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2009年07月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(上)

講義概要 P1-7

★討論から- P8-13

受講レポート P13-28

2008年07月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-7  講義概要

マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(上)

前半講義概要 講師 森尾 誠 

第10期第3回  マルクス・エンゲルス 『共産党宣言』(上)

【はじめに】

●資本主義の命脈がつき、労働者が新しい時代をつくりだすと

  世界大恐慌への突入が誰にも明らかとなってきている。しかし、資本主義の破綻が次々と進行する中、資本家はもとより、全政党・諸党派のほとんどすべてが資本主義はまだまだ続くと思っている。こういう中で労働者はいかに闘うべきか。『共産党宣言』は労働者階級の解放の綱領であるとともに、いまや実践的指針をも示している。

●『共産党宣言』から学ぶべき、三つのポイント

 いま、『共産党宣言』から学ぶ大切なことはまずは、次の三つ。
  @いまの社会は資本主義社会であり、完全に 限界にたっしている。同時に、この社会のなかにその解放の条件、現実性がある。
  A資本主義社会は労働者階級を生みだした。資本家は労働者なしには生きられない。労働者階級は限界に来た資本家階級を打倒し自らを解放する主体である。
  B労働者は階級の党(共産党)をつくる。そのための宣言である。

●『共産党宣言』は共産主義者同盟の綱領

 1847年6月、共産主義者同盟は結成大会を開き、規約を決定した。その上で、規約を確定し、さらに綱領を審議するために、第2回大会が同年11月末から12月上旬に開催された。第2回大会は会期の8会議日を規約討論についやしたが、これはブランキー以来の運動のあり方、少数の秘密結社員による武装蜂起という考え方から労働者階級の階級闘争によるブルジョアジーの打倒への転換でした。同盟(党)は国家権力に対しては非公然・非合法の党でなければならないが、労働者階級には開かれていなければならない。党は労働者階級のものなのです。
  規約の討論は、事実上綱領をめぐる討論となり、マルクスが内容を主導するとともに、参加した労働者メンバーと一体になって進行した。大会は、綱領の執筆をマルクスとエンゲルスに依頼、マルクスは翌年1月に書き上げ、『共産党宣言』と名づけた。それは2月革命の寸前、ロンドンで発行された。

【第1章 ブルジョアとプロレタリア】

●これまでの歴史は階級闘争の歴史−では現代の社会は?

 「これまでのあらゆる社会の歴史は、(原始共同体をのぞき)階級闘争の歴史である」
  これは『共産党宣言』の第1章の冒頭の文章です。この文章はつぎの文章で具体的に説明されている。
  古代ギリシア、古代ローマであれ、封建時代であれ、「抑圧者と被抑圧者は、つねに敵対関係にあり、ときには隠然とした、ときには公然とした闘争をたえまなくおこなってきた。この闘争は、社会全体の革命的変革をもって終わるか、さもなければ互いにたたかう階級の共倒れに終わるかがつねであった」
  ここで近代のブルジョア社会をそれ以前の社会と対比して、その基本的な特徴を明らかにしている。つまり、以前の社会では身分というかたちで階級のもとに社会は各層に幾重にも分かれていた。それに比して「近代のブルジョア社会は、封建社会の没落の結果生まれてきたが、階級対立を廃止したわけではない」「新しい階級を、抑圧の新しい条件を、闘争の新しい形態」に置きかえたにすぎず、しかも階級闘争を「直接に対峙する二大階級」−ブルジョアジーとプロレタリアートの分裂に単純化していく。
  以下、ブルジョアジーの誕生・発展(歴史に果たした役割、その生産の特徴)・その限界が明らかにされます。

●ブルジョア社会とは、どういう社会か−その誕生、発展、政治権力の掌握

 城外市民のなかからブルジョアジーの最初の芽が生じた。つまり、封建制の支配階級からではなく、しかも、封建制社会の基本である領主や農奴ではない、それらのはざまの城外市民のような層から生まれた新しい階級です。
世界航路の発見、アメリカの植民地化、アジアの植民地化などによる市場の開拓で、これまでの封建制度のもとでのギルド的工業では間に合わなくなって、彼らは工場制手工業(マニュファクチュア)を担った。しかし、市場はますます拡大し、需要が増大し、工場制手工業でも間に合わなくなった。蒸気機関と機械の発明と普及が産業革命をおこし、近代的大工業が誕生した。
  こうして近代ブルジョアジーが登場した。生産様式と交通様式の長い発展過程を経て、かれらは政治権力もとり、ひとつの歴史時代を掌握した。
  *交通様式とは:交通は物と物との 移動、人と人との関係などを示して おり、交通様式とは社会関係あるい は社会様式とみてよい。

●ブルジョアジーの歴史に果たした役割−歴史上きわめて革命的な役割

 かれらはこれまでのあらゆる封建的、家父長的、牧歌的諸関係を破壊した。すべてをむき出しの利害、冷たい「金銭勘定」、人格の尊厳を交換価値に解消し、商業の自由を獲得して、封建時代の身分制や停滞性を粉砕した。
  「ブルジョアジーは宗教的政治的幻想におおわれていた搾取を、あからさまで、恥知らずで、直接的な、粉飾のない搾取におきかえた」
  これまで尊敬をうけてきた職業から後光をはぎとり、医師、法律家、僧侶、詩人、学者をお雇いの賃金労働者に変えてしまった。

●ブルジョアジーは生産諸関係をたえまなく革命しつづける−資本制生産の特徴@

 「ブルジョアジーは、生産用具を、したがって生産諸関係と社会的な諸関係全体を、たえまなく革命しつづけていかなければ生きていけない」
  これにたいして、それ以前の社会では、古い生産様式をそのまま維持していくことがそれらの社会の第一の生存条件であった。生産のたえまない変革、社会状態全体の不断の動揺などがブルジョア時代の生産の特徴です。

●世界市場をつくりあげる−資本制生産の特徴A

 ブルジョアジーは自分の生産物の販路を拡大するために全地球上をかけめぐり、世界市場を切り開き搾り取ることによって、すべての国ぐにの生産と消費を全世界的なものにする。
  ブルジョアジーは農村を都市の支配下におき、巨大な都市をつくり、農村を都市に依存させ、農業諸民族をブルジョア諸民族に、東洋を西洋に依存させた。

●国民国家、巨大な生産力−資本制生産の特徴B

 ブルジョアジーは生産手段の集中、財産を少数者の手に集積させ、国内市場の確保のために政治的中央集権制−独立した諸州を、一つの国家、一つの法律、一つの階級利害、一つの関税線の中にまとめ、国民国家を形成した。
  また、その100年たらずの支配の中で、これまでのすべての時代を全部合わせたよりもはるかに大量で、巨大な生産諸力をつくりあげた。

●全世界の分割とその激突−資本制生産の特徴C

  これは『宣言』が書かれた後のことだが、帝国主義段階の争闘戦、植民地争奪戦、帝国主義間戦争も、資本制生産の特徴として押さえておきたい。

●ブルジョア社会の限界とその社会変革について

 このように発展してきたブルジョア社会は、今日の世界大恐慌に端的に示されるように、完全に限界となり、歴史的社会変革が求められる。
  マルクスはこの課題を考えるにあたり、まず、封建社会がブルジョア社会に変わったのはなぜか明らかにする。

●封建制社会はなぜブルジョア社会にかわったのか?

 ブルジョアジーの成長の土台である生産手段と交通手段は封建制社会の中で形成された。生産手段と交通手段がある発展段階に達すると、封建的な所有関係では対応できなくなる。それは発展の束縛に変わり、封建的諸関係は粉砕されるべくして粉砕された。

●いまわれわれの目の前でブルジョア社会に同じ運動が進行している

 巨大に発展したブルジョア的な生産関係と交通手段はもはやブルジョア社会を発展させることができず、恐慌の中で社会的疫病を発生させている。しかも、これまでのどの時代でも考えられない過剰生産という疫病であり、飢餓や社会的な破壊状態となる。

●なぜ恐慌がおこるのか?

 それは、あまりにも過剰な工業、商業が存在するからです。
  生産諸力はもはやブルジョア的所有関係を発展させられなくなった。逆に、生産諸力はこのブルジョア的所有関係にとって巨大になりすぎ、制動を加えるようになった。ブルジョア的諸関係は自分の生みだした富を手の中にいれておくには狭くなりすぎた。

●ブルジョアジーはこの恐慌をどうやって克服するのか?

 一方では大量の生産諸力を破壊することによって、他方では新しい市場を獲得し、古い市場をより徹底的に搾り取ることによって。その結果、ブルジョアジーは今までより、もっと全面的な、もっと激烈な恐慌への道を開き、恐慌を予防する手段をせばめていく。

●現在の世界大恐慌は大失業と戦争にいきつく

 『宣言』においてマルクスは、19世紀の10年周期で起こった恐慌の中で以上のように述べている。
  今日の帝国主義の時代にあっては、かつての1929年恐慌がそうであったように、大恐慌は大失業と世界戦争にいきつく。もはや社会はブルジョアジーの存在とあいいれなくなっている。ブルジョア社会を打倒し、階級社会を共同の社会に変革するときがきている。それは誰がなしとげるのか?

●ブルジョアジーは彼らを打倒する武器、武器をとる人びとをつくりだす

 「ブルジョアジーが封建制を打ち倒すのに用いた武器が、今やブルジョアジー自身にたいしてむけられている」「しかしブルジョアジーは、自分に死をもたらす武器をつくりだしただけではない。その武器をとる人びとをもつくりだした。すなわち、近代の労働者、プロレタリアである」
  ここでいう武器とは、生産諸力のことですが、しかしマルクスはわざわざ「武器」と表現している。つまり、階級闘争をも、暴力革命をも含めて表現しているのです。

●武器をとる人びと−近代の労働者、プロレタリア

 ここではっきりと確認しておかなければならないことは、生産諸力が生産関係を変えるのではないということです。労働者階級が変えるのです。
  日本共産党のイデオローグの一人、浜林正夫は『古典から学ぶ史的唯物論』で、次のように言っています。
  「生産関係は制度として固定されます。一方、生産関係ははじめのうちは生産力の発展を促進する働きをしますが、やがて生産力の発展に見合わなくなり桎梏となります」「どこかでこの矛盾は爆発し、生産関係の変革がおこなわれます」
  このように共産党の理論は主体である労働者階級がまったく登場しません。ここに彼らの体制内思想・反革命の本質が示されています。
  以上、『宣言』第1章の前半でブルジョアについて明らかにしたあと、後半で資本主義社会のもうひとつの階級、プロレタリアが登場します。

●プロレタリアとはいかなる階級か?

