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2010年06月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 あらためて『共産党宣言』を学ぶ 〔前半〕

講義概要 P1

★討論から- P9

受講レポート P13

2010年06月号
通信 バックナンバー
党学校通信  講義概要

あらためて『共産党宣言』を学ぶ 〔前半〕

前半講義概要 講師仲山 良介 

 【はじめに】

 革共同「綱領草案」の理論的基礎は、主として『共産党宣言』に置かれています。「綱領草案」をより深くつかむためにも、『共産党宣言』をしっかりと学びなおそう。何より現在の情勢に根本的に、鋭角的に立ち向かうために。

【一】「まえがき」部分

1)『共産党宣言』は 「共産主義者同盟」という革命的労働者組織の討論と決定にもとづいて書かれた。マルクスの個人著作ではない。大事な問題。

ヴァイトリングの「教義」から抜け出し、<労働者階級の歴史的運動>の立場で根底的に問題を提起しきったのが『共産党宣言』。一言で表現すると、「セクトの運動(小ブル的空想的社会主義)でなく、階級の歴史的運動」ということになる。共産主義とは、労働者階級がブルジョア支配階級を倒し、名実ともに自分たちの力で社会を運営していくこと。そういう形で、これまでの階級支配の歴史を終わらせ新しい歴史を創造していく。共産主義は偉大な創始者の発明・発見でもないし、それに導かれ救われるというような宗教的運動でもない。理論的に言うとマルクス主義と労働者階級の全運動は、『共産党宣言』の原則をめぐって闘争してきたといえる。支配階級が「資本主義の原理にもどれ」とわめいている今だからこそ、『共産党宣言』の原則が革命的に復権されなければならない。

2)『共産党宣言』でなく、<共産主義者宣言>だという間違った議論。

 <自覚した個々人がバラバラに共産主義者になって、そしてゆるやかに自由主義的に連合する>という考え方で『宣言』を解釈しようという主張。新自由主義イデオロギーに対応するかたちで『共産党宣言』の根本を解体しようとする試みとして、10年くらい前に流行った。<9・11→アフガン・イラク侵略戦争><世界大恐慌情勢>のなかで、こういう議論はある意味で吹き飛んだ。しかし、この問題は、根本的に考えてみる価値がある。
  @『共産党宣言』はもともと革命的労働者組織の綱領的文書として出されたもの。文書のタイトルも当然<共産党宣言>。 Aまた、共産主義は労働者の階級闘争の貫徹の中にある。ブルジョア階級と労働者の対立の非和解性がすべての基礎にあり、労働者階級はブルジョアジー・支配階級との死活の闘争の中で階級的団結を形成し、それこそが新しい社会の「母体」となる。Bつまり、労働者階級のブルジョアジーとの闘争から共産主義は生まれる。それをやりぬくためにこそ<共産主義の党>は必要であり、生まれてくる。だから共産主義者=共産主義の党ははじめから、労働者階級の階級としての団結を基礎に形成される。
  以上のような意味で、やはり『共産党宣言』なのです。そういうものとして、共産主義者と共産党という言葉が同じ意味で使われている。

3)共産主義という妖怪の正体

 「共産主義」とは何か。正体不明だが、とにかく人間社会の存立や、人間性の本性を根本から脅かすものとして恐れられ、反対されていた。だが共産主義の正体とは、闘う労働者階級そのもの、革命的労働者階級(革命的プロレタリアート)の闘争のこと。今の社会秩序を根底的に変革・破壊するのは、共産主義というわけのわからない妖怪(幽霊)ではなく、われわれ革命的プロレタリアート。そういう意味で、「共産主義の党自身が、自らの正体を明らかにするときが来た」と宣言している。(当時はやりの教理問答形式ではなく、共産主義者の党自身の宣言を対置したこと自体に重要な意味があった。)

【二】『宣言』第1章(その前半) ブルジョアとプロレタリア

1)労働者階級は階級社会を廃止する存在だ

 「これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」
  この冒頭の一行は、「ついに階級社会の歴史に終止符を打つ存在であるわれわれ労働者階級」の革命宣言だ。
  「抑圧者と被抑圧者はつねに敵対関係にあって、ときには隠然としたときには公然とした闘争を行ってきた」「この闘争は、社会全体の革命的変革をもって終わるか、さもなければお互いにたたかう階級の共倒れに終わるかがつねであった」
→階級=階級関係とは、根本的に労働生産をめぐる関係。他人の労働とその生産物を奪いとって生きている社会階級と他人のために労働させられている階級との関係。だから絶え間ない闘争の歴史。だが支配階級と底辺の被支配階級(働く階級=多数者)がぶつかったとしても、「底辺の被支配階級」が勝利して次の支配階級となったわけではない。そもそも、「俺たちこそ社会の主人公だ」といえる条件はなかった。身分的人格的従属の下で、幻想的な外皮(たとえば宗教的な争いとして)をもって階級闘争はたたかわれた。身分制的な階層秩序のもとでは、労働し搾取される階級と搾取し支配する階級の全面的対決という形にはなかなかならない。封建社会の農民反乱の場合、搾取・収奪や支配の緩和を命がけで訴えるというのが基本的あり方。
  封建社会が没落して、近代のブルジョア社会=資本主義社会が生まれた。自由・平等(人間の解放)がうたわれ、封建的身分制度・身分的支配関係や人格的な従属は廃止され、社会の基本関係は大きく変わったが、<ブルジョア社会は、新しい階級対立、新しい抑圧と闘争の条件、形態をつくり出した>だけ。「われわれの時代、ブルジョアジーの時代は、階級対立を単純化したことを特徴としている。社会全体がますます、敵対する二大陣営、直接に対峙する二大階級に分裂していく―すなわちブルジョアジーとプロレタリアートに」
  結論的に言って、われわれ近代のプロレタリアート(労働者階級)は、<ついに階級社会の存在そのものを廃止することのできる階級>なのである。歴史上はじめて労働する階級が革命によって社会と歴史の真の主人公となる、そういう階級として登場してきた。

2)ブルジョア社会とはどういう社会か(その歴史的形成)

 「近代のブルジョアジー自身が長い歴史的発展の産物である」「中世の農奴から、初期諸都市の城外市民が生まれた。ここからブルジョアジーの最初の芽が生じた」
  産業革命を経て近代的大工業が現われ、ここに全産業軍の指揮官である近代ブルジョアジーが生まれた。【その前提に、大量の農民の土地からの追放によるプロレタリア化がある。】大工業は、すでに準備されていた世界市場をつくり上げ、それがまた工業、商業、海運、鉄道を一挙に拡大し、中世以来の伝統的階級を後景においやった。
  *ブルジョア革命(ブルジョアジーによる政治権力の奪取) ブルジョアジーは、近代代議制国家(議会制民主主義の国家)において独占的政治支配権をたたかいとった。(自分たちの政治権力を樹立。これが狭い意味のブルジョア革命)。近代的国家権力とは、全ブルジョア階級の共通の事務を処理する委員会である。

3)「ブルジョアジーの歴史的革命的役割」(彼らは何をつくりだしたか)

 「ブルジョアジーは歴史上きわめて革命的役割を演じた」
  あらゆる封建的家父長的牧歌的関係を破壊した。「いろいろな自由」を廃止して、ただひとつの破廉恥な自由=商業の自由をもたらした。宗教的政治的幻想に覆われていた搾取を、あからさまで恥知らず、粉飾のない搾取に置き換えた。家族関係から感傷的なベールを引き剥がし、金銭関係に還元した。
  ブルジョアジーは生産諸関係と社会的な諸関係全体を絶え間なく革命しつづける。たえざる変革、不安定と動揺。これこそがこの時代の特徴。人間はこの中で、自分たちの生活上の位置と自分たち相互の関係をさめた目で見つめざるをえなくなった。
   世界市場。国境をこえた生産と消費。産業の足元から、民族的な土台を取り払った。諸国民相互の全面的交易、全面的依存関係。精神的生産においても同じ。民族的な精神的生産物は共同の財産になる。民族的一面性や偏狭さは不可能、世界文学が形成される。
  安価な商品は、民族、国家の障壁をぶち壊し、すべての民族にブルジョアになるよう強制する。一言で言えば、「自分の姿に似せて世界を創造する」。
  生産力の発展をとおした、都市への資本と人口の密集、集中、集積。必然的に政治的中央集権制。「(ゆるやかに)連合した程度の関係でしかなかった(封建的)諸州が、一つの国家、一つの政府、一つの法律、一つの国民的な階級利害、一つの関税線のなかにまとめあげられた」。百年たらずのうちに、これまですべての時代をあわせたよりも巨大な生産諸力をつくり上げた。

4)ブルジョア的生産力発展の帰結<生産力と生産関係の矛盾> 

 ブルジョアジーの生産力の発展は、最初は封建社会の中で形成された。これがある段階まで発展すると、封建社会の諸関係、封建的な社会組織、封建的な所有関係と矛盾し、封建的な所有諸関係は生産力の発展の束縛となる。したがって、この所有諸関係は粉砕されるべくして粉砕された。
  生産力と生産関係(社会的諸関係、社会組織、所有関係)の矛盾→革命的大変動。生産諸関係が変わり、封建的支配階級=封建的土地所有者そのものも消えた。同じような運動(歴史の運動)がわれわれの眼前で進行している。
  「近代ブルジョア社会は自分で地の底から呼び出した魔物をもはや制御できなくなった魔法使いに似ている」「ブルジョアジーの存立の条件でもある近代的生産諸関係と所有諸関係にたいする、近代的生産諸力の反逆の歴史」。
→すなわち恐慌。→1825年から40年代まで10年ごとに起きた商業恐慌。
  およそ不合理としか思えない。生産物と生産諸力の大部分の破壊。過剰生産という疫病。全社会的な破壊戦争の様相。なぜそうなるか。資本の運動は、発展した生産力をより高い割合での資本の増殖のために使えない状態、資本が「絶対的」に過剰化した状態をつくり出す。〔以下、略。〕
→生産力を絶えず高めることが資本主義の存立条件。しかしそれは、資本主義の経済的秩序と社会的秩序を破壊する。恐慌の克服はより深刻な恐慌への道を開き、それを予防する手段をますます狭める。ブルジョアジーとプロレタリアートの対立関係の中で、(労働力の商品化の中で)生産力のこれ以上の高度化をこなしていくことはもはやできない。生産力の高度化はストレートに破壊の力に転化していく。(封建社会の解体期とは比べものにならない破壊力としての作用、現象、発現の仕方。)→だからこそプロレタリア革命。

