ホームページへ週刊『前進』月刊『コミューン』季刊『共産主義者』週刊『三里塚』出版物案内販売書店案内連絡先English

2009年03月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 レーニン『国家と革命』(上)

講義概要 P1-8

★討論から- P9-17

受講レポート P17-22

2008年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-8  講義概要

レーニン『国家と革命』(上)

前半講義概要 講師丹沢 望 

はじめに

 ついに本格的なプロレタリア革命の時代がやってきた。大恐慌下で資本主義の全矛盾が爆発するなかで、もはやプロレタリア革命によるしか労働者階級は生きられない時代が到来した。資本主義がついに終わった今こそ、労働者階級を主人公とする社会を建設し、人類史の新たな時代を切り開くことが死活的に求められているのだ。
  にもかかわらず、4者4団体派や塩川一派を始めとするあらゆる体制内勢力が、資本主義の再生に期待し、プロレタリア革命に反対し、澎湃と決起しつつある労働者階級に対する全面的敵対を開始している。
  われわれはこれらの体制内勢力を粉々に粉砕する断固たる党派闘争に打って出、プロ独樹立に向けて真一文字に突進しよう。
  『国家と革命』の核心は何か。それは、ロシア革命においてソビエトの多数派を占めたメンシェビキやエスエルが、ブルジョア臨時政府と一体となってプロレタリア革命を圧殺しようとしていたことに対する激しい怒りの党派闘争の書であった。レーニンは、マルクスの国家・革命論を歪曲し、プロレタリアート独裁を否定する日和見主義者を徹底的に粉砕し、マルクスの国家・革命論を復権することによって、この党派闘争になんとしても勝利し、プロ独樹立に向かって党と労働者階級を武装しようとしたのである。

『国家と革命』をプロ独論として学ぶ

 今日、あらゆる日和見主義勢力、体制内派が、唯一プロ独をめざすわれわれに一丸となって敵対しているなかで、激烈な党派闘争を通じてロシア革命を成功に導いたレーニンの『国家と革命』を学習し、その内容を実践的に貫徹することが決定的に重要だ。革命期が再びやってきた今こそ、レーニン『国家と革命』をプロ独論としてとらえかえして学習することが重要だ。
  前半の講義では、『国家と革命』の基本内容について概観する。

第一章 階級社会と国家

階級対立の非和解性をとことん明らかにしよう
  国家は社会が一定の発展段階において支配階級と被支配階級に分裂し、それらのあい争う経済的利害をもつ諸階級が非和解的に対立するようになって発生した。支配する階級は、被支配階級の反乱を阻止し、自分の支配を維持するために国家という暴力機関を必要とした。だから国家の本質は支配階級が被支配階級を支配するための「武装した人間の特殊な部隊と(常備軍と警察)、監獄やあらゆる種類の強制施設から成る」公権力である。
  ところが現実の社会においてはこのような国家の本質の暴力性がおし隠され、あたかも支配者と被支配者の利害を調整したり、対立を緩和させたりする超階級的機関であるかのような外観をとり、またそのようなイデオロギーが、支配階級によって流布される。
  したがって、被支配階級がこのイデオロギーから解放され、支配者の打倒に決起するためには、階級対立が非和解的なものであることを徹底的に把握しなければならない。現代社会においては、労働者階級が資本家とは非和解であるということを認識したとたん、資本家を根底から打倒する必要性が明らかになる。
  「要するに、階級的労働運動ということは『労働者階級と資本家階級、つまり労働者と資本家との関係は非和解なんだ。だから結局、労働者自らが資本家階級の権力を打倒し、権力を奪取して労働者階級の社会を建設しない限り労働者は幸せにはなれない』という考え方だ」(新版『甦る労働組合』p176〜177)
  妥協のない非和解的な階級闘争以外に自分たちは解放されないと自覚した時、労働者は大胆な革命的闘争を開始する。だから階級対立の非和解性を労働者階級自身が全面的に認識しうるような宣伝・扇動と実践的闘いが決定的に必要だ。
  しかし、この非和解性を労働者が本当に理解するのは、理論だけでなく、実際に労働組合として団結し、資本と激突する時である。闘いなくして非和解性は理解できない。日和見主義者が、労働者が資本と激突するのを恐れるのは、闘いのなかで労働者がこの非和解性を完全に理解し、階級的に決起し始めてしまうからだ。だから日和見主義はこの非和解性の具体的現れを徹底的にごまかすのだ。国鉄分割・民営化が新自由主義の一大攻撃として全労働者の生活を破壊することを押し隠し、闘いを組織することを放棄する。派遣切りや、正社員の大リストラ、道州制導入などの全労働者に対する攻撃を暴露せず、ワークシェアリングや、国家による労働者の救済、セーフティーネットなどの「救済策」なるものに労働者の目を向けさせ、こうした攻撃との真正面からの対決を回避する。
  これに対し、動労千葉は、これらの攻撃を非和解性の全面的現れとして暴露し、労働者にこれと闘うことを呼びかけて闘ってきた。そして実際にストライキを組織し、闘いの中で労働者が資本との非和解性を正しく把握するように指導してきた。プロレタリアート独裁の思想なしにこのような闘いを組織することは不可能なのだ。

国家は被抑圧階級を搾取する道具だ

 「国家は経済的に支配する階級の国家である。この階級は、国家を手段として政治的にも支配する階級となり、こうして、被抑圧階級を抑圧し搾取する新しい手段を獲得する」
  「古代国家と封建国家が奴隷と農奴を搾取する機関であっただけでなく、近代の代議制国家は、資本が賃労働を搾取する道具である」(『国家と革命』研究会編 p27)
  この規定は極めて重要だ。
  賃金労働者を搾取する道具としての国家という規定は、国家が直接的に労働者階級の敵であることを意味する。
  現在の賃金労働者の9割の非正規化、派遣法、民営化、道州制の導入などは、新自由主義時代の国家の政策として打ち出されているが、それらはすべて国家が資本による労働者の極限的搾取を推進する道具となっていることを示している。これらの政策は国家権力が資本家の意思をストレートに体現し、国家の政策そのものとして打ち出したものだ。だから労働者が生きていくためにこれらの政策と闘えば、即国家権力との激突に発展する。この闘いは労働者階級が職場での闘いを通じて国家との闘い(政治闘争)に突き進む決定的導水路となる。全労働者階級の生き死にがかかった問題として全職場で派遣法や道州制との闘いを職場闘争と関連させて闘っていくことが必要だ。このように闘えば、新自由主義政策と対決する「生きさせろ!」のゼネストが、国家権力打倒のゼネストへと不可避的に発展するであろう。

暴力革命の必要性

 労働者階級は賃金奴隷の境遇から解放されるためには革命をおこすしかないが、この革命は国家権力を打倒し、プロ独を樹立する暴力革命以外にありえない。だが、日和見主義者たちは、この暴力革命の必要性をあいまいにするために、国家の「死滅」という概念を歪曲し、暴力革命なしに国家が自然に死滅するかのように描き出す。
  だが、労働者はプロレタリア革命によってブルジョア国家を「廃絶」し(プロ独に交替させ)、この革命後のプロレタリア国家組織(半国家)の残存物を「死滅」させる段階を切り開くのであり、この廃絶の過程では暴力革命が不可避である。労働者階級と資本家の非和解性は明らかなのだから、労働者は自分の意志を暴力で資本家に強制し、資本家の利益を擁護する国家権力を暴力的に打倒する以外にない。
  しかも、その過程は、労働者がプロ独国家を運営するためのさまざまな能力を獲得する過程だ。労働者は、革命の坩堝のなかで政治的意識を高め、工場の自主管理を通じて経済運営能力を身につける。反革命や国家権力の襲撃を跳ね返すための軍事的武装を強化する。暴力革命はまさに、労働者の統治能力を形成する積極的過程なのだ。

