19全総第4報告      

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1995年秋に開催された革命的共産主義者同盟第19回全国委員会総会の第四報告
「憲法闘争の革命的展望を切り開くために」
(『共産主義者』第107号収録)

 (1)

 日帝の戦争と戦争国家体制づくりの攻撃のなかで、戦争国家体制づくりの最大最高の正面突破の階級的攻撃は、いうまでもなく憲法「改正」攻撃である。

 (2)

 ことわるまでもなく、この攻撃は憲法「改正」案が国会に上程されたときに始まるのではない。事前にあらゆる形態の改憲攻撃やその前段的準備攻撃というものが展開されていくのだ。この意味では、すでに日帝の改憲攻撃はどしどし推し進められている。日帝・小沢路線自体、本質的に改憲攻撃としての性格をもっているといっていい。小選挙区制の成立もさらに激しい改憲攻撃である。
 しかし今日最も重視すべき、直接的な正面からの改憲攻撃は、九四年一一月三日に発表された『読売新聞』の「憲法改正試案」である。『読売新聞』はさらにたたみかけるかのごとく、九五年五月三日の憲法記念日に『総合安全保障政策大綱・読売提言』を発表している。日本を代表する大新聞が直正面から改憲案を打ち出したことの意義ははかりしれない。この巨大な衝撃のなかで、『朝日新聞』も九五年五月三日の紙上で、「戦後五〇年、朝日新聞は提言する」および「国際協力と憲法」と題する「朝日提言」をおこなった。その内容は、「護憲」とうたいながら解釈改憲の立場を打ち出したものであった。『産経新聞』も、より右から読売提案を批判する主張を紙上で展開している。
 こうして憲法「改正」問題は、すでに階級闘争上の決定的なテーマになってきている。われわれはこの現実を直視しなければならない。労働者階級・全人民にたいし、憲法闘争への一大総決起を訴えるべきときがきているのだ。

 (3)

 たしかに改憲というのは巨大な、とてつもないスケールの大攻撃である。いうまでもなく、改憲の核心的テーマは憲法九条の破棄であり、帝国主義的軍隊の合法的復権であり、海外派兵の全面的自由化にほかならない。文字どおり全面的中央突破的大攻撃である。かつての一九三〇年代のナチスの台頭期にアナロジーしていえば、「ベルサイユ体制の打破」に等しいものである。そして実際の過程としてリアルに考えれば、日帝の戦争過程への突入宣言=戦争宣言に等しいものであるといって過言ではない。
 かつては、憲法改正の発議が国会議員総数の三分の二の賛成を要するということから、三分の二のカベということがいわれ、小選挙区制の成立が絶対条件であるとされてきた。逆に小選挙区制が成立しないかぎり改憲は不可能であるといわれてきた。しかしいまや、この小選挙区制のカベはすでに打ち抜かれてしまっている。さらに護憲の党といってきた日本社会党は、今日では「安保堅持」「自衛隊合憲」をうたいあげるにいたっている。この日本社会党が自民党やさきがけと連合して、村山政権を形成しているのである。またPKO派遣の形態で自衛隊の海外派兵の実績も積み重ねられている。阪神大震災やオーム真理教・地下鉄サリン事件などの情勢を利用して自衛隊の災害出動が繰り返され、「自衛隊の国内治安出動」が当然視されつつある。連合や既成野党のなかで、陰陽の改憲是認論、容認論がはびこり、本来の護憲派は一気にしぼんでしまっている。
 このような階級的現実にのっかり、つけこんで、ついに読売改憲試案が公然と挑発的に打ち出されるということになったのだ。
 しかしながら、われわれはここできっぱりと言わなければならない。改憲というような一大反革命について、全労働者階級、全人民の大半は賛成しているなどという改憲論者の情勢判断は完全にまちがっていると! 全労働者人民の怒りのすさまじさをなめるなと! わが革共同は、こうした人民大衆の怒りの先頭にたち、巨大な憲法闘争の革命的爆発を必ずやかちとり、改憲と戦争のたくらみを打ち砕くであろう。アジア人民の怒りの爆発もまた不可避である。われわれは闘うアジア人民と連帯して、日帝のアジア侵略を内乱に転化する闘いの一環として、憲法闘争の圧倒的爆発を必ずかちとるであろう。

