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2009年08月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(下)

講義概要 P1-8

★討論から- P9-17

受講レポート P17-28

2008年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-8 講義概要

マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(下)

後半講義概要 講師仲山 良介 

第10期第4回マルクス・ エンゲルス『共産党宣言』(下)

 160年前に出された『共産党宣言』は、労働者階級自身による革命宣言であり、プロレタリア革命=共産主義論の核心問題を鮮明に突き出している。また、その貫徹・実現のために、共産主義者=共産主義者の党の性格と任務、究極的勝利の根拠を明らかにし、闘う労働者階級にその党への結集(階級的革命的団結)をよびかけた綱領的文書である。それ以後、『宣言』は、ずっと、生きて現実を規定してきたのだが、今、ら旋的に<資本主義末期の歴史的危機>への突入のなかで、ほとんどストレートに労働者階級にとって「生きた綱領」としての意味をもってよみがえっている。
  前回の序章と第1章を踏まえ、第2章から第4章のポイントを提起する。(第2章は7つに分けてとらえたい。)

【第2章 プロレタリアと共産主義者】

(1)共産主義者とは、自分の歴史的使命を自覚した「たたかう労働者」。党とは、労働者階級の先頭に立って究極的勝利まで闘う共産主義者の政治的結集体

  「共産主義者(たち)はプロレタリア一般に対してどんな関係にたつのか? 共産主義者は他の労働者党にくらべてなんら特別の党ではない。特別の原則を立てて、その型にプロレタリアの運動をはめ込もうとするのものではない」 
  ブルジョアジーとの階級闘争イコール政治闘争・権力闘争だから、(この闘争をやりぬくために)闘う労働者階級は政治党派として自分自身を組織する必要がある。その党(共産主義者の党)はブルジョア的政党や労働者の見方ヅラをした体制内諸党派とは違う。だが、労働者階級全体の利害と別なところに党があるのではない。
  「特別の原則をたて、その型にあてはめる」というのは、それまでの「同盟」(共産主義者同盟とその前身「正義者同盟」)の思想と運動の狭いあり方をも含めて批判的にとらえ返したものである。ここで述べられている党の概念は、「革命的プロレタリアートそのもの」「究極的勝利をめざすプロレタリアートの革命的団結体」「革命的プロレタリアートの政治的結集体」ということだ。これが、労働組合的団結と一体で(後者を土台として)提起されている。
  「共産主義者が他のプロレタリア党と違う点。一つは、プロレタリアの様々な国民的な闘争において、国籍と無関係なプロレタリア階級全体の共通の利益を強調し貫徹すること、もう一つは、プロレタリアートとブルジョアジーのたたかいが経過していくさまざまな発展段階で、つねに運動全体の利益を代表すること、以上の点だけである」
  この2つしか違わないという意味。しかしこれは、実は大変な質的違いだ。体制内的であるかぎりは、こんなことはとても貫徹できない。
  「だから、共産主義者は、実践的にはあらゆる国々の労働者党のなかで最も断固としており、つねに運動を推進していく部分である。また理論的には、プロレタリア運動の諸条件、進行過程、一般的結果を見通している点で全プロレタリアートに先んじている」
  「違わない」と言ったことを、「実践的には、理論的には」と、別の角度から述べている。そこを踏まえて、
「共産主義者の当面の目標は、他のすべてのプロレタリア党と同じである。すなわち階級へのプロレタリアートの形成(@)、ブルジョアジーの支配の打倒(A)、プロレタリアートによる政治権力の奪取(B)である」とまとめている。
  他のすべての「プロレタリア」党も、多かれ少なかれこのような政治的目標をもっているだろう。少なくとも政治権力を目指しているからこそ政党なのである。だがここで重要なことは、共産主義者にとってこのような政治的目標は、「当面の目標」にすぎないということ。そもそもこの3点セットを三位一体でとらえたとき、たんなる「政治権力の奪取」(政権交代)以上のものであることははっきりしている。

(2)共産主義者は、究極的には何をめざしているか

 第2章のここではじめて、プロレタリアートの運動の目標(一般的到達点)としての共産主義について述べている。
  「共産主義者の理論的命題は、けっしてあれこれの世界改良家が発明したり発見したりした思想や原理にもとづくものではない」「共産主義者の理論的命題は、現に行われている階級闘争、つまりわれわれの目の前で展開されている歴史的な運動の本当の諸関係を一般的に表現したものであるにすぎない。これまでの所有諸関係を廃止するということは、なにも共産主義に独特のものではない」
  共産主義とは、何か特別の原理をたてて、それにあわせて社会をつくりかえる運動ではない。そんな世界改良家風のものではない。共産主義として(世間でこれまで)言われてきたことは、<所有そのものの廃止><共産主義は人の所有を奪う>ということである。共産主義=財産共同体=財産共有制(個人の所有を廃止する)。このような世間の常識をひとまず肯定しながら、次のように言う。
  「すべての所有諸関係はたえず歴史的に交代し、歴史的に変化してきた」「たとえばフランス革命は封建的所有を廃止して、ブルジョア的所有をもたらした」「共産主義の特徴は、所有一般を廃止することではなくて、ブルジョア的所有を廃止することである」「ところで近代的なブルジョア的私的所有(私有財産)は、階級対立すなわち他人の搾取にもとづいて生産物の生産と取得が行われる、最後のそしてもっとも完成された表現なのである」「このような意味で、共産主義者は自分たちの理論を、私的所有の廃止という一語に総括することができる」
  <共産主義=財産共有制=所有の廃止>(つまり他人の財産を奪う)という観念に対して、ブルジョア的私有は「階級対立すなわち他人の搾取にもとづく生産と取得の完成された表現である」から、その廃止は階級と階級社会の廃止となる。だから、共産主義とは私的所有(私有財産)の廃止と一語で表現できると展開している。
  抽象的な<所有の廃止、財産の廃止>ではなく、<搾取によって他人の財産を奪う階級社会の廃止=具体的にはブルジョア的私有財産の廃止=賃労働と資本の関係の廃止(=つまり結合した労働者が社会的生産を自分の力で運営することを土台とする社会)、これが共産主義であり、共産主義者にとっての「目標」である。

(3)共産主義者は個人的所有を廃止するのか?

 次に、ブルジョア的私的所有の廃止イコール個人(=人格)・自由あるいは労働(勤勉)の否定、さらには、家族や道徳の否定として、つまり人間性そのものの否定として共産主義者を罵倒するブルジョア的イデオロギー(インチキヒューマニズムの形をとる)を批判するかたちをとりながら、その欺まん性=空論性をつきだし、共産主義の積極的内容を打ち出していく。ここの基本的内容は、『資本論』の第1巻の最後のところとほとんど重なる。
  まず前提として、確認したいこと。所有は、本源的には生産を含むものだが、ブルジョア的には、生産と切り離されて結果のみを表す概念となっている。諸個人にとっては、生活の物質的条件そのものとしてある。しかし、生産関係と所有関係は表裏一体である。
  「ブルジョア的所有以前の〈小ブル的・小農民的所有〉は、工業の発達によって廃止されつつある。近代のブルジョア的私的所有は、賃労働と資本の関係がその内容をなしている。賃金労働者は、資本をつくりだしているのであって、自分の個人的所有をつくりだしているのではない。資本は賃労働を搾取して増殖する」
  「資本は社会の多くの成員の共同の活動。究極的にはすべての成員の共同の活動によって運動する」「資本は個人的な力でなく、社会的な力である」「したがって、資本が社会のすべての成員の共同の所有に転化するとしても、個人的所有が社会的所有に転化するわけではない。所有の社会的性格が変わるだけ。所有が階級的性格を失うだけ」 
  「個人的所有」は、働く人(労働者)が自分のものとしての生産手段で生産活動を行うことを前提とする。これが基本。「近代の賃金労働者」の場合は、自分の生産手段で働くのでないから、個人的所有とはいえない。一方、資本家は労働し生産しているのではなく、資本を動かしているだけ。この資本は社会的生産の全体の中で、「社会的力」としてあって、資本家はそれを私(わたくし)している。資本は、他人の労働の搾取であって、自分の労働で生み出すものではない。だから個人的所有という規定はあてはまらない。
  われわれは、<賃労働と資本関係、賃労働そのもの、そして資本関係・資本そのものを廃止する>のだ。
  共産主義は、<生産手段と土地(本源的生産手段)の共有にもとづく個体的所有を復興する>(『資本論』第1巻第7編、24章の第7節)。『資本論』とまったく同じ展開ではないが、基本的に同じことを言っている。

●人格と自由、個人(の廃止)について

 「ブルジョア社会では資本が独立して人格をもっている」「活動する個人は独立しておらず、人格も持っていない」
  ブルジョア社会では、労働者階級は労働力商品=モノにされ人格を否定されている。しかし、資本家どもにも本当に独立した人格などはない。また自由とは、「ブルジョア的生産関係のもとでは」自由な商業、売買・取引の自由、つまり資本の自由、搾取の自由であるにすぎない。
  「ブルジョアジーの自由に関するおしゃべりは、中世の隷属状態にたいしてのみ意味を持つ」「ブル的生産関係の共産主義的廃止やブルジョアジーそのものの共産主義的廃止にたいしては何の意味ももたない」「現在の社会では、社会の圧倒的多数は無所有なのだ。それを前提条件とするような所有を廃止するのは当然」「われわれは、諸君が言うとおり、諸君の所有(そのもの)を廃止する」「共産主義が奪うのは、社会的生産物を取得する力ではない。社会的生産物の取得によって、他人の労働を隷属させる力だけである」

●労働する意欲、勤勉と怠惰

  「私的所有を廃止したら怠惰がはびこる」という人がいる。こういう主張は、人は奴隷的強制によってしか働かないという考え方に縛られている。

(4)精神的生産物の取得と生産に関して
  ブルジョアジーにとって、階級的生産の廃止は生産そのものの廃止だから、階級的な教養(文化)の廃止は教養そのものの廃止と同じ。ブルが失われると嘆いている「教養」とは、多数者にとっては(労働者にとっては)、「機械になるための訓練」である。
  「諸君の思想=ブルジョア的思想そのものがブル的生産諸関係・所有諸関係の産物である。諸君の法とは、法律にまで高められた諸君の階級的意志そのものだ。その意志は、諸君の階級の物質的生活条件によって決定されている。ブル的生産諸関係、所有諸関係は歴史的なものであって、永遠ではない」

●家族の廃止!

