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2009年09月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『資本論』(上)−モスト『資本と労働』を学ぶ−

講義概要 P1-8

★討論から- P9-15

受講レポート P16-28

2008年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-8  講義概要

マルクス『資本論』(上)−モスト『資本と労働』を学ぶ−

前半講義概要 講師村越一郎 

第10期第5回  マルクス『資本論』(上)−モスト『資本と労働』を学ぶ−

【はじめに】

 全3巻からなる『資本論』は、資本主義を倒して、労働者の力で社会主義・共産主義の社会を実現しようと、マルクスが全生涯をかけて確立していった“マルクス主義”の集大成です。
  今われわれがぶつかっている世界大恐慌を資本主義が引き起こして、資本主義の時代もついに終わりがきた。今こそ全世界の労働者が団結してこの資本主義を倒そうということが今の課題になっている。そういう中で、青年労働者を先頭にして新しい決起がすごい勢いで始まっている。今こそ『資本論』でわれわれの闘いをしっかり武装しよう。マルクスは『資本論』を労働者のために書いた。その『資本論』を労働者の手に取り戻して、労働者の今の闘いを本当に勝利的に進めていく、そういう力にしていこう。そのために、何よりも労働者が目を輝かせて『資本論』を読み、学習して、自信をつけてますます青年労働者を、周りの労働者を続々と獲得していく、そういう武器に『資本論』をしていきたい。

【T『資本論』で武装せよ】

●マルクス主義は労働者階級の理論

 「『資本論』で武装せよ」。われわれは『資本論』で武装して、そして革命をやろう、という強い気概を持って、今から20年近く前に仲山良介著『「資本論」の研究』を出版した。われわれがこれまでに、党としてどういう意気込みで『資本論』に立ち向かったのか、『資本論』についてどう考えてきたのかが熱いものとして伝わってくるので、機会があったら読んでほしい。
  この夏、『前進』で夏季特別号論文が出され、それから、今日における革共同の「共産党宣言」だという意気込みで、革共同というのは何を目指し、何を実現しようとしている党なのか、を全ての労働者の前に明らかにしたい、今の情勢に革命を目指して立ち向かっていこう、そういう意気込みで綱領草案を発表した。
  われわれが今、『資本論』で武装しよう、これを本当に今の情勢の中で、労働者の中で、現実にわれわれの力になっていく武器にしていこうという場合には、『資本論』の学習をやればやるほどみんなが活性化して、やる気を起こして自信を持って、運動自身も大きな意味で強まっていく、そういう『資本論』の学習運動になっていかなければ本物ではない。どうやったらそうなるのか、まだまだみなさんと一緒に悪戦苦闘していかないと、簡単に答えは出て来ない。これは、ただの願望ではなく、その必要性がある。
  「大恐慌を革命へ」を、この間大きくわれわれはスローガンとして掲げてきた。夏季特論文でも、この路線的な核心に「階級的団結論と絶対反対論」を据えきって闘っていこうと提起した。資本主義が歴史的に行き詰まって、完全に破綻をきたしている。今こそ全世界の労働者が立ち上がってこの資本主義を倒して、労働者の手で労働者の解放を実現していく、そういう時代、情勢がついに来たと提起している。そうであればあるほど、労働者が自分の闘いに本当に自信・確信を持って、絶対自分たちはそれをやり遂げることができる、労働者にはそういう力があるんだということを、理論をとおしてもどこまで強く確信を持っていけるのかが大きな意味を持つ。
  動労千葉の中野顧問が『甦る労働組合』の中で、労働者が歴史をつくり上げていくことができる、自分の手で歴史をつくり上げていくことができる階級だと言って、労働者をそういう存在として真正面から認めてくれた理論家なんてマルクスしかいない、だから労働者はこぞってマルクス主義者になろう、と書いてたけど、労働者が理論を持つというのはすごいことなんです。
  資本への奴隷的屈服、今現在がどんなにそうであっても、俺たちはそれに甘んじないぞ、どんな過酷な資本の攻撃、支配にさらされても、俺たちこそが本当の社会の主人公で、資本の支配なんて俺たちの手で絶対にぶっ倒してやる、最後の勝利者は俺たちなんだ、こういう強い意志が労働者にあるから、労働者は自分の理論を持つ、持とうということが起きる。マルクス主義とはそういう理論であって、だから労働者の理論なんだ。本当に自分の理論を持った階級というのは勝利します。支配され、搾取され、それで終わってしまう階級であれば自分の階級の理論を持つ必要はない。
  数万人、数十万人、さらに言えば百万人を超える労働組合がみんな、資本や世の中の体制に屈している中で、動労千葉というわずか数百人の労働組合が、絶対にそれは間違っている、俺たちが世の中を変えてやる、と真正面から言い切って、正しい道を真っ向から突き進もうというのは、今でもすごく大変なことだと思う。だけど、それを本当にやり切ってきたのが今の動労千葉だというのは、中野さんの本を読んで強く感じる。そういう意味で、中野さんの本は、現在におけるマルクス主義を学ぶ絶好の教科書と言える。
  世界大恐慌の中で、資本主義を倒して、今度こそ本当に労働者が勝利していく闘いに立ち向かっていく中で、今まで以上にマルクス主義を労働者が自分のものにしていく、自分がやっている活動、闘いに確信を持って、周りの労働者をどんどんオルグして組織していく、そういう力をつけていく、それが勝利を切り開いていくという意味で、今のような時代だからこそ、マルクス主義での武装がすごく重要になってくる。“資本主義が完全に自ら破綻をきたしている、今こそ資本主義を労働者の力で打倒せよ”というマルクス主義の原点、『資本論』の全内容が、改めて今問われている。そういうところに、今われわれは立っている。

●『共産党宣言』と『資本論』−『資本論』を学ぶことの意味について

 マルクスは、『共産党宣言』から約20年後の1867年に『資本論』の第1巻を出版する。そして、1883年のマルクス死後、エンゲルスの手によって1885年に第2巻、1894年に第3巻が出版される。『資本論』は、「『共産党宣言』の思想と理論の科学的深化、発展」であり、「1848年革命以来の革命家マルクスおよびエンゲルスの全生涯をかけた闘いの実践的総括」(『「資本論」の研究』)でもあった。
  『共産党宣言』の段階でマルクスは、今日マルクス主義と言われているような考え方の全体像の結論にまで一旦は行き着いている。だけど、理論ができあがったら革命は勝利できるという単純な話ではない。実際にも、48年の革命それ自身は敗北し、もう一回そこからヨーロッパの労働者の闘いが高揚してくるのは、1860年代。マルクスは、『共産党宣言』を出してから20年もかけて一生懸命経済学を勉強し、よりによって一番忙しいその60年代の階級闘争の、労働運動の高揚の真っ只中で『資本論』の第1巻を出版する。
  マルクスは60年代の階級闘争の高揚に勇気づけられ、励まされて、その真っ只中で20年かけて準備してきた『資本論』の第1巻を一挙に書き上げるというふうになったのかもしれない。革命的な理論とか階級的な理論というのは、そういうものかもしれない。20年間温めてきたものを一挙に形あるものに実現していく。『共産党宣言』で一旦到達した地平を、もう一回徹底的に総括をして深めるべき点を深めて、『共産党宣言』それ自身では突破できなかった大きな課題に向かって、満を持して『資本論』を完成させていく。大きく言えばこういう関係で、『資本論』第1巻が1867年に出版されていったんじゃないか。
  『共産党宣言』で一つの結論に到達していたマルクスが、さらに理論的研究を深めて、約10年かけて到達した結論を、1859年に書いた『経済学批判』の「序言」で次のように言っている。
  「わたしの研究が到達した結論は、法的諸関係および国家諸形態は、それ自身で理解されるものでもなければ、またいわゆる人間精神の一般的発展から理解されるものでもなく、むしろ物質的な生活諸関係、その諸関係の総体をヘーゲルは18世紀のイギリス人やフランス人の先例にならって『ブルジョア社会』という名のもとに総括しているが、そういう諸関係に根ざしている、ということ、しかもブルジョア社会の解剖は、これを経済学に求めなければならない、ということであった」
  マルクスは、資本主義という社会は、労働者の存在とは本質的に絶対相入れない、資本と労働者の利害は絶対的に非和解で、一時的にどんなにうまくいっているように見えたって、その資本主義そのものが抱えている矛盾によって、さらに大きな破綻と崩壊をくり返していく以外にない。それを労働者がハッキリと自覚して立ち向かっていけば絶対勝てると考えていた。そういうマルクスが、資本主義社会全体を、ブルジョア社会を本当に解明するためには経済学が必要なんだという結論に達し、それにチャレンジして『資本論』を書き上げようとしていくわけです。
  じゃあ、その『資本論』においては何が達成されたのか、より何がハッキリさせられたのか。一言で言えば、われわれがこの情勢の中で、資本主義の歴史的な行き詰まり、世界大恐慌を労働者が革命に転化していく闘いを進めていく中で、『資本論』を読むというのは、どういう意味があるのかという辺りに問題意識を据えて、『資本論』を読んでいく意味を押さえたい。

