ホームページへ週刊『前進』月刊『コミューン』季刊『共産主義者』週刊『三里塚』出版物案内販売書店案内連絡先English

2008年09月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス・エンゲルス 『共産党宣言』(下)

講義概要 P1-8

★討論から- P9-14

受講レポート P14-24

★コラム P24

2008年09月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-8 講義概要

第9期第5回 マルクス・エンゲルス 『共産党宣言』(下)

後半講義概要   講師 仲山 良介 

第2章 プロレタリアと共産主義者

(1)たたかう労働者は共産主義者として党に結集し、革命をやろう

 「共産主義者(たち)はプロレタリア一般にたいしてどんな関係にたつのか?  共産主義者は他の労働者党にくらべてなんら特別の党ではない。共産主義者は、プロレタリア階級全体から切り離された利益をもたない。共産主義者は、特別の原則を立てて、その型にプロレタリアの運動をはめ込もうとするものではない」
  普通の労働者と共産主義者の間に根本的な違いはないという強調の意味は、普通の労働者(みんな怒りをもってブルジョアジーとたたかい、この社会を変えたいとおもっている)こそが共産主義者として党に結集せよというメッセージです。
  プロレタリアートは、勝利と究極的解放のために、闘争のなかで党的団結(党そのもの)をもつくりあげていくが、それはどのような党なのか。これが同時に、「普通の(たたかう)労働者は共産主義者として革命党に結集せよ(革命をやろう)」という呼びかけ、組織化の論理として提起されている。ただ一般的に、共産主義者と普通の労働者の違いについて述べようとしているのではない。
  「セクトの運動ではなく、階級の運動」、いわゆる思想運動ではなく本当に革命を目指す闘争に階級としてたち上がっていくという考え方を土台において革命的プロレタリアートを組織・結集しようとしている。
  「特別の原則をたて、その型にあてはめる」というのは、組織論も含むそれまでの「共産主義者同盟」の狭い思想と運動のあり方を指している。ここで述べられている党の概念は、「革命的プロレタリアートそのもの」「プロレタリアートの革命的団結」とかぎりなく重なっている。
  「共産主義者が他のプロレタリア党と違う点。一つは、プロレタリアのさまざまな国民的な闘争において、国籍と無関係なプロレタリア階級全体の共通の利益を強調し貫徹すること、もう一つは、プロレタリアートとブルジョアジーのたたかいが経過していくさまざまな発展段階で、つねに運動全体の利益を代表すること以上の点だけである
  この2つの「違う点」は、そこしか違わないというニュアンスだが、しかしこれは、大変な違い。労働者の党であっても、体制内的であるかぎりは、こんなことはとても貫徹できない。
  「だから、共産主義者は、実践的にはあらゆる国々の労働者党のなかで最も断固としており、つねに運動を推進していく部分である。また理論的には、プロレタリア運動の諸条件、進行過程、一般的結果を見通している点で全プロレタリアートに先んじている」
  「共産主義者の党」は実際にどんなものでなければならないか。〈革命的プロレタリアートの先進的・前衛的な政治的結集体〉、という中身が浮かんでくる。究極的解放から現在の局面をとらえかえして進んでいく。だから実践的に最も断固として闘争を推進し、理論的には究極的解放まで見通している、としている。これは、「国籍と無関係なプロレタリア階級全体の利益を貫徹する」「つねに運動全体を代表する」というのと重なる。 
  これまでの共産主義者同盟タイプの秘密結社組織ではなく、労働者の階級的運動そのものに基盤をもち、それゆえに、ブルジョアジーの支配を倒して究極の解放にまで進むことのできるプロレタリアートの革命的政治的団結体。そこを踏まえて、
「共産主義者の当面の目標は、他のすべてのプロレタリア党と同じである。すなわち階級へのプロレタリアートの形成、ブルジョアジーの支配の打倒、プロレタリアートによる政治権力の奪取である」とまとめています。
  他のすべてのプロレタリア党も、多かれ少なかれこのような政党としての目標をもっている。だがこのような政治的目標は、共産主義者にとっては「当面の目標」にすぎないと述べている。その点が「違う」。だが、じつはこの3点セット(階級へのプロレタリアートの形成・ブルジョアジーの支配の打倒・プロレタリアートによる政治権力の奪取)を一体でとらえたとき、それが単なる「政治権力の奪取」以上のものであることははっきりしています。

(2)共産主義者は何をめざしているか

 では、「当面の目標」に対して共産主義者の「究極の目標」とは何か。第1章のなかでは、将来の状態、目標のようなものはほとんど述べないで、あくまでも「プロレタリアの歴史的運動」そのものについて述べるかたちをとっていた。ここ第2章冒頭ではじめて、プロレタリアートの運動の目標(一般的到達点)としての共産主義について述べる。その場合、次のように入っていく。
  「共産主義者の理論的命題は、現に行われている階級闘争、つまりわれわれの目の前で展開されている歴史的な運動の本当の諸関係を一般的に表現したものであるにすぎない」
  「これまでの所有諸関係を廃止するということは、なにも共産主義に独特のものではない」

  共産主義は人の所有を奪うと世間では言われている。共産主義者自身、財産共同体=共有制についてこれまで述べてきたのは事実です。しかし、
「すべての所有諸関係はたえず歴史的に交代し、歴史的に変化してきた」「たとえばフランス革命は封建的所有を廃止して、ブルジョア的所有をもたらした」「共産主義の特徴は、所有一般を廃止することではなくて、ブルジョア的所有を廃止することである」
  「ところで近代的なブルジョア的私的所有(私有財産)は、階級対立すなわち他人の搾取にもとづいて生産物の生産と取得が行われる、最後のそしてもっとも完成された表現なのである」
  このような意味において、「共産主義とは私的所有の廃止」と一語で総括できる。

  これが共産主義の理論的内容、共産主義者の「目標」である。だがそれは、世界改良的な「目標」ではなく、プロレタリアートの階級闘争の貫徹によって実践的に必然的に歴史的に生み出されてくるものとしてある。これまでのいわば古い共産主義者の「目標」や理論にたいして、表現はおなじだが、どのような意味において「おなじ一語」で総括できるのか、きちんと説明している。ここが重要だとおもう。
  ここから数ページ、共産主義を批判するブルジョア的イデオロギーとの論争のかたちをとりながら、積極的な共産主義論を展開しています。

●共産主義は個人的所有を廃止するのか?

 ここでの展開は、『資本論』の第1巻第7編第24章第7節の個体的所有の復興のところとほとんど重なる。まさに革命は所有を問題にするのです。生産関係と所有関係は表裏一体の問題であり、それは階級支配の問題なのだということを突き出していく。
共産主義者は「個人的に獲得した・自分の労働で手に入れた所有」(個人的所有)を廃止するのではない。これまでの小ブル的・小農民的所有はブルジョアジー自身が廃止しつつある。賃金労働者は自分の財産(所有)をつくりだしていない。問題は資本家の財産つまり資本である。資本は資本家が自分の労働で手に入れたものなのか?
 「資本は個人的な力でなく、社会的な力である」(所有としては私的所有であるにもかかわらず)。「したがって、資本が社会のすべての成員の共同の所有に転化するとしても、個人的所有が社会的所有に転化するわけではない。所有の社会的性格が変わるだけ。所有が階級的性格を失うだけ」
 賃労働者について言えば、「われわれが廃止するのは、資本のために働きそのために生きるという惨めな取得、取得の惨めな性格である」

つまり、共産主義者は<賃労働と資本関係、賃労働そのもの、そして資本関係・資本そのものを廃止する>。
ここからあとに展開されるすべての問題は、生産と所有を軸に、その幻想的観念的表現であるか、またはそれが社会的な制度としてかたちをとったものについて、つまり社会的な諸関係の総体について、単なる部分的論争ではなく、それら全体が根本的に変化していくということについての積極的提起です。

●人格と自由、個人(の廃止)

 ブルジョアジーには、本当に人格というものがあるのか。彼らは資本の「意志」の執行者であるにすぎない。こうした歪んだ人格やら自由やらが、資本関係の廃止とともに廃止されるのは当然。また自由とは、「ブルジョア的生産関係のもとでは」自由な商業、売買・取引の自由、つまり資本の自由、搾取の自由であるにすぎない。ブルジョアジーの自由に関するおしゃべりは、中世の市民の隷属状態にたいしてのみ意味を持つ。
  <ブルジョア的個人=ブルジョア的所有者とイコールである個人や人格そして自由は、ブルジョアジーの存在とともに廃止される>。
  私的所有がなくなれば誰も働かないというブルの恐怖は、賃労働(つまり資本)の廃止に対する恐怖なのだ。

