第9期第5回 マルクス・エンゲルス 『共産党宣言』(下)後半講義概要 講師 仲山 良介 第2章 プロレタリアと共産主義者(1)たたかう労働者は共産主義者として党に結集し、革命をやろう 「共産主義者(たち)はプロレタリア一般にたいしてどんな関係にたつのか? 共産主義者は他の労働者党にくらべてなんら特別の党ではない。共産主義者は、プロレタリア階級全体から切り離された利益をもたない。共産主義者は、特別の原則を立てて、その型にプロレタリアの運動をはめ込もうとするものではない」 (2)共産主義者は何をめざしているか では、「当面の目標」に対して共産主義者の「究極の目標」とは何か。第1章のなかでは、将来の状態、目標のようなものはほとんど述べないで、あくまでも「プロレタリアの歴史的運動」そのものについて述べるかたちをとっていた。ここ第2章冒頭ではじめて、プロレタリアートの運動の目標(一般的到達点)としての共産主義について述べる。その場合、次のように入っていく。 ●共産主義は個人的所有を廃止するのか? ここでの展開は、『資本論』の第1巻第7編第24章第7節の個体的所有の復興のところとほとんど重なる。まさに革命は所有を問題にするのです。生産関係と所有関係は表裏一体の問題であり、それは階級支配の問題なのだということを突き出していく。 ●人格と自由、個人(の廃止) ブルジョアジーには、本当に人格というものがあるのか。彼らは資本の「意志」の執行者であるにすぎない。こうした歪んだ人格やら自由やらが、資本関係の廃止とともに廃止されるのは当然。また自由とは、「ブルジョア的生産関係のもとでは」自由な商業、売買・取引の自由、つまり資本の自由、搾取の自由であるにすぎない。ブルジョアジーの自由に関するおしゃべりは、中世の市民の隷属状態にたいしてのみ意味を持つ。 (3)精神的生産に関して ブルジョアジーにとって階級的な教養(文化)の廃止は教養そのものの廃止と同じ。ブルジョアジーが失われると嘆いている「教養」とは、圧倒的多数にとっては(労働者にとっては)、「機械になるための訓練=教養」である。 ●家族の廃止(ブルジョア的家族関係の廃止) これについては、そうとう急進的な人々でも共産主義者を非難弾劾する。 ●祖国と国民性 「労働者は祖国をもたない」「プロレタリアートは、まず政治支配を奪取し、自らを国民的階級へとたかめ、国民として自らを形成する。だから、ブルジョアジーと同じではないが、なお国民的である」(だが)「諸民族の分離と対立はブルジョアジーの発展、生活諸関係の(国際的な)一様化によってますます消え去りつつある。プロレタリアートの支配は、こうした対立分離を一掃消滅させる。少なくとも、文明諸国の団結した行動がプロレタリア解放の第一の諸条件である。」「個人による他の個人の搾取が廃止されるにしたがって、……」「国民・民族の内部での階級的対立がなくなると、諸国民相互間の敵対的関係もなくなる」 (4)宗教、哲学、道徳などのイデオロギー的諸形態 人間の意識は、生活諸関係や社会的諸関係、社会的あり方とともに変化する。精神的生産は物質的生産と共に変化していく。思想の歴史がそれを証明している。ある時代の支配的思想は、つねに支配階級の思想であった。 ●宗教、道徳、哲学は永遠か? 階級対立の歴史のなかですべての思想は動いてきた。宗教、道徳、哲学、政治、法……という社会的意識諸形態は……(階級社会が廃止されれば)存在しなくなるのです。その枠組みだけは不変のまま残るということはありえない。人間の意識活動は、自立逆立ちしたイデオロギー諸形態としてでなく、もっと生き生きした現実との関係をとりもどし、新しい形態と内容に置き換わっていくだろう。共産主義革命が階級社会と階級の廃止をもたらすものである以上、これまでの人間と人間社会のあり方との根底的決別がもたらされるのは当然なのです。 (5)プロレタリア革命・共産主義への前進について 「労働者革命の第一歩はプロレタリアートを支配階級に高めること、民主主義をたたかいとることである」「プロレタリアートはその政治支配を利用して、ブルジョアジーから次第に資本を奪い取り、国家すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に、すべての生産用具を集中し、生産力の総量を急速に増大させる」「このことは、まずは所有権とブルジョア的生産関係にたいする専制的侵害をつうじて行われる」「この方策は、経済的には不十分で維持できないように見えるが、運動の進行のなかで自分自身を乗りこえて進む」「生産様式全体を覆す手段として不可避の方策である」「国によって違うだろうが、もっとも進んだ諸国では、一般的には次のような諸方策が適用されうる」 (6)第2章の結語部分「階級の廃止と国家、および古いブルジョア社会の廃止」 プロレタリアートがブルジョアジーの支配を倒し、権力をとり、支配階級となり、そして 第3章 それまでの社会主義および共産主義理論の批判(社会主義的および共産主義的文献)それまでの「社会主義および共産主義」批判のかたちでマルクス主義的なものの考え方が提起されている第3章の位置は重要です。