 これについては、そうとう急進的な人々でも共産主義者を非難弾劾する。
  「だが現在の家族は、資本=ブルジョア的私的所有にもとづいている」「完全に発達した家族(ブルジョア家族)は、ブルジョアジーにとってしか存在しない。これは、プロレタリアートに強制された無家族状態、公的売買春によって補完されている」「ブルジョア的家族は、この補完物なしには成立しない。この補完物は資本が無くなれば消え去る」
  (少なくとも)ブル的生産関係の廃止と共に、そこから必然的に生じている「女性共有制つまり公認非公認の売買春」もなくなることは明らかだ。
  ブルジョア的家族は、ブル的私的所有から生まれてくる。その一部分をなしている。家族関係は、歴史を超越した永遠の関係、形態のもとにあるわけではない。それは、生産諸関係・所有諸関係、社会的諸関係のなかで変化する。男女の関係、親子関係、社会的に子どもを産み育てる関係(そのあり方)は、永遠不変のもの・固定的なものではない。「家族そのものは永遠である」というのも間違いである。ブル的な私的所有の廃止は、「家族」の狭い枠からの人間の解放をもたらすだろう。

●祖国と国民性

 「労働者は祖国をもたない。持っていないものをとりあげることができるか」
  「プロレタリアートは、まず政治支配を奪取し、自らを国民的階級へとたかめ、国民として自らを形成する。だから、ブルジョアジーと同じではないが、なお国民的である」(だが)「諸民族の分離と対立はブルジョアジーの発展、生活諸関係の(国際的な)一様化によってますます消え去りつつある。プロレタリアートの支配は、こうした対立分離を消滅させる。少なくとも、文明諸国の団結した行動がプロレタリア解放の第一の諸条件である」「個人による他の個人の搾取が廃止されるにしたがって、…」「国民・民族の内部での階級的対立がなくなると、諸国民相互間の敵対的関係もなくなる」
  民族もまた歴史的諸関係、階級的諸関係のなかで生きている。それ自体が変化する。プロレタリア革命=世界革命だけが民族問題を解決できる。

(5)宗教、哲学、道徳などのイデオロギー的諸形態

 「人間の観念、見解、概念、ひとことで人間の意識は、生活諸関係や社会的諸関係、社会的あり方とともに変化する。精神的生産は物質的生産と共に変化していく。思想の歴史がそれを証明している。ある時代の支配的思想はつねに支配階級の思想であった」
  これは大事な確認だが基本的な確認である。問題はその先、「革命をもたらす思想があるということ」についてはどうか? そういうものがあるのか? マルクスはそう突きつける。
  「それは、古い社会の内部に新しい社会の要素が形成されたこと、古い思想の解体は古い生活諸関係の解体に歩調を合わせるということをいっているにすぎない」
  まず思想があってそれが次に「物質化」されるというわけではない。労働者階級の解放=革命的共産主義の思想・理論もプロレタリア階級闘争の現実の発展を基礎として生まれてきた。逆ではない。革命的階級が存在し、そのやむにやまれぬ実践的闘争があるということが現実的前提なのだ。そこから離れれば、「思想」は空回りするし、理論は科学の名で単なる「イデオロギー」に転化し、形骸化する。少数派として孤立することをもおそれず、断固として闘い抜くことができる土台も、このような現実を踏まえた確信のなかにある。

●宗教、道徳、哲学は永遠か?

  「階級対立が消滅することによってのみ解消するような意識形態のなかで人間の社会的意識諸形態は発展してきた。つまり、宗教、道徳、哲学、政治、法…という社会的意識諸形態は、階級社会が廃止されれば存在しなくなるのだ。共産主義革命の進展のなかで、伝来の思想ともっとも根底的に決裂するのは当然である」
  人間の意識活動は、自立逆立ちしたイデオロギー諸形態としてでなく、新しい形態と内容に置き換わっていくだろう。
  以上で、反論のかたちをとった積極的展開としての、共産主義論はひとまず終わり。「反論」を超えた、解放の条件と内容に関する中身のある展開だった。

(6)プロレタリア革命と共産主義への前進

 「労働者革命の第一歩はプロレタリアートを支配階級に高めること、民主主義をたたかいとることである」「プロレタリアートはその政治支配を利用して、ブルジョアジーから次第に資本を奪い取り、国家すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に、すべての生産用具を集中し、生産力の総量を急速に増大させる」「このことは、まずは所有権とブルジョア的生産関係にたいする専制的侵害をつうじて行われる」「この方策は、経済的には不十分で維持できないように見えるが、運動の進行のなかで自分自身を乗り越えて進む」「生産様式全体を覆す手段として不可避の方策である」
  <プロレタリアートを支配階級に高める=民主主義をたたかいとる。>  ここでの<民主主義>は議会制民主主義とは別の意味。「人民支配」。人民=プロレタリアート。
  その次の「国家すなわち支配階級として」とあわせて「プロレタリアート独裁」の思想の表現。ブルジョアジーにとって代わって、労働者階級が社会全体を自ら支配する。次に、すぐに全経済過程を運営できるとはいえないという意味で<次第に>ブルジョアジーの資本を奪い取る、としている。「次第に奪い取る」というと、ブルジョアジーの経済支配がかなり長く存在しているような感じだ。当時(『宣言』のころ)において、これがリアリズムだったのだろう。それでもプロレタリア革命(労働者階級は勝利できる)を言い切っている。ここのところは、パリ・コミューンの総括のなかで、一定の修正が行われた。略。

(7)第2章の結語部分「階級そのもの廃止と国家、および古いブルジョア社会の廃止」

 プロレタリアートがブルジョアジーの支配を倒し、権力をとり、支配階級となり、そして、「発展が進むにしたがって、階級の区別が消滅し、すべての生産が結合した諸個人の手に集中されると、公的権力は政治的性格を失う。政治権力とは、本来の意味では、ひとつの階級が他の階級を抑圧するための組織された暴力である。プロレタリアートがブルジョアジーとの闘争において、必然的に階級へと結集し、革命によって支配階級となり、支配階級として古い生産諸関係を暴力的に廃止するときに、プロレタリアートは、このような生産諸関係とともに、階級対立の存立条件と階級そのものの存立条件を廃止し、それによって階級としての自分自身の支配を廃止するのである。
  階級と階級対立の存立する古いブルジョア社会のかわりに、一人ひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展の条件となるようなアソシエーション(協力体・連合体)が登場する」
  国家権力は、ブルジョア社会の階級対立の政治的表現、政治的総括体である。社会から生まれ、社会の上にそびえ立ち、(超階級的外観のもとに)社会全体を束ねるという形で階級的支配を行う暴力組織である。ブルジョア社会がブルジョア的な非和解的な階級対立によって引き裂かれていること、つまり労働力の商品化をとおした階級的搾取(資本による賃労働の搾取)が貫かれていること、これによって、労働者は(また非労働者も)本来の人間の共同性・社会性を否定・解体され、敵対と競争、孤立化のなかに叩き込まれている。階級的対立が廃止されたとき、代わって登場してくるのは、国家と市民社会の分裂そのものを克服したアソシエーション〔協力体または連合体〕と呼ぶしかないような労働者の結合関係である。「自由に結合した労働者」が形成する社会的関係の全体(その結合関係)をさして、アソシエーションと規定している。
  ブルジョア社会における万人の敵対を超えた、<一人ひとりの自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような結合関係>。その母体は、闘う労働組合の団結形態のなかにあるといってもいいだろう。

【第3章 社会主義的および共産主義的文献】

三 批判的・空想的な社会主義および共産主義(これ以外は略)

 空想的社会主義の創始者とよばれる3人を「本来の社会主義的・共産主義的な体系」としてとりあげる。これまでの<社会主義または共産主義者>の思想運動に対して、労働者階級自身の<階級としての現実的運動(階級闘争)>を浮かび上がらせようとしている。
  この体系は、プロレタリアートとブルジョアジーの闘争の未発達の時代に現われた。彼らは、「階級対立を認識している」「彼らにはまだプロレタリアート解放の物質的諸条件はみえない」「彼らは、この諸条件をつくり出すために彼らなりの社会科学や社会法則をさがしもとめる」「歴史的諸条件のかわりに空想的諸条件」
  「プロレタリアートを階級へ組織していく代わりに、得手勝手なプランにもとづく社会の組織化が登場する」「これらの創始者は、彼らの計画がもっとも苦しんでいる階級としての労働者階級を代表していると思っているが、プロレタリアートをこのようにもっとも苦しんでいる階級としかみることができない」「だからこれらの創始者たちは、一切の政治行動とりわけ革命的な政治行動を拒否する」
  「(しかし)彼らの批判は現存する社会の根底を全ての面にわたって攻撃している」「述べられている未来社会に関する積極的な諸命題、たとえば、都市と農村の対立の廃止、家族・私的営利・賃労働の廃止、社会的調和の告知、たんなる生産管理機関への国家の転化――こうした諸命題は全て階級対立の消滅を表現している」「これらの諸命題は、純粋に空想的」
  「これら創始者たちが多くの点で革命的であったのに対して、弟子たちは反動的セクトを形成している(だけ)」「弟子たちは労働者のすべての政治運動に激しく反対する」(階級闘争に敵対する「社会主義運動」!)