 (4)

 改憲をめぐる動きについてより具体的に検討しよう(この項はレジュメのみ)。
 改憲をめぐってすでにいくつかのタイプの具体的見解が提出されている。
 @解釈改憲案(これは自称護憲派を含む)
 A憲法第九条に自衛権と自衛隊を認める新しい一項目を付加する方式の改憲案
 B安保基本法を制定するという方式の改憲案(連合指導部などが志向している)
 C憲法第九条を含む全項目について全面的に憲法をつくり直すという全面改憲案

 (5)

 「読売新聞改憲案」はこのCにあたるものであるが、実質的には現憲法の全面的破棄、新憲法の制定に等しいものである。「読売改憲案」の主な内容、問題点は次のようなものである。
 第一点。読売案(以下このように略す)の特色は、まずなによりも全面的「改正」ということである。いやそれ以上に現憲法の全面的破棄といった方がよい。現憲法は第二次大戦への「反省」ということで国民主権、基本的人権、平和主義などを基本的理念としてうたいあげているが、読売案はこれらすべてにわたって根底的な変更、転覆の意図をむきだしにしている。とりわけ現憲法前文にたいする読売案の態度は憎悪の感情を露骨に示したものである。
 現憲法前文では、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安定と生存を保持しようと決意した」と戦争放棄・戦力不保持の立場を打ち出しているが、読売案ではこれは「国の存立自体を他人まかせにしようとする」考え方であると激しく攻撃している。そして、「不法な侵略には自ら防衛する」というのが当然であると強調している。読売案前文はこの精神を貫いているものだといっている。
 読売案で総体としてみて断じて許すことができないものは、憲法に民族の概念を明文をもって導入していることだ。これは帝国主義的民族主義・愛国主義の概念を内的動力として帝国主義的国家主義のイデオロギーの中心軸にすえつけようとするものである。また、帝国主義的排外主義を憲法内部にもちこむものでもあり、断じて許すことができないものである。
 第二点。読売案のやはり基軸中の基軸をなすものは、憲法第九条の全面的破棄ということである。第一項は若干の字句をいじっただけのようにみせかけているが、内容上は他国の侵略戦争は否定するが、自衛のための戦争は肯定するという内容にすっかり変えられている。
 第二項は全面的に破棄している。現憲法九条二項は「陸海空その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」というもので、戦争放棄・戦力不保持について争う余地がないクギをさしている条項である。読売案はこれを全文破棄という形で抹殺し、自衛戦争、自衛隊、戦力保持、交戦権などを真っ向から肯定する条文に変えているのである。帝国主義軍隊とその海外派兵(侵略戦争出動)について一〇〇%合法化するということである。
 読売案は全面的改定案であり、そういう意味で超反動的なものだが、憲法の全項目に手をつけることで、この第九条の破棄という一点に攻防が集中することの不利を回避しようする意図をもっている。われわれはこの点、全体的批判とともに、九条破棄こそ反革命の中心、重心、核心であることを徹底的に確認しなければならない。
 第三点。読売案はフランス革命以来の基本的人権思想(の現憲法への独特の反映)を中心にすえることに攻撃を加え、国家を中心軸にすえ、国家とその国民、国民としての権利・義務といつた内容に変更しようとしている。一口でいえば、国家主義を中心的イデオロギーにすえることである。本来の意味の基本的人権は内容的に完全に抹殺されている。また国民主権は国家主権、または政府主権に変質させられている。 第四点。読売案では、戦後的な議会制民主主義体制、議員内閣制といった統治形態にかかわる諸領域でもボナパルティズム的方向への転換がはっきりと打ち出されている。
 「国会は国権の最高機関」という現行規定が削除される一方、大統領的首相制への移行が強烈に志向されている。また憲法裁判所などという新しい機関を設定することによって、帝国主義的権力の最も反動的な極が憲法判断の権限をにぎって、政治過程を左右する可能性に道を開こうとしている。また、これは違憲訴訟が通常訴訟の一審段階では不可能とされてしまうものでもある。
