週刊『前進』(1860号4面1)
石川一雄さん不当逮捕から35年
戦争・部落差別の洪水と対決し5・23狭山−24安保国会闘争へ
全国部落青年戦闘同志会
いま解同本部派の転向と底なしの屈服をのりこえて、部落大衆の戦闘的流動化が至るところで開始されている。全国各地の本部派の拠点支部でも、住宅闘争を水路にした大衆的反乱が数十人から一千人近い規模で始まった。部落解放同盟全国連合会(全国連)の闘いが大衆の怒りの弁を解き放ちつつあるのだ。いまこそ全国連が三百万部落大衆の前に公然と登場し、総決起を呼びかけ、闘いの方針を指し示さなければならない。全国連の時代が到来したのだ。全国連は、五・二三狭山中央闘争(午後一時、労働スクエア東京)−二四新ガイドライン有事立法粉砕全国総決起闘争を第七回大会方針の全組織をあげた貫徹として闘いとろうとしている。五・二三−二四闘争は、部落解放闘争にとっても労働者階級の闘いにとっても二つにして一つの闘いである。日帝・橋本政権の心胆を震え上がらせる渾身(こんしん)の決起をかちとろう。
第1章 6月狭山再審棄却たくらむ東京高裁・高木体制うち倒せ
五・二三狭山中央闘争を爆発させるために第一に確認すべきことは、再審棄却情勢の切迫と五・二三闘争のもつ重大性である。
一九六三年の石川一雄さんデッチあげ逮捕から三十五年、第二次再審請求から十二年、東京高裁・高木裁判長の担当になってからすでに四年目に突入した。高木は「書面審理も事実調べだ」と開き直り、まったく事実調べを行おうとしていない。過去、事実調べなしに再審が開始された例はない。事実調べの拒否=再審棄却の決断ということだ。
しかし、「被害者の万年筆が発見された」という石川さんの自宅の鴨居(かもい)を捜査した警察官自身が「万年筆はなかった」と証言し、「裁判官が来ればいつでも証言する」と述べているのだ! また「殺害現場」とされる近くで農作業をしていた小名木さんは、何度も「悲鳴は聞かなかった」と証言している。「殺害現場」なるものがまったくのデッチあげであることを示す決定的証言だ!
さらに、石川さんが「自白」させられた「殺害時刻」には被害者が実は「生きていた」ことを示す法医学者の鑑定が出されている。「証拠」そのものが一から十まですべて警察のデッチあげであることを示す重大きわまりない鑑定である。
どれひとつをとっても石川さんの無実は明らかだ。だが高木はこれら一切の証人も鑑定も抹殺しようとしているのだ。そして何よりもいまだに石川さんの本人尋問を認めないのだ! 石川さんの無実の叫びを高木は聞けないというのだ! こんなことがどうして許されるだろうか! 高木はどんなことがあっても再審を棄却するハラなのだ。これを暗黒の差別裁判といわずして何と呼べばいいのか!
高木は三十五年間の差別裁判の上に、いままた石川さんと三百万部落民に対して再審棄却=有罪=「殺人犯」の烙印(らくいん)を押そうとしているのだ。断じて許すことができない。
五・二三狭山中央闘争は、六月にも切迫している高木による再審棄却策動を粉砕できるかどうかをかけた決定的な闘いである。棄却策動粉砕はまったく可能である。われわれは高木の前任の近藤裁判長を任期切れ前の退官に追い込み、打倒した。高木は、この近藤ができなかった再審棄却を強行するために東京高裁の切り札として狭山担当となった。
だが高木は、「仮出獄」による転向強要攻撃をはねのけて闘う石川さんの不屈の闘いと全国連の決死のハンガーストライキ、毎月の激しい要請糾弾闘争の連続的攻勢の前に、今日まで何度も再審棄却決定を阻止されてきた。高木にはもはや棄却を強行するいかなるペテン的理屈さえもない。ただただ日帝の階級意志を体現して棄却のための棄却という反革命に手を染める以外にないのだ。
だがそれは、石川さんを先頭とした全国連をはじめとする数十万数百万の部落大衆と労働者人民の激しい糾弾闘争との激突を不可避とする。高木は、いまやそのあまりの不正義性ゆえに、この激突を力ずくで押し渡るなんの確信もない。五・二三闘争を高木を打倒する迫力でぶちぬき、再審棄却策動を最後的にねじ伏せてやらなければならない。
石川さんの無実の叫び原点に