【第4章 種々の反政府党に対する共産主義者の立場】

 「共産主義者は、どこでも現存の社会的政治的状態に反対するすべての革命運動を支持する。こうした全ての運動において、共産主義者は所有の問題をその発展形態のいかんにかかわらず運動の根本問題として提起する」
  「共産主義者は自分たちの見解と意図を隠すことを軽蔑する。共産主義者は自分たちの目的が、これまでの一切の社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に震えあがるがいい。プロレタリアートはこの革命において鉄鎖以外に失うものは何もない。プロレタリアが獲得すべきは全世界である。
  万国のプロレタリア、団結せよ」
  運動のどの段階でも「所有の問題を根本問題として提起する」ということは、階級的搾取、階級抑圧、階級支配つまり「これまでの一切の社会秩序」を暴力的に転覆しそして廃止するという意味である。ブルジョア的私的所有つまり近代の資本の搾取と支配を廃止することが階級的所有の全面的な廃止すなわち階級社会の全面的な廃止であるということ。そういうものとして、プロレタリアートは、「公的社会の一切」を吹き飛ばし身を伸ばし、社会の主人公となり、階級対立と階級の存在そのものを廃止する世界史的存在だ。ブルジョアジーの打倒=プロレタリアートの階級的解放はそのような根底的な革命である。
(後半講義了)

党学校通信 p9-17

討論から

●i

 レジュメ9nからの第2章の「(三)共産主義者は個人的所有を廃止するのか?」のところで、「『個人的所有』は二つの意味がある。『個人的に獲得した』『自分の労働で手に入れた』」と分けてある。これをあえて「二つの意味」だと分けていることを強調する講師の意図がよく分からない。
  もう一つは、同じ(三)の中にある、「所有の階級的性格を変化させる」ということ。これは本文的には新訳本35nの4行目の所、「したがって、資本が社会のすべての成員の共同の財産に転化する…」の所を指していると僕は思ったんだけども、マルクスの全体の意図の中で、これをこういうふうに言うことが意味があるのかよく分からない。レジュメでそのすぐ下にある『資本論』の本源的蓄積論の所からの引用、「共産主義は、<生産手段と土地(本源的生産手段)の共有にもとづく個体的所有を復興する>」との関係でもう一度、説明してほしい。

●講師

 「個人的に獲得した」と「自分の労働で手に入れた」という辺りを解釈して、「自分の生産手段」と「自分の労働」という2つに分けて考えたい。そうすると分かりやすくなる。封建社会末期の小農民的所有が、自分の土地で自分の労働で手に入れた個人的所有として述べられていると思う。「個人的に獲得した」というのは曖昧な言い方です。だけどもそこの所は、「自分の生産手段で」と、そして「自分自身の労働で」というふうに私は解釈して、ここを一貫して解釈するための方法にしているわけです。
  そうすると、2番目の質問ですけど、『資本論』第1巻の最後の所で述べられている、社会的な生産手段、本源的な土地も含む社会的生産手段の共有にもとづく個体的・個人的所有の復興、という所につながっていく。
  私有財産=資本で、それを奪い取るのは、単純に個人の財産を奪い取るのではなく、社会的な関係のもとで成り立っているものを社会に返すということになる。資本というのは資本と賃労働の関係ですから、資本としての生産手段、資本といういわば共同の社会的力、それを社会に返すということは、働く人間が共同の生産をとおして、その結果を自分が享受していく、生産と享受の関係そのものも全部変わっていく。
  そういう意味で、社会的共有を基礎とした生産関係のもとでの個体的所有の復興という、『資本論』が書いていることと完全に重なる。表現に違いがあるけども、基本的に重なっている、あるいは基本的に貫かれている、ということを強調しながら読んでいくというふうにあえてしたい。

●Z

 個体的所有と個人的所有というのは原語も違う?

●講師

 英語で言えば、個体的はインディビドュアル、個人的はパーソナル。
  個体的所有は、社会的な関連の中で個としての存在をきちんと位置づけているという意味になる。個人的所有は、歴史貫通的に、階級社会の狭い範囲で生産手段と自分の労働という形で、古い小農民の場合でも、これは個人的所有ですよと。ただ、これは封建的な意味での私的所有の支配する階級社会の中で、あえていわば小空間的に自分の生産手段で細々と自分の生産物を得るような生産が成り立っている。個人的所有ではあるけども、社会的に開かれた個体的所有とは違う。
  だから、私的という場合は、他人との蹴落とし合い。個体的という場合には、社会的関係の中で、個という結節環をちゃんと位置づけているというニュアンスが出てくる。
  さっきの質問にたいしては、自分の言ったことをもう一回くり返す形で答えたんですが、学習会なんかで『共産党宣言』全体を通して読んでいく場合の第2章の読み方は少し工夫が必要かなと思ってて、一応こういうふうに通しでつかんでみる。そうすれば第4章の一番最後まで全部通してダーンと一つの線が出ると考えています。

●h

 共産主義というのは、一言で言えば、“私有財産制度の廃止”ですけど、そのことの意味が、“共産主義は個体的所有を復興するんだ”と、今日初めて聞いて非常によく分かった。
  自分の生産用具を使って働く、その労働の生産物が自分のものになる、それは個人的所有となる。私的所有というのは、生産手段を持たない人たちが労働して、それが全部他人のものになっちゃう、それを奪い返すんだと。
  そういう点で、共産主義は“私有財産制度の廃止”ということだと。鉄鎖以外失うものはない、と言うけども、自分は失うものあるよ、みたいな人は結構いると思う。だけど、生産用具を全部ブルジョアジーが独占していて、その下で賃金奴隷として働かざるをえない、そこで得られた個人的所有というのは、自分の食う分のエサでしかないんだという社会のあり方、そういう所有関係をひっくり返すのが共産主義なんだという意味では、個人的所有と私的所有の違いが今日の提起でスッキリした。

●j

 第2章の提起の最後で、「ブルジョア社会における万人の敵対を超えた、<一人ひとりの自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような結合関係>」と言って、その後に設問として、【その関係の、「母体」はどこにあるか】を入れて、答えは、“闘う労働組合”と言われ、感銘を受けた。
  それから、今まで何度か『共産党宣言』を読んで、3章とか4章って何なのか、何でくっついているんだと。1、2章でスッキリして終わりにすればいいんじゃないのという感想を持っていた。興味があって、マルクス、エンゲルスのいろんな活動、苦闘と言った方がいいと思うんですけども、それを詳しく書いてある本を半分趣味に任せて読んだ結果、そう簡単ではなかったと。
  われわれは、マルクス、エンゲルスを今の時代、確立された価値観から見るから、ものすごい天才と巨人が、パリでも、ブリュッセルでも、ロンドンでも、オルグしまくる、席巻するというイメージで考えちゃう。だけども、当時の、例のヴァイトリングという人の影響力の強さをすごく強調している。これといかに格闘し、1846年から47年くらいにかけて影響力を排除していくために、いろんな手練手管なんかも駆使しつつ党派闘争を、当時マルクス、エンゲルスはやってて、その党派闘争の書としてこの『共産党宣言』が生み出された。だから、第3章、第4章が必要なものとして書かれていると。講師の付録資料「その三」も走り読みしたんですけど、3章、4章の位置づけがスッキリしてきた。

●S

 私的所有の、さっき言われたところが、なるほどというのは思いました。そんなに深く、個人的所有と私的所有は違うということまで考えたことがなかった。
  レジュメの冒頭に、資本主義の根底的批判という『資本論』の把握をとおしてマルクス主義はつかまれる、と書いてあって、私としては、『資本論』なんか読まなくたって分かるよ、みたいに思ってた。今回、相当『資本論』的把握に踏まえて、2章、3章、4章をとらえていってはじめて、マルクスが、言ってみればアジテーション的に展開している中身というのは実は深く提起されているということがよく分かって、改めてもう一回勉強し直さなきゃいけないなと思いました。

●C

 新訳本の35nの所で僕は思ったのは、「財産が階級的な性格を失う」ということで、資本そのものが社会的な力としてあるにも関わらず、結局この資本主義社会の中では、個人のもの、要するにブルジョアのものになるという、その関係自身をなくしていく、ひっくり返していく。つまり、賃労働と資本の関係を廃止するということで言っていると思う。35nの最後の所でも書いてあるように、「われわれが廃止しようとするのは、資本を増殖させるためにのみ労働者が生き、支配階級の利益が必要とするかぎりにおいてのみ労働者が生きていける、というこの取得の惨めな性格」を変えるんだということを、ここでは強烈に言っていると思います。労働者がこういったブルジョア的所有、あり方をひっくり返して、社会的力を社会的力として運営していく結合体、アソシエーションという形で、その力を得るということ自身がすごく決定的な意味を持ってくるんだと思う。
  あと、レジュメの「宗教、道徳、哲学は永遠か?」という個所で、「つまり、宗教、道徳、哲学、政治、法…という社会的意識諸形態は…(階級社会が廃止されれば)存在しなくなるのだ」ということで、かなり激しいことを言っているなと。ここの所をもうちょっと聞きたいなと思った。
  「宗教、道徳、哲学、政治、法」というのが、結局ある種国家のためにあるというか、階級対立を、要するに賃労働と資本の関係を成り立たせるために存在するということで言われているのかなとは思う。そういう意味では、階級対立が廃止されれば、そんなものは必要なくなる。だけど、その上でその一番最後の所に、「自立逆立ちしたイデオロギー諸形態としてでなく、新しい形態と内容に置き換わっていくだろう」(レジュメ)と書いてあるんで、今ひとつイメージがつきにくかったので。