●モスト『資本と労働』との出会い

 『資本論』をわれわれの武器にしていくという場合、まず『資本論』を労働者の中でどうやって読んでいくのかということで、モストの『資本と労働』に僕は注目をした。今までの『資本論』の読み方でいるかぎり、労働者はいつまでたっても『資本論』を読めないのではないか、と強く感じていた。そういう中で、モストのパンフレットに出会い、これを使って労働者の中での『資本論』の学習会はやれるんじゃないのかと直感して、労働者との学習会の度ごとにコピーして、読み合わせをした。
  モストという人は、私は労働者であるという意識が強烈で、マルクスの権威をバーンと置くという読み方はしない。私は労働者だ、俺が読んで重要だと思う所が労働者にとっては重要なんだ、俺が読んで分からない所は労働者が読んで分からないんだから、労働者にとっては必要ないんだと、極端に言うと。どんな重要なことが書かれていのるかもしれないけど、労働者が読んで分からないんだったら少なくとも労働者にとっては意味はない、そういう意識の強い人だった。そういう自分の感性で、マルクスの膨大な『資本論』を簡単な抜き書きのパンフレットにした。それは当時のドイツの労働者の中では非常に好評で、『資本論』第1巻がドイツの労働者の中に広がっていく上では結構役割を果たした、という。
  それから、もう一つの特徴は、「はじめに」と「むすび」が付いて、正味12章で、各章が大雑把に言って10ページ前後でコンパクトに抜き書きが作られている。10ページ前後といったら、忙しい労働者が集まって学習会をやる、その場で読み合わせできる量なんです。その場に集まったところで、音読して文字通り読み合わせをして、ああでもないこうでもないと討論をして、次回はもう次の章に進むというふうにすると、大体1年間で終わる。『資本論』の学習会の難しさは、始めるのはいいけど、全体像が見えないまま途中で終わっちゃう。とにかく、このモストのパンフレットだったら終われるんだ。これは抜粋ですごい概略なんだけど、感じとしては『資本論』第1巻を読み終わったという気になる。概要が分かる。これは、すごく重要な点だ。
  『資本論』は、第1篇が「商品と貨幣」となっているんだけど、マルクス自身がくり返し言っているように、ここが『資本論』を読む上で一番難しい。『資本論』は、資本主義社会の全面的解明で、本論は「資本」にある。だけど、「資本」に行き着くための序章みたいな「商品」の所で終わっちゃう。だから、もう一つ『資本論』の学習という場合には、そこの問題をどう突破するかということがある。実際の経験をとおしてもそうなんだけど、「資本」のところまで進めたら、労働者にとって絶対に面白いんだ。難しい理屈を書いているんじゃないから、読めば分かる。

【U 商品、貨幣、資本−資本とは何か】

●資本主義社会とは「一つの巨大な商品の集まり」

 第1章「商品と貨幣」という所ですけど、ここでは、冒頭の文章だけを独立させて『資本論』から引用した。これ自身が、『資本論』全体に渡る重要な文章です。
  「資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会の富は、『一つの巨大な商品の集まり』として現れ、一つひとつの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる」
  ここでは、「資本主義社会は、巨大な商品の固まりでできている」と書かれている。「ひとつの巨大な商品の固まり」、その「一つひとつの商品は、その富の基本形態」、この「基本形態」は、『資本論』第1版の「まえがき」では「経済的細胞」と言っている。つまり、「商品は、資本主義社会の経済的な細胞をなしている」。だから、「われわれの研究は」、生物の研究をするときに、その細胞を顕微鏡で覗いたりするのと同じように、資本主義社会を研究するにあたって、その細胞となっている「商品の分析」をとおして資本主義社会を見ていこうと言っている。
  「資本主義という社会は全体がひとつの大きな商品の固まりでできている」ということは別な言い方をすると、「資本主義という社会は商品経済の社会」ということ。何でそんな一見当たり前の平凡なことが重要なことなのか。これまでの人類の歴史を振り返ってみて、商品経済社会というのは、資本主義社会しかないんです。
  奴隷社会にも商品はあった。日本でも、中国から渡ってきた和同開珎とかいうお金が古代からあった。お金があったということは、商品があった。お金と商品があったら、資本というのはあった。高利貸し資本だとか商人だとかはいた。だけど、それをもって資本主義社会のように一つの社会をつくり上げたということはない。
  社会全体がひとつの商品の固まりでできあがっているような社会は、資本主義社会が初めてなんだ。この資本主義社会を労働者が倒したら、労働者が賃金を受け取って資本の下で働くという、一番社会の基本的な階級関係がなくなるわけだから、社会全体が商品から成り立っている社会というのもなくなるという意味でも、商品経済社会というのは、資本主義社会しかない。
  だから、資本主義社会を一言で言えば、「商品経済社会」と言える。そういう特徴をマルクスは『資本論』の冒頭の文章でおさえて、商品の分析に入っている。

◆商品(労働力商品)が商品を生産する

 もう一つ。社会全体が巨大な商品の固まりから成り立っているような社会ができるというのは何を意味しているか。商品が商品を生産するから社会全体が商品の固まりになる。物を生産する労働者自身が、資本によって商品として買われる。そうすると資本の下で、労働力という商品が労働をして新しい生産物を生産し、それがまた商品となる。労働者は、その生産物である商品を資本家から受け取った賃金で買い入れて生活をする。こうして、社会全体が商品が商品を生産し、その商品がまた商品を生産し、という形で壮大なひとつの商品の固まりになる。
  つまり、労働者が労働力商品となり、資本家はお金を払って労働力商品を買うという商品の売買、ひとつの階級関係が商品の売買という形をとる。そのことによって、社会丸ごと、商品が商品を生産する資本主義という社会がつくられている。この資本主義という階級社会全体の仕組みを、商品の分析を切り口にして、これから解き明かしていこう、それが冒頭の文章です。
  このことは、資本主義社会をひっくり返す、革命で打倒する、という立場からも重要です。例えば『共産党宣言』では、「近代ブルジョア社会は、封建社会の没落の結果生まれてきたが、階級対立を廃止したわけではなかった。それはただ、新しい階級を、抑圧の新しい条件を、闘争の新しい形態を、古いものとおきかえたにすぎない」「われわれの時代、ブルジョアジーの時代は、階級対立を単純化したことを特徴としている。社会全体がますます敵対する二大階級に分裂していく−すなわちブルジョアジー(ブルジョア階級)とプロレタリアート(プロレタリア階級)に」と説明されている。
  これは、資本主義という社会全体が商品の固まりによってつくられる、そういう社会なんだということとイコールです。商品と商品の関係で、資本がお金を払って労働者を労働力商品として買い入れる。資本家と労働者の階級関係が労働力の売りと買いという関係としてつくられている。歴史的に階級ということにつきまとってきたいろんな要素を全部取っ払って、労働力商品の売り手と買い手というふうに“階級対立をこれ以上ない形に単純化した”ということです。
  商品とされてしまった労働者は、人間として階級的団結を資本との闘いをとおして取り戻して、それで資本を倒すことによって社会の主人公になっていく。そのことによって、階級社会に終わりをつけていくということが可能になるということでもある。そういう意味でも、『資本論』の冒頭で押さえられている文章というのは大きな意味を持っている。
  さらに、これから『資本論』の展開を見ていく上で押さえておくべきことは、「分析を始めようとしている商品」は、「資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会」の「商品」であるということです。

●「1,商品と貨幣」について

 モスト『資本と労働』で言うと、第1章「商品と貨幣」となっていて、第2章が「資本と労働」となっている。『資本論』の場合、冒頭は商品、貨幣、資本と説明が進んでいく構成をとっている。マルクスは『資本論』の冒頭の「商品、貨幣、資本」の全体の説明をとおして、資本の説明をしている。このことを頭に置いておいてほしい。
  資本というとG−W−Gとすぐ書く。このGはゲルト、お金のこと。資本の出発点は、お金。お金で商品を仕入れて、仕入れ値より高い値段でその商品を売る、これが資本の運動です。それを表現するとG−W−G。
  形としてそれとちょっと違うのは、高利貸し資本、金貸し資本。これはお金を貸して利子を取る。その場合にも、出発点はお金です。この出発点がお金=貨幣である、それが資本の特徴です。
  これを言葉で言うと、「自己増殖をくり返す価値の運動体」。例えば、今100万円のお金がある、これで商品を仕入れて150万円で売る。これを自己増殖と言う。100万円のお金を150万円に増やす。これを無限にくり返す「ひとつの価値の運動体」を資本と呼ぶ。これを分かりやすく表現すると、貨幣−商品−貨幣、G−W−G。
  とにかく、資本の出発点はお金=貨幣。だから、資本を説明しようとしたら、貨幣(お金)とは何か、ということを理解しておかなきゃいけない。

◆「資本−貨幣−商品」として読む

 お金って何なのかを説明しようとすると、商品の説明が必要になる。お金というのは、商品から生まれる。商品というのは、商品だけで商品になることはない。商品が交換されるという場合には、交換相手の商品をいわばお金の役割、位置においている。形の上では商品と商品の交換という場合にも、必ず一方の商品はお金の役割を果たしている。
  お金って何か。これは、問いただしていくと大きい問題です。商品交換というのは、毎日くり返しているとそれ自身がひとつの意識をつくり出していく。これが、資本主義社会を支配している意識です。日々くり返していると、それがひとつの確固たる意識にまで頭の中では高められていき、それが真実になっていく。商品交換が次々に虚構の真実を世の中につくり出していく。こうして資本主義社会というのは、社会として成り立っているとも言える。
  今、店に1万円札を持って行ったら1万円の商品が買える。1万円札の原価は10円とか12円とかそんなものだそうです。これが「1万円です」、といって世の中で通用する「商品」はお金ぐらいしかない。だけど、そもそも今日本で流通しているお金は、千円札にしろ1万円札にしろ、日本銀行券です。発行しているのは日本銀行。それと別に、政府が政府紙幣を発行しようという主張が出てきているというのが週刊誌の記事になっていたけど、そうなってくると、日本銀行券って何なんだ、政府紙幣って何なんだと。今まで気にも止めなかったようなことがいろいろ問題になってくる。
  そういう問題も含めて、資本主義社会の一番柱になっている資本とは何かということを解き明かすためには、お金って何なんだという問題をちゃんと理論的に解き明かさなくちゃならない。その場合、商品だけを研究して明らかにしようとしても、商品の中から、ある商品をお金とすることによって、商品は商品となっているわけだから、商品と貨幣(お金)は一対のものとして理論的にも解き明かしていかなきゃならない。
  商品、貨幣、資本は、それ自身一体のものとして、ひとつのものとして理論的には解き明かしていかなきゃならない。資本主義という仕組みはそうなっている。これを別々にぶった切って商品は商品、貨幣は貨幣、資本は資本というふうに一つひとつを明らかにしていくことはできない。
  『資本論』冒頭の商品、貨幣、資本というのは、基本的にはそういう精神で展開されている。だけど、商品、貨幣、資本をゴチャゴチャにひとつにして説明することはできないから、ある種、商品、貨幣、資本という順を追った説明という形をとりながら、だけど商品−貨幣−資本は一体のものとして、資本を説明するためには貨幣、貨幣の一つの使われ方として資本ということを明らかにしていく。貨幣としての金とか銀それ自身が他のすべての商品と同様に労働の生産物であり、価値物である。一つのある特定の商品がお金の役割を果たしてお金となる、というふうにして貨幣は生まれてきている。そういう商品−貨幣−資本という関係を、マルクスは『資本論』の冒頭で明らかにしようとしている。
  モスト『資本と労働』の第1章は、ほとんどマルクスが書き下ろした、「マルクス改訂」と言われているところの一番の核心です。資本を説明するためには貨幣を正しく理解しなくちゃならない、貨幣を正しく理解するためには商品とは何かということを明らかにしなければならない。商品−貨幣−資本は一体なんだという観点で、商品、貨幣、資本という所は理解していかなくちゃならないということを念頭に置いて、この第1章の「商品と貨幣」の所は読んでくれたらと思うんです。
  そういうことを押さえた上で、『資本論』第1巻は、資本の説明に入っているんですけど、今回は入口ということで、僕からの講義はひとまずここで終わりたい。
(前半講義了)