 第五点。読売案のいまひとつの決定的な踏みこみは、天皇の元首化を公然と打ち出したところにある。「対外的な形式的な行事に限って、天皇の元首化を認めた」などといって、読売案は合理化しようとしているが、元首論的にいえば、これで天皇は完全に元首としての意義をもつものとなるのである。これは、天皇制的国家主義的政治支配体制(天皇制ボナパルティズム体制)への道を開く決定的条項にほかならない。憲法の内部に民族の概念を導入したこと、「歴史と文化と伝統」という表現を導入したことと考えあわせると、読売案は天皇制攻撃として、きわめて恐るべき内容をもっているということである。
 第六点。「地方分権」についても反動的改訂をたくらんでいることは明白である(詳細略)。
 第七点。『読売』の今回の「改正案」のいまひとつの決定的に反動的な内容は、じつはその「憲法改正」にかんする条項である。これによれば「憲法の改正」はきわめて容易にできるようになるということである。国会議員総数の三分の二が出席し、そのうちの三分の二が賛成すれば、国民投票なしにでも憲法が自由に変えられるというのである。また改憲の発議自体も、国会議員の三分の二ではなく、二分の一の賛成があればできるというのである。
 このことは今回の「読売改正案」が、彼らがたくらんでいる憲法改悪の内容のすべてではないことも示している。今回の改憲で成就すれば、その後いくらでも改悪ができるということである。したがって、たとえば、徴兵制はとらないなどといっているからといって、そのまま受けとることなどまったくできないということである。
 以上が読売案の主な内容であるが、『読売』はじつはさらに、九五年五月三日にも『総合安全保障政策大綱・読売提言』なるものを打ち出していることである。この「大綱」の内容は先の「九四年一一月三日読売改憲案」と完全に重なるものであり、より具体的な実践的な提案をしている。
 内容上注目されることは、この「大綱」では個別自衛権と集団自衛権という言葉が明記され、集団的自衛権なるものを積極的に打ち出していることである。自衛隊の海外派兵、PKO(PKF)への積極的参加がうたわれていることだ。そればかりか、米軍のアジア的世界的展開への「支援を可能にする」ことも打ち出しているということだ。端的にいえば、米帝の朝鮮侵略戦争への日帝の積極的参加、協力が可能になる体制の形成をはっきりと狙ってきているということである。
 また、いまひとつの注目すべき内容は、非常事態宣言の発布と首相権限の圧倒的強化にかんするものである。さらに、さまざまな有事立法の必要性を提起している。さらにまた、「超大国による世界秩序の維持はのぞむべくもない」と言いきり、米帝の力の限界を露骨に主張し、日帝の自主防衛能力の確立の視点を鮮明にしているということである。
 総じて、読売改憲案や「総合安保大綱」の示していることは、日帝が敗戦帝国主義の現実と戦後革命の圧殺、制圧の必要性のなかで不可避となった現憲法(本質的に帝国主義憲法であるが、特異な歴史的制約をうけた憲法)の制約性をかなぐり捨てて、帝国主義軍隊を全面的に復活させ、帝国主義戦争も何もかも自由にできるような体制をつくり出すために、ついに動きだしたということである。
 このような『読売新聞』の真っ向からの改憲案の公然たる提起にショックをうけた『朝日新聞』も、九五年五月三日に「戦後五〇年、朝日新聞は提言する」という一面社説提言や「国際協力と憲法」と題する六提言(一三〜一五面)などの「朝日提言」をおこなった。『朝日』は『読売』の改憲案に対置して、「護憲」の立場なるものを打ち出しているのであるが、内容上は自衛権、自衛隊、自衛戦争を正式に承認しているものであって、いわゆる典型的な解釈改憲の立場そのものでしかない。
 護憲の言葉で飾りたてながら、そのじつ改憲への日帝の動きにむかって国民の大多数を流しこんでいく――これが『朝日』の果たそうとする役割にほかならない。『朝日新聞』もまた改憲への流れにはっきりと水を注ぐものにほかならないということである。