【三】プロレタリア革命(ブルジョア社会発展の必然的帰結)

 「ブルジョアジーが封建制を打ち倒すのにもちいた武器が今やブルジョアジー自身に向けられている」「しかしブルジョアジーは、自分に死をもたらす武器をつくりだしただけではない。その武器を取る人々をもつくりだした。すなわち近代の労働者。プロレタリアである」
→ここでの「武器」とは、生産力の発展そのもの。ブルジョア的に発展した生産力がブルジョア的生産関係、所有関係、秩序に反逆する。恐慌という経済破綻を引き起こす。だが、ひとりでにその「反逆」(経済破綻)が革命に転化していくわけではない。ブルジョアジーは、その「武器を取る主体」、革命情勢を革命に転化する主体=労働者階級という革命の主体をつくり出した。労働者階級は実際に武器をとって闘うという意味でもある。ある意味では、成長した労働者階級自身が「最大の生産力」とも言える。社会的生産の主体。プロレタリアートは、自ら立ち上がってブルジョアジーを倒す。革命的行動によって、破綻した支配階級を打ち倒す。そうした歴史的存在なのだ。

1)プロレタリアートとは

 プロレタリアートは、『宣言』の叙述の中で、具体的には革命(労働者革命)の主体として登場してくる。ここから、あらためて労働者階級の闘争の発展をたどりなおす。
  ブルジョアジーつまり資本が発展する度合いに応じて、プロレタリアートも発展する。
  「近代の労働者階級は、労働があるかぎりで生きられる、しかも、その労働が資本を増殖するかぎりで仕事にありつける。労働者は、自分を切り売りする。労働力を商品として売る。だから自分自身を商品として売っているに等しい。だからまた、競争と市場のあらゆる動揺にさらされている」
  機械の普及と分業。労働は…機械の付属物になった。「労働者にかかる費用は、自分の生存の維持と労働者種族の繁殖のために必要な最小限の生活手段に限られる」「さらに機械や分業が増加すればするほど、労働時間の延長によってあるいは単位時間の労働密度の強化(ノルマの増大あるいは機械の運転速度の増加)によって、労働の量は増加する。搾取は増える」。機械、大工場。労働者は、産業の一兵卒として、軍隊的に位階的に組織される。
  「労働者は、ブルジョアジーやブルジョア国家の奴隷であるだけではない。機械の、職制の、個々のブルジョアジーの奴隷である(労働現場でそうなっている)」

2)労働者階級の闘争の発展(労働者階級の歴史的成長発展)

 「プロレタリアートはさまざまな発展段階をとおっていく。プロレタリアートのブルジョアジーにたいする闘争はその存在とともにはじまる」
  最初は個々の労働者がたたかう。次に一つの工場の労働者。さらに、地方における一労働部門の労働者が、…まず個々の資本家とたたかう。機械、工場の打ち壊し。失われた地位を取り戻そうとする。この段階では労働者は、分散的、受動的。労働者の結集はブルジョアジーの団結の結果にすぎない。ブルジョアジーが自分の政治目的のために、全プロレタリアートを運動に引き入れる。プロレタリアートは(この段階では)自分の敵の敵とたたかう。
  「歴史的運動(の主導権)は、すべてブルジョアジーの手に集中的に握られている。こうして獲得された一つひとつの勝利はすべてブルジョアジーの勝利となる」→そこからどのように発展し、前進し、成長していくか。
  工業の発展とともに、プロレタリアートの数は増加する。密集した巨大な集団となり、力も増大する。その力を自覚するようになる。
  ブルジョア的生産の発展とともに、個別的な衝突は「ますます階級間の衝突という性格を帯びる。労働者はブルジョアジーにたいする同盟を結成し、賃金要求のために結集する。労働者は恒常的な組織をつくり、反抗にそなえる」。(労働組合)
  「労働者はときどき勝利する。しかしそれは一時的なものにすぎない」「労働者の闘争の本当の成果は、・・・労働者の団結がますます広がっていくこと」「多くの地方的なたたかいはどこでも、一様な性格をもってきているので、お互いに連絡がつけば容易に一つの全国的闘争、一つの階級闘争に統一される。ところであらゆる階級闘争は政治闘争である」
  「このようにしてプロレタリアは階級へ組織され、それとともに政党に組織されていくが、それは労働者自身のあいだの競争によって、繰り返し破壊される。しかしこの組織化はいつもそのたびに再建され、ますます強力に、ますます強固に、ますます強大になる」(労働者の階級への形成と党)
  これらの闘争において、「ブルジョアジーはプロレタリアートに呼びかけ、協力をもとめ、政治運動(ブルジョア的改革)に引き込む」「このようにして、ブルジョアジーは自分たちのもっている教養的な要素(知的な力)をプロレタリアートに供給するが、それはブルジョアジー自身に向けられる武器となる」。階級闘争が決着に近づく時期になると、「支配階級の一部分が自分の階級から絶縁し、未来を決する革命的階級に結びつくようになる」。今やブルジョアジーの中から、とりわけ「歴史的運動の全体を理論的に理解するまでにいたったイデオローグの一部がプロレタリアートの側に移行してくる」。(ここの展開は、労働者階級の階級への形成と党の問題において、本質論として重要な意味をもっている。)

3) プロレタリア革命

 「今日、ブルジョアジーに対立しているすべての階級のなかで、プロレタリアートだけが真に革命的な階級である。その他の階級は、大工業の発展によって衰退し没落する。プロレタリアートこそは大工業のすぐれて固有の産物なのである」
  「中間諸階層、小工業者、小商人、手工業者、農民もブルジョアジーとたたかうが、それは自分の存在を没落から守ろうとしてのことである。したがって、彼らは革命的ではなくて保守的である」「彼らが革命的になるのは、・・・自分たちの現在の利益ではなくて、将来の利益を守るために自分たち自身の立場を捨て、プロレタリアートの立場に立つという場合である」
→様々な階級、階層の人々がブルジョアジーに反逆し抵抗し激しくたたかう。こうした人々は、自分の状態の根源を理解し、プロレタリアートとともに、プロレタリアートの立場に立って、プロレタリアートの勝利のためにたたかう場合に真に革命的になる。
  「ルンペン・プロレタリアートとは、旧社会の最下層の人々の受動的な腐敗現象であるが、プロレタリア革命によってときには運動のなかに引き込まれる場合がある。しかし、かれらの生活状態全体からして、反動的策動に買収されやすい」
→当時の階級闘争の中で、支配階級に買収され、実際に反動的な政治的役割を果たした都市貧民層を念頭においている。大工業の固有の産物としてのプロレタリアートこそ真の革命的階級とする考え方から、この点ははっきりさせられる必要があった。「最下層の貧民層こそもっとも革命的」というような安易な考え方に陥らないように、ということ。これはヴァイトリングとの「共産主義論争」の主なテーマだった。

●<真の革命的階級としてのプロレタリア=共産主義の歴史的主体>
 <そのような主体としての質的飛躍。革命そのもの>

 「これまで支配をかちとったすべての階級は、全社会を自分たちの利得の諸条件のもとに従属させることによって、生活上の地位を守ろうとした。プロレタリアは、自分自身のこれまでの獲得様式、同時にこれまでの歴史上のあらゆる獲得様式を廃止しないかぎり、社会的生産力を自分のものにできない」
→自分のエサだけは保証してくれというしかない状態の廃止により、社会的生産力全体を個々人が豊かに担いかつ享受する関係を初めてつくり出せる。
  「これまでのすべての運動は、少数者の運動あるいは、少数者の利益のための運動だった。プロレタリアの運動は、圧倒的多数者の利益のための、圧倒的多数者による自立的な運動である」「現在の社会の最下層であるプロレタリアートは、公的社会を形成しているいくつもの層の上部構造全体を空中に吹き飛ばさなければ、起き上がることも身を伸ばすこともできない」
→私的欲望と経済的利害がぶつかりあういわゆる「市民社会」(経済的諸関係)に対して「公的社会」と言っている。広義の「政治的イデオロギー的上部構造全体」を指す。これらを丸ごと拒否し、粉々に吹き飛ばさないと労働者階級は身を伸ばすことも出来ない。ブルジョアジーに対する勝利は経済=生産の領域だけでなく、同時に公的社会全体を覆し、社会と人間のあり方全体を根底から変えるということでもある。
  「プロレタリアートのブルジョアジーに対する闘争は、内容上ではないが、形式上ではまずは国民的なものである。それぞれの国のプロレタリアートはもちろんまず第一に自国のブルジョアジーと決着をつけなければならない」(プロレタリア革命の根底性、暴力革命、プロ独論、世界革命)
   「われわれはプロレタリアートの発展の最も一般的な諸段階を描き出すことによって、現存の社会のなかに潜む多かれ少なかれ隠然とした内乱が、ついに公然とした革命となって爆発し、ブルジョアジーの暴力的打倒をとおしてプロレタリアートが自分自身の支配を打ち立てる地点にまで到達した」
→プロレタリアートがこの後、何をどう変革していくかは、第2章で見よう。

【四】労働者階級は勝利できる階級である。勝利の必然的根拠(第1章最後のまとめの2つの段落)

●第一の段落

 「これまでのすべての社会は、抑圧階級と被抑圧階級の対立にもとづいてきた。しかし一つの階級を抑圧することができるためには、その階級に少なくとも奴隷的な生存ぐらいは保っていけるだけの条件が保障されていなければならない」「ブルジョアジーには支配する力がない」「彼らは自分たちの奴隷にたいして奴隷制の内部で奴隷としての生存を保障することができないからであり、また奴隷に養われるどころか、奴隷を養わなければならないような状況にまで奴隷をおとしいれていかざるをえない」「ブルジョアジーの存在はもはや社会とはあいいれない」(すべての権力を労働者に!)
→資本主義、現代の帝国主義は、労働者を食わせることもできなくなっている。ブルジョアジーは、なぜ「工場法以前にもどす」といっているか。なぜ労働者保護の考え方そのものを否定しようとしているか。全面的な弱肉強食の論理で、大半の人間を純然たる搾取材料の地位に叩き落さないかぎり、もはややっていけないからだ。

●第二の段落(最後の段落) 墓掘り人規定。(引用省略)