(3)精神的生産に関して

 ブルジョアジーにとって階級的な教養(文化)の廃止は教養そのものの廃止と同じ。ブルジョアジーが失われると嘆いている「教養」とは、圧倒的多数にとっては(労働者にとっては)、「機械になるための訓練=教養」である。
  ブルジョアジーはつねに、一般的な真理を述べ立てているつもりで、自分の狭い階級的利害を主張するだけなのだ。

●家族の廃止(ブルジョア的家族関係の廃止)

 これについては、そうとう急進的な人々でも共産主義者を非難弾劾する。
  だが現在の家族は、資本=ブルジョア的所有(私的営利)にもとづいている。「完全に発達した家族」は、ブルジョアジーにとってしか存在しない。ただしこれは、プロレタリアートに強制された無家族状態と公的売買春によって補完されている」「ブルジョア的家族は、この補完物なしには成立しない。この補完物は資本が無くなれば消え去る」
  つまり、ブルジョア的家族は消え去るのです。親による子どもの搾取、社会による教育……。家族の親密な関係の破壊についてのブルジョア的な非難……。そして、きわめつけは、「共産主義者による女性の共有」に対する批判。だが、ブルジョアジーの非難はすべて偽善的。彼らは、ブルジョア的な現実にどっぷりと浸りきっているので「女性の労働用具としての地位の廃止」こそが問題なのだということをまったく理解できない。

●祖国と国民性

 「労働者は祖国をもたない」「プロレタリアートは、まず政治支配を奪取し、自らを国民的階級へとたかめ、国民として自らを形成する。だから、ブルジョアジーと同じではないが、なお国民的である」(だが)「諸民族の分離と対立はブルジョアジーの発展、生活諸関係の(国際的な)一様化によってますます消え去りつつある。プロレタリアートの支配は、こうした対立分離を一掃消滅させる。少なくとも、文明諸国の団結した行動がプロレタリア解放の第一の諸条件である。」「個人による他の個人の搾取が廃止されるにしたがって、……」「国民・民族の内部での階級的対立がなくなると、諸国民相互間の敵対的関係もなくなる」
  根本的にはこれらの原則はすべて生きている。これから、むしろもっと強力に復権するだろう。民族もまた歴史的諸関係、階級的諸関係のなかで生きている。それ自体が変化する。階級闘争とプロレタリア革命=世界革命だけが民族問題を解決する。プロレタリアートが国際的に団結して、帝国主義支配階級と実際に共同してたたかう生きた経験を積み上げることが重要だ。

(4)宗教、哲学、道徳などのイデオロギー的諸形態

 人間の意識は、生活諸関係や社会的諸関係、社会的あり方とともに変化する。精神的生産は物質的生産と共に変化していく。思想の歴史がそれを証明している。ある時代の支配的思想は、つねに支配階級の思想であった。 
  まず思想があって、それが「物質化」されるというわけではない。プロレタリア解放=革命的共産主義の思想・理論もプロレタリア階級闘争の現実の発展を基礎として生まれてきた。逆ではない。理論や思想は、社会科学も含めてプロレタリアートの革命的実践との関係でとらえなければならない。革命的階級の存在とその実践が土台、前提なのです。そこから離れれば、いつでも、理論や思想は科学の名で単なる「イデオロギー」に転化し、形骸化する。腐敗する。

●宗教、道徳、哲学は永遠か?

 階級対立の歴史のなかですべての思想は動いてきた。宗教、道徳、哲学、政治、法……という社会的意識諸形態は……(階級社会が廃止されれば)存在しなくなるのです。その枠組みだけは不変のまま残るということはありえない。人間の意識活動は、自立逆立ちしたイデオロギー諸形態としてでなく、もっと生き生きした現実との関係をとりもどし、新しい形態と内容に置き換わっていくだろう。共産主義革命が階級社会と階級の廃止をもたらすものである以上、これまでの人間と人間社会のあり方との根底的決別がもたらされるのは当然なのです。
  以上で、ブルジョアジーに対する反論のかたちをとった積極的展開としての共産主義社会論はひとまず終わり。単なる〈論争・イデオロギー闘争〉をこえた、解放の条件と内容に関する中身のある展開だった。〔マルクスは将来の青写真は描かないと言ったが、かなり踏み込んでいる。〕もちろん、すべてプロレタリアートへの決起の呼びかけ、階級的団結の形成論として実践的に提起されています。

(5)プロレタリア革命・共産主義への前進について

 「労働者革命の第一歩はプロレタリアートを支配階級に高めること、民主主義をたたかいとることである」「プロレタリアートはその政治支配を利用して、ブルジョアジーから次第に資本を奪い取り、国家すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に、すべての生産用具を集中し、生産力の総量を急速に増大させる」「このことは、まずは所有権とブルジョア的生産関係にたいする専制的侵害をつうじて行われる」「この方策は、経済的には不十分で維持できないように見えるが、運動の進行のなかで自分自身を乗りこえて進む」「生産様式全体を覆す手段として不可避の方策である」「国によって違うだろうが、もっとも進んだ諸国では、一般的には次のような諸方策が適用されうる」
  まず、プロレタリアートを支配階級に高める=民主主義をたたかいとる。ここでの〈民主主義〉は議会制民主主義とは別の意味。もっと語源的、「人民支配」。この場合、人民=プロレタリアート。レーニンが言うように、「プロレタリアート独裁の思想」の表現。
  次に、プロレタリアートがすぐに全経済過程を運営できるとはいえないという意味で「ブルジョアジーから資本を次第に奪い取る」としている。しかし、「次第に奪い取る」というと、ブルの経済支配がかなり長く存在しているような感じ。『宣言』のマルクスはたしかにそういっている。これがリアリズムだったのです。それでもプロレタリア革命(労働者階級は勝利できる論)を言い切っている。
  〔⇒のちにマルクスとエンゲルスは、この部分について、とくに〈革命後の具体的諸方策〉に関して、「今日では別の書き方がなされるべき」と述べた。これは、『宣言』1872年版の序文で「パリ・コミューンの総括」として確認される「労働者階級は、出来合いの国家機構をそのまま手に入れて自分たちの目的のために使うことはできない」と一体の問題である。この総括と筆者たちによってなされた『宣言』の〈修正〉は、「ブルジョア国家権力をこなごなに打ち砕く」ということとしてのみ(『宣言』の暴力革命論のさらに徹底的な展開として)とらえられる傾向が強かったが、じつは、『宣言』のこの部分の構想そのものに一定の「変更」を迫るものだったといえる。労働者階級は、自ら生産点を掌握するとともに、立ち上がってコミューン型の政治形態をつくりだす。この下で、次第にブルジョアジーから資本を奪い取るのではなく、この形態のもとで、コミューン=労働者権力(プロ独)をとおして社会的生産全体の掌握と運営に乗り出すのである(掌握と運営そのものを学びつつ実践していくわけだが)。マルクスが、「これこそ可能な、現実的な共産主義」と呼んだような試みに着手していく。これは、プロレタリア的国有化でもある。それ以外にない。もちろん、『フランスの内乱』段階でも、「経済的に不十分で維持できないように見える」かもしれないがというニュアンスは残っている。しかし、「運動の進行のなかで自分自身をのりこえてすすむ」というところが、パリ・コミューンの現実の経験を踏まえて、力強く論じられている。コミューン形態こそがそれを圧倒的に促進するのだ、と。(エンゲルスは、70年代にプロレタリア的国有化論を『反デューリング論』などで展開している。)
  そこから、『ゴータ綱領批判』の過渡期論につながっていくのである。われわれは、今現在、ロシア革命の経験は、これら一切の基礎に労働組合的団結があって、これが革命とその後の全過程で決定的な役割を果たすことを示したという歴史的事実をあらためてつかみ直すとともに、本来のプロレタリア革命論の根源のところから労働組合の革命論的位置づけを深めてきている。『宣言』のこの部分はここにつながっている。〕

(6)第2章の結語部分「階級の廃止と国家、および古いブルジョア社会の廃止」

 プロレタリアートがブルジョアジーの支配を倒し、権力をとり、支配階級となり、そして
「発展が進むにしたがって、階級の区別が消滅し、すべての生産が結合した諸個人の手に集中されると、公的権力は政治的性格を失う。政治権力とは、本来の意味では、ひとつの階級が他の階級を抑圧するための組織された暴力である。プロレタリアートがブルジョアジーとの闘争において、必然的に階級へと結集し、革命によって支配階級となり、支配階級として古い生産諸関係を暴力的に廃止するときに、プロレタリアートは、このような生産諸関係とともに、階級対立の存立条件と階級そのものの存立条件を廃止し、それによって階級としての自分自身の支配を廃止するのである。
  階級と階級対立の存立する古いブルジョア社会のかわりに、一人ひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展の条件となるようなアソシエーション(協力体・連合体)が登場する」