 (6)

 日帝にとって改憲ということは、先にも言及したように、ナチスによる「ベルサイユ体制の打破」のような意義をもっている。すなわち、それは米帝的戦後世界体制の打破としての意義をもっている。このため米帝が最大級の激烈な反応を示すことは明白である。それは日米間の政治的対立、軍事的対立を一気に激成していくものとなる。米帝以外の欧州諸帝国主義の場合も同じである。また改憲はほとんどストレートにアジア再侵略・再侵略戦争そのものを意味するので、朝鮮、中国、アジア・太平洋の人民は激烈に反応し、反対のために総決起することは明らかである。もちろん、なによりも第二次世界大戦や「明治」から八・一五にいたる全過程の総括、さらに戦後五〇年の全過程の総決算としての意義をもつ攻防となるため、改憲攻撃は一大階級決戦そのものとなる。あえていえば、正しい革命的指導が確立されるならばプロレタリア革命の勝利にいたる闘いの突破口に転化することもまた大いにありうるのである。
 したがって、日帝支配階級にとっても容易に手をつけられる攻撃であるわけではない。しかしながら、かといって、ほとんど具体化してくることはないものだなどとすることは、とんでもない誤りである。そもそも冒頭にも述べたように、改憲攻撃は「改正案」が国会に上程されたときに始まるのではない。むしろあえていえば、それは最終盤戦段階への突入ということだ。改憲攻撃は、直接間接にどんどん進められていくものとしてあるのだ。

 (7)

 われわれはすでに九一年の一・一七の湾岸戦争から、日帝がPKO派兵を実現していったあのプロセスを知っている。歴史的矛盾の蓄積はあるとき、ある契機から一挙に爆発し、政治情勢を急激に変えてしまうものであることを知っている。日本社会党の一挙的変質、変節のプロセスも知っている。
 すでに繰り返し確認してきたように、戦後体制のすべてを根底からひっくり返すような歴史のエネルギーは過飽和といえるくらい充満している。日米対立の決定的大きさ、日帝危機のとてつもない深さのなかで、朝鮮、中国、アジア、太平洋をめぐって米帝と日帝が帝国主義としての存亡をかけた戦争過程に突入していく過程はすでに始まっているのである。
 日本帝国主義の存亡の危機は日本国家の存亡とされ、さらには日本人(民族)の生活と生存の危機とされ、総じて祖国の存亡の危機とされていく。このような情勢が進みはじめると、当然のことながら危機意識にかられたファシスト勢力がさまざまな形態で台頭し、天皇制・天皇制イデオロギーを担ぎまわり、反革命テロル、白色テロルの動きを一挙に強めてくる。日帝・警察的権力は破防法をふりかざし、天皇制的警察的白色テロルを治安の名においてほしいままにしてくるであろう。このような情勢のなかでは改憲は、一挙にリアリティをもってくるのだ。つまり、現実の戦争の必要性が切迫化するときには、帝国主義はその全精力をふりしぼって改憲へのムードを一気に加速してくるのである。
 より具体的にいえば、米日帝の朝鮮侵略戦争情勢の歴史的切迫性がいま一段と深まり、戦争の気配がたちこめてくれば、日本の政治過程は激変し、平時には考えられない早さと激しさで改憲への動きは進むであろうということだ。それどころか、次の総選挙で新進党が万一圧勝したとしたら、それだけで政治情勢の動き方、スピードは一変してしまうこともありうるのだ。