第二に、全国連六回大会で宣言した狭山闘争の大復活をなんとしてもなしとげることである。そのために、石川さんの絶対無実の叫びを狭山闘争の原点にいま一度すえきることである。
本部派はこの原点を投げ捨て、客観的証拠だけで争ってきた。しかし、狭山闘争を貫く「無実、差別、糾弾」の原点は、石川さんの無実の血叫びそのものの中にあるのである。客観的証拠はそれを裏づけるものとして徹底的に明確にされなければならない。客観的証拠やそれに基づく法廷闘争が、闘いの魂である石川さんの絶対無実の血叫びと切り離されてしまうならば、それは部落民の闘いの武器にはならない。それどころか、解同本部派のように狭山差別裁判糾弾闘争がいつのまにか一般的冤罪事件に解体されてしまうことになるのである。解同本部派は「石川さんがいなくても裁判はできる」などという暴言まで吐いている。
しかし、石川さんの血と涙の叫びの中にこそすべての真実があるのである。そして、それこそが石川さんの無実を万人に確信させ、権力の差別犯罪を白日のもとに暴き、部落民の差別との命がけの闘いのなんたるかを示すものなのである。
石川さんは、第二審の最終意見陳述で「部落民の私を犠牲に選んで、権力の威信回復をはかろうとした、まさに天人ともに許されない悪逆非道なやり方に鋭く批判を加え、国家権力の自己批判を迫る」「完全無罪判決を受けるのは当然のこととしても、私は加害者としての国家権力に何らかの制裁が加えられないのは不合理だと思います。……いくら法律の名のもとに決定したとは申せ、その宣告した判事は殺人者に違いない。そういう意味からも、無実の人間に死刑を宣告した判事はもとより、それまでに資料をつくりあげた警察、検察、さらには、それらをふくむ司法権力のすべてに、何らかの制裁が加えられるのは当然なのではないか」(狭山パンフ第三弾『ヤツらを死刑に』)と弾劾している。
そして、荻原佑介さん(川越市に住む部落出身者で、狭山事件がデッチあげであることを当初から弾劾してきた人)にあてた手紙では、「私にかわって、内田武文(一審で石川さんに死刑判決を下した裁判長)を綿密にお調べの上、裁判をして、私同様に死刑にしてください。内田武文は、私が中田善枝さんを殺していないことを知っていて、検察とグルになって裏で小細工して、いかにも私の『自供』にもとづいて何でも見つかったように見せかけたことがバレてしまったのです」「また長谷部(警視)、関(巡査部長)の両人も死刑にしてもらいます」と命がけで糾弾している。当然だ。ここに狭山闘争の原点がある。
「やつらを死刑に!」という国家権力に対する石川さんの激しい報復の戦闘精神こそ、何よりも石川さんの絶対的無実を証明してあまりある。一点の曇りもなく無実だからこそ、そのことを知りながら死刑判決を下した内田に対して真っ向から「死刑」を要求することができるのだ。これが階級的真実というものだ。
日帝・警察権力は、石川さんを「殺人犯」にデッチあげるために別件で逮捕し、連日、拷問的取り調べを繰り返し、密室に閉じ込め、「殺して埋めてもわからない」などと抹殺の恐怖を与え、ニセ市長にニセ弁護士を使って不信をあおりたて、孤立無援の状態に追い込んでいったのだ。石川さんは「五日間という長い間、飯もくわせられず与えられず、そして毎日毎夜寝かされず、長谷部梅吉警視をはじめ三十人以上のどう猛きわまる残酷残忍な拷問、自白強要を平気でやる際、狼にとらえられた子羊子鹿として、毎日毎夜休息させられることなく散々ふりまわされたあげく……今にも息がなくなって死んでしまうという地獄の責め苦をうけた」と弾劾している。石川さんは「こんなに疑われるのだったら、食わずに死んでやる」と命がけの抗議に立ち上がった。
長谷部は、極限的な状況に石川さんを追い込んだ上で、「どのみち(別件だけでも)十年。殺人を認めれば十年で出られるようにしてやる」「男同士の約束をしよう」と持ちかけたのである。何という卑劣さか! 長谷部は、「殺人」を認めれば死刑にさえなることを知っていればこそ、石川さんに何度もウソをついたのだ。
まさに、石川さんの無実の訴えと闘いは、こうした国家権力の差別犯罪に対する告発であり、石川さんによる「裁き」そのものなのだ。このような悪逆無道な国家権力どもは「死刑」にして当然ではないか!