  階級対立が廃止されたとき、代わって登場してくるのは、国家と市民社会の分裂そのものを克服したアソシエーション〔協力体または連合体〕と呼ぶしかないような自覚した労働者の結合関係です。「自由に結合した労働者」が形成する社会的関係の全体をさして、マルクスは、当時の論議や用語にもとづいて、アソシエーションと呼んでいる。

第3章 それまでの社会主義および共産主義理論の批判(社会主義的および共産主義的文献)

 それまでの「社会主義および共産主義」批判のかたちでマルクス主義的なものの考え方が提起されている第3章の位置は重要です。歴史的なプロレタリアートの運動(階級闘争)、その実践的貫徹として共産主義をつかんでいく立場そのものの表明。これが160年後の今現在、完全に生きていることをつかんでほしい。

 <略>

●「真正」社会主義批判について

 ここは、エンゲルスの『共産主義の原理』にはなくて、マルクスが新しく追加した部分。「ドイツ社会主義または共産主義」批判である。じつは昨日までの自分たちもここに入る。その意味で、ここは「自己批判→階級的移行の貫徹」である。実践的にも重要な意味をもっていた。

 <略>

●批判的・空想的な社会主義および共産主義について

 これらの創始者は、彼らの計画がもっとも苦しんでいる階級としての労働者階級を代表していると思っているが、プロレタリアートをこのように最も苦しんでいる階級としかみることができない
  「彼らは階級対立を最初のはっきりしないかたちで認識した」「だから、これらの諸命題(階級関係の消滅を告知するような内容)は、純粋に空想的」

第4章 全体のまとめ 共産主義革命の宣言(種々の反政府党にたいする共産主義者の立場)

 まず、当時のいくつかの反政府党、労働者党に対する共産主義者の態度を述べている。つねに革命的な民主主義派を支持するがどんな場合でも批判の権利を保持する。

●ドイツについて

 <略>

●まとめ

 「共産主義者は、どこでも現存の社会的政治的状態に反対するすべての革命運動を支持する。こうした全ての運動において、共産主義者は所有の問題をその発展形態のいかんにかかわらず運動の根本問題として提起する
  「共産主義者は自分たちの見解と意図を隠すことを軽蔑する。共産主義者は自分たちの目的が、これまでの一切の社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に震えあがるがいい。プロレタリアはこの革命において鉄鎖以外に失うものは何もない。プロレタリアが獲得すべきは全世界である。

  万国のプロレタリア、団結せよ!」
  ここでアンダーラインを引いた2つのセンテンスは同じ意味。後者は単に、国家権力打倒を強調しているのではない。「所有の問題を根本問題として提起する」ということは、「これまでの一切の社会秩序」を暴力的に転覆し、そして廃止するという意味です。そういうものとして、プロレタリアートは、「公的社会の一切」を吹き飛ばし身を伸ばし、社会の主人公となり、階級対立と階級の存在そのものを廃止していく世界史的存在なのです。ブルジョアジーの打倒=プロレタリアートの階級的解放(プロレタリアートの勝利)はそのような根底的な革命であるということ。
  労働者階級だけが唯一の真に革命的な階級である。万国の労働者、団結せよ。
(後半講義了)

党学校通信 p9-14

討論から

●P

 今度の『前進』夏季特別号の展開と、この『共産党宣言』のわれわれ的とらえ返しというのは、階級的労働運動路線の白熱的実践をやっていく場合のカギになる。具体的にも夏季特の第1章は、マルクスが『共産党宣言』で、プロレタリアートの「権力奪取、共産主義への道は、はるか彼方の不確定の未来の問題ではなくて、日々の階級的実践のなかで準備されていく」と述べた(主旨)ところから始まっている。とりわけ『共産党宣言』の第2章を学習したそのものなんだけど、労働者にたいして上から新たな計画とか、新たなやり方とか、新たな原理をあてはめるのではなく、労働者階級の日々の実践の中に権力奪取、プロレタリア革命の道はあるということをハッキリさせる。その中に、現代における日本革命の道はあるということについて、これは『前進』新年号で出された点なんだけど−塩川一派が激しく反発した−この間の動労千葉労働運動の実践の中で言い切った。その地平と、『共産党宣言』の核心というのは本当につながることとして、積極的に前回と今回の展開を受け止めたいと思っているんです。前回は第1章の「いままでの歴史は階級闘争の歴史である」ということを、革命の主体であるプロレタリアート自ら最後的に革命をする宣言として読んだ。今回も非常に鮮明に、すべての闘う労働者は共産主義者として一緒に闘おう、マル青労同、革共同に入ろう、ということとして読もうということで全部貫かれたと思っている。
  そのことをハッキリさせると、夏季特第3章の第1節の理解、なぜ絶対反対論と階級的団結論かで4つくらいに分かれていると思うんだけど、その構成が非常にハッキリしてきて、今やっている党学校での『共産党宣言』の学習が、本当の生きた力になるということについて実感できる。生きたプロレタリアートの運動の中に生きたマルクス主義があるんだということは、11月に向かう国際的な連帯という点でも、われわれ自信を持って出せる中身が、自分たちの実践ということと『共産党宣言』の学習ということとして、つかみ取っているんじゃないかという感じを持っています。

●r

 『共産党宣言』第4章のタイトルは「種々の反政府党にたいする共産主義者の立場」。マルクスとエンゲルスだから、ドイツ国内の反政府党について挙げているかというと、イギリスとアメリカとフランス、スイス、ポーランド、ドイツと。要するにこれは、国際連帯における共産主義者の態度と言うことができる。そこの結論でもあり、かつ全体の結論でもあるのが、「万国のプロレタリア、団結せよ」。夏季特の各章において国際連帯のことが繰り返し出てくるという中で、今の僕らが『共産党宣言』を読んだ場合に非常に近いというか、しっくりするというか、そんな感じがしている。
  そういうふうにして見てみると、第1章は、プロレタリアートにとっては歴史的な自己認識論じゃないか。当時のプロレタリアートと言った場合、ボロを着たみすぼらしい姿で、若くして労働者になって、十数時間働いて若いまま死んでいく。多くの人たちは、善意も込めて、これ救わなきゃと思っている。しかし、このみすぼらしいプロレタリアートが歴史を変える主体なんだということを言い切った。プロレタリアートは、“俺って世の中変えられる歴史的存在なんだ”となった瞬間に、ものすごい力を発揮すると思う。
  もう1個重要なのは恐慌論。僕らはサブプライムローンでもって大恐慌の情勢が始まっていて、世界は革命情勢だととらえている。マルクスは、恐慌は資本主義の終わりを意味している、だから世界は革命情勢で、その情勢を革命にするのはあなたなんですよ、ということを言ったんじゃないか。
  じゃあ、2章は何なのか。党派闘争の最大の相手は資本、ブルジョアジーだから、ブルジョアジーが様々言っていることに対する反批判をとおした党の綱領の明確化をやっている。
  第3章は、今的に読みこめば、党派闘争が非常に重要だということ。そして4章で、一国で片を付けるのが大事だと言った上で「万国の労働者、団結せよ」と国際連帯でまとめた。
  若い人の中で『共産党宣言』を使って学習会をやる、オルグできる、そういう文献としてあるということを、前回と今回、討論も含めて、自分としてはつかんできた気がする。

