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2009年02月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 レーニン『帝国主義論』(下)

講義概要 P1-8

★討論から- P9-15

受講レポート P16-24

2008年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-8  講義概要

レーニン『帝国主義論』(下)

後半講義概要 講師 柴田 之雄 

【7】第7章 資本主義の特殊の段階としての帝国主義

(1)帝国主義の時代はプロレタリア世界革命の時代

「帝国主義は、資本主義一般の基本的諸属性の発展と直接の継続として生じた。だが、資本主義は、その発展の一定の、きわめて高度の段階で、すなわち資本主義の若干の基本的属性がその対立物に転化しはじめたときに、資本主義からより高度の社会=経済制度への過渡時代の諸特徴があらゆる方面にわたって形づくられ、あらわになったときに、はじめて資本主義的帝国主義となった……しかもこれと同時に、独占は、自由競争から発生しながらも、自由競争を排除せず、自由競争のうえに、またこれとならんで存在し、このことによって、一連のとくに鋭くてはげしい矛盾、軋轢、紛争をうみだす。独占は資本主義からより高度の制度への過渡である」(岩波文庫版144n)
  「資本主義の基本的属性」とは自由競争であり、「その対立物」とは独占である。自由競争は、大規模生産をつくりだし、大規模生産を最大規模の生産におきかえ、生産と資本の集積を独占に導くことによって、「資本主義からより高度の社会=経済制度への過渡時代への諸特徴」を「あらゆる方面にわたって」つくりだした。しかも、独占と自由競争の対立は「一連のとくに鋭くてはげしい矛盾、軋轢、紛争」すなわち大恐慌、大失業、侵略戦争・世界戦争の激化とともに、労働者階級の憤激、資本家階級に対する非和解の闘争をいたるところに生みだす。帝国主義の時代とは、プロレタリア世界革命の時代なのだ。

(2)「資本主義の終わり」を示す「五つの基本的標識」

 「帝国主義のできるだけ簡単な定義」は「資本主義の独占的段階」(145n)である。しかし「資本主義の独占的段階」というだけでは簡単すぎるので、「五つの基本的標識」(145n)をふくむ帝国主義の定義を提起している。
  「(一)経済生活のなかで決定的役割を演じている独占を創りだしたほどに高度の発展段階に達した、生産と資本の集積、(二)銀行資本と産業資本との融合と、この「金融資本」を土台とする金融寡頭制の成立、(三)商品輸出と区別される資本輸出がとくに重要な意義を獲得すること、(四)国際的な資本家の独占団体が形成されて世界を分割していること、(五)最大の資本主義的諸強国による地球の領土的分割が完了していること。
  帝国主義とは、独占と金融資本との支配が成立し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、最大の資本主義諸国による地球上の全領土の分割が完了した、というような発展段階における資本主義である」(145〜146n)
  つまり、資本主義の発展はあらゆる面で行き着くところまで行き着き、もうこれ以上の発展はない。このもとで先鋭化する「矛盾、軋轢、紛争」を資本主義の「改良」で解決することなど絶対にできない。帝国主義段階のもとで激化する「矛盾、軋轢、紛争」こそ「革命のチャンス」ということだ。

(3)帝国主義に対置すべきは「政策」ではない、革命だ!

 ところがカウツキーは、帝国主義を「資本主義の一段階」と見ることを拒み、「金融資本によって『好んで用いられる』一定の政策」だと言い張った。“帝国主義・資本主義のもとでも平和的な改良策が可能だ”という主張は、実践的には「資本主義の救済」「プロレタリア革命への敵対」だ。日本共産党も、塩川一派も、何かしらの「ルール」「政策」「制度」をつくれば資本主義は立て直せるんだと言って、労働者階級が団結して革命に決起することに敵対している。「カウツキー主義」との闘いは、現在の階級的労働運動の前進にとっても死活的だ。
  さらに「すべての国の資本家の団結」(カウツキー)によって世界が平和になりうる、という「超帝国主義論」を粉砕することだ。それは、「一個の世界的独占」「合同の段階」「共同搾取の段階」のもとで、「完璧な社会主義の条件」ができあがるまで革命はやるべきではないといって、労働者階級に敵対し、分断を組織する役割を果たす。しかも、カウツキーが「超帝国主義論」を主張したのは、まさにプロレタリア革命が問題となっている第一次世界大戦の真っただ中だ。
  しかし、カウツキーの「超帝国主義論」など机上の空論であり、まったくのインチキだ。金融資本、独占が支配する現実の世界経済内部では「種々の国の発展速度その他における極端な不均衡」(156n)が生まれ、国際カルテル、独占の平和的発展とはおよそ正反対のことがもたらされている。第一次世界大戦は、ほんの一握りの帝国主義ブルジョアジーによる世界の資源・市場・植民地の略奪・再分割をめぐる強盗戦争であり、「帝国主義・資本主義の終わりの始まり」を鋭く突き出した。

(4)帝国主義・資本主義の矛盾の爆発としての世界戦争

 何よりレーニンがカウツキー批判をとおしてはっきりさせたかったのは、目の前で現に行われている第一次世界大戦がいかなる歴史的=階級的性格の戦争なのか、ということだ。そして「帝国主義的な略奪と欺瞞に党が加担するか、それとも、革命的行動を宣伝し準備するか」(『第二インタナショナルの崩壊』)という革命的・階級的実践の問題だ。
  そもそも「帝国主義世界戦争の不可避性」ということは、第二インタナショナルにおいても幾度も確認され、それに対する「党の任務」は1912年「バーゼル宣言」として全会一致で採択されていた。ところが現実に第一次世界大戦が始まった瞬間、カウツキーをはじめとする日和見主義者たちは、一斉に自国帝国主義政府の戦争支持に寝返り、労働者階級を分断し、革命を圧殺する「資本主義の最悪の救済者」として立ちあらわれた。
  こうした中で、レーニンは、帝国主義の不均等発展論から世界戦争の必然性を明らかにすることで、カウツキーをはじめとする社会排外主義者・日和見主義者に対する「死刑宣告」を怒りを込めてたたきつけたのだ。“何が『超帝国主義』『共同的搾取』の段階もありえるだ、ふざけるな。帝国主義の不均等発展は世界戦争を引き起こしているじゃないか! プロレタリア革命を真っ向から訴え組織しないのは、労働者階級に対する裏切りだ!”ということだ。
「大恐慌をプロレタリア世界革命へ!」――これこそ現在の革命情勢において、日本、アメリカ、韓国、全世界の労働者階級が一つに団結できるスローガンだ。
  現在の世界金融大恐慌が、1930年代の時のように、再度の世界戦争に行きつくのか、それとも世界革命の勝利に転ずるのかという問題は、1930年代がそうだったように、絶対に「客観的な必然性」の問題ではない。スターリン主義、社会民主主義の破産と敵対を打ち破って、始まった世界金融大恐慌をプロレタリア世界革命に転化するという、レーニン的決断と実践こそが問われている。「資本主義の歴史は終わった」「世界は革命情勢だ」という時代認識と階級的労働運動路線で団結し、革命的労働組合と世界単一の労働者党を建設していく闘いを猛然と推し進めていこう。

(5)レーニン『帝国主義論』を歪曲・解体する塩川一派

 レーニン『帝国主義論』を「現代の共産党宣言」として復権させる立場から、塩川一派のエセ「現代帝国主義論」を徹底的に粉砕しつくそう。
  塩川一派の『展望』第3号に掲載された「国際金融恐慌と現代帝国主義の危機」(時任実秋(08年10月))という論文は、もはや彼らがマルクス主義とは縁もゆかりもないことを自己暴露しているが、とりわけ許しがたいのは、「世界革命への主体形成、国際共産主義運動の再構築をぬきにして、世界革命情勢と呼ぶことはできない」(112n)と言っていることだ。ここに塩川一派の反革命性が凝縮している。今現に、世界中でストライキに立ちあがっている労働者は、世界革命の主体ではないというのか! 塩川一派の主張は、11月労働者集会の日韓米国際連帯を軸に展開されている、プロレタリア世界革命に向けた労働者階級の闘いに対する反革命宣言だ。絶対に許すことはできない。