党学校通信 p9-15

討論から

●N

 今日、講師の話にもありましたけど、若い一労働者が『資本論』を読んで、ここが重要だと思ったことを自由に書いている。私もモストの『資本と労働』を読んでいて、若い労働者が資本に対してこんなに怒りを持っていた、これを労働者の仲間、労働者階級に知らせたい、みんなで分かろう、そういう情熱をすごく感じました。
  例えば、「労働日」という所。44n〜45nの辺りだけを見ても、際限なく資本は労働者を長い時間働かせようとすることに対して彼がすごく怒っているし、こんな長時間労働はどうしても許せないんだ、ということが彼の中に貫かれていることを生き生きと感じることができる。どこを読んでいっても、労働者がみんな一緒に団結して革命をやろうよ、と言っているのが聞こえてくるようなそういう本だなと思って、私はこれを読みました。
  その上で、10ページずつの12章立てになっていることとか今日教えてもらって、本当にみんなで学習するのに適しているパンフレットなんだと。モストのこの本を労働者みんなで読み合わせをすることによって、資本とは一体何なのかというのを、みんなが分かっていくすごく良いパンフレットなんだということが今日よく分かったので、早速活用していきたいと思います。

●G

 僕は『資本論』をまともに勉強してないんですけど、これを契機に勉強しようという気になる講義だった。
  講師は、資本とは何か、その出発点は貨幣、その貨幣とは何かを説明するためには、商品とは何かを説明する必要があると言われた。僕は、その貨幣のことで、金本位制の崩壊というのは大きな問題だと思っている。

●I

 商品=貨幣=お金という所で、今一つ分からないんで聞きたい。資本主義社会の中では、労働者をも商品として、労働者の生産活動が資本家の新たな商品を、つまり剰余価値を生み出すと。資本家は貨幣、すなわちお金で労働者を商品として買う、で、その労働者は長時間労働をすることによって、新たに資本家のために価値を生む。封建制社会とか、奴隷制社会とはどこがどう違うのですかね?

●講師

 資本主義社会での、資本(家)による労働者の搾取が、古代奴隷制社会における奴隷所有者による奴隷の搾取や、封建社会における封建領主による農奴(農民)に対する搾取と違う点は、資本(家)と労働者との関係が、労働力商品の売り手と買い手、「商品の売り手と買い手」という形を取る、というところ。商品の売り手と買い手の関係は対等である、という建前のもとに、資本家の労働者に対する現実の搾取、搾取の関係が隠されている。
  封建社会について見てみると、領主による農奴(農民)への搾取の関係は非常にはっきりしている。農民が1年間かけて生産した生産物の半分だとか、何割だとかを「年貢」として農民から取り立てる。それで封建社会の基本的な領主と農奴(農民)という関係がつくられている。封建社会では商品経済はあくまで例外だった。
  例えば日本では、大名などが自分の領地の農民たちから年貢を米などで取り立ててくる。だけど、大名は取り立ててきた米だけ食って生きていくわけにはいかない。城を造って、武士たちを雇って、贅沢な生活をするわけだから、それを支えていくためには膨大な支出が必要で、だけど、入ってくるのは今と違って税金じゃないからお金じゃない。年貢としてお米がドーッと集まってくる。それを、商人を媒介にしてお金に換えて、そうやって手に入れたお金で、いろんな贅沢品を買ったり、武器を買ったりして、大名たちは自分たちの支配を支えていく。
  その限りで、商品経済というのはすでに入ってきているんだけど、それが封建社会の中心になるということはない。そしたら、封建社会は崩壊しちゃうから。あくまで封建社会の軸は領主と農奴で、そこを基礎にして階級関係はつくられている。商品経済は、社会全体からすると部分的。

●I

 資本主義社会では、労働者が資本家の利益を生む商品として、全世界的に剰余価値を生む対象になった。封建制社会とか奴隷制社会だと、身分制的だということですか?

●講師

 さっきその例を挙げて言おうとしたのは、資本主義社会というのは、どれだけ残酷な社会なのかということ。労働者を「モノ」、商品としてしか見ない。資本家が、より多くの利潤を上げるための手段、「モノ」としてしか見ない。要するに、労働力が商品という姿をとっている、お金を払ってそれを買ってくるという関係で。そうすると、相手を人間としてなんか全然見なさない、そういう社会の仕組みを資本主義社会はつくっちゃうわけ。

●I

 奴隷制社会とか封建制社会でも、奴隷とか農奴はモノ扱いでしょ。

●講師

 奴隷や農奴を人間として扱わないという点では、同じようにモノ扱いです。だけど、資本主義の場合、労働力を商品とするというところが違うのです。封建社会の場合には、領主と農奴(農民)の関係は身分という形をとって社会的に制度化されている。農民というのは、今で言う職業というような考え方じゃない。士農工商という身分制として、ひとつの社会の制度になっている。

●h

 奴隷制社会では、人格そのもの、文字通り人間そのものを商品として買う。だけど、資本主義社会では、労働力を商品として買う。その人格を商品として買うわけじゃない。そこは全然違う、資本と契約解除すれば、自由になるわけだから。この会社は嫌だったら別の会社と契約を結べばいい。労働力を商品として売っているわけで、資本が買うのは労働力、人格を買っているわけじゃないから、形式上。

●p

 奴隷は確かに人格丸ごと売買されるんだけども、奴隷主は、その奴隷がいないと成り立たないわけだから、相当酷いことはやっても、その人が生きていくということについては結構責任をとった社会だと思うんです。ところが資本主義というのは、労働力を商品として買うわけだから、この商品をどう扱うかは自分勝手なわけです。
  また、資本家同士の競争があって、さらに恐慌もあるから、完全に無責任に扱う、労働者の労働力を、生身の人間なんだ、これはね。だけど、モノとして扱って、1つの工場の資本家は無責任にどこまでも利潤を追求してこき使うときは使うけど、いらなくなったらパッと捨てるということを自由にやる。そういうことで産業革命の頃には、ある地域では17歳で死んじゃうという、これは奴隷制よりも酷いですよ。

●q

 奴隷は奴隷主にとっては財産なんです、ひとつの。だから、それは殺さない。だけども、資本主義社会の中では商品だから、トコトン使う。

●I

 資本主義の下では資本家は労働者に対して何の責任も持たない。労働者を単なる資本家の利益を生むためのモノとして扱う、そこが違うということですか、分かりました。

●p

 商品が商品を生産する社会という、僕も、この辺を読んだ時、ちょっと難航したり、あるいはサーッと読んでしまったり。何回か読んでて、アッ重要なことがあったと思ったことですけど、資本主義社会は巨大な商品の固まりでできている、と大雑把に言ったときに、自分の周りの商品をイメージして読んじゃう、最初は。
  だけどよく考えてみると、社会と言うからには、これは人間じゃないかということがある。あれっと思って読んでいくと、ここに重要なことがあって、資本主義社会では人間それ自身が商品とされる、そこの部分で確か、商品が支配する社会は完成する、資本主義が資本主義として成り立つ、完成する、みたいな言い方で書いてあったと思うんです。労働力が商品とされることによって、全社会が一つの商品経済社会として完成される、そういうふうに一つの社会として完成するものとしてとらえるということが。

●e

 絶対反対論だとか、非和解性、力関係で一切が決まる、資本主義を徹底的に分析する中でそこがハッキリするんだということだと思うんです、ムチャクチャ大雑把に言うと。
  獄中で読んだんです、『資本論』第1巻。獄中では時間があり過ぎて、学者的に読むというんですか、要は一言一句漏らさないぞという感じで読んで、結局「労働日」の章が始まるまでは一体何が書かれているのかよく分からないということだった。
  今日言われた中で重要だなと思ったのは、レジュメでは、『資本論』冒頭で、資本主義社会というのが商品経済が支配的になった社会であることを「押さえていることは重要である」ということ、『共産党宣言』では、2大階級に分裂していく、ということが「説明されている」としか書いてなかったんですけど、口頭で、労働力商品の売買ということへと階級関係が収れんされていくというか、階級関係というのが商品売買の関係になっていくんだ、みたいなことが言われた。そういう見方を労働力の商品化ということから言って、例えば学生でも労働者でも、こんなモノのように扱われるのは許せないじゃないか、というところまでは言うんですけど、実はそこからもう一歩進んで、最初に言った非和解性だとか、絶対反対論ということの重要性、決定的意義だとかを考えたときに、階級関係がいわば売りと買いで何か和解できるはずはない。けれど、実は表裏一体のものとしてあって、そういう関係が一切なんだということに、非常になるほどなと思った。