歴史的なプロレタリアートの運動(階級闘争)、その実践的貫徹として共産主義をつかんでいく立場そのものの表明。これが160年後の今現在、完全に生きていることをつかんでほしい。 <略> ●「真正」社会主義批判についてここは、エンゲルスの『共産主義の原理』にはなくて、マルクスが新しく追加した部分。「ドイツ社会主義または共産主義」批判である。じつは昨日までの自分たちもここに入る。その意味で、ここは「自己批判→階級的移行の貫徹」である。実践的にも重要な意味をもっていた。 <略> ●批判的・空想的な社会主義および共産主義について 「これらの創始者は、彼らの計画がもっとも苦しんでいる階級としての労働者階級を代表していると思っているが、プロレタリアートをこのように最も苦しんでいる階級としかみることができない」 第4章 全体のまとめ 共産主義革命の宣言(種々の反政府党にたいする共産主義者の立場)まず、当時のいくつかの反政府党、労働者党に対する共産主義者の態度を述べている。つねに革命的な民主主義派を支持するがどんな場合でも批判の権利を保持する。 ●ドイツについて<略> ●まとめ 「共産主義者は、どこでも現存の社会的政治的状態に反対するすべての革命運動を支持する。こうした全ての運動において、共産主義者は所有の問題をその発展形態のいかんにかかわらず運動の根本問題として提起する」 |
討論から●P 今度の『前進』夏季特別号の展開と、この『共産党宣言』のわれわれ的とらえ返しというのは、階級的労働運動路線の白熱的実践をやっていく場合のカギになる。具体的にも夏季特の第1章は、マルクスが『共産党宣言』で、プロレタリアートの「権力奪取、共産主義への道は、はるか彼方の不確定の未来の問題ではなくて、日々の階級的実践のなかで準備されていく」と述べた(主旨)ところから始まっている。とりわけ『共産党宣言』の第2章を学習したそのものなんだけど、労働者にたいして上から新たな計画とか、新たなやり方とか、新たな原理をあてはめるのではなく、労働者階級の日々の実践の中に権力奪取、プロレタリア革命の道はあるということをハッキリさせる。その中に、現代における日本革命の道はあるということについて、これは『前進』新年号で出された点なんだけど−塩川一派が激しく反発した−この間の動労千葉労働運動の実践の中で言い切った。その地平と、『共産党宣言』の核心というのは本当につながることとして、積極的に前回と今回の展開を受け止めたいと思っているんです。前回は第1章の「いままでの歴史は階級闘争の歴史である」ということを、革命の主体であるプロレタリアート自ら最後的に革命をする宣言として読んだ。今回も非常に鮮明に、すべての闘う労働者は共産主義者として一緒に闘おう、マル青労同、革共同に入ろう、ということとして読もうということで全部貫かれたと思っている。 ●r 『共産党宣言』第4章のタイトルは「種々の反政府党にたいする共産主義者の立場」。マルクスとエンゲルスだから、ドイツ国内の反政府党について挙げているかというと、イギリスとアメリカとフランス、スイス、ポーランド、ドイツと。要するにこれは、国際連帯における共産主義者の態度と言うことができる。そこの結論でもあり、かつ全体の結論でもあるのが、「万国のプロレタリア、団結せよ」。夏季特の各章において国際連帯のことが繰り返し出てくるという中で、今の僕らが『共産党宣言』を読んだ場合に非常に近いというか、しっくりするというか、そんな感じがしている。 ●N 予習もかねて読み返してみて、第2章以下というのは、共産主義者同盟をプロレタリア階級の党として建設していく、本当に革命をできる党として建設していかなくちゃならないという中で、きわめて「党内闘争」的に、要するに階級の党、今日われわれが言うところの階級的指導部建設論というような内容をもって相当強烈に書いてあるという印象を受けた。講師の第2章の内容も、闘う労働者は共産主義者として党に結集せよ、という労働者階級にたいする呼びかけであると同時に、それが共産主義者同盟内において、実際にものすごい論争が行われていたということだ思うんです。その論争が、第2章の冒頭の所にも書かれているけども、「プロレタリア階級全体の利益から切り離された利益をもたない」。