 ブルジョアジーつまり資本の発展の度合いに応じて、プロレタリアートも発展する。
  プロレタリアートすなわち近代の労働者階級は「労働(仕事)があるかぎりで生きることができ、その労働が資本を増殖するかぎりで労働にありつける」。自分を(時間で)切り売りしなければならない労働者とは、「他の販売品目と同じ一商品」です。

●労働者の労働とは?

 「機械の普及と分業によってプロレタリアの労働は、独立性をすべて失い、そのため労働者にとってまったく魅力のないものになった」。労働者は機械の単なる付属品となり、労働は単純、単調、簡単に習得される作業となる。
  労働者にかかる費用は、ほとんど労働者自身の維持と自分たち労働者種族の繁殖に必要な最小限に限られる。労働が労働者にとって不快なものになればなるほど賃金は減少する。
  機械や分業の増加にともない、労働時間の延長や機械の運転測度の増加などで、労働の量も増加する。手の労働に熟練と力が必要でなくなると、男性の労働は女性と子どもに駆逐される。

●労働者階級の闘争はその存在とともに始まる−闘いの発展段階

 最初は、個々の労働者が、次に一つの工場の労働者が、さらには一地方の労働者が立ち上がる。
  ブルジョア的生産諸関係にたいしてだけでなく生産用具そのものにも闘いを向ける。競争相手の外国商品を破壊し、機械を打ち壊し、工場に火を放って、中世時代の労働者の失われた地位を取りもどそうとする。

●労働者の最初の団結はブルジョアジーの結果

 最初の段階では労働者は分散・引き裂かれた集団。団結もブルジョアが工場に労働者を集めた結果です。しかも、ブルジョアジーは彼らの政治目的のために労働者を運動に引き込む。
  この段階では労働者は自分の敵の敵と闘うことになり、獲得された成果はすべてブルジョアジーのものとなる。

●闘いは労働者階級とブルジョアジーとの2つの階級の衝突となる

 工業の発展と共に、労働者は密集した巨大な集団となり、力も大きくなる。労働者も自分の力を自覚するようになる。機械が労働の格差をなくし、賃金は一様に低くなる。競争が増大し、その結果、商業恐慌がおこる。労働者の生活はますます不安定となる。
  こうして個々の労働者と個々のブルジョアとの衝突は、ますます2つの階級の衝突となる。労働者はブルジョアに対し同盟をつくり恒常的組織をつくる。ときに闘争は暴動として爆発する。

●労働者の闘いの特質−労働者の団結

 「労働者は、ときどき勝利することがある。しかし、その勝利は一時的なものにすぎない。労働者の闘争のほんとうの成果は、直接の成功にあるのではなくて、労働者の団結がますます広がっていくことにある」。団結が労働者階級の総括軸である。
  労働者の団結や組織は労働者自身の競争によって、くり返し破壊される。この組織化は、いつもそのたびに再建され、ますます強力に、ますます強固に、ますます強大となっていく。

●プロレタリアートだけが真に革命的な階級である

 「今日、ブルジョアジーに対立しているすべての階級のなかで、プロレタリアートだけが真に革命的な階級である。その他の階級は、大工業の発展によって衰退し没落する。プロレタリアートこそは大工業のすぐれて固有の産物である」
  中間諸階層もみなブルジョアジーと闘うが、かれらはその没落から身を守ろうとしてのことであり、保守的です。かれらが革命的になるのは、まじかに迫ったプロレタリアートへの移行という現実を考慮して、現実の利益ではなく、将来の利益を守るために、プロレタリアートの立場に立つ場合です。
  三里塚反対同盟の農地死守・空港絶対反対の闘いは帝国主義を打倒してやまない労農同盟の闘いであり、労働者階級とともに闘うすぐれた実例です。

●プロレタリアートによる革命(プロレタリア革命)の歴史的性格

 これまでの階級は、全社会を自分たちの利得の下においてきた。しかし、「守るべき自分のものなど何一つない」
プロレタリアートはこれまでの自己の獲得様式、つまり賃労働を廃止するためには、同時に賃労働によって資本を蓄積するブルジョアどもの獲得様式、つまり社会のすべての獲得様式を廃止することによってのみ、社会的生産諸力を奪取することができる。
  プロレタリアの運動は、圧倒的多数者の利益、圧倒的多数者による自立した運動です。現在の最下層であるプロレタリアートは公的社会を形成しているいくつもの上部構造を空中に吹き飛ばす以外に起き上がることも、身をのばすこともできない。
  プロレタリアートの闘争は、内容上はインターナショナルですが、形式上まずは国民的です。「プロレタリアートは、まず第一に自国のブルジョアジーと決着をつけなければならない」

●社会はブルジョアジーのもとでは、これ以上生きていくことができない

 プロレタリアートの発展の一般的な段階を描くことによって、ついに公然とした革命、ブルジョアジーの暴力的打倒をとおして自分自身の支配をうち立てる地点にまで到達しました。
  どの社会でも抑圧階級が被抑圧階級を支配するには、最低の生存の保証がなければならない。近代の労働者は、工業の進歩とともに、逆に自分の階級的条件以下にますます沈んでいく。もはや自分たちの奴隷の生存を保証出来なくなったブルジョアジーはこれ以上支配階級としてとどまることができない。
  「社会はブルジョアジーのもとでは、これ以上生きていくことができない。ブルジョアジーの存在は、もはや社会とはあいいれない」

●ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は不可避

 ブルジョア階級の存在と支配は、私人の手の中に富が蓄積されていること、つまり資本の形成と増殖です。そして資本の条件は賃労働です。賃労働は労働者間の競争にもとづく。
  工業の進歩は、資本の論理にたいして無意志・無抵抗なブルジョアジーによって担われているが、競争による労働者の孤立化ではなく、組織による労働者の革命的団結をもたらす。
  こうしてブルジョアジーの土台そのものが取り払われる。
  「ブルジョアジーはなによりも、自分たち自身の墓掘り人を生みだす。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」
  この第1章の結語はプロレタリア革命の勝利の不可避性を宣言している。

●第1章から第2章の展開へ

 第1章には“共産主義”という言葉も“共産主義者”という言葉も使われていません。では、共産主義者とはどういうものなのか?
  それは、第1章の内容、つづめて言えば、「ブルジョア階級の存在と支配にとってのもっとも本質的な条件は、私人の手のなかに富が集積されること、つまり資本の形成と増殖である」に始まる第1章の最後の段落、さらにひと言で言えば、「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」を確信し、闘うプロレタリアが共産主義者です。
  したがって、ブルジョアジーやその手下どもを除けば、すべてのプロレタリアは闘いをとおして共産主義者になる・獲得できることを示しています。

  第2章「プロレタリアと共産主義者」は、第1章を土台として、その共産主義者(党)とプロレタリア全体との関係から始まります。
(前半講義了)

党学校通信 p8-13

討論から

●Z

 古典を学習をするという意味において、この間、内容の問題でいろんな工夫がなされているので、ずっと出席する気になっている。その中でも、古典中の古典である『共産党宣言』を、どのような形で現代の路線との関連に引きつけて読むのかは重要だと思う。
  『宣言』第1章は、史的唯物論の展開になっている。そのレベルでは、今日の講義は分かり易かったんですが、『宣言』は、当時の左翼的インテリゲンチア相手に述べたもので、労働者に直接語りかけたものではない。それを踏まえた上で、現実に労働者にどう訴えていくのかということを、整理し直す必要があると思う。

●C

 『共産党宣言』というと、冒頭の「階級闘争の歴史である」という所で、いろいろ論議を膨らませるところがあった。今日講師の提起では、最初の所はそのまま読めば分かるという形でやってくれたのは正しいなと思った。その後のブルジョアジーの生成と、それとプロレタリアートの存在、武器をとる人びとという形で出てきている、そこをガッチリとやること自身が重要かなと僕は思っているんです。
  改めて1章を読んで、今の大恐慌の中で通用するなと思った。ブルジョアジー自身が、ブルジョア的生産諸関係を手に負えなくなって、完全に妨害物になって、物があるのに物は回らないという状況にあるということは、この社会をもう終わらせるしかないと思う。労働者にとって『宣言』の1章を読む中で、もっと掘り下げなくちゃと思うのは、労働者は労働があるかぎりで生きることができ、資本を増殖するかぎりで労働にありつける、と賃労働の性格が2、3行で明確に出されているということ。
  さらに、資本主義社会の中において労働者は機械の単なる付属物となり、単純、単調な状態に落とされていく。生産が巨大になればなるほど、労働が合理的になればなるほど、ますますつまらないものになってしまう。ここの部分が自分の現場を考えてみても、労働者が、いかに搾取され、疎外されているかを本当につかむことができる。1章で言えばそこの所を、職場の中で職場の労働者に訴えていくことが重要じゃないかと思いました。
  その上で、1章では、労働者の闘争が、階級の闘争がその存在とともに始まるとか、団結が破壊されてもそれは必ず強化され、強大になるとか言われている。このことも、マルクスの労働者階級への絶対的な信頼から提起されていると思うし、その命題は、ブルジョアとプロレタリアは非和解なんだというところから出てきているんだと思います。だから、1章の中身は労働者にとって重要だと思います。

