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2009年06月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『賃労働と資本』

講義概要 P1-8

★討論から- P9-16

受講レポート P16-28

2008年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-8  講義概要

第10期第2回 マルクス『賃労働と資本』

講義概要 講師畑田 治  

●賃金奴隷の解放闘争宣言

 『賃労働と資本』は賃金奴隷制の告発の書、賃金奴隷の〈解放闘争宣言〉だ。『賃労働と資本』の講演および連載が行われた時代、ヨーロッパは恐慌と革命の時代だった。労働者が〈生きるための闘い〉に嵐のように決起している時代だった。『賃労働と資本』はそのような時代の空気の中で書かれた。
  今、私たちは資本主義の生命力が尽き果て、新自由主義が大破産し、矛盾が大恐慌と戦争となって爆発する時代に生きている。労働者階級は全世界でストライキ、デモ、暴動に立ち上がりつつある。このような時代だからこそ、私たちは本書を生き生きと読み、大事なことをつかむことができる。
  本書から何をつかむか。私は、3点に整理して提起したい。
(1)資本主義社会は賃金奴隷制の社会である。
(2)資本家と労働者は絶対に非和解である。恐慌の爆発は完全にそれを示している。
(3)労働組合は労働者の団結体であり、賃金奴隷制社会を転覆し、新しい社会を建設する武器である。
  『賃労働と資本』は、もとはマルクス(1818−1883)の講演だ。1847年末にブリュッセル(ベルギーの首都)のドイツ人労働者協会で行った講演がもとになっている。それを1849年に「新ライン新聞」に連載した。弾圧で中断し未完に終わった。
  講演と連載の時期は、ヨーロッパ全土の激動の時代。資本主義の矛盾があらわとなり、1847年の恐慌で労働者階級は失業と貧困に苦しんでいた。そうした中でプロレタリアートは生きるための闘いに立ち上がった。暴動・ストライキが各地に広がり、1848年のパリ2月革命−ドイツ3月革命へと燃え広がった。マルクス自身、共産主義者同盟の一員として革命に参加した。
  『共産党宣言』と『賃労働と資本』は、そうしたプロレタリアートの歴史的決起を背景にして書かれた。
  1848年革命それ自体は封建勢力と闘うブルジョア革命的要素が強かったが、労働者階級が革命の主体として、初めて歴史の舞台に登場したことに決定的な意義がある。ブルジョアジーはこれに震え上がり、封建勢力と結んで労働者の闘いを弾圧した。その結果、革命は押さえ込まれたが、直接の勝ち負けは問題ではない。“これから本格的に構えて、絶対に勝利しよう”−そういう決意を込めて、マルクスは『賃労働と資本』の連載を始めた。
  マルクスは序文で、「構え直して革命の勝利を本格的にめざす。革命の主体は労働者階級だ。巨大な階級的決起をめざす」という決意を表明した。
  労働者の奴隷状態の根源は何か、ブルジョアジーの階級支配の力の源泉は何か? それをはっきりさせて、革命の展望をつかもう。それが『賃労働と資本』のテーマだ。
  『賃労働と資本』は、労働者にとって切実な賃金の問題から始めて、賃金労働(者)というもの、資本(資本主義社会)というものを根本からつかむ闘いをやっている。マルクスは「労働者はどうして貧しいのか」「働いても働いてもどうして豊かになれないのか」、そこをはっきりさせようという怒りと弾劾から出発している。
  だから問題は、賃金額の低さだけにとどまらない。労働者は自分の労働力を資本家に切り売りしなければ、生きていけない存在であること。その売買をとおして自分を賃金労働者として再生産し、資本家を資本家として再生産すること。働けば働くほど、自分は貧しくなり、自分を支配する力(ブルジョアジー)を強くしてしまうこと−そのような資本主義社会の全体構造が明らかにされていく。

●どうして労働者は貧しいのか?

 「もし労働者たちに『君の労賃はどれだけか?』とたずねるならば、彼らのある者は『私は1労働日につき1マルク受け取る』『私は2マルク』というように答えるだろう」
  「だから労働力は、まさしく砂糖と同じように一商品である。一方は時計で測られ、他方は秤(はかり)で測られる」
  「労賃は、労働力の価格−これは普通、労働の価格と呼ばれる−の、すなわち、人間の血と肉を容器とする以外にない、この奇妙な商品の価格の別名にほかならない」
  まず、考えたいことは、労働が貨幣で買われる、売買されるということの意味だ。それはけっして人間労働の本来的なあり方ではない。社会的生産・分配がすべて商品交換を通じて行われる資本主義社会ならではのことだ。これ自体が賃金奴隷制の始まりだ。ここに支配−被支配の階級関係がすでに刻まれている。
  労働力が商品となると、労働者が人間であること自体が否定され、単なる労働力商品の入れ物、容器としか扱われなくなる。

●労賃は労働生産物の分け前ではない

 マルクスは、賃金は「労働生産物の分け前」ではないことをはっきりさせている。
たとえば織物工場の労働者を例にとってみよう。資本家は彼に、機(はた)と糸を提供し、糸は織られて立派な布となる。資本家はこの布を、たとえば20マルクで他人に売る。さて織物労働者の賃金は、この布の20マルクの分け前であろうか。
けっして、そうではない。布が売られるよりもずっと前に、織物労働者の賃金は決まっていた。だから資本家は、この賃金を、布を売って手に入れる代価の大小によって支払うのではなく、最初の約束額を支払うのである。
  労働者が1日中、どれほど一生懸命働いて多くのものをつくっても、賃金はその生産物とはまったく関係がない。賃金は、資本家との契約で初めから決まっている。
  資本家は自分の手元にある財産(資本)の一部をもって織物労働者の労働力を買うのであって、それはあたかも資本家が原料である糸や、生産手段である織物機械を買ったのとまったく同じである。
資本家がこの購入(原料や機械、労働力)を行った後は、資本家はもはや原料と労働用具(生産手段)をもって生産するばかりである。労働者ももちろん労働用具の仲間であって、彼は織物機械と同じように、生産物または生産物の売り上げの分け前には少しもあずからない。
だから労賃は、生産物の分け前ではない。労賃は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるべき、既存の商品の一部分である。
  資本家は「労使が協力して生産し、それぞれ成果を分かち合う」かのように描き出す。労働運動の世界でも、連合は「企業は労働者のがんばりに見合った成果配分を」と、「成果配分=分け前」論の土俵で、屈服的な議論を展開している。だが、これは賃金の本質を押し隠し、「分け前を多くするために、一生懸命働こう」と労働者を資本家に屈服させる議論でしかない。
  賃金は成果配分ではないのだ。資本家は労働力商品を、ほかの原材料と同じように仕入れるのであり、その労働力商品の代価が「賃金」なのだ。

●「労働力の商品化」から不可避となる「疎外された労働」

 なぜ労働者は労働力を売るのか? 生きるためだ。労働は本来、彼自身の生命の活動、生命の発現である。ところがこの生命の活動を、資本主義のもとでは労働者は、必要な生活手段を確保するために第三者(資本家)に売らざるを得ない。そうしなければ生きていけないのだ。
労働者は、資本家によって、自分の労働力をモノのように消費される。生産過程の主体は資本であり、労働者は労働用具や原材料と同じ、客体の位置に置かれている。労働の主体である労働者の位置が完全に転倒している。
  だから労働者は労働を自分の生活には算入しない。労働はむしろ彼の生活の一犠牲でしかない。彼の生活は、彼のこの活動が終わったときに、食卓で、飲み屋の腰掛けで、ベッドで始まる。
  労働が疎外されたものであるとき、労働の外の生活もまた本来的・人間的なものであることはできない。歪められてしまう。家に帰っても、自分が自由にできる時間もほとんどなく、ふとんにもぐり込む繰り返しだ。長時間労働で家族との生活も犠牲にされ、労働力商品を再生産するだけの毎日だ。
  そして労働者は、受け取った賃金を、今日生きるために消費すれば、あとには何も残らない。明日また自分の労働力を切り売りする以外に生きられない。これの繰り返しだ。
  労働者は1日の生活時間の大半、1年365日、そして人生の40年、50年、60年の大半が資本家による搾取材料とされている。

●賃金労働を歴史的に見る

 労働力はいつでも商品だったわけではない。労働はいつでも賃労働、すなわち「自由な労働」だったわけではない。おおざっぱに階級社会の歴史を振り返って、労働者がどのように搾取されてきたかを見よう。
@ギリシャ時代、ローマ時代のような古代の奴隷制社会では、奴隷のすべての労働は「奴隷所有者のための労働」として現れた。奴隷は丸ごと商品として売買されたので、彼の労働力は彼にとっての商品ではなかった。彼の労働ははじめから主人のものであり、生存するためのぎりぎりのものだけが奴隷に与えられた。だから、自分の食いブチを含むすべての労働は「主人のもの」として現れたのである。
A中世の封建制(農奴制)社会では「自分のための労働」と「主人のための労働」が、はっきり区別されて現れた。たとえば、1週のうち3日は自分の畑で働き、あと3日は領主の畑で働くというように、時間と空間ではっきり区別された。
B近現代の資本制(賃労働制)社会では、すべての労働が自分のための「支払労働」として現れる。賃金が「1日の労働の報酬」として支払われるので、剰余労働(不払労働)の搾取が覆い隠されるのだ。
  こうして歴史的に見れば、資本制社会の賃労働制は、奴隷制や農奴制と本質的に変わらない。ある階級が他の階級を支配し搾取する階級社会であることが明白になる。賃労働制のもとでは、「自由な」労働契約によって結ばれる賃金労働制度が搾取の本質を覆い隠すのだ。