第二章 国家と革命 1848〜1851年の経験

マルクスのプロ独論の発展

 『哲学の貧困』(1847年夏)で、階級が廃絶されたのちには国家は消滅するとしたマルクスは、同年11月の『共産党宣言』では、ブルジョアジーの暴力的打倒をとおして、プロレタリアートが自分自身の支配をうちたてる、そして、このプロレタリア国家は勝利するやいなやただちに死滅し始めるという見解を明らかにした。ここにはマルクス・エンゲルスのプロ独の思想が一般的に表現されている。これは、(革命を)せいぜい自分の任務を理解した多数者に少数者が平和的に服従することだと考える公認の社会民主諸党が忘却してきた思想だ。
  マルクスは、『共産党宣言』で、「プロレタリアートの発展のもっとも一般的な諸段階を描き出すことによって、現在の社会のなかに潜むおおかれすくなかれ、隠然とした内乱が、ついに公然とした革命となって爆発し、ブルジョアジーの暴力的打倒をとおして、プロレタリアートが自分自身の支配をうち立てる地点にまで到達した」とした。だが党宣言は、プロ独国家はブルジョアジーが自分のためにつくりだした国家機構をまえもって廃絶することなしに考えられるかという問いにまだ完全な答を与えてはいない。
  マルクスはこの解答を、1848年〜51年の革命の総括を通じて導き出す。マルクスは、理論を観念のなかで創造するのではなく、革命家として、労働者階級の闘いの歴史を総括し、国家と革命に関する理論を再検討し、生きた現実の階級闘争の発展を支える理論として構築していった。労働者階級の自己解放闘争の立場にたちきらない限り、革命党の理論的・実践的闘いも前進しないし、何よりも労働者階級から切り離された独善的で意味のないものでしかなくなることを彼が理解していたからだ。
  この総括のなかで、マルクスは、「これまでの革命はみな国家機構をいっそう完全なものにしたが、国家機構は粉砕し、打ち砕かなければならない」という実践的で具体的な結論をだした。『共産党宣言』ではプロレタリア国家とブルジョア国家とのこの交替が、いったいどういうふうに行われるべきであるか、という問題は提起されていないが、この問題は48〜51年の革命の総括のなかで解決された。
  しかしこの時点ではマルクスは、この廃絶されるべき国家機構を何に代えたらよいかという問題をまだ具体的に提起していない。

第三章 1871年のパリ・コミューンの経験。マルクスの分析

 この解答は第三章第二節の「粉砕された国家機構を何ととりかえるか?」で与えられる。
  第一節の「コミューン戦士の試みの英雄精神はどういう点にあるか?」で、マルクスは、コミューンの経験から教訓を引き出し、「コミューンは『労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま手に入れて、自分たちの目的のために使うことはできない』(『フランスの内乱』)ということを証明した」として、『宣言』に唯一の修正を加える。
  その上で第二節で、@支配階級としてプロレタリアートを組織することが、どんな具体的形態をとることになるか、Aこの組織化ともっとも完全で徹底した「民主主義をたたかいとること」が、いったいどんな仕方で結びつくのかという、二つの問題の解答を大衆運動の経験に期待し、コミューンの経験を総括している。
  コミューンの経験の総括は、粉砕された国家機構を何と取り替えるかを明確化した。

コミューンの4原則の革命的意義

 4原則とは、第一に、常備軍を廃止し、それを武装した人民ととりかえたことだ。これによって多数者である労働者による少数者であるブルジョアジー(支配階級)に対する抑圧が行われ、多数者を抑圧するための特殊な力はもはや不必要となり、国家は死滅し始めた。
  第二に、すべての公務員の完全な選挙制と(随時)解任制を導入したことだ。これは人民の上に公務員がたてないような構造や人民と官吏の直結制を確保し、次の第三の原則と一体となって、議員や官吏の社会的特権を廃止していく制度的保障となった。
  第三に、すべての公務員の俸給の「労働者なみの賃金」水準への引き下げだ。この点に一定の階級を抑圧するための「特殊な力」としての国家から、人民の多数者である労働者と農民の全体の力による抑圧者の抑圧への急転換がもっとも明瞭にあらわれている。平等な多数者による少数の旧支配者に対する抑圧は、国家を国家たらしめている要因を除去し、金持ちも特権的官吏もいない社会への移行を可能にするものであった。この措置はまた、公務の単純化を基礎として、公務をすべての労働者が分有する体制を作り出し、全労働者が国家の担い手となることを可能にした。
  第四に、議会制度を廃棄し、コミューンを議会風の機関ではなく、執行府でもあると同時に、立法府でもある行動的機関にしたことだ。階級支配の制度であった議会制度の廃棄と代議機関をおしゃべり小屋から「行動的」団体へ転化したことで、コミューンの代表会議と政府の執行機関を労働者代表が労働者階級の意思にしたがって運営していく体制が形成された。
  プロレタリアート自身による大規模生産の組織を基礎にして、このような4原則を貫徹すれば、賃金奴隷制とは似ても似つかぬ秩序が徐々につくりだされていくことが明らかとなった。
  このようなコミューン4原則の抽出によって、マルクスは、パリ・コミューンの思想と政策を正しく発展させていくならば、プロ独の実現は可能であり、共産主義社会への巨大な展望が開かれることを明らかにしたのだ。マルクスのプロ独論はコミューンの総括をとおして、鮮明な姿で確立された。
  もちろんコミューンは、さまざまな限界を持っていた。労働者階級が未形成で、労働組合もコミューンの主軸にはなりえなかった。革命党の指導がなく、アナーキストの影響力が強かったことや、軍事的に支配階級を追撃し撃破できなかったことなど、限界はいくつもあった。にもかかわらず、このような悪条件下でも労働者階級は、共産主義社会の出発点となるプロ独国家の萌芽を創造する革命性を発揮した。労働者階級は、自分たちを支配してきた資本家に対する激しい怒りをバネにして、本能的に資本家を打倒して自分たちが主人公となる新たな社会を作り出す方法を創造する能力を持っていることを示した。しかもそれは、プロ独の普遍的原則ともいうべきものであった。この原則を正しい共産主義的な政策に基づいて発展させるならば、プロ独国家の樹立は勝利的に実現できることをマルクスは感動を持って明らかにしたのだ。
  レーニンは、この総括をロシア革命において生かし、ストレートに実践しようとした。それは困難なものであったが、マルクスのプロ独論の正しさを実証するものとなった。

コミューンの今日的実現

 われわれがコミューン、ソビエトを今日的に実現するためには、労働者階級の団結形態である労働組合を本物の階級的労働運動を闘う労働組合として甦らせることが重要だ。コミューンやソビエトの基盤は、労働組合であり、労働組合を今の体制内派が支配する労働組合から、動労千葉型の労働組合に甦らせることが、将来、われわれの手でコミューンやソビエトを復活させる唯一の道だ。現在の階級的労働運動路線は、まさしく、プロ独を最短距離で実現する道である。
  ソビエトにおいて主導権を握り、実体となるのは、革命党の指導下で労働組合に結集する革命的労働者であり、その下で資本との激突を経験した歴戦の闘志たち=闘うランク・アンド・ファイルの労働者たちだ。また4原則の貫徹も、そうした労働組合のイニシアチブがなければ不可能だ。実際、ロシア革命においてレーニンは、労働組合をそういうものとして位置づけ、圧倒的な勝利を勝ち取った。だからわれわれはロシア革命における労働組合の革命的役割を徹底的に学習し、われわれの階級的労働運動路線の正しさに圧倒的な確信をもたなければならない。そうした立場に立ち、国家・革命に関するマルクス主義的理論を今こそ労働組合のなかに大胆に持ち込もう。
  第四章は、この章が補足的なものであるということもあって、時間の関係で省略した。

