟婦人行動隊長の通夜と葬儀の当日に、卑劣な闇討ちで強行した天神峰団結街道の付け替え道路工事に対する、断固とした報復の戦闘である。国際空港としては使いものにならない暫定滑走路の工事を、ただただ敷地内農民を脅迫し、叩き出すためにのみ強行する暴挙を絶対に許すわけにはいかない。
革命軍の強烈無比の爆破戦闘は、山口の乗用車を大破し、家屋をも徹底的に破壊した。革命軍は、三里塚闘争の正義と怒りを体現して、政府・運輸省、空港公団の暫定滑走路工事に対する強襲戦闘を連続的に敢行行するであろう。反対同盟との血盟にかけて、暫定滑走路建設実力阻止決戦の勝利を絶対に勝ち取ることを宣言する。
二〇〇〇年八月二十六日革命軍
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週刊『三里塚』(S567号1面3)
郡司とめさんの遺志を偲ぶ(下)
座右の銘 女半分天 三里塚人間砦に「郡司節」
全学連三里塚現地闘争本部 中村賢二
郡司とめさんは一九七二年、反対同盟中国派遣団の一員として中国を訪問した。「日本の侵略戦争の実態をこの目で見てきた。中国の人から直接、虐げられた過去を聞かされてよくわかった。たんに過去が悲惨という問題ではない。現在の私たちにかかわる問題。侵略戦争を二度とくり返さないために三里塚はたたかい続ける」と語っていた。
戦時中、郡司さんは東京三多摩の軍需工場に徴用された経験をもつ。ここで米軍機の空襲を受け、紙一重で助かった。生還した夫。命を失った多くの若者。あの戦争とは一体何だったのかとの問いが郡司さんの頭から離れなかった。
敗戦。食糧増産で汗だくとなった戦後の生活。ようやく訪れたつかの間の「平和」は、三里塚闘争の喧噪(けんそう)にかき乱された。力ずくで農地を奪う権力との対決。一方で、日本が提供する基地や空港からベトナム人民を爆撃する米軍機や輸送機が飛び立つ現実を知った。三里塚空港も軍事空港だと分かった。
「平和と民主主義」はアジアの人々の流血の上に成り立っていた。侵略戦争は過去のものではなかった。戦後日本の現実に途切れることなく続いていた。そしてみずからの血を流した三里塚闘争。郡司さんは一つの結論に達した。
「反戦」「反侵略」。
ここに確かな立脚点を見いだした。抑圧民族としての立場から闘争のあり方を絶えず問い直す。このみずみずしい感性が郡司さんのたたかいを支えた。「地域の利益」という程度のペテンにからめとられて権力に頭を下げ、転向した脱落派とは対照的である。
一本の線になる
郡司さんの座右の銘だった「女半分天」(女性が天の半分を支えるの意)。中国の周恩来(当時の首相)に会ったときに聞かされた諺(ことわざ)だそうだ。「これが自分の考えと本当にピッタリだった」と、よく語っていた。誰も疑わなかった世の「常識」やしきたり、道徳、慣習。それらに隠れて複雑にからまる様々な差別や抑圧のイデオロギーと仕組み。人として生きることの本当の意味が、数限りない仲間との交流を通して徐々に解き明かされていった。
動労千葉、部落解放同盟全国連、婦人民主クラブ全国協、関西新空港反対の住民、北富士忍草のお母さんたち、反戦被爆者の会、ヘルメットで身を固めた全学連の隊列。三里塚で「女半分天」を貫く郡司さんのたたかいは、あらゆる戦線と一本の線につながった。
そういう郡司さんだからこそ、人からの批判にも真摯に耳を傾けることができたのだろう。
ある現地での集会。大勢の仲間を前に、郡司さんといえども失言をしてしまうこともあった。正しくも、批判の声が届く。
この時とめさんはどうしたか。批判の声にじっと真摯(しんし)に耳を傾ける。決して弁解せず、批判の意味をかみしめていた。その姿は見事であった。農民運動のなかでこの種の批判を受け止めることは容易なことではない。それを正面から受け止めようとする女性闘士・郡司とめさん。その限りなくひたむきな姿勢、仲間に寄せる信頼の深さに改めて心うたれる光景だった。
