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2008年08月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(上)

講義概要 P1-8

★-討論から P9-14

受講レポート P14-24

2008年8月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-8  講義概要

第9期第4回 マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(上)

 前半講義概要   講師 仲山 良介 

【0】はじめに

 20世紀「戦争と革命の時代」を生き延びてきた資本主義=帝国主義はついに終わり。洞爺湖サミットはこのことを示した。だが新自由主義攻撃の破綻の中で、支配階級はどこまでもあがく。とてつもない革命的情勢への突入。
  国際階級闘争の新しい攻勢局面をどう切り開くか。その出発点=質的転換点となった6・29渋谷を頂点とするサミット粉砕闘争。市民主義的な運動や体制内的諸勢力に対して、階級的革命的な音の出る闘いをたたきつけた。内外のオルタナティブ勢力(革命なき反グローバリズム勢力)に迎合して立ち回った塩川一派などのサミット情勢を利用した反革共同・反動労千葉のうごめきを完全に粉砕した。
  青年労働者の極限的怒りにギリギリ対応する革命的戦闘的行動を唯一実現したことの意味は大きい。特に、直前の秋葉原のあの6・8事件との関係。真っ向から受け止め、だからこそ革命に立ち上がろうと、魂にくいこむ行動によるアピールを発した。これを11月にむかってグイグイと推進しよう。青年労働者・学生の組織化を圧倒的におしすすめよう。職場生産点での決起・組織化・団結形成を軸に、7〜8月政治攻防から11月の戦取へ。
  動労千葉のたたかいの階級的・歴史的意義を、もっともっとはっきりさせよう。それを軸にすべてを再編するような闘い方。原点に立ち返り、原則を貫くものが勝つ。
  こういう情勢だからこそわれわれはあらためて『共産党宣言』を学びなおす必要がある。「古典」を学ぶというよりも、あらためて労働者階級は勝利する階級であることを理論的・実践的にはっきりさせたい。

【1】「まえがき」部分で確認すべきこと

1)歴史的背景、歴史的意義

  『宣言』は、労働者階級の闘争の歴史においてどういう意味をもっているのかという視点が重要。マルクスとエンゲルス自身が階級の側に獲得され、階級移行した。文字通り労働者階級自身の革命宣言として書かれたのです。
  共産主義革命=プロレタリア革命。この確認は、具体的でありかつ根本的・原理的・本質的でもある。だから今、ストレートに『宣言』を復権できる。「資本主義の原理にもどれ」と支配階級がわめき、そして実践している今だから。
  48年革命の敗北、そこから再起し、労働者階級の運動をどのように本格的に再開し勝利に向かっていくべきか。新たな苦闘が始まった。そのすべては『宣言』の原則をめぐる闘争でもあった。〔現在にいたるまで!〕

2)『党宣言』ではなく「共産主義者宣言」だという議論について

  略。〔この項目次回あらためて〕

3)「共産主義という妖怪」

  現存社会秩序を根底的に変革破壊するのは、共産主義という妖怪(幽霊)ではなく、われわれ革命的プロレタリアートだ。要するにこのことをはっきりさせたかった。プロレタリアートによるブルジョアジー打倒・共産主義革命の宣言としてあるということ。

【2】第1章 ブルジョアとプロレタリア(その前半)

1)労働者階級は階級社会を打ち倒す存在だ

  『宣言』第1章冒頭部分を、「この階級社会を打ち倒す存在であるわれわれ労働者階級」の革命宣言としてよみとりたい。「これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という最初のセンテンスは、次のようにつながっていく。
  「すなわち、抑圧者と被抑圧者はつねに敵対関係にあって、ときには隠然としたときには公然とした闘争を行ってきた」「この闘争は、社会全体の革命的変革をもって終わるか、さもなければお互いにたたかう階級の共倒れに終わるかがつねであった」
  どんな階級のどのような闘争だったかはいろいろあるが、とにかくこれまでの歴史は階級闘争の歴史であった。根本的には、他人の労働とその生産物を奪いとって生きている社会階級と他人のために労働させられている階級との関係。だから絶え間ない闘争の歴史。対立は「煮詰まってくれば」激しく爆発し、社会のあり方を大きく変える革命的変革をもたらした(その社会がつぶれなかった場合)。しかし、これまでの歴史における階級闘争は、搾取され支配されている基本階級(多数者)が支配階級を打ち倒して勝利するという形では進んでこなかった。むしろ、諸民族の攻防・盛衰または支配階級の間の争いのような形で描かれる場合が多い。本当の階級間対立は歴史ドラマの背景のような位置に置かれる。確かに、古代の奴隷制を覆して新しい時代を切り開いたのは奴隷の反乱だったと単純には言えない。また同じように、封建社会を打ち倒したのは農民の反乱だったとも言えない。階級社会が誕生して以来、労働し社会を根底で支えてきた階級は奴隷や農奴、中世の農民などであるが、(「歴史の真のかまど」はここにこそあるのだが)この階級が直線的に勝利して新しい社会の主人公になったわけではない。
  これまでの社会における階級支配は、人格的・身分的な支配従属関係のもとに行われ、闘争は必ずしもテッペンにいる支配階級と底辺の被支配階級(働く階級=多数者)が直接ぶつかりあう形をとったわけではなかった。
  ところで、封建社会が没落した結果近代ブルジョア社会が生まれた。では近代ブルジョア社会は階級対立および階級闘争を廃止したか? してない。自由・平等がうたわれ、身分制度・身分的支配関係や人格的な従属は廃止された。では現実はどうなっているか?
  「われわれの時代、ブルジョアジーの時代は、階級対立を単純化したことを特徴としている。社会全体がますます、敵対する二大陣営、直接に対峙する二大階級に分裂していく−すなわちブルジョアジーとプロレタリアートに」
  「新しい階級対立、新しい抑圧と闘争の条件、形態が生み出された」と強調するのはどうしてか。結論的に言って、われわれ近代のプロレタリアート(労働者階級)は、これまでの歴史上の階級闘争とは違って、<ついに階級社会の存在そのものを廃止することのできる階級>であるということ。われわれは、歴史上はじめて労働する階級が、搾取し支配する階級と直接に対峙し、革命によって社会と歴史の真の主人公となる、そういう階級として、そういう現実的歴史的条件のもとに登場してきたのだということ。

2)ブルジョア社会とはどういう社会か(その歴史的形成)

  「近代のブルジョアジー自身が長い歴史的発展の産物である」
  略。 

3)「ブルジョアジーの歴史的革命的役割」(彼らは何をつくりだしたか)

  「ブルジョアジーは歴史上きわめて革命的役割を演じた」
  ブルジョアジーは全地球を駆け回る。世界市場。国境をこえた生産と消費。百年たらずのうちに、これまですべての時代をあわせたよりも巨大な生産諸力をつくりあげた。

4)ブルジョア的生産力発展の帰結<生産力と生産関係の矛盾>

  ブルジョア的生産力の発展は、最初は封建社会の中で形成された。これがある段階まで発展すると、封建社会の諸関係、封建的な社会組織、封建的な所有関係と矛盾してくる。封建的な所有諸関係は生産力の発展の束縛となる。それゆえ、この所有諸関係は粉砕されるべくして粉砕された。
  生産力と生産関係(社会的諸関係、社会組織、所有関係)の矛盾→革命的大変動。生産諸関係が変わり、封建的支配階級=封建的土地所有者そのものが消えた。封建的な農奴(農民)も存在しなくなった。それに替わって、ブルとプロという新しい階級、新しい生産関係が生まれた。
  同じような歴史の運動がわれわれの眼前で進行している。すなわち恐慌。恐慌は資本主義的生産の本質的矛盾の爆発、発現。恐慌の克服はより深刻な恐慌への道をひらき、それを予防する手段をますます狭める。
  労働力の商品化をとおしたブルとプロの階級対立のなかで生産力のこれ以上の高度化をこなし、人間生活のなかに取り込んでいくことはもはやできない。資本主義は肥大化した生産力をかかえて立ち往生している。生産力の高度化はストレートに破壊の力に転化していく。(封建社会の解体期とは比べものにならない破壊力としての作用、発現の仕方)生産力の発展そのものが資本制生産に代わる新しい生産関係、より高次の人間社会のあり方を要求している。→だからこそ、どうしてもプロレタリア革命が必要。

【3】プロレタリアート、プロレタリア革命(第1章の後半)