第五章 国家死滅の経済的基礎

 この章では、資本主義社会から共産主義社会への移行の具体的過程が明らかにされるとともに、過渡期のプロ独国家がそこで果たす重要な意義が提起されている。資本主義から共産主義への移行の特殊な時期(=過渡期)が、歴史上うたがいもなく存在するが、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁でしかありえない。共産主義を実現するためには、まず国家を死滅させるテコとなるプロ独を実現することが必要だということを明らかにすることが核心だ。
  ここでは、まずプロレタリアートの暴力によって資本家の抵抗を最後的に粉砕し、民主主義を徹底的に拡大して質的変化を実現することが共産主義社会の基礎を築くことであることが強調される。次に、この政治的変革過程をプロレタリアートによる生産と分配のあり方の変革という経済的変革と一体で展開することの重要性が強調されている。
  さらに、この過程を経て、直ちに共産主義社会の建設が始まることが明らかにされる。共産主義社会は長期間にわたる過渡期を経てやっと到達しうる理想社会という考え方ではなく、短い過渡期を経て直ちに始まるということだ。いわゆる「高次の共産主義社会」に達する時間は具体的諸条件に規定されるが、生産手段の社会的所有への転化を前提とする新社会の発展は極めて急速なものとなるということだ。
  過渡期は、実際には世界革命を経て全世界的に本格化する。その際、民族・植民地問題と、農業・農民問題の世界史的解決が問題となる。この問題の解決は一定の時間がかかる可能性が高いが、解放された国際プロレタリアートとその手に掌握された世界的な高い生産力がこの問題の解決に大きな力を発揮するであろう。
  こうした過程をへて「低次の共産主義」から高次の共産主義に移行する。高次の共産主義社会は、精神労働と肉体労働の対立の完全な消滅を経済的基礎とするが、その発展速度については、現時点では未知のものであり、とりあえず国家は不可避的に死滅すると言うにとどめることが妥当であろうとレーニンは確認している(レーニンの場合、「低次」段階にも「国家」が存在する論じ方となっている)。
  レーニンはこの時点ではこう言っているが、ロシア革命における過渡期建設過程での実践的経験の中から、国家死滅の具体的過程に関して一定の方向性を示唆している。(講義後半参照)

第六章 日和見主義者によるマルクス主義の卑俗化

 この章は『国家と革命』の核心をなすとともに結論をなす部分だ。レーニンは、カウツキーなどの「国家にたいするプロレタリアート革命の関係の問題にたいする逃げ腰の態度、国家に対する日和見主義が、マルクス主義の歪曲とその完全な卑俗化とを生じさせた」「日和見主義は国家の問題において集中的に現れる」という点を改めて確認している。パリ・コミューンの経験を教訓化し、プロ独を実現しようとするロシア革命を勝利させるためには、カウツキーと同様の傾向を持ったロシアの日和見主義を徹底して粉砕する必要があった。そのために、この章ではプロ独を否定するカウツキー批判が徹底して展開される。このような日和見主義者に対する激しい党派闘争の立場なしにはロシア革命は勝利しえなかったであろう。

今日の日本の日和見主義

 現代のカウツキー・塩川一派は、口では革命と叫ぶが、労働者階級自己解放の思想を解体し、プロ独を目指す階級的労働運動を否定している。本質は小ブル革命主義、現実の運動ではズブズブの市民主義で体制内労働運動に完全に埋没している。
  また4・4派や5・27裁判での屈服派は、国家と対決せず、国家に屈服して問題を「解決」しようとする態度をとっている。彼らは労働者の自己解放的闘いで国家権力を打倒する運動の一環として、解雇撤回闘争や裁判闘争を闘わない。結局、国家と革命の問題を回避したところには、裏切りと脱落の道しかないのだ。

日和見主義の本質とは何か

 これらの連中の最大の問題は労働者階級への不信、蔑視だ。彼らは、資本主義の下で抑圧され、搾取されているためにブルジョア的知識や能力を奪われた労働者はプチブル・インテリの自分より劣った存在だとみなし(ブルジョア能力主義)、労働者の人間的感性や、規律ある生産活動で鍛えられた組織的能力や、資本家と資本主義に対する深く激しい怒りと憎悪の力を見ない。労働者はインテリの指導なしに何事もなしえない存在だとする労働者蔑視の感性と思想だ。だから、労働者の怒りをブルジョア国家権力粉砕の闘いへと組織することをあらかじめ放棄する。
  労働者の自己解放能力を否定してしまえば、プロレタリア革命の可能性は現実的には限りなくゼロになる。帝国主義の客体的危機が極限的に激化しても、労働者階級が革命の主体としての能力をもたず、階級闘争場裏に登場しないと考えるならば、革命情勢は永遠に到来しない。
  したがって、日和見主義者は労働者階級のかわりに「革命党」が革命を遂行すると考えたり、ブルジョア議会選挙で勝利して政権を奪取すると考えたり、あるいは革命は当面不可能であるとか、労働者階級が革命的階級として成熟するまで不可能であると考える。さらには資本家に屈服し、取引して労働者を売り渡して、自分たちだけ生き残ろうとするところまで堕落する。
  このような日和見主義者にとっては、革命党は労働者階級を労働運動や労働組合運動のなかで政治的に鍛え、革命の能力を獲得できるように必死で努力することを任務とするものではない。その結果、労働運動は彼らのイメージする革命運動と切り離され、労働者階級は、体制内労働運動の制圧下におかれたままになる。また、労働者階級はせいぜい革命党員の予備軍としての位置しかもたないものにおとしめられるか、「革命党」を支持してブルジョア選挙で投票する存在としてしか位置づけられない。これを根本的に批判したのが、新版『甦る労働組合』だ。
  今問われているのは、階級的労働運動を復権することによって、あらゆる日和見主義者を粉砕し、プロレタリア革命に向かって労働者階級を武装することだ。『国家と革命』をそのための最大の武器として活用しきろう。(前半講義了)

党学校通信 p9-17

討論から

●G

 問題意識が2点。「できあいの国家機構を徹底的に粉砕する」ということについて、1つは今の社会というのがどんなに民主主義とか言われていようとも、徹底的にブルジョアの独裁してる社会だということを何回もはっきりさせる必要があると思います。そのブルジョア独裁を可能ならしめるために工夫されたのが、今の議会制度であるし省庁であるし、僕らの問題意識で言えば今の大学である。
こういうことを何回もはっきりさせないと、自分自身日和見主義に呑み込まれていきそうな怖ろしさというのを最近思うことがあります。どういうことかというと、例えば今、京都大学でも雇い止めが行われようとしている。これに対して僕らは闘いを開始したのですが、その闘いはすごい解放性もありますが同時に、この闘いが決着つくのは、曖昧さなく僕らが大学を運営するということでしかあり得ない。それはものすごい展望だし、同時に率直に言えば重圧とも言えるぐらいの責任、そういうのを感じています。
もし1年前に『国家と革命』を読んでいたら、「いや、いいなあ」って感じだったんだけど、今まさに俺たちがやるっていうことでしか決着つかない、それをどういうふうにポジティブにとらえていくかっていうのが、たぶんレーニンの問題意識と通じてるんじゃないかなと感じます。
  要は今ある国家機構、ブルジョアが自分の支配のために作ったものに、合わせるように何とかやっていこうとすると絶対行きづまってしまう。自分たちで一から作るんだっていう立場に立つとすごく空気入る。なぜ粉砕しなきゃならないかっていう1つは、労働者階級が空気入るかどうかじゃないか。今あるできあいのものに合わせてやっていかなきゃならないとなると、やっぱり空気入らない。それは無理ですし、そこに無理やり合わせるようにする、「とにかく共産党に投票しましょう」というのは最たるものだと思うんですけど。
  ブルジョア独裁ということで言うと、京品ホテルの闘いをやっぱり思い出す。京品ホテルの労働者はいったい何の罪を犯したかというと、「ホテルを運営する」という罪を犯したわけですね。まさに資本から職場を奪い取って自分たちで運営した。しかも素晴らしく運営したというのが彼らの罪なわけですよ。ここにものすごい怒りを感じる。裏表にあるのはやっぱり労働者階級はできるんだということ。そこに確信持てるかどうかっていうところが、日和見主義との闘いとして重要ではないかなと思いました。