●C

 前半の所で、『資本論』を革命の武器として復権させようということが言われてた。その中で、『共産党宣言』と『資本論』がつながっていると言われてたと思う。マルクスは、48年の革命をやって、その後亡命という形になって、一旦経済学を一からやり直すことに取りかかったんだけど、『資本論』自身は別に経済書というわけじゃなくて、講師の方からは革命の書であるということをちゃんとつかむべきだと言われてたと思うんです。だから、『共産党宣言』とつながっているというところをもうちょっと簡潔に説明してくれたら助かるかなと思った。
  それと、僕も『資本論』は読んではいないんですけど、最初の冒頭の文章がすごく分かりやすかったというか、すごく重要なことが書いてあるなと思った。「資本主義社会は巨大な商品の固まりでできている」、労働者をも労働力商品とすることで、資本主義社会という形で一つの社会をつくったわけですから、確かに一言で言い当ててるなと思ったんです。これなんか、『共産党宣言』で言ったら、すべてを金銭関係に置き換えた、ということとつながるのかなと思いました。
  あと、資本家には、労働条件という考え方はそもそもないというところは、すごくそうだなと思いました。資本家は、労働者を商品として見ているから、結局そういう考え方になるというのはものすごくそう思うし、だからこそ非和解だということ自身が重要な意味を持ってくるというのが、今日聞いてて一番そこが重要だなと自分としては思いました。
  それとあと、常に『資本論』ということで出てくるのはG−W−G、貨幣−商品−貨幣ということで。ここをもうちょっと理解したい。これが常に出て来て、講師の方からは、資本−貨幣−商品は一体だ、一体でとらえるべきだという形で言われてた。ここをもうちょっと僕も理解したいなというのがあって、そこら辺ももう一回説明していただけたらと思います。

●講師

 G−W−Gなんて言うと取っつきにくくなる、と一番強くどこでも言われる。それは、そういうことはあると思う。だけど、資本というのを説明する場合、自分で理解する場合にも、G−W−Gというのはすぐれた説明だと俺は思うんだよね。
  というのは、資本がまず商品と違う点は、これが資本です、あれが資本ですという、そういう個別な物の呼び名じゃないということ。これはリンゴです、これは本です、これは机です、というのとちょっと違う、「ひとつの価値の運動体」のことを資本と言う。
  だけど、商店に正札付けて、これは100円と言って置かれているリンゴは商品だけど、100円払って買って来たら、そのリンゴは商品じゃなくなる。だから、「商品」という言葉も、「ある物の置かれている状態」、「ひとつの社会関係」を表す言葉なんだ。
  資本もそうで、ここに100万円があります、これは資本ですか?と。ただそれだけでは答えにくい。すごく乱暴であり、かつ、一見して分かりやすい説明としては、同じお金でも労働者の賃金は資本じゃないんだ。なぜか、使うと無くなっちゃうから。これは資本とは呼ばない。
  資本主義の経済が去年以来の大恐慌状態に突入するまでの、戦後それなりに資本主義として機能していた時代を前提にすると、例えば、1億円とか3億円なんて言ったら、使っても無くならない、使うと増えるんだ。使い切れないで置いておくと増える、利子が付いて。これは間違いなしに資本。
  だから、お金と言っても、一晩飲んだら無くなるという、これは資本とは呼ばない。例えば、ここに1億円あって、これで商品を仕入れて1億5000万円のものに変えるという、こういう自らをどんどん増やしていく、「価値の自己増殖」を自己目的化する「ひとつの価値の運動体」のことを資本と言う。これを手っ取り早く分かりやすく表現しようとすると、G−W−Gというのが一番いい。一番簡潔に資本とはと言ったら、G−W−Gですというのは、要するに出発点がG、ゲルト、お金でしょ。で、到達点が、商品を仕入れてまたお金。だから、「お金の自己運動」なんだ。
  普通の商品は目的が、そういうふうに言えば使用価値なんだ。おいしいものを食べたいとか、どっかに旅行したいとか、家を建てたいとか、目的が使用価値の場合には、よっぽど贅沢したって限度がある。
  だけど、お金そのものが目的となったら、もうこれ以上いいという限度がない。価値そのものが目的となると限度がないんだ。今の資本なんか、一生かかったって、うまい飯食ったって、車買って、家建てたって使い切れないようなことになってる。今問題になっているニューヨークだとか、動いている資本の単位は何兆円、何十兆円、そんなにお金を儲けて何するんだと思ってしまう。「それ自身が自己目的」になっちゃう、資本の運動というのは。これは限度がない。今に限らず、資本はそういう性格を持っている。唯一の目的が、「より多くの利潤をせしめること」なんだから。
  だから、どんなに巨額なカネを手に入れても、あとこれだけ使ったらどれだけ儲けることができるだろうか、となる。これだけ手に入れたからもういいや、というのは資本にはない。そういう資本の本質を一番表す表現がG−W−Gなんだ、どんなに嫌だと言われても。

●a

 価値の自己増殖という場合、剰余価値の自己増殖と言わないといけないんでしょ?

●講師

 剰余価値の、と断らなくても、価値の運動なんだ、資本の。マルクスは『資本論』の中では、例えば100万円で商品を仕入れて150万円で売ると50万円増える、これを剰余価値と呼ぶ、という説明をして、この増えた50万円はどこから出てきたのかということから、今度は搾取を明らかにするという説明に移っていっている。だから、資本の運動としては、価値の自己増殖運動。

●I

 資本主義社会は、資本が一定のカネで労働者の労働力を商品として買い、自分の利潤を追求するために労働者を商品として扱うことによって価値の自己増殖が無限になるという形で、資本が全面的に労働者を支配する社会ということですか?

●講師

 資本の場合、自分の利潤を上げるためだったら何でもやる。それに関連することで、レジュメに書いておいたんだけど、労働力の価値という言葉の説明として、一個の商品として労働力を生産・再生産していくということは、労働者が生活して生きていくということだから、そのためには生活費というのは必要なんだ、これに当たるものが労働力の価値なんだというような説明になっている。
  だけど、資本の側が積極的に労働者の生活費を労働力の価値として支払う、資本主義社会というのはそうなっているのかというと、そうも言えない。今言ったように、資本の唯一の目的はより多くの利潤を上げることだから、労働力だって出来ることならタダで働かせたい。労働力の価値を支払わなければなんて、そんな道徳的な考え方をする資本なんていない。

●I

 奴隷主とか封建地主は、奴隷とか農奴に一定の食い物とかを与えると。ところが、今の大恐慌の中で、資本家が使えなくなった労働者はもう殺してもいいと、実際に1年間で3万人も自殺をしている。そこが一番の違い、どっちがいいということじゃなくて。

●講師

 さっきe同志から出されたことだけど、『共産党宣言』では「階級対立を単純化した」と言っているんだけど、資本主義では労働力商品の売りと買いとして階級関係を、ある意味では単純化した。
  今は結構、公務員労働者とか、それから公務労働という所で働いている労働者は、自分たちは労働者なのかと、資本によって直接搾取されているんではないと。直接使われている相手は資本ではないという場合に、自分たちは何なんだと。
  要するに、労働力の売りと買いという形で、カネを払って他人を働かせる人と、生きていくために生活費を他人から受け取って働かされている人というふうに、社会は二分化している。それは、相手が資本である場合もあるし、資本以外でもお金で他人を働かせる、そういう人や機関がいっぱい生まれてきているということはある。
  だけど、階級関係というのは、そういうことも含めて見ていかないと、個別の労働者の中では、俺は別に資本家に雇われて搾取されているんではないんじゃないかと。そういう労働者というのは、実際に数的にはいっぱい増えてきてて、その当人たちは、一体自分たちは何なんだということについて、あんまりスッキリしないという人も増えてきている、社会的に言うと。要するに、カネのために働かされている人と、カネを払って他人を働かせている人というふうに、社会は大きく二分化してっているんだということはハッキリさせておいた方がいいと思う。

●n

 物は生産していないけど、サービス業なんかでカネを貰っている労働者もいるから、その辺の感じですよね。

●O

 公務員という言葉そのものがそうだと思う。福祉とか、そういう労働者全部、何か物を作っているというわけじゃない。だけど現実的には、資本家が社会を支配している関係の中に全部いる。だけど、公務員というのは、公務という形でまず関係が曖昧にされているし、しかも今公共サービスだと、とくに自治労なんか完全にそうです。だから、働こう運動になっている、資本と一緒になって。
  それに対して、同じ関係にある、賃労働と資本という関係にあるということをハッキリさせていくことが、4大産別決戦をぶち抜いていくという点では、かなり重要なことですよね。

●g

 正直、難しかったという感じが結構あって、僕も『資本論』をどう読むかというのは問題意識としてありまして、獄中で『資本論』は一応全部読んだんですけど、どうしても学者的に読んでしまうというのがあって、どう突破するのかと。今、『共産党宣言』、そして綱領草案との関係で読むというのが重要だとも思いますし、一つのカギは、動労千葉の中野洋さんの『甦る労働組合』にあるのかなとは少し思ってまして、マルクスだけが労働者を認めた、という言葉にあるように、労働者が社会の主人公であって、あらゆるものの生産・管理やっているんだ、そういう誇りというところから『資本論』も始めるべきなのかなと思うんです。
  レジュメも最初の所は、そういう内容で書かれているし、結構いいと思うんですけど、「商品、貨幣、資本 資本とは何か」という所に来ると、“商品とは何か”みたいにグッと来てしまう。これは良くないんじゃないかと正直思うんです。労働者とか青年というのは今、自分たちが物を作っている、価値は自分たちがつくり出しているんだけど、現実には商品として扱われている。ここの矛盾が、今の大恐慌の中で大量首切りという形で現れている。これに対して、労働者側としては絶対反対論で闘う、で、その自分たちのあらゆるものを取り戻していくという、この激突点になっている。資本主義の崩壊の中で、社会主義の萌芽としてそういう闘いが行われているということがガーッとあって、その中で、商品と矛盾がある。生き生きしたものとして商品をバーンと語ると結構いいのかなと思うんです。
  労働者が価値をつくり出している。商品社会の中では商品という形になっているけど、そういうものなんだというところを、一応僕なんかは前提になっているけど、レジュメでは全然そういうこと書いてなくて、商品、ひとつの巨大な商品の集まり、みたいなことでガーンと出てるんで、それもどうせ労働者が作っているんだし、僕としては、もっと労働者を主語にしてここら辺が展開出来たら、すごい復権、『資本論』の復権になるんじゃないかというようなことを思いました。