 「ブルジョアジーが封建制を打ち倒すのにもちいた武器が今やブルジョアジー自身に向けられている」「しかしブルジョアジーは、自分に死をもたらす武器を作り出しただけではない。その武器を取る人々をも作り出した。すなわち近代の労働者。プロレタリア」
  ここでの「武器」とは、本質的には生産力の発展そのもの。ブルジョア的に発展した生産力が恐慌という経済破綻を必然的に引き起こす。だが、ひとりでにその「反逆」(経済破綻)が革命に転化していくわけではない。ブルジョアジーは、その「武器を取る主体」、革命情勢を革命に転化する主体=労働者階級をつくり出した。労働者階級は、実際に武器をとって蜂起戦や内戦を戦い抜くという2重の意味をこめて使用されている。
  ある意味では、成長した労働者階級自身が「最大の生産力」とも言える。社会的生産の主体であるプロレタリアートは、自ら立ち上がってブルジョアジーを倒す。ブルジョア秩序を打ち壊してより高次の新しい社会をつくる。そうした歴史的存在なのです。

1)プロレタリアートとは

  プロレタリアートはこのように、ここで明示的に革命の主体として登場してくる。ここからあらためて労働者階級の闘争の発展をたどりなおす。
  ブルジョアジーつまり資本が発展する度合いに応じて、プロレタリアートも発展する。「近代の労働者階級は、労働がある限りで生きられる、しかも、その労働が資本を増殖するかぎりで仕事にありつける。労働者は、自分を切り売りする。労働力を商品として売る。だから自分自身を商品として売っているに等しい。だからまた、競争と市場のあらゆる動揺にさらされている」
  また工場労働において、労働者は軍隊的に位階的に組織される。下士官や将校のもとにおかれる。労働者は、ブルジョアジーやブルジョア国家の奴隷であるだけではない。機械の、職制の、個々のブルジョアジーの奴隷である。

2)労働者階級の闘争の発展

  「プロレタリアートはさまざまな発展段階をとおっていく。プロレタリアートのブルジョアジーにたいする闘争はその存在とともにはじまる」
  最初は個々の労働者が個々の資本家とたたかう…。この段階では労働者の結集はブルの団結の結果にすぎない。
  工業の発展とともに、プロレタリアートの数は増加する。密集した集団となり、力も増大する。その力を自覚するようになる。労働者とブルの個別的な衝突は「ますます階級間の衝突という性格を帯びる。労働者はブルジョアジーにたいする同盟を結成し、賃金要求のために結集する。労働者は恒常的な組織をつくり、反抗にそなえる。闘争はときに暴動となる」
  「労働者はときどき勝利することがある。しかしそれは一時的」「労働者の闘争の本当の成果は、…労働者の団結がますます広がっていくこと」
  「お互いに連絡がつけば容易にひとつの全国的闘争、一つの階級闘争に統一される。ところであらゆる階級闘争は政治闘争である」「このようにしてプロレタリアは階級へ組織され、それとともに政治党派に組織されていくが、それは労働者自身のあいだの競争によって、繰り返し破壊される。しかしこの組織化はいつもそのたびに再建され、ますます強力に、ますます強固に、ますます強大になる」
  「旧社会のなかにおこるさまざまな衝突はプロレタリアートの発展過程をさまざまな形で促進する」〔「知的要素」の問題、引用略します。階級的団結の発展と知的要素の発展=階級的自覚の発展が一体でとらえられていることにあらためて注目したい。〕

3)プロレタリア革命

  「今日、ブルジョアジーに対立しているすべての階級のなかで、プロレタリアートだけが真に革命的な階級である。その他の階級は、大工業の発展によって衰退し没落する。プロレタリアートこそは大工業のすぐれて固有の産物なのである」
  ブルジョアジーに抑圧されている様々な階級、階層の人々が反逆し抵抗し激しくたたかうだろう。こうした人々は、プロとともに、プロの立場に立って、プロの勝利のためにたたかう場合に真に革命的になる。「現在の利益でなく、将来の利益のために」ブルジョア的秩序の枠内でなく、ブルを打倒し共産主義(階級支配の廃止)を目指す。その中に自分の解放の条件を見出すこと。「自分の解放」とは、「自分の現在の立場を捨てること」とも言っている。共産主義のためにたたかうこと=階級的移行=プロレタリアートの立場に立ちともに闘うことなのです。
  帝国主義段階における抑圧された諸民族人民の反乱や諸階層人民の帝に対する抵抗。その位置の大きさ。唯一の革命的階級=労働者階級の立場から、これらを帝国主義打倒の共同闘争主体としてとらえ、戦略的に位置付ける。プロレタリア革命の解決課題にすえきる。労働者階級の国際的団結を基礎とした被抑圧民族の帝にたいする闘争への支援と連帯。根本的に解決できるのは労働者階級なのです。なお、新植民地体制下の被抑圧民族の中で、労働者階級の存在と隊列がますます増大していることは非常に重要な事実です。プロの国際的団結をもって帝の分断と抑圧を乗り越える条件が、圧倒的に形成されてきている。だが、それによって上記の問題自身が軽くなったというわけではない。プロレタリア革命=世界革命にとってのりこえるべき決定的な正面課題であることに変わりはない。
  なお、<帝国主義段階においては真の革命的階級は労働者階級だけではない>という間違った帝国主義論は徹底的に粉砕しなければならない。
  労働者階級がプロレタリア革命貫徹の立場から、帝に対して死活的に決起する人々とどう連帯・結合し、究極的勝利・解放につなげていくかという問題として明確にしなければならない。

●<真の革命的階級としての労働者階級>論(さらに踏み込んでいく)

  「旧社会の生活条件は、プロレタリアートにおいてはすでに破壊されている。プロレタリアは、財産をもっていない。妻や子にたいする関係は、ブルジョア的家族関係と共通点はない。近代的な資本への隷属状態は…“世界各国”…どこでも同じで、民族的性格は一掃されている。プロレタリアにとって、法律、道徳、宗教は、すべてブルジョア的偏見であって、その背後には必ずブルジョア的利害が隠されている」
「これまで支配を勝ち取ったすべての階級は、全社会を自分たちの利得の諸条件のもとに従属させることによって、生活上の地位を守ろうとした。プロレタリアは、自分自身のこれまでの獲得様式、同時にこれまでの歴史上のあらゆる獲得様式を廃止しないかぎり、社会的生産力を自分のものにできない。守るべき自分のものなど何一つない。プロレタリアにとって必要なのは、すべての私的な安全などというものを破壊することである」
獲得様式とは、狭い意味での生活の糧(必需品)の獲得=消費だけでない広がりをもつ概念です。生産と消費をトータルに一体的にとらえる。労働者が生産手段と切り離されている限りは、獲得すなわち生活の糧(単なる生存のためのエサ)の獲得でしかない。自分のエサだけは保証してくれというしかない状態そのものを廃止する。それによって、社会的生産力全体を個々人が豊かに担いかつ享受する関係が初めてつくりだせる。
「これまでのすべての運動は、少数者の運動あるいは、少数者の利益のための運動だった。プロレタリアの運動は、圧倒的多数者の利益のための、圧倒的多数者による自立的な運動である」〔ついに階級支配を廃止する存在という冒頭の確認とつながる。〕

●公的社会の全体を吹き飛ばす

  プロレタリアートは、私的欲望と経済的利害がぶつかりあういわゆる「市民社会」に対して「公的社会」の全体すなわち広義の「政治的イデオロギー的上部構造全体」を粉々に吹き飛ばさないと身を伸ばすことも出来ない。このような「公的=エセ共同的」なものは丸ごと階級的抑圧の仕組みなのです。ブルジョアジーに対する勝利は、社会と人間のあり方全体が根底から変わるということでもあります。

●世界革命と自国ブルジョアジーの打倒

  プロレタリア革命は世界革命としてしか実現できない。しかし、世界革命は、各国の労働者階級が自国のブルを倒し、プロレタリアートがひとまず(自国において)支配階級となることをとおして実現される。そこへ向かって、現在的な国際的団結の闘いを推進するのです。
  「われわれはプロレタリアートの発展の最も一般的な諸段階を描き出すことによって、現存の社会のなかに潜む多かれ少なかれ隠然とした内乱が、ついに公然とした革命となって爆発し、ブルジョアジーの暴力的打倒をとおしてプロレタリアートが自分自身の支配を打ち立てる地点にまで到達した」
  第1章全体のまとめとして、プロレタリアートは必ず立ち上がる、プロレタリア革命の勝利はこの現存社会の存立条件そのものに必然的根拠をもつということを、あらためて確認しよう。

【4】プロレタリアートの勝利の歴史的必然的根拠(第1章最後の2つの段落)