●講師

 京品ホテルの例はすごく重要。やっぱり労働者は、いつ自分たちがそうなるかわからないと、京品ホテルをずっと見ていて、すごいなと。自主管理やって大成功し、勝利してることに空気入ってる。労働者が、営業利益を上げて、争議をやっている全員の給料まで数ヶ月間にわたってまかなった。それは、支援してる労働者の圧倒的な注目を集めたわけですよね。その中で、周辺の労働者との交流がガンガン始まった。それが一気に全国化しかねない、そういう恐怖を感じたわけですよね、権力は。それだけのエネルギーを、またその展望を、京品ホテルは持ってた。
  要するにプロ独っていうのはそういう闘いなんだっていうことを、みんなが認識することに恐怖して、ああいう形で弾圧したっていうことだと思うんです。われわれの路線と彼らのああいう素晴らしい闘いが一体化して進む、そこにやっぱり権力は恐怖した。

●A

 去年も自分のとこで『国家と革命』やったんですけど、今日聞いて全然違う。やっぱりそれはこの年末年始過程、1月闘争を相当突っ込んでやってきたということがあるからです。日比谷派遣村が廃止されて練馬の方に37人が移って来ました。とにかく1週間派遣村に行っていた。それでもって1月4日のデモに○○人くらいの人が来た。それで1月12日にそこは廃村になる。現在的にはそういう人たちを中心に組合を作ると。名前が「東京生きさせろ連絡会」というんです。
池袋街宣で出会った青年が、それこそ去年の9月に派遣切りされて、たまたま池袋で街宣に出会って「ああ、これは俺の問題だ」ということで、決起した。僕も、その彼と一晩、3時頃まで話して、翌日は『前進』の読み合わせ、あと世界は革命闘争だっていう話。85年蜂起戦とか70年沖縄闘争とかのビデオを一緒に見た。その翌日に青年たちと会って、その次の次の日にもうマル青加入して、ここに賭けると決意した。闘わなきゃ殺されるっていう現実ね。彼なんか今先頭になって、自分でも組織者の側に回ってやってる。今本当にそういう状態なんです。
それとうちの場合はあと、機関紙がやっぱり軸なんです。今2倍化以上。変なビラよりは『前進』読み合わせしようということでやってます。何部増やそうというレベルではなく、ストレートに訴えればもう何倍化もできるような、そういう時代が来てるんだということで今非常に空気が入っています。
  いろんな人がいるわけ。1月1日まで右翼だったっていう人。右翼で街宣車に寝泊まりして、やっぱりああいうところは相当序列が激しいから、ちょっと間違うと殴られる、そういうのは嫌だと。じゃあここで一生みんなと団結してやっていきたいみたいな。そういう人も出てきて、本当にこの間労働者ってすごいんだと。右翼だろうが何だろうが、本当に資本許せないんだと立ち上がれば根本から変わっていく、こういうのは逆に、お前らもっと頑張れ、もっと労働者信じろよと言われてるいうことではないか。

●J

 『国家と革命』は僕は5・29でパクられた時に獄中でしっかり読み返した。読むとすごく空気入る。1つはっきりさせたいのは、これを読んだ後にやっぱり「おっしゃ革命できるじゃん!」ていう、「これが革命できる展望じゃん!」ていう、こういうふうになる本だっていうか、そういうレーニンのアジテーションだっていう、こういうことをちょっとはっきりさせたいと思う。
中身としてはもう徹頭徹尾プロレタリアートは社会を運営できるんだ、革命できるんだっていうこと。今の国家が永遠に続くみたいに言われてるけれども、プロレタリアートはこれをバキバキに粉砕して、新たな国家を作れるんだと、新たな社会を構築できるんだっていう、こういうプロレタリアートに対する無条件の信頼ですよね。これが貫かれてるっていうことだと思う。
党派闘争っていうことでもそうだし、そもそもスターリン主義的にものすごく歪められてきたっていうこともそうだと思うんですけど、まずやっぱりわれわれがこの『国家と革命』をものにするっていうのは、この感動とこの高揚感とこの信頼をものにするってことじゃないのかって思うわけです。
  客観的にパリで何十万デモが云々とかいうんじゃなくって、やっぱり真横の労働者、真横の学生がそうじゃないかっていうことですよね。京大の話が出ましたけども、法大でもどんどん展開してるってことも含めて、その人を獲得してどうすんのってことになってくるわけじゃないですか。この時にこれがあるから俺らは堂々と言える、獲得できるっていうことなわけじゃないですか。
  今の時代に唯一展望語れる中核派として、明日何やるかがすぐに出てくる本じゃないですか。そういう本当に革命情勢を革命に転化する書としてあるっていうことですよね。
だから学生も『国家と革命』やるわけですけれども、やっぱり中身はそういう中身にしようってことでやっています。とりあえず『甦る労働組合』と『国家と革命』、この2つを読んで1週間後に論議しようっていう、こういうことを徹底的にやってる。やっぱりその中で、とりあえずマルクス主義を読んでみたいんだと、この時代にあんたは何で明るいのか知りたいんだっていう、こう言ってくるわけですよ。時間があるから何か読みたいと、試験が終わったから本が読みたいと。その時はやっぱりマルクス主義が読みたいって言ってくる。それで、『国家と革命』と『甦る労働組合』併せて読ませて討論する。
時代は展望を求めてて、マルクス主義を求めてると。やっぱりそれに合致する形でマルクス主義で切り合っていかなきゃいけない。その時にこれは、何回読んでもいつ読んでも、空気入るなあと改めて思いました。

●講師

 今彼が言ったところが今回苦労したところなんです。現実の今の状況にマッチした、そういう形での『国家と革命』をやらないとね。『国家と革命』ではこういうことが書かれてます、ここを勉強しましょうっていうんじゃなくて、やっぱり実践的にわれわれが直面している問題を、それとの関係で論じていくと。だから『甦る労働組合』と『国家と革命』のプロ独論、この2つの軸をガチッと結び合わせた形でやらないと、全然だめ。そういう問題意識で今回、初めての試みでこういう形にした。