●N

 予習もかねて読み返してみて、第2章以下というのは、共産主義者同盟をプロレタリア階級の党として建設していく、本当に革命をできる党として建設していかなくちゃならないという中で、きわめて「党内闘争」的に、要するに階級の党、今日われわれが言うところの階級的指導部建設論というような内容をもって相当強烈に書いてあるという印象を受けた。講師の第2章の内容も、闘う労働者は共産主義者として党に結集せよ、という労働者階級にたいする呼びかけであると同時に、それが共産主義者同盟内において、実際にものすごい論争が行われていたということだ思うんです。その論争が、第2章の冒頭の所にも書かれているけども、「プロレタリア階級全体の利益から切り離された利益をもたない」。われわれの言葉で言えば、「党は階級そのものである」。で、「共産主義者は、特別の原則をたてて、その型にプロレタリアの運動をはめこもうとするものではない」と、夏季特の冒頭ですよ。プロレタリアートの日々の実践の中で革命の現実性はつくられている、革命に向かって闘いは進められていく、こうしたプロレタリアートと一体となって闘う党をつくろうという。まさにそういうことが当時のマルクスの問題意識として強力に貫かれている。
  そういう点で、第3章の種々の社会主義思想、あと当時の共産主義論に対するマルクスの批判も、つまり当面する共産主義者の任務として、階級意識の形成ということと、ブルジョアジーの打倒ということと、プロレタリア権力の樹立という3つが3点セットという形で出されてとあるけど、階級形成をやっていくといったときに、こいつらと徹底的にやり合って、自分たちは何者なのか、どういうものを目指すのかをハッキリさせていくというのが、プロレタリアートの階級形成であって、そういう点で、3章もものすごく重要な意味があったんだというのが、今回よくわかりました。
  あと、「祖国と国民性」という所で、ブルジョアジーが“祖国、国民性を奪うのか”というのに対して、労働者は祖国をもたない、もってないものを取り上げることはできない、と言って以下の展開に続く。ここの所は、労働者は祖国、国家から一切合切排除されている、排除されてて祖国なんかもってないんだから取り上げることはできない。だから重要なのは、プロレタリアートが政治権力を奪取して、自らを国民的階級に高め、つまりプロ独を樹立して、まず自らが国民的階級として権力を奪取しなくちゃならないんだ、国境がないとかそういう意味じゃなくて、まずとにかく自分たちで権力を奪取して、自分たちを一つの国民的階級としてまずはプロ独でぶち立てろと。それを拠点にして、諸民族の分立とか云々ということについて、そこを軸にして社会革命に向かって闘いを進めているんだという展開になっている。そういう理解でいいんですか?

●講師

 文字通りに読めばそうだと思う。当時のプロレタリアート、労働者の状況は、いわばブルジョア的理念として考えられているブルジョア社会における一人ひとりの対等な人間としての権利、一国民としての権利、そんなものは保障されていない。いわば封建社会的な社会構造から一応法の下の平等みたいな関係になったと言われるんだけど、それはまだ建て前。この国家はわれわれの国家であるみたいな要素はほとんどない。そういう意味で国家とか国境とか関係なく、労働者はどこでも資本の搾取の対象として扱われているだけだということが、『共産党宣言』を書くときには、文字通りそうであるという関係があった。
  その後、19世紀の後半から20世紀というのは、社会政策的な展開もあり、労働者も含めてインチキに国民として組織される。現実もちょっと違ってきた。それが、20世紀末から現在、日本みたいな所でも、労働者の置かれた現状は普通の人間としての市民的権利すら全く保障されないような状態にあるということがストレートにもう一回言えるような現実が出てきている。その辺に踏まえながら、読んだらいいんじゃないか。
  それと、国民的階級へと高め、という所は、今考えたときには、政治権力を奪取して、とりあえずプロ独国家というか、労働者が支配する国家という形をとるということ。だから、国民的階級に高めるということに、今あまり特別な意味を与えない方がいい。今ある帝国主義国家をぶち倒して労働者が支配するということとしてとらえればいいんじゃないか。

●G

 2章の所で、個人的所有と私的所有、この私的と個人的はもともとの言葉が違う、という話があってハッとさせられた。私的というのはプライベートで、パーソナル、インディビドゥアルということと違う、民営化というのはプライバタイゼーション、プライベートにすることということで、私物化ということなんですよね。戦争と民営化に絶対反対、とくに民営化絶対反対論というのをどう訴えていけばいいのかというところで、今回ものすごくハッキリした。本当に社会的に生み出された力というのを私(わたくし)していく資本家への怒り、それは、人間が生きていく最低限の共同性としての自治体とか、そういうものまでも私(わたくし)していくのか、まさに資本主義の私的所有を貫徹していく、そして、それを個人的所有と混同させるものとして民営化、絶対に許せない。
  この私的、私(わたくし)するということと、人間個人のとか、そういう個体的ということが違うというのは、私(わたくし)するということと、人間が自分の労働で手に入れていく、そういう誇り高い存在としてのというまったく違うものを混同、つまり民営と言うと、何となく人民が運営するみたいな感じにとられかねないような、そういう言葉を用いてやっている。動労千葉が民営化絶対反対ということを掲げて20年以上闘ってきた地平から見直したときに、本当にこの私的所有の絶対廃止ということが、すごくハッキリとわかったと1つ思った。
  これは特に自分自身において、今回非常にハッキリしたんですけど、宗教、道徳、哲学という枠組みは永遠なんじゃないかという話。今いわゆる良心的な学生を最後までくびきに閉じ込めているのは、あなたは経済学部の学生だと、あなたは理学部の学生ですよね、中身で勝負したらいいんじゃないですかという、こういうものとの闘いです。いい法学をやったらいいんじゃないの、いい経済学もあるんじゃない、そこで勉強していくのが学生の本分じゃないんですかというのが、ありとあらゆる勢力から無言の圧力として僕らにはある。今回ハッとさせられたのは、この宗教だとか、道徳だとか、哲学だとか、切り刻まれた枠組みとしての思想、こういうんじゃない、俺らのしたいことは。生きていく、学問する、闘うということを切り刻んだ形であるような、そういう枠組み自体がもういらない、そういうのをやりたいんじゃないということなんだなという。今までは、真理の探究の場所ですよという建て前を盾にして大学当局と闘うということがアリだった部分もあるのかもしれないけど、今や、クラス討論とか昼休みのアジとかさえも禁圧されてくる中で、本当にそういう大学の既存のあり方を全否定しなければ僕ら学生は動くこともできない。そういう状況の中で、もう一回この『共産党宣言』を読み直してきたときに、アッ自分は気づいていなかったけど、こういうことがやりたかったんだ。そういうものとして、自分の仲間たちに訴えて党に獲得していきたいとすごく思えた。
  実践の中で一緒にわかっていく、時代と一緒にわかっていく、時代が進めば僕らもわかっていくし、わかって闘うし、闘うことでわかるという、「古典」と言われる『共産党宣言』に向き合うというのは、やっぱりこの感じですよ。それで獲得していくということが、すごく今やりたいと思えたということ。つまり、隣の仲間に次は『共産党宣言』だ、というのは、本当にそうだな、自分も感動したんだから、自分は気づいていなかったけど、これがやりたかったんだって思える、みんな絶対そうだろ、という観点から、そういうオルグもしていきたいと思えたことが最大の成果かなと思いました。

●I

 全体としては、すごいおもしろい提起だったなと思っているんですが、個人的所有と私の何とかというのがあって、それはそれで重要だという面と、提起聞いてたら「言葉遊び」としか感じられなくて、つまんないなと思ってた。『前進』夏季特別号の流れで、今『共産党宣言』の学習会をやろうと思って、そういう問題意識もあるんですけど、第2章は、イデ闘として確かに書かれている。例えば、人格の否定だとか、自由の廃止だとか、ということをブルジョアジーが言ってくるのに対して、そもそも自由なんかないんだというのは確かにそうなんだという面と、でも、この第2章というのは、僕は共産主義のリアリズムだととらえてて、それは、現実の闘いの中でとらえられていったんです。
  だから、そういう意味では夏季特なんかでも、日々の実践が共産主義を実現していくんだというふうに出されていたんですけれども、例えば人間性の問題だとか、自由の問題を、『前進』2356号にも出ているんですけど、仙台S郵便局でAさんが雇い止めでクビだっていうことを言われたときに、人間性を否定されたという、で、闘ってはじめて人間になれたという、そういうふうにとらえられないのかな、とらえていきたいなとすごい感じていて。闘いの中で、そういう意味では一切を奪われた労働者階級がすべてを取り戻していくのが革命なんだという、で、それはやっぱり階級的団結論なんだということが、この間の闘いの中でつかめてきたというのは、すごいあった。そういうふうに第2章の展開ももっと変えていった方が、とらえ返していった方がいいんじゃないかなと思った。