●後ろから2番目の段落

  「これまでのすべての社会は、抑圧階級と被抑圧階級の対立にもとづいてきた。しかし一つの階級を抑圧することができるためには、その階級に少なくとも奴隷的な生存ぐらいは保っていけるだけの条件が保障されていなければならない。…これにたいして近代の労働者は、工業の進歩と共に地位が上昇するのではなく、逆に自分の階級的諸条件以下にまでますます深く沈んでいく。労働者は受給貧民となり、こうした貧困が人口と富よりも急速に増大していくのである」(前半)
  資本主義のこのような状況はもうない、と言われた時期が続いた。とくに第2次大戦後、高度成長の時代に。ところが、これがまさに現在の条件に当てはまる。日本では、労働者階級の3分の1が生きていけない状態に叩き込まれている。非正規労働者が3分の1。とりわけ青年労働者のおかれた現実。資本主義、現代の帝国主義、現代資本主義が、(ふたたび)労働者を食わせることもできなくなっているのだ。彼らの条件のもとでは、われわれは生きられない。ブルジョアジーは、なぜ「工場法以前にもどす」と言っているのか。なぜ労働者保護の考え方そのものを否定しようとしているのか。全面的な弱肉強食にしないかぎり、大半の人間を純然たる搾取材料の地位に叩き落さないかぎり、資本主義そのものが危ないからです。
  「ブルジョアジーには、もはやこれ以上支配階級としてとどまることも、自分の階級の生存条件を社会にたいして規範として強制することもできなくなった。ブルジョアジーには支配する力がない。なぜなら、彼らは自分たちの奴隷にたいして奴隷制の内部で奴隷としての生存を保障することができないからであり、また奴隷に養われるどころか、奴隷を養わなければならないような状況にまで奴隷をおとしいれていかざるをえないからである。社会はブルジョアジーのもとではこれ以上生きていくことはできない。ブルジョアジーの存在はもはや社会とはあい入れない」(後半)

●最後の段落

  「ブルジョア階級の存在と支配にとってのもっとも本質的な条件は、私人の手の中に富が集積されること、つまり資本の形成と増殖である。そして資本の条件は賃労働である。賃労働はもっぱら労働者の競争にもとづく。工業の進歩は(資本の論理にたいして)無意志・無抵抗なブルジョアジーによって担われているが、競争による労働者の孤立化ではなく、組織による労働者の革命的団結をもたらす。こうして大工業の発展とともにブルジョアジーの足元から、かれらが生産し、その生産物を取得していた土台そのものが取り払われる。ブルジョアジーはなによりも自分たち自身の墓掘り人を生み出す。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利はいずれも不可避である」
  労働者の「組織による階級的団結・革命的団結」は、それがはっきりと形成され、突きつけられるならブルジョアジーの存在・支配、資本の運動そのものを成立不可能にする。
  労働者階級は、非人格的な資本の自己運動に対する防衛のためだけからも組織による階級的団結を必要とするが、この対立は本質上非和解的なものであるから、革命的団結として発展する。こうして、ブルジョアジーの存立の土台そのものが崩れる。階級的に団結したプロレタリアートを搾取して発展しつづける資本主義など存在しえない。だからブルジョアジーは、自分の墓堀り人を「生産」しているのだ。ブルジョアジーの没落・プロレタリアートの歴史的勝利は不可避である。
  「労働運動の力で革命を」というスローガン、「労働者階級の団結の究極の拡大が革命だ」というマル青労同の同志たちの提起。これは、『共産党宣言』のプロレタリア革命論の核心をズバリつかんだ提起です。『宣言』にこう書いてあるとか、『宣言』の解釈はこうだとして述べられたのではなく、自分たちの現場での闘いの中から、自分たち自身の生の言葉、実感、実践的な提起=呼びかけとして発された。そこがすごい。
  繰り返し破壊されるとしても、資本・国家権力との闘争の中で、階級的団結を革命(究極の勝利)に向かってより強力につくりあげていこう。一見したところどんな困難があろうとも、労働者階級にはそれができる。そこにすべてを可能とする鍵がある。また、本来それこそが共産主義なのだ(より高次の、自覚した労働者の結合体の形成)。21世紀『共産党宣言』復権・再確立の核心はズバリここにある。 (前半講義了)

党学校通信 p9-14

討論から

●W

 講義でも言われたが、「労働運動の力で革命を」「労働者階級の団結の究極の拡大が革命だ」という提起は、現場の闘いの中から生まれたものである。実は、『共産党宣言』も、実践的な中で出されたものだということで、われわれがこの『党宣言』を学ぶ中から改めて自信・確信をもって21世紀における『党宣言』復活、復権・再確立というふうに、改めて確認しました。
  それから質問ということで、「プロレタリアートだけが真に革命的な階級である」。7月テーゼにもあったし、私は私なりに、去年の7月から理解をして闘ってきているつもりでいます。例えば農民の階級移行というのは、プロレタリア革命の立場に、理解してというか立場に立ってというか、農民が労働者になってということではなくて、その立場に立って理解して闘うということは理解していいんですが、「自分たち自身の立場を捨て」、ここら辺の意味をもうちょっと私なりに理解したい。ここまではっきりこういう表現を使われると、どうこれを理解すればいいのかということです。

●講師

 理論的な、あるいは大きな思想的確認としては、ここに書いてあることは文字通り正しい。ただ、いわば旧来の社会の状態から、社会はブルジョアジーとプロレタリアートの2大階級の関係になったと言っても、農業生産を、いきなり工場労働のように、ブルジョアジーが労働者を雇って経営するというふうにはならない。農業生産というのは、そもそも直接的に自然との関係で、工場とは違ったやり方をしなきゃいけない。だから、農業問題は、資本主義が完全に資本主義化するという場合でも、非常に独特な形で資本の下に組み込んで、農民を圧迫しながら収奪していくみたいな、農業が成り立たない状態に追い込めながらやっていく。農業というのを解決できない困難な中に叩き込むわけです。それを、プロレタリアートは、ブルジョアジーがなし得なかったことを正しく解決していく、それができる唯一の階級である、ということをはっきりさせることがまず重要だと思うんです。
  その中で、農民の階級移行というのは、究極的に階級のない社会をつくっていくわけだから、生産手段の社会的共有とその中での共同的な生産活動という場合に、農民はいつまでも自分の私有地を持って、ということはないわけです。土地そのものを、ある個人が自分の私有財産にしているということ自体がなくなっていく。そういう中で、究極的には労働する人間として、社会的生産を営む人間として、一人ひとりの農民も、農業という分野で働いている労働者という一社会構成員として自由に結合して、社会的生産全体を計画的・意識的に運営していく対等な一員となる。そういう意味で、労働者階級を軸に社会的生産手段の共有化と社会的生産の全面的な計画的・意識的運営ということの中に、農民自身もまた階級移行しながら、階級のない社会の一員となっていく、こういう大きな意味でとらえなければいけないと思います。やみくもに農民階級というのは社会的に明日から全部なくなれ、と言っているわけじゃない。そういう極端なことを言った場合には成り立たない、そう単純じゃない、農業・農民問題というのは。もう一つ狭い意味では、先頭で闘う農民が、共産主義者としてプロレタリアートの立場に立つこと、これも階級移行です。
  今言っていることは、一応理論的に大きく言えばこういうことが言えるということであって、実際はいろんな要素が入ってきます。階級闘争は生き物だから、その辺を考えながらやっていかなければならない。考え方はそうだというふうに思っています。

●d

 マルクス自身が1843〜44年以来、正義者同盟とのかかわりを深めながら、思想的闘争も繰り広げて獲得された側面も大きいという所なんですが、1844年にあったシュレージエン織工蜂起の衝撃の中でマルクスが自己変革、階級移行を決定的にしたという側面はないんでしょうか?