ゴッド・マザー
郡司さんが全国の闘争拠点に出かけ支援を訴えた回数は数知れない。三十数年間に北は北海道から南は沖縄まで数百カ所にもなろうか。あの戸村委員長も一目置いたアジテーターぶりはあまりに有名。多くの支援者から「郡司節」と呼ばれ親しまれた。
その郡司節で多くの仲間と連帯を深めた。すぐれて“顔の見える連帯″だった。各界の多彩な活動家、諸人士、その家族などの顔ぶれや名前、その生い立ちから性格、悩みごとまで、実に詳しく、正確に知っていた。その記憶力は驚くばかりで、彼女の右に出る者は一人もいなかった。
人とかかわる時のとめさんの姿勢がここに現れている。どんな相手とも別け隔てなく、全力で真剣にかかわるのが郡司流なのだ。
郡司さんは、若い学生活動家のゴット・マザー的存在でもあった。決起したての全学連の学生がくると、本当にわが子のように愛し話しかけた。動揺でもしようものなら迷わずオルグし説得してしまう。親御さんが「うちの子が三里塚に出入りしているようだ」と血相を変えて訪ねてくれば、手ぐすねを引いて待ち受けた。
「心配はいりませんよ。息子さん(娘さん)は立派に生きています。三里塚闘争に青春をかける。こんな素晴らしいことはありません」と自身満々で説得した。親が納得して帰るからすごい。とめさんに「親対策」を頼み込んだちゃっかり者の学生さえいた。
人の人生を左右するような説得活動は簡単ではない。それを迷わず引き受けてしまう。それほど深く純粋に闘争のなかに生きた。「私は〇〇〇人の活動家を作った」と胸を張る郡司さんの言葉は決してオーバーではなかった。三十五年間、積み上げた成果の大きさははかりしれない。
やすらかな所で
闘争は人を試練にかけ、ふるいにかける。「宝石のような同志が残った。ここまでくるのは並大抵ではなかったけど、もう怖いものは何もない」と語っていた。三里塚の砦は人間砦、その気概だ。「これが崩れず継承されるなら闘争は決して負けない」と言い切った。見事である。「闘争は自分の代で終わらせたい」などという脱落派の脆弱な物言いとは対照的だ。
とにかくよく働く人だった。体をこわしてからも、周囲が休めと勧めても聞かなかった。晩年まで、暇さえあれば畑にでていた。
故・市東東市さんの言葉も好きだった。「市東さんの『闘魂ますます盛んなり』を肝に銘じて闘います」と決意表明した(今年三月の革共同集会)のは、ついこの間のことだ。
いま三里塚闘争は平行滑走路を破産に追い込み、暫定滑走路も使いものにならない状態に追いつめている。歴史的な勝利をたぐり寄せる最後の大攻防がせまるなか、とめさんは倒れた。ほかならぬ、とめさん自身がどれほど悔しい思いをしていることか。
わが三里塚現闘は郡司とめさんの遺志を決して裏切らない。たたかいは勝たなければならない。暫定滑走路粉砕、軍事空港廃港まで、あくなき執念を燃やして前進することを誓う。
とめさん。どうかこれからはやすらかな所で、私たちを見守っていてください。 (終わり)
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週刊『三里塚』(S567号1面4)
投稿 獄中15年の想い もうすぐ会える時に
府中刑務所在監 鎌田 雅志
郡司とめさんの逝去に心から哀悼の意を表します。
日本帝国主義のアジア再侵略と戦争国家化に反対し、三里塚闘争の勝利を切り開いてきた郡司さんのたたかいは、すべてのたたかう人民に、いかに生き、たたかうべきかを指し示す手本であったと思います。
勝利に向かう途上であるとはいえ、政府・公団を追いつめ「暫定滑走路(平行滑走路)」の完全破産を決定的にした三里塚闘争の今日の地平には郡司さんも満足して旅立っていかれたのではないでしょうか。