【8】第8章 寄生性と資本主義の腐朽化

(1)日和見主義的潮流との決定的闘争を訴えたレーニン

 「帝国主義との闘争は、それが日和見主義に対する闘争と不可分に結びついていないならば、一つの空疎で虚偽な空文句にすぎない」(第10章、203n)
  8章でレーニンは、労働運動における日和見主義・社会排外主義の潮流が帝国主義固有の寄生性という経済的・社会的基礎と結びついていることを全面的に暴露し、これとの非妥協的な対決を帝国主義段階におけるプロレタリア革命の死活的課題として明確にした。
  「多くの組織を支配している日和見派との闘争が個々の場合にどんなに困難であろうとも、労働者諸党から日和見派を粛清する過程が個々の国でどんなに特異なものであろうとも、この過程は不可避的であり、実り多いものである」(『社会主義と戦争』105n)
  資本との非和解の闘いと体制内労働運動指導部との分岐・激突・打倒の闘いをとおして、プロレタリア革命に向けた労働者階級の団結が強固につくり出せるということだ。

(2)とことん腐りきっている現代帝国主義

 帝国主義がどんなに腐朽化し寄生的な存在になっているかは、「金利生活者国家」と呼ばれるようなあり方に端的に示されている。新自由主義政策の一環として進められた金融の規制緩和とバブル経済化は、こうしたあり方を極限まで押し進め、そこからサブプライム証券のような詐欺的な手段をも使って巨額の利益を吸い上げていく仕組みをつくっていった。アメリカ帝国主義などは、企業全体の利益の50%が金融の利益で占められるまでになっていった。
  さらに帝国主義は、海外の植民地・半植民地における搾取と収奪のみならず、移民=外国人労働者の増大をとおしても寄生性を強める。差別的・奴隷的な賃金や労働条件で収奪し、それをテコに国内の労働者階級全体の搾取も強化して高利潤を得ていく。外国人労働者の一斉解雇、派遣労働者の大量解雇をやっているトヨタや日産など日本の自動車産業などがまさにそうだ。

(3)プロレタリアート上層を買収する経済的可能性

 「金利生活者国家は寄生的な腐朽しつつある資本主義の国家であり、そしてこの事情は、一般的にはそれらの国のあらゆる社会政治的諸条件のうえに、特殊的には労働運動における二つの基本的な潮流のうえに、反映しないではおかない」(165n)
  「帝国主義は、世界の分割とたんに中国だけにかぎらない他国の搾取とを意味し、ひとにぎりのもっとも富裕な国々にとっての独占的高利潤を意味するが、このような帝国主義は、プロレタリアートの上層を買収する経済的可能性をつくりだし、これによって日和見主義を培養し、形成し、強固にする」(169n)
  「独占的高利潤」とは、「資本家たちが『自分の』国の労働者からしぼりっている利潤以上に余分にえられるもの」(22n)である。これによって、帝国主義は「労働者の指導者たちと労働貴族の上層とを買収できる」(22n)。超過利潤は買収の経済的可能性を生みだす。しかも、買収の可能性があるだけではなく、実際に買収している。「直接および間接の、公然および隠然の、種々様々な方法によって買収している」として、レーニンは、日和見主義を「要するに資本家に買収されているやつら、裏切り者だ!」と断罪しているのだ。

●「闘うための団結形態としての労働組合」――『新版 甦る労働組合』から

 「資本家の側は戦後一貫して、労働者をいかにして団結させないか、労働組合幹部をどうやって籠絡して労使協調の労働組合にするのか、ということにものすごいカネと人を投入してきた。…つまり、労働者をどういうふうに支配するかということが、資本家にとって最大の問題だった。その核心は労働組合を労使協調化して、資本家に立ち向かわせない存在にすることだった」(55n)
  「そういう点では連合は、戦後における資本と労働者との激しい闘争、ある種の党派闘争に労働者階級の側が一歩負けた産物とも言える。労働組合運動においては、常に誰が労働組合のヘゲモニーを握るかということをめぐって、資本も含めた大党派闘争が展開されてきたわけだ。連合の結成は資本の側にからめとられた結果だ」(56n)
  「したがって一番大事なことは、『労働組合とは資本と闘うための組織であり、武器である』ということをはっきりさせることだ」(57n)

(4)日和見主義の支配は長く続かない

 帝国主義段階においては「日和見主義は…数十年の長きにわたってある一国の労働運動における完全な勝利者となることはできない」(176n)。なぜなら「今日の状態の特徴は、日和見主義と労働運動の一般的・根本的利益との非和解性を強めないではおかないような経済的および政治的諸条件にある」(175n)からだ。
  帝国主義とは、独占資本主義の段階であり、資本主義の最後の発展段階である。帝国主義は世界の市場や資源、植民地の再分割をめぐって激突しあい、「矛盾、軋轢、紛争」をひたすら激化させながら、没落していくしかない。そういう帝国主義の時代においては、ブルジョアジーに買収された日和見主義者は圧倒的多数の労働者の利益をとことん裏切りつづけ、労働者階級と非和解の対立を強めていかざるをえない。日本経団連と「労使共同宣言」を結んでますます結託を深める連合や、米帝オバマ政権を支えるAFL・CIOなどは、まさに「ブルジョア政治と完全に融合」した「資本の救済者」として登場している。こんな連中がいつまでも労働者階級を支配しつづけることなど絶対にできない。
  レーニンは、日和見主義がどんどん転向して、ブルジョアジーと一体化していくことに対して、「問題がはっきりしていいじゃないか」と言い切っている。体制内労働運動派が、「会社がなくなったら労働者は生きていけない」「生産性向上への貢献」「よりよい道州制の実現」などと言って、帝国主義と一体化すればするほど、労働者階級の前にものごとがはっきりする。労働組合運動をめぐって、体制内労働運動派と動労千葉派との分岐が進めば進むほど、労働者の階級的団結と闘いは爆発していくということだ。

【9】第9章 帝国主義の批判

 「帝国主義の基礎の改良主義的な改変は可能かどうか、事態は帝国主義によってうみだされる諸矛盾のいっそうの激化と深化へむかって前進するか、それともその鈍化へむかって後退するか、という問題は、帝国主義の批判の根本問題である」(179n)
  カウツキー主義、小ブル平和主義者、体制内労働運動の主張に共通していることは、帝国主義の引き起こしている矛盾や対立の激化をその経済的土台から決してとらえようとしないことだ。彼らは、貧困や格差、戦争といった問題を、金融資本が国家と一体化して市場・資源・勢力圏の再分割をめぐって激突しているという物質的土台から切り離す。何より賃労働と資本の非和解的対立にこそ矛盾の根源があるということを押し隠して否定する。
  重要なのは「カウツキーは、帝国主義による政治的反動の強化ということに反対しながらも、帝国主義の時代には日和見主義者との統一は不可能であるという、とくに緊急となった問題をぼかしてしまっている」(197n)ことだ。帝国主義と一体化した日和見主義、これとのプロレタリアートの融合を試みるカウツキー主義ときっぱり手を切り、打倒・一掃することなしに、プロレタリア革命の勝利はない。しかもカウツキー主義や日和見主義との対決、「資本主義の救済か、革命か」という問題は、労働者階級をどちらの路線で獲得するかという闘いだ。レーニンは、カウツキーを論戦的にも打倒しつくしただけでなく、ロシア革命という実践をもってカウツキー派との党派闘争・路線闘争に一つの決着をつけた。
  職場支配権をめぐる体制内労働運動との対決も、論戦で勝つということだけでなく、労働者階級を闘いに組織できるかどうかが勝負だ。体制内労働運動指導部を現場の労働者の団結の力でぶっ飛ばして、「生きさせろ!」ゼネストに向かって驀進しよう。「第二、第三の動労千葉」建設をかちとっていこう。

【10】第10章 帝国主義の歴史的地位

(1)矛盾が激化する時代こそ革命の時代

 「帝国主義は、その経済的本質からすれば、独占資本主義である。帝国主義の歴史的地位は、すでにこのことによって規定されている。なぜなら、自由競争の地盤のうえに、しかもほかならぬ自由競争のなかから成長する独占は、資本主義制度からより高度の社会=経済制度への過渡だからである」(199n)
  独占の段階にまでいたった資本主義は、もはや「より高度の社会=経済制度」すなわち社会主義・共産主義にとって代わられるしかない、そういう歴史的地位にある。レーニンは、このことを第一次世界大戦の真っただ中で喝破した。レーニン『帝国主義論』は、「やがては、資本主義の矛盾をのりこえた未来社会にすすむときがくる」(日本共産党のパンフレット)などという労働者階級の革命性・自己解放性を否定する主張を根本から爆砕するものだ。
  しかも「矛盾のこの先鋭化は、世界金融資本の終局的勝利の時代のときからはじまった歴史的過渡期のもっとも強力な推進力である」(201n)。独占の支配は盤石ではない。経済は破綻し、恐慌の激化や大衆の貧困、失業の増大、社会崩壊的状況をもたらし、帝国主義諸国は世界の再分割をめぐる侵略戦争を激化させていく。そうした矛盾の激化こそが「革命のもっとも強力な推進力」なのだという立場が重要だ。そこには、労働者階級を「救済の対象」とか「かわいそうな存在」などと見る立場はひとかけらもない。レーニンは、矛盾がいっそう先鋭化する帝国主義の時代こそ労働者階級の革命的決起がまき起こるという不動の確信を貫いて、カウツキー主義や日和見主義との党派闘争にかちぬき、ロシアの労働者階級とともにプロレタリア革命の勝利を切り開いていった。「労働者が団結すれば、どんな困難もうち破れる、必ず勝てる」というマルクス主義の核心を貫いたゆえの勝利なのだ。