●賃金制度が搾取を覆い隠す

賃金奴隷制のもとで労働者は、自分自身を断片的に売る。自分の生命の8時間・10時間・12 時間・15時間を、日ごと毎日、資本家にせり売りする。労働者は、好きなときにはいつでも資本家のもとを去ることができるが、労働力の売却を唯一の生計の道とする労働者は、自分の生存を断念することなしには、資本家階級を見捨てることはできない。
  だから彼は、あれこれの資本家にはつながれていないが、しかし階級としての資本家階級につながれている。ローマの奴隷は鎖によってその所有者につながれていたが、賃金労働者は見えない鎖によって資本家階級につながれているのだ。
ある人間が、他の人間のために無償で行わなければならないどんな労働も、本来強制労働なのであって、この強制労働は、この人間が、ある個人なり階級なりに対して隷属関係にあること、つまり彼は事実上、奴隷であってけっして自由人ではないことを示している。この事情が、賃金というありふれた形態によって覆い隠される。
  賃金制度は、「検事・政治家・兵士たちの全部を合わせたよりも」(モスト『資本と労働』)、もっと強い力で労働者階級を資本家階級につないでいる。賃金労働制度というものは、ひとつの奴隷制度である。
  俺たちは奴隷じゃない! ところが、資本家は労働者を人間扱いしない。用済みになれば、ポイと投げ捨てる。資本主義社会は、社長の収入が、労働者の何十倍もあるのは当たり前の社会だ。たとえばトヨタ重役の平均月収は1000万円(08年)だが、トヨタでクルマをつくる派遣労働者の月額賃金は20万円以下だ。50倍以上の開きだ。こんなことがまかりとおっている。それは企業が労働者を人間とは見ていないこと、原材料と同様のモノとみている証拠だ。労働者階級はこの賃金制度を廃絶しない限り、自らの解放はない。労働者階級の闘いは〈賃金奴隷の自己解放闘争〉である。
  商品の価値(価格)は商品に投ぜられた労働の量で決まる。では「労働力商品の価値(価格)」とは何か?
  それは、労働者を維持し再生産するための費用だ。それは結局、労働者が最低限の生存および繁殖を維持する水準に切り下げられる。資本主義の発展は、大多数の労働者の賃金をこの生存最低限のレベルに押し下げた。
  今や新自由主義の下で、全世界の労働人口の45%、14億人が毎日2ドル以下で暮らす飢餓的状態だ(ILO報告)。米日帝などの大資本がこれほどにも労働者を搾取し、莫大な利潤をあげる。資本主義はここまで行き着いた。

●資本とは「賃労働を搾取する支配力」

 それでは、これほどにも労働者を搾取する資本の正体とは一体なにか? マルクスは本書で、唯物史観を基礎において資本の本質を解明している。
  第1に、資本はモノではない。ブルジョア的生産関係のことである。
  資本とは常識的には「新たな生産の手段として役立つ、原料や労働用具、機械など」と言われる。だが、それは資本の歴史的性格を無視した規定であり、正しくない。それでは資本の本質をつかめない。いつの時代でも生産手段が資本になるわけではない。それが資本になるのは、一定の社会的諸関係のもとでのみだ。
  生産において人間は、自然に働きかけるばかりでなく相互にも働きかける。生産するために人間は相互に一定の諸関係を結ぶのであって、この諸関係の内部でのみ、自然への働きかけが行われ、社会的生産が行われる。資本はそのひとつの社会的生産関係であり、ブルジョア的生産関係である。この社会的性格こそ、新たな生産に役立つ諸生産物を資本とするのである。
  『共産党宣言』では「他人の労働を隷属させる力」「賃労働を搾取するものであり、新しい賃労働をつくり出し、それを新たに搾取するという条件においてしか、自分自身を増殖できない財産」と述べている。この規定は重要だ。要するに、資本家が労働者を支配・搾取しているという階級関係の現れなのである。

●資本の本質は社会的な力

 第2に、資本の本質は社会的な力だ。それが私物化されている。
  資本は共同的な生産物であり、社会の多くの労働者の共同の活動、究極的には社会のすべての成員の共同の活動によって運動している。だから、資本は個人的な力ではない。社会的な力である。この社会的な力を資本家が私的に独占し、労働者階級を支配する力に転化しているのである。
  第3に、資本は体を変える。カネになったり、原料や機械や労働力になったり、商品になったりする。
  資本はある大きさの価値である。その価値が形態を変えながら増殖していく。貨幣資本→生産資本(生産手段+労働力)→商品資本と姿を変えながら回転している。その過程で、剰余労働を搾取する。
  第4に、資本の成立条件は賃金労働者の存在である。資本の本領は賃金労働者から剰余労働を搾取し価値増殖することにある。労働能力以外に何も持たない一階級(プロレタリアート)の生存は、資本の必要な一前提である。ここが資本の決定的弱みでもある。労働者が資本の命綱を握っているのだ。
  以上を総括して、資本について結論的に述べると、資本は労働者が生産した価値のかたまり(集積、ストック)として、生きた人間労働をのみこむのであるが、それはすべて労働者階級がつくりだした社会的な力である。資本主義社会では、この労働者が生み出した社会的生産力が資本の力としてひっくり返って(=敵対的に、労働者に疎遠なものとして)貫徹されている。資本の力、その巨大な生産力は、実は労働者階級の力、その巨大な生産力だ。
  だから、プロレタリアートがブルジョアジーの政治支配を覆し、生産手段を社会全体のものとし、計画的組織的生産の主体となることによって、資本主義を止揚することができるのである。社会主義は、実現不可能な遠い未来の話ではなく、すでに十分にその条件は資本主義社会の中でつくり出されている。ひっくり返っている社会を、本来あるべき姿に戻す。それがプロレタリア革命であり、社会主義だ。この立場に立って闘う階級的労働運動が、だからこそ決定的に重要なのである。

●労働者がすべての資本価値をつくり出す

 労働者は自分の労働力と交換して賃金を受け取るが、資本家は労働者に生活手段を与え、労働者の生産的活動、創造的力を受け取る。こうして資本家は、自分が消費する資本を労働者の労働で補充するだけでなく、投下資本よりも大きな価値を受け取るのである。
  労働者が働くことで、労働者は資本家のために、次のような役割を果たす。
(1)不変資本価値を補充する。
(2)可変資本価値を補充する。
(3)剰余価値を無償で資本家に提供する。
  (1)について。不変資本とは原材料や工場、機械設備などに投じられる資本のことだ。製パン工場が小麦粉を仕入れても、そのまま放置すれば古くなって使えなくなる。労働者が小麦粉を練って加工して、焼いてパンにすることで初めて商品になる。仕入れた小麦粉の材料費はパンの価格に含まれる。こうして不変資本の価値は、労働者が労働することによって初めて維持される。建物や機械設備も同様だ。
  結局、原材料や工場建物や機械設備などの不変資本は、労働者が労働してつくり出した価値で更新する。不変資本が価値を維持するのは、労働者が労働してその価値を商品に移すからだ。資本家は何もしていない。
  (2)の可変資本についても同じだ。可変資本とは、労働者の賃金にあてられる資本のことだ。可変資本は、労働者が生産した商品の販売によって再び回収される。これによって翌月に資本家が連続して労働者を雇って利益を上げる原資が確保される。
  だから、不変資本も可変資本も、いくら生産を繰り返しても、いつまでも元の価値を維持するように見えるが、それはすべて労働者の労働によって補充されているからである。
  (3)さらに資本家は、労働者に支払う賃金以上の剰余価値を新たに取得し、自分の生活費と、資本の拡大に使うのである。
  このように、不変資本も可変資本も、そして剰余価値も、すべては労働者がつくりだしているものだ。
  資本家は、手持ちの一定額の資本を繰り返し生産に投入することによって、何回も何十回も剰余価値を搾取できる。労働者の血と汗を吸ってつねに更新され、増大していく。
  労働者の創造的力、価値創造力は、賃金と交換されることで、労働者のもとを去って資本のものとなる。労働者は働けば働くほど、資本家を富ませ、自分は貧しくなる。
  賃労働と資本、それは対立物であると同時に、同一物である。同じものを一方から見たら資本だし、反対側から見たら賃労働だ。労働者がこの資本主義の仕組み、搾取のからくりを見てとったら、自分たち労働者を苦しめる資本家どもの息の根を止めるにはどうしたらいいかが、はっきり見えてくる。

●資本の競争は労働者を競争させ恐慌を引き起こす

 資本の価値増殖のための運動は、どういうことを引き起こすか。
  資本家たちの間では、分業および機械を増加し、それらをできるだけ大規模に利用しようとする全面的な競争が生ずる。合理化を進める資本家は競争で他の資本家をうち破るためにより安い価格で売るだろう。それは彼をして、大量の商品を販売するための、より大きな市場の獲得を余儀なくさせる。
  しかも、この資本家の特権は長続きしない。他の資本家たちが後を追う。結局、商品価格はより一層安くなり、そしてより多量の生産物を供給することを余儀なくされる。この新たな生産費の上で再び同じ競争が行われる。
  生産様式、生産手段は絶えず変革され、革命されるのであり、分業はより進んだ分業を、機械の使用は機械のより進んだ使用を、大規模な作業はより大規模な作業を、必然的に生じさせる。これは、ブルジョア的生産を絶えずその元の軌道から投げ出す法則であり、資本に対し、なんらの休息も与えないで、絶えず「進め!進め!」と耳打ちする法則である。
  この資本家間の競争−生産力の増大は、労働者にどのような影響を及ぼすか? それは労働者たちの競争を5倍、10倍、20倍に増加させる。
さらに分業が進むのと同じ程度で、労働が簡単化される。労働者の特殊的な熟練は無価値となる。彼は、肉体的弾力も精神的弾力も働かせる必要のない簡単で単調な生産力に転化される。競争者たちがあらゆる方面から彼を襲撃するのであり、労働が簡単となり習得しやすくなればなるほど、労賃はますます下落する。
  これを要約すれば−生産的資本が増大すればするほど、分業と機械の使用とがますます拡大する。分業と機械の使用とが拡大すればするほど、労働者間の競争がますます拡大し、彼らの賃金がますます収縮する。
  こうした資本間の競争の結果、資本は周期的に必ず恐慌を生み出し、大量の労働者を工場・職場からたたき出す。これが資本主義の避けられない運命(運動法則)だ。