三里塚闘争の勝利│成田空港の廃港│と日本帝国主義の打倒へ正義を貫く強い意志を、残る反対同盟のみなさんと支援者たちが引きついでいくことを確信し、安心して逝かれたのだと思います。
私は、あと五カ月もすれば出獄します。もうすぐ会えるという時に帰らぬ人となってしまわれたことは本当に残念でなりません。
非転向勝利の出獄をかちとり生涯を革命にかけること、必ず三里塚闘争の勝利をかちとることを、郡司さんの御霊と反対同盟のみなさんに誓います。郡司さんに恥ずかしくないたたかいを、生涯をかけて貫きたいと思います。
反対同盟のみなさんの不屈のたたかいには、日々本当に力づけられています。10・8現地闘争の大成功を祈ります。
二〇〇〇年八月二十八日
(元全学連委員長/・八五年110・20三里塚十字路蜂起戦戦士/同11・29浅草橋戦闘戦士/獄中十五年)
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週刊『三里塚』(S567号1面5)
軒先工事弾劾デモ 反対同盟 今秋決戦へ檄
反対同盟と現地支援連絡会議(中核派、解放派、戦旗派、蜂起派)は九月三日、団結街道封鎖工事を強行した空港公団を弾劾するデモを行った。
午前八時半、反対同盟と支援部隊は東峰十字路北側の開拓道路に集合、北原鉱治事務局長がデモの趣旨を明らかにした。「市東孝雄さんに通告もなく強行された団結街道封鎖は農民殺し」「成田市に厳重に抗議し違法性を認めさせた」と抗議闘争の結果を報告した。
さらに東峰神社立ち木の強制伐採をねらう公団の攻撃を暴露し、「10・8全国集会から決戦体制を」と締めくくった。
参加者は東峰から団結街道の戦闘的デモをたたきつけた。
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週刊『三里塚』(S567号1面6)
団結街道
畑の土が固いことを「グラウンドのように」と形容する。スプリンクラーで水をまくと本当に固くなる。発芽直後の秋冬大根などは、これで折れることもある。間引きのときに土を寄せ、台風で振りまわされないようにしておく。猛暑で間引きより水まきが優先すると、強い風で折れる危険が高い▼本欄恒例の夏ネタだが、足で踏み固めなければ畑の土もひび割れる間断なく湿る時期も畑はうなる(耕す)ので固めっぱなしにはならぬ。うなわないと雑草が根を張る。グラウンド化する畑は「成りもの」野菜のうねのように常に人が歩く部分に限られる▼先日野球をしたグラウンド。雨が降らないせいで土埃(ほこり)がすごかった。表土は畑に較べて砂が多い。だから走ればすぐ掘れて足を取られる。やはりスパイクがないとうまく走れない。微妙なクロスプレイ。地下足袋ならセーフかも。出塁の機会はあまりなかったが…▼三里塚地方はこの猛暑でひと月以上雨が降らなかった。とりわけ天神峰と東峰の間(わが反対同盟員の畑作地域)がひどい。夕立もこないのだ。明らかに巨大空港の影響だ。雨雲は西からくるが、大清水(空港西側)で降ってそこで止まる。天神峰・東峰までこないのだ。ひん死の畑で仕事は長引く。雨乞いの踊りでもという気になる▼農家は必死にスプリンクラーを回し、秋冬野菜を植える。たちどころに畑は乾きひびが入る。そしてまた水。畑は鎮圧されグラウンドと化す。草とり中耕(うねを耕す)でまた掘る。中耕除草の過剰労働は日本農業の特質。とりあえずこれに責任を転嫁しておく。
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週刊『三里塚』(S567号1面7)
闘いの言葉
従来の社会主義は資本主義の結果を批判したが説明しなかった。肝要な事は資本主義の生成と没落の必然性をこそ説くことである。
一八八五年
F・エンゲルス