●講師

 例えば、階級社会が廃止されれば、真の宗教が生み出される、真の哲学が生み出される、真の道徳がとか何とかという言い方がある。だけど、こういうのは要するに、人間生活のある一定の局面で、ある一定の土台としての生産関係のあり方に規定された人間の思想やものの考え方のひとつの表れで、その形そのもの自体がひとつの狭い内容を切り取っている。
  だから、宗教、道徳、哲学という形、範囲、枠組みはそのままで、その中身が本当の中身になっていくみたいな、そういう中途半端さに対して、すべて階級社会の中で、階級社会との関係で生まれてきたものなんだと。階級社会に奉仕する内容であるということと、階級社会の土台から生まれてきた。だから、支配階級がその社会を成り立たせていたときに通用していたかぎりでは、完全に社会的な普遍・妥当性がある。そのかぎりでの普遍性の内容を、くり返し解釈し直しているのが人間の思想活動みたいな面がある。だから、そういう古い枠組みがぶっ壊れていくことは、悲しむべきことじゃなく当たり前のことなんだ。
  現実の社会の中では、宗教とか道徳とか法なんていうのは、要するに階級社会のど真ん中で、それにすがって自分は人間であることや社会的存在であることを確認しているような切実なものがある。それは全部、階級社会的内容なんです。だから、支配階級の道具であるということは、イコール被支配階級自身も支配階級の秩序の中で生きているかぎりは、それにすがって成り立っているというところがあって、そういう意味では階級社会の現実から生まれてきている。
  そうした現実的根拠があるかぎりは普遍性があるように見える。だけど、現実が変われば中身が変わる。中身が根本的に変わるということは、その分け方も変わるんです。宗教が宗教でなくなる、道徳が道徳でなくなる。
  古い社会で、階級社会の時代に人間が「道徳」と呼んでたものは、階級のない社会になったときに、人間はどういうふうに問題にしたり意識したりするのか。展望はある。しかし、階級社会のいわば海の底の方から、われわれは見ているわけです。海の上に、地上に出たときに、宗教とかなんとかという枠組みは、海底で生活しているときに必要な形態であったということが分かるという関係だと思う。
  もう一つ。だから、マルクス主義と労働者階級の闘いは哲学だって超えていく。哲学としての哲学なんか廃止していく。その中で、人間の思考というものは、もっと自由に活動できる。しかも、現実とのつながりを失わない。
  そういう関係というのは、われわれは想像することはできるけども、よく分からない。問題はやっぱり現実の根本的批判、そこにこそ労働者階級の哲学があるということでいいと思う。

●p

 宗教とか道徳とか哲学とかがあたかも尊いものであるかのように、この社会の中でプロレタリアートが、ある意味ではそういうものにすがらざるを得ないというのがあって、そういうこと自身が、新訳本の48nの2行に書いてあるような社会(共産主義社会)を実現したときに、こういうことは全部意味がなくなるということだと思う。
  階級社会であるかぎり、ときには姿を変えるけど宗教や道徳みたいなのは続いている。だけど、こういうものが、個々人が本当に結合したときには意味がないんだとしっかりと考えるべきだと思うんです。真に個々人が結合して、自然とのあり方をつくり変えていくと考えた方がいい。
  そういう本当の人間と自然との関係と違う、遊離したものの考え方みたいなものが、階級支配の中で価値があるかのようにされてきた。そういう関係そのものを、われわれは打ち破っていくんだということだと思っている。
  それから、闘う労働組合を闘いとっていく、そこのところをパッと据えることは、『宣言』全体を理解していく上で結構重要だと僕も思う。それで、「所有」という問題を、われわれの現在の現実の中で考えるとなかなか分かりにくいんだけど、実際にプロレタリアートが、労働者階級が社会の主人公になるという場合、実際に権力をとるまで無一物なんです、あるのは団結だけで、共同性を回復していく、これだけがある。そういうものが、国内的、国際的に発展していくことをとおして、われわれは権力をとり、共産主義社会に向かって進んでいくことができる。そのときに「所有」という概念はどうなるのかと考えた方が分かりやすいし、私的所有ってなんだというふうになってくると思う。
  結局のところ、資本という形で、労働者が働くということと所有とが分裂している。それを正常な形に直していく、それは現実の運動の中で、どういう過程を通って実現していくのかと考えた方が、「所有」ということを理解する場合、実感としてつかめるかなという感じがする。

●W

 私的所有を廃止するといった場合に、私的に独占されているという点を強調することが必要だと思います。本来は社会的なものであるものが独占されている。日々労働者が労働してつくっているものが全部独占されている。それを奪い返すということだと思うんです。
  マルクスはこの時、『賃労働と資本』も同時に書いていった過程だと思うんですけども、所有の問題を徹底的にハッキリさせるということは、賃金奴隷制を徹底的に廃止する、そういう闘いを運動の根本にして提起するんだと、マルクスはここでも言っている。
  独占は暴力的にそれを奪っているということなわけで、独占しているものを奪い返すためには党が必要だし、暴力革命が必要だし、そういう闘いが今必要なんだとマルクスは、ここでハッキリと提起している。で、共産主義の党を建設しよう、つくろうと、その運動に決起しようと、そういうものとして提起されているのかなと思いました。
  新自由主義ということで、資本主義の根本的な矛盾が、マルクスころの幼年期の資本主義以上に鮮明になってきている。そういう中において、『共産党宣言』の中身は、日々の労働者の生活実態の中でも真っ正面から入っていくような、そういう提起になっている。

●Z

 この本を最初に読んだ時の感想が印象に残っていて、当時冷戦下で、自由を第一義的にすれば資本主義社会、平等を第一義的にすれば共産主義社会、という解説がある中で読んでみてハッキリ言えば、全然平等観がない。分配論が書かれていない、所有論だけで。学習会で、私有財産の廃止と個人的所有の問題を区別するときに、労賃の問題、あるいは平等観、つまり共産主義社会というのはもっと分配を平等にするんだと。こういうところが、われわれも不十分だったかなという思いがしたんです。

●講師

 そこのところは、根本的に「所有」ということで論じている。分配とか平等とかいうレベルの話で言えば、例えば、獲得様式とか、取得とか、領有とか、そういう形で述べてます。それはだから、例えば労働者同士の支払いが違うということが問題なんじゃなくて、ブルジョアジーのために働くことで自分は生かしてもらうという、そういう根本的関係そのものの中に何か守るところがあるのか、それをひっくり返すことが問題じゃないのかという形で、ズバッと出している。
  確かに、賃金問題とか細かくやっていない、所有という形でやっている。だけど、2章の所で重要なのは、所有の問題ということと、ブルジョア的所有の廃止=資本の廃止ということ、それは賃労働と資本の関係の廃止、階級関係の廃止。だから、私有財産というのを自分の所有している物とかじゃなく、結果のところじゃなく、生産関係そのもののところで、階級の存在を廃止していくというところで一体でとらえるならば、私有財産の廃止ということにすべてが含まれていると言って構わないという形で、マルクスは言っている。
  ブルジョアジーは、所有権を専制的に侵害する、プロレタリア革命、労働者が全部奪い取る、なんて言っていることを許さない。私有財産ということを侮辱して、実際にそれを侵すということになった場合は、どんな弾圧でも加える。その所有という問題が、結局は階級関係なんだと、階級関係というのは単なる一般論じゃなくて資本と賃労働なんだと、その一体でとらえたときに、こういうことは全部言えるという形で、第2章を展開しているということを私は強調しているわけです。
  いわば所有をめぐる神学論争から、ブルジョア的所有の廃止とは現実の階級関係の話なんだという形でドーンと出してきて、その意味で、私有財産の廃止という一語で共産主義を総括するということに問題ないと言った。だから、その一語だけにあまりこだわらないように。その一語で総括できる、とはどういう意味なのかを、現実の関係の中に返しながら、われわれは議論していくことが大事だと思う。
  別に所有なんかどうでもいいよ、賃労働と資本だよ、という感じの言い方をした場合には、これは革命的じゃない。絶えず所有の問題を問題にするということは、政治の転覆だけじゃない、社会のあり方を根本的に転覆するということがあるから、だから政治も全面的に否定できる、この関係を絶えず問題にするということです。
  だから、所有問題だけを強調しているのが『共産党宣言』だと考えないで、『賃労働と資本』と『共産党宣言』は一体で、それは『資本論』として深められていったという形でとらえたときに、所有問題というものの本当の意味内容、中身が出てくる。
  実際の場面でイデオロギー闘争的に問題にするときには、所有問題というのは必ず激しく問題になります、私有財産とか私的所有とか。プロレタリア革命の根本のところは、資本を奪い取るということです。資本を奪い取るということは、資本家の国家権力を粉砕して、労働者が政治権力を立てるということです。それなしには貫徹されない。だから、プロレタリア革命=暴力革命なんだが、その根本にあるのは、ブルジョアジーの所有を奪い取る、その激しさです。そういう形で『共産党宣言』をもう一回意識的に読み返して、21世紀の冒頭によみがえらせると、いろんな意味で斬新に見えてくる。

●I

 かつて精神障害者の働かない権利、働かない運動という全国的な運動があった。精神障害者が働いている労働状況を考えれば、例えば大企業はすごいお金を出してでも精神障害者を雇わないという方向にあるんで、当時は共感したところもあった。
  今考えてみれば、社会的生産関係、階級社会の変化によって労働も変わってくる。最終的には労働者が、その社会的生産関係を転覆し、資本家の私的所有を奪い返す闘いが革命につながるという点から考えると、働かない運動というのは、そういう現実の階級関係なり社会から逃避したものだった。
  人間の労働は、どういう社会で、どういう関係の中で労働するかが問題で、労働そのものを全否定するのは、俺は違うと思う。

