ZENSHIN 2001/04/02(No1999
p06)
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週刊『前進』(1999号5面1)
カクマル随伴文化人の「遺書」
高知聰の『評伝』が暴いた黒田寛一の恥ずべき実像
「臆面もない日本礼讃」と非難 カクマル 衝撃を受け七転八倒
カクマル・黒田とJR総連・松崎との分裂・対立の激化と連動して、カクマル随伴文化人・高知聰の「遺書」となった黒田の伝記が黒田・カクマルの新たな危機を激成している。高知聰著『孤独な探究者の歩み【評伝】若き黒田寛一』(現代思潮新社刊、二月二十五日発行)がそれである。カクマルはこの本の黒田非難に大衝撃を受けて七転八倒している。これはカクマルとJR総連の分裂というカクマルの断末魔の危機がさらに深まり、黒田を取り巻く中枢のレベルでも、党としての一体性が崩壊していることの現れである。これはカクマル完全打倒へのわれわれの歴史的闘いの前進と結びついて起きている。カクマルとの闘いに決着をつける時が到来したのだ。
カクマル陣営内から黒田の“破産証明書”
高知聰というカクマル随伴文化人が二月十五日、肺ガンのために六十六歳で死んだ。そしてそれと前後して高知の前記の最後の著書が発行された。発行元の現代思潮新社とは、一九九〇年代初めに経営危機に陥った現代思潮社をカクマルが買収した、カクマル系の出版社である。ところがこの本は、黒田をたたえるふりをしながら俗人黒田の実像を暴き、「日本礼讃」と黒田を非難し、「黒田の権威」を失墜させるために書かれたとしか言いようのないシロモノなのである。
その点に入る前に最初に、この高知の死に対してカクマルがどういう態度をとったかを確認しておこう。反革命通信『解放』二月二十六日付に「追悼 高知聰」というタイトルで追悼文がカクマル派の署名で発表された。メンバーの死亡に際しても出さない追悼文の発表はそれ自体が異例である。日付は二月十六日、高知の死の直後となっている。それは、高知が最後まで、この黒田の本の出版も含めてカクマルのために尽力したことへの感謝の言葉を記している。
ところが、『解放』の次の号(三月五日付)には、当の高知の本に対する黒田寛一署名の「抗議文」が発表された。日付は二月二十三日になっている。黒田が実名で文章を発表したのは最近では九六年の議長辞任声明の時くらいである。それは、高知聰への感謝どころか、自分にツバを吐きかけた高知と高知を手助けした者を許さないという激烈な内容である。
これは、高知が書いた本が、黒田を辱める内容になっていることに、黒田が大打撃を受けてしまったことを示している。しかも、それが黒田のごく近い者の黒田に対する意識的な反乱として発行されたという意味を持っていることに、黒田はいたく打撃を受け、ほとんど錯乱的状態に陥り、「共同責任」を追及しているのだ。黒田の反革命的生涯の中でも最大級の打撃といえる事態なのである。
カクマル支持してきた高知
高知は、一貫してカクマルの随伴者であり続けてきたくせに、卑劣なことに、黒田・カクマルと一定の距離を置いてきたかのように振る舞っている。
しかし、はっきりしていることは、高知がカクマルの革共同への白色テロを支持したという事実である。七五年三・一四本多書記長虐殺の大反革命を弾劾することなく事実上支持した。カクマルの「謀略論」デマ運動に対しても、それがデタラメであることを百も知っていながら、沈黙によってそれを支持した。
カクマルは、追悼文の中で、高知が七〇年に「全学連(カクマルのこと)を支援するために起ちあがった。この勇気に深く感謝する」と言っている。また、七五年の「革共同両派への提言」の際に、「高知聰は背後で協力してくれた」とたたえている。そして、これらのことは、「命の糧を断たれることをも賭して」行われたと言っている。
その高知が死ぬ間際に黒田の実生活=実像を暴く本を書いたのだから事態は単純ではない。
革共同の批判裏付ける資料
高知が書いた「構想八年、渾身の書き下ろし千枚」の黒田の評伝は、一九五七年くらいまでの若き日の黒田の歩みを、黒田側から提供された資料を使ってまとめたものである。
高知は調べれば調べるほど、黒田の問題性に直面し、今日に至っても黒田がその問題性を拡大再生産していることを思い知らされ、そのことを明らかにしておかなければならないところに追い詰められたのである。晩年の高知が(少なくとも九〇年代に入って)黒田とカクマルに追随してきた自らの生涯に自己嫌悪の感情を持っていたのは間違いない。黒田の手先、先兵であった者が、最後に黒田にツバを吐きかけて死んでいく姿は、哀れを催すことではある。
しかし、この本は、そうした「カクマルの身内だった」高知による内部暴露のような本だから、そこに一定の「リアリティー」もあり、資料的な真実性もあるというものである。高知がこの本の中で展開している黒田の実像の暴露は、それ自身として黒田の問題点を突き出しており、黒田とカクマルに痛烈な打撃を与えるものとなっている。