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ピンスポット
”総乙女”豊作で猛暑も吹き飛ぶ
東峰 萩原進さん、早々と稲刈り
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週刊『三里塚』(S567号2面1)
なぜ「防災訓練」に「3軍動員」なのか 〔2〕
人民に銃をむけた石原知事
「三国人騒じょう」の石原暴言は新たな”大虐殺”意図したデマだ
●検証−−9・3演習と関東大震災の朝鮮人虐殺
関東大震災 犠牲者6千人以上も
排外主義に屈服 人民痛恨の歴史 軍・警察が”流言”
石原都知事は九月三日、自衛隊を前面に立てた戦後初めての本格的治安出動演習を強行した。東京の銀座に装甲車を走らせ、羽田空港に自衛隊機を飛来させ、地下鉄車両を迷彩服の自衛隊で占拠し、「地上攻撃用」の対戦車ヘリコプターまで出動させた。「防災」に名を借りた文字どおりの治安出動訓練である。これは、自衛隊を「国軍」として登場させ、承認を迫る攻撃であり、軍事クーデターの予行演習である。この演習を石原が「三国人が騒じょうを起こす」(4・9差別発言)というデマと排外主義を煽動しつつ強行したことはあまりに重大である。それは一九二三年、関東大震災を契機に在日朝鮮人・中国人虐殺を引き起こし、戦時体制への移行と侵略戦争の引き金を引いた構図と完全に重なる。労働者人民は石原のファシスト然とした居直りを許してはならない。石原による9・3演習の狙いを関東大震災の歴史を検証しつつ明らかにしていきたい。
一九二三年九月一日正午、マグニチュード7・9、震度7の大地震が首都東京を中心とする関東地方を襲った。死者十万人、行方不明者一万六千人、損害額五十五億円(当時の一般会計予算の約四倍)という史上未曾有の大災害であった。
しかし地震による被害以上にその後の歴史を規定したのが、震災に乗じて強行された在日朝鮮人・中国人、社会主義者たちの大虐殺であった。
その数は、在日朝鮮人が六千人以上、在日中国人が六百人以上。当時の在日朝鮮人の数が全国で八〜九万人、東京・神奈川で一万五千人だから、関東地方だけで六千人以上殺されたということはいかに多い数か分かるであろう。
虐殺の実態は、正視に堪えぬほど残虐で残酷である。顕著な事例を右下「大虐殺の目撃手記」に掲げたが、慙愧、怒りなしには読めない地獄絵である。
日帝の植民地化によって渡航を強制され、炭坑や鉄道工事など過酷な労働現場で低賃金による強労働を強いられたあげく、ただ「朝鮮人」「中国人」であるというだけで、家畜同然に殺されて行った無辜(むこ)の人々の悔しさ。
まさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄が東京、神奈川、千葉、埼玉、栃木、群馬、茨城で次々に作り出されていった。
虐殺の契機
このような殺人行為、大虐殺の決定的な契機となったのは当時の軍部・警察が先頭に立って流した「朝鮮・中国人が騒じょう事件を起こす」というデマゴギーだった。これが、一方における植民地支配下での在日人民への差別・抑圧政策と、他方での独立闘争・日本の労働者人民の階級的たたかいの高まりにたいする弾圧政策と重なって、未曾有の集団的大虐殺事件を引き起こしたのである。
デマの首謀者が当時の内務大臣・水野錬太郎と警視総監・赤池濃(注1)を先頭とする警察官僚自身であることは厳然たる事実である。内務省警保局は九月三日午前六時、「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり」と何の根拠もないデマを各地方長官に打電したのだ。