●講師

 今の発言は、重要なことを提起されていると思う。人間の労働は社会的関係の中で成り立つ。現実の労働は、どんな場合でも、どんなに搾取されている場合でも、必ず社会的関係の中にある。それは1人でデスクに向かっている場合でもそうです。労働は、単にある種の技術を自然加工物に向かって実行しているということじゃなく、社会的な人間と人間の関係の確証という面がある。その意味で、労働というのは普遍的だし、労働することによって人間社会が基本的に成り立っているという関係があります。
  労働は人間の根本的活動だから、どこまでが労働で、どこまでが労働でない自由な個人的活動なのかとかは、社会の一定の関係のあり方の中でその範囲が決まってくる。どこまでが労働で、労働でないかということ自体が、大きな意味ではフレキシブルに社会的に決まってくる、ということが結構大事なんじゃないか。
  それともう一つ、与えられた社会的関係の中で働く能力を持っていないと規定される人がいる。それだけじゃなく、生まれて一定働く能力が持てるようになるまでの人間というのは、誰でも働かない。それから一定の年齢になれば、あえて働かなくてもいいという時が必ず来る。そういう、労働しない社会の構成員は必ずいる。この条件の中で労働しない、あるいは労働できない、そういう社会の構成員は、労働者が結合して運営する社会の中でどう位置づけられるのか。これは完全に共同社会的に位置づけられるということが、今日の提起にはあまり出てきませんけど、共産主義論の根本にある。
  ブルジョアジーが支配している資本主義社会、賃労働と資本の支配する社会、私有財産の社会をひっくり返すことが問題だということを、今の議論の場合も根底に置くことが必要。働かない権利を突き付けて社会に衝撃を与えて、分からせていくことが有効な時期が一時期あった。だけど、資本主義末期のギリギリの階級的緊張・対決の中ではその延長ではいかない。労働者階級とともにこの社会を根本からひっくり返すことが絶対に必要なんだということを改めて確認していくことの重要性を、『共産党宣言』をとおしても確認することができる。

●N

 共同作業所では今、障害者自立支援法の攻撃がどんどんかけられている。障害者自立支援法というのは、障害者も働いて稼いでこそ一人前なんだということで、障害者の中にも競争原理を持ち込んでくるし、報酬が出席率によって変わってくるので、作業所同士も競争させる、いかに利用者である障害者をたくさん呼び込むか、みたいなことがどんどん強調されている。
  そういう作業所に通っている人は生活保護の人がとても多くて、自分たちは働いてないから労働者じゃないのか、みたいな論議も随分ある。でも、大きくとらえて本当にみんな同じ労働者階級なんだ。資本家階級と労働者階級しかない今のこの社会を今ひっくり返していくために、『前進』を読み合わせたりしながら、この階級社会は絶対おかしいんだということで闘いを開始したり、いろいろ勉強しているところです。
  今、本当に労働ってなんだろう、労働者ってなんだろう、というところが、一番論議のもとになっているところなので、聞いててそう思いました。

●D

 素直な感想としては、しゃべりにくいな、みたいな感じがしまして。理論的にはいろいろ丁寧に説明してもらって、所有というのが核心で、労働組合というのをしっかり位置づけるのが重要だと、確かにその通りだというのはあるんですけど、今回、『共産党宣言』のここから僕らが何をつかみ取って、どこで一致していくのかが、ちょっと見えにくいかなと。どういうところをつかんでいく感じだったのかなという辺りが、僕の問題意識です。

●講師

 『共産党宣言』の場合、イデオロギーと現実の階級闘争、階級的対立関係という辺りをもうひとつ、どうとらえ返していくのかというのは結構大事なんじゃないか。革命的思想というのはあるのかなんて、大胆なことをマルクス自身が言っている。それは直接にはヴァイトリング批判、ヴァイトリング風の世界革命論とか貧民革命論を念頭においている。それに対して、労働者階級が革命的に社会を変革するんだ、共産主義者はそれを貫徹するために闘うかどうかなんだということをズバリといろんな角度から突き出していった。だから、「共産党宣言」であると同時に、「プロレタリア革命の宣言」です。われわれ労働者階級自身が革命の主体なんだということを、いろんな形で表明している。
  労働者階級がブルジョアジーを倒す闘いをやるということ、この根底性、革命性をハッキリさせる。そのことをハッキリさせることが、革命的思想の内容なんです。革命的思想のもとに労働者階級を獲得する運動じゃない。実際にはオルグするとか、獲得する闘いはします。それはだけど、その階級とその闘う主体が持っている力を引き出したり、はっきりした形にしたり、時には爆発させたりするということです。思想を現実化したり物質化したりすることじゃない。現実の非和解的関係の中に潜むものをハッキリさせていく。だから、現実が革命的なんだ。このことに踏まえて、われわれ自身も、革命的行動や革命的思想を語ることが成り立つ。
  究極の目標からとらえ返すのが党だと言うけど、究極の目標は誰かがどこかで考えてきたんじゃない、マルクスが発明・発見したわけじゃない。労働者階級の運動は、現在の秩序を根本的にひっくり返していく、別言すれば、究極のところまで決着をつけていく、そういう運動として現にあるということです。現実を根底的にとらえたら目標というものが出てくるという関係なんだ。そのことを、もう1個のテーマとして言いたい。そうすると、党とは何かとか、労働者階級と党の関係とか、今、われわれが求められていることにたいする答えが出てくる。そういう方向で、今こそ考えていく。それを締めくくりにさせてもらいたい。

党学校通信 p17-28  受講レポート

受講レポートから ★『共産党宣言』(下)のレポートです。

【F】

 第1章の復習をしっかりした上で2章に入れたのがよかった。第1章の結論部分で提起された2点−@資本主義は必ず破綻し社会的危機と混乱をもたらす、A労働者の革命的団結それ自体が資本の存在を許さない事態をつくりだす本質的要因である、を心底確信できた。
  世界大恐慌に突入し世界戦争か世界革命かの歴史の分岐点にある今だからこそ、〈労働組合こそ労働者階級の基礎的団結形態であり、この労働組合を階級的に甦らせていくことによって革命的情勢をプロレタリア革命に転化していくことができる〉ことについて、確認するに止まるのではなく、直ちに実践に踏み込むことだ。
  労働者の資本にたいする闘いは、その存在とともに始まり、独自の階級的団結を労働組合の結成などによって組織的に開始していく。国家権力の弾圧や資本家による切り崩しや組織壊滅によって敗北させられることもあるが、革命的な労働者は、自らの究極的な解放=私的所有の廃止のために闘争の中で党的団結をつくりあげていく。労働者階級は、階級闘争をつうじて、階級支配、階級抑圧の現実を克服していく、それができる唯一の階級だ。政治権力を奪取して社会の主人公となることによって階級のない社会をつくる。普通の労働者と共産主義者(の党)の間に根本的な違いはない。
  共産主義はセクトの運動ではない。ランク&ファイル、「隣の労働者」こそ革命の主体だ。彼らと結合し、ともに資本と闘い、組織できるなら、11月労働者集会1万人結集は100%可能だ。

【J】

 共産主義という“世界を獲得できる”思想と実践が、ロシア革命後の党内闘争におけるスターリンの“勝利”を決定的な転回点にして、無残にも後退させられてきた歴史が、いわば圧倒的な物質力をもって展開されてきた現実がある。しかし、ソ連スターリン主義の崩壊−新自由主義の席捲とその崩壊・世界大恐慌への突入というこの現代において、今再びマルクス主義・共産主義の思想の根本が、わが革共同の闘いの中から、世界を獲得しうる思想と実践としてよみがえりつつあることを実感できる提起でした。
  とくに、私有財産の廃止という根本問題を、“所有”の問題のラジカルな展開として、資本主義の目の前の恥ずべき現実を批判するイデオロギー闘争の根幹にすえることが、極めて有効だとも感じました。

【h】

 1.『共産党宣言』の中に、マルクス主義の核心点が全部詰まっていることに驚いた。とくに、「党の革命」以降の3年間でつかみとったことや、中野洋著『甦る労働組合』に書かれてある、労働者階級は必ず勝利するという確信や、革命は労働者階級の事業であるetc.がしっかり提起されている。マルクスは、当時の未だ未成熟なプロレタリアートの闘いからつかんだことはすごいと思う。
2.個体的所有と私的所有の違いが明確になったことが、今回の最大の収穫だ。労働者が自分のものとしての生産手段で生産活動を行って得た物は、個体的所有であって私的所有ではないこと。また、資本家に雇われて得た賃金は私的所有ではない。他人の労働を搾取して得たものが私的所有であり、その私有財産を廃止(奪い取って社会的所有に)すること、私有財産の廃止とは、そういうことであることが鮮明になった。
  もう一つ、共産主義社会では、「個体的所有を復興する」ということも初めて知った。共産主義社会では、より高度な生産力のもとで、生産手段の共有を基礎に個体的所有も圧倒的に増大することも、新鮮な収穫だった。
3.その他、ブルジョア・イデオロギーや体制内派を批判する内容が『宣言』に詰まっている。動労千葉の中野顧問が、『宣言』をポケットに持ち歩いていた理由がよくわかる。
4.マルクスとエンゲルスが、パリ・コミューンで「できあいの国家を使うことはできない」と訂正したことは初めて知った。
  「運動の進行のなかで自分自身をのりこえて進む」という点も、マルクスの神髄があると思う。プロレタリアートへの無限の信頼を感じる。
  なお、「家族の廃止」という領域は、もう一つ、スッキリ理解するとはなりませんでした。今後の自分の宿題とします。

【U】

 3つの点が印象に残った。
@一つは、『共産党宣言』の字句そのままが日本共産党を串刺しにえぐる批判になるということ、
Aもう一つは、「家族の廃止」というところ、
Bそしてもう一つは、最後の方、「社会主義革命の…諸方策」のところである。
  @では、例えば「共産主義者が他のプロレタリア党と違う点」として挙げている、「…国籍と無関係な…階級全体の共通の利益を強調し貫徹すること、…」、あるいは講師が説明した、「…少なくとも政治権力をめざしているからこそ政党なんだ、…」、さらに、「…労働者は祖国を持たない。…」というところなど。日共は、北朝鮮の問題では、自民党などと唱和して弾劾決議に加わっているし、つい最近の選挙でも「たしかな野党」とか言っていたし、さらに彼らの学生組織の機関紙名は「祖国と学問のために」ではなかったか。現在、日共との党派闘争は非常に重要な課題になっている。この点、『党宣言』の重要性・重みも増していると思った。
  Aでは、参考文献としてコピー配布されたエンゲルス『共産主義の原理』での説明が、自分にとってはわかりやすかった。現行日本国憲法でも、「結婚は両性の合意によってのみ成立する」とうたわれてはいる。だが、現行は現実にそうはいかないことも誰でもわかっている。階級がなくなり、私的所有がなくなってはじめて「男女の関係」が「純粋に私的な関係になる」ということが、今回、納得できたように思う。実際、私的に私の兄弟でも3人の内、2人が無家族状態(独身)を強制されている。
  Bでは、これまでも文中に、「…しだいに」という言葉があるところが引っかかっていたのだが、今回の講師の説明で、これがパリ・コミューン以前の記述であるが故の限界であり、コミューン以後は、「一挙」にというふうにマルクスの考えも変わってきている、と聞き、得心できました。