 (8)

 したがって、われわれは憲法闘争はすでに始まっているとみるべきだし、むしろわれわれの方から先制的に憲法闘争を大爆発させていかなければならない。こちらから階級闘争の戦場に憲法問題を引きずり出して闘っていかなければならない。
 われわれが、朝鮮侵略戦争の歴史的切迫や第三次世界大戦の不可避的接近を直視し、反戦反侵略の闘いを組織し、また、大失業時代の階級闘争を一大階級決戦として組織していくとき、それは同時に、必ず改憲阻止決戦として闘わなければならないのである。戦争が具体化しているということは、改憲が具体化していることと一体である。これは同一の事柄の表と裏の関係なのだ。だから、朝鮮侵略阻止は同時に必ず改憲阻止でなければならないのである。

 (9)

 さらに、われわれは次の点もしっかりと押さえておく必要がある。それは、今日の日帝支配階級の政治的動揺と日帝政治委員会の分裂抗争のなかで、その離合集散のなかで、一般的にいえば、日帝・小沢路線が分岐軸になっているが、基底的、根底的には改憲問題が本質的な分岐軸、結集軸になってきているということである。そればかりか、“野党”や組合的勢力のなかで、ひいては労働運動そのもののなかで、改憲問題が結局のところ決定的分岐軸となってきているということである。われわれはこうした日帝をめぐる政治的政党的分岐のなかで、憲法問題をめぐってプロレタリアートと革命の立場からクサビを打ち込み、階級闘争を爆発させていくことが、プロレタリア人民の革命党のもとへの結集をつくりだしていくうえで決定的に重要であるといわなければならない。