●f

 『共産党宣言』を読むたびに新たな発見ができる、改めて自分が共産主義者になれるという喜びがある。動労千葉の中野顧問が『新版 甦る労働組合』で“マルクスだけが俺たちの存在を認めてくれたんだ、全員マルクス主義者になるべきだ”ということを言っているんですけど、この第1章が一番、俺たちのことを認めてくれている、労働者こそ力があるんだということを認めてくれてる所だと思う。その意味で、1章が土台だと思うんです。
  前回の『賃労働と資本』の講義で空気入ったのが、マルクス主義を俺たちの理論として復権しよう、と言われたこと。今回の『共産党宣言』で言えば、この『宣言』を、俺たちの理論なんだと言えるところまで復権し、革共同を、俺たちの党だと言えるように復権するのが重要だと思う。労働者を獲得できるのは、この『宣言』1章の論理だと思うし、そこにガンガン特化して、自分としては闘っていきたい。

●W

 今回、改めて読み直してみて、僕も新鮮な感覚で読みました。資本主義の命脈が尽きている時代に来ている中で、労働者が国際的に交流し、世界の労働者が団結する動きが開始されている。今回は、観念の世界ではなくて、実際にわれわれの手で歴史を動かしていく、その一端を今担っているという感覚で学習しています。
  『共産党宣言』は、プロレタリア革命は労働者の事業であり、それに勝つために労働者の党をつくるんだということ、誰しもがその必要性を感じ、またその勝利を確信するものとして書かれていると思う。マルクスがここで、家族関係を金銭の損得勘定に変えていくとか、今起こっていることをいろいろと出している中で、労働者が『共産党宣言』を学習することをとおして、資本主義社会の本質をつかみ取っていく、そういう学習会にしていくことができると思います。
  一番思ったのは、物が足りないのではなく、物が余りすぎる「過剰生産という疫病」、何でこんな不合理なことが起きるのかということ。労働者が日々汗水垂らして働くことが、逆に自分たちを苦しめている。それが今現実に起こっていることだし、これが資本主義社会なんだ、その原因が資本家による独占にある、それを奪い返そうということに確信をもてる、そういうところに来ていると思いました。
  『宣言』の学習会は、われわれの『宣言』をつくり、党をつくっていく、その事業に共に参加しようというものとして労働者と行っていきたいし、それができる学習会になると思いました。

●N

 私も、労働組合とか労働運動をやるようになって、また改めて『共産党宣言』を読んでみて、また今日の講義を受けて、また違うものを獲得できるなと実感しました。
  今日は、資本主義社会がこうやって始まり、発展してきて、今まさに終わりが来ているんだと実感できる講義だった。また、過剰生産についても、ブルジョア的所有関係にとって全然得にならないから、家はあるのに、そこに住めない人が路上にあふれているという今の状況が、実感としてよく分かる講義だったと思います。
  それと、私たち労働者が社会の主人公なんだ、団結すれば必ず勝てるんだ、ということがよく分かりました。
  先日、自治労の人と話したんですけど、体制内の労働組合だから上から何も情報が来ない、道州制のことも何も知らされていない。「自分たち解雇されるんですか」とビックリしていた。「イエスマンになって再雇用されるなんてまっぴらだ」とその人は言ってました。そういう人たちとつながって団結すれば、必ず私たちは勝利できるとハッキリ分かった今日の講義でした。

●g

 僕も、『共産党宣言』を読むたびに新しいことを発見する。自分としては、「共産党宣言」とあるように、マルクスに党が必要だという目的意識があるということを改めてハッキリさせなければいけないかなと思った。
  今回読んで思ったことは、『宣言』の1章を、大恐慌と戦争という時代の中で、時代認識としてとらえるのは重要かなと。講師も、最後の、「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」、ここをつかめば共産主義者、革命家になっていくんだと言われましたけど、ここをつかむということだと思うんです。史的唯物論的につかむとかじゃなくて、時代認識としてつかむというところは本当に重要だと。
  また、『宣言』1章の最後の一文とか『資本論』の注に付けてあるということは、本当にマルクスはこだわっているんだなと。今やプロレタリアートが次の時代を切り開く存在なんだ、ブルジョアジーは没落していく存在なんだというところにこだわり抜いている、そういう時代だから党も必要なんだと。だから、『共産党宣言』で行こうという、そのこだわりがにじみ出ていると思うということです。
  現在に引きつけても、国際的な労働者の交流が行われる情勢の中で、『共産党宣言』は「労働者階級の自己解放の綱領、現代(大恐慌の時代)の実践の指針であると同時に、労働者階級が自らの階級的党をつくっていく宣言」であると言われましたが、まさにそういうものとして、今『共産党宣言』の学習なんだと改めて思いました。

●D

 僕は、あまり『共産党宣言』は好きじゃなかったんです、何が中心問題なのか、どこが核心なのかよく分からないなというのがあって。だけど、f同志とかの発言を聞いて、それが核心なんじゃないかと。
  結局、労働者が主人公なんだ、ということをハッキリさせる。あたかもブルジョアが主人公かのように言っているけど、奴らの生まれてきた過程とか、貢献したことは認めるけど、もうお前らの役目は終わったということが書いてあって、労働者の時代だということ、それをハッキリさせるものとして読むと、やる気が出るという感じがしている。講師の言われていた、ブルジョア社会を発生→発展→限界という線を引いてとらえるという指摘は、今まで意識的にはやっていなかったんで、重要だなと思って聞いてました。

●G

 われわれは、今の大恐慌を革命へ、ということで闘っているわけですが、ブルジョアジー、あるいは体制内派、反革命勢力も含めて、景気も底を打ったというようなことを言って、今の資本主義社会が永遠に続くかのように宣伝しています。これに対して、資本主義社会は一歴史社会であって、今命脈が尽きて終わろうとしているということを、われわれ自身が声を大にして訴えていかなきゃいけない時代が今まさに来ていると思うんです。
  講師から、『共産党宣言』を学ぶ大切なことということで3つ言われているわけですが、実際われわれが労働者を組織する場合でも、今の社会にたいする不満とか怒りとかを解決する方向性というか、現在の実践の指針として『宣言』を改めて学ぶことだと強く感じました。怒りとか不満とか持っている労働者・学生をどう組織・獲得していくのかと考えた場合、われわれどういう社会に生きているのかということから始まると思うんです。
  そして、今の資本主義社会をぶっ倒す、新たな社会をつくることができるんだと。資本主義社会は限界が来てて、今や命脈が尽きてて、その社会を根本から変革することができるということを、『宣言』をとおして改めてハッキリさせる、そういうことを学ぶ、そこに確信を持っていくことが必要だなと改めて感じた。そうすることによって、新たな青年労働者を獲得していくわれわれの武器になると思います。

●P

 第1章の主語は労働者階級で、労働者階級とはどういう存在なのかということが提起されている。プロレタリア革命の主体は労働者階級だ、そこをきちっと押さえないと、共産主義者も、それから共産主義の党も行けないんだというところで、第1章が押さえられてると思う。なぜ1章には一言も「共産主義」とか「共産主義者」が出て来ないのか、そこまでマルクスがこだわったことの意義だと思うんです。
  ということと、新訳本の24nの所で、「プロレタリアは階級へ組織され、それとともに政党に組織されていくが、…くり返し破壊される。しかし、…そのたびに再建され、強力になっていく」の後に、マルクスがわざわざ「そしてブルジョアジーのあいだの分裂を利用して、労働者の個々の利益を法律の形で承認するよう強制する」と書いている。つまり、労働組合とはどういうものなのかということを、マルクスは『共産党宣言』で言っている。
  ブルジョアジーの危機をついて、分裂を利用して、これは動労千葉顧問の中野さんも職場闘争なんかについてよく言われる。だからここでは、階級−労働組合−党という関係における階級と労働組合の始まりというところまで含んで労働者階級とは何なのかということを提起しているんじゃないか。

●d

 私も、今までの読み方はなんだったんだと思うような新鮮な感じがしています。今日の講義で、1章の「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」とつかんで、確信し、闘う人が共産主義者なんだ、共産主義者と共産党とはほぼイコールである、と言われた。これを確信し、闘う人が共産主義者だという点では、その一番大事なところをつかみ始めた感じがしています。
  今の資本主義社会の矛盾はみんな感じている。疑問や怒りや不満は噴出しているし、この社会どうなっちゃうんだろう、という危機感みたいなのはすごくあるんですけど、大方の人は、やっぱり資本主義はまだまだ続くと思っている。その資本主義社会は命脈が尽きて、それを変えることができるとか、変えるのは私だとか、そういうふうには思っていないわけです。そこのところをつかめたら、本当に変わる。
  そのための実践は、まず資本主義は終わっているとビラで書いたり、街頭で訴えたり、まずそこからなんです。それが言えない人は、ウジウジしているし、暗いし、突き抜けられない。やっぱり確信の問題だと思うんです。今の社会がどういうふうに成り立っているのかというのを歴史から教訓をつかまえて、封建社会はどうやってブルジョア社会になったのか、ブルジョア社会をひっくり返すにはどうするのか、そういうところに確信をもつことができるのかどうかが、私たちの運動にとって今絶対的に必要だと思います。今日やった学習会を即実践して、学習会をやってみようかなと思いました。