【f】

 「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は不可避である」。これが『共産党宣言』の核心中の核心であると思うが、今回の講義では、その命題を肉付けし、豊富化し、さらに確実なものにしていくということが問題になっていたのではないかと思う。つまり、〈勝利〉とは何か、そのためには何をなすべきか、ということである。
  その点で、講師が、共産主義を「歴史的運動」「現実の中から出てくるもの」として強調していたことは、極めて重要であると思う。「主義」というといかにも純思想的・観念的なものとしてイメージされるが、そうではなく、現実と格闘し、プロレタリアートの現実の姿に獲得され、そしてプロレタリアートを徹底的に信頼することをとおして、やっと「共産主義」は自らのものになるということは、何度確認しても確認したりないのではないか。
  だから、今回のレジュメで、「アソシエーション(協力体)」の母体は闘う労働組合の中にあることを明確化したことは決定的だと思う。つまり、我々が党として、階級として、それを出すほどの地平を切り開いているということだからだ。まさにパリ・コミューンに獲得されたマルクスが、プロ独の具体的な姿を明確なものにしたように、我々のこの間の闘いが理論を、もっと言えば『宣言』を新たなものにしつづけているのだ。
  以上、なかなかまとまらないですが、今回の講義をとおして、革命勝利の展望が鮮明になったということだけはつけ加えておきたいと思います。

【p】

 2回にわたる『共産党宣言』の学習をとおして、まず第一に痛感することは、160年の歴史的経過を経て、新自由主義攻撃とその破産のこの時代に、この『宣言』のストレートな実践がますます大きな意義を獲得していることを感じます。
  『宣言』が書かれた時代において、プロレタリア運動とそれを普遍的に体現する党の一体的発展が資本主義を転覆し、階級のない社会を実現する宣言は、様々な方策をとおして階級支配を何とか貫徹して生き延びてきた資本主義が、その生態を赤裸々にした新自由主義とその破産の中で、空前の規模での労働者階級の闘いが展開され、今こそ『宣言』の内容をゴリゴリ貫徹するときと感じます。
  その上で、『宣言』後半としての本日の学習会で改めて強く再確認したことについて感想的に述べます。
  「革命的イデオロギー」というものがあるのか? という問題について。−現実のプロレタリアートの闘いが革命的なのだ−という問題提起に全く同感です。
  ブルジョアジーの折り重なるイデオロギー支配や体制内勢力のどんな抑圧にもかかわらず、労働者は常に資本との非和解の関係の中で、必死の闘いを続けております。“労働者階級と資本とは非和解なのだ”ということは、何か、われわれが労働者に向かって説得する問題…ではなく、個々バラバラの反乱を掘り起こし、団結の力に転化していく労働者階級の前衛の役割が、ますます決定的ということです。
  討論で大きく議論になった「所有」の問題は、例えばブルジョア国家の法制度は私有財産制度の防衛を軸にたてられています。私有財産=資本=賃労働と資本の関係であり、労働者の生命活動そのものも一契機とする資本増殖運動として、社会的力の資本家による私的所有であり、他方、労働者階級の自己解放は、団結の強化・拡大をとおした共同性以外に何ものもありません。権力を獲得できる地点に達したとき、資本家を打倒し、社会的力の全面的奪還は、共産主義的所有となる以外にないものです。このとき、労働者階級と社会の成員は、獲得した社会的力を個人と社会の発展と一体的に推進できるのです。

【R】

 革命についての認識を根本的なところで深めることができました。
  それは、革命の基軸は、この階級社会における賃労働と資本の関係の中にひそむ労働者の自己解放的エネルギーであるということです。そしてマルクスは、これを「私有財産の廃止」として出したのでした。これこそが労働者階級の怒りの根源であり、その根底的で革命的な決起の一切を引き出す核心があるのです。
  それから今回は、ブルジョアジーの共産主義への批判への反論をとおして、共産主義の主張を明らかにした諸点が、より鮮明になった。これまで「家族の廃止」や「宗教・哲学・道徳…」のところは、なかなかわからなかったところでした。

【g】

 今回の『共産党宣言』学習は、なかなかとっつきにくかったというのが本音です。論議としては、「所有」ということで面白い論議がなされたと思いますが、『宣言』でどう労働者・学生を獲得していくのか、という内容が深められれば良かったと思います。その上で、今回は発言できなかったのは問題だと思っていますので、今回でた問題意識を書きたいと思います。
  「革命をもたらす思想がある」ということに対するマルクスの批判は重要だと改めて感じました。労働者の現実的行動、そこからでる資本主義に対する怒りに、プロレタリア革命への萌芽がある。「古い社会形態の中から新しい社会形態の芽が」という言葉のように、ここを捉えて労働者の怒りを路線化し、組織していくために扇動していく。これが共産主義者の任務だと改めて思いました。
  資本主義社会の中でブルジョア・イデオロギーがふりまかれ、資本家の利益とイデオロギーが社会を構成している逆転した社会は本当に許せない。大恐慌と戦争の時代において、この「逆転」がぶっ壊され、プロレタリアの団結と実践になっていることは『共産党宣言』の内容そのものだと思います。
  また、結局階級社会の中でつくられてきた宗教、政治、法、道徳というものは、時の支配階級と結びつき、階級闘争を弾圧するものでしかなかったのだと思いました。『ドイツ農民戦争』を読んでも、宗教が封建制と結びつき、いかに階級闘争を抑圧したのかということを思い出しました。
  また、『家族』ということについては、資本主義体制の中で労働者階級を血縁と所有ということで分断して、家族という経済単位で支配している、労働者階級として団結させないことが、かなり支配のあり方として、日帝が重要視しているとも思いました。
  この資本主義のあり方が、共産主義では、階級ということ、労働組合的団結を基礎にして、あり方が根本的に変わると考えるとかなり面白いと思いました。

【q】

 第1章の「共産主義者」の規定で、「共産主義者とは、自分の歴史的使命を自覚した『たたかう労働者』…」という提起をされ、特別なものではないという感想を持った。それは、中野洋著の『甦る労働組合』の「労働者は、みんなマルクス主義者になるべきだ」というのに通じている感じがした。
  また、「共産主義者は、究極的には何をめざしているか」で、共産主義の実現=階級のない社会をめざす。我々にとっては当たり前のように思えることだが、「労働者階級が革命をやれば、階級のない社会が生まれる」ということを共産主義者の宣言として、160年前に明らかにし、しかも特別な考えを当てはめているのではなく、歴史的な運動の本当の諸関係を一般的に表現したものとして出されているということを改めて実感した。
  所有のあり方の問題は、階級による階級の支配をなくせば、本来の自然なかたちへと転化するのではないかと単純に考えているがどうなのか。我々は、どうしても資本主義のイデオロギーの中でものを考え、判断したくなるが、そこを転換していくことが必要に思えた。この辺のことを今後も学習して、自分の中に確立していきたい。

【I】

 今日の『共産党宣言』学習会での私の結論的な感想を述べます。それは、動労千葉の田中委員長が言っていたことですが、「労働組合のありようが革命闘争を前進させるのか、それとも侵略国家へと日本を変えてしまうのかという鍵を握っているのだ」ということを強く思いながら聞いていました。
  労働というものを社会的生産手段を土台として考え、労働者階級が資本家階級の私的生産手段(関係)を奪い返し、それがそのような闘いを共にする労働者の団結を生み出し、最終的にプロレタリア革命を成し遂げることにつながる、という講師の発言をしっかりと肝に銘じていこうということです。
  それから、これは1章でも言われたことですが、マルクス、エンゲルスが、実際の労働者との共同の闘いをとおした生きた指針として、この『宣言』を書いたということに改めて感動しました。あくまで現場の労働者の、そしてそれを取り巻く社会の現実の中から、『宣言』が提起されたことは、現在の革共同の党の革命の正しさを証明するものであると考えます。
  まだ色々と書きたいこと、感じたことは沢山あるのですが、闘い→『宣言』→団結→プロレタリア革命へと、マルクスが生命を賭して書いたこの『宣言』は、今の暴処法→道州制→戦争国家化→アフガニスタン侵略を粉砕し、労働組合を再生させるため、最良のオルグの材料と感じました。
  そして、究極の勝利とは、資本家階級をうち砕き、体制内派を粉砕して、今闘われている動労千葉・法大生・青年労働者がすでに実践している、自らの職場闘争にこそあるのだということが強く実感できました。
  この1年間の学校をとおして、私も自己を変え、本物の党へと飛躍していきます。最後に、私の質問に答えてくれたことに感謝します。