●労働組合に団結して闘おう

 『賃労働と資本』の本文は「つづく」で未完で終わっている。この続きを、講演のもととなった手稿「労賃」(1847)で補いたい。
手稿「労賃」第7節は「労働組合」である。マルクスは『賃労働と資本』の結語を「労働組合」で締めようと考えていたのだ。
  労働組合は労働者間の競争を止揚し、それに代えるに労働者間の結合をもってしようとする目的を持つ。
  もし労働組合における現実の問題が、ただ労賃の決定だけであって、労働と資本との関係を永遠的なものだと考えるとすれば、労働者の団結は必然的に挫折するだろう。だが労働組合は、労働者階級の結合の手段であり、階級対立を伴う旧来の全社会の転覆のための準備手段である。このことを確信したならば、労働者は犠牲も省みずに、仲間のため、組合のために闘う。
  同様のことを中野・動労千葉顧問も『新版 甦る労働組合』で述べている。
  「本来の労働組合であれば、労働者は高い組合費を納めてでも、団結して資本と闘う。ちゃんと筋の通ったことをやれば、労働者はどんな犠牲を払ってでも自分たちの労働組合を守る」
  『賃労働と資本』の結論は、「労働組合のもとに労働者は団結して、賃金制度を廃止し、労働者が主人公となる新しい社会の建設のために闘おう」ということだ。断固、闘おう。
(講義了)

党学校通信 p9-16

討論から

●i

 僕は、マルクス主義を自分なりに勉強はしてきたつもりだけども、具体的にそれをどういうふうに生かすのかは、この党学校で向こう1年間学んでいかないといけないと決意を新たにしています。
  その上で、第3章のことを講師は、まさに唯物史観そのものが展開されているんだと提起されたんですけども、せっかくそれを言うなら、唯物史観の根本的な問題として、岩波文庫版で言うと57nの3行目からの、「生産において人間は、自然に働きかけるばかりでなく相互にも働きかける。彼らはただ一定の仕方で共働し、また彼らの活動を相互に交換しあうことによってのみ、生産する」云々というパラグラフを引用すべきだと思うんです。
  つまり、生産を何か孤立して自給自足でやっていくということじゃなくて、あらゆる生産が「共働」というものでなくてはいけないと。だから、われわれは未来社会、共産主義社会を切り開いていくんだということの内容に深く関わると思うんです。『ゴータ綱領批判』の内容の根拠にもなるんじゃないかと思って、ここの所を読んだということがあったんです。ここがまったく引用されていないし、触れられていないというのはどういうことなのかということを聞きたいということと、入れるべきだと思いました。
  それから、その前の56nの後から2行目からのパラグラフ。「黒人は黒人である。一定の諸関係のもとで」云々という。ここの所は、『賃労働と資本』から『資本論』に引用されている唯一の個所なんです。講師が説明されたとおり、資本というのは物じゃないんだ、関係なんだということの内容が『資本論』で展開されているわけですが、ここの部分が『賃労働と資本』からは引用されているんで、この点をマルクスは、非常に重要だと考えているんじゃないか、“黒人は黒人である。一定の諸関係のもとでのみ黒人奴隷となるんだ”というこの考え方ですね。この点についても強調しておいた方がいいんじゃないかなと思いました。

●講師

 今言われたことはそのとおりだと思います。唯物史観というふうに確認する以上、今言われた「生産において人間は」という辺りのことは、われわれの労働のあり方とか、社会主義論とかにもつながってくることだし、しっかりと確認することは重要なことだと思います。

●N

 今日は、聞いていてすごく怒りを持ちました。資本家は、労働者の労賃をただの原材料費扱いしている。労賃は、労働生産物の分け前でも何でもない。それだけでも怒りなんです。資本家は本当に許せないと今日は強く感じました。とくに、資本が資本家がただ私物化しているだけであって、実は全部労働者のものだという。だから、私たち労働者の手で取り戻さなくちゃいけないんであって、この社会を絶対に変えてやる、そこが強く入ってきた。
  そういう中で、やっぱり労働組合こそが私たちの武器であって、マルクス主義で、『賃労働と資本』を武器にみんなと団結して絶対革命やるぞ、という気持ちを強く持ちました。
  日共の不破の書いた『マルクスは生きている』という本について講師は批判されてましたけど、本当に体制内派許せない、資本許せない、という怒りをすごく感じました。

●I

 質問ですが、レジュメの「近現代の資本制(賃労働制)」という所ですけど、「労働者は、好きなときにはいつでも資本家のもとを去ることができる」と言っていて、最後に「しかし資本家階級に属する」と。これは、どこかにあった「資本家というのは労働者が存在しなければ少しも価値を生み出さない。したがって生きていけない。また労働者も、革命が達成されるまでは、資本家の下での労働を自分の生活を維持するために続けていかなきゃいけない」というのと似ているんですけど、「しかし資本家階級に属する」。この「属する」というのは、資本家による労働者階級への賃金を媒介にした支配関係を意味するのか、それとも他にもっと意味があるのか?

●講師

 労働者は、どこかで働いていたとして、その会社を辞めることはできるけれども、資本主義社会の下では、生きるためには、別の資本家に雇われなければいけない。つまり、誰々の、あれこれの資本家には属さないけれども、階級として見たときに資本家階級につながれている。「属する」というのは、つながれているという意味です。

●G

 レジュメにある『賃労働と資本』からの引用部分の「しかしそれは、彼の社会的状態を犠牲としてである」の「社会的状態の犠牲」と、その後の「労働者を資本家から分離する社会的間隙は拡大された」という部分を、もう一度説明していただきたい。

●講師

 これは、同じことを言い換えている。マルクスを踏まえて、みんなで議論するということだと思うんですけど、搾取を強めるということは資本家が支配する力を強めることを意味する。資本主義の具体的な歴史過程を見ても、国家権力がいろんな形で強大化してきた、軍隊や官僚機構など、資本家が搾り取った剰余労働をもとにして労働者を抑えつけるものを強めてきた。それから、生活程度も含めて、いろんな意味で「社会的間隙は拡大された」。
  要するに、労働者を支配する網の目というか、様々な支配力が、資本の、あるいは生産性の急速な増大の中で労働者を支配する力が強まってきたという歴史があると思う。そういうことを、マルクスはここで言っているのではないかと思うんです。
  「しかしそれは、彼の社会的状態を犠牲としてである。労働者を資本家から分離する社会的間隙は拡大された」と。それは、その前の文章の「相対的労賃」ということと同じことなわけですけど、労賃が5%上がっても、利潤が30%増加したら、搾取率は強まって、それは資本家が労働者を支配する力の強化を意味するということ。

●j

 今の部分について、講師が言われた内容を含むと思うんですけど、それプラスもう少し自然に理解するというか、要するに、労賃が上がっても利潤率がそれ以上に上がるということを言っているわけです。だから、上がったように見えて、実は鎖は強まっているという意味と、それからもう一つ、労働者の生活の状態というのは、あくまで社会的な基準で計られるのであって、一定生活レベルが上がったと言っても、他の社会的な上がり方から見て相対的に上がっていないのであれば、それは実質上下がっているんだというような意味と、「社会的間隙」という場合でも、資本家がウンと金儲けしているのに、それと比べたら間隙は拡大している。そういう意味では、賃金は上がっているかもしれないけど、社会的な状態としては、「格差」という言葉を使えば、そこも広がっているんだというふうにも読んだんですけど。

●D

 最近学生と似たようなことが論議になって、その時彼が言っていたのは、労働者の平均賃金によって買える物というのは、バブル期と今、どの程度なんだというようなこと。これは、先ほど言われていたように、欲求とか生活水準というのは社会的に決定されているものだから、いかに貧困であっても原始時代よりましだと言っているのと同じような論議だと。今の生産レベルで成立しうる社会的な生活レベルってあるわけで、それがバブル期なんかと比較にならないくらい高いと思うんです。バブル期と同程度だとすると、生産力は上昇しているんだから、生活水準としては下降しているということなんじゃないのか、という話で彼とは一致できたかなと思ってます。

●j

 だけど絶対的にも下がっているでしょ、バブルの時と比べたら。

●D

 絶対的にも下がっている気はしますけどね。

●n

 今彼が言ったのは、その前の物質的状態の方じゃないですか? 要するに、賃金が上がって、買える物だとか、住む部屋だとか、そういう物質的状態が改善されても、社会的状態というのはそうじゃない、もっと全然別な部分が犠牲にされている。自分の社会的家族関係だとか、地域関係だとかを犠牲にしてってという文脈じゃないかと思うんです。
  それだと私がよくわからないのは、資本から分離する社会的間隙というのは、収入の格差みたいな話なのか、それとも非和解性みたいなことを言っているのか、どっちなのか、というのがわからないんです。

●講師

 「分離する社会的間隙」。階級支配もやっぱり結構強化されるということなんかがイメージとしては浮かびますけどね。資本主義の矛盾が顕在化してくる中で、生産力の発展と同時に、労働者の革命を抑えつけるために、いろいろ資本家は装置をつくっていく、国家権力を強くしていくとか、それから会社における労働者管理も強めるとか。それから、生活水準の格差という問題もあるかもしれない。

●D

 生活水準がすごい離れてということと、支配構造が強くなっていくということは一体なんじゃないかという感じはしますけど。

●講師

 貧困と言っても、あるいは賃金奴隷と言っても、マルクスの時代の生活水準と比べたら、食べている物とか、着ている物とかでのレベルが良くなったというのは事実だけど、それは資本主義社会の中で、労働者が搾取されながら蓄積してきた技術とか能力とかのおかげです。つまり、資本家のおかげじゃなくて労働者の力によるものだということを言いたい。
  逆に資本家というのはいろいろ破壊してきている、地球環境そのものからして。それから何よりも、資本家によって生産力が労働者を大量に殺す戦争に使われる。
  だから、賃金奴隷というあり方について、マルクスの時代と比べたらいい物を食っているみたいなレベルの話じゃないことがいっぱいあるだろう、というようなことを議論していくことだと思うんです。