党学校通信 p16-28  受講レポート

受講レポートから ★『資本論』(上)のレポートです。

【C】

 『資本論』を読みたいという欲望が、生まれてきたように思います。モストの『資本と労働』の画期性は伝わったので、まずは最後まで読み進めていきたい。
  一番よかったのは、G−W−G、これが資本主義の根幹であり、「資本とは何か」を的確に表すものであることがわかったことが、大収穫でした。価値の自己増殖として際限のない商品−貨幣−資本の運動として進むということがわかりました。やっぱり資本家は、労働者を労働力商品=モノとしてしか見ていない、ということです。
  ここを、しっかりとおさえれば、『資本論』が資本主義社会の怒りの解明であり、『資本論』を通して資本家と労働者は絶対非和解であるということをつかみとる、この作業が必要であると思った。
  この意識があれば、読み進めていくことができるのではないかと思いました。『共産党宣言』の実現のために『資本論』は必要なんだという意識に変わりました。

【j】

 『共産党宣言』の学習だけではなく、なぜ『資本論』での武装が必要なのか、とてもよく分かる講義だったと思います。
  さらに、モストの『資本と労働』もざっと読み通しましたが、『資本論』第1巻の流れが非常によく分かるパンフレットでした。これなら労働者や農民の中に持ち込める画期的なものだと実感しました。
  講義の中での原価10円程度でしかない1万円札がなぜ何の疑問もなく一般的に流通しているのか、については面白い話でした。「資本−貨幣−商品」を一体のものとして解き明かさなければならない、という話も新鮮でした。
  討論の中での「資本」の本質に関する話はとても刺激的でした。

【N】

 「大恐慌を革命へ!」というスローガンの中で、モスト『資本と労働』を学ぶ重要性がよくわかる講義でした。
  モストが「1人の労働者」として『資本論』を労働者の立場から読んで抜き書きしたこの著は、10ページ×12章立てで解説してあるこの本は、労働者が読み合わせて学習会を持つのにとても適しているのだ、ということもよくわかった。
  モストが労働者に伝えたかったこと、重要だ、と思ったことは何だったのか。われわれが革命をやるんだ、われわれが社会の主人公だし、革命をやる力があるんだ、ということだと思います。モストの資本に対する強い怒りも感じた。
  労働者が理論を持つことの重要性、マルクス主義で武装した労働者は、階級的団結の力で必ず革命に勝利するんだ、と確信しました。
  討論を通して、「資本」G−W−Gにたいする理解も一歩前進しました。価値の運動体なのだ、ということがよくわかりました。限度なく、より多くの利潤をせしめることだけが、自己増殖だけが、唯一の目的なのだ、と再確認して、やはり労働者が主人公の社会をつくらなければ!!と思いました。

【n】

 一般的な資本と商品と貨幣に関しては、質問への回答も含めて、今までの学習もあって、大体理解できてきたようですが、『資本論』そのものを「判った」と言うか、「学習したんだ」と言うか、ホンのひとつのことだけでもつかみたいものです。
  今日は冒頭までで、本論に入っていないようなので、次回は少しでも理解したいと思っています。

【e】

 『資本論』冒頭の、資本主義の規定を商品経済が支配的となった社会として与えられている点から始まって、階級的非和解性を説かれたのが、「絶対反対論」の重要性ということと一体で、なるほどなと思いました。
  「商品売買」と「階級対立」が、そうしたものとしてつながるとは、あまり考えていませんでした。この点がつながっただけでも、『資本論』を復権する、労働者の手にとり戻していく「価値」を納得しました。
  「労働力の商品化」も、それに対する人間的怒りにとどまらず、資本と表裏一体の関係で暴露していかなければ、共産主義社会の必然性も明らかとならないのだろうと、日々のアジテーションと関連して思いました。
  また、「教育の民営化粉砕」論ないし「教育(大学)奪還」論を深化させ、新自由主義攻撃への階級・学生の怒りと結合するものとしていくためにも、本日の「商品」論の展開の視点は、かなり重要ではないだろうかと思います。モスト『資本と労働』を改めて学習して深めていきたいです。

【O】

 ○講師が冒頭言われたことは重要ではないかと思いました。
  労働者が理論を持つこと、自分たちが理論を持ったときに勝利できる、これは初めてのこと。いつの時代も支配者が思想を持ってきた(独占してきた)。この点で、やはりマルクス主義という労働者自己解放の思想を今こそ復権することの決定的意義があらためて明らかになりました。
○何人かの同志からの意見も出されましたが、どうしても学者・学術的に読む傾向が強くなりますが、モストの『資本と労働』が、新しい『資本論』の読み方に挑戦していることに肉迫していくということではないか。
○内容的には、
  “商品、貨幣、資本”という問題、G−W−G、ということはかなりはっきりしましたし、今までは、なぜ“商品”が最初に提起されているのかも、いまひとつすっきりしませんでした。
  今回、社会の富がひとつの巨大な商品の集まりからなっている社会、商品経済社会というのは、商品が商品を生産するような社会、資本が労働者(労働力)を商品として買い入れ、使用するというかたちを取って生産を行う、資本主義的生産様式が支配的に行われている社会、資本主義社会においてはじめて実現する…
…ストンとおちた気がします。

【g】

 『資本論』を革命の書として復権させていく作業が重要だと思いました。自分も『資本論』を読みましたが、難しく、長くてなかなか読めないし、どうしても学者的理解になりがちです。核心は、『甦る労働組合』や綱領草案と一体で復権させていくことだと感じました。
  商品、価値、資本のとらえ方でも、「あらゆる価値、生産物(資本主義社会では商品ですが)をつくり、価値、富を生み出しているのは労働者だ」というところから始めるべきだと思います。だから、決定的に「商品」ということの理解の重要さや、労働力が商品とされていることへの怒りが資本主義社会での矛盾として出てくる。
  『甦る労働組合』では、徹底的に労働者を主語にして、労働者が主人公だとアジっているし、綱領草案でも労働組合の革命的意義を核心部分として入れた。
  我々の09年の闘いの地平から『資本論』をとらえれば、大恐慌に対決する革命の書として絶対によみがえると確信しました。今回の党学校を受けて、次回党学校を期待しています。

【Q】

 『資本論』について、今までなかなか読んでみるということが出来ずにここまできてしまった。今まさに世界大恐慌情勢の中で、「革命の武器」としての『資本論』について学習する必要を感じた。
  資本主義社会について、その実態を労働者がしっかりと理解することが、革命ということを本気で考えるときに重要である。我々がおかれている現実について正しく理解し、それに怒りを感じ、これを打倒せねば生きていけないということを認識する理論を持つべきだ。マルクスは、それを命がけで与えてくれたと思う。
  なかなか『資本論』全巻に挑戦するのは大変なことであるが、モストの『資本と労働』は、その入口としてとても良いテキストだと思う。先ずは、これを読了することから始めたい。

【U】

 『共産党宣言』『国家と革命』などは何回か読んできたし、学習会も何度もやってきた。それに比すと『資本論』は大部であり、なかなか手が出ない。何人かの同志の発言にあったように、「投獄」などの時空間の大きな変転がない限り、今後も正直手が出しにくいと思う。そんな中で、ダイジェスト版とはいえモスト『資本と労働』が出版されている。少なくともこの本なら、読める、学習会もできる、という気がする。今回の学校を機に、深読みにトライしていきたい。
  講義、討論では2つのことが印象に残った。
  1つは、資本主義社会よりも封建制社会の方が住みやすかったのではないか、というテーマのもとで、電灯が発明されたばっかりに夜勤労働が生まれてしまったという話。なるほどな、この話は使えるな、と思いました。
  もう一つは、賃労働者と奴隷の違いについての討論。資本家は賃労働者の労働力を「買う」のだから、その労働者の命などかえりみず、目茶苦茶働かせてしまう。他方、奴隷の場合、もちろん奴隷主もひどいのだが、一方で奴隷の命が絶えると奴隷主自身の生活も成り立たなくなるから、その面では生命は最低限保たれていたのではないか、という討議だったと思いますが、これもなるほどな、と思いました。

【B】

 『資本論』についての学習会という事で、難しそうで気乗りしなかったのですが、参加して講師の今回の学習会にたいする思い、取り組みにたいする姿勢が良く分かり、こちらも予習をしてこなければと考えさせられた。
  党学校の中で、『賃労働と資本』『共産党宣言』と来て、同じような事を何度もと考えていたが、今回講師の説明の中で、そうではないんだ、深化しているんだと感じた。それを分からない受ける側の学習の足りなさを感じた。
  資本−商品−お金を一体的にとらえる、G−W−G’など分かりやすかったと思う。
  公務員労働者にたいしどう説明するのか、搾取されていることを生産現場の例をあげ説明したが分かってもらえなかった。討論の中でのとらえ方で再度チャレンジしてみます。

【G】

 (1)前半部分で確認された点で、@労働者の現実に闘う武器として、A『資本論』を学習する上での問題意識として、現実の階級闘争との分離という問題を克服するために、『資本論』を学ぶ意義を強調されたと思います。このことは大変重要だと思いました。
  現在、資本主義の崩壊が現実化したというわれわれがもつ認識を、プロレタリアート全体の認識として明らかにすると同時に、資本主義を打倒し、社会主義−共産主義社会を自らの闘いを通してつくっていくこと、そしてそのことは必ずできるという確信を持つために、『資本論』を学ぶことが必要だということを改めて感じました。そういう意味で、『資本論』の中味に入る前の提起は、「むずかしさ」や時間的に余裕のない労働者にとっても学習できる内容として、モスト『資本と労働』を活用した学習と職場や街頭などの実践(組織化)を一体でやることによって、学習の内容を深めていくことができると思います。
  そういう意味では、討論の中で出された公務員は賃労働と資本の関係としてではなく、労使が協調・協力していかなければいけないというイデオロギーが振りまかれていることが紹介されたのは、勉強になりました。
  党学校で学習するテーマと職場、街頭で闘い(党派闘争などで)ぶつかっている問題とを結びつけて論議することは、学習意欲も湧いてくると思います。
  書店には、「マルクス」に関する本が氾濫しています。ブルジョア経済学者や日本共産党スターリン主義、カクマルなどのとんでもない本があふれている中で、真のマルクス主義の党として、プロレタリアートの武器としての『資本論』を主体の中に物質化し、実践を貫いていくことが求められていると改めて感じました。