●B

 48年革命というのは47年の恐慌があって、労働者が一旦ほとんど生きられないという状態が世界史的にダーンと起きて、そういう中で現実に革命が勃発する。そういうことを、マルクスなんかある種予測しながら、「所有」という問題を出していると私は思っている。今起きてることは何なんだ、これはどこへ行くんだ、ということを非常にハッキリ出しているのが『共産党宣言』の2章だと思う。ブルジョアジーとの論争も言葉のことではなくて、プロレタリアートがはじめて歴史的に怒りを爆発させて台頭して、様々な蜂起に立ち上がるということに対してのブルジョアジーの罵倒。それに対して闘いながら、自分らが一体何をやっているのかということを、マルクス自身がとき明かしていくようなことなんじゃないかなと思ってて。だから、2章の中に、マルクスが労働者を獲得する、労働者の今の闘いは何なんだということをハッキリさせるものは実はあると思っている。一番切り合っている部分だと思ってて、だから、そこがわれわれとして、どうとらえ直して語りきれるかということが、今の新自由主義が破綻している中で、ものすごくダイナミックに訴えられるものになるかどうかということの、かなり核心だろうなと思っているんです。
  『前進』を読んでても、労働者階級自己解放の思想とか団結論、絶対反対論というのはものすごく言われているんだけど、要するにわれわれの目標は私有財産の廃止の一点にあるんだということは、なかなかうまく言えてない。多分この辺までスッキリ言えるようにわれわれがなるということが、学習の重要な課題だなと思って、今日も聞いていた。講師の提起も結構そこに踏み込んでるな、ということは感じて、刺激されて聞いていました。

党学校通信 p14-24 受講レポート

受講レポートから 『共産党宣言』(下)のレポートです。

【Q】

 プロレタリア革命は労働者階級自身の事業である−このマルクス主義の核心問題を、1848年当時のヨーロッパの革命的情勢のただ中で、何としても共産主義者の党を作らなければならない、との実践的契機に突き動かされ、執筆したのが本書であるが、当時のマルクスの問題意識は、21世紀の現代において、世界革命情勢下における世界の労働者の「生きさせろ」の叫びの中で、まさに実践的によみがえっている、と感じました。
  階級的労働運動の現場での格闘をとおしてこそ、『共産党宣言』の今日的復権は可能である。このことを、今回の提起と討論を受けて、改めて確信した。

【S】

 第3章、4章が、問答形式・エンゲルス『共産主義の原理』から『共産党宣言』のかたちで、共産主義者の党の確立と“なすべきこと”を諸派との論争、とりわけブルジョアジーとの闘争を宣言した……という提起がありました。
  そこに、宗教問答的な世界認識で資本主義をあれこれ云々するところからの飛躍が勝ちとられた革命への原典的意義もあったのだと知りました。

【X】

 (一)現在の階級的団結論から、『共産党宣言』をつかみ直すことができました。
  『前進』夏季特別号アピールは、第1章の冒頭の『宣言』にふれているところから、第3章のマルクス主義の復権など、マルクス主義・レーニン主義の核心(綱領と路線)を現在の生きた実践に照らして言及していることが、すごく重要でした。
  3点セットとして指摘された第2章(新訳本p32)の「共産主義者の当面の目的は、他のすべてのプロレタリア党と同じである。すなわち、階級へのプロレタリアートの形成、ブルジョア支配の打倒、プロレタリアートによる政治権力の奪取である」は、階級的団結論、絶対反対論そのものであることを再確認できました。
(二)過去の学習会では、比較的第1章と第2章ですませてきましたが、今回、第3章と第4章までしっかりやれてよかったこと。特に、まとめで言及されている「こうした全ての運動において、共産主義者は所有の問題を、その発展形態のいかんにかかわらず、運動の根本問題として提起する」(=プロレタリア革命の問題をはっきり提起する)などとありますが、ストレートに革命をつきだす実践の必要を強くしました。マル青労同が「労働運動の力で革命をやろう」「労働者に権力よこせ」のスローガンを実践の中から打ち出していることは、すごく重要な実践です。

【C】

 戦後、大学書店の売上げNo.1は『共産党宣言』だった。『蟹工船』が140万部売れ、ブルジョア新聞の広告にも「次はマルクスだ」と言われているほどだ。パレスチナに行った人の話では、複数の国際空港でマルクスの本が平積みにされてたと。ある労働者は、30年前は学習会を呼びかけても誰も来なかったが、今は労働学校に職場の仲間が7人来たと。
  本当に時代が変わって新たな時代に向かって動き始めている。
  団結の書として『宣言』が読まれるように、私たちが提起しなければならない。
  革命の主体は私たち自身だということ、階級対立、非和解で一致できれば、みんな仲間になる。

【R】

 マルクスが『共産党宣言』を執筆した当時から今日まで、考えてみれば150年位しか経過していないんですね。
○人類の歴史で、階級支配の最後の精錬された「ブルジョア社会」、ブルジョアジーの階級支配が誕生し、同時にプロレタリアートが階級として登場する(墓掘り人として)。
○ブルジョア・イデオロギーとしての哲学−ドイツ観念論哲学の中から出てきたマルクスが、プロレタリアートこそが世界を変える存在であること、実践的な存在であること、当時の国際主義的実践の現実の中でたたかったということ。
○生きたプロレタリアート(『宣言』の当時)の現実にとことん立ちきったマルクスの革命性、その生き生きした中味としての『宣言』の息吹を感じる、伝えることは、とても大切だと思いました。
○ブルジョア支配の根底的打倒=革命、私的所有の廃絶こそが、現実的だということ、プロレタリアートが生きていくということは、そういうことなんだし、プロレタリアートこそ、その事業ができるということ、つまり新しい社会(私的所有でない社会)を建設できるということ。
○共産主義者という時には、プロレタリアートの団結を形成する場としての党と一体であって、それと別に何か観念的に存在するものではないこと。
○150年間本質的に変わっていない。ブルジョア支配に最終的に断を下していく時がついに来たということではないのか、プロレタリアートの国際連帯によって世界ブルジョアジーを打倒して、人間の本来的な豊かな内容を取り戻していくんだということではないのか。今こそ『共産党宣言』が必要だ!ということ。
  なお、「家族」(討論での)というのは、新自由主義の「論客」サッチャーが、世の中には(人間は)個人であるといってますが、プラスして「家族」というのをつけ加えてます。だから個人の延長、継続としての「家族」ではないか。又、封建社会の「大家族」に対してブルジョア社会は、それを個々バラバラにしないと、労働力商品化ができないわけで、その「社会ゆえ」(人間は社会的関係の存在)を担保するものとしての「一夫一婦制」社会の美化というのがあるのではないでしょうか。(ちょっと考えているところです。)

【B】

 労働者階級の事業として共産主義があることを軸にすえられた提起になっていることを感じました。
  「所有」の問題を一貫して提起するあり方は、われわれの運動の現実では、まだまだやりきれていない状況にあると思いますが、1848年に宣言したことは、ブルジョアジーの批判への反批判も含めて、私的所有をターゲットにして宣伝していることがはっきりしました。新自由主義批判にみがきをかけるためにも、この所有問題=共産主義、としてはっきりさせていきたいと思います。

【I】

 第2章を階級的団結論として読み返すことへの挑戦だと思います。新自由主義攻撃の中で、労働者階級は徹底的に分断され、人間としての尊厳も踏みにじられ、一商品としてしか、賃金奴隷としてしか存在できなくなっている。まさに現実が、個人の人格も、自由も、家族すらも、破壊しているのです。これを転覆していくことがプロレタリア革命であり、階級的団結論なのだと思います。その労働者階級の団結を通して、職場支配権を握り、資本の専制支配をうち破っていくことのなかに、共産主義の現実性をリアルにつかむことができる。
  だからこそ、1章での非和解性、そしてプロレタリアートは勝利できるということがあらためて重要だと思う。そして2章は、党の綱領そのものとして展望をアジっている。だから党に入ろうというのがマルクスの結論だと思います。
  あと、「私有財産の廃止という一語に総括できる」…このことを語り切れているのかという討論は、主体的に受けとめて、『共産党宣言』学習会のなかでつかんでいきたい部分です。

【h】

 G同志の民営化が私物化だっていう話は、当たり前のようで当たり前にとらえられてなかったので、ハッとした。新自由主義攻撃とか言ったりするけど、階級的中身がなかったと反省している。所有の問題が大切だとわかっただけでひとつ勉強になった。
  提起は、ほとんど右から左に流れていった。だから、あまりレポートできる事はありません。

【F】

 ブルジョアジーは、大航海時代に世界からの侵略と略奪の上に富を築き、自然の探究から自然力を生産力として実現し、工場を造り、大量生産(物)をもって、社会を商品社会(金銭関係)に変えてしまった。それは、旧来の「共同体社会」の解体過程であった。
  プロレタリアートは、ブルジョア生産力の発展・農村の解体で、自らの労働力を売る以外に生きられない存在として歴史的・世界史的に登場してきた。つまり、資本は、労働力の商品化をもとに蓄積・運動している。
  資本主義の根本は、賃労働と資本の階級関係である。この資本主義の原理は、資本主義が資本主義であるかぎり、現代帝国主義においても、全く同じである。
  資本(家)は、労働者を抑圧・搾取して増大・運動している。労働者は、職場・生産点で、労働組合を拠点にたたかうことで、自らの解放をかちとり、全人間を解放する主体なのである。ここに、コミューンがある。
  資本の攻撃はすべて、労働者の現場に襲いかかってくる。労働者は、労働組合を拠点に、団結してたたかい、体制内労働運動を打ち破り、党と共に革命をやり遂げる主体である。
  あらゆる団体と党派闘争をし、諸戦線・諸団体の闘いを糾合するたたかいを職場からつくり出そう。
  私自身、労働者階級の闘いと共にたたかう。
  万国のプロレタリア、団結せよ!