●G

 自分の中でもいくつか整理していくキッカケになりました。ここの部分は、前段の「『資本家と労働者の利害は同一』とは?」という、講師が議論する所だと言った所ですけど、今の階級社会が非和解だということを論じていく場合に大事な所なんじゃないかなと思うんです。ブルジョアジーは資本家と労働者の未来は一緒だと、会社が儲かれば労働者も豊かになるんだというイデオロギー、考え方をずっと植えつけてきていると思う。
  実際僕も、働く、就職するという場合に、あらかじめ決まっているわけです、労賃にしても。それを疑問に思わないで、そういうもんなんだと思って就職するということがあったんです。だけど幸い、『賃労働と資本』とかマルクス主義を学習することをとおして、理解の幅はともかく、ちょっとおかしいんじゃないかと思うような部分があった。それが深められていくと、講義の結論の労働組合を甦らせるというところまでいくということにもなる。そういう、すごく大事な所なんじゃないかと思います。

●a

 私たちの感覚って、例えば、自分が30万円給料もらっている人は、せいぜい比べても100万円くらい給料をもらっている人。だけど私、今回の大恐慌で一番頭をガチンとやられたのは、アメリカの2つの住宅公社のあの幹部がもらっているあの額。今まで私も階級闘争をやってきて、あんなにもらっているとは思わなかった。賃金と利潤の関係というのは、ここまでの大恐慌が起きる時代の中で、そういうところまで行き着いたんだという。だから、オバマも怒らざるをえない、怒らなかったらオバマ自身完全に打倒されちゃう。そういう点では、私たちの比較する対象は狭いと思う。
  私がオルグする人たちはヘトヘトに疲れてて、先日も業績評価にたいする裁判の集まりがあって、それが終わった後に法政大学の話をしたわけ。そしたら、大学生の子どもがいる人が、半期で70万円払うんですよね、と。
  考えてみたら、賃金と利潤の関係の中で、私たちの周りにいる労働者は、70万、100万の世界なわけですよ。あるいは、若者の月もらう賃金で言えば十何万という。それを考えると、資本主義社会が発展した結果は、今のアメリカのああいう状態なんだと。税金をとるな、というスローガンも含めて、全部労働者階級がつくってきて、そしてなおかつ国に納めた税金ですよ。その他に企業は膨大な利潤を得ているという点では、やっぱり私、ここすごく大事だなと。これを本当に豊かに発展させる、今日最初に提起されたわれわれの理論の問題はどこにあるのかと言ったときに、天文学的な数字をつくり出したこの資本主義にたいして、どんなに自分の会社が復活しようがこの関係は変わらない、絶対的に非和解的なんだという問題と、それから、その中で働いているわれわれが本当に賃金奴隷の中で解き放たれてないという。ヘトヘトに疲れてて、70万の学費を半期に払うんだと、子どもの話をしちゃう。
  そのときに、賃金奴隷制の社会であるという認識を徹底して自分が持ち、相手と共有すると同時に、怒りを解き放とうと呼びかける。それから絶対的に非和解だということは、この数字を考えられるかという問題だと思う。そういう怒りを、労働者の党をつくるという方向に組織する。それと、今労働者を体制内に抑えこんで支配しようとしている労働組合を、われわれ動労千葉派が、労働者階級が資本と闘う最大の団結形態にしなきゃならない。それを本当にわれわれが実現できるかどうかというところで私、不破の本の話を聞いてますます怒りがわいたのと、それから4章ってすごく大事だなと。
  理屈と言うと変だけど、1、2、3章の、賃金とはどうやって決められているのかとかいうのは今まで学習してきて、私の中では揺るぎないものとしてあるけど、第4章がすごく大事だなと、さっきの質問の中で自覚しました、講師の話を聞いた上で。
  それと、もう一つは私の感想では、歴史的背景。マルクスは1848年のパリ2月革命で自分の同志たちが何人も殺されている中で、ドイツ3月革命を迎える。それで敗北にへこまなかった、ここがスゴイなと。

●講師

 それは、プロレタリアートの決起にマルクス自身が希望を持ったし、力を感じたということだと思う。

●d

 今日の最初の所で、「賃金奴隷制の社会である」、それから絶対に「資本家と労働者は非和解である」、それから「労働組合は労働者の団結体であり、旧社会を転覆し、新しい社会を建設する武器である」、ここをしっかりと踏まえた上で、資本・体制内派との党派闘争に絶対に勝利しようと提起されて、最後に日共の不破のことが出されたんですけど、ついこの間、うちの地域で日共と大論争をやった、9条の会をめぐって。一つは裁判員制度、もう一つは日米安保問題、それともう一つは憲法25条という最低限の生活を保障できるかということをめぐっての大論争だったんです。
  その25条問題をめぐって日共が提起したんですけど、今大恐慌の時代だということをまったく言わない。それで、どうやったら最低限の生活を保障できるかということについては、日共の村長が、高齢者医療と乳児医療を全部タダにした、そのことによって、乳児死亡率をゼロにしたという例を出すだけ。それで最終的には、今の不況は、規制緩和と自己責任論でやってきたからだと言った上で、中小企業を応援して雇用を確保するというのが結論。時代認識をまったく語らないと同時に、労働運動がまったく出てこない。
  だから、さっき言った今日の最初の3つの点を徹底的に言う中で、全面対決していく必要がある。実際に、全面論争をやった結果、それを聞いていた人は全員獲得できた、ゴリゴリの日共党員以外は。やっぱり学習にとどまらないで、それを職場や地域で言っていくことだなと思いました。
  さっきの賃金格差の問題で言えば、去年の『共産主義者』にも出たけど、最高所得グループと最低所得グループの格差というのは、今や4000倍なわけです。そこまで開いていると思っていないですよ。そういう中で、自分たちの狭い範囲の中で、資本家だって苦労しているんだ、会社や社長だって大変なんだとか思わされている。それは、とんでもないお人好し状態だと徹底的に明らかにすることが必要だなと。

●W

 マルクスが、いかに労働者にわかってもらうかということで『賃労働と資本』を書いたし、講演したということで、今日の学習会は、まさに労働者の怒りを体現する、それを表明してスパッと入ってくるという感じがものすごくしました。とくに冒頭に、労賃とは何なのか、賃労働とは何なのか、それをまずハッキリさせると。そしてもう一つ、資本とは何なんだ、というね。僕は、その2つをハッキリさせる、これほどわかりやすい学習会はあまり経験がなかったんだけども、本当に労働者が実感としてそうだ、と感じる内容、提起だったと思います。
  朝から晩まで誰のために労働しているのか、資本家のためだというね。帰ってきたらもうヘトヘトで、休むのも次の日もまた資本家のために働くため。しかも今や、休む場所すら奪われ、食う物だってカップラーメンしか食えない。資本が増大する結果として、こういうふうになるという。あるいは自動車というのは、労働者が手塩にかけて、いろんな技術を結集させてつくったまさに労働者のものじゃないか。労働者のものである社会的な生産物を、資本家が私的に独占しているのが資本だという。その気持ちとその怒りというのは、労働者共通のものだと。何か悔しいけども、これは一体何なんだと、それがよくわかる提起だったと思います。
  賃労働と資本の鎖を断つことが労働者の解放であるし、労働者の気持ちだということがストレートにわかる時代に来ている。労働者の国際的な交流の中で、本当にマルクス主義を復権していく、世界的にスパッと一致できるような路線や綱領を、革共同が守り発展させているということだと感じます。この学習会も、そういう意味でものすごく価値ある学習会だったと思いました。

●P

 地区の労働学校で、賃金の問題で議論になった。ここで言う賃金は、8時間労働分の報酬という形で支払われたけども、実際は賃金分はその半分である、搾取率100%だから、あとは無償労働だという。
  だけども、資本の形態変化の中で、いわゆる価値増殖していくということがある。何が言いたいかというと、不当に無償労働やらされている、これはピンハネじゃないか。いや、資本主義の生産構造の中で、搾取構造があるから、そこに組み込まれているという問題と両方あるわけです。
  例えば、その人は全逓労働者だったんだけども、俺たちは価値ある、価値増殖やっている労働をやっている、それが不当に搾取されているんだ、ピンハネなんかされてないと。そういう考え方と、日雇い労働者は、徹底的に時間決めでやられているから、不当に無償労働をやらされているという感覚があるわけです。
  だから、労働者の感覚として両方あると思う。問題は、価値増殖する人間労働の根源的な力ということを徹底的にハッキリさせた方がいいんではないかという。そうすれば、それは労働者のものである、価値増殖させたのは誰でもない、労働者なわけだから。労働することによって、その結果が価値増殖となる。そこのところをハッキリさせることによって、本質的にも現実的にも自分の取り分が、資本の形態変化の中で取られている、あるいは無償労働化されているととらえていくことが重要で、何が言いたいかというと、ピンハネであるという視点も非常に重要なんじゃないかと私は思っている。
  なぜかと言うと、資本の形態変化の中で価値増殖している分について、その分をきちっと払えばいいということにはならないし、ピンハネも出てくる。何が言いたいかというと、収奪ということ。搾取だけではなく、収奪という構造が組み込まれているがゆえに、無償労働という問題が出てくるんではないか。ごまかしがあるということと同時に、ごまかしじゃなくて露骨に取っていくというか。あなたのこの部分だけはピンハネしますよ、というところを露骨に出していく。そういうところまで来ている、ということをハッキリさせていった方がわかりやすいかなと思ったんです。労働者の中に、ピンハネされているという感覚は結構ある。中間搾取だけじゃなくて、直接雇用でもピンハネしていることはある、何とか費、何とか費という形で。

●講師

 いろんな形で賃下げする攻撃。今、ピンハネと言われている中身も要するに搾取だと思う。ピンハネという言葉は労働者の感覚だし、それはそれで使うべきだと思うけど、搾取とピンハネを区別するところに意味があるんじゃないと思う。