●講師

 確かにこれは大事です。ルーゲは、シュレージエンの織工蜂起に対して、この絶望的な反乱は何の意味もないと言うわけです。政治的に、どう改善してもらいたいのかという内容がなくて、ただ絶望的に反乱しているだけで意味ないと。それに対して、マルクスとエンゲルスは、間違っていると批判した。この労働者の反乱の中にすべてが含まれている、このことを抜きに政治革命が重要だということを言っている奴は、実はブルジョアジーに対して一定の改良をお願いしているだけだ。だから、政治革命重要論というのは、一見戦闘的だけど、ウソだと。要するに、今われわれが共産主義者として、どういう立場に立って根本的革命についての理論と思想を確立しようとしているのか、その立場から言えば、どんなに絶望的に見えても、あの中にプロレタリアートの、この社会を根底的に否定していく中身があるということ。むしろ、あの当時のマルクスは、社会革命ということを言う。革命の社会的内容のないインチキ政治革命というのは、ブルジョア的な民主主義者なんだと。そう言って、ルーゲと決別していく。いわゆるフォイエルバッハの徒とか、ドイツから来た哲学者グループが、共産主義論、労働者と共に闘う立場で理論闘争をやっている中では、非常に重要な決別だった。
  この辺のことは例えば、われわれは一回り回ってマルクス主義者だから政治革命、権力奪取なんてことを70年闘争の延長みたいな感じで言っているときに、その中身が限りなくブルジョア的民主主義的なものになっていって、プロレタリアートがやるんだということを相当スカスカにして、ただ政治革命みたいなことを言ってルーゲと同じ状態に陥りかねない。その自覚は非常に重要な転換点でした。そういう観点で、シュレージエン織工蜂起に言及したところは、われわれの文献では『ドイツ・イデオロギー』解説本の序文にあると思います。

●F

 『前進』で「サミットを斬る」というので、地球温暖化問題が出たんですけども、今日の講義の冒頭で、「エコを『口実』(逆手にとった)にした生き残りのための争闘戦」、これは地球温暖化ということを直接に指して言われていることなんでしょうか? あるいは、もっと地球の環境破壊とか。サミットでは、温暖化が結構焦点になっていたわけですけども。

●C

 キャンパスでサミット粉砕を叫ぶときに最初、地球温暖化とか、環境問題とかを説明して、で最後に、資本主義がぶっ壊しているのに、みたいなことを言うアジテーションをやっていた。結構それそのものが、くだらないというか、やってたこと自身。例えば、職場ビラまくときとか、キャンパスビラまくときに、それを言って労働者とか学生に響くのかなというところで、やっぱりストレートな怒りとして、トヨタ、キヤノン、パナソニックとかが「エコ、エコ」と言って、JR貨物が新聞の1面に、私たちはエコを実践していますと言って、首切りやって、分割・民営化やってた。そういうところから、ぶった切っていくというか。そういう怒りと一体として、アジテーションでもビラでもやっていかなきゃなというのはあった。
  『共産党宣言』でも、「団結の究極の拡大が革命」というところで、じゃあサミット粉砕って何なのか、どこで一番勝負するのかって考えたって、何が革命なのかって、職場で、またその北海道の労働者とともに、というところで、やっぱり一番厳しいところで勝負するのが中核派なんだって。本当に青年労働者が隣の仲間をサミット闘争に必死にオルグしているというのがあって、私らのサミット決戦というのは、『共産党宣言』にある「労働者はときどき勝つ、だけど本当の勝利は」っていうところで、われわれはサミット決戦に勝利しているんだな、そこから職場で闘ったっていう、というのはある。
  あと、今ある学生と『宣言』の勉強会をやっているんですけど、階級社会というところが一番のネックで、ここでなかなか一致できない。やっぱり非和解であるということと、この社会は階級社会である、というところでなかなか一致できなくて、そこをどう乗り越えるか、どう言っていくのかというのが一番、っていうところで、今『宣言』の学習をやっている。

●講師

 環境問題というのは、帝国主義者は、それを口実にもっとあくどい事をどうやるかということしか考えてない。要するに、末期の帝国主義が生き延びるために、結局は労働者階級に対する攻撃としてとらえきっていかないと、人類共通の課題に対して一緒にどう取り組むかみたいな話になる。

●D

 今度の8・6大行動も、これまで「核と人類は共存できない」ということを私たちも当たり前のように言ってきたけども、「核を必要としている資本家と、労働者階級は共存できない」ことをハッキリさせたものに大きく転換すると言われている。

●r

 『共産党宣言』の「ときどき勝利することがあるけど一時的なものでしかない」、本当の成果は団結なんだというね。このことが、この間の階級的団結論ということで言われてきたわけですけど、そういうものとしては理解してなくて、やはり具体的な成果というか、賃上げなら賃上げとか、そういったことについ目を奪われてくるようなことがあったんじゃないかという気がするんです。でも、ここにまともに書いてある。賃上げをかち取ったって、それは一時的なものでしかないとか。それから、真の成果は団結が強まっていくんだ。だから、「団結の究極の拡大が革命だ」ということを示唆しているということだと思うんです。

●P

 講義の一番最後で、「労働運動の力で革命を」というスローガンが「すごい」という言い方をしているんだけど、やっぱり本当に今の資本や当局と、動労千葉がそうなんだけど闘い抜いている労働者から学ぶという、そういう立場でもって『共産党宣言』に接していくということが、すごい新しい力を甦らせるし、逆に『共産党宣言』が何かということを正確につかみ取っていく唯一の道なんじゃないかと思うんです、だから大賛成。
  それと、『宣言』第1章の「ブルジョアとプロレタリア」の講義に入る時に、冒頭の「これまでのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」。今日の提起ではこのセンテンスを、この階級社会を打ち倒す存在である労働者階級ということを主語において、階級社会を廃絶するために歴史的に生まれ、歴史的にそういう世界史的任務を持ったものとして自分たちはいるんだということを、全世界に向かって発信したものとして読んでいくんだと。これはこじつけでもなくて、そうだと思う。「万国の労働者、団結せよ」ということに込められているマルクスや当時のプロレタリアートの中の自覚的・政治的部分の気持ちはそうだと思うんです。そういうふうに読んでいくべきだとすごく感じる。そういう点から言うと、冒頭の所から始まって、最後の今「労働運動の力で革命を」「団結の究極の拡大が革命だ」ということは通じる問題だとすごく思う。それはだけど、読んだから通じるというんじゃなくて、『俺たちは鉄路に生きる2』や実際の労働者の闘いの中にある。
  これは僕の意見でもあり、今日も触れられた点なんだけど、新訳本で言うと10ページの所、これ結構重要だと思うんです。われわれの時代、ブルジョアジーの時代は階級対立をなくしたわけじゃないんだ、新しい形態に、っていう。そのときに、階級対立の単純化という意味について2つのことを言っている。敵対する2大陣営に分けたということと、直接に対峙する2大階級に分裂したという。後者の方もすごく大事だと思っているわけ。講義の中でも、今までの直接働いている階級、だから、どんな時代であれ生産階級ですよ。この階級が、支配階級と面とぶつかって歴史的な決戦をやって勝った歴史はないんだと。ブルジョアジーの時代になってプロレタリアートの存在によって初めて可能になるというね。だから、なぜプロレタリア階級が唯一の革命的階級なのかと、階級廃絶のための能力を持った階級として生まれてきたのかということにつながるような問題として、まず冒頭の所で押さえているということはすごく大事な点で、もっとここの所は強調して展開した方がいいんじゃないかと思う。それをもっと強烈に言ったときに、今、階級的労働運動の白熱的実践でこの世の中転覆していくんだというわれわれの路線に確信の力を与えると思います。
  それと、今の社会が成り立っているのは、資本が成り立っているのは賃労働があるからだと、それは労働者間の競争に基づくんだと。だから団結すればひっくり返っちゃうんだと。これは、1行だけどすごいことがはらまれていて、そういう精神じゃないかと思うんです。そういう観点で、『共産党宣言』を本当に武器にしていきたい。

●g

 僕も、まさにこの1章の冒頭の数パラグラフの中に、この階級社会を打ち倒す存在であるわれわれ労働者階級の宣言があるんだと。『党宣言』の中の部分部分がそうじゃなくて、本当に救済の対象じゃなくて、革命の主体なんだ、われわれ労働者は、ということが全体を貫いている、というのを今日強く感じた。
  とくに、「成長した労働者階級自身が『最大の生産力』ともいえる」という所。結論を言うと、最後の方に出てくる「組織による労働者の革命的団結」というものを大工業の発展というのは必然的につくり出したんだと。だから、これが必ず労働者自身の主体的な事業としてプロレタリア革命絶対必然なんだということだと思うんです。それが1章全体を完全に貫いているということを非常に感じて、その脈絡で、直接に対峙すると言った場合には、やっぱり職場・生産点とは別な所であるんじゃなくて、まさに資本の生産過程、ここでこそプロレタリアートと資本家が直接対峙する。そこに本当に一切の革命の主体があるんだということを言い切る、この対決が社会のすべてなんだということをはっきりさせることが重要かなと思いました。