三百万の部落民がすべてこの石川さんと同じように国家権力によって虫ケラのように扱われているのだ。
「やつらを死刑に!」「国家権力を打ち倒せ!」−−これこそ狭山闘争の原点であり、部落解放闘争の譲ることのできない魂である。そして、この暗黒の差別社会を打ち砕かずにはおかない石川さんのほとばしるような部落解放−人間解放の叫びと不屈・非転向の闘いを、すべての部落大衆と労働者階級自身のものとしなければならない。この石川さんの闘魂こそ、洪水のように押し寄せる部落差別攻撃をはじめとするあらゆる帝国主義の反動攻撃を粉々に打ち砕く力であり、帝国主義を根底的に批判し、階級支配を廃絶し、人間の根源的解放を闘いとらずにはおかない普遍的な力を宿しているのである。
第2章 解放運動つぶしと部落差別の激化は戦争に向けた攻撃
第三に確認にすべきことは、この狭山再審棄却攻撃が新安保基本法の制定攻撃と完全にひとつのものだということである。
橋本政権による部落差別攻撃の激化、同和対策事業の全廃、部落民への集中的な犠牲の転嫁、これに対する本部派の歴史的裏切りによる差別の堤防決壊……。こうした全事態を突き動かしているものこそ日本帝国主義の破滅的危機である。日帝は一切の犠牲を部落民や労働者人民に転嫁し、侵略戦争によって生き延びようとしているのだ。
新安保基本法(周辺事態法)および関連法案は、公表されるたびに日を追って無制限にエスカレートしつつある。自衛隊の朝鮮出兵は内閣(首相)が独断でできるとされ、国会は単なる追認機関とされた。自衛隊の出兵範囲も武器使用の条件も武器の種類(艦船搭載の大型兵器による攻撃もできるとされた)も、さらには出兵部隊の規模も期間も一切限定がなくなった。
これはどういうことか。日帝は全面戦争を考えているのだ。だからこそ、橋本は周辺事態法と一体のものとして日本有事のための文字どおりの有事立法=戒厳令や国家総動員法の制定にまで矢継ぎ早に踏み込もうとしている。しかも、こんな重大事態が最近のわずか数週間の間に一気に具体化されようとしているのだ。ある種の「クーデター」ともいうべき事態である。憲法はすでに実質的に踏み破られつつある。橋本は本気で戦争を始めるつもりなのだ。
もはや日本帝国主義の危機はどんな財政、金融、経済政策をとったとしても解決できない。恐慌、しかも大恐慌と戦争に突き進むしかないところに来ているのだ。そのために橋本は一切の犠牲を部落大衆と労働者に転嫁し、力による弾圧とならんで差別と排外主義による分断によって、労働者人民が資本とも闘えず、政府の戦争政策にも反対できないようにしようとしているのだ。
差別の洪水はいまや恐るべき段階に突入している。ごく最近の重大な差別事件として、奈良の三郷町で町長リコール運動をめぐって町長擁護派が、リコール運動を推進している議員は「同和地区出身だ」とする差別ビラをバラまいた。歯止めが完全になくなっている。狭山の再審棄却攻撃は、こうした差別の洪水を一気に激化させ、部落解放運動を根絶し、ぶっとばそうとするきわめて重大な日本帝国主義の戦争へ向けた攻撃である。
なぜなら、これまで狭山闘争こそがこうした日帝の部落差別による労働者人民の分断と差別襲撃の扇動を打ち破ってきたからだ。糾弾闘争を否定した「法務省見解」を事実上打ち破ってきたのも狭山の闘いがあったからである。まさに狭山闘争こそが差別の洪水に対する巨大な社会的運動的防波堤となってきたのだ。だが日帝はいま、この地平を本部派の転向をテコにぶっつぶし、部落解放運動がなかった時代の差別し放題の情勢をつくり出そうとしているのだ。
したがって、あらためて五・二三−二四闘争を二つにして一つのものとして位置づけ、再審棄却攻撃を粉砕するためにも全国連こそが五・二四闘争の先頭で闘わなければならないのである。
第3章 本部派の大裏切りのりこえ三百万部落民の責任勢力へ
第四に確認すべきことは、解同本部派の全面的な転向と「自己解体」ともいうべき「解放運動消滅の危機」に対して、いまこそ全国連が部落解放闘争に全責任をとる勢力として登場しなければならないということである。狭山再審闘争に責任をとることこそ、その中軸的核心的闘いである。狭山闘争に責任をとれずして解同本部派にとって代わることはできない。