【b】

 労働力の商品化から、労働力の買い手としての資本家と売り手としての労働者との絶対的非和解性(『資本論』の「労働日」の章で展開されている様な)が生じるということが面白かった。今日、資本の自己増殖の話がありましたが、G−W−G’という資本の運動も、交換価値以上の価値を生み出す労働力商品(W)の存在によって初めて全面的に開花する。よく、資本主義社会の特徴を一言で言えば、それは「労働力の商品化」であると言われていますが、今回の講義・討論の中でそこが何となく分かった様な気がしています。
  また、討論の中で出た、「労働力商品の売りと買いの関係を通した、資本家と労働者の絶対的非和解性」は公務員労働者に適用されるのかという疑問の解明も重要だと思います(4大産別決戦においてという指摘も合わせて)。この点についても、どこでかは忘れましたが、『資本論』の中に問題意識とかみ合う内容が出ていたと思います(生産力の発展によって、直接生産に従事しない労働の種類が増加するみたいな感じで)。
  やはり、この資本主義社会を根底的・全面的に把握し、その根底的・全面的転覆を実現しようとする僕たちにとって『資本論』の内容は本当に重要なものなのではないかと、今日再認識できました。次回の本格的な内容学習が楽しみです。

【Y】

 最初の部分の話、労働者階級が自分の思想をもつことの意味が非常に心に残った。奴隷・農奴に独自の思想があったわけではない。支配されている階級の中で、自分の思想をもっているのは労働者階級だけだ。やはり“社会の主人公”という意識、ブルジョアジーを打倒し、みずからを支配階級へと高めるという意志をもった階級だけが自分の思想をもつ。そして、自分の思想をもった階級が勝利できる。それを理論として確信をもつことが、歴史の大きな転換期の中では絶対に必要なんだということが非常によく分かりました。『資本論』を労働者階級の思想・理論としてつかみとっていくことだと思います。このような立場から『資本論』と格闘していくことだと強く感じました。
  『共産党宣言』でマルクス主義の大筋と結論はできあがっていた。にもかかわらず、1860年代の労働運動の高揚が、マルクスをして『資本論』や『賃金・価格・利潤』の理論的地平へとさらにおし上げていった。労働者階級の闘いに勇気づけられてということだと思うが…。
  本論の部分では、資本とは「価値の運動体」であるという説明や、また賃金(労働力の再生産費)もそうだが、資本家にはもともと労働者の“労働条件”という考えはない。お金で買ったものについては自分のもの、自分がどう使おうが勝手だということ。やはり、賃金も労働条件も力関係で決まるものだ。何か客観的な基準があるわけではない。労働者の現場での闘いと団結した力で、すべては決まっていくということだと思います。
  『資本論』については、この間ほとんど関心がなかった。しかし、今回の学校で、俄然とやる気になってきました。

【W】

 大恐慌情勢が到来し、労働者人民の膨大な決起が始まろうとしている中、労働者の中に『資本論』を持ち込み、学習することの決定的重要性を感じました。
  『共産党宣言』にとどまらず、『資本論』を学習すること、−そのことは、革命運動は反動を生み出すが、労働者階級は最後は勝利するんだ、労働者階級は社会を動かしている主人公なんだ、という自信と確信、誇りをつかみとるものにつながるものになることがよく分かりました。『資本論』の学習会は、そのことをつかみとる学習会としてやっていきたいと思います。
  この資本主義社会の本質をつかみとる、労働者が革命の理論をもつ、そのことを通して、労働者が自分の歴史的存在を自覚する、そういう革命の書として『資本論』がある。青年労働者、学生の決起が始まりつつある中、『資本論』の学習会がすごい威力を発揮し、時代を塗り替える力となると強く感じました。

【R】

 講義と討論を通して、多くの点で理解が深められました。
  その中で、“なぜ商品から始まるのか”ということが分かったことは、『資本論』へ取り組むにあたって決定的でした。
  『資本論』は、「資本主義社会は、巨大な商品の固まりでできている」という文章で始まるわけですが、この意味の深さがつかめるものとしてありました。それは、労働力が商品となることによって商品経済社会=資本主義社会は成立しているということです。これは、奴隷制社会、封建制社会における被支配階級が労働力商品ではなかったという点で決定的に違うところなわけです。
  そしてこれは、資本主義社会における階級関係を示すものでもあります。資本とは「自己増殖をくり返す価値の運動体」であり、利潤を目的とした自己運動です。だから、商品として買った労働力を利潤を目的として働かせる。ここには、もはや人間としての位置はどこにもないのです。マルクスは、この立場に立って、ブルジョア社会の解明を「商品」から始めたということなのです。
  私は、この点を理解できたことで、『資本論』の中に貫かれているマルクスの革命的息吹を体中で受け止めることができました。『共産党宣言』と『資本論』は、一対で労働者の思想になったということがよく分かりました。

【p】

 今回の学習会で、かつて『資本論』を読んだ時の学び方が多分に理論的理論を導き出す様になっていたことを自分自身感じました。まだ現場労働者と共に学習する機会を得ていませんが、労働者と共に学んでいく場合の討論の仕方などの点で参考になりました。
  それと、今日の情勢の下で『資本論』を学ぶ場合、ブルジョア・イデオロギーに慣れ親しんでしまっている現状を『資本論』を通して突破していく、あるいは、『資本論』に関する種々の解説・議論が、学者的なものが多い中で、労働者階級の自己解放、その実践の中での党派闘争、何よりも労働者自身の闘いの書として読みかえすことが問われていると感じます。「労働日」の章は、その意味で資本主義社会のむごたらしさを示し、資本家の正体を暴露している章で、ここから読む込んでみることもいいかもしれません。

【F】

 ■『共産党宣言』から『資本論』の学習に入るにあたって、ある種の“転換”が必要だと感じた。それは「なぜ『宣言』だけではいけないのか」という疑問への回答であり、マルクスが、なぜ2月革命を頂点としたヨーロッパ全土に巻き起こった革命の敗北のあと、『経済学批判』、『賃金・価格・利潤』を間にはさんで、約20年後にようやく訪れた革命の高揚の−パリ・コミューンに向かう−中で、『資本論』第1巻を世に送ったのかということでもあると感じた。「『宣言』は、マルクスとエンゲルスが唯物史観にのっとって、はじめてブルジョア社会の根底における階級対立を明らかにし、プロレタリア革命=共産主義の必然性を実践的な革命綱領として提起した」。しかし、労働者階級が真に社会の主人公となり、新しい社会を運営していくためには、それだけではいかない。資本主義社会の徹底的な解明=解剖が必要だった。『資本論』冒頭の、要約すると「資本主義社会は、巨大な商品の固まりでできている」という一文は、マルクスがついにつかみとった資本主義社会の一切を表している。
  討論の中で、古代奴隷制、中世封建制(農奴制)、そして現代の資本制(賃金奴隷制)の相違点についての論議があったが、資本主義社会は、ひとつの階級関係が商品の売買という形をとっている=労働力の売り買いの関係として階級関係があらわれるという、これ以上ない形で階級対立を単純化し、そのことで社会全体が“商品の固まり”となっている。だから、資本主義社会を根底からひっくり返していくために、商品を切り口として解剖するのだということ、ここをしっかり確認する必要性を痛感した。(ついでながら、モストが第1章を数行ですませてしまった、その問題意識を知りたいと思った。)
■公務員労働者の問題について。たしかに直接剰余価値を生み出す労働ではないけれど、ブルジョア社会(ブルジョア支配)を維持するための道具=国家という支配(統治)機構を労働によって支えているという視点で考えればよいのでは?

【q】

 『資本論』が、労働者階級にとって自らを解放する革命の理論だということを改めて感じた。資本家階級のイデオロギーを覆し、労働者を商品化していることの残酷さを徹底的に暴き出さなければならないと思う。
  資本家は、自分が買った商品(労働力)をとことん使い切る。労働者を物として扱い、死のうが構わないというのが資本家の本音だと思う。今回触れられた、「労働日」の章の中の当時の状況は、今もたいして変わらないものだと感じた。マルクスが『資本論』の最初で商品を解明し、商品化された労働者の姿に怒りを爆発させていたのではないか。今回は『資本論』の入口での論議だったが、そのことを強く感じる内容だった。
  また、冒頭部分の「資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会の富は、…それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる」の重要性が分かった。改めて学習していきたいと思う。

【D】

 『資本論』を学ぶ意義が提起されたと思う。
  まず、労働者が自らの理論を持つことの重大性。被搾取階級からの解放を闘い取る階級だからこその必要性。その理論としてのマルクス主義を勝ち取ることが重要。
◎基本的な部分は『共産党宣言』で出されている上での『資本論』の意義について。
  恐慌が周期的に起き、絶えず社会を破壊しながら、さらに大きな恐慌を準備する資本主義の根底的矛盾。社会の発展にとっての桎梏でしかなくなった資本主義。労働者を「モノ」とし、搾取することを存立の絶対条件としているからこそ、資本主義社会である以上、それが打倒されるまで労働者の闘いが続くこと。資本家と労働者の絶対的非和解性。結論的には『共産党宣言』で出されている上で、理論的深化・発展としての『資本論』。全面的、徹底的に「明らかに科学的方法」で解明したもの。
⇒労働者階級が、「賃労働と資本の関係を廃止すると同時に、一階級の他階級への抑圧と搾取そのものを終わらせ、社会の諸階級への分裂をなくし、人間の手に奪い返す」ことができる根拠が明らかになっている。
⇒綱領草案の議論を深化させるものとして。
◎明らかにしていく上で、
  ・人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する。
  ・現在の社会は資本主義社会であり、その解剖は経済的関係を明らかにすることが必要。
  ・資本主義社会は「ひとつの巨大な商品の集まり」からなっている商品経済社会⇒「商品が商品を生産する社会」

