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2008年07月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『賃労働と資本』(下)

講義概要 P1-6

★-討論から P7-11
★-コラムP12

受講レポート P12-22

2008年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-6  講義概要

第9期第3回  マルクス『賃労働と資本』(下)

後半講義概要 講師 畑田 治 

■後半のはじめに

 前半・後半の講義をとおしてはっきりさせたいことは、「資本主義の原理は分断と競争だ。共同性の解体・否定だ」ということです。それゆえ「階級的団結」論とその獲得・拡大の闘いは、資本主義の原理と根本的に対立し、プロレタリア革命論、共産主義論の核心そのものだということです。
  そもそも資本主義社会を貫く価値法則そのものが、資本間の利潤獲得の競争によって成立するものです。資本主義は競争原理を社会の隅々に貫く。労働者間の競争、資本間の競争、国家間の競争は、資本主義のもとで不可避的に激化します。
  今日の新自由主義攻撃は、その競争原理がむき出しになったものです。あらゆる結合、紐帯、共同性を破壊していくことを特徴としています。
  だが、他面では資本主義は労働者をバラバラに分断した上で、大工業の発展につれて労働者の大規模な階級的団結の条件をもつくり出します。交通・通信、文化・教育の発達も、新たな団結の条件をつくり出します。このことも、しっかりと確認したい。だからプロレタリア革命は、けっして貧しさを土台とした狭い共同体への回帰ではなく、より発展した形での豊かな、新しい共同社会の実現をめざすものであり、その条件が資本主義のもとでつくられるということです。
  このことを確認して、第2章以下に入っていきます。

■(第2章)商品の価格は何によって決定されるか?

 第2章は岩波文庫版の47p.2行目〜56p.6行目です。
  労賃は第1章で見たように、労働力商品の価格です。では、労働力商品の価格とは何か? それはどのように決定されるか。そこでまず前提的に、そもそも商品の価格、あるいはその根底にある価値は何によって決定されるかを見ておきましょう。

●商品の価値は労働時間で決まる

  商品の価格は、市場における買い手と売り手の競争、需要と供給の関係で変動します。その上下の変動の基準となるもの、それが商品の価値ですが、マルクスはそれをここでは、〈生産費〉として提起しています。
  この生産費を決めるものは、つきつめると生産に社会的に必要な労働時間です。「社会的に必要な労働(時間)」という意味は、どのような部門における具体的に誰のどのような労働であるかにはかかわりのない〈あるものの生産(再生産)に必要な社会的労働時間〉ということです。ある商品(生産物)を得るためには社会的に見て、繰り返しある時間の人間労働が必要になる。結局は、それが生産費の根拠になります。【これは資本家のいうコストとは次元の違うことです。】
  以上のことをふまえて、では労働力商品の生産費とは何でしょうか? 「労働力商品の生産に必要な労働時間」とは、どういうことでしょうか。

●労働力商品の価値は、労働力(労働者)の維持・再生産の費用

  労働力商品は、資本家が直接、工場で生産できるものではありません。だから、同じ商品とはいっても、他の商品のように「商品の生産に投入された労働時間」によって直接に価値が決まるというものではありません。別のかたちをとります。
  資本家にしてみれば労働力商品が再生産されれば、それでいいわけですから、労働力商品の価値=価格(労賃)とはつまり、労働者が自らの労働力を維持し再生産するための費用ということになります。それは労働者の生存のために必要な生活手段の価値によって間接的に規定されます。

●資本はたえず、労働者が生存と繁殖を維持する水準に労賃をおし下げる

  「機械の普及と分業によってプロレタリアの労働は、独立性をすべて失い、そのため労働者にとってまったく魅力ないものになってしまった。労働者は機械の単なる付属物となり、労働者に求められるものは、もっとも単純で、もっとも単調で、もっとも簡単に習得できる作業だけとなった。だから労働者にかかる費用は、ほとんど、労働者が自分たち自身の維持と自分たち労働者種族の繁殖に必要な最小限の生活手段に限られる」(『共産党宣言』)
  労賃は、@労働者の個体的な再生産の費用、A労働力(労働者種族=労働者階級)を世代的に再生産するための繁殖費、B労働者が平均的範囲で一定の質の労働力を獲得するために必要な限りでの修養費、という3つの要因に規定されます。
  今日、ボーナスとか賞与とか、まるで利益の一部を労働者に分配するかのような、あるいは「ごほうび」のような体裁を取っているものは、すべて労働者を分断し、団結を破壊し、資本家に忠誠を誓わせるための卑劣な手段です。手当てとか、歩合制とか、成果主義賃金とか……労働者を支配し分断し、とことん搾り取るために、資本家は賃金について、歴史的に基本給を低く抑えて、あとは働き度次第とするなど、労働者を分断し、より一層の強制労働に駆り立てるために、あらゆる策謀をめぐらしてきました。
  賃金制度は、資本家による労働者支配の決定的な道具です。労働者・労働組合は、賃金制度の階級的本質と分断攻撃の狙いを暴き、団結して闘おう。

■(第3章)資本とは何か

 第3章は56p.7行目〜64p.6行目です。本章では、資本主義社会がけっして永遠不変の社会ではなく、始まりと終わりをもった一歴史段階であることを明確にしています。そして、その唯物史観の立場から、「資本」についての俗説(「生産に役立つ機械や設備など」)を批判し、資本の本質が、モノではなく社会的な生産関係であることをはっきりさせています。
  まずマルクスは、社会的生産諸関係が、歴史的に変遷してきたことを次のように言っています。(57p.11行目〜)
「社会的生産諸関係は、物質的生産手段の・生産諸力の・変化および発展とともに変化し変動する。生産諸関係はその全体において、社会的諸関係・社会と名づけられるものを、しかも、一定の・歴史的な・発展段階における一社会を、独自な・別個な・性格をもつ一社会を形成する。古代的社会、封建的社会、ブルジョア的社会は、生産諸関係のかかる全体であって、そのおのおのは同時に、人類の歴史における特殊的な一発展段階を表す」
  資本主義社会は人類史の終点ではないこと、人類史の特異な通過点であることをはっきりさせましょう。