本部派は、五月の五五回大会を前にして現執行部が全員辞任し、社民右派の組坂書記長が委員長となり、「日本の声」派・上田委員長による機関支配が瓦解(がかい)した。解同本部派がいよいよ全国単一の組織としての求心力を最後的に失い、四分五裂的情勢、各地の「独立王国化」=無統制な独自運動化と全組織の解体的危機を同時進行させていくことは間違いない。
他方、こうした解同の解体的危機=戦後解放運動の破産と崩壊が野放図な差別の激化を許す要因となっている。最近、解同本部派−大阪府連の砦(とりで)であり、本丸ともいうべき大阪市・浪速の部落解放センターの玄関に二度にわたって「エッタ死ね」の差別落書きが行われた。部落民の抹殺を扇動する許しがたいファシスト的な差別落書きである。
しかし、これに対して本部派は、なんと「愉快犯だからあまり問題にしない方がいい」とした上で「器物損壊」で権力に告訴したのである。差別への怒りのカケラもない。あげくのはてに権力に「差別の取り締まり」を求めるとはなんということか! もはやこれは部落民の自主解放を魂とした解放運動ではおよそなくなっている。国家権力と一体になった警察融和運動、官製融和運動への転落そのものである。
実際、今年の本部派の「一般運動方針」によれば、部落解放闘争は「人権文化を創造し、戸籍制度の廃止、夫婦別姓、葬式のキヨメの塩を使わない運動を進めること」だとされ、反対に狭山中央闘争はなきものにされている。いまや解同本部派は狭山差別裁判を一般冤罪事件に完全に解体しようとしているのだ。国家権力や警察にすがりついて「差別の取り締まり」を「要求」することを路線化した解同本部派は、ますます露骨に狭山の幕引きを推し進め、ひたすら権力と癒着することで延命を図ろうとしている。
狭山の再審棄却策動も差別の激化も同和対策事業の全廃も、すべてこの本部派の転向と裏切りをテコにしていることは明白である。再審棄却攻撃が切迫する中で全国連が五・二三闘争をどのようなものとして爆発させるのか−−この一点によって今後の再審情勢は決まるのだ。
住宅闘争と結合し闘おう
第五の確認は、狭山闘争を住宅家賃値上げ反対闘争−同和対策事業の全廃をめぐる最大最高の決戦と一体のものとして闘うことである。
狭山の再審棄却攻撃と同和対策事業の全廃攻撃はひとつのものであり、応能応益家賃制度による同和住宅の家賃値上げは政府による新たな部落差別攻撃そのものである。それは、国家が部落民を虫ケラのように扱い、部落民の居住権も生存権も侵害し、「煮て食おうが焼いて食おうが自由」にするという攻撃である。われわれは、部落民の人間としての尊厳、生存権、平等権を死守するために総決起する。
すでに闘いは始まっている。供託闘争が全国で開始された。全国数十万の部落大衆を巻き込んで燎原(りょうげん)の火のように拡大するこの住宅闘争と狭山闘争を固く結合しなければならない。この闘いに勝利するとき、全国連は本部派をのりこえる解放運動の名実ともに主流派となる。
狭山闘争と住宅闘争はそれぞれ独自の運動論と政策を必要としているが、同時に両者を貫く核心問題として差別糾弾闘争の荒々しい復権をかちとらなければならない。部落民を人間扱いせず、人間としての尊厳を踏みにじり、居住権や生存権という憲法に保障された人間としての最低限の権利さえも侵害しようとする国家ぐるみの部落差別と徹底的に闘うことである。
このまま部落民が黙っていたら差別によって殺される。いま三百万部落民は、あらゆるところで日々の生活そのものにおいて石川さんと同じ状況におかれているのだ。石川さんへの攻撃はまさに三百万部落民全体にかけられている攻撃そのものである。
したがって、狭山闘争の大衆的発展にとって、この住宅闘争を水路にして解き放たれる巨万の部落大衆の差別への怒りと結びつくことこそが決定的に重要なのである。また住宅闘争にとっては、一人ひとりが石川さんの三十五年間の国家権力に対する不屈・非転向の闘い、国家権力の部落差別に対する命がけの闘いをわがものにすることによって、「国策」としての「同和事業全廃=部落解放運動根絶」攻撃、公営住宅法の改正に基づく応能応益家賃制度を撤廃する数万数十万の部落大衆の糾弾闘争の力をつくり出すことができるのである。
全国連は、もう一度全国連大会をかちとる気概で五・二三−二四連続闘争を全国連自身の蜂起戦として闘おうとしている。革命党と労働者人民も五・二三−二四を自らの課題としてともに闘おう。これをぶちぬいたとき初めて七回大会路線の物質化が始まるのだ。七回大会でつかんだ一人ひとりの確信をいまこそ現実の運動としよう!
|