●e

 今日の提起が、われわれが本当に前進したというか、深いところでマルクス主義という、現実にぶつかってつかんできたものが、今日の講師の提起の中に鋭く出されているなと思いました。それは、今日ここにいる老若男女というか、いろんな人たちが集まって、同じようにプロレタリアート自己解放というか、階級を廃絶し、搾取をなくすということで階級形成していくということを、今熱く燃えてやっていることなんだ、そういうすごい力強さ、一体感を感じながら今日の学習会に出てた。それは、デモもそうですよね。明日を俺たちが握っているというかね、ここの団結の拡大、法大で、そして各職場でやったものが、必ず隣の労働者を獲得していけるものがあるという確信が僕らの中に生まれている。
  それは、今日の学習会で、1つは、政治的な力あるいは公的社会、支配階級側はそういったものも駆使しながら、さっきのエコじゃないけども、自分たちが破壊しておきながら自分たちが救済をやるシンボルマークにしていこうとしているわけだけど、そんなものも全部ひっくり返すという、僕が言いたいことは、その根底性ですよ。環境も破壊されてるけど、人間だって破壊してるじゃないかという、それは職場の生産点でそういうことをやっているんだという。で、人間にとっては、連帯とか共同性がなかったら生きていけない。それを破壊している資本なわけで、これに対する根底的な怒りが、もうわれわれをつかんだんです。それを団結の拡大として今われわれは文字通りやっている。今日の学習会としても、政治的総括じゃなくて、まさにプロレタリアート解放運動を今われわれやっているんだという、そういう理論学習だったと思います。

●D

 塩川一派との激突で、共産主義者っていうのは何なのかなというのを考えると、彼らは革命は否定してないと言う。だけど、大衆団体は革命を目指す団体ではないというわけでしょ、この時代にですよ。それこそ民主主義改良的な運動をする人間がいていいじゃないかと言う。そういうのがついこの前まで革共同の中にいたということ自身も驚きだけども、逆に言うと私たち自身が、「万国の労働者、団結せよ」とかいうのは、やっぱりお題目になっていたり、本当に職場生産点での直接的な対峙であるとか、それとの非和解的な対決の中で、隣の仲間を獲得するとか、団結をつくっていくということっていうのは、本当に青年たちの決起と闘いと、それから6・29だって、5・28〜29の学生たちの闘いとか、3・8集会からの「弾圧ありがとう」とか、そういうことの中で、私たち自身もつかんできたことであるということから考えると、本当に今日言われた「共産党」宣言ということについての意味が非常に重要で、労働者階級の革命の宣言であるという、ものすごくドキドキしながら今日は聞いてたんですけど、そういう感じがしました。
  あえて塩川一派は7月テーゼを拒否し、プロレタリアートの側に階級移行することに反対し、労働者階級の力というか、プロレタリアートの世界史的な存在の意義ということを否定している。本当に完全に敵対者に転がり落ちるのは当然な姿だということを痛感して、それらと真っ正面から激突することで、無茶苦茶団結する、何とも言えない団結感を感じる。デモでも単一の党ということで感じましたけど、地方とか戦線とかで分断されていたものを完全に越えるものを、この半年くらいでつかんできたと思っています。

党学校通信 p14-24  受講レポート

受講レポートから ★『共産党宣言』(上)のレポートです。

【P】

 1)『共産党宣言』を今、われわれがどういうものとして読みこんでいくか=自らのものとしていくかという点で、講師の努力と討論でかなり重要なことが自分の中ではっきりしてきたと思います。その点で、講師は最後に、この間のマル青労同、マル学同の同志たちがつかんで打ち出した「労働運動の力で革命を」「団結の究極の拡大こそ革命」こそ、マルクス主義の核心、『共産党宣言』の核心、すごい、というくだりがありましたが、これはわれわれのこれまでのマルクス主義のとらえ方、『党宣言』のとらえ方の中に曖昧さや歪みがあった結果であると率直にいっていいと思います(われわれというより自分自身の中に)。
  その意味で、今回の講義で、本論冒頭の第1節を如何につかまえるのか→「この階級社会を打ち倒す存在である(そう自覚した)われわれ労働者階級」の革命宣言であるとはっきりさせたことは、決定的な一歩だと思います。否むしろ、そういう点をもっと直截にはっきりさせて『党宣言』全体、マルクス主義を生きた実践の武器としていく必要がもっと徹底的にあると思います。(この過程で、基本文献学習シリーズの解説も読み直しましたが、そういうとらえ方、アプローチは、ちょっと希薄なように感じました。これまでのわれわれのマルクス主義のとらえ方そのものの問題として)
2)その上で、質問、意見として出したことですが、『党宣言』冒頭のくだりを受けて、資本主義社会は階級対立をなくしはしなかった、ただそれを単純に〈2大階級〉への分裂と〈直接に対峙する〉2大階級に分裂させたという端的な指摘は、非常に重要と思います。プロレタリアートの歴史的主体的存在の核心に迫るものとして、又日々の階級関係を実践的に打ち壊しつつ、階級的団結を強固にうち固めていく確信をより鮮明に与えていくものとして、この点、より明確に打ち出していくべきと思います(自分でなかなか的確に言えませんが)。
3)総じて、今回の講義、大きく一歩踏み出したことを感じます。次回2章以降も決定的で、自分も真剣に学習していきたいと思います。それと、農民問題をめぐる討論もかなり重要な問題提起(整理)になったと思います。

【X】

 (1)「プロレタリアートだけが、真に革命的階級である。……中間諸階層、農民……彼らが革命的になるのは……自分たち自身の立場を捨て、プロレタリアートの立場に立つという場合である」という『共産党宣言』の言及は、マルクス主義の核心であり、再確認しました。ここは、「7月テーゼ」で血債主義・糾弾主義を一掃し、マルクス主義的再確立の現在的テーマでもあります。革共同の規約(=綱領的文書)にも、この部分があります。階級移行という表現をとったり、プロレタリア性の刻印と強制という規定性をとってきましたが、プロ独とプロレタリア革命の主体的構造から核心問題です。
(2)階級的団結論として「はじめに」や、第1章の後半の入口、そして最後でも、鮮明にされたことは決定的に重大であったと思います。

【I】

 階級移行の問題がありましたが、理論合宿で、「学生は階級そのもの」という提起があり、まさに学生の階級移行の問題だと思いました。法大の現実は確かに「ひどい」ものだけれど、実は職場と全く同じだということです。職場こそ資本の専制支配の要であり、これをぶち破って、労働者が団結していくことが勝利だと。法大も、そのように闘ってきています。
  ただ、それは半面であり、問題になっていることは、「労働者は革命できる」「団結して立ち上がる存在だ」と確信して、階級の前衛となって闘う共産主義者の存在であり、諸階層人民も、革命家=共産主義者として獲得することです。『共産党宣言』自身も、共産主義者同盟の綱領であり、「この旗の下に集え!」とマルクスが檄を発したものだと思います。つまり、党をつくるということ。現在的に言えば、マル青労同−マル学同各1000人建設ということですが、その最高の武器として、『宣言』を使っていきたいです。

【S】

 資本の条件は賃労働である。〔賃労働(賃金)は攻撃である=前回の『賃労働と資本』のつかみ。〕
  「賃労働はもっぱら労働者の競争にもとづく」が、孤立化ではなく組織による労働者の革命的団結をもたらす。
  最期の階級対立、絶対非和解を被抑圧階級の団結した闘いで敵を打ち倒すことができる。
  そこから労働者の世界観と勝利が確信(確認)できるのだと思いました。

【e】

 社会の主人公として登場してきたブルジョアジーの支配の時代は終わった。彼らは、資本の論理の奴隷である。
  新自由主義の破綻にもかかわらず、帝国主義(者)は、労働者階級に対する分断と支配の極限化に向かわざるを得ない。このサミットに対して、抵抗や救済ではなく、革命的プロレタリアートとして、《階級的暴力》として登場した。ここに革命の時代の中で、共産主義者の党の登場が始まった!と思う。
  講師から、今年のサミットは「地獄の黙示録」、恐るべき崩壊の開始であると規定されました。資本の過剰が破壊力としてしか機能しなくなったということです。
  その破壊力の根源にあるのは、労働者階級の分断と競争ですが、これをひっくり返す新しい社会的生産の主体としての階級的団結が、今始まっているということです。
  つまり、階級社会を廃絶する主体としての革命的プロレタリアートとして自分たちを共産主義者として表現した=つかんだということ。
  そのとき、強制される競争と分断をぶち壊す“階級的団結”の何と力強いことか、世界を獲得できる力強さがここにあります。
  労働者の革命的団結万歳! 勝利しよう!