【X】

 『共産党宣言』第2〜第4章の学習を終えて、マルクスが『党宣言』の結びで、万国の労働者、団結せよ!!と熱烈に呼びかけて終わっている。講師の方からも、共産主義を一言で表すなら、労働者の闘いの中から生み出された、私有財産の廃絶ということにつきる。
  そしてこのことは、「団結した行動−すくなくとも文明諸国の団結した行動が、プロレタリアートの解放の第一の条件」とし、「プロレタリアートを支配階級に高めること‥‥その政治支配を利用して、ブルジョアジーからすべての資本を奪いとり、すべての生産用具を国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中」することによって実現されると明確に宣言している。
  『党宣言』第1章で、「あまりにも過剰な工業、あまりにも過剰な商業‥‥生産諸力はこのブルジョア的所有諸関係にとって巨大になりすぎた」と恐慌というブルジョア的所有が社会にとって害悪になってしまった。このことに言及して、第2章では、「すべての生産用具を国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中し、生産力の総力をできるかぎり増大させる」と、そうして、このことを物質的条件として、「一人ひとりの自由な発展が、すべての人びとの自由な発展の条件となるような協力体が登場する」ものだと理解しました。
  その上で、講師の方から、この「協力体(アソシエーション)」の「母体」は、闘う労働者の団結=労働組合の中にある、という提起は、まさにそうだと共感しました。

【W】

 ○『共産党宣言』の第2章の冒頭部分(新訳本p32〜33)が重要であることを感じた。ここに、共産主義者の党とはどのようなものなのかが核心的に示されている。
○共産主義者(の党)は、私的所有=ブルジョア的私的独占を廃止させる。本来は社会的なもの、社会的な力であり、社会全体の富である資本を、ブルジョアジーは私的に独占している。賃金奴隷制のもとで独占している。
  この、所有の問題=私的独占の問題=賃金奴隷制の問題を、運動のどの段階においても明確にさせ、この廃止を提起すること、ブルジョアジーの支配の打倒とプロレタリアートによる政治権力の奪取を提起することを、全世界の労働者階級人民に訴えたものが『共産党宣言』である。
○共産主義は、現実の社会の中にあること、「革命的思想」は、あれやこれやと観念的に考えて、つくられるものではなく、現実の生きた労働者階級の闘いの中にあること、共産主義者は、その究極的な勝利を確信して(『宣言』第1章でつかみとれる!)実践する者である。
○プロレタリア革命はプロレタリアート自身の事業であることも、『共産党宣言』の中ではっきりと宣言されている重要な提起であると感じた。

【G】

 @討論冒頭の所有に関する議論について、考えながら参加しようとしましたが、なかなか話の内容について、率直に言ってついていけなかったような気がします。ただ、講師からのまとめで、プロレタリアートが権力を握り、共産主義社会をつくる上で重要だということと、必ず党派闘争になるという提起で、少し理解が進んだような気がしました。
  また、私的所有というのが、賃労働と資本の関係のなかで形成され、剰余労働をブルジョアジーが搾取し、独占しているということ、本来プロレタリアートがつくりだした(生産した)ものが奪われていて、そういう階級関係を廃止することによって「個体的所有を復興する」[生産手段の社会的共有を基礎に]という理解として、自分の中では整理されています。
  AD同志の発言については、結構同じような感想が自分の中であったかも知れません。なぜかはわかりませんが、考えられることは、「共産主義」そのものへの非難がどういう形で現在行われているのかを、自分自身の中で把握できていないこともあるのかも知れません。その裏返しとしての資本主義・帝国主義の擁護や美化はたくさんありますが、革共同=共産主義の党として非難という現実にあたった時、また別の感想も出てきたかも知れません。
  B全体として、『共産党宣言』の学習としては丁寧に説明されていたと思います。一方では、現在の階級情勢の中で、党と階級のおかれた現状について、それとより強くリンクさせてやった方が、より強烈なインパクトがあったのかも知れません。
  改めて勉強しないといけないということは毎回思いますが、刺激になります。

【d】

 私は、『賃労働と資本』と同時代に出された『共産党宣言』が、「共産主義者の党自身が共産主義とは何か、その内容を明確にする」ものとして、ブルジョアジー打倒の革命=共産主義革命の宣言を出したことに意義がある。何より、闘う労働者階級に党への結集を呼びかけていることが重要だと思いました。
  共産主義者たちの党が何をするのかという点で、最大の党派闘争の相手であるブルジョアジーから他党派(空想的社会主義者etc.)らの非難を逆に使って根底的な資本主義打倒論、共産主義論を展開している。『資本論』における資本主義の根底的な把握に向かうのも、ここが出発として必要だったということだと思う。
◎共産主義者とは何か。セクトではなく、階級の運動として一歩先んじて目的意識的に闘う存在、ということ。
◎共産主義者は階級のない社会をめざす。現に行われている階級闘争の諸関係から出発し、所有関係=私有財産を廃止する。(何かどこかで思想をねつ造する枠にはめるのではない−ということが、塩川一派などとの対決で決定的に重要だと思う。)
  ここをあらゆるブルジョアジーの非難や改良主義者の言い訳を跳ね飛ばして言っているところが、今日の資本主義崩壊の時代に決定的に新鮮なもの、斬新なもの、としてよみがえる。
  世界的に今日の人間を根底から否定する資本主義社会への「反逆」が、まずはかなり痛ましい無差別殺人、親殺し、子殺しetc.や、全国大学の徹底管理・弾圧状態に表れている。これに対して、今の社会の現実から、資本主義社会の根底批判としてたたかう労働組合を甦らせ、青年を組織し、党を建設していくことが待ったなしである。その点で、『共産党宣言』の今日における復権−闘う労働者の生き方として選びとるものとして出していくことだと思う。
  本日の学習会−(前回もそうだが、どう読んできたか、じゃない。)討論のはじめの方に引きずられて、労働者階級の現実そのものに根差していない感じの「所有」云々という議論になった。早めに私も発言すべきでしたが。

【b】

 2回の『共産党宣言』の学習会を経て、最も印象に残っているのは、共産主義者とプロレタリアの関係についてです。2章の最初の所に端的に出されていますが、改めて奥が深い内容だと思います。講師の方が、一言で「共産主義=セクトの運動ではなく階級の歴史的運動」とまとめられていましたが、本当にここを踏まえて、日々の実践活動ができているのかが自分に突き付けられました。これはありがちなことかもしれませんが、オルグの際、対象者にマルクス主義を「教える」「与える」みたいなスタンスに立っていないか等。労働者の階級性、革命性を徹底的に信頼(信頼と言ってもただ闇雲にではなく、現実の科学的分析から得た確証によって)しているのがマルクス主義であるということが、今回と前回の講義で強烈に伝わってきました。
  あと、「所有」の問題。ここを共産主義者は問題にするという点も、もちろんそうだとは思っていましたが、まだまだ自分の中での位置づけが弱かったと感じています。「所有」、もっと言えば賃労働と資本の関係については、例えば一枚のビラや一回のアジテーションにおいて、そこを曖昧にしてしまう傾向が僕にはあるようで(いつも後で反省するのですが)、今回の講義を経てそこをガッチリと押さえる中で、共産主義者としての飛躍をかち取っていきたいと感じました。

【Y】

 第2章〜4章、それぞれの章の重要性とマルクスの問題意識がよくわかりました。その上で、2章の所有論、ここは以前から分かったような分からないような漠然とした感じだったのが、今回でだいぶん自分のなかで整理できたような気がします。私的所有と個人的所有の問題もはっきりしました。
  また、「共産主義の特徴は、所有一般を廃止することではなく、ブルジョア的所有を廃止することである」−私的所有の廃止という一語に総括できる。このことの意味について、すっきりしました。なぜマルクスが、共産主義者が所有の問題にこだわるのか、社会の根底的な変革なのだということ。政治的な変革だけにとどまらない、社会そのものの大革命だということ。歴史的に社会が変わってきて、ブルジョア社会のなかで階級と階級社会の廃止−所有関係に手をつけなければ、階級のない社会=共産主義は実現できない。核心中の核心が所有問題。
  もうひとつ。前回の第1章で、マルクスの問題意識として、普通の労働者が共産主義者なんだというとらえ方、“党と階級は一体”というわれわれの到達地平、実はマルクスの『共産党宣言』の核心的な思想だった。この第1章から2章の党の必要性は当たり前、問題はプロレタリアートが勝利するため、どういう党が必要なのか、という問題意識で書かれている。マルクスが1847年恐慌から1848年革命の過程のなかで、今までの共産主義者同盟の狭い、労働者階級の現実のたたかいと遊離した党ではない、階級の現実そのものからつくり出される党をどうつくるのか、こういう切実な欲求から『宣言』の内容が書かれている。こういうことが、はっきりしてきました。

【i】

 第1章の結語、「一人ひとりの自由な発展が、すべての人びとの自由な発展の条件となるような協力体が登場する」、を今回講師は、その協力体の内容、その結合関係の「母体」はどこにあるかと自ら設問され、「闘う労働組合にあると解答したい」と言い切られた。ようやく具体的な解が与えられた思いである。『共産党宣言』は、マルクス主義の入門書とされ、私自身何回も読んできたが、決して易しい本ではない(そうではないだろうか?)。
  とくに第2章は難しい。個人的所有論も、精神的産物に関する議論も、いずれも難しいが、この第2章の結論部も分かったようでよく分からない個所である。
  しかし、「闘う労働組合」というピースをここにはめこむと、全体図がくっきりとしてくるのではないか。党の革命後、労働組合の革命論的意義が深められ、確認された。この視角からマルクス主義の諸文献を勉強し直すとき、色々のことが見えてくるのではないか、そう確信させられた提起であったと思う。

【v】

 今までどちらかというと、『共産党宣言』はアジテーション的に読んでいましたが今回、
<階級対立の歴史のなかで人間的関係から思想まで規定されてきた。階級対立は、所有関係から生まれてきた。共産主義の理論的命題は現実の革命的階級が存在し、そのやむにやまれぬ実践的闘争があるということが前提となって、われわれの目の前で展開されている歴史的な運動の諸関係を一般的に表現したもの。共産主義=財産共有制とされてきたが、正確には私的所有=ブルジョア的私的所有(資本)の廃止。だから、私的所有の廃止は、階級と階級社会の廃止となる。つまり、資本家的所有を社会的所有に移すことが労働者階級の社会をつくる土台だ。>
という視点、資本の所有の問題(資本主義の把握)に着目して『党宣言』の全章が貫かれている、と初めて思いました。
  こうした着眼点でまわりで起きていることを見た時に、思想やイデオロギー、社会問題等が見えてくるんだと思います。