●h

 権力との闘いで、逮捕されたら起訴を粉砕する、起訴されたら無罪をとる、そのために全力をあげるということがあると思うんです。決めるのは最後は権力だから、団結を拡大する、その一点を総括軸にして闘うということで、権力との闘いも整理できる。
  この間法政大で、4・24から始まって暴処法弾圧があって、その過程で文連と全学連の団結が強化された。また、党の団結もこの弾圧をとおして強化された。それだけではない。文連−全学連と法大3万学生の団結の展望が圧倒的に切り開かれたと思います。6・14−15の闘争で、法大当局は窓のブラインドを全部おろすとか、学生を屋上から追い払う。法大当局自身が、団結が拡大することに恐怖しているという点で、団結を総括軸に闘うことの正しさが圧倒的に証明された。
  僕は、団結が総括軸だと『宣言』で書いてあると知らなくて、今日の講義で「労働者の闘争のほんとうの成果は、直接の成功にあるのではなくて、労働者の団結がますます広がっていくことにあるのだ」と。『宣言』自身の中で、労働者の団結の拡大が総括軸だと書いてあるという点でも、マルクス主義とは何なのか、ということを改めて再認識できた。
  それから、ブルジョアジーの没落と労働者階級の勝利は不可避、と言ってて、僕は、マルクスがそう言っているからそうなんだろうということだった。動労千葉顧問の中野さんもそう言っているでしょ。その点では、中野さんもマルクスも同じ感覚で、労働者を本当に信頼して確信しているから、マルクス主義者になれたんだということが鮮明になったという意味で、核心的なところで理解が深まったと思う。
  もう一つ。「武器と武器をとる人びとが現れた」。武器をとる人びとはプロレタリアート、それは分かるけど、武器とは何なのか。僕は、生産力の発展がその武器なのかなと思ってて、その発展した生産力を労働者階級が奪い返すことをとおして革命に勝利していく、というふうに理解していた。その上で、今日の講義でハッキリしたのは、階級闘争の中で団結を拡大していく、その団結の拡大の闘いそのものをとおして生産力を奪取する、展望を切り開いていく。そういう意味で、スタティックな生産力の発展ということじゃなく、そういう点では、僕は日共のような客観的物理的に不可避だみたいな理解があったんですけど、そうじゃなく、プロレタリアートが階級闘争をとおして、つまり団結の拡大をとおして革命に勝利していく武器としてあるんだという、その辺の理解という点でももうひとつ鮮明になったと思います。

●講師

 一つだけ。『共産党宣言』はインテリ向けに書かれたのではない。労働者に向けて書かれている。文字通り労働者の中に、明らかになったことを徹底的に『党宣言』として打ち上げていくという性格で書かれている。

●Z

 結局グチが出る、世界史を知らないのかと。でも、学習会でそうは言えない、どうするんだと。今の人は世界史を勉強していないとかが話題になるのは、僕らの悪いクセだと思う。

●d

 そういう枠を取っ払って、ストレートに入っていけばいいと。『賃労働と資本』の学習会で、1847−48年の闘いには負けたけれども、労働者が立ち上がったことが決定的だと。そこを、マルクスが押し出そうと言って、『賃労働と資本』では、3つのことを言った、ブルジョアジーとプロレタリアートは非和解だとか。あの言い方だけでも私は元気になる感じがした。
  今現に職場で、毎日毎日いじめられたりして悔しい思いをして帰ってきたりする労働者が、いや、あんたが頑張っているから逆に嫌味の一つも言われているんだ、一方的にいじめられているんじゃない、また明日も頑張ろうと言って行くわけです。そういうことに必要なことが『賃労働と資本』にも、『共産党宣言』にも書いてある。ストレートに労働者に向けて書かれている。どうやって私たちが、それを労働者と一緒に勉強しようかというところにいるんじゃないのかなと思う。

●Z

 それは賛成ですけど、僕らの過去の桎梏として、例えば『賃労働と資本』をやるときに、『資本論』や『賃金・価格・利潤』の地平から『賃労働と資本』を説明する傾向に流れてしまう。

●d

 それをやめて、今新鮮に向かえ合えばいいんじゃないかと思います。

党学校通信 p13-28 受講レポート

受講レポートから ★『共産党宣言』(上)のレポートです。

【N】

 資本主義が命脈のつきている今(こういう時代認識を持つことが大切、と再確認しました!)、労働者階級が団結して闘えば必ず勝てる、これを確信しました。
  資本主義社会を、発生→発展→限界、と線を引いて読む、という所が新しい発見でした。
  労働者がこの社会の主人公であるし、労働組合運動が、労働者の階級的団結が、本当にこの社会をひっくり返す武器なのです。
  ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利はいずれも不可避である、ということを確信し、労働者に絶対の信頼をおいて、団結して闘っていこう、と改めて元気がわいてきました。
  ブルジョアジーが、自分に死をもたらす武器をつくり出したという「武器」が、社会変革の出発点という意味では「階級闘争」であり、新しい社会の創設という意味では、労働者階級が生産諸力を獲得することだ、と今回知りました。

【U】

 誤解しないで頂きたいが、「非常に面白い歴史の授業」という感じがした。とりわけ、第1章の冒頭から数行で「世界史の全部が書いてある」という指摘は、なるほどなぁ、と思いました。
  もちろん、それでいて「生産諸力が生産関係を変えるのではない。労働者階級が変える」ことをガッチリと確認し、歴史は人間が変えるんだ、ということをきちんと踏まえ、補論として日本共産党の理論を確認し、彼らの考え方の中には「労働者階級」が全くいない、出てこない、ことの決定的間違いも確認できてよかった。彼らの「労働者蔑視」という許し難い考え方が改めてハッキリしました。
  もうひとつ発見したのは、第1章最後の、「工業の進歩は…無意志・無抵抗なブルジョアジーによってになわれている…」というところ。
  これまで読み飛ばしてきていましたが、ここのところが、バブルや新自由主義というムチャクチャなことを、彼らがどうしてまた招来せしめたのかを、すでに『共産党宣言』の段階で透察していたことがわかり、改めて『宣言』の奥深さを知らされた思いです。

【r】

 『共産党宣言』は、闘いに決起して以来、一番学習会で使ってきた古典中の古典でした。改めて、今回党学校で学ぶにあたって、やはり今日の世界金融大恐慌情勢の中で、鮮明な問題意識を持って読む必要があると感じました。
  冒頭提起されたように、資本主義は終わったという事を鮮明にさせる問題意識を持つという事、あるいは新しい時代を労働者、我々がつくるという決意に踏まえて学ぶという事だと思いました。
  『宣言』第1章において、ブルジョアジーが歴史上きわめて革命的な役割を演じたという点、社会の歴史的発展においてブルジョアジーが誕生−発展−没落している事、他方でプロレタリアートが発展してきた事を、それ自身しっかりとつかむ事が大切である事を改めて確信した。
  「資本主義にもメリット、デメリットが有る」とか「資本主義の下で進化した事も有るから、全てを否定するのはどうか?」という意見は、学習会でよく出される。静的にとらえればそういう風にしか見れないだろうが、歴史的にとらえれば、必ずプロレタリア革命に全ての労働者が確信できると思う。
  自分は自分について、共産主義者であると言ってこなかったし、何をもって共産主義者なのか、という事について曖昧でしたが、「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利の不可避性=プロレタリア革命に確信を持った人が、共産主義者である」と言われた事、党に結集し、闘う者が共産主義者だという提起で、曖昧な部分がすっきりしました。
  (「統一と団結」が体制内派による弾圧として使われたから団結ぎらいになったという事、はじめて知りました。)
  皆さんの意見を聞いて、労働者の国際的な会議なども行われる中、マルクスが『宣言』を書いた時代と重ねて見た時、なるほど今こそ『宣言』を広げる時代だと思いました。

【j】

 ○革命の現実性をハッキリと実感できる講義でした。特に、「労働者を食わせられなくなった資本主義の歴史的生命力は尽きている」と我々が確認している内容が、『共産党宣言』でまさに展開されていることを、新鮮な思いをもって確認できました。
○さらに、資本主義の歴史的発展を確認できれば全世界プロレタリアートは獲得できる、と結論部分で強調されていた箇所も、すばらしかったと思います。
○「付録」部分でも教えられました。『共産党宣言』の2カ所が『資本論』の第1巻24章に引用されている事実も、驚きました。

【E】

 討論の中で、『共産党宣言』をどのように読むのか、ということがテーマになっていました。その中で、第1章の結びの「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は不可避」ということを確信させてくれるのが『共産党宣言』である。
  時代は革命が現実的問題になっていて、その中で、「労働者は闘っても勝てない」とか、「労働者ではなくオバマこそ社会をかえる」、そういうブルジョア・イデオロギーを本当にぶっ飛ばしていると思う。
  最近読んでみて、新訳本p29の「ブルジョアジーには支配する力がない。…」という文が毎日のように感じる。だからこそ、支配者として失格なのだから、おれたちに権力をよこせ、とガンガン闘って訴えていきたい。

【P】

 第1章の意義についての核心は、「ブルジョアとプロレタリアート」について、「特別な理論や主義ではなく、資本主義社会の発展と限界−その運動と関係−をつかめば、プロレタリアートは誰でも共産主義者になれる」(講師の言葉)ということ。そして、第1章はそのまま読めば、労働者には理解されるということ。一労働者を主語に書かれていることの意味でもある。
  だから土台であり、共産主義者とは、徹底的、根底的に、労働者階級の意識、存在、闘争と一体であり、そこから離れたところに存在しえない、闘えないことに、第1章の核心がある。

【D】

 今日ははっきりした。「労働者が主人公だ」ということを訴えている本だとして提起すると、やる気が出る。
  資本家が、いかに大したことがないか。彼らの役目はすでに終わり、労働者の時代になった。今こそ党をつくり、社会を取り戻そう。
  全てを「労働者が主人公だ」ということをはっきりさせるものとして貫き、その方針としての「党」だという内容で提起するのがよいと思う。
  学習会で、相手はそこそこ空気が入っている。しかし、こちらがよく分からなくて、「…『国家と革命』やろうか」とかいう。今度はお互い空気が入った上で、次に進めるようにしたい。
  好きじゃなかった『共産党宣言』も、好きになれそうでよかったです。

【I】

 『共産党宣言』第1章について講義を聞きましたが、まず全体の感想は、この『宣言』は、マルクス自身がプロレタリアートと共に闘った現実の中から生まれたものである、ということに強い共感をもったということです。
  「はじめに」の部分では「資本主義の破局のはじまり、労働者階級が歴史の変革におどり出る時代」とされ、最後の部分で「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利はいずれも不可避である」、この2つの部分が『宣言』の核心だと思いました。
  特に、一見すると「強大で」「永続的なもの」に見える資本主義社会が歴史の一段階であること、さらには労働者の労働がなければ1日も続かないものであることを改めて確認しました。
  今、現実に世界大恐慌−大失業時代の中で、帝国主義にはそれを解決することができないこと、それを解決する存在こそが労働者階級であることがハッキリしたと考えます。
  1章は「ブルジョアとプロレタリア」ということですが、やはり、ここが『宣言』の土台だと考えます。この社会は階級社会であり、歴史的な一段階であり、プロレタリアートの団結と政治闘争、党の組織化がプロレタリア革命をたぐりよせるものであり、そのために、ブルジョアジーの生成・本質をまず明らかにしていることが、重要だと思います。
  さらに、資本主義の下での過剰生産そのものが、プロレタリアートの資本主義打倒の闘いを必然的に生み出し、その闘いは、「万国の労働者は団結せよ」に表れているように、国際的団結となる−今日現実に、日韓米の労働者が、動労千葉、法大生の闘いを土台として、国際的な交流を実現し、具体化している−ということからも、極めて今日の時代情勢そのものであることを強く感じました。
  それから、党派闘争の重要性も、今日の体制内派と死闘している我々にとって、そのものズバリと感じました。団結して闘うぞ!