われわれの言葉で言えば、「党は階級そのものである」。で、「共産主義者は、特別の原則をたてて、その型にプロレタリアの運動をはめこもうとするものではない」と、夏季特の冒頭ですよ。プロレタリアートの日々の実践の中で革命の現実性はつくられている、革命に向かって闘いは進められていく、こうしたプロレタリアートと一体となって闘う党をつくろうという。まさにそういうことが当時のマルクスの問題意識として強力に貫かれている。 ●講師 文字通りに読めばそうだと思う。当時のプロレタリアート、労働者の状況は、いわばブルジョア的理念として考えられているブルジョア社会における一人ひとりの対等な人間としての権利、一国民としての権利、そんなものは保障されていない。いわば封建社会的な社会構造から一応法の下の平等みたいな関係になったと言われるんだけど、それはまだ建て前。この国家はわれわれの国家であるみたいな要素はほとんどない。そういう意味で国家とか国境とか関係なく、労働者はどこでも資本の搾取の対象として扱われているだけだということが、『共産党宣言』を書くときには、文字通りそうであるという関係があった。 ●G 2章の所で、個人的所有と私的所有、この私的と個人的はもともとの言葉が違う、という話があってハッとさせられた。私的というのはプライベートで、パーソナル、インディビドゥアルということと違う、民営化というのはプライバタイゼーション、プライベートにすることということで、私物化ということなんですよね。戦争と民営化に絶対反対、とくに民営化絶対反対論というのをどう訴えていけばいいのかというところで、今回ものすごくハッキリした。本当に社会的に生み出された力というのを私(わたくし)していく資本家への怒り、それは、人間が生きていく最低限の共同性としての自治体とか、そういうものまでも私(わたくし)していくのか、まさに資本主義の私的所有を貫徹していく、そして、それを個人的所有と混同させるものとして民営化、絶対に許せない。 ●I 全体としては、すごいおもしろい提起だったなと思っているんですが、個人的所有と私の何とかというのがあって、それはそれで重要だという面と、提起聞いてたら「言葉遊び」としか感じられなくて、つまんないなと思ってた。『前進』夏季特別号の流れで、今『共産党宣言』の学習会をやろうと思って、そういう問題意識もあるんですけど、第2章は、イデ闘として確かに書かれている。例えば、人格の否定だとか、自由の廃止だとか、ということをブルジョアジーが言ってくるのに対して、そもそも自由なんかないんだというのは確かにそうなんだという面と、でも、この第2章というのは、僕は共産主義のリアリズムだととらえてて、それは、現実の闘いの中でとらえられていったんです。 ●B 48年革命というのは47年の恐慌があって、労働者が一旦ほとんど生きられないという状態が世界史的にダーンと起きて、そういう中で現実に革命が勃発する。そういうことを、マルクスなんかある種予測しながら、「所有」という問題を出していると私は思っている。今起きてることは何なんだ、これはどこへ行くんだ、ということを非常にハッキリ出しているのが『共産党宣言』の2章だと思う。ブルジョアジーとの論争も言葉のことではなくて、プロレタリアートがはじめて歴史的に怒りを爆発させて台頭して、様々な蜂起に立ち上がるということに対してのブルジョアジーの罵倒。それに対して闘いながら、自分らが一体何をやっているのかということを、マルクス自身がとき明かしていくようなことなんじゃないかなと思ってて。だから、2章の中に、マルクスが労働者を獲得する、労働者の今の闘いは何なんだということをハッキリさせるものは実はあると思っている。一番切り合っている部分だと思ってて、だから、そこがわれわれとして、どうとらえ直して語りきれるかということが、今の新自由主義が破綻している中で、ものすごくダイナミックに訴えられるものになるかどうかということの、かなり核心だろうなと思っているんです。 |
受講レポートから 『共産党宣言』(下)のレポートです。【Q】 プロレタリア革命は労働者階級自身の事業である−このマルクス主義の核心問題を、1848年当時のヨーロッパの革命的情勢のただ中で、何としても共産主義者の党を作らなければならない、との実践的契機に突き動かされ、執筆したのが本書であるが、当時のマルクスの問題意識は、21世紀の現代において、世界革命情勢下における世界の労働者の「生きさせろ」の叫びの中で、まさに実践的によみがえっている、と感じました。 【S】 第3章、4章が、問答形式・エンゲルス『共産主義の原理』から『共産党宣言』のかたちで、共産主義者の党の確立と“なすべきこと”を諸派との論争、とりわけブルジョアジーとの闘争を宣言した……という提起がありました。 