われわれはこの間、『共産主義者』一二七号の仲山良介論文「『黒田哲学』を全面的に批判する」において、黒田の最後の砦(とりで)に攻め込み、壊滅的な批判を加えた。カクマルは今日に至るまで二カ月間もまったくこれに言及することすらできない。われわれはこの批判の中で、黒田哲学と黒田の全生涯を「総括」し、「黒田哲学は死んだ」「カクマルは死んだ」と宣告した。
高知の本は、われわれが突き付けた全面批判をカクマル陣営内部から裏付ける「破産証明書」の意味を持つものである。だから、カクマルは二重三重に追い詰められているのである。
自分のメンツだけにこだわり怒る俗物
高知の本に対する「抗議声明」において、黒田は何に怒っているのか。
「私のノートの断片」などを「私に無断で利用したことは、けっして許されはしない。あとがきに『承諾』とあるのには驚いた」
「私が十九歳から二十四歳にかけて書き記した心情吐露のようなメモを、無断で公表したことは私に恥をかかせる以外のなにものでもない。私はほそぼそとではあるけれども、まだ生きているのだ」
「『私の手紙』ならびに諸資料を管理している者もまた、そして『評伝』の編集者は高知による無断利用についての共同責任を負うべきである」
これらは、「私に恥をかかせた」身内に向かっても言われている。高知の本が、黒田の予想に反して、黒田を辱めるものになったことについて、それを阻止できなかった、あるいは意識的に推進した、内部の人間に対して黒田は激怒しているのだ。「共同責任を負うべき」というのは、一定の白色テロル的制裁を宣言するものと言える。
だが、高知の本が黒田の知らないところで書かれたというのは真っ赤なうそである。黒田の側から全資料が提供され、家族関係者からの聞き取りなども行われており、カクマルが全面協力して高知に書かせたことは明白だ。黒田自身が「若き黒田」を礼賛させるために資料を出したのだ。
二番目に黒田は、『ヘーゲルとマルクス』の原稿校正を石井恭二(前の現代思潮社社長)がやったというのはうそで、理論社社長の小宮山量平が行ったのだと「反論」している。
しかし、そんなことはどうでもいいことだ。問題は、高知がこの本の出版の経緯をバクロ的に詳しく書いていることに打撃を受けているということだ。要するに黒田の父親が、挫折した息子のために金を出して事実上自費出版の形で出されたものであることが暴かれたことに怒っているのである。父親の庇護(ひご)のもとで、その尽力で出版されたものであったということは隠しておかなければならなかったのだ。なぜこんなことが黒田にとって致命的な暴露になるのかということは、次の第三番目の問題を見れば分かる。
三番目に黒田は、「事実無根のこと」と言って、特に「黒田家の歴史」を書いていることにダメージを受けている。黒田は家族関係について自分は高知に語ったことはないと言い、ごていねいに「家族関係などについての関心は、私にはまったくない」とまで言っている。
しかし、高知が克明に暴いていることが事実かどうかが問題なのだ。ところが黒田はそのことから逃げ回っている。どういう環境の中で黒田は生まれてきたか、どういう社会的存在だったのか、ということはどうでもいいことではない。
地主やブルジョアの子弟で立派な革命家になった人は古今東西にたくさんいる。だから、黒田が大きな屋敷と庭園を持つ金持ちの医者で地域のボスである父親のもとで生まれ育ったこと自体は、非難すべきことではない。たとえ学校の先生を黒田家の家庭教師のように扱って平然としていたという事実などがあったとしても、それは少年期のことである。
問題は、その自分の育った環境について、後の黒田がどのようにとらえ返して、革命の立場に階級移行したのかということである。ところが、黒田は一度もこのような反省を行ったことがない。それどころか「家族関係など関心がない」と断言して、このことからひたすら逃げようとしているのである。黒田は病気による「人生航路の挫折」とそこからくる「実存的苦悩」と言って我が身の不幸を嘆くことがあっても、結局は自らの社会的存在(出自)を階級的にとらえ返すようなことは金輪際やったことがないのだ。
それは、十七歳で敗戦を迎えた黒田が、敗戦直後の社会的現実にまったく関心を示さなかったことと無関係ではない。黒田は「自然現象のように敗戦を迎えた」と言っている。それは高知が遠慮がちに暴いているように、エリートコースからはじかれてしまった黒田が、敗戦という現実に反応することもできないほどの精神的虚脱に陥っていたということなのだ。そのことを今日、「皇国史観に侵されていなかった」から黒田には敗戦に伴う価値観の混乱などなかった、と逆立ちして自分を美化しているのである。
だが現実はまったく逆なのだ。黒田はただ自己一身の挫折にしか関心がなかった。同世代の青年たちが持ったような最低の社会的関心すらも持ち得なかったのだ。だからこそ、その少し後にこの挫折から立ち直り始めるや否や「日本民族の道義の荒廃」などと、右翼民族主義者のようなことを言い始めたのだ。
「破廉恥漢に仕立てられた」