【Y】

 『共産党宣言』は、1章で、プロレタリアートの墓掘り人としての歴史的意義を明らかにすることで非常に空気が入り、第2章では、ブルジョアジーの反論を許さないで粉砕するという共産主義者のパトスを学ぶことができる。3章、4章でも、プロレタリアの団結、共産主義者の団結を呼びかけるための路線的提起が真剣に行われていくことに、ますます共産主義者としての決起に確信を持つことができる。文字通り、人を共産主義者にオルグするための書であり、必ずできる書である。
  序文まで含めれば、やはり、労働者階級の特殊的解放が全人間の普遍的解放に至る、という圧倒的確信があったから、プロレタリア革命を徹底的に推し進めることができたのだと思う。やはり、階級的な闘いが、全世界のプロレタリアートの闘いの火をつける、ということがよく理解できます。

【N】

 発言したことと重なりますが、感想をいくつか。
(1)第2章について。「同盟」の労働者階級の党、階級的指導部形成論としてとらえると面白いと思った。非常に重要な展開がされている。
  47年恐慌の中でプロレタリアートの蜂起が現実の問題として超切迫する中で、マルクス(エンゲルスも)は、「共産主義者同盟」を、プロレタリア革命をけん引できる労働者党として建設しようと必死に闘っていたのだと思う。
  その党の原則(原理)として、第2章の冒頭部分は書かれているし、プロレタリアートの日々の具体的闘いが革命の現実性をたぐり寄せていくこと、それと一体となって、共産党は、@階級意識を高め、Aブルジョアジーを打倒し、Bプロレタリア権力を打ち立てていくためにたたかっていく、その決定的環は、所有=私有財産制の問題だということをはっきりさせている。
  あるいは、実践的に断固たる戦闘集団であるべきこと、究極の勝利から現在をとらえ、正しい理論・路線をもって闘うべきことを、共産党の任務としてはっきりさせている。
  ブルジョアとの論争も、プロレタリアートとその党の階級意識を高めるために原則的に展開されているのだと思った。
  多少、現在の問題意識から片寄って読んでいるきらいもあると思うが、そう読んでいくと非常に面白いし、今回の提起も、そういう観点から受け止めることができたと思っています。
(2)第4章の、ドイツの革命についての言及のところは、完全に正しい見通しをもっていたことをあらためて実感し、実践家マルクスとしてあらためて空気入ったところがある。

【G】

 いままで気づかず、なんとなく「こういう事がしたい」と思っていたことが何だったのかをハッキリさせてくれる本だと思った。
  たたかいの日々の中で、「“プロレタリアとは違う”学生」という観点が消えて、まったく素直に「プロレタリアの先頭部隊の一員としての自分」を措定できるようになってきたなかで、今回読み直して気づいたことをいくつか。
○「個人的所有」「私的所有」のくだりは、確かに「ことば」の問題だが、「ことばあそび」では断じてないと思う。おれたちが財産をもたないどころか、「人間性」なんてものさえも無視されて、一商品として、「エサ」を求めるためだけに働かされているなかで、社会的な力をひとにぎりの人間が私(わたくし)している。許せない。この怒りは「私的所有の廃止!」というスローガンに直結する(そして民営化絶対反対!にも)。そしてそれが希望でもあるのは、コミューンにおいて、資本家をぶっ飛ばして困るどころか、もっといきいきと、自由に、ひとりひとりが生きていく条件としての「個人的所有」が復権された瞬間に証明された。
○「機械になるための訓練」の場としての大学。
  「学生の本分は勉強」−こんなイデオロギーが自分自身に対する圧力ともなってきた。しかし、何かちがうと思ってきた。自分が本当にやりたいのは、「枠組みの中で」「内容を豊かに」なんてことではない。切りきざまれ、分断された「理論/実践」とか「分野」、もっといえば「生きること」をバラバラの商品にされて、その良い商品をつくるために生きるなんてとんでもない。なぜ「とんでもない」と思えるかといえば、自分が一プロレタリアとして、このことの徹底的なみじめさを味わい、だが同時に、こういう死んだものをぶっ飛ばして団結に生きることができる存在だから。この書が自分自身の「宣言」をしていると思えた。多喜二のつぎは「宣言」でオルグしよう!

【r】

 最も言いたいことは、発言の中で述べたのでそういうことです。やはり、そういう中で感じていることは、現実と切り結びながら古典を学ぶことの重要性ということです。今回で言えば、『前進』夏季特別号で言われていることとの類似性・共通するようなものを『共産党宣言』の中にビンビンと感じました。
  発言の中で述べたこととも関連しますが、まさに国際的(=ヨーロッパ的)に「共産主義者同盟」=共産党がつくられて、『宣言』全体の最も大事なこととして「万国のプロレタリア、団結せよ」ということが言われたのと、かつての私たちのように、そういう国際的交流から切り離されてそういうフレーズが確認される(そうなると多分観念的な感じになる)のでは、全然違ったものになってしまう(可能性が大いにある)と思いました。日韓米国際連帯の現在だからこそ、『宣言』もまた生き生きととらえられるように思いました。それは、サブプライムの破産→世界大恐慌の始まりが、『宣言』1章(の恐慌論とそれによるブルジョア支配の終わりの始まり)に重なって、わくわくととらえることができるようになっています。

【A】

 前回(上)は、階級的団結について、確認することができた。
  今回、2章の冒頭で「たたかう労働者は、共産主義者として党に結集せよ(そして、革命をやろう)!」このことが重要だと思った。その後で、「普通の労働者は党に結集しよう!」とある。この間私は、「普通の労働者」というフレーズに感じいっている。『前進』夏季特別号での塩川一派批判の中にも、塩川一派が「普通の労働者」を革命の主体と考えていない、現代のカウツキーとしての面が出ている。ILWUの特集(『コミューン』8月号)でも、ILWUは、「普通の労働者」がつくった組合であることが書かれていた。
  最近、団交をやる機会が多いが、解雇通告をされた労働者、組合をたちあげ資本に攻撃されている労働者、「普通の労働者」は本当に強い! 怒りのすごさを教えられている。
  プロレタリア革命は労働者階級自身の事業である、これを実感させられる毎日である。
  「社会の隅々まで、燃料は山積みにされている。これに火をつけ、団結をつくりあげるのが本当に我々の仕事である」
  「共産主義者は、自分たちの見解と意図を隠すことを軽蔑する」−もっと前へ! もっと大胆に!