●資本とは、特定の(=ブルジョア的な)社会的生産関係のこと

  生産に役立つ機械や道具は、一定の社会的諸関係(諸条件)のもとでのみ、資本となるのです。
  資本とは、その本質をつきつめると、ひとつの社会的生産関係=ブルジョア的生産関係のことです。賃労働と資本は、同じ事柄(ブルジョア的生産関係)の裏と表の関係、不即不離、表裏一体の関係です。賃労働(労働力の商品化)のないところに資本は存在しません。

●資本は体を変える

  たしかに資本は、機械や原材料など物質的諸生産物の形をとります。しかし、資本はけっしてそれだけではない。同じように諸交換価値から成り立つ。資本は、量的に増大しながら自己運動する価値なのです。その価値が体を絶えず変化させながら――カネになったり、生産手段や労働力になったり、商品(生産物)になったりしながら――増殖していくのです。
  のちにマルクスが『資本論』で整理した言い方をするならば、資本は、貨幣資本(貨幣)→生産資本(生産手段+労働力)→商品資本(商品)→貨幣資本(貨幣)……というように絶えず形を変えて循環運動を繰り返しながら増殖していくのです。

●資本の成立条件は、賃金労働者の存在

  それでは、ある価値のかたまりが資本となる条件は何か? 資本の特性とは何か?
  「それが……直接の生きた労働力との交換により、自らを維持し増殖することによってである。労働能力以外に何ももたない一階級(プロレタリアート)の生存は、資本の必要な一前提である」
  つまり、資本家がどんなに多額のカネ、交換価値を持っていたとしても、それがそのままの状態で置かれているだけならば、それは増えることはない。それは資本ではない。その価値のかたまりが資本となるのは、資本家がその価値によって生産手段と労働力を購入し、商品の生産を行うことによってである。賃労働者の存在は、資本が資本であるための絶対的な条件なのです。

●資本の本領は、賃金労働者から剰余労働を搾取し価値増殖すること

  資本の本領は「自分自身の価値を維持し、さらに増殖する」ところにある。なぜ、それが可能になるのか? それこそ労働者を搾取することによってです。
  マルクスは次のように言っています。(60p.11〜14行目)
  「労働者は、自分の労働力と交換して生活手段を受け取るが、資本家は、自分の生活手段と交換して労働を、労働者の生産的活動を、創造的力を受け取るのであり、これによって労働者は、彼の消費するものを填補するばかりでなく、蓄積された労働(つまり、資本のこと)に対し、それが以前にもっていたよりも大きな価値を与える」
  人間は、1日のうちある時間働けば1日の生活に必要なものだけでなく、それ以上のものをも(剰余労働、剰余生産物)つくり出します。人間社会が、支配する階級とされる階級に分裂したのも、この剰余労働の支配をめぐってです。社会的生産諸関係の歴史的な変遷も、この剰余労働をどのような形、方法で搾取するのかの違いです。
  資本主義的生産様式も、支配階級(資本家階級)が被支配階級(労働者階級)を搾取し剰余労働(剰余価値)を搾り取る、ひとつの歴史的な階級社会です。資本家の活動の目的のすべては、この剰余価値の搾取にあります。
  本来、労働の「創造的な力」(共同労働のもつ〈社会的生産力〉)は、労働過程の辛苦を軽減し、自己実現=共同性の確証としての労働を真に人間的なものとし、また労働者自身の物質的・精神的な日常生活を豊かに発展させるためにあるものです。ところが、資本主義社会では、労働者の創造的力は、賃金と交換され、「資本の生産力」として資本家のものとなります。それは、働けば働くほど自分に敵対し、自分を支配する資本家の力を強めるものになってしまいます。

●賃金は二重の仕方で消費される。資本家には生産的に、労働者には不生産的に

  たとえば、資本家が1日5000円で労働者を雇って2万円の新たな価値をつくり出すとします。この場合、この5000円は二重の仕方で消費されました。まず資本家にとっては、生産的に消費されました。その意味は、これによって資本家は、最初の資本価値5000円を回収した上に、新たに1万5000円の剰余価値を手に入れたということです。資本家は再び、この5000円で新たな労働力を購入してまた2万円の新価値をつくり出します。5000円を繰り返し繰り返し投資して、そのたびに1万5000円の剰余価値を搾り取るのです。
  他方、労働者は賃金5000円を生活費として使い切ったら、手元には何も残りません。労働者は生きるためには毎日毎日、資本家に5000円で労働力を売って同じ交換を繰り返すしかない。だから労働者にとってこの5000円は、不生産的に消費されたのです。
  これが資本主義社会における賃労働と資本の関係なのです。

●「資本家と労働者の利害は同一」とは?

  今見てきたとおり、資本は、労働力と交換されることによってのみ増殖することができます。他方、賃労働者の労働力は、資本を増殖させることによってのみ――自分を奴隷のように酷使し支配する力を強大にすることによってのみ――資本と交換されうる。
  「賃労働者が賃労働者であるかぎり、彼の運命は資本に依存する。吹聴される『資本家と労働者の利害は同一だ』というのは、このことである」
  〈労働者階級は資本主義を転覆することで賃労働者であることをやめることができるし、それ以外に労働者階級の解放はない〉ということです。

■(第4章)賃金と利潤の関係

 第4章は64p.7行目〜74p.2行目です。
  商品の価値は〔原料+生産手段の磨損分の価値〕+〔労働で付加された新価値〕です。この〔新価値〕の部分が労賃と利潤に分かれます。(つまり、この「新価値」の一部分が労働者に払いもどされる。)
  したがって、労賃と利潤とは逆比例の関係にあり、「資本と賃労働との関係の内部に立ちどまる場合」でさえ(つまり首にされない場合でも)、資本と賃労働の利害は対立している。
  これは、今日の帝国主義の末期的危機、新自由主義攻撃のもとでむき出しになっている。企業の経常利益は5年連続で最高益を更新する一方、民間企業で働く労働者の年収は9年連続で低下しているのですから。