黒田は、「私とは無関係なところで制作された高知の本は、故意に私を辱めるものとなっている。それにもかかわらずこの本は、あとがきにみえる『承諾』の二文字によって、あたかも私が生前の高知に指示したかのごとき様相を醸しだしているものとなっている。この観点からするならば、高知によって私は破廉恥漢にまで仕立てあげられているわけなのである。まことに無念、残念」と地団太踏んでいる。
だが、高知自身の黒田批判の中身については、まともに対応していない。反論することができないのだ。
黒田は、「私に恥をかかせた」「高知によって私は破廉恥漢にまで仕立てあげられている」と言い、小ブル的自己保身、個人的なメンツの立場からのみ高知を非難している。黒田の関心事はただ自分のメンツだけなのだ。
反米愛国主義・民族主義に転落した黒田
高知は、「あとがき」(昨年十二月十四日の日付)の冒頭で、黒田の『実践と場所』第一巻に触れ、次のように言っている。
「ここでは、第一巻のうち、『随想ふう』に回想されている生い立ちに関わる事柄とあまりに突飛に思われる日本礼讃について、簡単に触れる……そこには、信じられないほどの幼児返りと先祖返りとして現れた黒田の無残な老化現象がある」(四七五n)
その中身として黒田の「日本文化」論について、「一言でいえば、黒田式限定を受けた日本の四季と自然を通じての《日本礼讃》というほかはない」と批判している。
たしかに、黒田の文章は、「『もののあはれ』を情感することのできるような情緒……日本人らしさ」とか、「稲作文化ないし『水の文化』は、『木の文化』を介して『かみがみ』につながり『祈の文化』をうみだしてきたわけなのである」など、すさまじい日本主義を満展開している。
高知はこれを「臆面もない日本礼讃」と言い、「天皇制讃美につらなる」ものとして非難している。
「日本の自然風土の讃美は、そのなかの歴史を貫く天皇制の讃美につらなることは、和辻哲郎その人が示している。……その点では黒田も無防備ではありえない」(四八八n)
稲作と天皇制を結びつけて礼賛する黒田に対して、高知は「高校日本史の知識があれば、ここに述べられていることがいかに支離滅裂であるかは一読瞭然であろう」としている。
黒田の『実践と場所』には、「大東亜戦争」という言葉や、「支那」「ヤンキー」という差別語が乱発され、ファシスト石原慎太郎とまったく同じ反米・反中国の排外主義が恥ずかしげもなく全開している。それと並んで、日本の風土に対する愛着が繰り返し臆面もなく語られている。それはまさに今日の黒田が、反米愛国主義、日本民族主義に完全に転落していることを示しているのである。
「恥さらしの出版」と黒田非難
まとめとして、高知は次のように言う。
「黒田の意識の幼稚化はすでにいってきたが、戦時中の感情に戻ってしまって、そこから現実に戻る道を失ってしまったのだ」
これが「若き黒田」を研究した末に、今日の黒田の言説に直面した高知が感じざるをえなかった結論なのである。
「こういう数々の間違いが、原稿の段階でも校正の段階でも正されることがなく、恥さらし以外の何ものでもない出版にまでゆきついてしまうのは、黒田の執筆活動を補佐する人たちや編集者がまったくの無知無能か、忠告助言が聞き入れられないことを知って諦めきっているか、または不思議な絶対権威化の結果である」(四九二n)
黒田から持ちかけられた仕事であったにもかかわらず、死を前にしてこれだけは言っておかなければならないと思ったのかどうか、ともかく高知が「あとがき」で展開していることは黒田の全面否定である。これが図らずも高知の「遺書」になったのである。
黒田取り巻く中枢から反乱
しかし、もっと問題なのは、黒田が絶対に容認できない、このような評伝という名の黒田非難本が、『実践と場所』に対する高知の言葉を借りれば、「原稿の段階でも校正の段階でも正されることがなく、恥さらし以外の何ものでもない出版にまでゆきついてしま」ったのはどうしてなのかということである。
現代思潮新社は、カクマル系とされる出版社である。そして、この本自体が、カクマルの黒田周辺の協力と動員によって作られたこともはっきりしている。それなのになぜ、こんな本が出来上がってくるのか。そこに今日のカクマルのすさまじい危機が示されているといえる。
黒田とカクマルは、この打撃感を和らげるために、毎号『解放』で、高知聰に対するののしりの言葉を並べ立てているが、そうすればするほど、黒田の実像が浮かび上がり、そのカクマル内での「権威」は失墜する。まさにカクマルは死んだ。今こそ、組織としてのカクマルにとどめを刺す闘いの時だ。
黒田の意識の幼稚化はすでにいってきたが、戦時中の感情に戻ってしまって、そこから現実に戻る道を失ってしまったのだ。
こういう数々の間違いが、原稿の段階でも校正の段階でも正されることがなく、恥さらし以外の何ものでもない出版にまでゆきついてしまうのは、黒田の執筆活動を補佐する人たちや編集者がまったくの無知無能か、忠告助言が聞き入れられないことを知って諦めきっているか、または不思議な絶対権威化の結果である。(高知『評伝』あとがき)
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