 ブルジョアジーの存在と支配の本質的条件は資本の形成と増殖(富の私的な集中)。資本の条件は賃労働。賃労働は労働者の競争(分断)を条件とする。したがって、労働者の「組織による階級的団結・革命的団結」がはっきりと形成され、突きつけられるならブルジョアジーの存在・支配、資本の運動そのものが成立不可能である。
  労働者階級は、資本に対する防衛のためだけからも階級的団結を必要とする。この対立は本質上非和解的なものだから、革命的団結を必ず発展させる。こうして、ブルジョアジーの存立の土台そのものが崩れる。<階級的に団結したプロレタリアートをいつまでも搾取できる資本主義>など成立しない。だからブルジョアジーは、じつは自分の墓掘り人を生産しているのだ。ブルジョアジーの没落・プロレタリアートの歴史的勝利は不可避である。
→繰り返し破壊されるとしても、資本・国家権力と闘う中で、労働組合を労働者階級の闘う団結体として甦らせ、それを基礎に革命(全面的勝利)を貫徹し、全社会を自分たちで運営できる団結をより強力につくり上げていく。どんな困難があれ、労働者階級にはそれができる。それこそが共産主義ではないか(より高次の、自覚した労働者の結合体の形成)。 (前半講義了)

党学校通信 

討論から

●X

 今日の学習をとおして、6・13大結集と全国運動とをやってく上で、解雇撤回が資本に対する労働者の一番原点的な要求だとハッキリした。
  もう1つ、プロレタリア革命の勝利という観点から解雇撤回、あるいは団結の組織体としての党、しかも目的意識的な革命を目指す党として打ち立てていくということを、うまずたゆまず情勢認識、時代認識と路線をとおしてハッキリさせることが必要で、しかもそれが今まさにできる時代、情勢になったということをハッキリさせていくことに、あらためて確信を持った。

●Q

 まず、講師からも強調して提起された、共産主義者宣言じゃなくて共産党宣言だということ。私はこの点を、党の宣言で、党の綱領であり、党への結集を呼びかける宣言であるということが重要だと、新入生を含めて今行っている『共産党宣言』の学習会でもやりました。『宣言』を新入生と学習して、綱領草案を提起して党への結集を呼びかけているので、党の宣言だということは重要だと再認識しています。
  2点目は、「階級闘争は政治闘争である」という部分。6・13運動とは一大政治決戦であって、階級闘争であり、改憲阻止闘争であり、階級決戦である。だから、解雇撤回は学生にも関係があるとか、派遣法が同じ時にできたとか、学生が国鉄闘争に参加する決起論みたいな切り口から提起するあり方から転換して、6・13闘争とは階級決戦であること、学生こそ今の時代に立ち上がる存在であり、声を上げる存在であるということ、だから、今こそ学生は立ち上がろう、闘おうと。階級闘争は政治闘争であり権力が問題になって、階級闘争=政治闘争=党が必要になる、ということだと思う。6・13闘争をそういう壮大なスケールでわれわれがとらえて、学生がその中に決起していく。そういう観点とか提起で、学生に呼びかけていこうという議論を今しているところです。
  だから、階級闘争は政治闘争であり、誰が支配者なのかが問題になる、すなわち、党が必要、問題になっているという点は、自分の中でも6・13に向かってガッチリはまりました。

●Z

 今日の講義を、『甦る労働組合』に出てきたなと思いながら聞いていました。中野さんは、ポケットに『共産党宣言』を入れて、とにかく青年部を集めて回って学習会をやって、それで動労千葉地本の青年部をつくった、と言ってました。そういうことが根底にあって、今の動労千葉があるんだとあらためて感じました。
  それと、今度の4人の闘争団員の決起は大変な課題をつきつけている。プロレタリア独裁能力、われわれが本当にプロレタリアの党なのかどうかがもろ問われる。現実にJRとの闘いを、4人の生活や闘いをも守りながらやっていく。そういうプロレタリアートを主体として、われわれが勝負できるかどうかが試されるときが来たという点で、本物のプロレタリア党になっていく飛躍と転換が必要になっている。
  今、東労組も含めてJRの青年労働者が何に空気が入っているのかというと、反合・運転保安闘争で外注化を阻止したこと。1047名解雇撤回も和解はおかしいと思っている。動労千葉の闘い、反合闘争はすばらしいと思う中で、1年ごとの更新で5年しか働けない契約社員はおかしいと思っている。これらをひっくり返す闘いだから、6・13に共感し、決起が始まっている。
  われわれが本気になって階級の党として登場して、プロレタリア革命をやる主体になったときには必ず決起が起きる。私は6・13にものすごい可能性を感じているし、路線的にも確信を持って闘えるところに来てると思う。『宣言』を学びながら、階級の党としてのあり方をつくり出していきたい。
  もう1つ、私のバイト先の社長はワンマン社長で、自分が気に入らないと首を切る。それで、2つに班を分けて成果を競争させられた、勝った方に報奨金を出すと。それに対して、全員をオルグして、どっちが勝ってもみんなで山分けして飲みに行こうと決めた。それで、こんなあり方根本的におかしいということで、組合をつくろうという話をして、まだ組合はできてないけども、6・13には来る人もいます。組合がなくても組合的な闘いをやることだとあらためて思ったし、できる。やっぱり怒りはある、労働者には。パートの人たちであっても必ず決起する、そのことを実践をもって確認できたし、『宣言』で言われている中身は実践的に使える中身だと思いました。

●V

 僕も『共産党宣言』の中身を階級の中に入れていこうという形で、街宣を毎週やって大衆と結びつく、周辺の労働組合に入って、共産主義的な思想、考え方を入れていくと決意して、組織オルグを実践しています。
  今の階級情勢の中では、闘う人たちや共産主義的な思想を真正面から打ち出す人たちがいるということで、この社会を変えていくという情熱やエネルギーがある限り、三里塚闘争あるいは階級的な労働運動が大きく発展するんじゃないか、あるいは発展させようという形で今後とも頑張っていきたい。

●J

 『共産党宣言』と『資本論』を今こそ復権させようということで全党が一丸となっている中で、『宣言』の学習会をやって、そこで党がつくれた、党をつくったという実感がある。その党をつくった力でもう一度『宣言』を今日読んでみて、これがわれわれの軸というか、マルクス主義をわれわれの手に取り戻す闘いが現実の闘いと一体で起こっているし、162年前に書かれた本が今も通用する。今こそ『宣言』が学生・青年労働者に読まれていくことが重要だと思いました。
  国鉄・沖縄・三里塚・法大の全戦線で火が噴いている中で、党を拡大できた。今まで弾圧されてそれを跳ね返す闘いから飛躍しなきゃいけない。だからこそ問われるものがある。『宣言』の中身というか、組織拡大をかちとるために、われわれがもっともっと学生の中に、青年の中に入っていかなきゃいけない。そのときに6・13が闘われることに、歴史的な意義がある。
  質問なんですけど、レジュメ10nの、「このように、歴史的運動(の主導権)は、すべてブルジョアジーの手に集中的に握られている。こうして獲得された一つひとつの勝利はすべてブルジョアジーの勝利となる」→そこからどのように発展し、前進し、成長していくか、という所が、今的に実感というか、イメージがわかない。われわれの勝利がどうブルジョアジーの勝利になるのか?と率直に思って。

●P

 『宣言』や『資本論』を読む中で、『宣言』は徹底的に弁証法だなと思った。要するに、硬直化した物事があてはめ的に正しいものだとはまっていくんじゃなくて、実践的な闘いの中で物事が前進していく。ブルジョアジーが歴史に登場してくること自身が前の歴史段階の限界とかを突き破る形で生産力の発展の中で出てきて、前の時代の秩序を粉砕する形で自分の階級的な支配を成立させていく。だけど、前の時代に起きた生成・発展・没落という過程がブルジョアジーにも適用されて、ブルジョアジーの運動の中からそれをひっくり返していく主体として革命的階級である労働者階級が出てくる。そこが、僕は『宣言』で今つかむべきところかなと思っている。
  「歴史的運動(の主導権)は、すべてブルジョアジーの手に集中的に握られている」というのは、歴史的段階ではそうだったということ。ブルジョア革命の完遂は、労働者階級を膨大に政治的な運動に引き入れる中で成しえた。ここが通用しなくなった。労働者はブルジョアジーに組織される必要がなくなった、自分たち自身の政治党派をつくれるだけの経験を歴史的に積んできたから。ただ、プロレタリアートは最初から自分たち独力で政治党派をできなかった。先行して政治権力を握ろうとした階級の実践を自分の経験として吸収する中で、自分たち自身の革命的能力を培ってきた、ここだと思う。

●X

 スターリン主義は、労働者階級とか人間とかとは別の所に、あらかじめ共産主義とか革命というものがあって、そこに近づく過程として革命運動をとらえる。だけど実際の歴史過程は、ブルジョアジーの封建領主とか封建制に対する闘いとしてあって、ブルジョアジーの勝利として確定してきた。ここを見すえられるかどうかが、反スタ綱領をわれわれが掲げているひとつの核心だと思う。そこを見すえて、その上で、だからプロレタリアートの勝利が必然なんだということをキチンととらえていくから、革命が現実的で、勝利の根拠も確信も生まれてくる。

●E

 封建社会の中から生み出されてきたブルジョアジーが支配権力を握る過程で、プロレタリアートを自分たちの政治勢力として組織しながら封建勢力を打倒していく。その過程でブルジョアジーから与えられた知識だとか、いろんなものを身につけ、プロレタリアートは次の社会の主体になっていく、ということだと思う。
  その上で、生産力の発展が次の共産主義社会の土台をつくり上げていく中で、生産力と生産関係が矛盾に陥り、自動的に次の社会になっていく、とスターリン主義者たちが言っているけど、大きな間違いである。そういう土台的なものがつくられるにしても、それをやり遂げるのはプロレタリアートである。プロレタリア独裁を担うプロレタリアートの団結体の核心がブルジョアジーとの闘いの過程でつくられていくというところが、一番大きなカギだと思う。そのプロ独の主体の力を生み出していくためにも、労働組合と資本との全面対決と6・13で闘われる1047名闘争が、資本との非和解的闘いとして発展していくこと自身が、日本の戦後労働運動の限界を突破していく闘いであるし、革命につながる闘いになっていく。

●g

 生まれたばかりの資本主義では、これから人間の社会としても発展していく、自由とか進歩があるということで、プロレタリアートも動員できた。今日では資本は、労働者を生きさせることもできない。新自由主義という形で労働者の団結を破壊することでしかやっていけない。そうやってくり返し団結が破壊される中で、新たに団結をよみがえらせていく。当時もそうだったし、今日もそうなんじゃないか。