【B】

 今回『共産党宣言』を学習して、1章が土台と言われたが、講義の中では理解できていなかった。討論の中で、いろいろなとらえ方が発言される中で理解できた。何よりも情勢論、時代認識と言われ、納得できた。
  マルクスの時代の事が書かれている内容が、私たちの今の社会状況の中でそのまま起こっていることだと感じる。前回の『賃労働と資本』もそうだったが、自分がどういう立場(存在)なのか考えさせられる。
  何をすべきなのか考え、講師の言われた、ほとんどの人たちの時代認識にどう訴えるのか、考えていきたい。

【C】

 今日の結論は、『共産党宣言』第1章で、労働者は職場に党をつくることができる、やろうという確信を持ったということです。大恐慌と戦争の時代=革命の現実性の中で、『宣言』を労働者階級の中に持ち込むということは、創造的であり、今こそ必要な時だと思います。
  1章を読み、常に思うことは、「資本主義は有限」であるということです。だから、武器をとる人々=プロレタリアートは決定的です。資本の蓄積に労働者の未来はないということです。
  今回の学習で思ったことは、労働者とは何か、この部分をもっともっと労働者に訴えていく、ここが、労働者の決起を引き出せるのではないかと思っています。あの部分を読むと怒りが込み上げ、「職場を労働者の手に奪い返そう」という気持ちになってきます。
  『宣言』は労働者党建設の武器である、ことをはっきりさせて臨みたいと思います。
  なお、「農村を都市の支配下においた」。この説明をさらに聞きたい。封建時代より農業生産物もあがったと思います。しかし、農業そのものを金銭関係にかえてしまった、ということにもつながると思いますが。

【R】

 講義を受けて、マルクス主義に改めてカクトクされたと思いました。
  一つは、ブルジョアジーの打倒の強力な戦闘意志についてです。なかでも強烈だったのは、“武器”という表現を使っていることです。ここに『共産党宣言』が単なる歴史観ではなくて、プロレタリアを主人公としたブルジョアジーの打倒=革命の宣言だということがにじみ出ている。
  二つは、労働者であれば誰でもわかるものとしてあることについてです。このこと自体がすごいことではないかと思いました。これを“解説”しようと思うと、マルクス主義というのがすごく難しくなってしまう。そうではなく、これを労働者と一緒になって読み合わせをすればいいのだということです。
  そして、この結論「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」で一致することなのだ。

【g】

 改めて『共産党宣言』が、党をつくる。党が必要だという強烈な目的意識で書かれたことを確認した。今日、世界恐慌が始まり、労働者階級が殺されていく中で、党建設が決定的だ、ということ。
  今回、講師が最後に提起した「『ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である』という文章を確信した人が共産主義者」という内容は圧倒的に正しいと思う。ここの文を前後し、プロレタリアが革命的存在であることが、これでもかと書いてある。「資本主義の終わり、労働者の時代」という時代認識としてガッチリつかめる。だから、『宣言』は多くの労働者を獲得してきたし、読めば元気になる本だと思う。
  大恐慌と戦争の現在、徹底してこの『宣言』で勝負していこうと思いました。

【Z】

 自分自身、もう何回も学習会をチュートしてきたが、一番に悩む問題は、『共産党宣言』を、@史的唯物論〜時代認識という、哲学的経済学的レベルから原理的にとらえるか?A「マニフェスト」表題通り、「共産主義者又は共産主義者の党の『公約』」として、政策論的にとらえるのか? つまり、どちらがわかりやすいのかということにあった。現在では、後者の方向にシフトすべきと思っている。「declaration(宣言)」と「マニフェスト」の意味の違いは難しいが、やはり「共産主義者の公約」というのがベターではないかと思っている。
  というのは、前者的なのは、冒頭の「これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」の1行の格調性にたいする訳者の敬意であって、ここ(史的唯物論)にこだわると(説明に入ると)時間がかかり、たいてい学習としては中途半端なものになるか、時間切れになる。独断的に言えば、このマニフェストでは史的唯物論は前提化されており、その骨格的なところは、第3章・第4章で当時のインテリ層に向けられていると感じる。
  後者の方向から独断的にアプローチすれば、各章は次のように改題されると思う。ポイントとなるのは、第2章の「公約」である。私は、ここから始めるようにしたい。
  第1章 ブルジョアとプロレタリア→歴史的な階級対立の激化(=現状分析→貧困、すさまじい搾取、道徳的荒廃)
  第2章 プロレタリアと共産主義者→プロレタリアの政党の必要性とそのあるべき公約(政策=共産主義)
  第3章 社会主義的および共産主義的文献→歴史的理論的蓄積と党のための綱領的準備(おそらく大会の討論があった)
  第4章 種々の反政府党にたいする共産主義者の立場→プロレタリアの団結のために社会主義者の団結を(→ヘーゲル主義まる出しではあるが…)!(統一戦線的よびかけ)
  さて、ポイントとなる「公約」は、シンプルに単純化すれば、@私有財産の廃止、A祖国の廃止、B家族(又は家族イデオロギー)の廃止、の3つである。
  この3つの公約は、史的唯物論的にはいくつか重複するが、その対抗=対象化は、@ブルジョアとしての資本主義生産様式(市場、賃金奴隷、搾取、貧困…)、Aブルジョア独裁としての国家(国民国家=虚偽の共同性、警察・軍隊などの暴力装置、ブルジョア議会など)、Bブルジョア・イデオロギー(イデオロギー支配、法律、文化、「自由・平等・博愛」などのインチキ)としてある。
  つまり結局、史的唯物論の全内容が、政策論的に(理屈や理論ではなく実現可能な政策として)テーマとなるのであるが、内容的、時間的割り振りは簡単だし、そもそも共産主義の全体像がわかりやすくなると思われる。
(注)今回の学習会:「若い人は、世界史の単位をとっていない」ということが言われ、世界史の説明もかなりありましたが、マルクスの起草は、必ずしも世界史の知識、ヘーゲル主義の知識にこだわっていたとは思えません。しばらく、労働者にとっての『共産党宣言』の学習会のあり方は、工夫が必要となるでしょう。

【e】

 大恐慌と戦争という情勢のなかで、『共産党宣言』の核心である、「階級の勝利の不可避性」と「団結の拡大が総括軸」という原則をいかに貫いていけるかだと思いました。言うは易く行うは難し、です。
  史的唯物論、唯物史観ということも、現実から離れて理論としての理論としてあるわけではないと思う。唯物史観とは、階級決起への圧倒的信頼と確信と不可分だということです。それを切り離し、歪曲したところにスターリン主義問題があるのですし、今日の議論で問題になったことも、そこに引きずられているのではないかという風に思いました。
  学習会は何度もやってきて、どうしても公式、チャート式のような提起になっていたということを、今日の提起や討論を通して反省的に捉えています。読むたびに深まり、元気になる、という瑞々しい感性を、闘いの中で再獲得していきたいと思いました。

【X】

 『共産党宣言』の第1章が「これまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」に始まり、続いて「すなわち抑圧者と被抑圧者は、つねに敵対関係にあり、…闘争をたえまなくおこなってきた。この闘争は、社会全体の革命的変革をもって終わるか…階級の共倒れに終わるかがつねであった」と提示され、最後が「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」と結んであり、マルクスが労働者を「労働者は絶対に勝利するんだ」「労働者は絶対に階級のない共同社会を建設することができる」と心から励ましていると思った。そして、第1章の全体を通して、労働者の勝利の不可避性を立証していると改めて理解できた。
  ブルジョアジーは生産諸力を巨大に発展させたのに、それがブルジョアジーのもうけにならないから、恐慌として爆発する。社会の破壊として爆発することをマルクスは明らかにし、ブルジョアジーを弾劾しているところは、私が空気の入るところです。
  「ブルジョアジーは、自分に死をもたらす武器をつくり出しただけではない。その武器をとる人びとをもつくりだした」。私は、この武器を生産諸力を握るとか獲得するという風に理解していましたが、今日の学校で、単純にそうではないと理解した。それは、第1章の最後の方の「工業の進歩は…組織による労働者の革命的団結をもたらす。こうして大工業の発展とともに、ブルジョアジーの足元から、かれらが生産し、その生産物を取得していた土台そのものが取り払われる。ブルジョアジーはなによりも、自分たち自身の墓掘り人を生みだす」と、一体のものとして理解すればいいのではないかと思った。
  こうした時、「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」ということに不動の確信が持てた。

【n】

 何故(何のために)「古典」を学習するのか? 何故「党学校」なのか? 『共産党宣言』は、『賃労働と資本』と同様に何度も学習会をやってきた。その割には、学んだことが殆ど身についてなくて、その都度、新鮮に(前回を全く忘れて!!)「改めて何々を学びました」なんて感想を毎回言っていた気がします。
  でも、そんなことではなくて、前回の『賃労働と資本』のキーワードも「怒り」だったと思いますが、この資本主義の社会の中で、労働者が抑圧されていて、それへの怒りを暴露して団結していくこと、そこに確信を持って我々が闘っていく。その手段が学習会であり、『党宣言』なのではないでしょうか。
  今、資本主義は崩壊を始めていますが、これがそのままで終わるのではなく、戦争をしても何をやっても、延命していこうとするわけで、これを終わらせるには、労働者が団結して立ち上がって最後的に打倒するしかない。そのことを労働者の怒りを組織し、団結する中で実現していくことだと思います。
  まさに「はじめに」で3つにまとめられている大切なことを確認する。次回の学校でも更に確信を深めていきたいと思います。