●h

 今日の学習会で初めて知るのもおかしい気もしますが、資本主義社会というのは奴隷社会だというふうにあんまり思ってなくて、僕らは戦後民主主義で、思想・信条の自由が、表現の自由があって、宗教選択の自由があって、僕なんかマルクス主義者になって、革命家になって自由だと思ったんですけども、実際は奴隷社会で、労働者が資本家階級にものすごい力で隷属させられている。レジュメにモストの『資本と労働』から引用があったけど、「検事・政治家・兵士たちの全部を合わせたよりも」ものすごい強い力で、賃金制度で資本家に縛りつけられている、その辺が僕には衝撃的で、なんだかんだ言ったって、資本主義社会の中では労働者は資本家に雇われないことには生きていけないわけですから。
  そういう意味で、労働者の解放というのは賃金制度からの解放なんだとストレートにわかる。今までは『賃労働と資本』というのは、剰余労働の問題というふうに理解していた、搾取の構造というね。そういう意味で、新発見というか、こんなことを今まで知らなかったのかと。
  それからもう一つは、「賃労働と資本」でしょ。資本を持っているのが資本家で、労働者は労働力しかないと、そういう対立なんだと思っていたんですけど、資本家の持っている資本だって、全部労働者のものじゃないかと。そういう意味で、それを全部凝縮しているのが生産の現場である。だからやっぱり、生産現場で資本と闘う、労働組合を軸にして初めて賃金奴隷制度を覆していくことができる。そういう意味では、『賃労働と資本』の理解の仕方がほとんど変わってしまった。労働者の解放ということがより深められた、鮮明になった気がします。

党学校通信 p16-28 受講レポート

受講レポートから ★『賃労働と資本』のレポートです。

【K】

 @講師が特に強調していますが、賃金労働そのものが、労働者を資本家に縛り付ける仕組みである。資本主義社会は最も完成された奴隷制社会であるということが、やはり核心だと思う。労働者を支配するには、働かせればいい。労働そのものが階級支配の力になっている。だからこそ、職場生産点での闘いが決定的で、「労働運動の力で革命を」のスローガンはドンズバです。
A「価値通りの賃金」「人間らしく暮らせる賃金」要求批判について。
  「価値通りの賃金」というのは労働力の再生産費ということにすぎないわけだから、結局は「生きていけるギリギリの賃金」の要求に過ぎない。絶えず賃金切り下げ=価値以下の支払いを追求するのが資本家。「価値通りに」なんて言うのは、「ルール通りに(ルールある資本主義)」みたいなもので、革命の路線がないとそういう読み方になるという見本のひとつではないでしょうか。
  賃金の要求は「大幅アップ=○万円アップ」しかないでしょう。これを「生きていける賃金をよこせ」と訴える。労働者階級の社会的な地位の低下と闘うためにも。大事なことは力関係で決まるということだと思う。
  このままでは生きて行けない革命の時代には、こうした賃金の要求が革命の論理になる。
  資本の本質は、労働者の社会的な力の資本家による私物化=私的所有。それを労働者の社会的な力として取り返す!解放する! これが資本家的私有財産の専制的侵害。
  後の方で熱を込めて語っている日共・不破批判もいいと思いました。本当に許せません。怒りの鉄槌を!

【J】

 資本制社会は賃金奴隷制である。−この一点を理解することで、革命的共産主義の党に結集する決定的な動機づけが生まれる。『賃労働と資本』は、それ位の武器であることを、昨今の労働運動の現場で再認識している次第である。
  エンゲルスの時代に、剰余労働が50%(とりあえず)という数字が紹介されていたが、例えば、製造業(OECD諸国)の生産性の伸びは、1947年〜2006年で、25倍!である。いまでは1日の大半の労働が、剰余労働すなわち「他人の労働で生活している階級」(レーニン)のための労働なのである。このカラクリが、いま、あらゆる労働現場でむき出しになっているのだ。生産性が25倍(!)も上がって、賃金水準は、年収で3分の1にも4分の1にも下がっているのである。
  このカラクリの根本を、闘いの指針を提起することもあわせて明らかにしている。このテキストを実践的に活用することが、改めて、大事だと実感しています。

【h】

 今まで、資本主義社会が奴隷制社会だという認識が弱かった。『賃労働と資本』で、賃金奴隷制の廃止を強烈に提起していることがよくわかった。まさに、賃金制度は「検事・政治家・兵士たちの全部を合わせたよりも」もっと強い力で、労働者階級を資本家階級につないでいる。労働者の解放とは賃金制度の廃止以外にないということが鮮明になった。働けば働くほど労働者が資本家に縛りつけられる社会ということがよくわかった。
  資本家の持っている資本も、結局は労働者から盗み取ったものだ。そして、その搾取のメカニズムをマルクスはわかりやすく解明している。資本主義の発展は、労働者が団結して闘う存在であることを示し、階級なき社会の条件をつくり出していることも同時に明らかにしていることは重要だ。
  労働者の解放とは、職場で労働者が団結して闘うことが基礎であり、職場で団結して資本と闘うことで、全世界の労働者と団結できることも、『賃労働と資本』から学ぶことができた。
  従来の理解から一変した、非常によい学習会だった。

【y】

 今日の学習会において、これまでの『賃労働と資本』の学習と違う内容なのだということを討論を含めて、いくつか学んだと思います。
  討論で、現場の労働者から、「今日は、聞いていて怒りをもった」と。賃金は、分け前でもなんでもないこと、資材の費用とまったく同じということ、資本家が私物化しているものは、全て労働者が生み出しているものだということ、だから、労働組合が労働者にとって決定的な武器であり、団結して革命をやろうということが言われて、「ああ、こういう風につかまれるべきなのだ」と思いました。
  大恐慌に突入し、労働者に襲いかかっている大量首切りや賃下げ、殺人的な労働強化と怒りをもって根底的に闘っていくためにも、資本主義社会は賃金奴隷制社会だということ、資本家と労働者は非和解だということ、労働組合は、労働者の団結体であり、資本主義社会を転覆し、新しい社会を建設する武器なのだということを、労働者に明らかにしていくことが必要なのだと、提起された。
  ここで、労働者が持っている搾取に対する怒りを根底的に引き出して、資本とは、労働者が自分の労働力を、生きるためにそれしかないということで売ることによって生み出されたものであり、人間を隷属させ、支配する力は、社会の共同の力を資本家が私物化することによって生み出されていること、だから、労働組合のもとに団結し、資本家を打倒すれば、新しい社会を建設できるという物質的根拠があることを明確にしていくことが大事だと思いました。
  その他にも、搾取、資本家と労働者の絶対的非和解性について、敵がい心をもってつかんでいくことが、討論を聞いて、必要なのだと感じました。

【a】

 ○5月の日韓労働者シンポジウムで、「代案社会」と表現された課題は、労働者党建設の展望が、今日提起されたマルクス主義がわれわれの力を解き放つ勝利する理論、われわれの理論として前進していることを実感するが、より一層自らのものとすることの重要性を感じた。
○『賃労働と資本』から
@1847年末ブリュッセルのドイツ人労働者協会の講演を体現し、労働者の獲得を!
・賃金奴隷制の社会を革命へ−自ら奴隷と自覚し、労働者・労働の誇りを持ち、資本を知る(時代認識と賃金労働)ことの中で、階級性をはっきりさせよう。つまり、生産過程における主体が資本であり、客体が労働者、この転倒した関係、資本の鎖こそ、労働すればするほど奴隷状態に落とし込める!!のだ。
・そもそも労働は、生命の発現にもかかわらず、「賃労働」という階級関係の中での資本との非和解性を訴えよう。「へとへとになった労働者」の実態そのものに光を当てよう。能力主義・競争−成果主義の中における「資本」と、しっかり暴いていこう。労働者のつくり出したものを奪い返せ! 法政の学生に続こう。
・労働者は唯一階級的団結を体現できる“鉄鎖以外に失うもの”がない階級である。しかし、体制内労働組合及び体制内党(とりわけ日共)は、その現実の厳しさと、マルクス主義の改ざんを行い、階級的団結を内側から破壊している。労働組合−階級的労働運動以外にない。
A世界大恐慌の中で、マルクス主義で武装し、組織することの重要性を!
・1848年の革命の敗北に、マルクスが「今度こそ勝利を」とプロレタリアートの決起に絶対的な信頼を寄せ、密集した反革命の中に革命の前進を見たように、体制内派との闘いに全力を!
  必ず勝利する理論を実践の中で豊かにしよう。

【b】

 今日の講義や参加者のみなさんの意見や質問を聞いている間中、この『賃労働と資本』の内容を学生運動に当てはめればどうなるのか?ということを考えていましたが、なかなかスッキリしないところで時間となってしまいました。確かに、今の学生、大学は、賃労働と資本の関係に組み込まれています。教育・研究は資本の利益の為のものであり、学生はそれらから疎外され、単位や資格で競争し、自己の労働力商品としての価値を高める存在とされている…等々いろいろと考えるのですが、どうしても頭がこんがらがってしまいます。今、法大の闘いを中心に、学生が教育を資本から奪還しよう!と闘っているのですが、そもそも教育とは何なのかという点も含め、革命論的な内容を闘いの中でつくっていく必要があると改めて感じました。
  労働者の闘いとしては、『賃労働と資本』は本当にスッキリとした明確な論理を提示していると思います。資本家と労働者の非和解性、資本の社会的本質(そもそも労働者階級のもの)というところで、革命論的にハッキリする内容でした。

【Q】

 今日、党学校に初めて参加して改めて、今マルクス主義を学習することの意義を強く感じました。
  マルクス主義とは提起にもあったように、労働者にとって最大の武器であるということです。今まさに大恐慌情勢の中で、労働者階級が本当に資本と対決し、これに勝利する為には、まずこの資本主義社会の構造をしっかりとつかんで闘うことが重要です。
  今日の『賃労働と資本』の中には、資本主義社会が賃金奴隷の社会であり、資本家と労働者が非和解の関係にあること、そしてこの社会を転覆し、新しい社会を建設することしか労働者の生きる道がないことをはっきりさせていると思います。
  真のマルクス主義で武装した労働組合を復権せねばとつくづく感じました。