●講師

 資本主義的生産が資本主義的生産として確立された頃、厳密には産業革命の直後で今から200年くらい前。その頃、文字通り労働者階級が階級として団結して、俺たちが主人公だ、ブルジョアジーを倒すぞという運動は出来ていない。この事実は大事。労働者階級は闘いと、それから資本主義そのものが発展する、その資本主義そのものの発展は同時に闘いの発展でもある。大事なことは、これをひっくり返す主体として労働者が力を持っていくということが、その資本主義の中で生まれてくるということ。資本主義社会が生まれた最初から、ブルジョアジーとプロレタリアートは向かい合っていたという感じじゃない。最初はプロレタリアートは、ブルジョアジーの尻にくっついて、もっと俺たちの状態を改善しろみたいなことを言っている。
  だけどそこから、俺たちはすべてを握っているんだ、結局は封建社会の残りかすの一掃みたいなことじゃなく、ブルジョアジーお前たちが問題なんだということをハッキリ言うようになっていく。労働者は勝てるとか、労働者にはすべての力がある、ということをわれわれが言う場合には、最初はブルジョアジーの尻にくっついていたような状態から、ついには完全に社会の主人公にまでなっていく、そういう存在なんだということに自信を持つ必要がある。
  今現在労働者弱いじゃないか、日本の労働者階級全体の中で動労千葉の支持者が何人いるんだみたいなことが言われてるんだけど、だから何なんだと。結局はすべての階級を獲得し、動かす、こういう歴史の流れと同じような論理構造が今現在の中にもある。労働者階級は、必ずこの社会をひっくり返す力を秘めている。歴史的に自分たちの力を発展させる存在、あるいは本質的に持っている力をハッキリさせていける存在、そういう階級だということです。
  今日私が1つ言いたかった特殊に重要な点は、歴史的には知的要素の供給とかいろんなことがある、ブルジョアジーがブルジョア的な運動のために利用することが、逆に労働者の成長のための材料になる。こういうふうに進んできたんだけど、20世紀の歴史を経て、21世紀現在の現実と向かい合っている労働者階級は、俺たちにすべてが出来る、とハッキリ言うべき、あるいはそういうふうに歴史的に成熟してきて、革命の主体としての労働者階級が全世界的に存在しているという姿をハッキリさせることができる、そういう向かい合い方に今やなろうとしているんだということ。
  だから、歴史的に労働者が成長するということは、労働者階級は力があるということの本質論だ。そういうふうに読みたいなと思って、鋭角的にここの所を強調した。

●H

 今日、非常に感動したのは、『宣言』が共産主義者同盟を獲得するために労働者階級と共につくった歴史的文書なんだということ。マルクス自身が労働者階級に獲得されてマルクス主義者になっていく。『宣言』と、この前後の過程は非常に重要な過程だと提起されているんですけど、空理空論じゃなくて現実に目の前にある労働者階級、これをどう獲得していくのかということの中で、獲得し獲得されていくということの、いわば集大成がこの『宣言』なんだということとして出されたことが自分としては感動的。
  今僕たちが、4者4団体を批判しているだけでは問題にならないんだ、どう獲得してわれわれが主流派になっていくのか、そこの飛躍なんだということと完全に通底する問題としてこれが今日出されて、あらためて6・13へ向けて残された時間を突っ走る決定的な武器になったと力強く思った。

党学校通信  受講レポート

受講レポート 

【K】

 今、なぜ『共産党宣言』なのか。−やはり『宣言』から162年、ついに『宣言』が予言した革命情勢が眼前にあるということ。「これまでのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史」であり、さらに「ところで、あらゆる階級闘争は政治闘争である」ということ。6・13大集会へ向かう日々の闘いが、これまで数十年にわたる闘いで実現してきたものが、まさに一瞬一瞬更新され、展望ひろがる時代となったことを実感しています。
  講師が強調したことですが、党と労働者階級の関係、マルクス自身が、党と共産主義者をまったく同じ言葉として表現し、使っているということ。その前提的な認識として、妖怪としておそれられる共産主義の正体が、闘う労働者階級そのものであり、労働者の団結そのもの、党そのものであるということがあるのだということ。
  しかも、労働者階級こそが歴史的に強いられたものとして誕生し、歩み出した時から、新たな社会の支配能力を育む長い苦しい闘いを糧として現在に至った存在であり、必要な力を獲得し、発揮できる階級としてあるのだ。
  それは、労働者階級が資本の搾取に対する原初的怒りを爆発させた時に、その闘いがいかに絶望的な反乱であろうと、その反乱の中にこそ、資本主義支配の矛盾のすべてがあるのだとマルクスが注目し、マルクスを階級が獲得する決定的な契機となったことにも、プロレタリアートこそが唯一の革命的階級であることの証左がある。
  そして今、資本主義の少年期にマルクスと共産主義者が、資本主義の死滅とそれを強制する労働者階級の成長を確信した、その「予言」が、まさにそれ以外ない時代となった。1917年ロシア革命が切り開いた地平を蹂躙したスターリン主義と、それによって延命した帝国主義、すべての結着をかけた決戦が、1047名国鉄大運動なのだ。プロレタリア革命を歴史の必然、団結した労働者階級の力をバクハツさせる時だ!!

【h】

 『共産党宣言』の学習会は学生時代以来で、久しぶりに学習会に出て、大変勉強になり、参加して本当によかったです。
  講師の最初の、「歴史の転換点に勝負をかけているからこそ『宣言』の学習を」「路線と実践を豊かにするために『宣言』の学習を」という言葉が、学習会を終えてじわりと体の中に入ってきました。また、党の綱領草案の基礎になっていることがよく分かりました。
  今回の学習会で特に印象に残ったことは、「〔一〕の1)『宣言』は何を明らかにしたか」の部分です。『宣言』は、ずっとマルクス・エンゲルスの著作だと思っており、共産主義者同盟の組織的討議の組織化によって完成されたことが大事なことだと思いました。「共産党宣言」なのか「共産主義者宣言」なのか、という点も、同盟の組織的討議によって行われたというのが、ひとつの解答になるのではないでしょうか。
  もうひとつは、プロレタリアートの革命性です。マルクスも、プロレタリアートの立場に移行することによって、その立場に立つことによって『資本論』を完成させた、完成できたということだと思います。「共産主義という妖怪」とは何か。わけのわからない妖怪ではなく、労働者階級の闘いそのものです。
  今日の新自由主義の社会の中で、『宣言』を今日によみがえらせることは、大変大事なことだと思います。労働者階級の闘いが生きるために必要になっている時代だから、『宣言』は普遍的な文書であり、今でも通用するものだと思います。この『宣言』は、労働者階級のものであり、労働者階級が社会の主人公であり、唯一世界を変え、獲得できる存在であるということに確信を持てました。また、今、労働者こそが社会の主人公であるということをはっきりさせて、『宣言』の勉強会を組織していくことが大切だと思いました。

【r】

 あらためて『共産党宣言』を学ぶ、というテーマですが、新たにつかんだ事が何点かありました。
  「党宣言」であるという事。当時の革命党であった共産主義者同盟の綱領的文書として打ち出されたものであり、マルクス・エンゲルスの個人的著作ではないという事が新鮮でした。共産主義とは何か? 共産主義の党とは何か? プロレタリアートとは何であり、プロレタリア革命とは何か、という事が改めて整理されたと思います。
  そして、『党宣言』は、今の時代だからこそ労働者階級に持ち込んで勝負できるという事です。真に革命の主体は労働者階級であることを徹底的にはっきりさせている(歴史的にも現実的にも)。社会の主人公は労働者階級であるからこそ、資本家による支配を粉砕し、社会を根本から変革することができる。労働者が団結すれば、社会を目的意識的にコントロールすることができる。プロレタリアートはそういう能力を持っているという事だと思います。結局はプロレタリア独裁という事だし、それは暴力革命によってこそ成し遂げられるという事だと思います。資本主義の初期段階で、ここをマルクスは明確にしていますが、資本主義がもう末期であり、新自由主義攻撃と大恐慌情勢の下では、一段と『宣言』の思想は労働者階級の思想として圧倒的に確認できると思います。
  新自由主義と大恐慌の下では、ブルジョアジーはもはや労働者を食わせられなくなっています。今こそ労働者が団結し、革命をやるしか生きていけなくなっています。だから、プロレタリアートこそが革命の主体だと明確にさせることが重要です。そして、労働者は勝てるんだという事に我々が確信を持つことが重要だと思います。
  『共産党宣言』の核心は、プロレタリアートが勝利する為には労働者階級の党が必要だという事です。だから、革共同の真価が今本当に問われていると思います。綱領草案と一体で、今一度『共産党宣言』を学習し、マルクス主義で武装したいと思いました。6・13をはじめ、6000万プロレタリアートをマルクス主義で獲得したいと思います。

【I】

 まえがき部分を時間かけて提起されて、“あらためて”学ぶということの重要性がつかめたような気がします。まだ「重要だ」ということがわかっただけなのですが、“党”の宣言として出ていること、問答でなく宣言として出されていることも含めて、でかいのだと思います。
  資本主義のおどろくような生産力の発展が、プロレタリアートの存在なしになかったこと、このプロレタリアートこそが最大の生産力であること。そして、プロレタリアートが成長し、「ブルジョアジーには何もわかっていない」ということを知るということのすごさ! 本当に今がその時と重なります。
  「『資本論』を書く20年前に『労働者階級は勝利できる』と言い切っている。これは労働者の思想なんだ」という講師の提起が、空気入りました。次も楽しみです。

【Q】

 封建時代の農民がどんなに一揆を起こしても、「自分が社会の主人公である」「農民が社会を動かしている」という発想にはならなかったという提起に、最初はピンとこなかった。封建時代の農民と資本主義下の労働者がどう違うのか? なぜ、労働者だけが革命的なのかを改めてつかんだ。@資本主義の発展とともに闘争が発展するという点(闘いの中で労働者自身が力を自覚し、党を建設していくということ)、A資本主義の発展とともに労働者が“世界”“社会”をつかんでいくということ(鉄道、インターネット等)、労働が社会的であることを改めてつかんだ。
  労働者が団結したすばらしい賃労働はない、という点は、学生にも通ずる問題である。今の監獄大学下での自由なサークル活動、研究なんて存在しないということ。この中から大学で生みだされている現実は、やはり闘いの中から生みだされ、監獄大学自身が、自身の墓掘り人を生みだしていること−ここに革命性があると思った。