【I】

 モストの『資本と労働』は、何回か読みました。私は活動家になった時に、マルクスの『資本論』全巻をすべて買いましたが、実際にはほとんど読まずにいました。労働組合に加入し、自身、階級的労働運動路線を支持している以上、今、本当にマルクス主義を身につけ実践しなければ、私の党における存在意義はないと思い、党学校に参加しています。ここでは精神障害者云々を言うことを自覚的にやめます。なぜならば、資本による搾取と支配を受けているという点で、自分は労働者階級の一員であり、階級的団結で体制内勢力−資本と闘う立場に立つことが、私の中でハッキリとしているからです。
  モスト自身、労働者であり、しかもドイツ革命を闘った人物であり、その立場から『資本と労働』を書いているので、あまり無理なく理解できます。この学習が一般的なそれではなく、「『資本論』で武装し、綱領草案を深化させる」。つまり、「今の世界大恐慌を革命へ」という観点から講師が話をしてくれ、また自分の質問にも答えてくれたので、自分としては、改めて労働者階級の一員としてプロレタリア革命勝利のために闘うという決意を固める日となりました。
  特に強く感じたことは、資本主義の下では大恐慌が1度や2度ではなく、周期的に起こり、その時こそ全世界の労働者にとって革命へと突き進むチャンスであるということ。現にマルクスも、時に敗北して当面の闘いができなくても、総括をして、次の闘いを迎え、それが1917年のロシア革命勝利につながった、ということ。労働者の労働力が資本の価値の自己増殖のための「モノ」としてしか生きられない、ということです。
  結論は、資本の最後の砦・道州制攻撃−暴処法弾圧を打ち破り、自分自身も、この1年をとおして労働者を組織できる理論を身につけ、革共同の一員として闘い抜くこと。そして、多くの青年−学生に負けず(気持ちでは)、動労千葉との団結で闘いたい、ということです。この「闘いたい」というのは、誰がどうだとかということからではなく、内的な欲求です。労働者の労働力を資本の価値増殖としかとらえない。この資本主義を絶対に倒すために闘います。

【h】

 動労千葉が動労千葉たりえたのは、その指導部がマルクス主義で武装されていたからだという提起は、やはり重要だ。負けても負けても立ち上がることができるのは、マルクス主義で武装されているからだ。すなわち、資本主義社会の科学的解明ができているからこそ、分割・民営化過程でも正しい時代認識をもつことができたからこそ闘う時、闘うことができた、と思う。『共産党宣言』に加えて『資本論』学習の意義が鮮明になった。
  その上で、『資本論』の中身も、商品社会とか、貨幣・資本について討論でよく分かった。要するに、資本の増殖だけを目的とするから、爆発的な生産力の発展をかちとったが、それを資本はコントロールできなくなった。
  労働者が自分の思想をもつということは、自己を支配階級として高めていくことであり、マルクス主義で武装することが、イコール自己を支配階級として高めていくことそのものであることがよく分かった。
  G−W−G’の説明もよかった。単に学問的な解説にとどまらず、資本主義社会を打倒しなければならないことがよく分かった。
  次回の本論に向かって、しっかり学習していきたい。

【X】

 講師から『資本論』をどう読んでいくかというテーマで話されて、資本主義社会は「社会の富」が「ひとつの巨大な商品の集まり」からなっている社会、「商品が商品を生産するような社会」、資本が労働者(=労働力)を商品として買い入れ、使用するという形をとって生産をおこなう、「資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会」。このことをしっかり押さえておくこと、と提起されました。
  このことがやはり印象に残りました。資本主義社会は労働力が商品として扱われる社会なのですが、この労働力商品ほど人間社会の中で、歴史的にも現実的にもひどい取り扱いを受けている商品は無いのではないか。
  マルクスは、労働力の価格=賃金はその持ち主である労働者の生活費用(生命をつなぐ食料費や居住費、子どもを産み育てる費用)としているが、今日の年収200万の非正規労働者には子どもを産み育てることなど無理であるし、同じ職場で同じような労働をしていても賃金体系が幾つも違うし、しかも、労働を使用した資本が労働の対価としての賃金を支払うのではなく、別の資本=派遣業者や下請け業者が賃金を支払ったりとか。こんな無茶苦茶な扱いを受ける商品は絶対に無い。
  そして、エンゲルスの『イギリスの労働者階級の状態』など読んでも、労働者の生活費用と言える賃金を受けとっていた労働者は本当にいなかった、ことなど思い起こされる。
  資本家は、仮に賃金を労働者の生活費と言えるくらい支払っても十分に剰余価値を手にできるのだが、ほとんどそうしない。労働者の闘いで強制されない限り、そうしない。
  また、講師から「資本の目的は価値増殖であり、それはひたすら増殖を続ける運動である」とも言われました。そして、その価値増殖(剰余価値の生産)は、生産過程の中で必要労働をオーバーする剰余労働だけから生み出される。したがって、「労働日は資本家にとって長い方がいいということになる」。この何ともグロテスクな吸血鬼の運動が資本の運動である。
  こうした資本の運動がたどり着くものが世界大恐慌である。資本主義社会とは何ともあまりにもふざけきった社会であることか。このことを、改めて強く思った。

【J】

 この間の労働運動の現場における党建設の闘いで実感していることですが、日々、資本の攻撃と対峙している労働者が、自分の理論を持つことの大きさである。資本と闘うこと、現場労働者が、われわれと共に資本との闘いを始めること自体の中に、極めて大きな自己解放的な階級意識の高まりを感じますが、職場活動家の党への結集という問題は、やはり、意識的・計画的な理論闘争の積み上げが絶対的だと実感しています。資本主義の下で、自分は実は“商品”なのだ、という事実を完全に理解することの決定的な意味、ということでしょうか。モスト氏がパンフレットをまとめた問題意識も、そういうことなのだと想像できます。
  「何だかんだ言っても、社会は少しずつ良くなっているのだ」という支配階級のイデオロギーは、なかなか強力であって、日々の党派闘争の思想的な攻防点でもありますが、プロレタリア革命をやり抜く、という立場への飛躍にとって、やはりマルクス主義の核心問題を理論的につかみとる闘いが、大きくものを言うわけです。
  そういう意識性において、このモスト『資本と労働』の学習会(読書会)を組織することは、極めて有意義であると感じた次第です。

【K】

 1)今回は、ついに『資本論』。改めて、冒頭「商品」の理解の重要性を認識しました。「難解」ということが強調されますが、資本主義の正体をとらえることがプロレタリア革命の核心なので、資本主義社会=商品経済社会としてつかみきることは重要だと思います。現代革命がプロレタリア革命であり、プロレタリア(労働者)の事業=解放の主体はプロレタリアであるというのは、労働力の商品化を基礎として成立している資本主義社会だからなのです。
2)『資本論』そのものを労働者のもの(武器)にする読み方が必要です。モストの本(パンフレットですね)は、その手がかりになる。これを読んだら、『資本論』そのものにくらいつく意欲がわくというように。その点で言うと、『資本論』は面白い!ということをつかむことが重要だと思う。
  「サラッと流して読めるようなシロモノではない」ということを講師は言っていましたが、私はそうは思いません。とくに初めて読む場合は、物語として「サラッと」読み通してみるのがいいです。私は、4回獄中で読みましたが、2回はそうしました。『資本論』は、とにかく一度読み通す。それには、「物語」として読んでしまうのがいい! いろんな引用があったり、シェークスピアだの何だのと…。また、格言が散りばめられていたり−「怠惰な勉学は怠惰を学ぶのと変わりはない」なんていうのもありました。工場監督官のレポートなんか、すごいです。
  だから私は、モストのように「難解な」所はダーッと流して読み切ってしまうことを勧めます。そして学習会では、「いかに難しくて苦労したか」なんていう話はせず、面白いんだ!ということを強調するのがいい。
3)討論について。「奴隷制社会と資本主義社会」についてひとしきり論議になりましたが、大事なことは、資本主義社会は「完成された奴隷制」だということではないでしょうか。「賃金奴隷」。「完成された」というのは、見えない鎖(=資本)につながれているということ。自由意思による商品売買という形で、搾取の痕跡が見えない。そして、働けば働くほどガッチリと資本の鎖につながれていく。
4)モスト『資本と労働』について。マルクスが1章「商品と貨幣」と8章「労働賃金」をほとんど書き直したというのが、このパンフレットをすごいものにしていると思います。「商品」のところをわずか2〜3行にしちゃうというのは、モストという人物の激しさ、人となりを表しているような気がします。
5)85年10・20−11・29の獄中戦士たちは、ものすごい意気込みで『資本論』に取り組みました。仲山良介著『「資本論」の研究』(上・下)を手引きに(手引きにしては難しかったけど)。あれからずいぶん経ちますが、再び党内に『資本論』ブームを起こしたい。

【M】

 講師が言っていたように、私も原典に挑戦したことがあったが挫折し、『「資本論」の研究』が出た時も学習会にチャレンジしたが、これも続かず、『資本論』は投げ出していました。今回、モストの『資本と労働』が出されたことで、久しぶりに学習する機会ができました。
  「大恐慌を革命へ」というスローガンは、資本主義という社会の在り方が歴史的限界にぶち当たり、それが労働者階級にとって「革命の条件の成熟」ととらえているわけだから、改めて資本主義の基本矛盾ということを、理論的にもつかまなければなりません。まだ全体系がつかめた訳ではありませんが、今回自分が理解したことを列記して、報告とします。
  「資本主義社会は、巨大な商品の固まり」=「商品が商品を生産するような社会」。そして、「商品を生産する労働者も、商品にされている」
  この労働力商品の売り手が労働者であり、買い手が資本家であるが、「資本主義社会は資本が労働者を搾取することを基礎にして成り立っている」。その資本は、「価値の運動体であり、利潤を追求することが唯一の目的であり、本質である」。だから、「搾取というのは、一番わかりやすく言えば、労働者を長時間働かせること」
  ところが大恐慌の中では、資本が利潤を守るために膨大な労働者のクビを切る。その中で、膨大な労働者が働けなくなっている。この現実こそ資本主義の基本矛盾だし、資本主義体制の命脈が尽きたということだと思います。