【O】

 「プロレタリアートだけが真に革命的階級である」。何度も確認してきたことですが、改めて確認することができました。
  プロレタリアートの階級的団結だけが世界を獲得できることを改めて確認して、夏期の闘いに入っていきたいと考えます。
  本日の討論を地区の労働学校に活かしていこうと思います。

【g】

 1章全体を貫くマルクスの問題意識−“労働者階級は救済の対象ではない。賃労働の鎖をひきちぎり、この社会・階級社会そのものをひっくり返す歴史的存在なんだ!”−が鮮明となった。1章冒頭の数パラグラフの提起も、その問題意識をはっきりさせたとき、「この階級社会を打ち倒す存在であるわれわれ労働者階級」の革命宣言として読むことができると思う。
  プロレタリアートは、ブルジョアジーが生みだしたあらゆるものを武器にかえ、この社会そのものをひっくり返すことができる存在だ。何より「成長した労働者階級自身が『最大の生産力』」なのだ。労働者階級は、ブルジョアジーとの闘い−職場生産点での攻防−をとおして、組織による労働者の革命的団結をつかみとり、それが武器となる。これ自身が大工業の発展が生みだしたものだ。さらに、ブルジョアジーがつくり出した“知的要素”をもプロレタリアートは武器にかえることができる。まさに2大階級−「直接に対峙する」2大階級の激突とはそういう意味であり、「プロレタリアートこそが唯一の革命的階級」ということの本質的な意味だと思う。
  『党宣言』の部分をつかんだり、引用したりするのでなく、この全体をとおして、団結の意味をつかむことが重要。階級的団結論の深化にとって決定的であると感じた。
  また、『賃労働と資本』をやった後に『共産党宣言』をやる、というこのやり方も成功していると思う。
  前期の講師の提起よりも、はるかにわかりやすく、実践的だったと思います。

【C】

 『共産党宣言』の学習会をやるとき、「160年前のことなのに今と同じじゃないか」ということと、「この社会は階級社会である(=資本と非和解)」。ここが一致できたら、仲間になれる。
  キャンパスで闘う中で、増田打倒を掲げるのか、そうすると非和解になる→革命になる→だから言えない、ということで討論になる。そして何をもって勝利とするのか。まさに『宣言』の内容、マルクス主義が問われ、求められている。『蟹工船』が売れているのも“団結の書”としてだ。今、私たちが第一党派として時代をリードしていく、法大闘争を勝利していくことで全世界を獲得していく。

【m】

 『共産党宣言』を今、学ぶということが極めて実践的であることを強烈に感じました。我々の闘いが、具体的に『党宣言』の中味を実践している、ということに他なりません。
  「プロレタリアートだけが真に革命的階級である」という点について、国際連帯闘争的にも、労農同盟論としても、この立場を貫くことだと思います。講師の意見として書かれている、被抑圧民族の中における労働者階級の増大という問題は、NSF・KSFでもその立場からの基調でした。自分の課題として、もっと深める必要があると思っています。
  国際的オルタナティブ勢力に対して、労働運動の力で革命やろうというマルクス主義をぶつけて闘いぬこう。

【h】

 なぜ党学校に出るのかいまいち不鮮明でした。党の革命以降、あまりマルクス主義とか古典の学習をしてこなかったんですが、学習についての考え方がスッキリしてなかったのかと思います。今までは自分自身が自信を持つために、あるいはオルグ対象者と知識の上で壁を逆につくるための学習になっていたのではないかと思います。学習する事をもっと団結の武器として、隣の仲間や世界の仲間とつながるために力を入れねばならないと思います。自分にとって、今までの学習会は自分の劣等感を感じるだけのものであった気がします。だから死ぬほど大嫌いでした。団結のためなら好きになれるかもしれません。
  以上、今日の学習会の内容以前の話からになったわけですが、しかし自分にとっては、「学ぶ」という事そのものをあたり前のように前提化できないのです。なんで学ぶのか、なんでマルクスの古典なのか、ちゃんと考えてやらないとパンクするのです。
  今日の学習会は、マルクスが階級に獲得されながら『共産党宣言』を書いたという点がひとつわかった。やっぱり世間では、我々はマルクス教の信者だと思われていたりするから、いいわけがましい反論じゃなく、階級の戦闘宣言なのだという点はよくわかった。結局「労働運動の力で革命を」「団結の究極の拡大が革命」という現場の労働者の声そのものが『宣言』の核心だという点とつながる事だけど。

【r】

 『前進』2350号の『蟹工船』青年座談会企画が非常にいいと思い、この間考えてきました。そこで「マルクス主義は労働者の理論」というコラムがあり、「敵をハッキリさせて仲間をつくる」「私が仲間になりたいのはあなたなんだ」「全世界の労働者が隣にいるぞ。世界を変えるぞ」の3点が出されている。まさに『共産党宣言』で言われていることそのものです。つまり、1)ブルジョアジーとプロレタリアートの非和解性、2)ほんとうの成果は労働者の団結、3)万国のプロレタリア、団結せよ、ということです。『蟹工船』と『宣言』と『前進』の3つをもって青年労働者をオルグすることだと思いました。
  逆にブルジョアジーは、上の3つのまったく逆を体系的・系統的にやっているということ、つまり、1)ブルジョアジーとプロレタリアートは「運命共同体」論、2)労働者を団結させないようにする、3)労働者の国際的団結を破壊し、各国バラバラに分断して闘いを粉砕する(これは日本においてとくに強い)−このようなブルジョアジーの動向も、私たちとしてよく認識し、『共産党宣言』を文字通り≡創造的・現代的に実践していくことだと思いました。

【d】

 シュレージエン織工蜂起がマルクスに与えた影響について質問した理由は、マルクスが『共産党宣言』を起草するにあたって、どういう心境だったのか知りたかったため。蜂起に対して小ブル的学者が非難を集中する中で、マルクスは蜂起を断固支持した。なぜなら、非和解だから。賃金奴隷制を粉砕するには蜂起・プロレタリア革命しかないから。
  ただし、蜂起は勝利しなければ大弾圧・大虐殺が待っている。蜂起を決行した労働者に対しては、資本家どもはこのうえなく残虐になることは、1848年6月蜂起やパリ・コミューンを見れば自明である。
  労働者革命家が次々と虐殺されていく中で、マルクスは血を吐くような思いで『党宣言』を起草したのではなかろうか。
  逆に、だからこそ「共産主義者宣言」ではなく『共産党宣言』だったのではないか。一人ひとりの労働者は、資本・権力との闘争の中で傷つき倒れていく。一個一個の労働者グループや労働組合は弾圧や虐殺で壊滅してしまうが、その意志・怒りを絶えることなく階級の中に継承していくためには、革命党=共産党が不可欠である。
  幾多の労働者たちの無念を背負って、我々は階級的団結を拡大し、革命情勢を現実の革命へと転化しよう。

【L】

 20世紀冒頭に比してもとてつもない革命情勢への突入の中で、『共産党宣言』を古典を学ぶということではなく、実践の書として再学習することは実に意義あるものと感じた。
  この間の実践の中から「労働運動の力で革命を」「労働者階級の団結の究極の拡大が革命だ」というスローガンを青年が生みだしているが、これこそ『宣言』の核心である。
  生産現場(職場)で労働者の団結をつくること、これこそ共産主義運動の真髄である。生産点にこそ、資本と賃労働の絶対的非和解性が存在しており、だからこそブルジョアジーは労働者を個々バラバラにして、無力化させ、支配を貫こうとする。だからこそ団結こそが、それをうち破る力。生産点を労働者が支配すること、これが革命。
  まず自分が決起すること、そして隣の労働者を獲得すること、この最も困難な実践の中に全てがあるということ。

【H】

 岩波新書『金融権力』(本山美彦著)を読んだ。サブプライムローン問題や格差などの問題が触れられているが、解決策は、NGO金融やイスラム的な福祉だったり、そしてプルードンの再評価なども行っている。この著者を塩川一派は呼んで講演会を行った。まさに、象徴的だ。マルクス主義を投げ捨て、プルードン主義へ退行していく彼らは、まさに労働者階級を信頼していない。幹部が指導して労働者を救済するのが革命と考えているのではないか。
  『共産党宣言』の学習は、7月テーゼの学習でもある。「ブルジョアジーに対立しているすべての階級のなかで、プロレタリアートだけが真に革命的な階級である」が明確に書かれている。7月テーゼを理由に脱落していった人たちは、このことを認めようとしない。労働者はたえず被差別の側からの糾弾がなければ腐敗するという糾弾主義・血債主義は、やはりマルクス主義を歪めてきたといえる。農民との問題、被告労働者と弁護士解任問題などの階級移行をめぐる問題など、『党宣言』はきわめて現代的問題を投げかけている。古典の学習ではないことを実感した。

【a】

 『共産党宣言』の学習をして感じることは、階級社会をなくすために、労働者が団結して、資本主義を打倒する「力」を持たなければならない。『宣言』は、労働者の世界観・路線が書かれている。
  ブルジョアジーに対立できる階級は、プロレタリア階級しかないことが、歴史を踏まえて躍動的に描かれていると思った。
  やはり、「団結の究極の拡大が革命だ」ということを、非常にリアルに感じます。