【i】

 ○まず学ぶにあたって、『共産党宣言』を学ぶことについて、現在の情勢について実践的に根本的に立ち向かい、綱領草案を生きた武器として使いこなす為に深化発展させていく為に学ぶ→あまり深く考えないで、マルクス主義者として自己変革する為ぐらいにしか思っていなかった事に徹底的・自己批判している。実践する為にここを徹底的に学ぶ、ここが問われていると思う。闘う中で『党宣言』を主体化していこう。
  ○マルクスでさえも、共産主義者同盟とかかわり思想闘争を繰り広げたが、この労働者組織を理論的に獲得することによって、自分たちも労働者階級に獲得され階級移行したということに感動した。私も、労働者階級にもまれ学び、実践を通して6・13につなげていくことに確信を持った。
  労働者階級は、闘いを通して革命的存在であるということがよくわかった。労働現場にいると、労働者は損得なしに怒り、現場を破壊して辞めていくことに出くわす。この人たちと怒りを共有して、共に闘えなかったことを恥じている。労働者を信頼し、絶対に立ち上がることを確信して、ここと格闘しながら実践していきたい。
  資本主義が終わり、革命が問題になっている今、革命の主体として自己変革を勝ちとり、絶対革命に勝利したい。その為に『党宣言』を徹底的に実践的に学んでいきたい。この党学校で自分の未熟さにガッカリさせられるが、ここで食らいついていきたい。

【t】

 こういう読み方があるのかと驚きました。「マルクスは獄中に入って勉強するもの」と言われ、獄中に入る機会のなかった私は、キチンと勉強することなくきてしまいました。1人で学んでいた時は、共産主義者としての「教養」的な学び方でした。
  今回の学習会で、マルクス・エンゲルスが、現実の階級攻防の中で徹底的に論議し、苦闘し、党に結集する、革命の主体へと飛躍する中で書かれた宣言である、という講師の話を聞き、納得しました。自分と同じ階級闘争の中で苦闘する人間としてマルクスをとらえた時に、現実の階級闘争の武器として『宣言』が使えるんだと理解。
  私は、「共産主義者の政治的結集体」として党をとらえる場合、かなり「自覚した個人が結集する」的に考えていました。そうではなく、労働者階級のブルジョアジーとの闘争から共産主義は生まれる。それをやり抜くために共産主義の党が必要であり、共産主義の党ははじめから、労働者階級の団結を基礎に形成される、という指摘にハッとしました。徹底的に現場の闘いに依拠して党建設をしていくということの意味に確信をもちました。
  インテリが労働者に革命の理論を与えるのではなく、マルクス・エンゲルス自身が労働者階級に獲得されたんだ、ということも新鮮でした。
  昔読んだ時と違って、何故、『宣言』が今の現実にピッタリとあてはまるのか、ということも、新自由主義の攻撃が、「工場法以前の」むき出しの搾取・抑圧に回帰せざるをえないほどに危機であること、初期のブルジョアジーが掲げていた「理想」も掲げられない。労働者階級の怒りがストレートに権力奪取として爆発せざるを得ないということも確信。
  何よりも、革命の主体はプロレタリアート、ここをゴリゴリと確認したことも空気入りました。この確信で、6・13に向かって頑張ります。

【E】

 非常に詳しく提起されましたが、正直いうと、討論以前の提起そのものには少し不満でした。“プロレタリア階級の歴史的勝利性”ということ、その核心について十分提起されているとは思えなかったからです。討論を通じ、また、提起者の回答を通じて、やっと鮮明になったかな…というのが感想です。
  “労働者階級の闘いの団結の発展”という場合、あまりにも周りに体制内労働運動とダラ幹が多いので−6・13の組織化にも関係してきますが−ともすると、階級的労働組合運動の形成と発展に勝利の確信を持ち続けることが揺らぐことがないとはいえないと思う。討論の中で、“バイト仲間の間でも、経営の営利追求のための労働者分断政策に対して、逆に、仲間として団結していこう”というオルグに成功しつつある話を聞いて、4大産別や正社員でなくとも、あらゆるこうしたオルグを通じて“労働者階級の団結の強化と発展、社会の主人公から革命へ”の信念を日々固めるためにも、実践していきたい。

【Z】

 『共産党宣言』の文章と『甦る労働組合』の文章が重なって読めた。中野さんが、資本家と労働者は階級的に非和解だという立場に立って反合・運転保安闘争路線を確立した過程も、『共産党宣言』の思想が根底にあるのだと実感した。
  講師の話で印象に残ったのは、『共産党宣言』がマルクス・エンゲルスの個人的著作ではなく、「共産主義者同盟」の綱領的文書として書かれたこと、歴史的な文書であるという点だ。
  前回、革共同の「綱領草案」を学習し、これが現代の『共産党宣言』だと我々が言っている意味も、階級闘争の到達地平としてとらえる観点が大事だと思った。
  発言したが、充分意味が伝わらなかったかもしれないので、つけ加えたい。
  革共同が(私が)真の労働者階級の党として飛躍していくことを求められているが、労働者は本当に闘いに決起した時にものすごい力を発揮し、団結する−このことを本当に信頼することだと思う。
  自分の職場の話をしたが、それは労働力商品として、資本は本当にいつでも首を切り、取り替えができると単純に考えている事実だ。労働者は怒っているが、たとえパートでも団結できると確信している。
  改めて『共産党宣言』を学び、ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利はいずれも不可避であると実感した。

【U】

 今までは賃労働とは何かから考えていた面があるが、今日の最後の方で言われた「労働者が革命的に団結した時、賃労働は成立しないんだ」という説明には、ハッとしました。
  ブルジョアジーの登場を唯物論的にがっちりと押さえ、我々プロレタリアートのなすべき歴史的使命(階級なき社会の建設)をしっかり踏まえる重要な学習になりました。
  労働組合を労働者階級の団結体として甦らせ、革命勝利への共産党宣言として実践していきたい。

【M】

 1.党学校2回目、改めてマルクス主義の学習の意義ということを再確認しています。端的に新鮮です。このことは、おそらくスターリン主義によるマルクス主義の歪曲から、私もわれわれも、これまで自由ではなかったことと重なるのではないかと思います。
  反スタという事が改めて決定的なことなのであり、綱領草案的地平から再度学び、組織することが必要なのであると思います。
2.カクマルの世界に『宣言』が全く存在しないことの意味がよく理解できたと思います。階級闘争から離れたところに『宣言』はない。カクマルは最大限に良く言って、思想的自覚としての革命運動ですが、『宣言』は労働者階級のプロレタリア革命の貫徹への文字通りの宣言です。
  マルクス主義の歴史的復権ということが実際の課題になっていると、てらいなく言える気分です!

【j】

 自分も、レジュメ10nから11nにかけての所が、何が言いたいのかよくわからなかった。討論を聞いていて、やはりわかったのかわからないのかよくわからないのですが、何となくわかったところもあります。
  多くの地方的なたたかいはどこでも、一様な性格をもってきているので、お互いに連絡がつけば容易にひとつの全国闘争、一つの階級闘争に統一されるとは、よくもまあそんな簡単に言ってくれるわと最初は思いまして、地方的なたたかいは全然違うとまでは言わないが、連絡がつけばすぐ一緒に闘えるなんていうのはウソだろうと思ったわけです。だって、ものすごく大変だし苦闘するじゃないですか。現時点、自分もその1人だし。
  要するに、これはアジテーションなんですか。共産主義者向けに書いたのでなく、全労働者に向けたアジテーションだと考えれば、まだ納得はいくわけです。闘いの中で、労働者の前衛たる革命党並びに党員(共産主義者)がどんな者かについては、2章以降に書いてあるのですか。だとすれば、自分が結集したてのころは1章の方が面白くて、今は2章の方が面白いと思うのもうなずけるわけです。
  だとすれば、自分は1章については、これをもって大衆にアジテーションしなければならないわけですから、その観点からいえば、これを執筆したときの特にマルクスが多分そうだったように、テンションをもっと上げていかなきゃいけません、というのが今日の感想です。歴史だって主体的に語ると一番面白いし、意味があるわけですから。
  また、「質問しようかな」と思ったら、質問した方がいいのだと思いました。

【a】

 今回の提起は、「労働者階級こそが、これまでの階級社会の歴史に終止符を打つ存在である」という結論が、『宣言』の第一センテンスから最後に至るまで貫かれているということをはっきりさせたという意味で、極めて重要だったと思う。
  討論で、「労働者階級は、最初はブルジョアジーの政治目的に利用されるだけだったのが、経験を学び、(マルクスのような)インテリゲンチャも獲得しつつ、自分の歴史的使命を自覚するまでに成長する階級である」ことが確認されたことも重要だった。労働者は、経験によって学び、慣れることができる。
  最後に、「プロレタリアートの勝利は不可避である」という確認もまた重要である。ブルジョアジーはプロレタリアートを敵視しているが、プロレタリアートなしには1日たりとも生存できない。プロレタリア革命が成就せず、その結果破滅的な戦争で人類そのものが滅亡するか、少なくとも資本主義社会の存立条件すらも破壊されてしまう(「北斗の拳」の世界)ような事態にならない限り、プロレタリアートは必ず勝利する。そして、政治権力を奪取したプロレタリアートは何をするのかという課題は、次の2章で述べられる、という構造になっていると思う。

【d】

 新訳『共産党宣言』の第1章・冒頭は、最重要の歴史観である。そこでは、「これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」からに始まり、「ブルジョア社会は、封建社会の没落によって古い階級を新しいブルジョアジーという支配階級におきかえたものにすぎない」と断言している。これらの13行は、これまでの「全人類史解説」の核心的部分を短文で端的に言い切っている。したがって、第1章・末尾の結語は、必然的に「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は不可避である」と締め括られている。
  ここが、この主張こそが、共産主義への入口であり、この歴史観に合点しないならば、次へは進めないとも言うべき、一丁目一番地と思われる。この第1章・冒頭13行の短文は、以下の3つの問いに対する回答を次のように与えている。
@われわれは、どこから来たのか?
Aわれわれは、何者か?
Bわれわれは、どこへ行くのか?
  『共産党宣言』の回答は、
@われわれは、資本主義社会の形成過程で新たな被支配階級として生まれて来た
A資本主義社会の賃金奴隷であり、同時に資本主義の墓掘り人・プロレタリアートである
Bわれわれは、自らを解放すると共に階級社会を絶滅させる共産主義社会へと進み行く
  私が担っている闘争の主要なひとつに、獄中35年の星野文昭さん奪還闘争があります。星野さんは獄中からの全てのメッセージに、必ず次のように述べています。
  「資本主義・帝国主義を打ち倒して、自らの手にすべてを奪い返して、全世界を一つに解放し、共同社会を築いていきましょう」「労働者人民の団結した力をどこまでも信頼し、その力で、誰もが喜びをもって働き、生きられる、人間本来の姿、社会を取り戻し、実現しよう」と。
  これはまさしく、星野闘争を担うものにとっての星野版『共産党宣言』と思います。