(2)資本主義は今すぐぶっ倒せる

 「帝国主義は過渡的な資本主義として、あるいはもっと正確にいえば、死滅しつつある資本主義として、特徴づけなければならない」(203n)
  レーニンは「帝国主義は、死滅しつつある資本主義だ!」と言い切り、「資本主義はもう終わりだ、革命やって終わりにしてやろう!」と熱烈な檄を発した。それは、資本主義の「順調な」成長発展をとおしてなだらかに社会主義に移行していく〔だから実践的には、ブルジョアジーとの階級協調でやっていくんだ〕という、カウツキーのインチキな「マルクス主義」とは根本的に違う。
  「死滅しつつある資本主義」と言い切れるのは、労働者階級は必ず革命に立ち上がるというマルクス主義者としての不動の信念があるからだ。帝国主義の矛盾の激化のなかから労働者階級の根源的な決起がまきおこる。体制内指導部なんかぶっ飛ばして絶対に労働組合を現場労働者のもとに奪い返す闘いに立ちあがる。この固い確信があったからこそ、「死滅しつつある資本主義」と言うことができたのだ。

(3)革命を実現してみせるという実践的立場こそ重要

 レーニンがこのように革命の時代認識、現実性をつかむことができたのは、資本、ブルジョアジーに対する激しい階級的怒りと、何がなんでもプロレタリア革命をやってやるという強烈な実践的立場があったからこそだ。
  レーニンとボルシェビキは、1905年革命後の反革命と反動の時期をのりこえ、1912年のプラハ協議会で労働組合やあらゆる合法的労働者団体のなかに党の細胞をつくり、革命の勝利を切り開いていく方針を打ちたてた。そして各地のボルシェビキ労働者細胞が、労働組合〔権力〕をめぐるメンシェビキなど体制内派との党派闘争をガンガンやりぬき、資本との闘いと団結を組織化する中心となっていった。こういう革命的実践の中に身をおいていたからこそ、『帝国主義論』を確立することができたのだ。プロレタリアートの革命性に対する無限の信頼と、革命をやってやるという実践的立場に立ちきっていたからこそ、情勢の核心をつかみ、真正面からプロレタリア世界革命を提起できたのだ。

●「資本家階級の権力をうち倒して、労働者の社会をつくろう」―『新版 甦る労働組合』 

 最後に、『新版 甦る労働組合』の一節を引用して、むすびにかえたい。
  「労働者が人間らしく幸せに暮らすためには、階級対立をなくして自らが支配者になる以外にない。つまり革命を起こす以外にない。資本主義体制はそのままで、労働条件の改善を積み重ねていったら労働者は幸せになれる、なんてことは絶対にない。これが階級的労働運動の根本的な考え方だ。
  …帝国主義の基本矛盾が世界恐慌と世界戦争として爆発していく時代に、『資本家階級の権力をうち倒して、労働者の社会をつくろう』という立場に立たない労働運動はどうなっていくか。資本に許容される範囲内で折り合いをつけていくことばかりに汲々とするわけだ。それは当然にも、資本・当局の先兵として現場労働者を徹底的に裏切っていくということだ。こうした勢力と激突して勝ち抜くことなくして、労働者の勝利はない。
  考えてみれば、資本主義社会においては、圧倒的多数は労働者階級であり、労働者を支配している資本家階級は圧倒的少数者だ。にもかかわらず、なぜ資本家階級の支配が成り立ってきたのか。労働者の階級的利害を本当に貫く者が主流派にならなければ、労働者の勝利はないのだ。ここが勝負の時だ。労働組合を甦らせること、この一点に労働者階級の未来がかかっている」(33〜34n)
  (了)

党学校通信 p9-15

討論から

●W

  塩川一派は、体制内派に転落しているし、プロレタリア世界革命に敵対する存在として登場している。たとえば三里塚にしがみついているみたいな面はあるんですけど、ではどういうふうに三里塚を彼らが「闘おう」としているかというと、農地死守の闘いではない、市民運動というんですか、小ブル的な反戦平和運動みたいな形で、全然違うものに変質させる、あるいは敵対する。そういう意味で、塩川一派批判が、『帝国主義論』を自分のものにしていくことにもなる、そういう実践的なものを感じて、理解が深まりました。

●P

 党学校というのは、ここに出て勝負するということが大事だなということを今日の後半の提起を聞いておもった。今の階級的労働運動路線の下で、とくに去年1年間、2・22の弁護団解任から始まって、超弩級のことをやり抜きながら今あらためて、今年の『前進』新年号の路線を実践していくという立場で、レーニン『帝国主義論』をどうつかんでいくのかということが、講師から出されたと思う。
  まさにレーニンの問題意識、あの当時の17年ロシア革命に向けて、12年プラグ協議会で大きな転換をかちとって、ロシアのボルシェビキの細胞が、今東京の各地区でやっているような闘いをやる中で、どうやってカウツキー派やメンシェビキをぶっ飛ばしてやっていくかということ。
  『共産党宣言』第1章の冒頭の「今までの歴史は階級闘争の歴史であった」という一言、これは全部終わらせるために言っているんだと、「革命をやるぞ」という宣言なんだというふうにやったじゃないですか。同じものを感じた、この「死滅しつつある資本主義」ということをどう見るかと。
  第10章「帝国主義の歴史的地位」とタイトルがついているけれども、その結論は、終わっているんだと、だから終わらせるんだ、主体的行為として、というふうに最後は締めくくられている。
  7章の帝国主義の定義ということについて、なるほどと思ったのは、これは「基本的な思想」だと言っている。だから、絶対に曖昧にできない階級的立場なんだ、つまり労働者階級の力で絶対に倒せるんだとなっている。
  それと、日和見主義との闘いについて、すごく激しい言葉でレーニンは言っている。「粛清」と言っている。死滅しつつある資本主義を前にして、今こそ世界革命の時代だというときに、これに、どんな理由であれ、敵対する輩とは、徹底的に「粛清する」関係であるというところまで問題を路線的に、理論的、思想的にハッキリさせようと言っている。
そういう時代だからこそ、党をめぐる問題。さっき言われていた帝国主義の時代に世界戦争が不可避だというのは、それ自体とればブルジョア思想だと。まったくそのとおりだと思う。恐慌があって、ブロック化されて、戦争に行くんだという、これは別にプロレタリアの思想じゃないんだと出された。これは、大事なことだ。
レーニン『帝国主義論』をもうひとつハッキリさせるという点で、すごく大事なことがだされた。あらためて勉強したいと思います。
  もうひとつ、「生きさせろ!」ゼネストということなんだけど、結局資本家は余計なんだと、俺たちが全部やれば、収入減ったって何とかできるんだ、だから、本当に生産全部を俺たちに任せろ、お前らいらないんだ、そうだ、というような論議になったんです。そういう現場の闘いをガンガン進めていくという点でも、レーニン『帝国主義論』の精神を読みとっていくことがカギだと思う。

●r

 やっぱり最後の方の「死滅しつつある資本主義」というところ。もうひとつは、体制内指導部、日和見主義的指導部打倒ということ、『帝国主義論』というのは、時代認識と路線ということを、ああいう形で出していたんだなと。
  『新版 甦る労働組合』で言えば、時代認識をきちんと持てと、その場合、4つのメルクマールなんだよ、と。帝国主義・資本主義という体制は、死滅しつつある、終わりが明確に始まったんだということを具体性をもって言っている。そういった意味で、今回、提起の中に『甦る労働組合』が豊富に出されているということも、非常によかったと思います。
  第2は、塩川一派。脱落してからわずか1年ちょっと。それでここまできたかとあらためてすごく感じた。要するに、「株式恐慌」はあるけど「直ちに全面的な経済恐慌に転落することにはならないんだ」と言っていて、せいぜい数年間にわたって景気後退ですね、それから、「世界革命の主体形成、国際共産主義運動の再構築をぬきにして、世界革命情勢と呼ぶことはできない」という、これは一体何なんだと。
  3番目、革命情勢の成熟が現実に展開しているときにこういう連中は必ず出てくる。カウツキーも、まさに第1次世界大戦の真っ只中ですよね。これは明らかに必然性がある。
  結論として、レーニンの死滅しつつある資本主義という認識、それと帝国主義を支えている主要な柱である、この日和見主義。この打倒にかかっているんだな、ということ。