 (10)カクマルおよびカクマルJR総連によるペテン的反革命的エセ「憲法闘争」について

 憲法闘争を革命的に発展させていくうえで、カクマルおよびカクマルJR総連によるペテン的反革命的な「憲法闘争」なるものを徹底的に弾劾し、粉砕していくことはきわめて重要である。
 この間九四年から九五年にかけて、カクマルとカクマルJR総連は超ペテン的なエセ「憲法闘争」なるものを「九条を広める会」(九条連)をデッチあげることをとおして推進してきた。
 これは、カクマルJR総連のファシスト労働運動が、JR各資本との間で一定の矛盾をつのらせ、箱根以西のJR三社において、圧倒的な少数派労働組合に叩き落とされたことや、日帝・運輸省との間の矛盾をも激化させてきたことに起因するものである。カクマルとカクマル松崎らは、動揺する組合員やファシスト労働運動に疑問をつのらす組合員をごまかし、つなぎとめるために、JR総連は“護憲をとなえるまともな労働組合”でもあるかのようにみせかけようして、このようなエセ「憲法闘争」をデッチあげようとしたのである。あるいはまた、ファシスト労働運動としての対国家権力、対JR資本のバーゲニングパワー(取引能力)の強化に活用しようとしたのである。
 われわれはこの間、闘う国鉄労働者とともに八・一五の大集会等をバネとしつつ、このカクマルJR総連のペテンをあばく闘いを強力に展開した。われわれはその際、次の諸点を鋭く突き出して暴露していった。
 第一に、カクマルJR総連自身がJR各社において、とりわけJR東会社などにおいて、JR資本の徹底的な手先として、労働者にたいして合理化、労働強化、低賃金などの現実を強制し、批判的な人びとには白色テロルを加えていることを徹底的に暴露し、こうした事柄から目をそらすためのペテン的キャンペーンとして、エセ「憲法闘争」をとなえているという本質をきびしく糾弾していった。
 第二に、われわれは、カクマルとカクマル松崎らこそが国鉄分割・民営化の最先兵となり、国労解体、総評解体、連合結成・強化、あるいは社会党(ともかくも護憲をとなえていた)解体のために全力をあげた張本人であったということ、すなわち、彼らこそ改憲勢力そのものであったし、いまでもそうであるということを徹底的に暴露していった。このことは、なによりも国鉄労働者にとっては明解なことであった。基本的人権や労働基本権の圧殺そのものとしての国鉄分割・民営化攻撃の先頭にたって、資本とともに労働者の首を切る不当労働行為の限りをつくしてきたものが、どの面さげて“護憲派”などというのか! これは全国鉄労働者の心からの叫びとなった。
 第三に、カクマルとカクマルJR総連は国鉄分割・民営化のその実施過程で日帝、資本の歓心をかうために、「大東亞共栄圏の考え方は正しかった」「自衛隊だけが核武装してはいけないというのはおかしい」「組合本部室に日の丸を掲げるのは当然」などときわめて意識的、系統的に主張したことである。このことの「総括」を何ひとつせずに、今さら知らん顔で「憲法九条を広める会」云々などと護憲派を装うというのは断じて許されないということを暴露していった。こんな不誠実きわまる態度を平気でとるものは、次の別の局面がくれば手の平を返したように、再び戦争肯定、改憲当然などの主張をとなえるにきまっているということを鋭く批判した(これはすでに言及したように一〇〇%的中した!)。
 第四に、カクマルとカクマルJR総連のエセ「憲法闘争」の反革命性はそれ自体理論的、イデオロギー的にいえば、憲法改悪の動きと現実の日帝の侵略と戦争への動きとを完全に切断し、憲法問題を抽象的な平和主義の理念か、その破棄かといった問題にすりかえてしまっている点にあることを暴露した。