■(第5章)生産的資本の増大は、労賃にいかなる影響を及ぼすか

 第5章は74p.3行目〜最後です。
  ここでの結論は、「資本家間の競争―生産力の増大は、労働者間の競争をますます激化させ、労働を単調で苦痛なものとし、労賃はますます下落する」ということです。
  超過利潤を求める資本家同士の競争は、生産性向上のための合理化競争を激化させます。生産様式、生産手段は絶えず変革され、分業はより進んだ分業を、機械の使用は機械のより進んだ使用を、大規模な作業はより大規模な作業を必然的に生じさせます。これは、「資本に対し、なんらの休息も与えないで、絶えず『進め!進め!』と耳打ちする法則」です。
  そして、この資本家間の競争は労働者に何をもたらすか? それは、飛躍的な労働強化、競争の激化、労働の単調化、賃金の下落、そして恐慌です。
  より進んだ分業のもとで、労働者は自分を他人よりも安く売ることで競争し、さらに1人で5人分、10人分、20人分の労働をすることでも競争しあうのです。また、分業が進むのと同じ程度で労働が単純化され、労賃はますます下落していきます。そして、くりかえしやってくる恐慌の下で、労働者は大量に工場の外にたたき出されるのです。
  「空高くさしのばして仕事を求める腕の森はますます茂っていき、腕そのものはますます痩せてゆく」
  工場は、1人の成年男子の首を切る代わりに、3人の子どもと1人の婦人を雇う。1つの労働者家族が生活していくためには、以前に比べて4倍もの労働者の生命が消費されるのです。
  『賃労働と資本』の本文は以上で終わりです。ドイツ3月革命後の激動の中でマルクスにも弾圧が迫り、新ライン新聞への連載が中断されたのです。これ以降の展開は、マルクスが1847年に講演の準備のために書いた手稿「労賃」からうかがうことができます。

■(第6章)「救済案」「労働組合」「賃金制度の積極面」

 手稿の第6節「救済案」では、労働者に対する種々の救済案を取り上げて批判しています。
  貯蓄金庫の制度について、「しみったれの制度化」「ルンペン生活に停滞的・保守的な性格を与える」ものであると決めつけた上で、さらに貯蓄金庫は「専制主義の三重の機関」であると壊滅的に批判しています。資本主義の矛盾を体制内的に包み隠そうとする諸制度に対する、プロレタリア革命の立場からのラディカルな批判です。
  手稿の第7節「労働組合」は、これまでの展開をふまえて、実践的・結論的に労働組合のもつ決定的な意義と役割を述べています。
  「もし労働組合における現実の問題がただ……労賃の決定だけであって、労働と資本との関係は永遠的なものだとすれば、これらの団結は必然的に成功しないで挫折するであろう。だが、労働組合は、労働者階級の結合の手段であり、階級対立を伴う旧来の全社会の転覆のための準備手段である」
  『賃労働と資本』の実践的結論は、労働者の階級的団結−プロレタリア革命です。革命的情勢が到来している今こそ、動労千葉労働運動をとことん実践し、広めよう! 「労働運動の力で革命をやろう」    (後半講義了)

党学校通信 p7-11

討論から

●O

 前回の党学校で、「賃金は分断である」と、僕もそうだと思って、早速その週に地区の労働学校で、それがかなり入ったんです。薬剤師のパートをやっている人がいて、許可を持っている薬剤師の人は全然働かない、実務は自分が全部やっていると。薬事法なんかがあって、自分はこんなに働いているのに、なぜ賃金が違うのかと、いつも言っているんですけども、賃金制度というものはそもそも分断なんだというところから話をして、本人の怒りのもって行き所がハッキリした。
  僕は去年から1年契約の嘱託で自治体の現場に入りました。今年の春から非正規の組合員の第1号になって、そこのセンターの仲間と一緒に、今まで11月集会に行くけども、職場であまりやらないというのはダメであると、ちゃんと名前を出して労働学校をやろうということで、「賃労働と資本」とか「労働者の生き方」とか、動労千葉の学校のカリキュラムそのもののポスターを張って、今始めているところです。それで、自分の向かいの机の人が今度来てくれると言ったんで、一応団結づくりには成功した。
  その中で、いろいろ議論していたら、自治体労働者に賃金論を持ち込むとき独特の難しさがある。どこも皆赤字で、頭の中のほとんどは夕張になったらどうしようと。だから、こちらの方も、結構制度的な問題とかに流れちゃうところがある。この間議論して、労働運動なんだから、まず賃金論でガツンと中身が入らないと、職場で団結と言っても入いんないんじゃないか、理屈は正しいと、じゃあどうやって切りこむんだということで、それで僕の向かいの人が来ることになったのは、自治体の赤字と賃金はまったく関係ない、この一辺倒で、とにかく大討論会やるから来てくれと。こっち側が頑張ってトコトン討論して、またその中で論をつくっていきたい。
  それで、労働学校をやったら総括会議を持って、受けなかったとか、人が来なかったとか、そんな話になるんですけど、その中で出たのは、その赤字問題で、ちょうど今もガッーとガソリン上がってる時なんで、こういう話があったんです。私は借金をたくさん抱えています、ガソリンまけてくださいと、通りませんよね、いくら自治体が言ったって。それでガソリンは170円で買うわけですよ。労賃だけは、赤字を理由にして絶えず下げてくださいという話になってくる、そこに結構カラクリがあるんだと。
  つまり、職場とか階級的力関係によって、絶えず押し下げるという圧力が働いてくる、そういう値段の決まり方がする。自治体が、ガソリン買う時は借金抱えてるからまけてくれなんてことはどこにも言っていないくせに、労賃だけには言ってくる。そこにカラクリがあるんだというので、今度勝負しようという話になっている。