【O】

 第1章を今の時代と路線の中でしっかりと読みこんで理解することが重要だと思いました。核心は、大恐慌を革命に転化する力が労働者階級にはあるし、労働者の団結の拡大こそがこれを切り開くこと。徹底的に労働者を信頼すること。
  6・14−15闘争の2100人−1200人結集はやはり大きい(社文での4者4団体派などの集会を圧倒する結集。5000人結集ということから言えばこれからだが−だからこそ組織建設)。そこにあるのは、動労千葉労働運動の中にあるマルクス主義である。労働者への絶対的信頼であり、労働者こそ社会の主人公であること−圧倒的な勝利の展望。これが最大の勝利の核心と言えると思います。
  また、動労千葉が呼びかけて、6・14−15を一体のたたかいとしてやったことの意義、労働組合が法大弾圧を自らの闘いの課題として位置づけたこと。労働者にとって無関係なことは何一つないこと−とくに新自由主義攻撃−道州制攻撃の中で法大と職場が全く同じであること−時代認識で団結する=マルクス主義で団結する−6・14−15とは、ここでの勝利であると思いました。
  現場では、当局・体制内派の重圧として壁があるが、時代認識と路線への確信−そのためにも『共産党宣言』=『新版 甦る労働組合』の中身をつかみとって、自信と展望をもって新たな組織建設へ、現場とともに闘っていきたいと強く思った学習会でした。

【d】

 今日は、とても重要な討論になったと思います。古典というと日常の活動とはひとつ違うことにおいてきたような「学習」とは全く異なっているのが、今の労働学校や党学校の地平だと思います。
  『共産党宣言』ということでは、プロレタリアートは勝利するためには必ず党をつくる。それなしにない。勝利するためには、あらゆる経験・教訓・闘いを蓄積し、全国、世界と連なることが必要。『党宣言』の時代も、あらゆる勢力が異論をとなえる中、断固としてそれに立ち向かい出された「宣言」。−そのものの中に労働者は団結して勝つことができるという確信があるからこそだ。我々自身も、そこの立場に断固立とう。
  私も、『党宣言』を労働者と一緒に読みながら、一緒に共産主義者(党)になっていくという実感があります。労働者階級が決起することを確信するところに立ってすべてを見る、また資本主義は終わっている、ということをはっきりさせるところに立つ。自らがそこに立ったときに、労働者は信頼して討論をするようになってきます。
  プロレタリア革命の時代に入って、すべての非プロレタリアートも獲得の対象になっています。そこでも全人民の決起のために党の果たす役割は大きいと考えています。

【W】

 今回の『共産党宣言』の学習会は、革命の実践をしていく立場から臨むことができた。『宣言』は、そもそも革命を実践していく書として出されたものだが、今日の時代の中で、この『宣言』はますます生き生きとしたものになっている。
  資本主義社会の命脈はもう尽きていること、労働者階級は今の社会を動かし、新たな社会をつくり出す歴史的存在となっていること、そして、それが可能であることが伝わってくる。特に、プロレタリア革命が可能であり、不可避であることが、歴史の展開の中で語られる第1章は、労働者の日常的な感覚からも確信がもてることであると思う。
  今後、『宣言』の学習会を、こうした観点を核心にすえ、そして、われわれと労働者の手で議論を深め、われわれの『宣言』をつくり、党を建設し、革命運動を実践していくものとして行っていきたいと思います。

【Q】

 今回も前回と同様に、『共産党宣言』を読み直して、あらためて古典などといったものではなく、まさに現代に通じる内容であると感じた。大恐慌の今こそ、そこに書かれていることが実感として、より理解できるのではないかと思う。
  資本主義社会というものの歴史的な成立とその没落の必然性。ブルジョアジーとプロレタリアートの非和解性。しかし、最終的にはプロレタリアートの団結がこの社会を変えていくことをはっきりと示している。
  今、資本と命がけで闘っている労働者に、次の時代の主人公は自分たちなのだということを、本当に理解し易く述べている文章であると思う。

【f】

 (一)ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である。
  とにかく、これが結論。ここにトコトン確信をもつ。これ以外にないのではないか。時代認識にせよ、路線にせよ、ここを出発とし、ここを終着点とする以外の思想は誤解を恐れず言えば、すべてブルジョアジーのものだ。逆に言えば、ここを鮮明にすればするほど、出来れば出来るほど、プロレタリアートの獲得は進んでいく。
(二)『共産党宣言』は俺たちの書だ!
  動労千葉顧問の中野さんも言うように、マルクスだけが俺たち(労働者階級)の存在を認めてくれた。だから、『宣言』を「俺たちの書だ」と言い切れないような読み方はすべて嘘だと思う。
  『宣言』を「俺たちの書」「俺たちの理論」とするということは、紛れもなく革共同を「俺たちの党」として胸を張って言い切れる党とすることだと思う。『宣言』にストレートに感動するということは、それがすなわち、仲間をつくり、党をつくることにつながる。だから、『宣言』をそういうものとして復権しなければならない。

【Y】

 『共産党宣言』の学習会は久しぶりでした。自分の『宣言』への意識は、第1章というより第2章が核心だと思っていました。第1章は、いわば“世界史”のようなイメージでとらえ、2章が『宣言』の“本番”という意識を強くもっていました。それが今回、全部ひっくり返されました。
  資本主義の有り様…生成→発展(歴史に果たした革命的役割と特徴)→限界という流れに沿ってとらえていくこと、これ自身が、マルクスが言う「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」ことを確信していくことだということ。これはちょっと衝撃的でした。1章は、資本主義の現実の中からつかみとれる内容だと思います。労働者を獲得できる内容だという提起も、大きなインパクトがありました。そういう意味で『宣言』の土台は1章で、その上で2章以降の展開が生きていくという関係になっているということだと思います。
  1章では、マルクスは「共産主義」「共産主義者」という言葉を使っていないというのも、正直びっくりしました。そのことの意味が重要だと思います。むしろここに、革命は労働者階級自身の事業であるというマルクスの思想があるということだと思います。何か特別の思想ではなく、労働者であれば誰もが理解し、「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」という確信に至るということだと思います。そういう労働者への徹底した信頼があるということなんだと思いました。

【M】

 今、オルグしている活動家の大半がそうなのだが、今の社会の矛盾、生きられない現実は受けとめる。しかし、資本主義が終わった、ブルジョアジーのもとではもはや生きていけない。この認識を共有することが、なかなかできないでいる。「資本主義社会の命脈が尽きた」この一点を確認することが、体制内勢力と闘う時の最大のテーマである。
  資本家が支配階級として連綿と続いてきた訳でなく、新しい階級として生まれたもの。だから必ず倒せる。封建的な所有関係も粉砕されるべくして粉砕された。そういう歴史過程の新たな発展段階として、時代を革命の時代として把らえることの重要性を痛感した。
  今の連合労働運動の中では、ブルジョア民主主義を絶対化している。これも再認識したことだが、ブルジョア独裁国家であること、つまり資本家階級と労働者階級は絶対非和解である、この原点をはっきりさせて、体制内イデオロギーと闘っていきたい。
  資本主義社会の限界、それはブルジョア的所有関係をもはや発展させられなくなり、内側から壊れているのだ。そして、資本家を生きさせてきた労働者階級が、「生きさせろ」と階級的団結をつくり出している。すばらしい時代に突入している。労働者階級が生産諸力を獲得する時代がついに来たと興奮して提起を聞き、討論に参加することができました。

【G】

 冒頭に講師から、@われわれはどういう社会にいるのか、A労働者階級=解放の主体、労働者階級の解放=全人類の解放、B労働者の党をつくる、の3点が大切なこととして提起された。この点を現下の階級攻防に即して考えた場合の感想を述べます。
  @は、今の社会が階級社会としてあり、一つの歴史社会としてあること、賃労働によって成り立っている社会であることをはっきりさせたことは偉大なことだと思います。資本主義が永遠に続くというブルジョア・イデオロギー(改良すれば何とかなるなど)を粉砕し、プロレタリアートや諸階層人民を獲得する基礎になると思います。
  前回の『賃労働と資本』でもそうだが、搾取されているにもかかわらず、それがあたかも当たり前のように思わされ、仕方ないと思わされている。そして、体制内組合指導部やスターリン主義など反革命勢力の制動によって、その流れに従わざるをえないかのように思わされている。その社会の主人公としての労働者は、ブルジョアジーに食わせてもらっているかのような存在、あるいは社会を変える力などない、無力な存在と思わされている。しかし、そうではなく社会を根本から変革できる存在として、この社会は変えられる一歴史社会としてとらえていることを学ぶことが、1章で極めて大事だと思いました。
  例えば、「統一と団結」という言葉が、団結破壊のために用いられ、現実の階級闘争の発展の桎梏となって来たことなどを見れば、プロレタリアートがブルジョアジーを打倒していく理論としてマルクス主義があること、必ずそれはできることに確信を持ち、闘うための“力”とか“エネルギー”に転化できるものとしてあるということを感じました。
  全体を通して、全てよく理解できたと思い込んでしまうような提起だったと思います。
  なお、各地の労働学校での質問とか討論を聞ければと思いました。聞くことを通して、現場で直面している課題もわかるのではないかと思ったからです。また、そういう課題に直面することによって、自分自身の学習にプラスになると思います。