マスコミは「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く」「鮮人いたるところめったぎりを働く」「二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す」(以上九月三日付『東京日日新聞』)、「握り飯を食べるとにわかに大苦痛 バケツの水にも毒 憎むべき鮮人陰謀」「横浜方面から鮮人三百人押し寄す 爆弾を投じ略奪をなす」(9月6日付『北海タイムス』)などとデマ煽動の先頭に立った。震災の恐怖と混乱の中でこうしたデマが、津波のように広がる中、各地の軍隊・警察で朝鮮人多数が検束され虐殺された。亀戸警察署には千三百人もの朝鮮人・中国人および「危険人物」が拘引され、その中で社会主義者十人を虐殺した亀戸事件も起きた。
当時上海に本部を置いた朝鮮独立運動グループ「独立新聞」の調査によって、東京の渋谷で百人、丸子で三〜四百人、荒川堤で二百人、亀戸で四百七十人、神奈川の鉄道橋で五百人など、虐殺された人民の数が地区別に明らかにされているが、今述べた一地区百人以上の犠牲が出ている場所はいずれも軍の配置されていた拠点であった。軍部による組織的虐殺が行われた証拠である。(『関東大震災と朝鮮人虐殺』今井清一他編著)
同時に、大震災にあたって急きょ組織された自警団が、大虐殺の先頭に立った。
差別意識と民族排外主義が日常的に再生産される中でかれらは、官憲の流すデマに煽動され、驚くべき大虐殺に加担していった。
ここには植民地支配の道具としての差別・排外主義の育成・煽動がある。日帝は朝鮮・台湾植民地化以来、朝鮮・中国人への差別意識を煽りたててきた。マスコミがその先兵の役割を果たした。
こうした民族排外主義とのたたかいをきわめて不充分にしか取り組めなかった結果、日本の人民は大虐殺に加担する痛恨の誤りを犯したのみならず、その後の侵略戦争に動員されて自らも塗炭(とたん)の苦しみを味わうことになったのである。
なお、軍部・警察を先頭にこうした大虐殺を強行した事実がありながら、日本政府は今日に至るも補償や謝罪はおろか正式な調査すら行っていない。これ自体が犯罪行為の継続である。
没落の際で
日帝が一九二三年の時点で在日アジア人と社会主義者への虐殺を強行した背景には、自らの深刻な体制的危機が横たわっていた。
一九一〇年代の終わりから一九二三年にかけて、あらゆる面で深刻な危機に陥っていた。
第一次世界大戦で日帝は、戦争特需に沸き、帝国主義としての本格的な膨張の途についていたがそれも長くは続かなかった。一九二〇年には早くも戦後恐慌が襲い繊維産業で対米英市場争奪戦が始まっている。
また中国に対する強硬な「対支二十一カ条の要求」にたいしては英米による強烈な反撃がなされ、その対立は日英同盟の解消(一九二一年)へと深まっていた。
日帝軍部は軍部で、日清・日露戦争以来はじめての挫折を経験していた。陸軍はロシア革命にたいするシベリア出兵(一九一八〜二二)で、初めての無惨な敗北を喫し、世論の批判の中、威信は地に落ちた。軍備縮小の声が大衆的に高まるとともに、ワシントン体制による他の帝国主義からの圧力でこの要求に屈せざるをえなかった。
このように一九二三年当時の日帝は帝国主義的争闘戦の戦場に本格的に乗り出し延命できるか、それとも二流以下の帝国主義として没落するのかの瀬戸際に立たされていた。延命するためには、本格的な中国・アジア侵略への政治的・軍事的戦争体制づくりが不可欠の条件になっていた。
一方この対極で、日本国内および植民地における階級闘争、民族解放闘争が爆発的に高揚し始めていた。 一九一七年ロシア革命の巨大な影響力の下、日本でも米騒動(一八年)がたたかわれ、労働組合の結成が嵐のように進んだ。