【B】

 前回(1章)の講師も強調されていましたが、この本が労働者の現実に社会における存在をいやというほど実感させられる、賃金にしばられている状況、労働を売ることでしか生きていけない状況、しかし逆に失うものがない存在で、革命によってしか自由を手にすることができない存在であることがはっきりとした。
  革命的思想について? 理論からではなく現実の闘いの中から出てくるものという今回の講師の言葉に驚いた。すごい、実感のわく一言だった。

【C】

 今日の講義は、『共産党宣言』の新たな発見であり、有意義であった。『宣言』と『賃労働と資本』を一体で読む作業は重要であると思う。『資本論』への挑戦も急がなければと思います。次回を楽しみに。
  私的所有の廃止が「賃労働と資本」の関係の廃止であるということは、決定的であると思った。労働者は無産者である。新自由主義のもとで、家庭も住居も奪われ続けてきた、この惨めなあり方をひっくり返すことだと思う。そして何よりも、我々は革命によって真の結合体としてつくるアソシエーション(労働者の結合体、闘う労働組合がその母体となる)を獲得するのである。このプロレタリア独裁権力、そして共産主義的結合、これこそが決定的というか歴史を前進させることなのではないだろうか、と強く感じました。第2章での論争も、ここに意義があり、労働者を組織しようという意志にかわっていきます。
  この労働者の結合の中で、[逆立ちした]イデオロギー(宗教・道徳・哲学)も廃止され、次の段階へ進めるという積極的意義があるというふうに理解しました。プロレタリアートを支配階級に高めること、ここに深い意義をもちたいと思います。

【r】

 共産主義者の究極の目標は、共産主義=階級の無い社会(階級社会の廃絶)という事をどう表現するのか。その核心に、所有と私有財産の廃止、ブルジョア的所有を無くすという事が『共産党宣言』の大事な点だと改めて思いました。
  学習会をやって必ず焦点化する(させる)ポイントが、所有の問題だと思います。その上で、その所有を結果のみを表す概念と決別し、生産関係と一体的にとらえる事の重要さがわかりました。また、個人的所有と私的所有の違いは、言われてみればなるほどと思う点です。更に、共産主義は個体的所有を復権させるという『資本論』の内容は、これからの学習課題だと思いますが、問題意識としておさえておきたいと思います。
  まだ不充分ですが、おもしろいと思った点は、「革命をもたらす思想があるということ」を一直線に共産主義であるとおし出さず、現実の諸関係をはっきりさせる事の重要さ、革命的思想の前に革命的現実があるという指摘は重要だと思いました。
  あとは、アソシエーションの母体に、闘う労働組合の団結を据えると言われましたが、何となくなるほどと思いました。
  最後に、第3章と4章の意味がわからなかったが、一応問題意識として、1〜4章を通したマルクスの問題意識として位置づけて理解しようと思います。
(おまけ)
  今回は、ちょっと難しかったです。全編読んで、また理解を深める、あるいは『資本論』やモスト『資本と労働』で深めながらの提起だったからか…。断片的理解にしかなってないから難しいのか…。

【e】

 何度か学習会などをしたり、自分で学習したりするなかで読み過ごしていた、意識していなかった点が、提起と討論を通して多く出されました。
  細かく見ると、あれもこれもとあるのですが、「所有」ということを2章を貫くものとして捉えるということが決定的だったと思っています。
  読み込めば読み込むほど、味が出てくるのが『共産党宣言』なのだと改めて実感し、何度でも格闘していかなければと思った次第です。
  講師から、最後のまとめでも言われ、レジュメでも「(五)宗教、哲学、道徳などのイデオロギー的形態」にあたるところで言われた問題は、この間、例えば『共産主義者』161号の松丘論文で言われているような、「原則と大衆性」といった問題を考える場合にも示唆的だなと思いました。厳密にどうのこうのと言えるほどではなく、多分に感覚的にですが。

【P】

 感想として、勉強不足のせいか、所有の問題がプロレタリア階級にとって決定的であるという指摘は、わかるようでなお不鮮明。「私有財産の廃止」が共産主義の解放の中味であることも同じ。
  では、労働者は何を闘うのか? 何に対して怒っているのか−そこは「賃労働と資本」の関係が基本ではないか。−そのことを軽視していないとしても、個人的所有が問題ではなく、その大小ではなく、その「取得のみじめさ」であるとすれば、その現実−労働・生産関係における最低限におさえられる賃金−搾取されている関係におけるほこりの問題であろう。「個体的所有の復興」というイメージはいい。『共産党宣言』の核心は、労働者階級は、だからこそ資本家階級を自らのほこりで、怒りで打倒する事業として確定したことだ。
  もう少し考えてみるが−もう少し、現実から出発して、ある労働者の生活の苦闘から、所有について展開した方が討論しやすい。

【D】

 核心点と感じたことについて
○我々、「共産主義者=共産主義者の党」とは何か。
  労働者階級全体の利害を代表し、行動するもの。
○その目的は、私的所有の廃止。すなわち、階級支配の根絶。
○所有関係は階級関係。従って、あらゆる時に問題となる、または本来問題とすべきもの。
○あらゆる思想は、現実の階級関係から生まれている。
○全労働者階級の協力体・連合体(アソシエーション)の母体として労働組合を位置づける。

【N】

 講師は、第2章を7つに分けていたが、その中でも3番目、個人的所有を廃止するのか、というところが特に印象に残った。
  賃労働と資本の関係の中で、本来は社会的なものであるはずの資本が、資本家個人によって独占されてしまっていること。この私的横領を社会に返す、私的所有を廃止するのが共産主義ということである。「社会のものは社会に返す」。個人的所有を廃止するのは、ブルジョアジーと資本の廃止=階級関係の廃止であり、賃労働と資本の関係の廃止である。
  社会のこのあり方そのものを変える根本的革命なのだ、とはっきりわかった。
  所有を奪いとるということ、暴力的にでもプロレタリアートがブルジョアジーから奪いとること、これには闘う労働組合[そして革命的な労働者党]こそが武器なのだ。
  ブルジョアジーは、私有財産は何としても、しがみついてでも守ろうとするであろうし、そこに一番執着するだろう、という講師の話が腑に落ちた。世界的大恐慌の今、労働者階級の団結した力で革命しよう。動労千葉のように闘おう!!

【j】

 共産主義社会を実現する場合の「母体」は闘う労働組合にある、と提起された点が印象的でした。
  その上で、個人的には、付録資料「その三」の当時の背景を描いたものを興味深く読みました。マルクス、エンゲルスの党派闘争的な苦闘を通した『共産党宣言』執筆への道を知ることで、3章、4章に関する(設定そのもの)疑問がかなり氷解しました。

【S】

 後半、非常に勉強になりました。
  「マルクス主義は、『資本論』における資本主義把握の根底性をもってつかみとられるべきであるが…」云々と、はじめに書かれていて、私は、『資本論』を理解していなくても、労働者階級の現実的な怒りに依拠して、資本主義をコテンパンに批判していくことで、マルクス主義を主体化できると思っていましたが、今回、まさに『資本論』の把握にもとづく『共産党宣言』の提起を聞いて、改めて『共産党宣言』の中身を、資本主義社会への根底的な批判をもって深めて読むことが出来たと思います。
  今回特に、「所有」をめぐる所が重要だったと思います。ここの把握なくして、資本主義的生産様式の批判にはならないし、共産主義社会の現実的根拠も、いまひとつはっきりしません。
  レジュメ「(三)共産主義者は個人的所有を廃止するのか?」の所の、ブルジョア的私的所有の規定など、非常に重要だと思いました。今度、『共産党宣言』の講師をやりますが、今回の提起を踏まえて、さらに深めたいと思います。

【Z】

 第2章の展開は完璧だと思います。特に、プリゲートアイゲントゥーム(私的所有)とインディビディアルアイゲントゥーム(個体的所有)の的確な展開は非常にわかりやすかったです。大いに参考になりました。
  さて、前回のレポートで述べたマニフェスト=共産主義者の党の公約論のつづき。3つの公約→「私有財産の廃止」「祖国の廃止」「家族の廃止」は、とても鋭角的だが、何か不足していないのか?ということがある。
  下世話な話だが、冷戦下、「自由」(ブルジョア的自由を含む)を第一義的にすれば資本主義になる。「平等」ということを第一義的にすれば共産主義、ということが言われていた。高校生のとき、最初の『共産党宣言』の感想は、「どこに『平等』(『人間の平等』=『分配の平等』)ということが書かれているのか」ということであった。この思いは今も消えない!
  つまり、私有財産の廃止=搾取の廃止という所有論があって、「分配の平等」という分配論がないように思えた。所有と分配はメダルの裏表だから、所有論さえあれば十分なのだと言われたらそれまでである(マニフェスト=公約論の限界)。それでも分配の平等性を担保する展開がほしい。(賃労働の問題にふれた部分はあるにはあるのだが…)
  理由はある意味ではシンプルで、『宣言』に分配問題が書かれなかったのは、第1に、他の共産主義者、社会主義者との党派闘争上の配慮、第2に、分配問題への理論的確信の未形成ということではないか? 『宣言』には『賃労働と資本』のような人間労働を商品としてとらえる非道徳性への怒りが結論的にしかなく、所有論の大展開に比して、分配論をさけている感が否めない

講師から

[(1)『共産党宣言』は、共産主義者の党の政権公約論ではないでしょう。共産主義革命=プロレタリア革命の宣言です。この「違い」をよく考えてみてほしい。

(2)『宣言』が経済学批判や価値論=剰余価値論において未成熟だったのは事実ですが、〈だから、私的所有の廃止論はあるが、分配論=平等論がない〉というのはあまりにも無理解と言わざるをえない。ブルジョア的私的所有の廃止とは、資本と賃労働の関係そのものの廃止です。そこから考え直してほしい。]