【V】

 学習の意義−これは重要な考え方だと思う。今だからこそ! 労働者階級の置かれている現実と階級の怒りとどう結びつけて、労働者階級を獲得していく事を実践することだと、『共産党宣言』はいかに階級をマルクス主義に組織する事だと! そして、自分自身のマルクス主義者=党宣言の内容が階級に通じるのか? どうかと? オルグする内容として学習し(聞き)ました。現在、労働者階級は資本に対して怒っているけど、決起(ビラを受け取る)していないギャップを感じています。それを乗り越えて活動を楽しく生き生きと示す事が、今精神的に必要だと思っています。『宣言』の言葉−内容で、階級をオルグしていきたいと思っています。
  「労働者階級だけが革命的階級だ」という項目がありますが−現に闘っている農民などでもなかなか通じない面もある−それで労農同盟の強化−発展としてとらえるという事だと思います。『宣言』の言葉−用語の使い方も、オルグする時に非常に気になります。

【C】

 『宣言』について、今日的、新自由主義の中で、極めて現代的な党の、労働者階級の党の宣言として重要であることを再確認することができた。
  それは、「労働者階級の解放は労働者自身の事業である」ことを、現代という時代において実現していくこと、改良主義ではなく、革命を労働者階級自らの手で実現することの現実性を明らかにしている。
  まさに新自由主義の中で、ブルジョアジーはむき出しの攻撃を労働者階級に向けている。「工場法」以前の状態にすることで、労働者が今まで資本の許す範囲でであるが、かち取った権利すら奪い取る大攻撃がかけられている。そのひとつが、国鉄1047名の解雇であり、その解雇撤回の闘いを破壊する和解策動であろう。このようなむき出しの資本主義攻撃に労働者は黙っているのか?
  労働者は、資本主義社会の中で、自らの職場の中で、いかにデタラメで悪質な合理化や不法により、資本を儲けさせているかを体験し、それを理解している。そのあり方を知っ
  ているからこそ、労働者が団結し、自分たちが権力を握ることの正しさを、また資本主義には先がないことを、大きな声で呼びかければ、団結を広げていけば、革命は可能なのだということを言える時代だということを、真正面から言える時代である。現代において『宣言』が、あらためて労働者の解放の書だということを、語っていく必要を感じている。

【N】

 『共産党宣言』を学びなおす。「古典」を学ぶというよりも、今現在の情勢に実践的に立ち向かうために学びなおす事が必要だと書いてありますが、「討論」での意見を聞いていて強くそう思いました。
  『共産党宣言』は、マルクス・エンゲルスが労働者階級の勝利の為に書いた「宣言」であり、今日までの階級闘争史と、資本主義社会の形成について明らかにし、ブルジョア階級を暴力革命で打倒して、労働者階級が権力を握り、社会を運営すべき任務がある事を提起しています。この『宣言』の提起により、労働者階級の闘い方、獲得目標が鮮明になり、勝利の道筋が明らかになりました。
  「6月大運動」の実践に、今日の『宣言』の学習をより深めて一体で強めていきたい。

【u】

 今日の提起と討論で、『宣言』の読み方、理解が圧倒的に転換されました。これまではどちらかというと、実践(労働運動)の側から『宣言』を「あてはめて」読もうとしていたところがありましたが、『宣言』そのものが非常に実践的であるということに、今さらながら気付かされました。
  「妖怪」でしかなかった共産主義を、労働者階級を圧倒的主体においてとらえ、明らかにしていく。まさに全世界の労働者に共産主義運動を理解してもらい(?)、組織し、団結させていくことに徹底的に立ちきったものであると理解しました。
  まさに、プロレタリアートの闘いの発展段階でその歴史的地平を総括し、これからどう闘いを発展させるのかということで、「獲得されたひとつひとつの勝利はすべてブルジョアジーの勝利となる」と書いたことは、決定的だと思いました。(私なら「プロレタリアートの勝利となる」と書いたと思います。)労働者階級の闘いに応じて、「本当の敵は何なのか、本当の勝利は何なのか」をはっきりさせるものとしてあったのだと思いました。
  最初から労働者は革命的に闘ったのではないということと、しかし、資本主義の発展の中で労働者は必ず革命をやり遂げる力を得る(その力がある)ということ、現実(現在)の労働者の力に規定されて、労働者の革命性を否定してはならないということがわかりました(というか、現実の闘いからだけでなく『宣言』そのものから明らかにしていくべきであるということ!)。
  あえて6・13の実践に引きよせて言うなら、本当に6000万(2000万)をプロレタリア革命に獲得していくための我々がかちとらなければならない転換を、『共産党宣言』(当時のマルクス・エンゲルス)が示しているととらえました。

【F】

 @今日の提起の全体を貫いていることですが、『宣言』の歴史的背景として、「正義者同盟」以降、ヴァイトリングらとの論争があったことに焦点があてられることによって、『宣言』全体を労働者階級の歴史的運動を明確にしたものとして、『あらためて学ぶ』ことが非常に大事だと思った。
  それは、「妖怪」という言葉の使用の問題から、そもそも「党宣言」とした問題意識などですが、労働者階級の政治的成長の問題についての討論で、非常にはっきりしました。
  まだ、その論争自体、私はつかめていないのですが、キリスト教的友愛や、貧民救済論をにじます貧民革命論などとマルクスがやり合いながら、とことん労働者階級こそが革命の主体であることをはっきりさせてきた雰囲気が伝わるものがあり、その点をつかんで『宣言』を学び直すことが非常に大切だと思うし、マルクスの核心に迫るものだと思いました。
Aまた、<生まれでたばかりの資本主義>という状況の中で著されたものだということも、非常に感銘をうけました。とことん階級的非和解性に立脚する(ラッダイトの評価も!!)ことが、マルクスの根底的立場で、本当に今日の闘いに通じます。
B少しそれますが、「労働者の団結した賃労働はない」というのも、体制内労働運動のヌエ的、ペテン的姿勢の批判として考えると面白かったです。資本主義成立の前提が労働者間の競争、団結が革命!!
  ところで、今まで、『宣言』に至る論争は、党的にはどう考えていたのでしょうか。また、「共産主義の原理」(エンゲルス)−『宣言』の関係など、もっと聞きたいと思った。

【b】

 大学キャンパスでも『共産党宣言』で組織し、ストレートな決起が開始されているとのことですが、ポケットに入れて青年労働者を組織して回ったという、動労千葉・中野顧問のたたかい等に学びつつ、ガンガン労働者の中へと分け入っていきたい。
  『宣言』が、文字通り労働者階級を主語にした、階級自身の宣言として出されたことは決定的です。労働者階級のたたかいは、「よりよい搾取」を求めるものなどでは断じてなく、階級社会をついに全面的に廃止できる階級なのだ!と。
  今日、ブルジョアジーの存在は、もはや歴史の発展の桎梏でしかありません。労働者階級の革命的な意義を否定し、歪曲するあらゆる勢力(階級をぬきに“自動的に‥”などというスターリン主義だったり、あるいは「共産主義者宣言」などと言って、労働者の団結をおとしめる者だったり)と対決し、『宣言』で組織していくぞ!

【H】

 1.講師の講義が非常によかった。かなり大部な全面展開だったのだが、用意されたレジュメもわかりやすく編集されていて、時間を感じさせないほどグイグイ引っ張っていく、また、おもしろい講義であった。
  内容的に(講師も言われたように)、昔のように「歴史書」的に細かく内容(エピソードや歴史的事象なども)を出していきながら、革共同綱領草案「プロレタリア革命は、労働者自身の事業である」のガイストにがっちり踏まえた、「労働者自己解放論としての『党宣言』」とすることに成功していた。これは、かなりすごいことだと思う。
  総じて、「早く、次回を聞いてみたい」と思う講義だった。
2.一番感動したのは、マルクス(エンゲルス)が、「共産主義者同盟を獲得するために『党宣言』をあらわした」ということ。
@これは、本体レジュメの1n冒頭で、「大事な問題」と明示しながら書き進めている。さらに、別紙資料4nに「…『イギリス労働者階級の状態』『聖家族』『ド・イデ』『哲学の貧困』もすべて、この同盟を獲得していく関係でなされている」とあるが、講師も強調していたように、この「獲得し、獲得される」格闘の中で、マルクス(エンゲルス)が、マルクス主義者になっていく飛躍がかちとれていったのだと、今日の学習で鮮明になった。
Aこのことは、我々自身の6・13闘争の勝利に向かっての格闘としてただちにあてはまる。この間言われている、「4者4団体派を批判しているだけでは問題にならない。どう国労本体を獲得するかだ」そのものである。そういう意味でも、今日の学習を6・13大結集の決定的な武器に生かしていきたい。
3.ほか、省略しますが、自分としてよかったなと思っていること。
@「ブルジョア社会とはどういう社会か?(その歴史的意義)」は、質問・討議含めて重要だった。
A党「宣言」VS共産主義者宣言(レジュメ2n)も、あらためて重要である。この内容は、塩川一派打倒の内実をつくるものでもある。
Bレジュメ15n上と15n終わりから16nに書かれている、資本主義論は、生の文章でそのまま162年後の今日あてはまることである。このすごさに本当に感動した。
  その上で、ドイツ農民戦争のことを少しふれて教わりたいと思いました。