労働者階級の本格的成立を背景に一九二二年日本共産党が創立され、水平社が結成され、農民組合が作られた。女性解放闘争も始まり労農人民のたたかいが本格的に爆発し始めていた。 またアジアの植民地・朝鮮、台湾、中国では一九一九年の三・一独立闘争(朝鮮)、同年の五・四運動(中国)という形で民族解放闘争が爆発的高揚を見せ、日本でも在東京中国人学生による「二十一カ条」撤廃要求集会が行われたり、在日朝鮮人の間で黒友会、北星会など社会主義・無政府主義団体が結成されていた。こうして日帝は、日清・日露戦争以来最大の内外する危機に見舞われていた。以上の危機の打開をかけて、日帝・軍部、内務省は、民族排外主義・差別主義の洪水の中で、朝鮮・中国人民の民族解放闘争、日本国内における階級闘争の鎮圧を狙って、大虐殺を強行したのである。
腐敗の極致
こうした治安攻撃にたいして日本の労働者人民は、ほとんど有効な反撃を組織できなかったこの事実は今日的問題として厳しくとらえ返さなければならない。
当時の労働者人民は、大杉事件や亀戸事件については反対の集会を開いたりしたが、在日朝鮮・中国人の大虐殺問題は無視した。日本労働総同盟の鈴木文治などは朝鮮総督府あてに「鮮人労働者保護に関する意見書」を出し、朝鮮人労働者の「思想善導」を申し出るという腐敗ぶりであった。 さらに弾圧を恐れた日本共産党は、一九二四年に解党を決議するという度しがたい裏切りに走り、一九一〇年代大正デモクラシーとして高揚した普通選挙権獲得運動なども沈滞した。労働運動の中心であった労働総同盟は右傾化し、総評議会は分裂した。急進民主主義者や社会主義者を広範に結集していた政治研究会も二五年十月には右派が脱退、解体の方向へ向かった。
一方、政府、財界人・保守派などからはここぞとばかり国家主義が強調され「思想善導」が呼号され「軽佻浮薄の風潮を打破せよ」との右翼思想運動が組織されるに至った。
とりわけ、この時期にファシズム団体が次々と組織されていることは、今日との比較で注目に値する。
思想善導会、恢弘(かいこう)会、行地会、国本(こくほん)社などである。、中でも国本社は、平沼騏一郎(注2)を会長にし、官界、陸海軍、財界、学界の有力者が集まって初めて右翼運動に乗り出した団体で「日本型ファシズムの源流」と言われる団体である。
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週刊『三里塚』(S567号2面2)
関東大震災の虐殺を弾劾する詩
「一五円五〇銭」 壷井 繁治
以下はプロレタリア詩人・壺井繁治による朝鮮人虐殺弾劾の詩の抜粋である。
◇ ◇
戒厳屯所を通りすぎると
−−こらっ!待て!
と呼びとめられた
驚ろいて振りかえると
剣付鉄砲を肩に担った兵隊が−−貴様!朝鮮人だろう?と詰めよってきた
…………………
僕は衛兵の威圧的な尋問にどぎまぎしながらも−−いいえ、日本人です、日本人ですと必死になって弁解した この殺気だった雰囲気にさらに殺気をそえたものは辻々に張りめぐらされた貼り紙だった
−−暴徒アリ放火略奪ヲ逞(たくま)シフス市民各位当局ニ協力シテコレ鎮圧ニツトメラレヨ
それは警察の掲示板にも貼られてあった
僕はこのときはじめて確認した どこからともなくまきちらされた流言蜚語の火元がどこであったかを
……………
その途中、富坂辺で野次馬に取りかこまれ
鳶口を背中から打ちこまれみずから血溜りの中へ倒れてゆく 朝鮮の人夫風の男をこの眼で見た それはそこだけでなくいたるところで行われたテロルであったのだ
………………………
僕らの列車がある小さな駅にとまると例の通り剣付鉄砲の兵隊が車内検索にやってきた かれは牛のように大きな眼をしていた
その大きな眼で車内をじろじろ見まわしていたが突然、僕の隣りにしゃがんでいる印絆天の男を指して怒鳴った −一五円五〇銭いってみろ! 指されたその男は兵隊の尋問があまりに突飛なのでしばらくの間 ぼんやりしていたがやがて立派な日本語で答えた
−ジュウゴエンゴジッセン−−よし 剣付鉄砲の立ちさった後で僕は隣りの男の顔を横目で見ながら