【i】

 「大恐慌を革命へ」というスローガンを、今われわれは掲げて進んでいる。革命が眼前に迫った。待ちに待った時代が到来したのだ。今こそ、資本主義をプロレタリア革命で打倒せよ、というマルクス主義の原点が問われている。それは、『資本論』の全内容が試されているということでもある。
  『資本論』を読むという場合、われわれは、何よりも革命実践の書として学んでいくのでなければならない。
  実際、『資本論』は当時の革命運動の実践と深く結びついて書かれている。ドイツ国内でのラサール派の運動への批判が、冒頭商品章の改作・改筆の動機である旨は、初版・序言に記されていてよく知られているが、ドイツ国内だけでなく、第1インターナショナルの政治的・理論的指導者としてのマルクスの実践が行文を規定していることも確かである。プルードン主義やリカード派社会主義への評記が『資本論』の原理的内容に関わる場面でなされていることを見れば、あるいは『資本論』に関するマルクスの手紙を見れば、それは明らかである。
  とはいえ、マルクスは『資本論』を、ドイツ国内や第1インターの時務的指南書として書いたのでも、運動の政策立案のための基礎理論を提供しようとして書いたのでもないであろう。当面の運動の動向とは全く射程を異にする、資本主義経済体制に対する原理的なトータルな批判をめざしたものであるに違いない。
  『資本論』を読んでいて驚かされるのは、マルクスの筆致の冷静さではないだろうか。議会報告書や白書・青書の類の文章が淡々と引用・列挙されている箇所がそちらこちらにあるが、その引用文の客観性が読む者をして胸の深いところからの怒りを呼びさますのである。これは、資本主義社会の現実の不当性を告発していくマルクスの姿勢が俗流ヒューマニズム的次元をはるかに超えてなされていることから来ているに違いない。
  今回の講義は、モスト『資本と労働』へ具体的に言及して展開するところにまでほとんど進まなかったのであるが、モスト『資本と労働』にあっても、マルクスのこの根底的姿勢は垣間見ることが出来るように思う。次回講義で、モスト『資本と労働』と『資本論』そのものの論述との相違と一致点を踏まえた、マルクスのこの資本主義批判のトータリティを学びとっていきたいと考えています。
  なお、モスト『資本と労働』にあって、とりわけ私は、結論部、「自由な労働者たちの協力体」による「協同組合的生産様式」(132〜133頁)によって、価値のない社会=共産主義社会の実現だけが労働者階級の解放へといざなわれるのだという箇所の理解の深化に期待しています。

【a】

 講師はモストとの出会いを熱っぽく語った、「これは、一気に読める!」と―日々の忙しさも口実にはできない−
○一番の問題は、『資本論』に食いつこうという熱意がなかったのである。何十年も革命運動をやってきて、『共産党宣言』〜『賃労働と資本』・・・いろいろ過去に読んできたが、『資本論』は「資本主義社会は巨大な商品の固まり−商品となにか」から始まったぐらいのことは知っていた。で、それ以上は1ページも読んだことがないのである。泣き言をやめて、結論的にいうと、すごく混乱したのが現実だった。モスト『資本と労働』は、「はじめに」と4の「労働日」まで拾うように読んだのが実態であり、最初から最後まで学習不足であることを痛感。その上、講師は「モストの本を順にやっていくことはしない」と言われたからなおさらだった。帰って、「一気に読もう!」と言い聞かせた。
○『資本論』で武装せよ!
  講師は「これは、一気に読める。読んでしまう」と何回も繰り返した。さらに「2000万青年労働者、6000万労働者を獲得する武器に」・綱領草案の学習のためにと提起した。
  何故、『資本論』なのか。『党宣言』・・・さまざまな文献の再学習をする中で、たとえば5月の『賃労働と資本』でも、改めて激動・恐慌の中で書かれたというリアル感を共にすることができた。いつも、革命の原点を、『党宣言』に求め、レーニンに依拠してきた。マルクスが通ってきた時代と以降10回以上の、周期を経て訪れている過酷なブルジョア的所有関係を発展させていくことができない時代・恐慌。つまり、わたしたちが世界恐慌を資本主義の限界と革命の成熟ととらえている時代。マルクスの1848年から1867年の深化と実践が問われているこのときに、実践として武装することではないか。
○−ブルジョアジーはこの恐慌をどうやって克服するのか−
  この命題はプロレタリアートにとっては、資本主義を打倒する命題である。革命である。まさに、実践的な命題である。『経済学批判』で結論づけた「ブルジョア社会の解剖は、これは経済学に求める」すなわち、「生産諸関係の総体は社会の経済機構であり、それが桎梏と一変するとき社会革命の時期が始まる」。この確信が科学的でもあり、革命したい衝動ともいえる。
  だから、「時代認識−世界大恐慌」と路線「階級的団結論と絶対反対論」を確信してたたかうことで資本主義を打倒するための深化なのである。
○商品、貨幣、資本から始める意味
  資本とは何か。ブルジョアジーとは、プロレタリアートとは何か、どういう関係か。なぜ、非和解的なのか。それは「資本主義社会を巨大な商品の固まり」とみる、資本−貨幣−商品であると。諸商品は…ひとつの共通な価値形態−貨幣形態を持つことの意味を具体的に追求していく。資本と労働、労働者の実態までに、モストは光を当てていく。生産様式・・、「頭からつま先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくる資本」に怒り、「労働日」では「きみは」といいながら、資本をこっぴどく暴き、徹底的に切り裂く。「あとがき」で「ひとりでに人類の手の中に転がり込んでくることはない。むしろ、時代からもぎり取る」といい、「労働者のいるすべてのところで宣伝」、「国境を踏み越えて互いに…結合」と呼びかける。11月への実践的力のために、次回の学習へ。やっと堕ちこみから脱する。混乱の第1回感謝!

【r】

 『資本論』をなぜ学ぶのかという、ある種あたり前のところで、まずしっかりと考えつくさないとならないと思います。決意と気合いだけで読めるものでもないし、読んでも学術的理解にはまり込んでしまいそうだから。その点、前半部分の提起をそう受け止めました。
  8・30をもって、いよいよ我々が経験したことのない激動情勢に日本階級闘争も突入します。あらゆる動と反動、左右の激突が開始される中で、党と階級がそれら一切を受け止め闘っていくためにも、『資本論』の中身で武装する必要性があると思います。
  党が綱領作成に着手した地平を階級の中におし広げていく中身は、『資本論』であり、『共産党宣言』なのだと思います。あらゆる激動期においてもブレない、党と階級の団結の思想的根拠に『資本論』を据えきる闘いが歴史的に要請されていると思います。
  内容としては、冒頭の「資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会の富は、一つの巨大な商品としてあらわれ、一つひとつの商品はこの富の基本形態としてあらわれる」という一文が、資本主義社会のとらえ方として決定的に重要なのだと分かった。この一文が重要であることがつかめただけでも、学習会に参加した意義がありました。
  その上で、労働者が労働力商品として扱われている現実、商品が商品を生産する社会…だからマルクスは、商品から分析を始めたのだという点も、今までの疑問の一つだったのでよかったです。
  あと、G−W−Gと資本を固定的にとらえるのではなく、ひとつの流れとして、動的なものとしてとらえることも、なるほどと思いました。

【f】

 @前提として、『資本論』を読みきったことはありません。(何度も挫折している。)
A今回の講義で、いま一度全面的に『資本論』の学習に突入したいと思いました。
B講義の中で最も重要だと感じたのは、「被支配階級が自らの理論を持てば必ず勝利する」ということです。
  講師も述べていた通り、商品交換を毎日くり返すことそれ自体が、人々の意識を形成し、賃労働と資本の関係を「当たり前」のものとして刻印していきます。
  だからこそ最も重要なことは、真実を暴ききることだと思います。それが、労働者のこの社会に対するストレートな怒りを呼び覚まし、階級社会を廃絶するための無限の力を解き放つ。自らの存在がいかなるものであるか自覚した労働者は、必ず一心不乱にプロレタリア革命へと決起する。
C時代が〈大恐慌〉であるが故に、「景気は底を打った」などのブルジョア・イデオロギーは、一層強固なものとなっています。
  すなわち、今こそ『資本論』のレベルで、ブルジョア社会をぶった切っていくことが絶対不可欠です。自分自身、何としても『資本論』の学習に勝利したい。

【d】

 何より、『資本論』に挑戦するということは途方もなく大変な作業のように感じていましたが(時間的にも…)、『資本と労働』という、このモストの取り組み+マルクスの加筆のパンフレットというものが、今の大恐慌の時代・情勢に間に合うものとして労働者階級に提供されているということが、よくわかりました。
  資本家階級と労働者階級は非和解であり、資本主義社会を打倒・転覆して労働者階級の社会をつくるには、労働者の理論が必要という強い問題意識で、『資本論』が書かれた(心血注いで)ことの意味もわかりました。
  地域で、マルクス主義の学習会を始めました。まず『共産党宣言』からスタートしていますが、仕事に就くことのできない女性(病気を持っている)は、2大階級の絶対非和解な関係性etc.をつかむ中で、「学習会が楽しい、自分が生きていていいのだ。11月集会も行きたい」と言うようになりました。
  働くことができず家にいるということで、家族(親)からもうとんじられ、自分に自信も確信も持てないでいた人が、この社会の仕組みそのものの中に矛盾の原因を見いだしはじめています。親ということを通じて資本の論理でせめたてられ、居場所もない。こういう人たちも、11月集会に期待しています。
  8・30へ向かう情勢をめぐる討論で、資本主義は打倒できる!という討論ができたことから、11月集会につながりました。