●O

 今の意見、一部異論がある。もともと中身のあった人が変質したんじゃなくて、それまで党の理論や思想について曖昧にしてきている部分が、本当に厳しい選択が問われたときに、ガッと崩れて反動に転落したと僕は思っている。党が革命に向かって進んでいくためには理論が非常に重要であるということの、ある種逆の表現としては重要かなと。追随的にやってこられるうちはよかったけど、本当に革命情勢がやって来た瞬間に、やはり理論のなさ、組織的でない体質というのが暴露されたというところで、僕は受け止めています。そこだけちょっと、塩川一派については押さえておくべきではないか。
  その上で、労働貴族の問題。僕は今、県の非常勤で、月給13万9000円で、委員長を批判したら、なぜか当局から雇い止めをくらった。その委員長は、全労済の役員手当ても含めると月収100万。一月で僕の年収の半分以上を超えている。そういう連中が、監視の目を光らせて、組合の委員長を批判すると当局から解雇がくる。
  県職でさえ大体それくらいもらっているわけですから、トヨタの労組委員長なんて一体いくらもらっているんだ。そういうふうな連中が、帝国主義本国において、労働者の決起を押さえ込んでいる。この物質力ですよね。
  そういうことを、こういう『帝国主義論』の現実の中で、理論でちゃんと裏打ちして、つかんでいく。自分の地位を脅かされることに恐れおののいて、彼らは、「戦闘性」を発揮して突っ込んで来る。そういうダイナミックな過程として、「生きさせろ!」ゼネストは、帝国主義の労働者支配の本質に迫るんだなと、今日の話を聞きながら、そう感じました。

●G

 レーニン主義の厳しさというふうなイメージで日和見主義との闘争を見てきたところがある。最近わかったのは、厳しさというのは労働者階級への絶対的信頼と表裏一体だと思うんですよ。労働者を蔑視するような思想とか、労働者階級に社会を運営する能力がまだないとか、こういうようなものに対して、絶対に許さないということなんだなと、今回の学習で明らかにすることができた。
  いわゆる理論家でもいつでも腐敗は起こりうる。では、なぜ理論が腐敗するのか。やっぱり労働者階級への絶対的信頼が揺らいだときに、ブルジョアの思想というものに乗っかって行きたくなるということじゃないのか。
  イソップの言葉ということの意味なんですが、労働者階級の闘いがここにあるんだと書くことが、多分一番弾圧されることではなかったかと。死滅しつつある資本主義というのは、表裏一体で資本主義を死滅させつつある労働者階級というものがあって、そこが復権されたときに、『帝国主義論』の復権というふうになる。 つねに労働者階級への絶対的信頼、それを理論としたものがマルクス主義だと思っています。
  絶対的信頼というのは宗教と違う。つい先日、ストライキ現場での体験。職制は、ストライキをやっている人たちは邪魔ですからどいて下さいと言うんだけど、お前が邪魔なんだ。まさしく労働者を邪魔し、分断するためだけに管理職なんかいると。これがあらゆる人の目の前に明らかになる。労働者・学生には力がある、それを弾圧している奴こそ社会の邪魔なのだということを明らかにするというのがストライキで、だからストライキを闘うということは、労働者階級の絶対的信頼を保証する。そういうことが全部つながってくるんだなと思うんです。

●e

 帝国主義は世界革命の時代である。レーニンは、この結論を導くために理論化した。そしてカウツキーを暴ききった。レーニン『帝国主義論』は、労働者階級を地獄への道に引き込んでいく日和見主義、社会排外主義、その最悪の形態であるカウツキー主義に対する徹底的な党派闘争の書である。同じことを僕も感じているんですけど、そこのとらえ返しというか、現実的にそこでつかんできたことが、今の党に、われわれの中にみなぎっていると思っている。
  塩川一派には、労働者階級にたいして呼びかける言葉が、まったくない。この時代、基軸帝国主義国のアメリカで金利がゼロということ自体、もう資本主義が終わっている。そのことを、われわれは直接労働者階級に呼びかけなきゃ、俺たちが握るんだということでしょ。・・・だが奴らは、とどめを刺す存在としての労働者階級に呼びかけないで、支配階級にこびを売っている、本当に許せない。

●d

 『社会主義と戦争』で書かれている「日和見派を粛清する過程」、ここの所はちょっと読み飛ばしてましたね。逆に言えば、体制内派からすれば、われわれは間違いなく粛清の対象なんだということをあらためて実感しました。確かに4者・4団体派とか見ると、権力にわざわざ通報してわれわれを売り渡そうとするわ、集会場の入口で検問して売り渡そうとするわ、国労大会の会場にはデカを引き込んでパクらせようとするわ、やってきますよね。
  ホンダの下請け会社でストライキがあり、ビラまきに行ったんです。正社員組合の幹部が、ゴミ袋を持ってビラを受けとった人から回収する。他の会社のビラまきもそうです。要するに、われわれの主張が労働者の中に浸透すれば、奴らの支配というのは非常にもろいということを実感しましたね。少なくとも、奴らはそういうふうに自覚している。
  もう一つトヨタの孫請け会社では、最初にビラまきを始めた頃には、ゴミ袋を持って回収していたけど、最近は無対応。先日ついに会社の構内で、こちらの組合のビラまきを開始した。そうすると、第2組合の幹部が何も言わずに通り過ぎていく。いわゆるユニオン・ショップ、正社員であればこの組合に入らなければいけないという会社と労組との協定ですよね。クローズド・ショップとも言うんですけど。それを大きく食い破る運動をついに始めることができました。
  最近の日本経団連の経労委報告の、労使一丸という言葉を聞いて、ハッキリ言って勝ったと思いました。資本の側は、労使一丸にならなければ、持ちこたえられないというふうに自覚して言ってきている。僕らは、そこに分岐を入れていって、一丸にしなければ勝ちだというふうに思いました。

●N

 この『帝国主義論』学習会の全体を通して、率直に言ってかなり大胆な展開をやったなと。自分としては、いやーそのとおりだな、大成功したなというふうに、思いました。
  イソップの言葉云々と言われているのも、結局は、「帝国主義とプロレタリア革命」ということなわけでしょ。つまり、ボルシェビキの方針が、レーニン的に言えば戦術、これが直接は書けない。その「帝国主義とプロレタリア革命」という内容を、現代的に全面的に描ききろうという問題意識で今日の提起がなされたと思うんです。
  とりわけ今回の後半の7、8、9、10章というのは、要するに時代認識を鮮明にさせた上で、結局、帝国主義の矛盾の爆発をプロレタリア革命に転化するためには、労働組合を体制内から奪い返して、革命的な労働者階級の武器として徹底的に甦らせる必要がある、ここのところを徹底的にハッキリさせなくちゃならない。これをそういう角度からハッキリさせるということと、10章は、要するに、社会主義に向かっての過渡である、最後の段階である、資本主義は終わったと。そのときに労働者階級が社会の主人公であり、団結して闘いぬくならば絶対にこの社会を変革する力を持っているということを完全に言い切ると、これで『帝国主義論』は、「帝国主義とプロレタリア革命」という形で完結する。柴田同志が完全にそういう問題意識をもって出しきったなというふうに思った。
  だから、帝国主義の5つの指標なんていうんでわかったような気になってはいけない。それは重要な定義だけども要するに、帝国主義と労働運動の中の2つの潮流ということをめぐる、ロシアの現実で言えば、要するにメンシェビキからボルシェビキが労働組合権力を奪い返していく、激しい激烈な攻防の渦中なわけでしょ。もっと言えば、ドイツにおいては、革命的オプロイテが、要するに金属労働者組合を中心にして、ランク・アンド・ファイル運動を挑んでいくということはあるけれども、結局最後は、党と労働組合の関係において勝利することができなかった。つまり党と結合することができなかった、党の側もそれを拒否するし、組合の側も党を拒否するという形でもって、党と労働組合を解決できなかった。そこに革命に勝利できるかどうかの大きな分岐点がある。
  だから、はじめ柴田同志が問題意識の3つ目で党と労働組合の問題ということだしたでしょ。その問題意識を貫くというのは、この『帝国主義論』を、本当に現代革命の決定的な武器として復権していくという点で、労働組合問題それだけでもダメなんだよね、そこのところは。本当に党と労働組合が一体化するという、そこのところに勝利し抜いたときに、ロシア革命の勝利もあったし、帝国主義を資本主義の最後の段階として革命的にぶっ倒すことができると思うんです。
  だから、その点は今後のテーマとしてはあると思うんですけど、問題意識はものすごくわかった。だから、『帝国主義論』を労働者を対象にして学習をやっていくといった時に、そういう内容で現代的にやっていく。ある種章立てをあらためてやっていく。今日の柴田同志の提起で言えば、それぞれの目次が全部現代的に考えられているというか、鮮明になった。非常によかったです。