【e】

 今回出された、共産主義者の“当面の目標”あるいは“究極の目標”について、ある青年から「資本主義が破産寸前であることはわかりますが、共産主義になっても、やはり別な支配や管理に置き換わるだけのように感じる」という質問が、マル青労同の同志に出されました。必死に展開していましたが結局、論破というか、相手を納得させることはできませんでした。
  資本主義を打倒したことによって与えられる共産主義の低次→高次の段階の中で、労働者のモチベーションというものや、道徳や規律というものがどのようになるかという、あれやこれやの青写真で労働者を説得することが共産主義者の任務なのかというと、全くそうではないということです。
  つまり、現在の所有関係そのものの中で、プロレタリアートはすべて奪われているではないか…それを根底からひっくり返すことができるという階級的立場の鮮明化ということこそ、問われてたことだと思います。あるいは、現在の所有関係をひっくり返したいという現実的運動に論理的方向性(見通し)を与えることが、共産主義の役割ということではないかということです。
  他人の労働の搾取にもとづいて生産物の生産と取得が行われる…そういう私的所有のあり方こそ、絶対的に不自由で不平等の賃金奴隷制なのだ。まず、この根底的な不自由をぶち壊す以外に、その先の自由を語ることに何の意味があるのか…ということです。
  時代はそういう意味で、搾取制度をプロレタリアートの団結の拡大としての革命によって吹き飛ばす歴史的な臨界点を迎えています。それが、“新自由主義が与えてくれた革命のチャンス”ということです。あれやこれやの青写真=“目標”ではなく、現実的ひっくり返しの中にすべての展望があるということです。今、ただちに職場生産点において、共産主義者として、ブルジョアジーを打倒する階級的団結の形成の先頭にたとう! そして、マルクス主義を獲得したプロレタリア階級として世界を獲得しよう!(労働者階級自身の事業として!) このことが、今回の学習会からつかんだ実践的結論です。『共産党宣言』の中に回答はあったということです。マル青労同の同志と一緒に、質問してくれた青年を獲得していきたいと思っています。
  なお、第2章について、I同志から出されたことに関係しますが、労働者階級の階級的能力ということを、マルクス以降150年の階級闘争の総括として、積極的に出していくことが問われているという面を感じます。
  マルクス主義は滅んでいない、ということだけではない。今こそ、労働者階級の疑問も含めたすべての質問への回答を“生き方”のレベルで提示することも、そういう意味では問われているのかもしれません。
  そういう意味では、資本家的な生産様式によって生み出された労働者の階級的特質として、@平等主義的であること、A組織性をもつこと‥そういう意味では、生産力の高度化の主体的要因として、あらゆる協業形態や科学の適用に対応していることと、組織的に行動できる訓練を受けていることを、今日の団結論につながる積極面として、とらえ返すことができるのかもしれません。

【J】

 やはり、『共産党宣言』はおもしろいと思った。特に今年の『前進』夏季特別号とあわせて読むと、ものすごく豊かになる。
  僕は、2章をめぐる論議が非常に重要だと思う。2章は、共産主義者とはどういう存在か、党とはどういう存在か、ということが書かれていると同時に、そこにはプロレタリア革命の、プロレタリア独裁の豊かな内容が書かれている。そういうものとして読んでいったときに、2章が生き生きと語れるようになる気がする。
  僕自身のこれまでの問題意識として、2章の後半部がうまく語れないというのがあった。例えば、家族の問題の所で、「女性の共有制について共産主義者が批判される」とあるが、僕自身、そう批判されたことはなく、従ってオルグの中で、「共産主義者は、こう批判されることがあって、それをマルクスがこう爆砕しているんだよ」「はぁ」的なよくわからない論議になることが多かった。国家や宗教についても似た所があって、それをどう突破するか考えていた。
  今回の討論と夏季特で、その点をハッキリと転換したい。革命について、プロ独について、豊かに語るものとして、『宣言』の第2章を使っていきたい。
  あと、これまであまりオルグで使ってこなかった第3章、4章について。なるほど中身としておもしろいのはわかったが、やはり、オルグでどうかみ合っていくのかがわからない。夏季特の中に答えはある気はするが…

【a】

 今回、『共産党宣言』の第2章の中で、共産主義者が階級的立場に立ったとき、組織=党がないと、ブルジョアジーには勝利できないということ。さらに、私的所有の廃止をすることはなしに、労働者階級の解放がないこと。その土台となるのが、労働者階級=労働組合で、労働者の団結なのである。
  今日の新自由主義の攻撃は、労働者の団結を徹底的に破壊して、資本自体が生きのびようとしている。まさに、資本主義を打倒しないかぎり、労働者が生きられない時代に突入しているのだ。
  「万国の労働者・プロレタリア、団結せよ!」のスローガンを、リアルに感じる時代である。

【d】

 ○「普通の労働者」が生きられなくなっている現在、「普通の労働者こそが共産主義者として党に結集し、革命をやろう」という呼びかけを強め、「プロレタリア階級全体から切り離された利益をもたない」革共同をすみやかに建設しよう。
○48年革命当時=『共産党宣言』執筆時には「ブルジョアジーから次第に奪い取る」としていたマルクスを、パリ・コミューンがさらに変革し、「できあいの国家機構をそのまま手に入れて、自分たちの目的のために使うことができない」と言わしめた。プロレタリアートの現実の運動とその発展の中に、共産主義の「青写真」がある。
○ブルジョア的家族制度は、ブルジョアにとって死活的なものと思われる。『フランスの階級闘争』の中に、48年革命後のブルジョアジーが、「家族、財産、宗教、秩序」をスローガンに掲げ、これらを否定する(と見たてた)勢力を「共産主義だ!」として弾圧する姿が描かれていた。搾取とブルジョア的私有財産とその相続にとって家族は不可欠、ということなのだろう。
○青年労働者の中に『党宣言』をひろめ、職場から闘いを開始し、11月1万人決起へ前進しよう。

【M】

 塩川一派は、「革命運動と大衆運動は違う」と言って、大衆運動に介入しようとしている。大衆というが、大衆自身大半は労働者である。だから、この塩川一派の言い方は、大衆という名を語って、そこに階級性を運動に持ち込むことに反対するということになる。これこそ、今の階級社会に対する闘いを放棄、破壊することの宣言にほかならない。
  私は、今こそこのような大衆運動も、今の社会が階級社会であるが故に存在するということをハッキリさせたいと思う。
  労働者階級は、日々資本家階級に搾取されている。このことをいかに街頭での署名活動で声を大にして訴えられるかが今の私の問題意識だ。「この搾取され続けている社会をひっくり返そう。労働者階級が団結して資本家階級を打ち倒そう。そして、階級のない社会をつくり出そう」という訴えを、いかに論理的に結びつけて力の限り訴えられるか、このために『共産党宣言』を徹底的に使い切ることが必要だ。
  今回の学習で一番印象に残ったのは、「普通の労働者こそが共産主義者として党に結集しよう」というメッセージだ。
  マルクスは、そのことを訴えるために『共産党宣言』を書いたと思うが、そのマルクスのガイストを、なんとしても今日的に主体化していきたい。「搾取をやめろ」「私的所有を廃止せよ」の訴えを労働者の心に響くものとして磨きあげるために、『共産党宣言』にさらに肉迫していきたい。

【g】

 ○第2章の冒頭部分を“普通の労働者こそが共産主義者として党に結集せよ”というメッセージとして読みとる、という提起は重要。党の概念を、プロレタリアートの革命的団結と重ねてとらえることは、今日のわれわれの階級的労働運動路線の核心であり、塩川一派との決定的な対立点、分岐点である。共産主義者をプロレタリアートから切り離された“高み”において、プロレタリアートの自己解放性を否定し、救済の対象としてしか見ないあり方が塩川一派である。それは、党としての単一性を否定し、共産主義者を「自立した共産主義」に切り縮めることによって、共産主義そのものを否定するということでもある。この冒頭部分の核心が『共産党宣言』全体に貫かれている、ということがつかめた。まさに、「たたかう労働者は共産主義者として党に結集せよ」という見出しそのものだ。
○マルクスが安易に共産主義者の「目標」に言及しなかった、という点は、共産主義思想の根幹に関わる問題である。現実の階級闘争における資本との激しい攻防を軸とした階級的団結の形成、この本物の団結の中に、共産主義の「究極の目標」のいっさいが凝縮されているのであって、今日、動労千葉労働運動が全世界の労働者・労働組合を獲得する中身をもって前進していることの中身そのものだと思う。

【K】

 『共産党宣言』をあらためて読み直してみて、マルクスとエンゲルスの激烈で鋭角的な表現に圧倒された。プロレタリアートの存在と闘いが、いかに決定的な意義をもっているのかが鮮明に語られている。
  提起は実に新鮮で、刺激的な内容であった。とりわけ、第2章冒頭のパラグラフの内容が、「たたかう労働者は共産主義者として党に結集せよ(そして革命をやろう!)」という強烈なメッセージだという提起が、『宣言』をどう読むのかの導きの糸となった。(自分としては)
  “革命的プロレタリアートは、現実の闘いの中で党的団結(党そのもの)をつくり上げていくが、それはどのような党なのか、これが同時に「普通の労働者は党に結集せよ」という呼びかけ、組織化の論理でもある”という提起も重要であった。
  1847−48年情勢の中で、「共産主義者同盟」をほんもののプロレタリア党(共産党)として建設しようというマルクス、エンゲルスのほとばしるような熱情を感じた。
  今日、新自由主義攻撃とその破綻という中で、革命的情勢が到来しているが、こうした情勢にたいして『宣言』は実にリアリティをもってよみがえって来ている。原理的、古典的書物として神棚に祭り上げるのか、そうではなくて、まさに実践の書として確固として復権させ、使い切るのかが、自分自身に問われていると痛感した。