 カクマルとカクマルJR総連は基本的に現代における帝国主義の存在と帝間争闘戦の爆発、その戦争化といったことをアナクロニズムと称して否定しているのだ。それどころか、ソ連崩壊後の世界では帝国主義戦争・世界戦争の危機はなく、あるのは世界秩序を混乱させる民族=宗教紛争であり、これを米・日帝等は抑止するために努力していると彼らは分析しているのである。このように言っているカクマルとカクマルJR総連の「憲法闘争」なるものは、帝国主義と闘わず、帝国主義を打倒することなしに憲法問題が解決するかのごとき幻想をあおりたてるもので、真の憲法闘争の発展を阻止、妨害するものでしかないということである。彼らは帝国主義の侵略戦争、帝国主義間戦争と憲法問題を一〇〇%分断しておいて、憲法問題を小ブル平和主義的観点から云々することで、いかにも“マジメな護憲派”であるかのごとく装い、労働者人民をたぶらかそうとしたのである。
 彼らのエセ「憲法闘争」論は理論としてみればこのようなものであり、かつてボルシェビキのプロレタリア革命に反対したカウツキーの主張と瓜ふたつのものである。しかし彼らは現実には、このカウツキー主義さえも真剣にやろうとしたわけではないのだ。実際にはこういうさもさもの装いをこらすことで、ファシスト労働運動の本質を労働者人民から隠そうとしたにすぎないのだ。さらにいえば、真の憲法闘争へのファシスト的な白色襲撃を合理化するために“われわれも憲法闘争は闘っている”というポーズをとるためのものであった。
 第五に、カクマルとカクマルJR総連には、同じようにいかにも“民主主義派”ということをひけらかすために、読売改憲案などについて「ネオ国家主義」云々などといって批判するポーズをとっているが、それもまた大変なペテンであるということ。国家主義について云々しながら、天皇制と天皇制イデオロギーの問題を完全に蒸発させているのである。「天皇の死に哀悼の意を表する」と恥知らずな態度をとった彼らに、ネオ国家主義を云々する資格などそもそもない、といわなければならない。
 第六に、「憲法を広める」という主張そのもののペテン性である。大体、「九条を世界に広める」ということの意義がまったくもって不明瞭なのである。なぜ、“九条を護る”とか“九条破棄反対”とかいわないのか。ここに彼らのペテン性、反革命性が凝縮されているといっていい。「九条を広める」とは、実は「九条」をもつ日本の勢力をアジアに、世界に広めるということでしかないのだ。カクマルJR総連は、その大会で総合安保政策の推進をうたいあげている。これはかつての社会党がPKO派兵に事実上屈服し、賛成していくときに主張したこととまったく同じものである。
 社会党の転向云々などと彼らはいっているが、みずからがJR総連大会で主張していることはそれと寸分も違わないのだ。このことは「共生」などというスローガンを打ち出して「大東亞共栄圏」の今日版の推進に協力しているそれと一体である。日帝やJR資本のアジアへの経済進出をどんどん進めることが平和への道だなどといっていることも、これと同じである。日帝が現に帝国主義としてアジアを侵略し、侵略戦争を準備するために全力をあげているときに、これとの対決を何ひとついうことなく、アジアと日本の経済的なつながりが強まっていくことが平和につながるというのは、完全にかつての戦前の帝国主義的労働運動が歩んだ道と同じなのである。大体、「九条をアジア諸国に広める」というとき、それは何を意味するのか。アジア人民の民族解放・革命戦争を武装解除せよとでもいうのか! 帝国主義国と被抑圧国の区別もなしに一般的に「広める」などというのは、それだけですでに帝国主義のイデオロギーなのである。
 第七に、カクマルとカクマルJR総連が組合の正式な会議で、「自衛隊の一部の災害救援隊への改組」などと提起していることは到底みのがすことのできない問題といわなければならない。これは自衛隊の肯定であり、自衛隊の治安出動への賛成を意味する以外のなにものでもない。こうした態度は、かの『朝日新聞』の五月三日の「解釈改憲」の提言とまったく同じ態度でしかないのである。