【X】 (一)現在の階級的団結論から、『共産党宣言』をつかみ直すことができました。 【C】 戦後、大学書店の売上げNo.1は『共産党宣言』だった。『蟹工船』が140万部売れ、ブルジョア新聞の広告にも「次はマルクスだ」と言われているほどだ。パレスチナに行った人の話では、複数の国際空港でマルクスの本が平積みにされてたと。ある労働者は、30年前は学習会を呼びかけても誰も来なかったが、今は労働学校に職場の仲間が7人来たと。 【R】 マルクスが『共産党宣言』を執筆した当時から今日まで、考えてみれば150年位しか経過していないんですね。 【B】 労働者階級の事業として共産主義があることを軸にすえられた提起になっていることを感じました。 【I】 第2章を階級的団結論として読み返すことへの挑戦だと思います。新自由主義攻撃の中で、労働者階級は徹底的に分断され、人間としての尊厳も踏みにじられ、一商品としてしか、賃金奴隷としてしか存在できなくなっている。まさに現実が、個人の人格も、自由も、家族すらも、破壊しているのです。これを転覆していくことがプロレタリア革命であり、階級的団結論なのだと思います。その労働者階級の団結を通して、職場支配権を握り、資本の専制支配をうち破っていくことのなかに、共産主義の現実性をリアルにつかむことができる。 【h】 G同志の民営化が私物化だっていう話は、当たり前のようで当たり前にとらえられてなかったので、ハッとした。新自由主義攻撃とか言ったりするけど、階級的中身がなかったと反省している。所有の問題が大切だとわかっただけでひとつ勉強になった。 【F】 ブルジョアジーは、大航海時代に世界からの侵略と略奪の上に富を築き、自然の探究から自然力を生産力として実現し、工場を造り、大量生産(物)をもって、社会を商品社会(金銭関係)に変えてしまった。それは、旧来の「共同体社会」の解体過程であった。 【Y】 『共産党宣言』は、1章で、プロレタリアートの墓掘り人としての歴史的意義を明らかにすることで非常に空気が入り、第2章では、ブルジョアジーの反論を許さないで粉砕するという共産主義者のパトスを学ぶことができる。3章、4章でも、プロレタリアの団結、共産主義者の団結を呼びかけるための路線的提起が真剣に行われていくことに、ますます共産主義者としての決起に確信を持つことができる。文字通り、人を共産主義者にオルグするための書であり、必ずできる書である。 【N】 発言したことと重なりますが、感想をいくつか。 【G】 いままで気づかず、なんとなく「こういう事がしたい」と思っていたことが何だったのかをハッキリさせてくれる本だと思った。 【r】 最も言いたいことは、発言の中で述べたのでそういうことです。やはり、そういう中で感じていることは、現実と切り結びながら古典を学ぶことの重要性ということです。今回で言えば、『前進』夏季特別号で言われていることとの類似性・共通するようなものを『共産党宣言』の中にビンビンと感じました。 【A】 前回(上)は、階級的団結について、確認することができた。 【e】 今回出された、共産主義者の“当面の目標”あるいは“究極の目標”について、ある青年から「資本主義が破産寸前であることはわかりますが、共産主義になっても、やはり別な支配や管理に置き換わるだけのように感じる」という質問が、マル青労同の同志に出されました。必死に展開していましたが結局、論破というか、相手を納得させることはできませんでした。 【J】 やはり、『共産党宣言』はおもしろいと思った。特に今年の『前進』夏季特別号とあわせて読むと、ものすごく豊かになる。 【a】 今回、『共産党宣言』の第2章の中で、共産主義者が階級的立場に立ったとき、組織=党がないと、ブルジョアジーには勝利できないということ。さらに、私的所有の廃止をすることはなしに、労働者階級の解放がないこと。その土台となるのが、労働者階級=労働組合で、労働者の団結なのである。 【d】 ○「普通の労働者」が生きられなくなっている現在、「普通の労働者こそが共産主義者として党に結集し、革命をやろう」という呼びかけを強め、「プロレタリア階級全体から切り離された利益をもたない」革共同をすみやかに建設しよう。 【M】 塩川一派は、「革命運動と大衆運動は違う」と言って、大衆運動に介入しようとしている。大衆というが、大衆自身大半は労働者である。だから、この塩川一派の言い方は、大衆という名を語って、そこに階級性を運動に持ち込むことに反対するということになる。これこそ、今の階級社会に対する闘いを放棄、破壊することの宣言にほかならない。 