●f

 橋下が大阪府の経済の再建だと言って、府の職員の賃金を削減すると言っている。バブル経済のころに箱もの行政でいろんなものを建てたわけじゃないですか。資本家が土建屋を中心にして、そこに政治家も利権に群がって、そういう経済を煽りたてるためにバンバンやってきた。その破産した結果であるわけで、労働者とはまったく関係ない。そういうのに対して、ストライキで闘わなければいけないと。それは東京も同じこと。職員の削減と賃金の削減に対して、われわれは賃労働と資本は絶対非和解だということで率先して怒って、現場の職員の先頭に立って闘うということだと思うんです。
  実際、職場の中に入ると、労働者間で競争はあるし、分断されているし、その中で団結をつくるというのは容易なことじゃない。だから、何をしなければならないのかというと、やっぱり自分自身が資本に対して怒るということ。労働者同士が分断され、競争を強いられている状況に対して、自分自身が怒るということです。誰だって心の底では会社や当局に対する怒りを持っている。でも、現実がなかなか団結がかちとられてないから、その怒りを発露する場が奪われている。それに火をつけるのは、われわれしかいないだろうということだと思うんです。

●N

 「今回の講義ではっきりさせたいこと」という中で、「『賃労働と資本』の実践的結論は、『階級的団結論』である」と。だから、階級的労働運動路線の下で、絶対反対論、階級的団結論、あるいは組織拡大論という形で明らかにしてきて、とりわけ階級的団結論ということをもって、マルクス主義の現代的復権を本当にかちとっていくという問題意識の中で、この問題を通して「賃労働と資本」とは何かということをもう一度はっきりしていこうという問題意識だと思うんです。その問題意識にはまったく賛成で、いわゆる階級的団結論、団結ということをめぐって、党内においてもまだ対立がある。
  マルクスは、『共産党宣言』を書いて、その前に講演をやっているのだけれども、その後フランスとドイツで、あるいは全ヨーロッパで革命が起こって、その革命の先頭にはプロレタリアートが立っていた。だけど、そのときのプロレタリアートの支配的なイデオロギーは、賃労働と資本の絶対非和解性ではなく、「労賃は労働の対価」論だった。当時の、いわゆる社会主義勢力は全部、「労賃は労働の対価」論。そこからは、「搾取ない」論しか出てこない、「対価」なんだから、搾取はないわけです。せいぜい矛盾があるとすれば、分配における不平等しかない。だから、救済論しか出てこない。
  これに対して、マルクス主義の原理というのは、「賃金というのは労働の対価ではない。賃金というのは労働力商品の価値または価格である」、ここのところを明らかにすることによって搾取の構造を内的に明らかにしたから、労働者階級は自分の行動をとおして自分を解放し、この社会を変えることができるんだということを初めて明らかにしたわけです。すなわち、ブルジョアジーを打倒し、生産手段を奪取して自分たちが社会の主人公になることによって、搾取のない、階級のない社会を築くことができるんだと。それで徹底的に労働者階級を一から武装するというか、階級意識をもったプロレタリアートにしていく、その仕事を革命の敗北の中の総括として明らかにして出したのが、『賃労働と資本』だと思うんです。だから、最後草稿的には、「賃金制度の積極面」ということもあるけど、「労働組合」でまとめられて、短いけれども決定的なことを言っているわけです。つまり、賃金制度そのものの廃絶を目指さなければ労働組合としての意義はないと、また、未来社会においても、労働組合が旧来の社会をも転覆し、新しい社会をつくっていく母胎になる、そういう内容をガーンと出している。だから、ここまで含めて『賃労働と資本』は言っているというのを明らかにすることが、重要だと思うんです。
  今、資本と非和解的に対決していく、これを貫いていくときに、その前に立ちはだかるのが体制内。体制内というのは、カクマルから日共から全部、「搾取ない」論。要するに、「賃金とは労働の対価」論であり、結局は制度・政策要求しか出てこない。賃金制度の廃絶とかには一切触れない。だから、われわれが階級的団結と言っている中身は、青年同志たちが言っているように、資本と非和解で闘う、革命そのものを目指す、労働運動の力で革命だ、それを労働組合は本来やる力を持っている、もっと言えば、労働組合でそれをやらなかったら、労働組合たりえないんだということなわけです。それに対する真っ向からのアンチが体制内なわけです。だから、体制内と闘っているときに、われわれは個別具体的にはいろんな攻防をやっていることもあるけど、本質的には、賃金奴隷制度を廃止するのかどうなのかと、賃金奴隷制度そのものがこの社会の根本的な問題なんだ、これを打倒するために、廃絶するために、労働組合の権力をわれわれによこせと、労働組合をそういうものとしてわれわれは闘うんだ、マル青労同の同志たちが実践しているのはそういうことです。『賃労働と資本』はそれを言ってるものとして明らかにしていくのが、一番だと思う。

●P

 結論的には、今日の『賃労働と資本』の後半の提起と出された資料含めて、一番の問題は、「労働運動の力で革命をやろう」ということをどういうふうに今の時点で団結するのかということがポイントだと思う。その場合に、プロレタリアートの存在そのものが闘いの始まりなんだ、そういう存在なんだと。資本家の分断と団結破壊に対して、労働者自らがつかみ取った武器なんだ、労働組合そのものが。歴史的にも理論的にも、そういうところから始まったんだということについて、何らけれんみなく据えよう、これがまず出発点だと思うんです。だから、ブルジョアジーにとってみれば、数世紀に渡って団結をも禁止せざるをえない、元々そういうものなんだということにしっかり立って、ものを考えるというのがカギじゃないか。
  もう一つは、松崎を出してくれたのはすごく大きくて、“労働組合は革命組織とは違う”なんて言っているのは、塩川一派の姿だし、ちょっと間違えたらわれわれの中にある考え方なわけ。だから、マルクス主義の原点に戻ることが力になるんです。塩川一派との2年間近い闘いは、われわれの中のそういうものをもう一回たたき出す闘いということ。それは、『俺たちは鉄路に生きる2』の中に出ている。分割・民営化の時、他は全部ここで崩れたわけで、中野さん指導のもとで動労千葉のみ越えられた。労働者とはどういうものか、労働組合とはどういうものか、それがやっぱり人生観から全部問われたというね。で、動労千葉を学ぶということは、こういう生きた実践として、ものすごい力があるんだと、今日の提起も含めて、僕は再確認したい。