●g

 プロ独論として『国家と革命』全体を読むということで、全体にその問題意識が貫かれてることがよくつかめました。本当にこの時代、プロ独やるんだと、あるいはやれるんだという確信をつかむということが、一切のこの学習の獲得目標だなと思う。例えばこの間の問題でいうと森精機のストライキ。これもまさにプロ独やれるんだという確信がなかったら、あそこで派遣先に対して「法律なんか関係ない」という、まさに法律・国家というものに対して、それそのものをぶっ飛ばしてストライキやるっていう闘いはあり得なかったでしょう。
  それはわれわれの決断や方針が本当に現場で何度も何度もはね返されながら、そこでやっぱり議論して、時代が本当にそういう闘いを求めてるというところで徹底的な議論をして、その中で、やっぱり本当にプロ独やり切るっていう、そこでしか生きられない時代なんだというところで立った時、確信をもって労働者の力に依拠し、その力を引き出していく転換点になったと思うんですね。そういう中で労働者はどんどん変わっていって、決定的だったのは第3波のストライキの時、職場まで入って行って、そこにいる労働者に、首切られた派遣の労働者が直接闘うことを呼びかけた。そうすると、首を切られた派遣に、職場の人がみんな声かけてきたりあいさつしたりする。つまり自分たちが職場回してる、首切られたけど。そういう誇りを持って第3波ストの時は、ストに決起した労働者が職場の中を闊歩したわけですよね。最初は、どうせ自分らは派遣だし、というふうな意見も出てきたぐらいだし、中に入るなんていうのはちょっとできんやろというような議論も出た労働者が、1波、2波、3波打ち抜く中でやっぱり、明白に変わっていった。本当にそういう職場闘争を堅実に全面的に展開して、職場の労働者の団結が形成されていれば、生きるための資本との闘いは国家権力との闘いからプロ独樹立のための闘いへと必然的に発展するっていう提起もあったけど、やっぱり職場闘争を徹底的にやり切って、そこで本当に自分らが職場を回してるんだっていうこと。
  この闘いをやり抜くことがプロ独、つまりそれが、自分らは今全部首切られてますけど、やっぱり2000万の非正規、全ての労働者6000万の労働者と一緒になって闘うんだっていう、そういう自覚を生んでいるということだと思うんですよね。ここがやはり重要だし、改めてこのプロ独以外生きられないというものを、この『国家と革命』の中からつかむっていうことが重要かなと思いました。
  それともう1つ、「階級対立の非和解性の産物」という中で、国家は「衝突の緩和」、あるいは「『秩序』の枠内に保つ」っていう、そういう歪曲との闘い。非和解性の産物でなくて、「衝突の緩和」のために利害を調停するみたいな、ここのところを見た時に思ったのは、オバマの大統領就任演説なんですよね。あの中でオバマが言ってるのはワークシェアリングですけれども、友人が仕事を失うことよりも、たとえ労働時間を削ってでも仕事を分かちあうんだと。しかも無私無欲とか挙国一致とか愛国心とかいうことを、いったい自由と民主主義のアメリカはどこに行ったのかと言いたいぐらい、がなり立てていいる。重要だと思ったのは、そういうことを嫌々じゃなくて、積極的に喜んでやるべきだって言ってる。つまり労働組合がそれを積極的にやるべきなんだと言っている。そうじゃない労働組合ってのは叩きつぶすんだっていう宣言でしょ。まさにオバマは、国家として登場してるわけですけれども、何か和解させようとかいうんじゃなくて、ワークシェアリングを徹底的に飲めと。労働組合として、賃下げ・首切りを飲んで、国家のこの危機を、仕事を分かちあい、痛みを分かちあい、危機を分かちあうんだってこと、それがアメリカ国民としてやるべきことだって言い上げて、そうじゃない奴は叩きつぶすっていう宣言なわけですよね。「衝突の緩和」とか「『秩序』の枠内に保つ」という話ではなくて、これに楯突く労働者を徹底的に弾圧するし抑圧するものとして登場している、これがまさに国家ということだと思いますよね。

●X

 地区の労働学校で『国家と革命』の(上)をやりました。いろいろな問題に関連させて、特に派遣切りだったり4者4団体派だったり、分割・民営化だって全部そうですけども、神奈川では今道州制が破産して、県の労働者に3%賃金カットっていう・・・。日産とかトヨタに何千億投入して破産したら、労働者の賃金カットという道を取るわけですよ。道州制、破産してもそこにしがみつく以外ない。要はおよそ国家と革命に関係しないことは世の中に何も存在しない。金融資本が破産し、独占資本が破産して、もう行政と国が破産するという段階に来た。革命以外にない。討論では、「職場に国家と革命があるんだ」っていう議論がガンガン青年労働者から出る。そういう点で学生の同志が言った通り、本当に革命をやろうという展望を出すものとして、『甦る労働組合』と『国家と革命』を武器にすることが大事だと、今日改めて思いました。
もう1つは今日の提起の中で、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立の非和解的産物として国家があるんだという認識に立てるかどうかが、日和見主義や体制内との分岐点じゃないですか。だから改めてガンガン分岐作っていく、あるいは獲得していくということが、労働者階級を信頼する、労働者階級に力がある、体制内をぶっ飛ばすっていうことの、やっぱり生命線だっていうことを改めて感じました。

●e

 この間やってきた『共産党宣言』や『帝国主義論』では、われわれが動労千葉労働運動を切り口にして、分割・民営化、新自由主義攻撃と闘うなかで、党と労働組合の根本的な、プロレタリア革命をやっていくにあたっての武器を、現実的に登場させた。その中で体制内労働運動の問題であるとか、革命に向かって階級を組織化していくにあたって、次の壁というのもはっきりしてきた。その中で、われわれが本当に階級をプロレタリア革命に向かって、自信と確信をみなぎらせるものとしてこの『国家と革命』を全面的に出すっていうことが、われわれの課題として、国際的な労働運動の党を作っていこうということの1つの理論的な柱になるはずなんですけど。
そういった意味では、われわれはここでもう1つも2つも飛躍することが絶対求められている。そういう共通の認識に立った上で、感じたことは、今みんなから出されているようなものがもっとストレートに出されないといけない。現実の国家の支配、あるいはその道徳の支配とか法律の支配のもとで規制されている労働者階級が、そのことに対する根底的な怒り、資本に対する怒りとその背後にある国家に対する怒り、何なんだと、自分たちをこんなに抑えつけといてと、爆発させる。
先程の京品ホテルの例で言えば、単に資本家よりもうまく儲けを上げたっていう話じゃないわけですよ。そこの怒りというか本質的なものを、労働者階級の立場に立って、本当に怒りをもって粉砕する。それを理論的に鋭く弁証法的に言い切るというのが理論の役割じゃないですか。そこのところはもっと現実にぶつかっている問題の中から、理論的にも言い切るものをわれわれは今つかみとりつつあると思うんですよ。派遣村の問題、今の京品ホテルの問題、それから学生がぶつかってる問題の中から、ブルジョア社会における国家というものはこうなんだということを、もっと怒りとともに、打倒できるんだっていうこととして出していく必要がある。
例えば「現在の賃金労働者の9割の非正規化、派遣法、民営化、道州制の導入など」っていうことで批判してるところで、「労働者階級を職場での闘いを通じて国家との闘い(政治闘争)に引き込む決定的導水路となる→」っていう矢印で、国家の政策に対して「政治闘争に引き込んでいく」という言い方、このまま読んだらスーッといっちゃうんだけど、段階論とか発展論みたいな論じ方になってる。これは単なる政策批判や反発なんてもんじゃなくて、資本主義のあり方そのもの、末期において、団結を破壊して労働者同士競い合い、殺し合いをさせる、変更可能な政策っていうもんじゃなくて、むき出しの労働者と資本家との関係だし、国家っていうのはそれを完全に資本家階級の側に立って押しつけるわけでしょ。
このことに対して、もっとストレートに道州制とか民営化そのものと、資本家のあり方とか資本主義の国家そのものと、闘わなけりゃ生きていけない、そのこと自体を本当に自己解放的にバーンと出すっていうか。なんか方法論として、そこをやれば「政治闘争に引きずり込む」とか「発展させることができる」みたいな、そういうものではないんじゃないのっていうこと。
  もうひとつ、「マルクスによる暴力革命の礼賛」のところ。その理解、押し出し方、貫き方の問題でちょっと引っかかった。矢印があって「労働者階級が新たな社会を生み出すために行使する暴力は、正義の暴力であり、道徳的にも正当な暴力である」と。
  表現上の問題かもしれないが、マルクスが言ってるのはちょっと違うんじゃないか。道徳的に正しい暴力と、非道徳的な暴力があるというふうにとれるんだけど、もっと・・・旧社会の助産婦であるとか、これ以外に下僕根性・奴隷根性を打ち破る方法はない、つまり人間本来のあり方を取り戻すってことでしょう。人間本来、本当に必要な「道徳」や「掟」を社会的に強制するってのは、共同体である限りそれは必要なことなわけで、それが今の階級社会の最後の段階ではプロレタリアートから奪われてるわけであって、それを取り戻すきわめて人間的な行為である。だからそれを道徳的であるかどうか、その大小で言うようなレベルの問題じゃないんじゃないか。