【g】 ○第2章の冒頭部分を“普通の労働者こそが共産主義者として党に結集せよ”というメッセージとして読みとる、という提起は重要。党の概念を、プロレタリアートの革命的団結と重ねてとらえることは、今日のわれわれの階級的労働運動路線の核心であり、塩川一派との決定的な対立点、分岐点である。共産主義者をプロレタリアートから切り離された“高み”において、プロレタリアートの自己解放性を否定し、救済の対象としてしか見ないあり方が塩川一派である。それは、党としての単一性を否定し、共産主義者を「自立した共産主義」に切り縮めることによって、共産主義そのものを否定するということでもある。この冒頭部分の核心が『共産党宣言』全体に貫かれている、ということがつかめた。まさに、「たたかう労働者は共産主義者として党に結集せよ」という見出しそのものだ。 【K】 『共産党宣言』をあらためて読み直してみて、マルクスとエンゲルスの激烈で鋭角的な表現に圧倒された。プロレタリアートの存在と闘いが、いかに決定的な意義をもっているのかが鮮明に語られている。 【W】 前半、後半と受講して、やはり、1848年という時代にマルクスが共産主義者同盟の綱領的文書を書いて、今日の帝国主義、新自由主義の時代に的確に通用していることの「驚き」を感じています。 【L】 ◎30年くらい前に『共産党宣言』を読んだとき、『宣言』の最後の言葉、「万国の労働者は団結せよ!」は、実に感銘を受けるものでしたが、「団結」という言葉にはずっとしっくりしないものがあった。日本共産党の「統一と団結」の名の下に行われてきた戦闘的闘いに対する排除の言葉としての「統一や団結をみだすな」が、そうさせてきた。この間、青年労働者が掲げる「団結」は、本来のマルクスの「団結」=階級的団結として実践的・革命的である。資本主義初期には、労働者の「団結」そのものが極刑であったし、共謀罪の出発点もここにあることを考えると、資本主義と「団結」は相いれないことが鮮明となる。労働者を個々バラバラにして賃労働と資本の関係を強制していくことが、資本主義存立の絶対的存立条件なのである。「団結」こそ人間の共同性の奪還であり、革命の内実だ。 【P】 1)前回、第1章の冒頭の一文のとらえ返しから始まり、今回、2章を全ての闘う労働者への、共産主義者としての、党への結集の呼びかけとしてとらえ返してわがものとしていくという観点が明確になったことによって、『共産党宣言』は本当にわれわれの宣言となった。しかもこれが、08年の前半決戦をうちぬき、『前進』夏季特別号としてつかみとった階級的労働運動の白熱的実践者としてはっきりさせ直した。ここに決定的な力と前進があると思います。その意味からも、具体的中身からしても、2回の『共産党宣言』の学習と討議は、夏季特そのものの地平と完全に一体である。又、そういうものとしてとらえたとき、第3章の威力、塩川一派(現代のカウツキー)との闘いの死活的意義が、レーニンの闘いを引き継ぎ、さらに前進していくものとしてよみがえる、ということだと思います。ともかく、この点が自分にとっての決定的確信となりました。 |
★コラム -- 「荒々しい共産主義」と「サロンの社会主義」 マルクスの言う「粗野で荒々しい共産主義」という意味合いは、決して否定的に言っているのではなくて、まさに労働者階級が自己を階級として自覚し、ぶっ立てていく過程そのものをさしているのだということ。いわば「サロンの中の」「お上品な」ものではない、生きた激しい階級対立の中で立ち上がり、力をつけ、あらゆる意味でブルジョアジーを打倒していく力を身につけることのできる、プロレタリアートの自己解放の力、その荒々しさ、「粗野」(=ブルジョアジーにとって)のことということが、その根幹にどっしりとすわっているのだと思いました。この点は感想的なので、違う場合は指摘して下さい。 『共産党宣言』第3章の冒頭に、「近代のすべての大革命においてプロレタリアートの要求を掲げた文献については触れない。バブーフなど」とあります。これだけではなぜ触れないのかわかりにくい。その答えは、『宣言』はまさに労働者階級の解放=プロレタリア革命の宣言であり、革命の主体は労働者階級だからです。『宣言』の第1草案ともいえるエンゲルスの『共産主義の原理』では「共産主義者は社会主義者とどう違うか」という項目が立てられている。この項目を改変するかたちで独立させたのが『宣言』の第3章。どちらも、労働者階級の現実の闘いの発展にこそ共産主義があるという立場です。エンゲルスはのちに、『宣言』の序文で、くりかえし<『宣言』執筆当時、共産主義は荒々しい労働者階級の運動であり、社会主義はサロンのおしゃべりと考えられていた。われわれは無条件に前者の立場に立ち切っていた>と述べています。 |