【y】

 労働者階級が発生し、闘う中で団結し、成長していく中で、政治権力が問題になる。そのためには、政治闘争という形態になっていくし、労働者階級が目的意識的に党に結集していき、闘うのであるということが、とてもわかりやすく提起されていました。
  今の日帝ブルジョアジーや民主党・連合政権、米帝などの崩壊ぶりと、我々の国鉄、法大、三里塚、沖縄などの闘いの到達地平を見て明らかなことは、私たちが労働者自己解放の闘いを通して支配階級にならなければならないということです。そのための団結の形成に、党は全力をあげなければなりません。この、団結をつくるという闘いが、党をつくることにもなることを、今日つかみました。
  私たちはまだまだ小さな勢力ですが、6・13集会はブルジョアジーとプロレタリアートという非和解的に対立している二大階級間の巨大な政治闘争(政治決戦)として、取り組まねばならないなと思いました。

【f】

 まず、今日の講義を聞いて、『宣言』自体が最初発行されるときは、マルクス・エンゲルスの署名ではなく、共産主義者同盟の名で出されたことをはじめて知りました。僕としては、とてもうれしい事実でした。当時の組織が自分達の組織の責任で、労働者階級に闘いを呼びかけ、団結を呼びかけている、『宣言』を出したのがそういう組織であったこと、労働者階級が1848年時点で、すでにそういう組織をつくるまでに至っていることに空気が入ります。革共同の「綱領草案」とそっくりです。
  あと、自分にとって『宣言』は、過去にこういう闘いがあったという書ではなく、現在進行形で動いている今の情勢を労働者階級はどのように総括するのか、ということが書かれている闘いの手引き書(?)のように感じています。
  マルクス、スゲーというのではなく、この書をつくり出せた労働者階級がスゴイと、今日なれたことが、うれしいです。
  最後に、最近、マルクス伝ぽいのを読んでいるのですが、弁証法的に物事を考えるのはイイですね。気に入りました。

【O】

 今日の受講の前に岩波文庫版を読んできました。たしか、学生時代に読んだはずだが、冒頭と結語以外全く覚えていないし、身にもついていない。しかし、動労千葉・中野顧問の『甦る労働組合』の随所にある、簡潔で的確な表現は『宣言』だったのだと知った。私が覚えていないのは、階級闘争にも立たず、階級意識もなく過ごしてきたからに他ならない。こんな労働者もいるのだから、これは党員として迎えたら、組織で即学習会すべき内容だと痛感した。
  マルクス、エンゲルスの著作ではなく、労働者組織の論議を経た綱領でもあったことも、階級としての党の必要性を、党の登場を宣言するものとして今改めて納得できる。よく言われる“160年も前の資本主義の誕生期に今日の大恐慌と労働者階級のますますの貧困化を予言した天才”のマルクスではなく、労働者階級に立って労働者と共に、その誕生からむき出しの暴力的姿をあらわにしていた資本主義をえぐり出し、これを打倒する主体としてのプロレタリア階級の決起を促したリーダーだったのだとわかった。
  現在の階級情勢の下、自国のブルジョアジーをまず片づけなければならない私たちは、日帝の戦後労働運動壊滅攻撃という国鉄1047名闘争「和解」策動に、階級の死活を賭けて6・13集会に全力で立ち、オルグしよう。職場の仲間には、「1047名って何?!」のレベルに切り込んで、労組、労働運動のあり方、非正規職化による多様化、財政赤字の口実による賃金・ボーナスカット、査定給による分断を明らかにし、職場労働者の怒りを組織しています。知り合いのJRの若者が抱える将来の生活への不安、外注化による多様化と安全崩壊への危機感に訴えて、東労組の中に動労千葉労働運動への共感と支持を得ているところなので、6・13集会に是非参加してもらうつもりです。『宣言』を今、現場の労働者に!!

【X】

 1)今回の提起の核心の一つとして、(いわば)「労働者階級によるマルクス・エンゲルスの獲得」という契機があったことを、『党宣言』の確立過程の中からつかむという点があったと思います。このことは、提起の全体の中で、また随所でもあったと思いますが、党建設(反帝・反スターリン主義の、あるいは階級的労働運動路線を貫く党建設)を進めていく上で、非常に重要なポイントになるとあらためて確信しました。
2)上記の点と関係あることですが、『党宣言』を「宗教問答形式」を“否定して”、“宣言”として出していったという点も、今日的に捉え返して党建設を進めていく上で重視しなくてはいけない点だと思いました。これは、「労働者階級への限りない信頼」と密接に結びついていると思いました。「労働者階級自らの主体的事業としての革命とその党建設」を進めていく思想的な核心だと思います。
3)「革命の主体が形成されてから革命をやるのではなく、革命運動の中でこそ革命の主体が形成されていく」という点などと併せて、今回の提起が、反スタの契機から今日的に重要な内容を持っていたと思います。この数年間の実践的格闘が反映された提起として、感動的に受け止めました。

【R】

 今回の提起ではっきりしたことは、『宣言』とは、労働者階級がこの社会をブルジョアジーを打倒して、権力を握る力をもったものであり、その闘いは必ず勝利することはできるのだということを明らかにしたということでした。決して単なる歴史の見方という次元ではない、労働者階級は次の時代の主人公という一般的時代認識の書ではないという意味で非常に衝撃的でした。
  これについては、次の点が印象的でした。
  ひとつは、『宣言』は「連続討議」での論争を通して、これに勝利してまとめられたものだということです。当時の労働者階級の必死の闘いがあり、この中から勝ちとられたものでした。
  ふたつは、革命の主体としてのプロレタリアートが軸になっているということです。
  「あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」−この中味は、「労働者階級は階級社会を打倒(廃止)する存在」ということが核心である。この点を明確にすることを通して、これまでの歴史においては、「階級と階級の非和解的激突というのはなかった」ということの意味と、それが今日において始まっていることの決定的性が鮮明につかめることになった。

【P】

 提起と討論を通して、革命的階級としてのプロレタリアートの階級形成ということが、核心的に深められたと思います。
  「闘争の最初の成果はブルジョアジーのものになる」という歴史的過程を、プロレタリアートが未だ正しい方針を持ちえなかった未熟な段階として捉えるのではなく、そうした歴史的な過程を通して、プロレタリアートの闘いは前進し、革命を達成する主体の条件を形成していくのだということとして捉えることで、『宣言』がプロレタリアートの革命的な力を確認するものとしてつかめることになるという事は、『宣言』を『資本論』と一体で、現代に復権するという課題にとって決定的に重要だと思います。
  綱領草案をかちとり、6・13と新たな大運動を提起する中で、いよいよ革共同が階級に全責任をとり、獲得していく事が問われていますが、それと一体で、『宣言』などのとらえ方も深められていく過程が始まっていると感じました。
  討論でも出されていましたが、重要なのは、スターリン主義の根底的な対象化=批判であると思います。その点をさらにハッキリさせていけば、『宣言』がもうひとつ大きな獲得力を発揮する(そういうものとしてわれわれが提起できる)と思います。核心的には、プロレタリア独裁権力樹立として提起される革命の直接の獲得目標を、スターリン主義がいかに歪曲しているか?という事をハッキリさせていくことだと思います。“暴力”を“強力”に、“独裁”を“執権”に歪曲するスタを徹底的に批判する中でこそ、革命をやり遂げる階級としてのプロレタリアートの力がハッキリする。そして、それを通して、スタの裏切りに根本的な成立の基盤がある、あらゆる中間的な思想との間にも決着がつけられていくと思います。
  6・13と大運動から始まる階級闘争の一変と一体で、理論闘争の決定的前進を勝ちとりましょう。

【g】

 150年前の労働者の闘いの中から『共産党宣言』は発せられた。労働者が権力を握る! ブルジョアの支配の崩壊とプロレタリアの勝利は必然である! 労働者の運動における目的意識の表現こそが党である。当時の議論の中からも、そのことが伝わってくる。プロレタリアート以外の階級は、すべて歴史の歯車を逆行させようとする中に利害を見いだす。プロレタリアートは、最終的に勝利するまでは常に団結を破壊されながらも、党を媒介しながら新たな団結を形成して闘いに立ちあがる。
  そして今、団結の強化・拡大こそが目的であるという動労千葉労働運動の中に、新自由主義下の闘いに突入した。6・13大結集運動は、労働者の利害を徹底的に貫いた路線のもとで、国鉄1047名闘争、反合・運転保安闘争を水路に、労働者と労働組合の革命的な決起をつくり出そうという闘いです。まさに現代の『共産党宣言』としてあると思います。資本主義はついに最後のときを迎えている。全国に発せられた呼びかけは、労働者が階級決戦が来たことを告げ知らせる魂からの呼びかけであるし、同時にそれはまた、労働者の闘いの帰すうを決める党を建設しようという呼びかけでもある。『共産党宣言』はついに現代によみがえったのだと思いました。

【J】

 『共産党宣言』は読めば読むほど、自らの階級意識を高め、共産主義社会の実現に向けて空気が入りまくります。今日、質問した内容は、自分の中でも「今の時代をどう見るか」ということにつながると思いました。
  講師の方から「プロレタリアートは昔は、ブルジョアジーのしっぽにぶら下がっていたけれど、本来プロレタリアはブルジョアジーとの闘争の中で、自分たちこそが社会を動かし、すべての階級を獲得する力をもった存在だということをつかんできた。そういう階級なんだ」と話がありました。そのことを聞いて、自分はこの大恐慌情勢をどう見るのか、どう闘っていくのかが重要だと思いました。
  すなわち歴史的に見れば、プロレタリアートの勝利は、ブルジョアジーの手によって潰されてきた歴史でもある。しかし、今は違う。
  資本主義(帝国主義)体制は、最後の姿として、我々に襲いかかっている。しかし、それは同時に、プロレタリアートの階級的団結が強固に形成されるなら、今すぐにでも世界革命へ突き進む準備はできている。世界のプロレタリアの闘いが、そして日本のプロレタリアートの闘いが、そのことを示している。これが、まさに「革命情勢」だということですね!! その先頭に日本の動労千葉がある。1047名がある。法大−三里塚−沖縄がある!!
  今日の党学校で学んだこと、つかんだことを、キャンパスで、オルグで自分の言葉で言えるようになりたいです。というか、なります!! 次回も、よろしくお願いします。団結!!
〈追加〉
・「まえがき」部分で、『宣言』は、マルクス・エンゲルスの個人的著作ではなく、組織的に書かれたものだということに、あらためて、マルクスの目的意識性の鋭さを感じました。
・「プロレタリアートこそが真に革命的である」という点についても、頭では理解したつもりでいたのですが、理論的につかむことが重要だと思いました。大衆との間でも議論になる部分なので。
  やはり、資本主義社会は社会主義・共産主義への道をたしかに切り開いた。しかし、今や完全に社会の桎梏となっている。ここを大衆がつかんだら、とてつもないエネルギーになるし、核心だなと思いました。
  なお、次回第2章は、「私有財産の廃止」→共産主義の目的という部分についての講義を特に楽しみにしてます!!