【v】

 労働学校の講師とまではいきませんが、自分が労働者と「古典」の学習会をやる際、どういう立場や言葉でやっていけば良いかという観点も考えながら学習しました。
  労働者と学習会をやる時に、自分としては「ここは有名なくだりだから原文の言葉をそのまま使おう」と思った所が、逆に難しいと言われてしまったりします。今日の所で言うと、「工業の進歩は無意志・無抵抗なブルジョアジーによって…」の所など、「なぜ、はじめからバブルが崩壊するのがわかっていて、そこで拡大していくのか」と質問された時に、「ブルジョアジーは無意志・無抵抗だ」と10回言っても通じません。ニュアンス的には、そのうちバブルがはじけることがわかっていても、株価が暴落することがわかっていても、その時にバスに乗りおくれたら、その時点で資本家は淘汰されて死んでしまうということかと思いますが、これで良いのでしょうか。
  今日の学習会の感想。
  まず、ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利はいずれも不可避である、ということに確信を持ち、現実の運動の中で、ブルジョアジーを打倒しプロレタリアの社会をつくるために闘う者だけが共産主義者である。共産主義者の党=共産党に属して闘う。共産主義者=共産党であるという自覚がほとんど弱かったなと思い、強烈に自覚していきたいと思いました。資本主義には終わりがあり、終わらすことができるのはプロレタリア(とその団結)だけである。自明のことですが、これをマルクス主義を通じてのみはっきりさせることができると思います。
  レジメの4n、新訳本の13nの、教員等の尊敬をうけてきた職業でも賃労働者に変えられてしまったから労働者として闘うべきだという所も、労働者の周りで起きている現象的なことや苦しみが、実は新自由主義から起きているといった、賃労働と資本の関係から暴露して、だから資本主義打倒のために闘うべきだというオルグができるようにしたい。

【b】

 『共産党宣言』は、学生が仲間をオルグする時に使用する最もポピュラーな本であり、実際、今現在も新入生と読み合わせをしている最中です。新入生の反応としては、一様に「新鮮」「面白い」と言います。これは、講義の中、討論の中にあった様に丁寧に提起すれば、どんな労働者・学生も獲得できる内容が『宣言』につまっていることの証左です。総評がつぶされ、連合による労働運動の支配の中で、マルクス主義が忘れ去られ、歪曲されている現実を、僕たちの力で何としても突き破らなければと思っています。
  「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利の不可避性」というのが1章の核心というのはそうだと思うのですが、ここを例えばオルグ対象者に確信させるということは結構難しいことだと感じています。『宣言』の内容を現在の情勢とも絡ませながら提起する(今日の講義の例で言えば、「戦争」の問題など)ことが重要だと感じます。労働者、とりわけ青年労働者・学生は、僕も含め、今の「大恐慌と戦争」という時代認識の下に獲得されている部分が大きいと思います。だから、『宣言』でオルグする時は、現代社会(74−75年恐慌、新自由主義の破産等)も含め、歴史的・科学的に豊かに提起できる様にならねばと感じています。
  『宣言』の学習会(オルグ)は、本当に1回1回が勝負になります。今日の講義・討論の内容で再武装し、新入生のオルグ(読み合わせ)に臨みたいです。

【q】

 資本主義のイデオロギー支配の中で、今のあり方が永遠に続くと思わされている労働者が、『共産党宣言』の1章で展開されている史的唯物論にもとづく歴史観を獲得することが重要だと改めて思った。そのことが労働者にとって、将来に展望を持ち、革命を現実のものとして認識していけるのではないだろうか。そのためにも「『…ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である』ことを確信した者が共産主義者だ」という講師の指摘は、労働者は皆共産主義者となりうることを言ったのだと思う。それは、動労千葉顧問の中野さんの「…労働者は皆マルクス主義者になるべきだ」ということと同じことを意味する。だからこそ、労働者への全面的信頼にもとづいた活動をやりぬくことだと思う。
  また、『宣言』を書く前に、規約をめぐってかなりの討論(綱領論議)がなされていた。その内容が『宣言』の中に表現されているということ、しかもマルクスは「労働者の党をつくる」ことを念頭に置いて、革命を本当に実現するためには党が必要だということを意識していたということが講義で分かった。
  今まさに革命の現実性が目前になっている中で、革共同を強力な党にしていくことを改めて決意していきたいと思います。

【y】

 6・14−15までの過程で、街頭で組合の旗を立てて街宣をしましたが、立ち止まってくれた労働者との話は、「社会主義とは、どんな社会なのか」になった。その時は、新自由主義の破産のもとで起きている様々な首切り・賃下げなど、労働者にとって非人間的で耐え難いことを話して、「資本主義は終わっている」と話した。これが、中途半端だったように思います。それに比べると、労働者の側はリアリストです。
  今回の学習会は、『共産党宣言』の第1章は、『宣言』の土台であり、労働者にも「線の入れ方でわかる」という展開だった。レジュメ1nで3つの学ぶべき大切なことを提起していた。ここを提起した上で、「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は不可避だ」と結論づけていく。第1章は、資本主義社会の発生→発展(歴史的に果たした革命的役割と特徴)→ついに限界に達した、ことをはっきりさせている。「資本主義は終わっている」ということを提起するというのは、こういうことなのか、と思いました。
  もう一つは、労働者が今の時代は労働者の時代なんだ、だから桎梏となった資本家を倒そう!と生き生きと話すことだと思います。学生の同志の発言で、そう思いました。

【p】

 『共産党宣言』は、くり返し学習してきており、提起されているが、今日ほど生き生きと、実践的な意味で輝きを感じる時はない。新自由主義が破綻し、資本主義の全面破産が目の前で進行しているとき。『新版 甦る労働組合』を武器に、プロレタリア革命を切り開こうとして闘い抜いている。それは、マルクス主義の復権とも言われている。つまり、『共産党宣言』から始まり『共産党宣言』にたえず立ち戻って総括し、闘い抜くことの意義が絶大な時代を迎えた。
  第1章は、「これまでの社会の歴史は階級闘争の歴史」から始まり、その結論は、「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は不可避」で結んでいる。人間社会の発展史を全面的に総括し、プロレタリア革命の不可避性を言っているだけでなく、現実のプロレタリアの運動をも総括し、「プロレタリアは階級に組織され、それとともに政党に組織されていくが、それは労働者自身のあいだの競争によって、くり返し破壊される。しかし、…そのたびに再建され、ますます強力に……」という提起は、一体のものだと思う。
  『共産党宣言』を、そのままに実践することを我々は自信を持って実践しよう。新自由主義の破産は、同時にスターリン主義を始め、あらゆる型の労働者階級の闘いを歪めてきた諸党派、諸潮流の破産であるからだ。現実の労働者は、資本主義の終わりを直観し、次なる時代の必要を直観していると思います。労働者階級の中に、この『宣言』をストレートに持ち込もう。大恐慌の時代認識と第1章を結びつけるとき、労働者階級の本当の時代認識となると思います。

【J】

 昨今、目の当たりにしていることは、4大産別を始めとして、資本と体制内組合の職場支配で生み出された現場労働者の“あきらめ”や“絶望”が、一夜にして怒りと闘いの開始に転化していく現実が、今、確実に始まっていることだ。マルクス以来の、またロシア革命以来の階級闘争の歴史から“学んだ”現代の資本による労働者の分断策は、賃金制度による分断をはじめ、実に複雑、巧妙な仕組みなのだが、今、われわれが直面している現実は、この大恐慌の中で、これまでの(帝国主義の超過利潤に基づく)上層部の買収や、現場の様々な分断が、まさに資本の論理そのものによって、その帰結として不可能となり、現場の怒りが充満し始めたのである。『共産党宣言』を実践的な組織化の武器にする、という問題意識がとてもかみ合ってきた、という感想を強くしています。
  『宣言』の内容は、人間の歴史の総括に始まり、実に豊富だが、実践的な意味でのエッセンスは、やはり、「階級闘争なのである」ということかと感じます。現場の多くの労働者大衆は、生活上の実に切実な要求から、様々な抵抗を始めつつありますが、自分(労働者)とは何者なのか?という一点を『宣言』のエッセンスで理解することは、改めて決定的な問題だと実感できます。敵(資本家)を知ること。そして、自分(労働者)を知ること。すなわち、闘いの意義と死活性、必然性を知る、というのが『宣言』の全体構造でしょうか。
  学習会etc.は、様々なやり方があると思いますが、実際に現場で切実な要求をもって抵抗を始めている労働者にとって、例えば、第1章の読み合わせをやって、討論するだけでも、組織化の巨大な前進のきっかけをつくれると感じます。

【h】

 1 「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」とマルクスが言い切ったことは、動労千葉の中野顧問が『新版 甦る労働組合』で、「労働者が本当に勝利できる条件を作り出している。このことに確信をもつことが重要だ」と言っていることと重なっていると思う。マルクスも、中野顧問も、現実の労働者階級の闘いの中から、「絶対にプロレタリアートが勝利する」と確信できたということだと思う。ここが、ある意味ではマルクス主義の核心だと思う。
2 その根拠の一つとして、唯物史観があると思うし、生産力の発展が封建制社会の所有関係・交換関係を阻害物として、粉砕したという点があると思う。その点で、今や、資本主義的生産関係と交換関係=私的所有が、社会の発展の阻害物となったという点で、資本主義社会の命脈が尽きたことが鮮明になったと思う。
3 しかし、ブルジョアジーは、自然に崩壊するわけではない。ますます、延命のために労働者階級の団結破壊にすべての力を投入してくる。
  マルクスが、当時のプロレタリアートの闘いから、負けても負けても、「いつもそのたびに再建され、ますます強力に、ますます強固に、ますます強大になっていく」とつかみ取ったところがすごい。今日の一切の体制内勢力が、「労働者は闘っても勝てない」と思い込まされているが、おそらく、マルクスの時代もそうだったのだと思う。その意味でも、マルクスと中野顧問の共通点がある。
  ここ(1章)では、マルクスは展開していないが、労働組合という団結形態で闘っている姿から、つかみ取ったのだと思う。
4 労働者党の建設の絶対性についても、マルクスが提起している意味でも、すごく大事な点だ。ここも、労働者を組織化していく上で、しっかり学んでいく必要がある。
5 「労働者には、鉄鎖以外に失うものがない」ということも、今日の講義でよくわかった。労働者階級がますます貧困化するということが、マルクスの時代だけのことと思っていたが、今日においても、ますます労働者階級の状態は極限的にみすぼらしくなっている。賃金奴隷としてしか生きられない労働者にとって、資本主義が危機になればそうならざるを得ない。今風に、スキルアップして「失う物」を獲得したとしても、プロレタリアートがブルジョアジーから収奪する生産力などを考えれば、「失う物」に値しない。所詮、労働者がスキルアップしたとしても、賃金奴隷であることから逃れることは出来ない。
6 「労働者階級だけが、真に革命的階級である」点も、塩川一派との関係もあるが、マルクス主義を理解する上での本質的な問題である。