●P

 死滅しつつある資本主義論の裏側には労働者階級にたいする限りない信頼があるんだ、これは積極的に確認したい。
  もう一つ、『新版 甦る労働組合』がなぜこう響いてくるのかという問題。今日の提起の中でも出てくるんだけど、もともと僕なんかは、『帝国主義論』を「帝国主義戦争の不可避性」を証明する本として読んでいたわけ、率直に言って。だから、それも今の〈大恐慌→革命〉という問題など、整理しなきゃいけない問題がある。ただ今日言われていた、帝国主義の時代の戦争というのは、どう向かうのかということはその当時は常識だった、要するに「バーゼル宣言」があるじゃないかという。問題は、現実にそれが問題になった時にどうするのか、というのが問われたんだと。これ、すごく大事な問題ですよね。国鉄労働運動は、反合理化とみんな言っていたわけだよ、カクマルも含めて全部。実際に起きたときにどうするかが問われたわけですよ。で、やれたのは動労千葉しかいない。
  あの当時、ヨーロッパの今までのマルクス主義者がバンバン裏切っている時に、レーニンとボルシェビキのみ立った闘いと、動労千葉が国鉄分割・民営化の時にぶつかった問題と共通している。だから、『新版 甦る労働組合』が生きてくる。僕は、今日の提起を聞いて、ますます確信を持った。
  そのことを『新版 甦る労働組合』はどう言っているかと言うと、国鉄分割・民営化で起きた問題というのは、55年体制の崩壊の問題なんですよ。僕らもあえて言えば55年体制の一番左。その問題がある。そこのところを本当に突破していくという主体的な闘いを、今の階級的労働運動の中で闘っていくということがテーマだと思う。
  さっきの話に戻ると、レーニンが当時ぶつかった、それを突破した問題と、動労千葉がぶつかった問題を、本当にあらためて党としてもう一回据え直して突破していくというときに、本当に〈恐慌→革命〉という関係は行くんだ、そこをすごく感じた。

●a

 今度の後半を聞いてて、やっぱり体制内派、つまり日和見主義者との闘いのために、この『帝国主義論』を書いたというのを強く感じました。
  そういう意味では、方針でもあり、時代認識なんだ。そういう中で、やっぱり労働組合の中で権力を握っていくんだという、そこで体制内派と闘う、あるいは日和見主義と闘うという、その現実のベースで書いていると。そこをつかんじゃえば、あとは問題は、本当に革命をやろうという方が、どれだけ体制内とぶつかって職場支配権を握れるか。それが革命に勝利することだということがハッキリしたと思うんです。そういう意味では、戦争に入っていく過程というのは大不況にあるわけですよ。そういう中での闘いということだと思うんです。それとの闘いに勝利したときにはじめて、大恐慌から革命に転化できるということ、これが革命に勝利する環じゃないかなと感じました。

●講師

 提起は結構苦労したんです。帝国主義戦争の不可避性、帝国主義の不均等発展が帝国主義戦争を必然化する、自分もそうやってきた、それを、今の時代の中でそのことだけを確認しててもしょうがないということ。そこをもうひとつハッキリ突き抜けて、やっぱり資本主義の終わりだということをハッキリさせたかった。
  レーニンも、単に戦争が不可避ということを言っているんじゃなくて、すでに戦争に突入しているこの帝国主義とは資本主義の終わりなんだということをハッキリ自覚して、そのことを明確にした、一分の揺らぎもなく。そこを今回明確にできて問題はスッキリしたなということと、やっぱり問題になっていたのは、本当にその時代の中で、労働者階級に向けて真正面から世界革命を呼びかけて、その実践をやるのかどうかということだった。カウツキーをぶっ叩くということもあるんだけど、ドイツの社会民主党内部の反対派にたいして、決断しろと突きつけた。『社会主義と戦争』の中でも、最大の焦点はドイツ社会民主党内の反対派なんだと、そこにみんな注目しているんだと言っている。でも、最後までそれがいかなかったということは決定的に大きいなと。ロシア革命がどこで勝利して、どこで血の海に沈められるのか、その最大の、最後の最後のところはやっぱりそこだと、日和見主義と完全に手を切って、こいつらを打倒するというところにおける、そこにおける日和見主義というと変ですけど、完全にそうなんだなと。
  それとの関連で、11・2の地平というのは決定的だ、ここに勝利の大展望があると思うんです。
  これから起きることは、帝国主義は、ひたすら沈んで息止まるまでひたすら矛盾を激化させていく。その中で、本当に息の根を止める。何が起きてもおかしくはない、と多くの人が言っていますけど、たじろぎを突き抜けて飛躍するということですよね。
4者・4団体と動労千葉派が、何でここまでほとんど非和解に激突してやっているのかというのは、そこに核心があると思ってる。何が起きてもおかしくはないのは、まさに4大産別なんですよ。敵は敵でやってくる、道州制で。どこにも展望がなくてそこでくる以上、ここでわれわれにも、もうひとつの飛躍が突きつけられている。思い切って今のこの路線で、大胆に職場に登場して、闘いを組織すると同時に、やっぱり青年労働者を組織する、マル青労同を組織する。それは、やれる。
  今までのわれわれの中での常識を大胆にひっくり返すようなプロセスがこの過程あったし、これからもあるでしょう。そういうことで言うと長くやっている人ほどそういうのってあるんじゃないかな。今回「不可避性論」を確認するだけじゃ意味がないみたいなことまで踏み込んだけど、この辺は、もっと激論になってもいいでしょう。
  あと、塩川一派批判をやったのは、これを延々やる必要もないですけど、日本共産党や連合の考えていることに通底するものが全部孕まれている、根っこにおける問題をわかりやすく出しているからです。 

党学校通信 p16-24 受講レポート

受講レポートから ★レーニン『帝国主義論』(下)のレポートです。

【K】

 非常に刺激的な提起であり、討論であった。我々のこの間の転換と飛躍の核心をしっかり踏まえた『帝国主義論』の展開がなされたと思います。
  もっともショックを受けたのは「『恐慌→ブロック化→世界戦争』を平板にとらえると、100%ブルジョア思想になる」という提起でした。【たしかにこういう類の「解説」は、ブル新の解説や『エコノミスト』にもある】。こういう時代認識はこれまでの革共同のものであり、私のものでした。(そう私は思って来ました。)「侵略を内乱へ」という総路線も、そういう時代認識のもとで、うち出されてきたと思います。
  前回の提起を通して、『帝国主義論』の核心は、単に「戦争の不可避性」を論証しているだけではなく、「世界革命の不可避性」をも明確に提起している点にあることを自分としては、学んだつもりでいたのですが、それだけではいまだまったく不十分だったということです。
  『帝国主義論』の核心は、マルクス主義の核心であり、それは労働者階級への限りない信頼、労働者は必ず革命に決起するんだという、不動の確信と「資本主義は終わりだ」という時代認識に立ち切って、職場・生産点で革命に向かって労働者の組織化――職場闘争の実践につぐ実践をたたかいとっていこうという、宣言であり、アピールだと思いました。とりわけ、帝国主義の最後の救済者として登場する体制内派、日和見主義・排外主義者との党派闘争が実践的には決定的だということも、あらためて、強烈に確認することができました。
  塩川一派、平田派のこの間のとめどもない体制内派、反革命への転落を考えると、この党学校で自己のあり方を再点検し、古い自己からの転換と飛躍をさらに勝ちとっていきたい。

【p】

 @大昔、本多同志・野島同志からうけた『帝国主義論』の学習会とどう違い、どう深化してきているのか、という問題意識で聞いた。
A独占(独占体)のとらえ方、第1章+第7章+金融独占(腐朽性)=現在の金融危機についての経済的アプローチが必要。独占→金利生活者国家−異常な膨張。
B分割・再分割→戦争(帝国主義戦争と革命論)と金融大恐慌革命論(?)をあまり区別しない方がよい。現在の金融危機は、必ず通貨問題にいたり、常に戦争の危機はある。
C塩川一派批判は、対象的に理解する一手段だが、(従って内的には必要だが、)彼らに一定の見識があるわけではない。かまってほしいだけ、あー言えばこういう式に論を語るだろう。結局、塩川一派は、「労働代官」のひとつとして、自分たちを認めてくれというベクトルに純化する。社民との統一戦線(にすらならないが)の方が主な動機である。
D独占資本主義→腐朽する資本主義→死滅する資本主義の論理の弁証法をもっと聞きたかった。