【q】

 『賃労働と資本』でマルクスが労働者に分かってもらいたいものは何か、で3点をあげていたことが非常に重要だと思った。1つは、賃金奴隷制の社会であること。今までもそう理解していたつもりだったが、そこが根本であり、労働者はそこを離れて生きていけないようにガンジガラメにされていることに怒りを新たに感じた。
  2つ目は、資本家と労働者はそうであるが故に絶対非和解な存在だということ。3つ目に、だからこそ労働者は、労働組合という団結体で武装して立ち向かわなければならない。このことが最初に出されていたことがよかった。
  さらに、不変資本も結局は「労働者が労働してつくり出した価値で更新するのだから、それはすべて労働者のものなのだ」という視点は、「工場は俺たちのものだ」と占拠する労働者の当然の権利を主張するものとなり、『賃労働と資本』を学習する上でもう一歩踏み込んだものになり、理解が深まりました。

【F】

 大恐慌・戦争を革命に転化し、資本主義にトドメを刺すために、「労働者の奴隷状態の根源は何か、ブルジョアジーの階級支配の力の根源は何かをはっきりさせることで、革命の展望をつかもう」という提起、この両者の非和解的関係が「賃金というありふれた形態によって覆い隠される」点にいちばんハッとさせられた。
  体制内勢力は、日共のように大なり小なり、剰余労働の搾取を隠蔽する「分け前」論に陥っていると思う。人間の生命活動の発現である労働が貨幣を媒介にして、商品として交換され、労働者が人間であることを否定され、労働力商品につけられた価格が労賃だ。この賃金制度に何の怒りも感じないで容認すること自身が許し難い。資本主義を擁護し、救済に走る体制内勢力を打ち倒すために、さらに賃金闘争論を深めていきたい。
(補)「労働者の社会的状態を犠牲とした」「労賃の騰貴」「物質的状態の改善」について一言。賃上げと引きかえの労働者同士の分断−対立の問題もあると思う。(生活給としてではない、つまり生命維持のためでない、団結破壊のためだけの“諸手当”の問題。)

【d】

 最後のh同志の発言、スッキリ!しました。
  『甦る労働組合』で言われている「資本主義体制そのままで、労働条件の改善を積み重ねていったら労働者は幸せになれる、なんてことは絶対ない。労働者が人間らしく幸せに暮らすためには、階級対立をなくして自らが支配者になる以外ない。つまり革命をおこす以外にない、これが階級的労働運動の根本的な考え方だ」という中身が本日のテーマだったと思う。
  賃金奴隷制社会だ、資本家と労働者は絶対非和解だということをはっきりさせ、新しい社会を建設するためには労働組合を武器にして闘うことだ。
  資本が持っているものを含めて全て労働者がつくり出したものであるにもかかわらず、労働者は賃金…「分け前」論はじめインチキな論を通じて、見えない鎖で縛りつけられている。
  こことの徹底した闘いをやろう!
  恐慌下、皆一度も体験したことのない時代・情勢の下、職場・地域で、大論争がまきおこっている。核心は、マルクス主義でぶつかっていくことだと実感している。
  マルクスが『賃労働と資本』を著し、一貫してその内容をプロレタリアートに訴えた原点は、ブルジョアジーを震え上がらせる闘いに感動したこと。一旦は敗北するも、必ず勝利させたい、勝利する!と腹を固めたところから始まったのだと思う。
  今の法大闘争への暴処法弾圧も、学生が4大産別決戦を誓い、労働者の闘いを自らの闘いとして決起したことにたいして、動労千葉が(労働者が)6・14−15の闘争を呼びかけたことに権力が震え上がったからだと思う。
  マルクスの革命家としての決意がガンガンと今の時代に伝わってくる学習会でした。

【p】

 『賃労働と資本』は、過去に何回か学習してきたテーマであるが、やはりこれまでの学習は階級的労働運動の実践がほとんどないか、あっても微々たるものであって、マルクスの提起しているテーマについて生きたものになっていなかった感を否めない。
  資本との非和解の対決を、労働組合運動の団結を強化・拡大する闘いの中で、この書を学ぶと、その提起内容が現実の運動と一体でイキイキと実感される。
  何よりも、プロレタリアの歴史上はじめての革命的決起がコナゴナに粉砕された直後に、その敗北ではなく革命的決起の意義をつかみ、怒りにたえない資本主義社会の現実を打倒する主体の登場をつかみ、「闘いはこれから」としている点だ。そして、『甦る労働組合』の「労働者はマルクス主義者になるべき」の闘いとマルクス自身が開始した書となっている点を、今日我々が実践しよう。
  賃労働と資本の関係は、社会的な力=資本そのものを賃金奴隷制が創りだしていることを暴く。プロレタリア革命は、賃金奴隷制の廃止=社会的な力の奪還を意味する。その点は、労働組合運動を通じた階級的団結だ。それは資本と資本主義を認めるあらゆる勢力との闘争として実現される。何よりも階級的団結の前進が全ての基礎、その実践をガンガンやっていこう。

【f】

 今回の講義はかなり良かったと思う。
  まず重要なのは、『賃労働と資本』は決して「賃労働と資本」の問題を解き明かすことが終着点ではないということ。マルクスが「労働者にわかってもらいたい」ことは、ズバリ講師が「『賃労働と資本』から何をつかむか」で提起した3点なのだと思う。様々なヴェールの下に隠蔽されているのは、賃金制度という名の奴隷制だということ。その過酷な鎖を断ち切ることが、自己解放闘争なのだということ。あまり上手くは書けませんが、『賃労働と資本』が労働者の生き様を提起しているのだと感じた。
  本筋からははずれるかもしれませんが、「『甦る労働組合』×マルクス主義で武装しよう」という提起には本当に感動した。マルクス主義は単なる教材ではなく、われわれの力を引き出す、エネルギーの源泉だということだ。
  確かに、マルクス主義・文献を読むたびに、不思議と力がわいてくる。やはりマルクス主義は、労働者階級のための理論なのだ。だからこそ、「自分たちの理論を持とう!」という提起はかなり重要だと思う。日共の許し難い話も含め、自分たちの理論を持つということは、自分たちの党を持つことなのだと感じている。

【Y】

 『賃労働と資本』については以前にも何回かやってきましたが、今回は驚きの連続でした。
@『賃労働と資本』の歴史的背景として1848年革命があって、その総括的な意味をもってマルクスが『賃労働と資本』を公表し、“次は絶対勝利するぞ”という立場に立っているということの“すごさ”を学びました。ここは革命家的精神として、われわれが今、わがものにしていかなければならないものだと思います。
A賃金奴隷制について。これも、今まで賃金制度を奴隷制なんだと、なかなか言い切れなかったということもあった。無償で資本家のために強制労働を行う。こういう隷属関係に対して、これを職場の中から打ち破る。職場闘争の巨大な意義がはっきりしてきた気がします。
B一番大きな収穫は、資本家が手にしている利潤も、また可変資本も不変資本も、結局は労働者が全部つくり出したものだということ。搾取された分を取りもどすだけではなく、資本そのもの、全部を取りもどすということ。ここは本当に空気が入りました。

【S】

 1.とてもわかりやすく、新鮮でした。何より階級的怒りに満ちた提起が良かったです。この間の動労千葉労働学校の実践、『新版 甦る労働組合』の発刊、そして何より職場における階級的労働運動の実践の中で、党の理論的活動もより鋭くとぎすまされてきたのだと思いました。
2.これまで私は、「自分は『賃労働と資本』は苦手だ」とずーっと思っていたので、「参加してもまたきっと理解できないだろう」と思いながら来たのですが、今日話を聞いてみたら、ほとんどが自分が今までの様々なマルクス主義学習の中で理解してきたことと違わなかったので、うれしくなりました。今まで苦手と思っていたところは、講師のはぶいてくれた「需要と供給」とか、「○○ポンドの△△と××マルクの□□が」とかいう部分のことだとわかりました。
3.今回のポイントは、やはり資本主義社会の階級関係=支配−被支配の関係であると思いました。途中討論の中で、第4章のブルジョアジーとのものすごい格差の話になりましたが、やはり重要なのは第1章で強調されていた「賃金額の低さだけの問題ではない!」ということ。働けば働くほど、自分を支配する力を強くするという矛盾に満ちた関係におかれている労働者階級の存在ということ、そこを改めてすえ直すということかと思いました。学生の「大衆から出た意見」にたいする答えも、そこにあるんじゃないかと思いました。
  最後の「ピンハネ」についての意見は、今回強調されていた「分け前」論、「分配」論への批判の実践的討論として、もっともっと討論したかったと思います。
  なお、「労働がつくり出すのは資本である」。あるいは、資本と賃労働の相互関係ということを、もっと学習したいと思っています。

【D】

 ◎『賃労働と資本』の核心は、「資本主義が賃金奴隷制である」こと。
  労働者の感じている怒りの根源は、自分が人間として扱われていないことにあるのではないか。『賃労働と資本』では、資本の支配の根幹であり、最大の武器である賃金を解明することで、そもそも「労働者を人間として扱わないのが資本主義」であることを明らかにする。しかも、その支配に使う資本は、そもそも労働者が産み出している。「オレ達をモノ扱いし、オレ達が生産した富の全てを奪い、しかもその道具さえオレ達のものを使っている。これが資本主義だ!!」
  ここで一致したとき、根源的怒りが資本という敵を見出し、団結を求める。こういう過程に入るのではないか。このとき、「資本家を救済するな! オレ達に全てを返せ!!」と労働者階級が階級性を取り戻す。資本救済の体制内派への怒りも、ここから来ているのではないか。
  賃金を徹底的に解明し、ここでの党派闘争にこだわって、資本との非和解性、怒りで一致しよう!というのが『賃労働と資本』だと考える。

【G】

 全体の提起をとおして、路線性に貫かれたものとしてあることを強く感じました。レジュメの「はじめに」で@〜Bを冒頭で確認していることが、『賃労働と資本』だけでなくマルクス主義そのものを学ぶ上での不可欠な点だと思います。
  具体的には、提起されたとおり、労働者の武器としてマルクス主義を学ぶということ。これは、資本主義を打倒するために、自分自身がマルクス主義に確信をもち闘うこと。そのためにも、『甦る労働組合』×マルクス主義として学ぶことが、実践的な面でも自己の飛躍にとって大事だという気がします。動労千葉が体現してきたことと、大恐慌下の労働運動を大きく発展させていくという点でも、理論的に深めるキッカケになったと思います。
  討論の中でも出ましたが、日共の反革命としての反動的役割や体制内派とのイデオロギー闘争においても、この場(党学校)が大きな武器になる→党の階級的団結をうち固めるものになるということを強く感じます。自分自身も、さらにマルクス主義の学習を深めていきたいと思います。