●C

 「プロ独論として学ぶ」「プロ独樹立にむけて」ということが書かれている。今までだったらその「独裁」っていう言葉に引っかかって、「独裁=ヒトラー」みたいなイメージで、議論も空中戦的になってた部分も多かったんですよ。「独裁」っていう言葉の響きみたいなものをめぐって。でも最近さっきも話にあった京品ホテルの闘いとか、動労千葉の闘いで、「こういうことなんだよ」ってそのまま現実の闘いで返せるし、それが通用する時代なんだと実感してます。日共は「独裁」とは言わないで「執権」というんですよね。
  やっぱそこでも党派性っていうか、労働者が社会を回していけるっていうところで、プロレタリア独裁って言えるのはわれわれだけだと思う。さっきも京大で、雇い止め撤回の闘いをやってみて、「自分たちが本当に回していけるの?」みたいな緊張感もあると言っていた。法大闘争もそういうところに来てるなって実感してる。じゃあ自分たちが法政を運営するのかっていうところでぶつかってるもの。
  今当局が作った御用団体、そういうのも含めてなり手がいない状況。うちら自身も、本当に大学そのものが破綻していこうとしている中で、自分たち自身が3万法大生とか300万学生に責任とって回していくっていうところにきてる。今入試展開で、受験生と人が足りないくらい議論が活発に起こっている。「京品ホテルの闘いはすごいけど、あれは組合の上の方が腐ってるからダメなんだ」とか言ってくる受験生とか、「中核派に入りたい」と言ってくる受験生とか。こっちが受験生の波に呑まれてしまうくらいな勢い。だから何か「受験生を獲得する」とか、入試に対抗してとかそんな次元ではない。そんな「○○反対」っていうところから、プロ独っていうことをめざして本当にわれわれ自身が全部回していくっていう腹がないと、受験生にもぶっ飛ばされる。こっちの構えが本当に問われる。
  国家は緩衝材っていうことに関しても、秩序とか法律とかっていう枠組みにとらわれない、まずわれわれがそういうものにとらわれないで行動していく。
例えば民青も同じ入試展開やってるんですけど、キャンパスから離れて、迷惑かけません」みたいな。入学試験の日にマイクを持ってガンガンアピールする行為そのものがありえないみたいな。公安が、「受験生はこの日のために一生懸命勉強してるんだから、合法とか違法とかいう問題じゃなくって、倫理的に人としてやってはいけないことだろう」って言ってきた。入試を必死で守るために、そういう言葉が出てきたことにすごく空気入った。最初は試験会場に行く人に向かって署名を取るなんて、できないだろうって思ってたんですよ。朝はビラまきだけに徹しようみたいな話で。そんなんじゃ全然だめで、朝から議論とか署名とかが取れるんですよ。受験なんて本当は嫌だって朝から言っていく人がいて、うちら自身が本当に仲間をそこで獲得し、「法政大学で闘おう」っていうものを作っていく腹っていうか、大きく構えないと・・・大学の中のプロ独みたいになるんですけど、そういうものを入試で感じました。

●e

 「コミューンとはどんな国家であったか」、コミューン4原則に関するところ、ここをもっと生き生きと。道州制の問題。公務員がいい思いしてるみたいな形で、奴らは公務員攻撃をしてきてるけど、われわれはこのコミューン論で獲得する、きちっと批判をしてくってことでしょう。それがすごく生き生きと、ああそういうやり方があるんだっていうこと、もっと現代に通用するコミューン原則というものを甦らせていかなきゃいけない。労働者階級あるいは学生も含めた展望というか、これでやれるんじゃんていう、われわれの国家論。資本主義だって行きづまっているから、どこかに敵を作って戦争に持っていくか、労働者階級をやっつけるっていう、労働組合があるからダメなんだっていう形で本当にとんでもない逆転をして、反革命策動に出てきてるわけでしょう。われわれはここのところで、労働組合を拠点にしながら、生き生きとやっていこうよという展望をすごく感じます。

●a

 『帝国主義』論前回やった、今回『国家と革命』をやって感じてるのは、やっぱり日和見主義との闘いだと思う、現実的に。これに書かれているのは常に日和見主義との、今で言う4者4団体派との闘いを、どうやって突破していくかっていう観点だと思う。つまりこの壁を打ち破らない限り革命に勝利できない。どうやって突破していくのか、展望を与えていると思う。第5章、第6章なんかは、共産主義はどういう過程になるかってことを言ってるわけでしょ、現実的にね。それに対置して今の国家は解体できないという疑問の形で、日和見主義というか体制派はいつも来るわけですよ。
  つまり日和見主義は、左翼的な言辞を言っているけど、こういう金融大恐慌になって、本当にこの国家が崩壊するっていう形が現れてるのに、それを死守して自分らを守る。そういう意味では『帝国主義』論にしてもこの『国家と革命』にしても、やっぱり日和見主義と断固闘っていくっていう、その発信ていうかね。この前京品ホテルの闘争行ったんですけど、あれなんか本当にそう思いましたよ。つまり日和見主義ってのは敵とのぶつかり合いをどうやって食い止めるかっていうことを常に考えている。だからそういう意味で言ったらそこを突破する、そこの揉み合いに勝利するっていうことが、職場でもそうだし、街宣でもそうだ。街宣に行けば、もう若者なんか、実際の話、生きるすべがなくなってきてる。そういう中で、今の社会ぶっ飛ばすんだっていう、それで革命やろうじゃないかっていうのが、本当にストレートに伝えられるそういう情勢なんだって、感じますよね。

党学校通信 p17-22 受講レポート

受講レポートから ★『国家と革命』(上)のレポートです。

【S】

 「生きさせろ!」「革命をやろう」
  「こんな社会は、資本家はいらない、やめてもらおう」(動労千葉長田書記長発言、09/01/29)
  プロ独。打ち倒し、廃絶する。
  労働組合を甦らせ、団結と生産現場からストライキを武器に、コミューンとソビエトを打ち立てる。
  マルクス主義、レーニン主義の「古典」が今まさに「甦る労働組合」と団結として甦る時代。甦らせる時代であること、そのために新たな決起と創造が求められている。そうしたマルクス主義の学習と実践が今真に自分に甦らせなくてはいけないと学びました。

【C】

 今日の講義でもあったように、「国革」の核心は「プロ独」だ。動労千葉や京品ホテルの闘いで「労働者はできる」ということが示されているし、展望ある。
  OO反対と言っているレベル(言うことは大事)から本当に我々が、社会を運営していく、回していく、いけるんだということを実際の闘いで示し、そういう腹でやっていかないと、労働者の現実やむき出しの怒りにぶっ飛ばされる情勢だ。
  「国革」は「革命ができるんだ」と明るくなるものとこちらが提起しないと。今の情勢にマッチしているのが国革だ。

【J】

 「国革」と読むと空気が入る。それは「プロレタリアートは絶対に革命できる!!」というレーニンのアジテーションに感動するからである。この革命情勢の時代、わが革命派に問われていることは、まさに、「国革」において、レーニンが必死にアジったように、「プロレタリアートのみが、このブルジョア社会を粉砕しきり、新たな社会を構築することができる」ということを、いかに労働者・学生大衆に伝えられるかである。そういう意味で今回の党学校の問題意識は、自分の問題意識と完全に合致する。
  その上で、もっとアジってもいい。討論中、「コミューン4原則の押し出しが弱い」という指摘があったが、全く同意見。僕はやっぱりあそこにめちゃめちゃ空気入っているので、もっともっと強くアジってほしい。「コミューン4原則」とは何か。プロレタリアートは新たな社会的規律を作れるという証明じゃないか。だから空気入るのではないか。何にせよ、「国革」はマル学同理論合宿のテーマでもあるので、再度読み込みたい。