【H】

 1.『帝国主義論』の学習は、これまで、独占と金融寡頭制による世界の分割、帝国主義戦争の不可避性ととらえて、帝国主義はブロック化し、その再分割を求めて、第3次世界大戦は起こるのだと、我々は、第2インターナショナル「バーゼル宣言」のように「侵略を内乱へ」転化するために闘う。そう闘わなかったカウツキーはナンセンスだというレベルにとどまっていたと思う。今回の学習では、いったんすべてひっくり返し、現在の実践に直接に結びつく内容が出されてすごくよかったと思う。特に、レーニンが何故あれ程カウツキーを批判したのか、その現代的意義は何かということについて鮮明に提起された。塩川一派の論文批判もかなり踏み込んだものになっていて、彼らが労働者が決起することや革命に恐怖するが故に、「大恐慌ではない。資本主義は危機をのりこえる。革命の主体が未形成だ」と叫んでいることが明確になった。
2.もう一つの感想は、体制内労働運動との対決ということです。体制内組合の中で役員をしている自分にとって、一つの決断を迫るものになった。「労働運動の力で革命をやろう」以来、ずっと続いているモヤモヤに一つの結論を出そうという気になりました。体制内での色々なしがらみがあるが、現場組合員を信じきって、組合役員選挙に対立候補として立候補しようと思います。明日から仲間に決意を語り、団結していこうと思います。

【T】

 今回、マル青労同・マル学同1000人建設の武器として、『帝国主義論』を圧倒的に復権されたと思います。討論の中で、労働者の口から次々と、「資本や職制の方こそじゃまなんだ! おれたちに権力よこせ!」という言葉が語られているのは本当に決定的な事だし、そこでこそ労働者は団結できるのだと講師や、動労千葉顧問の中野洋さんも提起している通りだと思います。
  本当に、社会の中に荒廃が広がっている。大学でもビラまき禁止・回収や監視カメラの支配。そういう中で中央大学の刺殺事件、東京理科大の連続放火事件、学生の大麻事件etc.…が起きている。「秋葉原情勢」は大学の中に激しく存在し、爆発している。
  この荒廃の中から唯一、労働者・学生の団結のみが、社会をまともに動かす「秩序」として登場しようとしているのが、今の事態だと思う。労働者が団結し、社会の主人公に!
  塩川一派批判は、「どこまで続くんだ?」と思ったぐらい徹底的にやっていたが、重要。労働運動をめぐる党派闘争として、徹底的にぶっつぶしましょう。奴らと連合などの体制内派を串刺しにしていきましょう。

【q】

 『帝国主義論』を今回のようにまとまった形で受講したのははじめてです。
  今まで、自分の帝国主義論の理解や問題意識をガラッと変える内容でした。塩川一派の帝国主義論(レーニン)の解体の中身については、“ついにここまできたか”という感じです。プロレタリア革命への信念もなく、4者・4団体派(体制内派)の先兵として生き残ろうというさもしい姿があるだけだ。現代のカウツキーとしての塩川一派、まさに最悪の反革命でしかない。大恐慌下でどんどん腐っていく。本当に打倒しよう。
  レーニンの『帝国主義論』をどう読むのかということでは、帝国主義に対置すべきは「政策」ではなく、革命だということ。このことが最初に捉えられていること。帝国主義の「五つの基本的標識」もレーニンの強烈な革命への信念、思想としてとらえていく、という討論は実に新鮮でした。
  10章の帝国主義の歴史的地位、“死滅する資本主義”――矛盾の激化こそ「革命のもっとも強力な推進力」という提起は重要だと思いました。大恐慌下で、帝国主義の矛盾は先鋭化する。こういう時代こそ、労働者階級は革命的に決起してくる。レーニンは、このことに不動の確信をもっていた。今、われわれの目の前で起こっていることも、同じことだ。
  このマルクス主義の核心をはっきりさせ、労働者が団結すればどんな困難も打ち破って勝利できる、ここに確信をもつことだと思う。

【d】

 「われわれのあたえた帝国主義の定義のなかに表現されている基本的な思想」、すなわち、帝国主義・資本主義の「改良」や「救済」ではなく、プロレタリア革命による打倒、という核心が正面から提起されていた、と感じる。『第2インターナショナルの崩壊』や『社会主義と戦争』による補足も充分で、自分が地区労働学校等で主催者の立場になったときには、ぜひ参考にしたい。
  この間強調されている「大恐慌→ブロック化→世界戦争」という時代認識を平板に語ると、労働者階級の時代認識とは別物のブルジョア的なものになる、という内容もあらためて確認できた。何よりも上記の「時代認識」には、社会の主人公としての労働者階級の存在が欠落している。プロレタリア世界革命への決意と実践が蒸発した客観主義でしかない。スターリン主義や社会民主主義の体制内派への敗北の結果として、世界戦争に至ったのだ。
  体制内派を打倒・一掃して、そのもとにある労働者と合流していく闘いは、まだ始まったばかりだ。しかし、いざ体制内派と激突すると、資本・権力をバックにした凶暴性とともに、その「思いがけないほどの」脆弱性も必ず確認できるはずだと実感している。
  「生きさせろ」ゼネストの爆発へ、職場闘争のあくなき実践を続けよう。

【E】

 昨年のマル学同合宿での『帝国主義論』で、党派闘争の重要性から帝国主義論を位置づける、と提起されたわけですが、この08年の塩川一派や4者・4団体派との闘いのなかで、『帝国主義論』の実践的位置づけがより深まったと思う。
  獄中で、『一歩前進、二歩後退』など読んで、レーニンの労働者階級の革命性への圧倒的確信・信頼を実感しましたが、『帝国主義論』もそうした観点に貫かれて、体制内派などの屈服や幻想からの徹底した決別、プロレタリア独裁の現実性として書かれているのだと思いました。
  N同志の、「党と組合」の関係からの『帝国主義論』の見方は、4者・4団体派など、とりわけ平田派が「革命運動と労働運動は違う」という形で、労働運動自体を解体していくこととの対決が、09年の対決軸となっているなかで、もっと自分のものにしていかなければと思いました。

【P】

 1)党学校は、直接提起を聞き、同志と討論し、自分の問題意識をもっとはっきりさせていく、あらためてのことですが重要な事として再確認したいと思います。特に今回の学校では、強く感じました。(かなり自分の問題意識が討論によって整理された)
2)その上で、冒頭、講師が提起した3つの点、@レーニンの問題意識とわれわれの今の問題意識との同一性、A労働者観、プロレタリア革命観に関する問題、B党と労働組合の問題。何より賃労働と資本の激突の場で、激突の最火点に立って全てをすえていく問題(これは自分の整理ですが)は、今回の提起を貫く、かなり重要な点だと思いました。
3)中身について、これは討論でも出したとおり、「帝国主義論」と「帝国主義とプロレタリア革命」の問題として完全にすえること、この点で、7章、8章、9章、10章をはっきりさせたとき、1章〜6章での帝国主義の定義もより明確になる。その核心が、「死滅しつつある資本主義」=すでに終わっており、プロレタリアの階級的実践でこれにトドメをさしていく、そういう宣言として(“『共産党宣言』の復活”の核心問題はこの点と思います)、『帝国主義論』をわれわれの武器に完全にしていくということだと思います。
4)特に自分などは、「帝国主義戦争の不可避性」を論証したものとして、その点を強調してこれまで読んできたと思います。それと今、われわれが真正面から打ち出している「世界大恐慌を世界革命に転じていく」問題をどうすえ直すのかということがありますが、しかしこれも単なる理論上の問題ではなく、まさに帝国主義・資本主義の終わりの時代の始まりに、社会の主人公としてのプロレタリアートは何をもって闘い、何を目指すのか、これとの関係で、4者・4団体問題は外在的なことなのか、ここを絶対に曖昧にせず、はっきりさせきる中に、その整理も回答もあるのだと思います。
5)その中にまた、第6回大会で規定した“帝国主義論”(帝国主義論・帝国主義世界戦争論)の今日的深化が、豊かなものとしてあるように思います。(ここの所はまだ全く、自分の中でもはっきりこうとは言えない。)
  またそれは、これは討論の中でも触れたとおり、何故『新版 甦る労働組合』が、レーニン『帝国主義論』の提起と重なってわれわれにグイグイ迫ってくるのか、ということをもっと徹底的にはっきりさせていくことも、つながる作業のように思います。これは自分でもっと徹底的に考えてみます。
6)総じて、今日の提起、講師は苦労したと言っていましたが、大成功と思います。