【n】

 『賃労働と資本』については、地区の労働講座で講師の講義を受けたばかりでしたし、今までにも東京労組交流センターの労働学校でも何回も聞いたのですが、何度やってもあまり理解が深まっていませんでした。どうも今までのものは、「労働」と「労働力」はどう違うのかとか、「労賃」は労働の報酬(分け前)ではなくて契約時に既に資本家から受け取っているんだとか、用語解説的な所が強調されていて、そのことが妨げになっていて先に進めなかったようです。
  今日は、N同志が言っているように、怒りを持って話を聞けたというか、怒りをどんどんと吹き込まれる熱い内容だったと思います。(地区の労働講座の時と比べても格段に怒りが溢れていたと思います。)
  やはりポイントは、われわれ労働者が鉄鎖でがんじがらめに縛られた賃金奴隷で、資本家階級とは全く非和解であって、労働者階級として団結して、ブルジョアジーを粉砕して新しい社会を樹立するしかないことを、このテキストから学ぶことだったのですね。そして、われわれが奪うものは、われわれ労働者階級が生産した物また蓄積としての資本で、本来われわれ労働者階級のものを資本家どもが私物化していたにすぎない、これを知ったことで、怒りが倍加したのだと思います。これを職場・地域で広める闘いへとつなげていきたいものです。
  今日の話は本当にわかりやすかったと思いました。ありがとうございました。

【i】

 今回の学習会レジュメは、「『甦る労働組合』×マルクス主義で武装しよう」と題されて書き始められていました。先月の第1回講座の内容と重ねあわせる時、われわれの学習方向がよく示されていると思います。大恐慌の時代すなわち革命の時代において、生きたマルクス主義を構築し、実践していくということでしょう。
  本年党学校では、『資本論』を基軸にすえていく由、今マルクス主義のその意義が根底的に問われている時、われわれこそが、どうしてもその解を提示しうるように努めなければなりません。このことは、日本以上にスターリン主義の犯罪性からマルクス主義がネガティヴに捉えられている韓国社会にあって、民主労総の苦闘の成果にこたえることにもつながると考えます。
  大変な闘いであることを十分に承知のうえ、気持ちを新たに取り組むことを決意する機会になりました。ありがとうございます。

【W】

 賃金労働とは何なのか。これは賃金制度という鎖でつながれた奴隷制である、ということが鮮明となった。
  資本とは何か。労働者のつくり出したものを資本家が独占し、増大すればするほど、労働者に対する支配を強めていくものであることも鮮明となった。
  労働者の怒り、日々の憤り、それを体現し、資本主義社会とはどういう社会なのか、その革命の現実性がすごく分かりやすく伝わってくる学習会でした。
  また、日共を始めとした体制内派とのたたかいの重要性があらためて決定的であることを感じました。
  今後の地区などでの学習会、オルグに大いに活かしていきたいと思います。

【B】

 賃金にしばられているということが実感としてあったのですが、これほどひどいとは考えていなかった。職場生産性を上げ、楽に仕事ができるようになり生産数が伸びると賃金が上がると考えていたのだが、ますます賃金奴隷になっていくとは許せないことだ。資本という意味が今回よく分かった。現場でのたたかいの重要性があらためて問われた。

【R】

 今回はっきりしたこと。
1)序章のところで『賃労働と資本』の意義が、プロレタリアートの独自勢力としての登場をはっきりさせて、48年革命の敗北を乗り越えるものとして出されたという点。
2)資本と賃労働の関係について。
  奴隷制と同じであり、労働者の生き血を吸うもの、労働者が働けば働くほど資本を大きくしていくもの、そもそも一切の生産は労働者がつくり出したものetc. etc.の中で、資本と労働者は絶対非和解の関係にあることを改めて認識させられました。
  その上でですが、この怒りをどこに向けるのか、と考えさせられたのですが、それこそ、4者4団体派との対決で国鉄を始めとした4大産別決戦への決起であり、6・14−15闘争に総結集することだと強く思いました。

【v】

 街頭やその他でよく、「社会主義になったら労働者はなまける」という人がいます。しかし労働とは、共同(協働?)の作業であり、社会をつくっていく本源的活動であり、本来活き活きした楽しいものです。階級社会の登場によって、労働はいみ嫌われ疎外されるものになった(レジメp5)。「資本と労働者は絶対非和解である」「賃金制度は強い力で労働者を資本家に縛りつける」「資本とはブルジョア的生産関係である」。資本の本質は社会的な力を私物化して所有している…。この構造そのものを転覆すること。大学も職場も全部労働者階級の手に取り戻すだけだ。それができるのが労働者階級だけだというのは「資本が資本たりえるのは労働者が労働しているから」(レジメp8)。
  資本は資本家が私物化しなくても、労働者が社会的に運用すれば良いだけだ。労働組合で団結し、闘って奪い返す。賃金闘争もそういうものとして闘う。
  レジメp12 の不破『マルクスは生きている』は、マルクス主義をおとしめているが、彼ら日共が職場で言ったりやったりしていることは、「ほんとに革命なんてやれると思っているのか」とか、ビラまきを警察に通報して弾圧させるとか、派遣切りの労働者に議員の力で一時的に職をあっせんして共産党への1票を強要するとか、現実的に労働者の闘いもマルクス主義もふみにじる行為だ。資本主義の打倒のみが労働者の展望だと確信して闘おう。

【e】

 ・『賃労働と資本』は、4章を除いてアッサリと読んでいました。しかし、今日の論議の中で4章の重要性と、そこから捉え直しての『賃労働と資本』全体の革命的意義を再獲得していかなければ、と思いました。
・今週の“革共同声明”で、今や学生も賃労働と資本の関係に叩き込まれている、といった規定をしていました。新自由主義攻撃によって、そうした状態に落とし込められてきたということへの怒りとともに、学生に『賃労働と資本』が響く時代だ、ということだと思います。学生もブルジョアジーと非和解だということが、唯物論的現実で迫っています。
  えてして、「いい資本家もいる」だとか「全てを平等に」などといったことが学生だとよく意見として出されるわけです。現実が、そうした思考をガラガラと突き崩していくということ、同時にそこにあるのは絶望ではなくて、労働者の団結、労働組合的団結にのみ展望があり、人類の前史に終止符をうつ時代が来たということだと思います。
  法大決戦が「暴処法」弾圧でいよいよ決戦となる中で、組織をつくる、党をつくる、マルクス主義で武装する、その重要な武器に『賃労働と資本』はなると思いました。

【P】

 私の問題提起は、価値増殖された部分を搾取されている生産関係に対する現実への怒りを組織することは結構大変なこと(−ここで勝負しなければならないが)。しかし、10時間働いて5時間分しか払われていない目に見える収奪=ピンハネの搾取構造に対する怒りを組織することも現在的には重要なこと。つまり、日雇い労働者だけでなく、教師も自治労も全逓も、サービス残業という生産関係の構造化で、目に見えるピンハネをやられているという指摘、自覚です。

【I】

 自分は精神に障害を負った者ですが、過去一貫して労働を続けてきました。ただし、労組に入った経験は一度もなく、ただ、自分の生活を維持するために「嫌々」職場を70ヶ所位転々としてきました。今の地区に移って、はじめて組合活動をしている仲間と接し、その中から漠然としたものはわかってきました。しかし、今日の『賃労働と資本』の講義を聞いてハッキリしたことは、労働という労働者の生命と生活をかけた行為によって、資本が剰余労働を強制し、その中から剰余価値をうみ、このサイクルは恐慌の時代であってさえ続くということです。
  現実に恐慌の時代に大企業が労働者を解雇し、賃金を半分にし、労働時間を2倍にし、連合との間で労使共同宣言を結んでワークシェアリングにし、逆に巨大資本の利潤は上がっている。労働者を恐慌のときには、平気で切り捨て、墓穴に突き落とす。この資本家連中は絶対に許せない。
  又、主体の側から言うと、連合や電機労連など体制内執行部は、「もうストはやりません」と誓った。「4者4団体派」との闘いに典型的に示されているように、闘う労働組合をつくり、そこで労働者の団結をつくり上げることが必要だし、私もその組織化のために全力をあげたい。賃金によって労働者を分断・支配する資本。法政大学の増田が言う「経営権」もまた、資本のむき出しの攻撃だと思うし、体制内派・資本を共に倒して、その中で障害者の解放をかちとりたい。障害者も資本による搾取の対象、支配の対象であり、団結して資本主義を倒すプロレタリア革命へと突き進みたいという決意を新たにしました。
  最後に、「暴処法」徹底弾劾−法大決戦の勝利のために、共にたたかいたいと考えています!