 (11)

 われわれのこのような暴露と弾劾は闘う国鉄労働者の声となり、闘う労働者全体の声と一体になっていった。そしてそれはカクマルとカクマルJR総連のエセ「憲法闘争」のたくらみに決定的打撃を与えるものとなっていった。その結果、彼らの「九条連」の「八・一五カンパニア」はみるもぶざまな形で大破産してしまった。
 彼らは「九条連」云々といって、みずからのファシスト労働運動的本質をおし隠すやり方が完全に行きづまってしまったことを確認せざるをえなかった。エセ「憲法闘争」を云々すればするほど、みずからのペテン性が内外に暴露されてしまうからである。
 と同時に、カクマルとカクマルJR総連にとっては情勢はさらに進展していった。それは日帝の危機、日帝・資本の危機、JR資本の危機がすべて異常に深まり、日帝・資本およびJR資本とファシスト労働運動としてのJR総連の間の矛盾がますます激化し、“普通の組合”ぶってみたり、“護憲派”ぶってみせたりすることによっては、ファシスト労働運動として、権力・資本との関係でも労働者大衆との間の関係でも到底延命できないことが明らかになってきたからである。ことここにいたって、カクマルは新しい党議決定をおこない、カクマルJR総連における彼らの政策をさらに全面的に変更することにしたのである。これはすでに詳しく暴露した事柄であるが、カクマルとカクマル松崎は、かの六・二の仙台講演、七・二五水戸講演という形で新しい超反革命路線を打ち出したのである。
 彼らは一転して、日帝の危機がこれだけ深刻化している以上、労働組合はストライキなどもってのほかであり、理性をもって対処しなければならないと言い、@賃金を半分にするワークシェアリングに賛成する、A長期不況の危機から立ち直るためには軍需産業推進と武器輸出の方法しかない、Bしたがって戦争についても、憲法についてもこれまでのような“タブー視”はやめなければならない、と絶叫しはじめたのである。
 すなわち、カクマルとカクマル松崎はいまや戦争と大失業の時代の切迫という現実の前にはいつくばり、労働者の数を半分にする一大資本攻勢も避けられない、やるべしと言い、さらに発生する失業者対策としてはナチス経済政策を採用すべきであると言いきってきた。彼らはこのことをことさらに強調することで、彼らがJR資本にとってだけではなく、日帝そのもの、日帝・資本総体そのものにとっても、ファシスト的突撃隊としての利用価値があることをアピールすることによって、JR東等々での資本とファシスト運動との異常な癒着構造を防衛しようと「決断」したのである。
 カクマルとカクマルJR総連のエセ「憲法闘争」は、ここにいたってもはや完全に破綻し、破産しつくしたといわなければならない。しかし、われわれはここで糾弾の手をいささかでもゆるめてはならない。
 なぜなら、カクマル、カクマル松崎らはどこまでも破廉恥であるからである。上記のような松崎の二つの「講演」のような提起をおこない、新しい反革命路線にふみきりながら、なおかつ、あくまでも革命の皮を着た反革命の装いを守るために悪あがきをどこまでもしていこうとするからである。“これはJR内の特殊な戦術だ”といったり、“これは労働戦線の新しいのりきり方針だ”といったりして反革命機関紙紙上では改憲阻止などとのたまわってみたり、学生戦線などではいかにも改憲阻止派のごとくみせかけるために平然とキャンペーンしてはばからないヤカラであるからだ。カクマルのもつこの種の二重性格、ファシスト的二枚舌性、謀略性について過小評価してはならない。
 しかし、はっきりいって、カクマルとカクマルJR総連のこうしたペテンは今回はもう通用しないといわなければならない。かの松崎の二つの「講演」はJR総連としての正式のものであり、“放言”として扱うことはもはや許されない。またカクマルは、JR総連=カクマル、カクマル=JR総連という関係をすべての労働者人民、組合活動家層、すべての勢力の前に公然と告知してしまったあとで、この二つの「講演」はおこなわれているのである。
 いまや、カクマルという党の主張そのものが松崎の主張と一〇〇%一体であることを否定することはできない。カクマルはみずから、現代のファシスト党であると宣言したに等しいのだ。また、JR総連がファシスト労働運動にほかならないということを宣言したに等しいのだ。いまや全カクマル分子の一人ひとりがすべて、この「松崎の二つの講演」の全内容について党員として全責任をとらなければならないのである。
 はっきりいって、カクマルの再度の決定的な分裂は不可避となったということだ。四分五裂の始まりである。
 われわれは、こうした意味でカクマルとJR総連カクマルのエセ憲法闘争についても完全に息の根をとめるまで闘いぬかねばならない。完全にその情勢は成熟したのだ。

 (12)憲法闘争の闘い方について

 憲法闘争はいまや完全に始まっている。朝鮮侵略戦争阻止闘争と改憲阻止闘争とは二つにして一つのものである。
 憲法闘争は帝国主義の危機、帝国主義戦争・侵略戦争の危機、内乱の危機と密接不可分なものとして登場し、発展するものである。憲法闘争は「連帯し内乱へ」の戦略の不可分の一環として、本質的に「内乱へ」の立場にたって、本格的に組織されるべきものである。
 全面的な闘争陣形づくりを始めよう。闘争そのものを開始しよう。暴露論文、講演会、学習会、集会、デモなどあらゆる方法で系統的に闘争体制をつくりあげ、盛りあげていこう。六〇年闘争をこえ、七〇年闘争をこえる闘い、文字どおり「連帯し内乱へ」の闘いに発展するような大闘争にむかって計画的系統的に前進しよう。
 九六年の五月、一一月(憲法公布)をメドにさまざまな闘い方をつくりだそう。
 反戦共同行動委員会の大衆運動をつくりだすために、闘う労働者、学生、農民、市民とともに闘おう。他方では、八・一五陣形や一一・五陣形のもとに形成された統一戦線の内部で積極的な提起をおこなっていこう。
 創意的で大胆な一大統一戦線の構築をかちとろう。そして、戦後史上最大最高にして、最も革命的な一大人民運動をまきおこし、反動どもの改憲のたくらみを粉砕しつくそう!

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