【r】

 やはり、討論の中でも述べましたが、革命情勢の現実性が生き生きと展開されるその時に、それを必死で否定する勢力が必ず登場するのだなと、あらためて確認しました。
  とりわけカウツキーは、マルクス・エンゲルスの直弟子であり、第2インター・ドイツ社民の代表的理論家です。それが、帝国主義が2大陣営に分かれて相戦っているまさにその時に、「超帝国主義もありうる」などと得々とお説教するとは!
  レーニンの落胆と失望、そして怒りはいかばかりだったかと思います。しかし、彼のすぐれているところは、カウツキー主義や体制内勢力の登場には物質的基盤があることを見抜き、そればかりか、それが革命の成否を決める決定的問題であると言い切り、かつ焦眉の課題として押し出したことです。帝国主義段階に普遍的な問題として押し出し、だからこそ日本のわれわれも、この闘いに確信をもてるということです。
  それにしても、レーニンと比べてみても、われわれが世界大恐慌――世界革命情勢の成熟の中で、日韓米国際連帯・労働者インターナショナルをもっていることは、じつに偉大な世界史的・階級的地平だと思います。
  帝国主義論のこのような把握・理解を国際的に押し出していきましょう。

【a】

 『帝国主義論』の前半において、独占論が帝国主義段階の軸になっていることがわかった。それが今の現実になっていることが、鮮明になっていった。
  後半においては、カウツキー主義を批判するかたちで、日和見主義とのたたかいが、革命の現実を引きよせることがハッキリした。
  労働者階級への絶対的信頼の中で、4者・4団体とのたたかいを通して、労働者を組織していく。まさに、階級的労働運動をやりきることが、労働運動を再編させ、革命の近道である。

【t】

 『帝国主義論』を、労働者階級の時代認識と路線、それをめぐる党派闘争の実践の書として新鮮に読んだ。はっきりさせるべきは、資本主義が終わりだ!と1ミリの揺らぎもなくはっきりさせ、今こそ労働者階級が権力をとろう、とれる、と真っ向から訴える熱烈なパトスだ。
  そして、資本主義への救済者となって、労働者をおとしめ、闘いをゆがめる体制内に対する容赦ない打倒闘争が決定的だということ。討論であったように、体制内への「粛清」とまで言い切っているのは、労働者階級にたいする無限の信頼だということがわかった。ここがマルクス主義の核心だと思った。
  金融大恐慌情勢は、資本主義が始まって以来の、そして「終わり」である以上、これまでのあり方、曖昧なものは全て体制内的なものになってしまう。激しい情勢だからこそ、時代認識と路線でゴリゴリに登場することにかけたい。今までのあり方では通用しない。一方で情勢に空気入りまくって、自分を変えることにためらいを持たずに突っ込む勇気が問われていると痛感している。職場を労働者がにぎれる情勢だと確信をもって、現場で勝負する!

【h】

 『帝国主義論』を真正面から真剣にノートをとって読んだのが今から18年前(91年3月)のことで、それ以来読んでなかった。やっぱり面倒くさい本だからでした。初めて読んだ時は、やはり自分のやっていた反戦運動などが正しいと、思った記憶があります。ちょうど湾岸戦争が始まった直後だったので、やはりその読み方は「帝国主義戦争の不可避性」の確認だったのだと思います。
  今回の学習会で、「帝国主義は戦争になるというだけではブルジョア・イデオロギーだ」と言っていたのには、「ええ〜っ」て感じですが、革命の時代の到来に革命党として主体的・実践的に何をするのか、何を準備するのかという、革命党の問題として考えた時に、全くもって納得しました。その点で、日和見主義者との対決が今日的にも意味をもってとらえられる。
  さらに討論で、イソップの言葉について、単なる検閲があって大変な時代に書かれたというエピソード程度に見てきたことも反省的にとらえ返しています。帝国主義とプロレタリア革命の書として、労働者階級の激しい実践の闘いへの書として現代的にとらえ返して復権する必要があると思いました。

【N】

 『帝国主義論』の今回の提起全体を通して、かなり大胆に、現在的問題意識から、〈帝国主義とプロレタリア革命〉というテーマとして、すぐれた問題意識をもって構成されたと感銘を受けました。例えば、労働者の中での学習会においては、こういう提起が必要だなと思いました。
  レーニン自身、『帝国主義論』を、〈帝国主義とプロレタリア革命〉というテーマそのものとして書いている。「イソップの言葉」と言っているのは、「戦術・方針は直接書けない(その前提となる労働者階級の闘いについても)」ということで、われわれは、その問題意識をくみ取って、現代に復権させていかねばならない。
  今回、講師から問題意識として、@生きさせろ!ゼネストをめぐる党派闘争、A労働者階級にたいする見方、B党と労働組合の関係――の3点をもって、第7〜第10章をまとめたことが話されたが、完全にピッタリきたと思います。
  やはり、レーニンが問題としていることは、労働者階級の時代認識をはっきりさせること(理論的にも)、労働者階級の階級意識をくもらせ、日和見主義へ導くカウツキー主義(ロシアのメンシェビキ)と徹底的に対決して、労働組合権力をボルシェビキ派が奪取すること、それはドイツにあっては、社会民主党左派が日和見主義と完全に決別し、労働組合(最大最強の労働者部隊)を革命派がにぎりしめること――という明確な戦略目標があって、出していると思う。
  くり返しになるが、そういう意味で今回、講師も「苦労した」と言っているが、レーニンの実践的問題意識と、われわれの階級的労働運動路線に基づく09年決戦の実践的観点から『帝国主義論』をまとめることが極めて重要であって、今回、それは大きくは成功したと思います。非常に勉強になったし、問題意識も喚起されました。自分としても、取り組んでみようと思っています。

【W】

 今、われわれが「生きさせろ!ゼネスト」1〜4月決戦の渦中――まさに闘いの地歩が開始されたが、「資本主義の救済か革命か」の分岐・激突の時代に突入しており、そういう党派闘争を断固進めなければならないが、カウツキーへの徹底した批判によって、よく理解できた。現在に通じる普遍的課題なんだ、とまさに実感した。
  とりわけレーニン『帝国主義論』を歪曲・解体する塩川一派のところで展開されている内容について、レーニンが言わんとしていることが、具体的に現在的にイメージできたし、現在的な実践としての党派闘争、塩川一派の打倒の必要性をあらためて感じた。
  塩川一派曰く、「世界革命への主体形成、国際共産主義運動の再構築をぬきにして、世界革命情勢と呼ぶことはできない」「江戸時代にもサブプライム問題のようなことはあった」という反マルクス主義。
  結局、労働者階級とプロレタリア世界革命の間に「万里の長城」を築いているのだ。
  帝国主義=資本主義の時代は終わった。「100年に1度の危機」以上に、300年の終焉だ。「労働者が社会の主人公」の時代と確信をえた。

【A】

 帝国主義の時代とは、プロレタリア世界革命の時代なのだ。つまり、革命のチャンスということである。労働者階級にたいする絶対的信頼をなくさない限り、大恐慌情勢を革命に転化できる。
  レーニンが『帝国主義論』でハッキリさせたかったのは、そういう情勢において、労働組合の問題である。資本家階級は、圧倒的少数者であるが故に、いつも(永遠に)、圧倒的多数者の労働者階級が団結することへの恐怖におそれ、おののいている。あらゆる手を使って、分断することを追い求める。体制内労働運動は、買収された資本家の政治的分遣隊であり、労働運動における資本家の手先でしかない。しかし、もうそういう時代は終わった。それは、資本家が労働者を食わすことができなくなったからだ。
  派遣切りにあった労働者たちと出会った。彼らは「救済の対象」ではない。あくまでも革命の主体なのだ。手の中に「絶望」しかなかった青年たちが、階級的労働運動路線を手にして立ち上がり始めた。ここに展望がある。

【L】

 「大恐慌→ブロック化→世界戦争」という時代認識は単にそのままでは100%ブルジョア思想であって、労働者階級の時代認識とはまったく別物である、という提起は、この間の〈戦後革命ではなく〉〈大恐慌をプロレタリア世界革命へ〉と通じる革命的提起であると思いますが、ハッとさせられるものがありました。
  そこまでハッキリさせることが、ブルジョアジーの言う“100年に1度”ではなく“資本主義300年の終わり”として資本主義・帝国主義に後はない――今こそ革命を、ということ。
  プロレタリアートを革命の主体としてとらえるのか、救済の対象としてしかみないのかは、革命の成否を決する根本問題であることが、より一層鮮明になった。現実にプロレタリアートがストライキ、デモ、暴動という形で決起している(革命情勢が目の前にある)のに、ここに革命の展望を見ないで“絶望”を感じる日和見主義・反革命を踏みしだいて今こそ世界革命を。
  この間言われている時代認識ということの重要性がよりはっきりしました。