●G

 結論から言うと、今日この困難な中で来てよかった。それは、法大闘争って結局、学生の誇りをかけた闘いだと思っている。その学生の誇りをかけた闘いだということの意味がより深まったし、これからまたキャンパスで、もっと本質的な意味でそれが言えるなということを思った。
  法大のことについて自分の大学でいろいろ訴えていく中で、負け組にかかずらわっているわけにいかないというような風潮というのもある。エリート意識が数年前の学生に比べても激しいものになっている。
  例えば、クラス討論に行くと、数年前だったら、みんな好き勝手にだべってガヤガヤしている中で議論するというイメージでしょ。行くとですね、そもそもシーンとしているんですよ。何でかと言うと、休み時間の間にやっておけという課題が出されているんですよ、先に。その中で、俺だけはとにかく勝ち組になろう、というイデオロギーと今激突している。
  そういう立場から『賃労働と資本』を見直した時に、結局搾取があるのか、ないのかという問題がものすごく決定的で、要は、勝ち組とかいう思想は、賃金は労働の対価であるという思想に基づいてすべて出てきている。つまり、賃金が高いというのは、結局これは自分が価値を生み出しているから高いんだ、有能で社会のためになる人間でと、こういう。ところが、勝ち組とか何とか言われているものというのは、どれだけ搾取されるかということなんですよね、はっきり言うと。
  つまり、自分だけはリストラされず残るんだと言うわけですけど、リストラされない労働者って何なのか。それは、いかに自分の労働をうまく搾取させてやるかということ、それを争っているという、ここがすごく明らかになったと思うんです。つまり、競争して勝ち組になるということは、自分の人生をより多く資本に搾取させることを競い合うということだとはっきり言える。そこを争点にして、賃労働と資本の関係というのが最も洗練された奴隷制度なんだ。だから、あんた勝ち組っていうのは、最も奴隷として純化していく姿なんだよということをぶつけて、それが実は、単に労働現場だけではなくて、それ以前に、つまり学部生から強制されている。3回生に入った途端就活が普通なんです、今は。4年間学部生の時代が、2年にまで押し縮められて、3、4年生でインターンとかいうことで、結局安く労働力として使われる。激しく単位とか、資格とか、競争とかということで、生命自体がものすごく搾取されていっている。
  それから、松崎の話で大卒と高卒という話があって、これは今の現実から言っても論破されている理屈です。高学歴ワーキングプアという現象があって、ドクターの資格を持っている人間が月10万で暮らすのが普通。それは元々資本主義の競争原理から来ているんだけれども、今日の「賃金制度の積極面」という話ですけど、分断の壁がもうないというか、高卒だろうが、中卒だろうが、大卒だろうが、院卒だろうが、本当に現実としても同じ、そういう分断がもう成り立たなくなっている。革命の立場に立てば、それは確かに積極的な意味のあることだということを思った。対決できる条件がすでに成熟しつつある。
  『賃労働と資本』の本によって、学生とは何なのか、そこで言う勝ち組とは何なのかということがすごい明らかになって、これでもって法大闘争もさらに前進させることができるなと思ったということが一番の感想です。
  で、もう一つありまして、投機マネーということについてどう考えたらいいかというのを考えてまして、要は、投機というのと賃労働と資本、その生産過程での搾取というのの関係をちゃんとはっきりさせる必要があるんじゃないかと。つまり、労働過程で搾取された、それがマネーになっているわけです。実物経済とマネー経済、1対9と言われている、その9を支えるだけの生産力が本当にあるのに、それはものすごい形で搾取されて、トヨタとかすごい利益を上げて、そういう利潤を投機しているわけですから、元を質せば労働者から全部搾取されている、出ているということを明らかにする必要があるのではないか。
  今、インフレと食糧暴動の時代で、名目上賃金が変わらなくたって賃下げになっている。だから、搾取されてそのカネ、それを資本主義自体の破綻でもって投機されて、ますますそれによって実質的に搾取が強まっていくという、こういう循環の中に投機という問題というのを位置づける必要があるんじゃないかなと。賃労働と資本の関係ということと、今の投機の過熱とかという話というのを結びつけるにはどうしたら、というその2つです。

●e

 僕らの所も学習会を組織化して青年労働者とやっているんだけども、ある青年が言っていたのは、あらゆる職場を経験したと、で、一番きつかったのはどこかという話になって、それはトヨタのベルトコンベアで回っている、鎌田慧が書いているような「自動車絶望工場」だったと。あんなの絶対にやりたくない、どんなにカネ貰ってもやりたくない、あれをやらないために自分は他の仕事をしているようなもんだと。とにかく、本当に自分が機械にされるわけ、それで何か物音させたり物を落としたりしたら、みんなの冷たい視線が集中してアアッとなるという、もう完全に逆転した世界ですよね。