【W】

 前半、後半と受講して、やはり、1848年という時代にマルクスが共産主義者同盟の綱領的文書を書いて、今日の帝国主義、新自由主義の時代に的確に通用していることの「驚き」を感じています。
  今回の2章の「プロレタリアと共産主義者」で、所有の廃止のところで、認識を新たにしました。「フランス革命は封建的所有を廃止して、ブルジョア所有をもたらした」「ところで近代的なブルジョア的私的所有(私有財産)は、階級対立すなわち他人の搾取にもとづいて生産物の生産と取得が行われる、最後のそしてもっとも完成された表現なのである」「このような意味で、共産主義者は自分たちの理論を、私的所有の廃止という一語に総括することができる」のところ。
  共産主義は「個人的に獲得した・自分の労働で手に入れた所有」(個人的所有)を廃止するのか? の設問も面白く、納得いく。ブルジョア的所有以前の「小ブル的・小農民的所有」をさしているのなら、それは、工業の発達によって廃止されつつある。近代のブルジョア的私的所有のことを問題にするとすれば、賃労働と資本の関係がその内容をなしている。賃金労働者は、資本をつくり出しているのであって、自分の個人的所有をつくり出しているのではない。資本は賃労働を搾取し、新たな搾取という条件で自分自身を増殖する。−なるほどと言える。
  次の説明も認識を新たにした。「個人的所有は、二つの意味がある。個人的に獲得した・自分の労働で手に入れた」「労働者の個人的所有を廃止するということは二重の意味で問題にならない。まずそもそも、個人的所有の前提である生産手段がない。次に、個人的取得を奪うのでなくその惨めな性格(エサを得るような性格)を廃止する」のところ。
  第4章の最後の言葉は、現階級的労働運動路線の中で、ぴったりであると感動的に感じました。
  「共産主義者は自分たちの見解と意図を隠すことを軽蔑する。共産主義者は自分たちの目的が、これまでの一切の社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命のまえに震えあがるがよい! プロレタリアは、この革命において鉄鎖以外に失うものは何もない。プロレタリアが獲得すべきは全世界である。万国のプロレタリア、団結せよ!」

【L】

 ◎30年くらい前に『共産党宣言』を読んだとき、『宣言』の最後の言葉、「万国の労働者は団結せよ!」は、実に感銘を受けるものでしたが、「団結」という言葉にはずっとしっくりしないものがあった。日本共産党の「統一と団結」の名の下に行われてきた戦闘的闘いに対する排除の言葉としての「統一や団結をみだすな」が、そうさせてきた。この間、青年労働者が掲げる「団結」は、本来のマルクスの「団結」=階級的団結として実践的・革命的である。資本主義初期には、労働者の「団結」そのものが極刑であったし、共謀罪の出発点もここにあることを考えると、資本主義と「団結」は相いれないことが鮮明となる。労働者を個々バラバラにして賃労働と資本の関係を強制していくことが、資本主義存立の絶対的存立条件なのである。「団結」こそ人間の共同性の奪還であり、革命の内実だ。
◎『宣言』をはじめとして、マルクスについては思想を学ぶ、原則を確認するもので、実践についてはレーニンということがぬぐいがたくあった。しかし、この間の階級的労働運動路線論議や党学校の中で、マルクスに直接学ぶことの重要性をあらためて強く感じている。『宣言』は、まさに現在の書である。
  マルクスがどのような時代に生き、どのような課題に立ち向かったのか。我々にとっては「過去」の文献−古典であるが、実際はリアルタイムでマルクスは立ち向かったのであり、マルクスのあり方を学ぶことが重要だ。マルクスの中に日和見主義や反革命とのたたかいの原点はそろっている。レーニンがやったように、現在的にこれをとらえ、切り結んでいくことである。マルクス主義は、現実の労働者の運動であること、何かこうあるべき思想や観念的運動ではないことが鮮明になってきた。自分も自己変革を遂げ、労働運動の実践へ。

【P】

 1)前回、第1章の冒頭の一文のとらえ返しから始まり、今回、2章を全ての闘う労働者への、共産主義者としての、党への結集の呼びかけとしてとらえ返してわがものとしていくという観点が明確になったことによって、『共産党宣言』は本当にわれわれの宣言となった。しかもこれが、08年の前半決戦をうちぬき、『前進』夏季特別号としてつかみとった階級的労働運動の白熱的実践者としてはっきりさせ直した。ここに決定的な力と前進があると思います。その意味からも、具体的中身からしても、2回の『共産党宣言』の学習と討議は、夏季特そのものの地平と完全に一体である。又、そういうものとしてとらえたとき、第3章の威力、塩川一派(現代のカウツキー)との闘いの死活的意義が、レーニンの闘いを引き継ぎ、さらに前進していくものとしてよみがえる、ということだと思います。ともかく、この点が自分にとっての決定的確信となりました。
2)2つ目に、前回の講義にたいする質問、意見として出した第1章の冒頭の「階級対立を単純化し、敵対する二大陣営、直接に対峙する二大階級の分裂」云々の点について、今回の講義の冒頭であらためて整理されたことは、ちょっと枝葉のことというのでないかなり大事なことだと思います。しかしそれは、単純に字句に拘泥したという意味でなく、主体たる労働者階級の闘いの宣言として『宣言』そのものをとらえ返す、その立場にとことん立ちきったとき、はじめてかちとれた地平だという意味においてそうだということです。
3)その上で、今回非常に新鮮だったのは、「フォークト氏」からの引用の中で、そして第3章、第4章の実践的意味をとらえ返す提起の中で、マルクス自身も、当時の先進的プロレタリアートも、そしてもちろんわれわれ自身も、現有の、この自分たち労働者階級の力で、すべての勢力を味方につけて、ブルジョアジーを倒し、この世の中を根本から変えるのだということ。だからこそ、革命は何か遠い未来のことであるとか、永遠の彼岸とかでなく、日々の荒々しい階級実践、徹底的な階級闘争の中にこそあるのだ(=階級的労働運動路線の最大の核心点)とあらためてはっきりさせ直し、闘いぬく。このことが、とことんはっきりさせられた点です。

党学校通信 p24

★コラム -- 「荒々しい共産主義」と「サロンの社会主義」

 マルクスの言う「粗野で荒々しい共産主義」という意味合いは、決して否定的に言っているのではなくて、まさに労働者階級が自己を階級として自覚し、ぶっ立てていく過程そのものをさしているのだということ。いわば「サロンの中の」「お上品な」ものではない、生きた激しい階級対立の中で立ち上がり、力をつけ、あらゆる意味でブルジョアジーを打倒していく力を身につけることのできる、プロレタリアートの自己解放の力、その荒々しさ、「粗野」(=ブルジョアジーにとって)のことということが、その根幹にどっしりとすわっているのだと思いました。この点は感想的なので、違う場合は指摘して下さい。
  【P同志の受講レポートより】

 『共産党宣言』第3章の冒頭に、「近代のすべての大革命においてプロレタリアートの要求を掲げた文献については触れない。バブーフなど」とあります。これだけではなぜ触れないのかわかりにくい。その答えは、『宣言』はまさに労働者階級の解放=プロレタリア革命の宣言であり、革命の主体は労働者階級だからです。『宣言』の第1草案ともいえるエンゲルスの『共産主義の原理』では「共産主義者は社会主義者とどう違うか」という項目が立てられている。この項目を改変するかたちで独立させたのが『宣言』の第3章。どちらも、労働者階級の現実の闘いの発展にこそ共産主義があるという立場です。エンゲルスはのちに、『宣言』の序文で、くりかえし<『宣言』執筆当時、共産主義は荒々しい労働者階級の運動であり、社会主義はサロンのおしゃべりと考えられていた。われわれは無条件に前者の立場に立ち切っていた>と述べています。
  マルクスは、『原理』第24項目をもっと進めて、労働者階級の現実の運動(プロレタリア階級闘争)の推進貫徹の立場から、これまでの「社会主義および共産主義」の観念性・空想性(労働者階級の闘争にもとづかない)をまとめて根底的に批判するというスタンスにした。そうすることによって問題はもっとはっきりさせられた。
  マルクスは、『経済学・哲学草稿』(1844年)において「粗野な共産主義」という言葉で、中途半端な共産主義(私有財産を積極的に止揚せず、ただ普遍化するだけの小ブル的共産主義)を批判しました。そのときのマルクスは、より高次のもの・真に解放されたあり方を表現するものとしては社会主義という言葉を使っていますが、この段階でも、けっして労働者の〈荒々しい闘争〉への否定感などはありません。
  (講師・仲山良介)