−ジュウゴエンゴジッセン ジュウゴエンゴジッセンと、何度もこころの中でくりかえしてみたそしてその尋問の意味がようやくのみこめた
ああ、もしその印絆天が朝鮮人だったらそして「ジュウゴエンゴジッセン」を「チュウコエンコチッセン」と発音したならば かれはその場からすぐ引きたてられていったであろう
国を奪われ、言葉を奪われ最後の生命まで奪われた朝鮮の犠牲者よ
僕はその数をかぞえることはできぬ
…………………………
「ザブトン」という日本語を「ザフトン」としか発音できなかったがために勅語を読まされてそれを読めなかったがために
ただそれだけのために
無惨に殺ろされた朝鮮の仲間よ 君たち自身の口で君たち自身がなま身にうけた残虐をかたれぬならば
君たちに代わって語る者に語らせよう
いまこそ押しつけられた日本語の代わりに
奪い返した親譲りの純粋な朝鮮語でもって
(一九四七年八月)
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週刊『三里塚』(S567号2面3)
ファシズム台頭・戦時体制へ直結 政治状況当時と交錯
また「大震災」を口実に発布された緊急勅令「治安維持令」はそのまま法律化され、一九二五年の治安維持法制定に引き継がれた。震災時の戒厳令は、そのまま憲兵の増強と警察権力の強化へと移行していった。 こうして日帝は、一九二七年山東出兵−一九二八年〜二九年の共産党弾圧−一九三一年の柳条湖事件−一九三二年「満州国建国|一九三七年盧溝橋事件へと中国・アジアへの侵略戦争の泥沼と破滅の道へとのめりこんでいった。その決定的転回点に一九二三年の関東大震災における大虐殺が位置していたのである。
このように見てくると一九二三年が、今回の9・3治安出動−在日朝鮮・アジア人民敵視政策に見られる状況と驚くほど酷似していることに気づくであろう。
日清・日露戦争以来初めて内外の危機に逢着した戦前の日帝にたいして、戦後最大の危機に陥り、本格的な帝国主義的争闘戦の中で無準備性を露呈している現在の日帝権力。
明治維新以来初めて労働者階級が台頭し、日本本国−植民地双方で労働運動・民族解放闘争が高揚した一九一〇年代の日本と、「二度と侵略戦争を許さない」として日帝の再侵略の前に立ちはだかり、七〇年闘争以来の高揚に向かう現在の日本の階級闘争。
これらは基本的に同じ構造にある。
そして石原は今回「関東大震災の際、朝鮮の人たちがデマゴーグで殺されたりして気の毒だったけれど今度は一九二三年と逆のこと(日本人が殺されると言う意味)が起きる恐れがある」(『正論』三月号)とまで公言して9・3演習に臨んだ。
現に起きた虐殺事件を検証し、今日的な警鐘を鳴らすのではなく、一九二三年の時と全く同じ構図で同様のデマゴギーを垂れ流し煽動しているのだ。石原自身が最悪のデマゴーグとして登場しているということである。
こういう輩が4・9「三国人」暴言をはじめ数々のデマを居直り、治安出動演習=人民虐殺の訓練を強行し、「東京都知事」として居座りつづけているのだ。これ自体が労働者人民にとって屈辱以外の何ものでもない。
石原慎太郎自身は脆弱で、右翼政治家としても底の浅いエセ・インテリだが、一九三〇年代のドイツが示すように、危機に陥ったブルジョアジーが石原のようなファシストを権力の主流として選択することは、大いにありうる。
その意味で、ファシスト石原による右からの攻撃を軽視することは絶対に許されない。
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軍事空港廃港を掲げ日帝の国策を拒否し、「絶対反対」の思想を堅持する三里塚闘争の階級的意義は、石原を先頭とするファシズム運動と根底から対決しうる質を獲得してきたことにある。