【W】

 まず、レジュメの一番最後のまとめのところで、21世紀『共産党宣言』復権・再確立の核心は、「労働運動の力で革命を」「労働者階級の究極の拡大が革命だ」という提起が、まさに『党宣言』を160年後の今日、「戦争か革命の時代」に現場の闘いの中から発せられたということに同感。感銘を受けた。
  『党宣言』が今生きているということが、「古典」を学ぶという姿勢ではなくて、労働者階級は勝利する階級であることを理論的実践的にはっきりさせていくべきだと思いました。ロシア革命を実践したレーニンは、まさに『党宣言』の原則を復権するための闘争ということができると思います。
  マルクスが『党宣言』で発した重要ポイントとして受け止めた点として、プロレタリアートは、これまでの歴史上の階級闘争とは違って、「ついに階級社会の存在そのものを廃止することのできる階級」であり、「歴史上はじめて労働する階級=革命によって社会と歴史の真の主人公となる階級」として、そういう現実的・歴史的条件のもとに登場してきた階級という点だと思います。
  質問にも出しましたが、プロレタリア革命のところで、「プロレタリアートだけが真に革命的な階級である」のところで、農民についての叙述で、「彼らは革命的ではなくて、保守的である。彼らが革命的になるのは、眼前に迫ったプロへの移行という現実を直視し、自分たちの現在の利益ではなくて、将来の利益を守るために自分たち自身の立場をすて、プロの立場に立つという場合である」のところの理解と確信が深まりました。労農同盟論を発展させていく貴重な討論になったと考えています。

【F】

 資本主義は巨大な生産力を実現することで、大量の商品をつくりだし、共同体を解体し、人間関係を金銭関係にしてしまった。
  資本主義は利潤を第1とする競争と分断の社会である。資本主義の競争と分断の攻撃は労働者階級をバラバラにしようとしているのであるから、労働者の武器は団結してたたかうことである。
  資本主義は商品を生産することをとおして、その商品の中に労働者からの搾取を実現している。すなわち、資本と労働者の非和解的対決の原点は職場・生産点にある。
  職場・生産点の労働者は労働組合を拠点にして、資本の攻撃とたたかうことをとおして、団結を固める。
  労働者は職場・生産点をもっともよく知っているのであるから、団結する力は革命そのものである。
  今日の学校をとおして、『共産党宣言』はたたかう労働者の団結の仕方、あり方を宣言していることを、学びました。

【M】

 帝国主義者たちはサミットで、あたかも今の社会がかかえている問題が全て解決できるかのように宣伝してきた。その一方で、だから労働者階級は黙っていろと厳戒体制を全国に敷き、労働者階級の闘いをおさえようとした。これこそ、ブルジョア・イデオロギーの行きついた先であり、サミットは実際には帝国主義各国の争闘戦の場であることが改めてはっきりした。
  こんなでたらめな世界を根底から粉砕するものがマルクス主義であることを今こそはっきりさせよう。
  実際に今の社会は、労働者階級が生きていくことさえ極めて困難な状態に追いやられている。「蟹工船」がけっして他人事でもなく、まさに自分たちの置かれている姿そのものだと喝破し、団結を求めている若者が無数に存在している。それも20才前後でもってすでに自分たちの置かれている状況の本質をつかんでいるのだ。労働者階級として存在している現実は、生産手段から切り離され、故に自らを労働力商品としてしか切り売りできない状況であり、しかもその賃金の圧倒的低さによって、衣食住という人間としての最低の生存条件さえもが保証もされず、一人ひとりがバラバラにされていることへの人間としてのうめきであり、叫びなのだ。しかし、彼ら労働者の未来は絶望なのかと言えばそうではない。労働者階級としての階級的団結をもって闘う中に、自らの置かれた状況だけでなく、この資本主義社会そのものを変革していく展望がある。6・29サミット粉砕闘争は、そのような職場での体制内労働運動との激突を通してのぼりつめた闘いだった。
  我々は今こそ、労働者階級の団結をマルクス主義で実践的に獲得し、闘う仲間を作っていく中で、世界と社会をつかんでいこう。
  プロレタリアートは、この資本主義の中で一切を奪われているが故に又、一切を根底から獲得できる真の革命的階級たりえる存在だ。社会を実際に動かしている我々労働者階級こそが、社会を根底から人間的に変革できる。このことに自信と確信をマルクス主義で深め、闘っていきたい。

【K】

 この間の革共同のたたかいは、「21世紀『共産党宣言』の復権と再確立」そのものであることを痛感した学習会であった。
  マルクス・エンゲルスが生きていた当時の労働者階級の実態と、我々が生きている時代の労働者の実態が、これ程までに似かよってくるなんて、正直言って思ってもみなかった。まさに労働者階級が「生きていけない」と叫びをあげ、若者を中心に『蟹工船』がむさぼり読まれている状況。
  「資本の論理」「帝国主義の体制的危機」を語りながら、長い革命家人生の中で、意識が完全に後退し、体制内化してしまっていた。
  したがって、『共産党宣言』の中でのプロレタリアートの勝利の歴史的必然性についても、心の底から「そうだ!」と確信できていなかった。
  レジュメでは、「歴史的必然性」について2点が述べられた。第1点は、労働者階級が生きられないという現実。第2点は、大工業の発展(資本主義の発展)は、プロレタリアートという、ブルジョアジー自身の墓掘り人を生みだす。「組織による労働者の革命的団結」をもたらす、ということだった。
  現在、世界のいたるところで、労働者階級・人民が決起を開始している。なによりも、日・韓・米の労働者階級が階級的労働運動の復権(全世界の労働者階級の団結)をかけて連帯し、実践している。このことの歴史的意義ははかり知れない。
  『蟹工船』がオルグの武器になるのだから、ますます『共産党宣言』は今日的、実践的武器となるのは間違いない。

【D】

 @歴史的な6・29サミット決戦を闘いとった上で、なおかつ塩川一派との激烈な闘いをやりながら『共産党宣言』を学習することで、非常に実践的、空気の入る学習会だった。今回は、まえがき・第1章までだったが、まず講師の提起として、6・29の歴史的意義が語られたことが良かった。
A新自由主義の破綻ということで、階級的な非和解的激突・歴史的階級決戦に入っている。20世紀冒頭に比べてもとてつもない革命情勢に入っている中で、あらためて『共産党宣言』の復権の時ということが確認されたことが重要! マルクスの時代は生まれたばかりの資本主義ゆえの「本質」が明らかだっただろうが、今日の資本主義の終わりの時代→むき出しの破綻した本質、ということと、何より、この100年の間に何度もの敗北や裏切りを経験しつつも、なおそれを栄養にして生きかつ闘う労働者階級が膨大に生み出され、世界的通信・交通の発達や実体的運動の交流・交換があることを考えたときに、本当にプロレタリア革命は可能!と断言できる。
  わが党も、反革命カクマルとの闘いから今日の塩川一派との闘いまでも含めて、ついに党の主軸に労働者階級の指導部がぶっ立ち、マル青労同、マル学同の青年・学生が時代と闘いをけん引していく、本来の労働者階級の党が立っている。地方的、産別的、戦線的分断をこえた単一の党の建設が進んできた。非常に感無量である。(ちょっと話がそれましたが)
B学習に戻れば、「党宣言」であることの重要性、当時からの論争は興味深かった。
C2大階級対立ということ→討論でもあったが、ここを明らかにすることが、日々の職場・地域での隣の労働者を獲得する最大のカギ。ブルジョアジーの役割、プロレタリアートの存在。
Dプロレタリアートの勝利の歴史的必然性。
  「労働運動の力で革命を」「団結の究極の拡大が革命」という言葉が、今日の青年労働者の職場実践から出されたことの重要性を押さえられたことがよかったです。
E農業・農民問題について、プロレタリアートの側からの労農同盟論の展開、農民の階級移行の問題、非常にていねいに言われていたと思います。
  その上で、塩川一派はとことん卑劣に、われわれが三里塚や北富士を切り捨てたと大衆に言って歩いている、ということです。断じてウソ・デマ許せない!