【g】

 ◇『国家と革命』をプロ独論として読むという問題意識に貫かれているレポートだと思いました。プロ独へ突き進む以外に生きられない社会への突入ということの中で、労働者が「オレたちが権力をとってやる」「社会を回しているのはオレたちだ」ということをハッキリさせることが求められている。“労働者が権力とれるんだ”“労働者が権力とる以外に生きられない”ことを労働者に真正面から提起すること、そこで体制内勢力と激突し、打倒していく中身を『国家と革命』をとおしてハッキリさせること。
  その点で、レポートはブルジョア独裁国家への怒り、ブルジョアジーへの怒り、体制内勢力への怒りをストレートに押し出していっても良いんじゃないかとおもう。特に、体制内勢力に対する怒りを労働者自身の怒りとして押し出すことが決定的。道州制による360万労働者のいったん解雇攻撃に対する怒り、ワークシェアリングを労使一丸で推し進めることに対する怒り――この怒りの先頭に立って、”プロ独をやろう“と提起することが必要とおもう。
  大恐慌情勢突入情勢下で、絶対非和解と階級的団結論で闘う労働組合を甦らせることが最大の正面課題になっている。怒りをもって闘いに立ち上がる労働者に対して、国家とは何か、労働者が権力をとる以外に生きられない時代に突入したこと、を真っ向から提起する労働者指導部をつくっていくこと。“生きさせろ!ゼネスト”というのはそういう決戦である。『国家と革命』はそのための決定的武器となることを確信した。

【X】

 「国家と革命」の講師の提起は非常によかったし、大いに学習となりました。
(一)プロレタリア独裁論として学ぶことと、今日的な金融大恐慌の時代をプロレタリア革命に転化する、勝利する実践上の理論的核心が「国家と革命」だと思います。とりわけ、ブルジョア国家の階級的本質の第一章一節で、資本家階級と労働者階級の階級対立の「非和解性を徹底的に明らかにしよう」と詳論された部分が重要だと! 法律も議会も司法も教育もブルジョア独裁そのものだ。そして労働者階級に依拠して実践的に闘うことが、この非和解性をつかむ最良の道だと思います。また日和見主義を体制内的思考を粉砕するポイントでもある。
(二)地区の労働学校で「国革」の上の提起を、現在的タイムリーなテーマとして「甦る労働組合」と合体して行ったのですが、討論では、多くの労働者から「職場に『国家と革命』がある」となり、空気が入りました。動労千葉労働運動で革命をやろうの展望そのものとしてガンガンやりましょう。

【G】

 労働者は資本に対する激しい怒りを持っているし、団結したときにこの社会を根本からすばらしく運営できるのだという確信――これが『国家と革命』と『甦る労働組合』を貫いている一本の軸だ。これを実践に貫いたときに、(森精機や京品ホテルの闘いのように)、労働者は本当に誇り高いすばらしい存在として登場する。
  隣のなかまがまさにそのような存在である、こちらの構えさえ腐らなければ――ということにすごく空気入るし、同時に身の引き締まる思いもする。とにかく、この『国家と革命』と『甦る労働組合』をガンガンもちこんで、仲間を組織していきたい。「階級を和解させる機関」ではなく「階級対立の非和解性の産物としての国家、ということの重要性がよくわかった。そしてそれは単に理屈だけでわかることではなく、実際の闘いのなかで分っていくことだということも。

【e】

 プロレタリアートの独裁を基礎にした労働の解放、社会の解放にむかって、ブルジョア国家を粉砕する歴史的事業をわれわれの手でやるときが来ています。カウツキーをはじめとした日和見主義者、社会民主主義者も、プロ独など実現不可能という労働者階級への不信が根底にあった。今、われわれは、プロ独をやりぬくための労働組合を建設するという、理論的実践的な到達地平があるということです。
  『甦る労働組合』を含め、現実の「生きさせろ! ゼネスト」の中に、プロ独を貫く思想を復権させながら、闘っていきたい。

【a】

 『国家と革命』を学習して、プロ独を闘いとるには、日和見主義=4者4団体派との闘いに勝利する中で前進していくことなのだと思った。『国家と革命』の中身を、今の情勢の中で、生き生きと語ることができるようにしなくてはならないなーと思う。それは、職場を軸にして、階級的労働運動を実践していくことだ。

【A】

 ついに、プロレタリア世界革命の時代がやってきた。キーワードは、「非和解性」である。資本との非和解性そして国家権力との非和解性をハッキリさせることが決定的である。「要するに、階級的労働運動ということは『労働者階級と資本家階級、つまり、労働者と資本家との関係は非和解なんだ。だから結局、労働者自らが資本家階級の権力を打倒し、権力を奪取して、労働者階級の社会を建設しない限り、労働者は幸せになれない』という考え方だ」(『甦る労働運動』)。
  昨年、10回ぐらい、いろんな資本と団体交渉をしたが、和解したり・和解できる資本など居るはずはないのだ。買収された体制内指導部は知っているはずだ。
  労働組合は団結する手段であり、社会転覆の準備の手段であり、労働者の革命の武器である。『国家と革命』で言っているプロレタリア独裁に向けた要である。階級的労働運動の白熱的実践が今、本当に求められている。
  動労千葉は、実際に幾度もストライキも組織し、闘いの中で労働者が、資本と非和解性をつかみとった。このリアリズムだ。

【q】

 『国革』をプロ独論として学んでいく。今まで何回か、『国革』について学習会をやってきたが、プロ独論という問題意識を軸に据えたとき、『国革』そのものがものすごく理解できた。2章の“何ものとも分有を許さない、大衆の武装力に直接立脚したプロ独”“プロ独を認めるものだけがマルクス主義者”、以前はあまり意味も分らなかったし、さらっと流し読んでいた。
  7月テーゼで「プロレタリア性を刻印する」というところで、塩川派が激烈に反応した。塩川一派がここに激烈に反応したわけがよく分った。塩川一派にとって、おそらく『国家と革命』は禁断の書だ! 
階級的労働運動はプロ独をめざす労働運動、討論のなかで、京品ホテルの闘いについて出されたが、なるほどと思った。労働者がホテルを運営する、まさにプロ独の実践なんだ。資本と権力が労働者に襲いかかったのも、「不法に占拠」しているだけではない。京品ホテル労働者の闘いの中に、まさにプロ独があった。そこに、資本も国家権力も恐怖したからだ。
  動労千葉の闘いもそうだ。動労千葉が職場支配権を団結した力で貫いてくる。それもプロ独がそこにあるからだと思う。前回、前々回の帝国主義論で時代認識をつかんだ。レーニンの帝国主義論と国革をあわせて、レーニンの「共産党宣言」といえるのではないだろうか。
  プロ独を承認しないものはすべて日和見主義である。現代的にも結局本質的にプロ独をめぐって日和見主義との闘いがあるということ。
  資本主義ではダメだということは多くの人々が感じて来ていることと思う。ではどうするのかがするどく問われてくる。プロレタリアートは権力をとれるし、立派に運営できること、このことをわかるかたちで展開していくこと。プロレタリアートは闘いの中で自分の能力を発見し、発展させていく存在。ストライキの中で、“社会を動かしているのは自分たちだ”ということを自覚し、ブルジョアジーなどいなくても社会は動かせる、そういう力がプロレタリアートにはあることを学ぶということ。
  プロレタリアートをトコトン信頼できるのか否かが、プロ独が可能かどうかを決めるし、日和見主義との関係もこのところが要とおもう。