党学校通信 p12

コラム 『賃労働と資本』をどんどん使いこなそう

 マルクスは、『賃労働と資本』においてはじめて、資本主義の経済的基礎の批判を労働者にわかるかたちで、しかも本格的なかたちで提起しました。のちの『資本論』につながる基本的骨組みがそこですでに出されています。エンゲルスは、1891年に『賃労働と資本』をパンフにするとき、『資本論』の地平から、〈労働力の商品化〉の立場で一定の読みかえを行うことによって、剰余価値の搾取論を明確にしようとしました。
  ポイントは、商品の価値論および労働力の価値論。マルクスは、第2章の「一般商品の価格はどう決まるか」の所でみられるように、価格は需要供給で変動→根底にある生産費→生産に要する労働の量という形で、古典派経済学の価値論の枠内にいながらすでにそれを超えるような展開をしています。しかしたとえば〈商品の価値と使用価値の矛盾〉などはまだ出てきません。
  そのため、『賃労働と資本』では第3章で、「生きた創造的力と生活手段の交換」として資本の増殖を結論的に説いています。そういうかたちで、資本の本質は社会的生産関係(=ブルジョア的生産関係=資本制生産)であるということがズバリとつきだされていて、賃労働と資本の表裏一体性=非和解的対立性がある面では非常にわかりやすく描かれています。また後半で、資本の蓄積運動に踏み込み、恐慌の必然性まで描き出しています。
  搾取論についても、〈労働力の生産費は労働者の生存費ギリギリまで押し下げられる〉論によって強烈に突き出されています。だが、エンゲルスがこだわったように、もうひとつ、労働力商品の価値論と剰余価値の搾取(資本の蓄積運動)の関係がはっきりつかみにくいという問題が残ります。しかし、『賃労働と資本』においては、〈労働力の再生産費〉とか〈労働者の生存費〉などと言っても単純に客観的には決まらない、労働者の団結と力関係、闘争によって大きく左右されるのだということがそれだけはっきり出ているといえます。マルクス経済学を経済主義的に歪める読み方(体制内理論!)を正しく突き破るために決定的に重要な視点がここにはあるとおもう。『賃労働と資本』をもっとどんどん使いこなそう。
  (事務局)

党学校通信 p12-22  受講レポート

受講レポートから ★『賃労働と資本』(下)のレポートです。

【S】

 資本は「資本」ではなかったのか!
  『それは、一定の(歴史的な)社会的諸関係(諸条件)のもとで資本になる』『資本は体を変える』
  前回の『労賃は、……この奇妙な商品の別名にほかならない』
  人間が、資本主義の下では商品でしかなく、資本は労働者を“搾取”し、増殖し本領を発揮するのです。
  利潤を上げるために、労賃の下落攻撃を常に狙い、労働者は分断と競争に追いやられ共同性を奪われる。
  『賃労働と資本』は、ドイツ3月革命、その激動の中で中断、未完の論文だった。
  それは、マルクス主義が闘いの中で完成すべき指針であり、生産点・現場での資本を打ち払う原理です。イデオロギーです。

【O】

 階級的団結論と一体の賃金論(搾取の問題)として、すっきりしていてわかりやすかったと思います。
  分量が多いので、来年は『賃労働と資本』を3回でやるのが良いかもしれません。
  討論も活発で良かったと思います。

【j】

 ・前回にひきつづき、階級的団結論の普遍性がはっきりしました。「労働運動の力で革命をやろう」も同じく。動労千葉の闘いをそういう点からはっきり、学んでいく必要性を感じました。
  6・29も11月も、物販で組織することを考えようと実践的に考えています。
・賃金闘争−分断。実践的には「一律大幅賃上げ」だと、それはすごい考えぬかれていると、感心しました。
・革命論が深まりました。

【X】

 1)講師の提起は、現在性(階級的団結論/動労千葉労働運動/『甦る労働組合』/JR 総連・松崎の賃金論・組合論など)において、『賃労働と資本』の核心を鮮明化させられたことが、よかったと思います。
2)資本の形態変化につづいて論及された「労働力商品の特性=創造的力」の部分で、「賃金も、工場と機械・材料も、資本のすべてが、労働者がつくりだした価値によって更新され、維持される」ということに、ハッとさせられたこと。
3)第7節/労働組合と、第8節/賃金制度の積極面は、『賃金・価格・利潤』の労働組合論と同じ核心部分で、労働運動の力でプロレタリア革命をやろう、やれることをはっきりさせたことが重要だと感じました。

【R】

○賃労働と資本は徹底非妥協だということを、鮮明にしてたたかうことが大切だと確信。
○マルクスは、とことんプロレタリア革命の立場から論じているんだなと感じた。プロレタリア自己解放の思想であること。
○資本は、人間の本質である共同性を破壊している。今日の新自由主義は、こうした資本というものの本性を極限化した考え方であり、やり方である。そして、こうした本来的人間性=共同性を奪還するものが、労働者の団結、資本とのたたかいを労働組合を拠点にして階級的団結をつくることが、唯一のあり方であること即ち、プロレタリア革命が階級の廃絶ということをはっきりさせよう。
○高度の精錬された奴隷制としての資本主義体制は、労働者を分断し、「賃金の奴隷」とすることによって成立している社会制度だ。サッチャーは、「社会は存在しない、あるのは私有財産と個人だけだ」と言ったらしいが、資本主義も最末期の今日、ますます労働者のたたかいが社会を革命する時代だといえます。
  労働者の権力奪取によって実現される社会はどんな社会か、資本主義の下で馴らされている考え方や社会制度が一新されることはまちがいないし、今でいうと、動労千葉のたたかいと団結として実現しているような「社会」が無数につくり出されていくのだと思う。国境も民族もこえた団結がつくられていくということで、変わっていくと思う。
  隣の労働者が次に団結することで、世界が一変していくリアリティを日々確信していこう。
  なお、学生の提起の「投機マネー」=労働者からの強搾取というのは興味深かった。労働者から奪いとることのみを追求した結果、自家中毒現象をおこしている→腐敗、崩壊へ。つまり、資本主義システムの自壊ということだろうか。もちろん、消滅しないから打倒ということだが、いずれにせよ、この辺賃労働と資本の関係で分析するという視点は重要かと思った。