【K】

 全世界で資本主義・新自由主義の破綻が明確になり、これとの労働者階級の闘いが激発している中で『共産党宣言』を学ぶ。
  ブルジョア独裁の下にある資本主義社会は、階級対立=闘争が最も激しく闘われている社会であり、「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利」=プロレタリア革命の勝利は不可避である!ということをがっちりとつかむことが、『宣言』を学ぶ目的である−第1章に最も力を入れるという講師の話は、なるほどと思いました。1章を土台にして2章がある。この構造は重要です。
  最近、『宣言』を20歳の青年と一緒に読んだのですが、講師が言っていたとおり、歴史の常識が通じずに、大変驚くとともに苦労しました。常識としてわかったつもりでいるとだんだんわからなくなっていく(忘れていく)。これは怠慢です。それで、資本主義生成の歴史やブルジョア革命などを大急ぎで勉強したりしました。そのあたりでエネルギーを使いすぎて時間がなくなったりして、何回も学習会を繰り返して自分のものにこなしていかないといけないなと痛感しています。核心で物事をつかむということです。
  しかし、そういう「余計な知識」を持たない労働者こそが革命の主体なのだと考えると、やはり必要な苦労ですね。
  「近代代議制国家=ブルジョア独裁国家」「その国家権力=ブルジョア政治委員会」は、学習会では強調しています。
  「労働者と一緒に読む読み方」という点で、非常に勉強になりました。「発生→発展(革命的役割と特徴)→限界」ということ。また、生産力が生産関係を変革するのではなく、労働者(階級)が変革の主体だということも、講師は強調していました。
  革命の過程を通じてプロレタリアートは真に階級に結集する。この階級的結集、階級へのプロレタリア(労働者)の結集=階級的団結ということが、プロレタリア革命党の任務です。資本主義社会のありようをつかめば、プロレタリア革命の問題をすべてつかめる。第1章の重要さがわかりました。

【i】

 冒頭、講師から「私は、『共産党宣言』を前後半2回に分けて講義する場合(今回は違うがいつもは)、ブルジョア社会の限界まで話を進めて前半部を終えることにしている」と語られた。正直驚いた。それでは、ページ数にして『宣言』全体の4分の1にも達しないではないか、3〜4章は流して済ませるにしても、1章の残りの部分にはプロレタリアートの登場があるし、2章には共産主義論が書かれている、まだまだ時間をかけて講義すべき重要な内容が沢山あるはずで、それらを後半講義で全部おさえるのは無理なのではないか、と疑問に感じたからである。
  しかし、講師の意図は、資本主義社会の歴史的意味をしっかりと把握すること、そのことがプロレタリア革命の意義と展望への確信をつかみとることになる、ということだったと思う。われわれは、ブルジョア社会という中にいるのであり、そのブルジョア社会はいま完全に限界に達していること、同時に、この社会の中に解放の条件・現実性がつくりだされているということ、これを本当に理解することが決定的に重要で、そのための「ブルジョアジーの革命的役割」の論述なのである。それなしには、「ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」と語ってみても、所詮ことばだけの宣伝・扇動の決まり文句をくり返すだけだということであろう。
  ブルジョア社会であればこそ、資本が蓄積され、巨大な生産力が出現したのである。資本主義社会の確立とともに、今日につづく国民国家は形成されたのであり、世界史は真に歩み始めたのである。何よりも、近代プロレタリア階級はこの時うまれたのである。こうした近代−現代(資本主義社会)のもつ人類史的意味をしっかりとつかみとること、そのことが出来てはじめて、今この資本主義社会が行き詰まっていることのもつ重大な問題性がはっきりと分かるのである。−私は、そのように理解しました。
  『宣言』の学習会は、何回か経験しているが、全体の構成にも(今回講義はともかく第1章全体に説き及んだのであるが、力点配分は明らか)、全体の語りにも、講師の意図と熱意が感ぜられ、非常に新鮮でした。

【F】

 「これまでのあらゆる社会の歴史は、(原始共同体をのぞき)階級闘争の歴史である」。この『共産党宣言』の冒頭の一文を初めて読んだとき、衝撃を受けると同時に「ああ、そうだったのか」と、すべてが解明されたような晴れ晴れした気持ちになったのを覚えている。その後繰り返し読むたびに、その感動がよみがえってきた。
  しかし、今回は違った。ついに資本主義の命脈がつき崩壊が始まった。ブルジョア支配が音を立てて崩壊しようとしている、プロレタリアートが全世界で決起を開始している。「ブルジョアジーは、自分に死をもたらす武器をつくりだしただけではない。その武器をとる人びとをもつくりだした」。まさにその時だからこそ、資本主義社会は永遠の社会体制ではない、階級社会の一つの形態にすぎない、歴史的な一社会でしかない、資本が増殖するときだけ労働力を切り売りでき生きられる賃金奴隷=プロレタリアートこそ資本主義を終わらせ階級社会を廃絶する唯一の階級だという、マルクス主義として当たり前の歴史観、社会観が曇らされ、損なわれ、否定されてきた現実をつきつけられた。
  体制内思想に少なからず取り込まれていることに無自覚なまま、冒頭部分を頭の中だけで「理解」し「満足」していたことが悔しく腹立たしい。「理論的にはそうだが、現実はまだ」という意識が多分にあった。それを吹き飛ばしたのが世界大恐慌への突入と、その下での国鉄1047名解雇撤回闘争をめぐる4者4団体派をはじめとする体制内勢力との党派闘争と日米韓労働者の国際連帯の前進だった(動労千葉=国鉄闘争が基軸だ!)。
  受講をとおして、「問われているのは、ブルジョア権力を打倒し資本主義体制を終わらせるプロレタリアートの党をつくること」ということを強烈に自覚した。マルクスは、共産主義者同盟の綱領を、マルクスを軸に労働者階級出身者も参加した8日間にわたる議論の上で、エンゲルスとともにまとめあげた。「世界市場を切り開き搾り取ることによって、すべての国ぐにの生産と消費を、国境をこえた全世界的なものにつくりあげた」ブルジョアジーを打倒するには、世界単一の労働者階級の党が不可欠だ。『宣言』の末尾の「万国のプロレタリア、団結せよ!」は、「世界単一のプロレタリア党をつくろう」という呼びかけであり、今われわれが踏み込んでいる闘いそのものだ。
  マルクスが『宣言』を起草したのは1848年だった。労働者階級の特殊的解放をとおして人間の人間としての普遍的解放をかちとるプロレタリアートの事業は、レーニンによって引き継がれながらスターリン主義によってゆがめられ押しとどめられてきた。党学校での学習をスタとの徹底対決として意識的にやっていきたい。

【a】

 今日、『共産党宣言』を学ぶ意義は、時代が要請している。「はじめに」にあるように、組織する原点であり、実態に向き合う「宣言」であり、『甦る労働組合』(中野洋著)のように、私たちの時代に向き合い、組織するために学ぶことにある。
  (1)世界大恐慌−資本主義の終わりの始まり−本史の始まりということ
  まず、1848年に発せられたこの宣言は、大会で8日間かけた綱領的論議の中で起草された。「労働者階級がブルジョアジーを打倒し、解放する主体である」−ここに確信がある。激動のヨーロッパー恐慌下で『賃労働と資本』(前回学習した)を講演した。たたかいは、各地に広がった。それこそ『共産党宣言』として、凄まじい党派闘争のなかで、1848年の現実から未来を掴み取った「不可避性」を党として、宣言したものである。
  それは、限りない労働者への信頼であり、資本主義社会を打倒すべき対象として、「必然的」に、解放の主体に初めて労働者階級を据えたのである。画歴史的で、なんと凄いことではないか。それも、「序文」等にあるように6月反乱の直前に出されたということ、「パリ・コミューン」での経験でも、「既成の国家機関をそのまま奪い取って、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」という現実の討議がひとつずつ党をつくっていく過程ではないのか。
  (2)「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史」〜徹底してブルジョア階級を鮮明に−どういう階級(社会)か
  資本制社会をブルジョア階級の時代として、「階級対立を廃止しなかった」と、この時代を、ブルジョア階級の階級支配の実態・現実を繰り返し、明らかにしている。「世界主義」「政治的中央集権」生産諸力と自由競争、過剰生産と破壊(戦争)そして恐慌。徹底してブルジョア階級を暴いた。そして、最後の階級社会として、ブルジョア階級を打ち倒す武器を使う人々−プロレタリアをつくり出した、と。
  (3)プロレタリア階級とは何か、について
  きわめて重要である。「ブルジョア階級に対するかれらの闘争は彼らの存在とともにはじまる」「プロレタリア階級のみが革命的な階級である」。この2文は、共産主義者(党)がプロレタリア階級にたいする絶対的な、深い信頼を置く立場であることを、改めてつきつけた。労働者にとって、様々な粉飾(能力・学歴・歪小的には性格、向き・不向き)の中で、「主体」意識、「主人公」の自負の復権にかかわる。とりわけ「解放の主体」として決起できるか、と日々感じている。その点では、転落・奴隷化・「競争と分裂」・団結。
  この現実にたいして、プロレタリア階級として「打倒と勝利の不可避性」「革命の不可避性」と「解放」を熱く、熱く組織すること、まさに党の主体がかかっている。現実に切り込んでいこう。もう一方今日では、プロレタリア階級への移行ではなく、歯車を逆に回す体制内とのたたかいを考えると4大産別の全国性・政治闘争性が決定的に重要であることを改めて実感。
  最後に「団結」論、私も抑圧されたので、抵抗族でした。スターリン主義打倒!です。