【S】

 個人的には党の革命以降、初めての『宣言』の学習会でしたが、『宣言』が書かれた歴史的背景を初めて聞いて大変おもしろかったと同時に、ここで書かれている事が、まさに今我々が直面している資本主義そのものだという事がとても嬉しく思いました。
  党宣言か主義者宣言かをめぐる論争問題も大変おもしろかった。私が思ったのは、この宣言に貫かれている階級的団結を総括軸にすることがとらえられるのか否かの論争なのかなと思いました。それは、革命をやる主体となる意志があるかどうか、それは党という階級的団結の最高の組織に自己を従属させるのか否かに集約されるのであり、今日の提起で、マルクス・エンゲルスも共産主義者同盟への加盟をオルグされて主体的に飛躍したのだというのは、とても重要な事だと思いました。
  「共産主義の正体とは、たたかう労働者階級そのもの」というのは初めて聞きましたが、いい表現だと思います。最初の「これまでのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」についても、これから階級社会を打ち倒す宣言だというとらえも新鮮でした。
  「ブルジョアジーの革命的役割」とは、まさにプロレタリア革命の条件と主体を全面的に生みだしたという事につきるし、まさに今の世界こそ、ブルジョアジーがめちゃくちゃに革命的役割を発揮しているのだと弁証法的にとらえる事が大切だなと思いました。
  プロレタリアの闘争の発展について、ラッダイト運動の積極的な意義が確認された事は非常に重要だと思います。
  非常に感慨深いのは、「プロレタリアートだけが真に革命的な階級である」という『宣言』の提起を、初めて素直に文字通りそうだと思って読むことができた事です。この規定そのものが、当時の2年間にわたる激しい討論の結論なのだと言われて、本当にそういうもんなんだなと思います。
  今回の新しい発見は、1章の最後の2段落がおもしろいという事です。昔の私は、ほとんど読み飛ばしていた事に気付きましたが、まさに今の資本主義を正確に射ぬいた内容であり、動労千葉・中野顧問が訴えた階級的労働運動のエッセンスなんだと思いました。
  マルクスも想像しなかったほどの革命情勢に全世界が突入している!と、労働者が階級として自覚する事ができる武器が、この『共産党宣言』なのだと思います。

【D】

 『共産党宣言』が1847年、共産主義者同盟がマルクス・エンゲルスに執筆を依頼し、革命をめざす労働者組織が「共産主義とは何か」を真剣に討議する中からつくられた綱領ということですが、今の私たちがおかれている現代にぴったり合っていることに驚きでした。
  資本家は労働者を食わせていくことができない段階にまで至った。資本の生き残りのためには、今まで労働者が勝ちとってきた労働条件、社会保障など全てはぎとって、労働者をさまざまに分断し、団結できないようにしている。レジュメの中に「百年たらずのうちにこれまですべての時代をあわせたよりも巨大な生産諸力をつくりあげた」とある。それをブルジョアジーが独占し、プロレタリアートが生きていけないような社会をつくり出している。労働者が生きるために立ち上がる時代、「働く俺たちが社会の主人公」だという声は、怒りとセットで入る時代だと思います。
  党の綱領は、この『共産党宣言』を土台とし、動労千葉労働運動の実践の中からできたものと聞いています。まだまだ『共産党宣言』を読みとってはいないというのが実感です。がんばります。

【L】

 講師の提起どおり、『共産党宣言』を「もうわかっているよ」という態度でなく、“あらためて”、“ストレートに”学ぶことが大事だと思います。@だから、J同志の質問と、それへの回答としての討論は非常に重要でした。『宣言』(とりわけ今回のテーマである第1章)は、労働者が、階級として団結し、力をつけて、ブルジョア支配を打倒して、名実ともに自分たちの力で社会を運営していこう!と呼びかけるために書かれたのだということが、より深まりました。第1章の第一文「これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」の“これまで”という一言は、(「自由・平等」な今でも階級対立が存在しているという確認もありますが)何よりも“これからは…階級対立を止揚する!”という宣言です。その点と、質疑応答ではっきりした、「労働者は、資本主義の中で、はじめはブルジョアジーの尻についていたが、今となっては理論も組織も自らのものとして獲得した」という「労働者には力がある!」という本質論ががっちりかみ合いました。
Aなぜ160年も前の『宣言』が通用するのか。それはひとつに、当時のありのままの資本主義の姿を見て書かれたということと、ふたつに、とことん弁証法によって書かれているからでしょう。「労働者には力がある!」「今こそ党へ!」というものでもあるからだと、改めて整理されました。やっぱり、『宣言』大好きです!
B次回が楽しみです。『宣言』の目的にも、第1章の内容にも、党の必要性が訴えられています(『新訳・共産党宣言』p27の「プロレタリアの運動は、〜、自立的な〜」という所にもにじみ出ていることに気付きました)。階級闘争を見、党の必要性がはっきりし、階級闘争に決着つける宣言がなされた(第1章おわり部分で)、もっと党にひきつけた第2章に移れますね。
  以下、質問です。
@資本主義以前の階級が、なぜ支配階級を倒すことを目的にしないし、できないのか。
A封建領主が、ブルジョア社会でも生き残る(特権維持)ために、農民をたたき出したとありましたが、どんな特権ですか? いずれ打倒されるのに、なぜそんなことをしたのでしょうか?

【G】

 ○「圧倒的多数者の利益のための、圧倒的多数者による自立的な運動」がプロレタリアの運動である、という部分は、ちょうど今とり組んでいる1047名闘争をめぐっての事と重なった。「当該が闘えないのだから、闘争は和解が現実的」とキャンペーンされた国鉄闘争が、実は4者4団体の幹部による裏切りで、事実とちがう事を、この間ますます実感している。解雇撤回こそがプロレタリアの階級の利益を貫き、圧倒的に街頭でもカンパが集まり、組合でも支持の声や賛同が集まっている。感動している。
○「プロレタリアは、守るべき自分のものなど何一つない」の部分については、自分が一番知りたい所だと思った。革命運動をやっていく中で、自己犠牲的に私利私欲を捨て闘わなくてはならない、と道徳的に思っている自分の考えは、このあたりから始まっているが、どうも自己解放的ではなく、苦しみを修業のように思う自分の考えは、どこかおかしい気がしているからだ。法律も道徳も私的安全も破壊するというあたりを、もう少し知りたいと思った。(道徳的にしばられて先に進めていないのかもしれない。また、法律にも期待しすぎているのかもしれない。現実にはもっと自由でいいのかもしれない。)

【Y】

 1)今日の提起の中から(ムリヤリ、超主観的に)“キーワード”をひねり出すとしたら、「ストレート」「鋭角的」という言葉が浮かんでくる。
  考えてみれば、『宣言』をまともに学習したことがなかったように思う。その一方で、ちゃんと学ぶべき(プロレタリアートの「革命的本質論」ということか)を学びとることなく、今考えれば相当いい加減な「学習会」を他人にたいしてはやっていた。
  2)『宣言』を「ストレート」「鋭角的」に武器にしてきたのか。何かの「実践」のための“参考書”、「将来提起するもの」としてきたのではないか。
  では、これまで長年自分がやってきたものは何だったのか…という思いもある。
  少し自分を弁解して言えば、戦後日本資本主義の「高度経済成長」ド真ん中で、革命の必然性と勝利性を明らかにするのに四苦八苦していたように思う。
3)今日の提起を聞いて思うことは、“プロレタリアートの本質論”として『宣言』を読み、つかみとらなくてはダメだ、ということ。
  それは、「ストレート」「鋭角的」ということと一体である。今こそ『党宣言』をストレートに全プロレタリアートの中へ、ということか。新自由主義の破綻で、資本主義の矛盾・本質が全面的な姿をあらわしている今日、『宣言』(『宣言』&綱領)をそのままストレートに全面的に持ち込む、ということ。その力をつける。
4)最近思うこと。プロレタリアート人民は、本当の自分達のイデオロギーを欲していると思う。すなわち、マルクス主義=『宣言』(『宣言』・革共同綱領)の内容そのもの。将来どうなるのか、どう生きるべきなのか、否、生きられるのか、何を求めればいいのか・・・・新自由主義の破綻(ブルジョア・イデオロギーの今的破綻も含めて)の現状の中で、『宣言』は一挙に全世界を駆けめぐり、階級を形成していける、そういう時代が来ていると思う。

【A】

 ◎古典への誘い。旧世代の人間として新たなる展開を感受しました。マルクスの“追体験”なる読み方をしてきた人間としては、今回の講義は面白かったです。第1回の綱領学習と脈絡が兼あい、プロレタリアートの位置付けが明確にされていると思います。
◎“宣言”におけるマルクス・エンゲルスの役割を飛躍論(運動>労働者<->理論家)として展開されたのは唸りました。
◎“新自由主義”は資本主義の初期における“自由”なるものが“無い”のフレーズは使いたい。「自己実現」なる幻想よりも「自己責任」に全てを転化する“新自由主義”の本質が見えると思います。
  なお、trivia的問題は様々ありましたが、いずれ……

【T】

 資本主義の少年期、まだ生まれたばかりの19世紀に、労働者階級による資本主義社会の転覆=革命と階級の廃絶を宣言したことは、やはりとてつもない事だ。ブルジョアジーが未だ国家権力を握っていない国もあるというのに、こうした宣言が出され、全世界のブルジョアジーはどんなに「震え上がった」事だろう!と思いました。
  旧世界のあらゆる衝突、その中でブルジョアジーに引き入れられるプロレタリアート、1つ1つの勝利が全てブルジョアジーの“成果”になるということ、これらの過程も、労働者階級が天下を取る!と宣言した立場から、そのための成長過程としてとらえつくす、という事だと思いました。講師も強調していましたが、「労働者には力があるのだ」という事だと思います。そうじゃないと、「闘争してもムダ」みたいな事になってしまいます。実は、これこそがブルジョアジーや体制内勢力の狙いなのです!!
  講義と討論を聞いていて、あらためて綱領草案と国鉄闘争−6・13は一体だと実感しました。「現代の『共産党宣言』」はやはり、現代の階級闘争から生まれたという事です。頑張りましょう!