反戦の最強の砦・三里塚を先頭に有事立法・憲法改悪の攻撃粉砕へ新たな進撃を開始しよう。
注釈
(注1)水野錬太郎と赤池濃 水野と赤池は関東大震災直前まで朝鮮に赴任して、独立運動の弾圧に当たった。米騒動の後、水野は斎藤実総督の下で朝鮮総督府政務総監となり、赤池も警務局長となった。水野が赴任した一九一九年九月には二人そろって、朝鮮独立運動家の爆弾闘争の直撃を受け、個人的にも朝鮮人民への差別意識と憎悪を募らせていたコンビだった。
(注2)平沼騏一郎 司法官僚出身の政治家。津山藩士の子として岡山県に生まれる。一九一一年西園寺公望内閣の司法次官となり、検事総長、大審院長を歴任。二三年第二次山本権兵衛(ごんべえ)内閣の法相となる。同年十二月の虎の門事件に衝撃を受け、二四年五月、皇室中心主義のファシスト団体、国本社を結成する。国本社には陸海軍将官、高級司法官僚、枢密院、貴族院などの有力者が参加し、平沼は政界に隠然たる勢力を築いた。二五年枢密院副議長となり、三九年一月第一次近衛文麿内閣の後を受けて組閣、独ソ不可侵条約の締結によって総辞職した。戦後、極東国際軍事裁判で終身禁固を宣告され、一九五二年八月、服役中に病死した。
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週刊『三里塚』(S567号2面4)
2000 三里塚現地日誌 反対同盟と共に歩む(8月23日〜9月5日)
●成田空港関連の来年度予算概算要求発表 運輸省は来年度予算の概算要求のうち成田空港関連で2354億円を計上した。しかし工事関係の中身は暫定滑走路建設のみとなっており、「2002年5月までに平行滑走路(2500b)整備を目指す」とした地元向け「公約」は破たんした。(25日)
●革命軍が運輸省幹部宅に爆破戦闘 革命軍は、前の運輸大臣官房航空局担当企画官で暫定滑走路計画の立案者である山口勝弘の自宅(東京都世田谷区)にたいして爆破戦闘を敢行し、農民殺し計画を進める日帝・運輸省、空港公団に大打撃を与えた。そして10・8全国集会の大結集に向けた号令を発した。(26日)
●萩原進さん宅で稲刈り 敷地内東峰の萩原進さん宅で例年より早く稲刈りが行われた。萩原さん夫婦と現地支援が総出で作業を行った。また大型稲刈り機・コンバインの調整に木内秀次さんもかけつけた。
●羽田発ホノルル行きチャーター便を認可 運輸省は、東京都大田区で羽田空港近くの地元住民が9月に計画していた羽田発ホノルル行きの国際チャーター便を認可した。(29日)
●上海空港で日航機が照明灯に接触 中国・上海空港で、成田発の日本航空機が地上走行中に駐機場の照明灯に接触し、右主翼の先端部分を破損した。この事故は暫定滑走路の供用を考えた場合深刻だ。航空機は狭いクランク状の誘導路を通ることになり事故の確率ははね上がる。(29日)●東京・特別区議長会が羽田空港の国際化要望 東京都の23区の区議会議長で作る特別区区議会議長会は、羽田空港の国際化を推進するよう森喜朗首相や森田一運輸相らに要望した。(31日)
●団結街道封鎖で成田市に抗議 反対同盟は、葉山岳夫・顧問弁護団団長、足立満智子市議とともに、団結街道を無断で封鎖し迂回道路を建設したことにたいして、成田市への抗議行動を行い公開質問状を手渡した。成田市当局は違法の事実を認めた。(31日)●団結街道封鎖を弾劾するデモ 反対同盟と現地支援は、違法に団結街道を封鎖した空港公団とこれに手を貸した成田市を弾劾するため、東峰開拓道路から天神峰にいたる敷地内デモを敢行した。(9月3日=写真)
●全学連大会に北原事務局長
北原事務局長は東京で開かれた全学連大会にかけつけ学生を激励するとともに10・8全国集会への結集を訴えた。(4日)
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