【H】

 階級社会が奴隷制−農奴制−賃労働制と続いてきたことについて。では、資本主義の賃労働制というのは、奴隷制よりましなのか? それは、やはり賃金奴隷制というように奴隷制そのものだし、また“すべてが支払労働として現れる”ということで、搾取ということを隠してしまう。労働者と資本の非和解ということを曖昧にしている。このあたりが、今回の学校で改めてはっきりしました。
  しかも、賃労働は強制労働ではなく、資本と労働者が契約して、あたかも対等な関係をもつかのように見えるので、非常にまじめに働くということがあると思います。農奴なんかは、「何で、領主の土地をタダで耕さなければいけないんだ」と思っていたはずです。生きていくために、まじめに働いて(それ自体は悪くないが…)、資本の力をさらに強める。こんな関係を打ち壊さなければいけない。
  第6章については、いつも学習会ではほとんど触れないか、簡単にすませてきたが、今の私たちの階級的労働運動の立場からすると、「労働組合」の所で重要なことを言っていることがわかった。
  その上で、『甦る労働組合』が本当にマルクス主義を中心にすえたものであり、また動労千葉の労働運動の実践がマルクス主義そのものだということを改めて思いました。

【X】

 今日の学校で『賃労働と資本』の中で、マルクスが改めて分かりやすくつかめたように思う。
  それは、@賃金労働制が労働者の奴隷状態の基礎をなすという点、A労働者が労働すればするほど資本の支配が強められるという点、Bそもそも賃金労働制が資本家のために働かなければ生きていくこともできないという強制力を持った奴隷制であるという点。
  合同労組の組合員さんとの話でよく、「なかなか同僚の人に労働組合のことが分かってもらえない」とか「労働組合に入ってまで賃金を上げようとは思わない」とか職場の人に言われてどう答えるか、という話になります。
  今日は、賃金制度というものが、そもそも労働者を強力な見えない鎖で縛りつけていると確認できました。したがって、賃金闘争が経済闘争のレベルにとどまらない位置を持っていると思えました。基本的闘いだと思えました。
  上記の組合内の話で、執行委としての答えは、「労働組合に入るかどうかは生き方の問題」「経営者や上司にゴマをすってそこそこの賃金をもらうか、それともふざけた事は絶対に許さない、損してもいいから組合に入ってたたかう生き方をするかどうかの問題だ」という答えになりましたが、マルクスも同じことを言っていることが分かり、うれしくなりました。
  その上で、これからは、労働者はどんなに貧しくとも新しい社会をつくり出すすばらしい存在であるということと、それは賃金制度をめぐる資本との闘いで生みだされる労働者の団結=労働組合の中からはぐくまれるものであるとアピールしていきたい。

【N】

 『賃労働と資本』の講義を受けるのは数回目ですが、今回特に「怒り!!」がわいてきました。
  資本主義社会は賃金奴隷制の社会であること、労賃は労働生産物の分け前なんかじゃなくて資本家が一定量の生産的労働力を買い取るべき、既存の商品の一部分であること! 何と材料費と同じ扱いであるのだ。労働者が「人間」であることが否定され、「労働力商品」の容器としてしか見なされない。そもそも資本は(不変資本も可変資本も)すべて労働者の労働によって生み出されたものであるし、すべて労働者のものなのだ、ということが今回よくわかった。
  資本家は手持ちの一定額の資本を繰り返し生産に投入することによって、何回も何十回も剰余価値を搾取できる。資本は労働者の血と汗を吸ってつねに更新され、増大していく。一方、労働者は賃金を生活費として使い切ったら、手元には何も残らない。ほんとうに許せない。ケタ違いの格差だ。
  労働組合を武器に、動労千葉のように闘おう! 資本主義を倒して、労働者が支配する社会をつくろう!
  資本主義はもう終わっている世界大恐慌の今こそ、革命する以外にないと心から思った。

【j】

 久しぶりに読んだのですが、講師の熱のこもった講義もあり、とても感動しました。
  現実(大恐慌情勢〜ワーキングプアの現実)のドラスティックな展開が、まさに『賃労働と資本』で展開しいている情況そのものであることを実感した次第です。
  内容的にあらためて摂取した部分は、「資本家のもとで労働することによって、労働者は資本家のために、次のような役割を果たす」として、@不変資本価値を維持する、A可変資本価値を補てんする、B剰余価値を無償で資本家に提供する、の3点が展開されていて、再認識しました。
○「疎外された労働論」について。若干エピソード的で、本論とはずれますが、市東さんら反対同盟農民に「農業のすばらしさはなんですか?」と質問すると、「自分のペース、裁量でやれるところがいい」と異口同音に返ってきます。今日の「疎外された労働論」との関係で、本質的に受け止めなければいけない言葉なのかな、と感じたところです。

【Z】

 後の『資本論』『賃金・価格・利潤』を踏まえて、なお『賃労働と資本』を学習する意義は、ということから考えると、厳しい言い方かも知れないが、成功したとは思えない。ただ、『資本論』『賃金・価格・利潤』から『賃労働と資本』を説明したにすぎないと思う。
  ということで、前提的質問。@いわゆる「二つの自由」について、ほとんどふれられなかったのはなぜか。文脈上、「人格的自由」「生産手段からの自由」→資本家階級への従属→賃金奴隷ということが前半のポイントだと思うのだが。Aモストの引用は、モスト又はモスト的労働者の言葉としての引用か? マルクスの言葉としての引用か?(価値形態論と労賃論はほとんどマルクスが書きかえたと言われて。)Bエンゲルスの労働→労働力の「ワープロ的変換」は、価値論的には正しいが、貨幣形態と賃金制についての怒りが希薄になっているのではないか、成功したとはいえないのでは。C「労働の価格」=労働者の生産費=名目賃金として理解すべき箇所がいくつかあると思われるがどうか。D名目賃金、実質賃金、相対的賃金のしつこいほどの説明は、「『分け前』でない論」に対応する賃金の貨幣形態の矛盾として理解すべきでは…。Em/(c+v)とm/vとの違いとは? 「剰余価値論」が未形成なこの段階で、これと「『分け前』でない論」と結びつける意味は?
  私の意見。
  「生産物の分け前ではない」論→貨幣形態=前貸し貨幣資本の商品資本への変態→「だから労働力は、あたかも砂糖と同じように一商品である」
  これに対する哲学的・道徳的反撃としてまずある。(まずは経済的批判としてあるわけではない。)このような怒りの喚起が強調されねばならない。賃金奴隷制への怒り!!
  この前提の上に、分け方にもよるが4つの内容が示される。
@「二つの自由」という特殊歴史性が労働者の資本家への隷属→賃金奴隷制となる。
A本来商品ではない労働を賃金(貨幣形態の矛盾)とすることによって、名目賃金、実質賃金、相対的賃金に問題が生起する→ますます隷属
B労働者の生産費=労働の価格と労働力の価格の問題→価値論への布石
C交換論。労働者の生活手段と労働(又は蓄積された労働)の交換→生産手段の資本家的独占・労働者の生産手段からの排除
Dだから、恐慌を契機に革命が必要! (言外に) 「…が、それにもかかわらず資本の急速な増大は賃労働にとって最も好都合」=非和解→賃金制度が革命の条件をつくり出していること、ということではないか。

【U】

 『新版 甦る労働組合』と『賃労働と資本』は、共通な部分が多いと思った。その最大のものは、「資本主義」というスキームを真っ向から突き崩すという点に立っているということだろう。
  『賃労働と資本』は、当たり前のことだが、単なる経済学の手引きではなく、革命の書である。
  ムキ出しの資本主義であった当時と、新自由主義の結果、同じようにムキ出しの資本主義となった現代、両書は、革命の書として労学人民に極めてスムースに受け入れられる本ではないかと思う。

【M】

 何回か学習会をやり、自分がレポーターをやったこともありましたが、当時とは全く違う感動をもって学習できました。
  それは、公務員職場でも本格的な賃下げ、クビ切りが始まり、賃金闘争が体制内勢力との決定的な対決点になっているからです。
  初めは、すでに知識としてあることの再確認という感じで聞いていましたが、だんだん「これが我々の賃金闘争論だ!」と確信しました。
  いくつか問題意識が深まったことを書いてみます。
@今日、労働者がモノのように路頭に放り出されている現実は、働けば働くほど労働者を支配する力を強くしてしまう資本主義社会の転倒性そのものだ。「賃金制度は、ひとつの奴隷制度である」。これが核心問題である。
A資本の本質は、社会的な力。労働者が協働して生産していることが基礎。それを資本家が私物化しているだけ。労働者が資本の命綱を握っている。「資本は全て労働者のモノだ」。だから、我々のスローガンは、「労働者に権力よこせ」だ。
B「会社あっての労働者。財政難だから仕方がない…」。こう言って、体制内勢力は労働者階級を賃金奴隷制度にしばりつける。職場で、組合で、この体制内勢力とトコトン激突してやり合うことが革命への道だ。階級的労働運動路線の革命的な意義が再確認できた。
C打倒すべき賃金制度の「積極面」のところは、痛快だ。
  最後に、動労千葉の中野顧問と田中委員長の言葉を引用して、『甦る労働組合』×マルクス主義の立場を貫いた提起に空気が入りました。日々の職場での苦闘の中でつくり出していくもの、それが社会主義だ、のまとめも全く同感です!

【r】

 ・冒頭「はじめに」において、『甦る労働組合』×マルクス主義で武装しよう、とあるが、この1年間を通じて党学校で学んでいく基本的な立脚点を常に鮮明にさせて、今後の受講に臨みたいと思います。
・『賃労働と資本』が1848年革命を総括して、プロレタリアートこそ革命の主体であるという事をはっきりさせるために書かれたという事が分かった。特に、資本主義社会は賃金奴隷制の社会であり、資本家と労働者が絶対非和解であるという事、労働組合が団結する武器であり、新しい社会を建設する武器だ、という押さえが重要だと思う。『賃労働と資本』の書かれた歴史背景からとらえ返すと、マルクスの問題意識がつかみ取れる。特に賃金奴隷制である点は、一番重要な押さえにもかかわらず、今日どれほどの労働者がこのようにとらえられているか。この点を鮮明にしないと、労働組合が単なる救済機関におとしこめられてしまうと思った。
・第1章、第2章は、賃金奴隷制度である点を鮮明にする視点から読んではじめて、整理された。その上で、第3章の資本とは何かにおいて、資本を単なるモノではない(工場や機械等ではない)という点は、わかっているつもりであったが、学習会などではどうしてもモノで説明してしまっていた。モノではない点にこそ資本の本質があり、資本の私物化にこそ問題があるということは重要だと思った。資本は本来労働者のものだという点も、実践的に重要になる。そこから深めて、不変資本にせよ可変資本にせよ、そもそも労働者のものであるという提起には納得した。
  労働現場において、日々賃労働と資本の関係が再生産されていることからしても、職場闘争そのものの中に、資本主義の根本的な関係を覆す革命に向けた闘いがある。資本に対して、俺たちは物じゃない、俺たちから奪い取った全てを返せ、という訴えに自信と確信を与えるのが、この『賃労働と資本』だと思いました。