【e】

 インテリゲンチャ的に「疎外」を確認するだけでは、『賃労働』を理解したことにはなりません。前回は、資本と労働者階級が非和解であることを、経済主義的にではなく、全面的な対立としてつかみました。
  その非和解的対立が、現実に日々生起し再生産されているのに、体制内労働運動が階級対立とその革命的止揚を隠ぺいし、出口を塞いでいるということです。
  今回の後半の学習では、「資本主義の原理は分断と競争であり、共同性の解体・否定である」ことを明確にしました。ここから、階級的団結の獲得・拡大の闘いとして、奪われた共同性を奪還していく過程が、マルクス主義の核心であることが完全にはっきりしました。
  生産手段の奪還ということも、奪われた共同性の奪還を基礎にして、階級的共同意志の形成ということが可能になっていくということだと思います。
  その意味でも、「あらゆる賃金制度が資本による労働者の分断攻撃である」(動労千葉・中野顧問)ということが、理論的にも実践的にも、労働者の階級的団結を再生させるキーワード(キーセンテンス)ではないでしょうか。つまり、搾取ということへの怒りを根底的に爆発させること、これが団結の究極的拡大=革命ということです。
  前回議論にさしかかった「公務員の賃金」や「評価制度」に対して、非和解性の問題としてもだが、階級的団結の形成論としても、今回の『賃労働と資本』の学習を活かしていきたいと思います。
  「プロ独権力の樹立−ソビエト建設のリアリティは、組合執行部権力の掌握と地区党建設」だという−今回の学習会の結語の日々の実践だと思います。
  なお、以前は、6章以下のところは、『賃労働と資本』の本筋とは違う経済主義的なところとして飛ばして読んでいましたね。180度転換しなければならないと思います。
  その上で、『共産党宣言』と一体のものとして『賃労働と資本』を学ぶという押さえが大切だと思いました。

【G】

 賃金は、「労働の対価」ではない。生産過程において搾取が存在する。資本主義とは、最も洗練された究極の搾取システムであること。−このことを鮮明にしたとき、「勝ち組」イデオロギーを粉砕しつくし、目の前の労働者・学生と団結できると実感した。「勝ち組」とは、「《自発的に》資本に搾取される労働者」ということ。こんなものになるために生まれたのではない。
  資本主義の原理は競争。だが、競争すればするほど労働者はおとしめられ、誇りを奪われていく。学生も同じである。だが、誇りをかけて団結したときに、資本主義−新自由主義は〈絶好のチャンス〉として見えてくる。「高学歴ワーキングプア」の時代、「金の鎖」はよりもろくなり、分断の壁はより薄くなった。ソウル大のたたかいと法政大のたたかいは何の違いもない。「もはやおれたちの命をしぼりとるな」「しぼりとった価値で投機し、インフレを引きおこし、ますますしぼりとるこの体制はただちに倒そう」という全世界のたたかいと一つである。これもみな「新自由主義」が、国際的階級闘争を必然化した「おかげ」でもある。チャンスは活かさなければピンチであるし、ピンチは活かせばチャンスである。
  「革命をめざす団結」という立場にたったとき、『賃労働と資本』の内容は次の一語を導き出すだろう。
  新自由主義は、革命の前夜である。あとは実践的に証明するだけだ。

【f】

 ○世界革命の立場からみた新自由主義攻撃の積極的な面について提起されたのは新鮮でした。
  ひとつには、新自由主義攻撃が労働者階級にもたらしている現実が、ブルジョアジーにとって階級支配の危機をつくり出しているということ。
  ふたつには、資本の民営化、規制緩和の攻撃が全世界的であり、人種・民族・国家の別をのりこえて、全世界の労働者が資本の搾取・収奪の対象になっていること。そして、そのことが世界革命の条件を激成させているのだということ。
  そのことを躍動感をもって受けとめて、闘っていくことが重要です。
○さらに、塩川一派、カクマル、体制内派はいずれも、この新自由主義攻撃と闘えなくなっている。われわれのなかにも、「労働組合では革命は闘えない」と主張する部分があるということが、この間明らかになりました。彼らは、労働者の中にある賃労働と資本にたいする怒りを全然わかっていないのです。それに対する闘争をやり、それをとおして自分自身が変わっていくことが、今回の党学校の実践的結論です。
○新自由主義の積極面、資本のグローバリズムによって、資本の攻撃が人種・民族・国家を問わず、世界のすべての労働者階級にかけられるようになった。だから、労働者のたたかいは、全世界、全人類的なものにならざるをえないし、そうなる。

【N】

 『賃労働と資本』を、階級的団結論で読み解くことは重要だと思った。発言したことだが、今、この「団結」論をめぐって党内に対立があり激しくぶつかっている。青年たちは、「資本と非和解で闘わない、革命そのものを目指さない“団結”などウソだ!」と批判している。
  まさに階級的団結論をはっきりさせるためには、賃労働と資本の非和解性−搾取の構造を明らかにし、賃金奴隷制度そのものを廃絶する意義と役割が労働組合にあること、労働組合は労働者の階級的団結体として、賃金制度廃絶−資本主義打倒の階級的闘争機関とならねばならないこと、階級的労働運動路線でそれを貫こうということだと思う。この立場から、「賃労働と資本」とは何かを、労働者が怒り、奮い立つ批判の武器として、自分としても、労働者の中で勝負していけたらと思っている。
  今の連合、全労連はもとより、日本共産党、カクマル、塩川一派なども全部、マルクスが徹底批判したプルードンなどと同じく〈労働の対価としての労賃〉論に立つか、それに屈服していると思う。この理解では、労働者のおかれている現実の原因は、全て賃労働と資本の関係の外へ移されてしまう。それではプロレタリアートは、事態の核心がつかめなくなり、自分の行動によって、闘いによって、解決することができない問題になってしまう。マルクス主義の核心は、〈労賃は労働力という商品の価格〉であることを明らかにした点にある。
  体制内と徹底的に対決し、資本と非和解で闘うことの中に、マルクス主義の生き生きとした復権がある。青年労働者たちが苦闘しつつ切り開いている地平がマルクス主義であり、『賃労働と資本』はそのことを言っているのだ。
  今、『賃労働と資本』はよみがえったと思う。

【A】

 「労働運動の力で革命をやろう」というのが、本当にリアリティを持っているし、世界の合い言葉になりつつあることを実感している昨今。そのことを『賃労働と資本』の講座を通して理論的に学べたことが、明日からの階級的労働運動の実践にとって、決定的な武器となりました。
  『賃労働と資本』の結論を、日々実践しているのが動労千葉の闘いである。今、世界中の労働者の嵐のような決起が動労千葉労働運動と無縁でないこと、「動労千葉労働運動を武器にして、全国、全世界の労働者の闘いをプロレタリア革命の旗のもとに結合し発展させよう」という提起には、空気が入った。
  「プロ独権力の樹立−ソビエト建設のリアリティ」を日々感じている今、早く帰って、職場−地域で実践したいという思いが一杯になっている。