【i】

 『共産党宣言』は、確かにマルクス主義の原体系を明確に宣言した文書である。しかし、その「主義」は何か自然科学の法則なのではない−卑俗に言えば「理屈」ではないということ。『宣言』はすぐれて党派闘争的な文書であり、それが労働者階級によって初めて自分自身が産み出した理論として獲得された意義は絶対である。
  したがって、「プロレタリア革命が勝利する歴史的必然性」ということも、労働者階級の存在のありように外在的にあるのではなく、労働者階級の主体的なあり方そのものに根拠がある。労働者階級はその歴史的登場以来、本来的=本質的に団結するべき階級としてある。ここに資本家階級との決定的な相違がある。「団結」こそ、労働者階級を革命的階級(革命を完遂できる階級)たらしめる歴史的根拠でもあるのだ。

【j】

 「絶対的貧困」に反対! 賛成です。収奪者の収奪を。そこには階級関係があるんだ!
  日々、あたり前のように展開される賃労働と資本の関係。しかし現場には、その関係をひっくり返す現実も横たわっている。
  『共産党宣言』で展開されるダイナミックな階級闘争観こそ必要。しかし、それの中にリアリズムがある。少数者から多数者へ。11月1万人結集へ。

【R】

 『蟹工船』が本屋に平積みになっている事態が今の情勢。世界帝国主義の危機一般を論じているだけで「左翼」とはいえない時代です。明確な変革のビジョンを、一人ひとりの労働者が自分のものとしていく時代だと思う。
  そういった時代にこそ、この『共産党宣言』が本屋に平積みの時代にしていかねば、ということだ。労働者階級が、通勤や昼休みに『宣言』を読む、というような風景にしていこう。
○まず、革命というとき、「プロレタリア革命」なんだということ。主体は「労働者」ということ。そして、労働者が団結して(ブルジョアジーと闘うことによって団結できる)、究極にはブルジョアジーから権力を奪取していくことである。この過程で、プロレタリアの党が必要だということだ。
  「アソシエーション」という言葉は、ブルジョア社会にかわる「自覚した結合」のはじまり、というのは重要だと思う。
○農業・農民問題、民族問題を、プロレタリア革命の解決課題に正面からすえきるということ。この問題提起は、きわめて実践的だと思う。今日的にプロレタリアートの国際的団結の実践において、分断・抑圧をのりこえる条件をまずつくっていくこと(国際的団結の形成)。その上に、この課題が大きく意識されなければならない。
○ブルジョアジーはもはや社会を形成できなくなった、ということは決定的である。→いまや歴史的決戦
○階級的団結の拡大→究極→革命ということが、実践の中でとらえられ宣言されたことは、本当にすばらしいことだ。労働者階級への信頼と結合体の形成へ!

【Y】

 階級的団結を、我々は新自由主義の団結破壊と対決して取り戻そうとしているのだが、それは、新自由主義攻撃がそうさせているのみならず、本来的にプロレタリア革命そのものが、ブルジョア独裁との対決を通して、プロ独をかちとり、最終的に階級のない全人民の解放を闘いとろうとすることそのものの行為として、最初から、「団結の拡大が革命」ということが言えると思った。
  また、よく我々は「分断をのりこえる」と言うが、もともと資本主義が、それまでの明示な身分制支配に代わって、強引に賃金制度=労働力の商品化によって資本主義の分断支配に屈しさせてきただけであり、団結論は、貨幣の物神性との闘いの必要性を、あらためて呼びおこすものであると思った。
  資本主義・帝国主義は、非常に特殊的な、同時に歴史的にはたった数百年でしかない「賃労働と資本」の関係で、階級支配を貫徹しているのであり、これを柱にしない「あらゆる差別撤廃運動」は、ブルジョア支配の補完の役目すらもたされることを、あばいていかなければならないと思った。

【t】

 ○階級的団結の書、団結の拡大がストレートに革命になると確信できる書として『共産党宣言』を復権することが、本当に決定的な情勢に入った。
  討論で言われたように、『宣言』1章冒頭のセンテンスを、労働者階級の戦闘宣言として読みこむことは、この本全体の読み方にかかわるポイントだと思った。
○しかし、労働現場は分断で成り立ち、団結すれば勝てる!ということをもっともっと強調していいのではないか。講義では「成果は…団結が広がっていくこと…」「容易に…1つの階級闘争に統一される」あたりの感動的展開のところがあっさりしすぎていると思います。講義ラストで「労働運動の力で…」「団結の拡大が革命」のスローガンに言及したが、ちょっととってつけて言っている印象が正直ある。『宣言』の解釈的に、ではないが、『宣言』のガイストそのものだ!と積極的に位置づけられるし、すべきではないかと思います。
○また、“成長した労働者階級自身が「最大の生産力」”というフレーズも、学習会で団結をストレートに語ってオルグすることを考えると、ちょっとすっきりしない。生産力主義的に見えてしまう。
  僕としては、「武器をとる人々」のところは、賃労働と資本関係の根幹である生産点で労働者が団結し、職場支配権をとれば革命はできるんだ、と読めるのですが、そうした理解は違うのでしょうか?

【A】

 『共産党宣言』が、なぜ「万国のプロレタリア、団結せよ」で結ばれているのか、それが結論だからだ。『賃労働と資本』の実践的結論は、階級的団結論である。『党宣言』は、労働者階級による資本主義打倒・共産主義革命の宣言。
  「これまでのあらゆる歴史は、階級闘争の歴史」を、これまでは歴史認識としてとらえてきたが、このセンテンスにマルクスがこめた思い。労働者階級は、階級社会を打ち倒す存在であり、レジュメの表題にある「労働者階級には、この世界を革命する力がある」ということ。
  では、我々はどういう存在でなければならないのか。日本の労働者階級が先頭に立って、階級的団結をつくり上げ、全世界の労働者の先頭に立って呼びかけを発していく立場であり、存在なんだということ。
  「僕らがやるべきことはただ一つ。もう社会の隅々まで燃料は山積みになっている。これに火を付け、団結をつくり上げることが、我々の仕事だ……労働運動がもう一度、団結を取り戻して、荒々しく復権する時をいよいよ迎えた」(動労千葉・田中委員長)
  団結をめぐる攻防。資本主義の原理は、分断と競争、団結の解体と否定だ。だから、階級的団結論は資本主義と最も対立する。資本と労働者の関係は、非和解的である。資本と正面から力で対峙できる階級的団結をつくり上げる闘いを動労千葉はやってきた。「労働組合とは、資本と闘うための組織であり、武器であることをハッキリさせることだ」(動労千葉・中野顧問)。
  「労働運動の力で革命を!」「団結の究極の拡大が革命だ」
  職場の闘いの実践の中から、21世紀『共産党宣言』の復権と再確立がはじまっている。階級的団結論の中にすべてを可能とする鍵がある。
  我々の闘いは今、全世界の労働者の闘いとつながっている。民主労総の闘い、アメリカのILWUの闘い。階級的労働運動路線は巨大な前進をかちとっている。今こそ、闘う労働組合が時代の最前線に躍り出るときだ。労働者の団結した力だけが、社会を変える力だ。階級的労働運動路線を爆発的に発展させ、革命情勢に切り込み、11月1万人大結集を実現しよう!

【n】

 (1)やはり感想としては、6・29を(08年前半を)闘いぬいたわれわれと階級にとっての『共産党宣言』の意義(学びなおす意義)が第1です。
  @1章冒頭の「労働者階級の革命宣言」から結語の「万国のプロレタリア、団結せよ」は、講師の提起の通り、「階級的団結論」そのものであり、「労働運動の力で革命を」「労働者階級の団結の究極の拡大が革命だ」とぴったり重なる。
  A08年前半−6・29に至るわれわれの闘いは、党(階級)の団結を徹底して求めて闘うことで、「マルクス主義の復権」をかちとることが基底に貫かれたと考えます。
(2)その上で1章の意義について、これまで以上に、数段とらえ返す必要を突きつけられました。(これは提起・討論の踏み込みと、自分の両面で。逆に言うと、これまでの「学習」がいかに浅かったかということ。)
  @冒頭の「これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」から始まる部分について。
  確かに、はるか昔に、「史的唯物論」の学習会か何かで、「歴史とは」的に概括的に考えており、「頭の中の勉強」以上のものではなかった(自分にとって。これは、「サビついていた」面もあり)。徹底して階級の立場に立つということについて、非常に良かった。
  A「武器」について。
  自分の地区の労働者学習会でも何度か議論になった点。「生産力」という点について、今回、さらに踏み込みがあると思いますが、討論の中でg同志が触れていた「ある意味で成長した労働者階級自身が『最大の生産力』ともいえる」以降の展開は、もう少しハッキリさせたい。
  この「武器」が出てくるのは、「ブルジョアとプロレタリア」のちょうど境目の所なので、かなり大事と思いました。
  B「公的社会」について。
  自分の地区学習会では、行政(4大産別にも関わる)なども含むという議論となり、1つ進んだのですが、ここも大事と思います。
(3)討論の中で、G8の「環境問題」が、少しかみ合わない面もあったと思いますが、@労働者(学生)のストレートな怒りに依拠することを太い軸とした上で、A帝国主義批判を、『共産党宣言』の今日的な深い核心のレベルでやり抜くことは、一体のものと思います。