【S】

 私は、今回講師がくり返し提起された、日和見主義者への批判と打倒こそが帝国主義を打倒すること。そのために絶対に必要な思想と課題であることを学びました。
  「労働組合と党」の実践的な論を激しく問い、闘い取ろうとする書である、現代に生きる論として書かれていることを学びました。
  日和見主義者とその運動は反革命であると断罪しつくし、粉砕してはじめて、帝国主義を「終わらせる」ことができる。
  資本主義、帝国主義とは何か?ではなく、これを真の社会の主体である労働者が団結し、組合と党を武器に「生きさせろ」のたたかいに勝利する、できる、やろう、やる。これが、レーニンの『帝国主義論』を学ぶことであると思います。

【X】

 (一)『帝国主義論』後半は、前半以上に、『第2インターナショナルの崩壊』『社会主義と戦争』や『新版 甦る労働組合』と一体化して、日和見主義(塩川一派と日本共産党)批判が提起されたことは、正解であり、鮮明であり、何よりも実践的な提起であったと思います。今回、冒頭のレジュメにない3点もしかりです。
(二)資本主義は終わりだ、資本の賃労働への階級支配の廃絶だ、労働者階級はプロレタリア革命をやる力がある、つまり革命をやろうを軸にすえない限り、すべて体制内に転落し、ブルジョアジーの救済者に転落することが核心だと、改めてつかみました。

【G】

 レーニンの「厳しさ」は、「労働者階級への絶対的信頼」と表裏一体である。この信頼がゆらいだときに、理論的にも、実践的にも裏切ることになる。
  労働貴族は、自分が腐敗しているからこそ、労働者を信頼できないから、ブルジョア思想の切り貼りで、自分の転向を美化しようとする。
  ストライキは、「労働者階級への絶対的信頼」を一瞬にしてつくり出すことができる。労働者こそ現場を回しており、社会を回せる。「資本家がまわす社会」はもう完全に終わっている。一方で、それを終わらせる労働者階級が登場している。
  「体制内」をぶっ飛ばすことに革命の成否がかかっている。
  闘いの中で、労働者階級への信頼、誇りを取りもどしていきたい。
  それができる指導部であるかどうか、重大な責任があると身を引きしめた。

【e】

 前回に続き、「帝国主義はプロレタリア世界革命の時代である」というレーニン帝国主義論の結論が鋭く提起されきったと思います。
  レーニン『帝国主義論』は、革命を放棄してブルジョア政府の戦争に協力し、労働者階級を地獄への道に引き込んでいる日和見主義、社会排外主義、その最悪の形態であるカウツキー主義に対する徹底的な党派闘争の書であるというとらえ返しが、今の我々にはみなぎっているということでしょう。
  塩川一派の主張と体質の核心は、資本の力と体制内労働運動に依拠しなければ、労働者階級を組織できないとするものだと私なりに見切ってきましたが、もっと鋭く彼らの転向・裏切りはすすんでいることが、彼らの「純粋理論」としてわかりました。
  我々が「資本主義が終わっている」というのは、純粋理論としても終わっている、破綻しているということではないか。米帝での金利ゼロの長期化というのは、そういうことだと思う。このことを、塩川一派は、ごまかし、ひっくり返し、それこそ「世界革命と労働者階級との間に万里の長城を築く」ことを自己の反革命的党派性としているのだ。
  そこには、資本主義にとどめを刺し、新しい社会を建設する主体としてのプロレタリアートに呼びかける言葉が空無だ。ブルジョア的なもの、体制内的なものにしか依拠できないみすぼらしさ…。これは、現実の労働者階級がプロレタリア革命と結びつき始めていることで粉砕が始まっているが、論戦に勝つというだけでなく、レーニンがそうであったように、ゼネスト−ソビエト建設−プロ独樹立へと突き進もう。
  労働者階級への絶対的な信頼がなくなったときに、カウツキーと塩川一派の転落は共通しているのだから…。

【O】

 『帝国主義論』にカウツキー関係の論文を組み合わせて、今日的な体制内労働運動批判の提起として、とても実践的なものだったと思います。
  塩川一派批判については(接する機会がないこともあり)大変ためになりました。
  今回の『帝国主義論』学習会を糧にして、職場・地域で体制内派打倒の闘いを進めたいと思います。

【g】

 レーニンの時代認識の基底に労働者階級への無限の信頼があること、それは動労千葉労働運動にも貫かれている共通のものだ、ということがハッキリとつかめた。
  あらゆる体制内勢力の立場は、「資本主義の救済」ということに尽きる。しかも資本主義が最後の崩壊に直面している時にこそ、その本音がむき出しの形で表れるのである。同時にそれは労働者階級の力を根底のところで信頼していないということである。「労働者の救済」思想であり、これは「資本主義の救済」としての本質と一体のものである。中野さんが「労働者を軽んじ、蔑視する考えにとりこまれないかぎり労働者は必ず勝てる」と言い切っている根拠こそまさに時代認識であり、労働者への無限の信頼ということだと思う。レーニンが「日和見主義は数十年の長きにわたってある一国の労働運動における完全な勝利者となることはできない」と言い切っていることと完全に通じるものだとおもう。
  さらに、単に<大恐慌→ブロック化→世界戦争>というのは100%ブルジョアの思想であるという規定は決定的だ。これまでわれわれ自身の中にもあったこの体制内的あいまいさと決別し、大恐慌に対して真っ向から革命を対置し、体制内勢力との党派闘争を価値創造的に闘い抜くことだと思う。そのための武器が『帝国主義論』の中にあることをハッキリつかめた。

【F】

 レーニン『帝国主義論』の基軸・土台は「世界戦争に行き着く独占論」として書かれている。『帝国主義論』の基礎は独占論にある。レーニンは、第一次世界大戦の最中、<帝国主義戦争の不可避性>を論証した。帝国主義(戦争)は、社会主義革命の前夜以外の何ものでもない。帝国主義は共産主義の条件を成熟させている。レーニン率いるボルシェビキはカウツキー主義者――体制内労働運動と闘い、"帝国主義戦争を内乱へ”のもとに、ロシア革命(1917年10月)に勝利したのである。『帝国主義論』は第一次世界大戦の最中――19世紀末〜20世紀の初頭の資本主義の歴史的段階を「生産の集積と独占」から解き明かして、金融資本を媒介とする「資本の輸出」、それは「資本家団体のあいだでの世界の金融」再分割戦であること、それは第一次世界大戦の現実的・物質的な解明であった。レーニンは、この世界戦争を内乱に転化して、ロシア革命――ドイツ革命を闘いとるにあたり、カウツキーの”資本主義の帝国主義的政策論””体制内労働運動”を批判・打倒することを絶対的な闘いとしたのである。レーニンはカウツキー主義者――プレハーノフを批判することで、労働組合(論)――ソビエトを基軸・土台とする革命論を構築し、労働者階級人民を組織していったのである。ペトログラードの労働者・兵士を組織し、ロシア革命に勝利していった。レーニンにとって、『帝国主義論』は、共産主義革命の現実的条件=「生産の社会化」を明らかにするものであった。

【I】

 前回の提起もそうでしたが、この世界金融大恐慌の時代に帝国主義論を本当に復権していくということが決定的だと思いました。まさにレーニンが執筆したとき、ヨーロッパにおける恐慌と第一次大戦、そして労働者階級の歴史的大反乱の開始というなかで、社会民主主義をかかげていた体制内指導部が裏切っていく、まさに現在の我々が直面している情勢とレーニンが真っ向から対して、「革命の時代だ!」「労働者階級に革命する力はある!」と喝破したことがヒシヒシと伝わってきました。これまで、帝国主義論がひとつの経済書、あるいは世界戦争不可避論として読まれてきた限界をのりこえて、「帝国主義はプロレタリア世界革命の時代」ということをはっきりさせる、独占こそが労働者階級を食えない状況に落としこめながら、それは労働者階級が労働組合に団結して独占をぶっ飛ばしたときに社会主義を実現できる、その条件が圧倒的に成熟しているのが帝国主義なのだと。
  そのときに、「労働者に革命をやる力はない」という体制内=カウツキー派との闘争の決定的意義が鮮明になったと思う。その意味で帝国主義段階に突入してから一世紀余り、常に革命の条件はあった。それを革命に転化する主体の問題として提起されている。体制内打倒の決定的武器として帝国主義論を徹底的に活用していこう。