【d】

 プロレタリア革命の勝利、プロ独の樹立に向けて、マルクス主義を歪曲する日和見主義との闘争が死活的である。歪曲を打ち破れば、本来の荒々しいマルクス主義革命論・国家論を労働者階級は自分自身のものとして革命に決起する。なぜなら、階級対立は非和解だから。
  こんにち、日和見主義潮流の代表が4者4団体として現われているが、なぜそうなのか、先日痛感した。派遣労働者のスト突入とピケットによる防衛によって工場のラインを完全に停止させることができたのだが、いわゆる体制内よりも右、帝国主義的労働運動の正社員御用組合は手を出すどころか一言も発言しなかった。ストに敵対してくるのは職制と派遣会社の担当者だけで、御用組合は幹部がとおくから見ているだけだった。資本主義が終わる時代、資本がバタバタと潰れていく時代、正社員が整理解雇どころか全員が倒産解雇される時代には、JCなど旧来の御用組合は無力になるのだ。同時に、国家・資本の労働者への暴力的支配の要の一つである解雇の脅しは、派遣労働者には通用しないことが判明した。「雇用関係がないから」と団交を拒否す派遣先企業は雇用関係がないがゆえに、派遣労働者の処分できないのだ。派遣法の「風穴」を見た思いがした。
  ストを貫徹して帰って来た労働者たちの表情は、「支配階級として組織されたプロレタリアート」そのものだった。ここに革命の現実性を見た。

【H】

 1.前回のレーニン『帝国主義論』もそうだが、レーニンの著作はすべて論争の書である。K・カウツキーというかつてのマルクス主義正統派が転向屈服して祖国防衛主義に走るなかで、これとの対決を一貫して意識して書かれている。『国家と革命』の学習会で感じたことも、まずはこの点で、今日的にわれわれが直面している「党派闘争を日和らずに闘う」こととつながっている。1917年に、チューリッヒから帰国して、フィンランド駅に立ったレーニンは愕然としたのではないか。臨時政府にボルシェビキの一部までもが迎合している中で大急ぎで「国家論ノート」を取り寄せて、『国家と革命』を執筆した。プロレタリア革命を国家との関係を明確にし、大論争を挑んでいった。何よりもソビエト内のメンシェビキ、エスエルの体制内を打倒するために。その意味で、今回の学習も単なる古典の学習ではないと思う。
  2.その上で、『国家と革命』の内容について、われわれは、現在の世界恐慌の深刻化と資本主義の終焉のなかで、レーニンの提起を1ミリも割り引くことなく実践することが求められているし、それは絶対可能だという確信をもつことが重要だと思う。「パンと土地と平和」はそのまま「職と住居をよこせ」に重なるし、資本主義の最後は、プロレタリア革命、プロレタリア独裁に転化させなければならないということです。
  われわれがこれを言い出したとたんに、すべての体制内派が一斉に襲いかかって来た。のぞむところだ。

 質問 国家の本質を『幻想共同性』であるとする解釈を初期マルクス主義『ド・イデ』を根拠に主張し、ポストモダンの枠組みで語ろうとする傾向について、私は反対だし、『国家と革命』もそういう意味をこめて書かれていると思うのですが‥‥。

【F】

 講師の『国家と革命』の読み方・実践は、“革命の拠点としての労働組合論”から提起されていました。講師は、“労働者の人間的感性や、規律ある生産活動で鍛えられた組織的能力や、資本家と資本主義に対する深く激しい怒りと憎悪の力”(25p)を述べられました。この労働者(階級)の生産活動の組織的能力は、現実の共産主義・労働組合を闘いとる根源的な力・あり方です。今、我々は資本主義300年の終わりが始まっていることを実感しています。それは新しい社会=新しい人類史を闘いとっている真っ只中にいます。その新しい社会・人類史をたたかいとる力こそ『国家と革命』です。
レーニンは1917年の4月テーゼ(「当面の革命におけるプロレタリアートの任務について」の発表、「全権力をソビエトへ!」のスローガンを提起)の後、『国家と革命』を8月からら9月に執筆した。レーニンは『国家と革命』の方針で、労働組合を拠点として、労働者階級人民――兵士を組織し、ロシア革命に邁進した。レーニンは『国家と革命』を1918年に発行し、プロ独権力を基軸・土台として直ちに高次の共産主義社会の建設に向けての前進を開始したのです。
レーニンは『国家と革命』をとおして、パリ・コミューンの総括――マルクス『ゴータ綱領批判』を継承して、マルクス主義をロシア革命に実現した。それは、労働組合・ソビエト・党に導かれる共産主義社会の建設の闘いであった。

【K】

 「今や革命情勢」という時代認識に立ち、階級的労働運動路線の白熱的実践を開始したわれわれにとって、『国革』は決定的な武器である。今回の提起と討論は、まさに『国革』の今日的、革命的復権そのものの内容となった。
「プロ独論として、『国革』をとらえる」ということが核心だということをあらためて、学びなおした。それと、職場・生産点で闘う労働者のたたかいの中に、プロ独があるということを、『甦る労働組合』で語られている動労千葉の闘いをはじめ、森精機のたたかい、京品ホテルのたたかい等をとおして、つかむことができたことがすばらしかった。同じことは、大学闘争をたたかいぬく、学生同志の提起からも刺激的に学ばされた。
プロ独を真っ向提起することは、我々の党派性ではあるが、残念ながら、自分の言葉でいえば、その党派性は観念論の域をでなかったのだが、この間の階級的労働運動の実践をとおして、きわめて、リアルで具体的なものとして提起されつつある。
労働者の自己解放の力に対する圧倒的確信、信頼を語る、その立場にたつということは、プロ独の立場に立つということと同義である。労働者が社会を動かすことができる、職場を回すことができるということを実践をとおして確信すると、それは即プロ独を求めることになるのだということ、まさに、レーニンがいう「プロ独を承認する者だけが共産主義者である」ということが、いよいよ鮮明になった。
次回の労働組合の革命論的意義とソビエト問題の提起がいっそう今日的なテーマとして浮かび上がってきたと思う。

【r】

『国家と革命』のプロ独論と『甦る労働組合』での問題提起をかみ合わせる形で講座が展開されたことはとてもよかったと思います。また、学生の同志の発言の中にも「新人には『国家と革命』と『甦る労働組合』を渡して読んでもらうことから始めている」というのがありました。このことは、『共産主義者』159号の畑田さんの『賃金奴隷の鉄鎖を断て』も同じで、この手法はこれからのすべての古典学習においてあてはまることではないかと考えます。
  『国家と革命』の学習会で労働組合論(プロ独達成・維持→共産主義の過程における労働組合の決定的重要性)を貫くというのも、独創的というか今(いま)的で重要だと思います。
  さて、マルクス主義の国家論と言えば、もう一つ『ドイツ・イデオロギー』があり、ここにおける国家論(いわゆる幻想的共同体論、『新訳ドイツ・イデオロギー』で言えばP35〜37)が『国革』にたいして対抗的・否定的にぶつけられるということがおこなわれたりしますが(たとえば黒田・カクマル)、『ド・イデ』の中にはほかにも国家について論じているところがあり、それを合わせて読んでみると、マルクス・エンゲルスが国家についてどう考えていたかがよくわかります。以下、引用します。
  「近代のこの私的所有に対応するのが近代の国家である」(『新訳ド・イデ』P138)
  「国家は、ブルジョアが外にたいしても内に向かってもその財産と利益をたがいに保障しあうために必要とする組織形態以外のなにものでもない」(同P139)
  「国家は、支配階級の諸個人が自分たちの共同利害をつらぬく形態であり、その時代の市民社会全体が総括される形態」(同)
  また、幻想的共同体論を展開しているところでも、「〔国家では〕ひとつの階級がほかのすべての階級を支配している」(P36)と言っています。
  マルクス→レーニンの問題意識は一貫しており、レーニンは『ド・イデ』の存在を知らなかったわけですが、もし知っていれば、『ド・イデ』からも引用しただろうなと考える次第です。