【Z】

 階級的団結で賃金奴隷制そのものを廃止していく、このことがはっきりした内容だった。資本家階級と労働者階級との力関係がすべてだということだ。「資本が増大して労賃が上がり生活状態が改善される、しかしそれは、支配されるための『金の鎖』をうち鍛えるだけだ」というくだりがあったが、その通り。あくまで資本家階級の労働者階級に対する支配の問題として徹底的に賃金闘争を闘っていくことが重要だと感じた。それは、資本が労働力の商品化を前提としており、搾取して成り立っているということにもとづいている。モノとりではなく「団結を総括軸にして闘う」という路線は、賃金奴隷制をうち破る必然的な路線であることがよくわかった。

【r】

 とくに討論の中ではっきりとしてきたことがあります。それは、新自由主義攻撃の中に絶望を見るのか、それとも展望を見るのかということで、われわれは断固として展望を見ているわけです。他方、塩川一派やカクマルは絶望を見ている。
  新自由主義攻撃は全世界的なもので、これに全世界で大反撃が始まっています。どこでもここでも連日のようにストライキが闘われ、また食糧暴動が起きている。この闘いに接して、どうして絶望なんかが生まれるのか、私たちの動労千葉での、あるいは法大での闘いが直接全世界に結びつき、全世界の仲間と一緒に、究極的には世界革命に行きつかざるをえない闘いを一緒にやっているということ。それが実感されるようになってきているから、みんな空気が入っているのではないか。
  このような世界史的時期であるからこそ、『賃労働と資本』=「労働組合論を内包した賃金奴隷廃止の書」の意義は大きいと思います。『賃労働と資本』を、最末期帝国主義の時代に・新自由主義攻撃を目の当たりにしつつ・『共産党宣言』と一体で・賃金奴隷廃止の書として読むことの意義がますますはっきりしてきたと思っています。

【L】

 賃金は労働の対価としてあるのではないこと、人間の本来もっている創造的力である労働力を物と同様にとりあつかうこと、生産過程そのものの中に搾取がくみこまれていること、がハッキリした。
  労働者は、賃労働と資本の関係の中で(職場で)労働者階級としての自覚と団結を形成する以外にない。
  階級的団結論が革命そのもの、そして未来社会建設の展望を生み出すことが、より鮮明になった。
  新自由主義は末期帝国主義そのもの、生産過程での搾取というだけでない収奪そのものが全世界的に進んでいる。新自由主義は世界を革命の現実性に叩き込んでいる、スト、暴動が世界いたるところで起こっている。そういう情勢だからこそ、職場での労働者の団結が重要だ。

【F】

 『前進』の「焦点」で、「宇宙基本法」の実態的な攻撃を阻止しよう、と呼びかけていました。今日の学習で、「宇宙基本法」の攻撃を阻止する闘いは、三菱長船社研−エリコン闘争の教訓が、現在的・今日的であると思います。
  10年くらい前に『光跡』という東京府中−労働者・技術者のたたかいが出版されました。ここでは、労働者・技術者が、自衛隊のミサイルの制御装置をつくることに対して、反対闘争をたたかっています。
  資本の軍事的攻撃に対して、労働者・技術者は必ず自己の立場を迫られ、苦闘します。
  私達は、職場・生産点の労働者・技術者に、資本の攻撃に対して、最初は1人でも、『賃労働と資本』を武器に闘うことを呼びかけるのが必要です。

【M】

 日本共産党の志位委員長の主張とか、カクマル・松崎の主張は、今の資本主義社会が結局は搾取が無い論をベースに展開していることが分かった。今の体制内労働運動も、資本・当局との対決を主張しない以上、それと似たようなものだと思う。
  しかし、搾取が無い論では、今の労働現場でどうやって闘おうというのだろうか。いや闘うというよりは、資本・当局の攻撃を次から次にのんでいくことになる。
  マルクスは、労働者階級全体にたいして、賃労働と資本の搾取関係を明快にさせた。日々の労働現場における搾取を通して資本家・資本家階級が肥大化し、その力が労働者階級全体をますますバラバラにし、貧困化させ、生存すらぎりぎりの状態に追いやっている。このことを今こそ真正面から訴えて、労働者階級の階級的団結をつくり出していくことが、今ほど必要な時はない。
  自治体労働者、教育労働者のように、直接生産現場ではないところでの労働者には「賃労働と資本」の関係だけでなく、マルクス主義国家論(『共産党宣言』『国家と革命』)をもあわせて提起する中で、階級的団結をつくり出していけるのではないかと思います。

【H】

 1.5・28〜29法大弾圧は絶対に許さない。この弾圧に手を染めた当局、警察権力に必ず報復してやる。その上で、今の大学が新自由主義攻撃の前に完全に屈服していることに怒りをおぼえる。かつてマルクス主義経済学の東の牙城と言われた法大において、この弾圧が行われたことについて、ふざけるなの思いです。前総長も現総長も経済学者だそうだが、体制内化し、新自由主義に頭をたれ、学生を商品としてとらえ、その商品の価値を高めて資本に売るのが大学の役目だと考えているのだろう。学生運動(とくにマルクス主義の)が法大ブランドにキズがつくという考え方なのだろうと思う。法大を解放し、実践的マルクス主義がどういうものか、弾圧した連中にわからせてやろう。
2.先日、「“労働運動の力で革命をやろう”はふざけたスローガン」と言った同志がいた。5月テーゼから十数年、まだ、労働運動や労働組合がもっている意義について全党化していないのかということを感じた。労働者自己解放の思想がマルクス主義だと理解しつつも、武装蜂起を中心に革命を考えたりする傾向が、党内にもあるのかと思うと残念な気がする。武装蜂起はプロ独への最後のキッカケであり、レーニンの提起は、あくまでも「全ての権力をソビエトへ」だったはず、この辺の理解をもっと進めて、そのために体制内派と激突していく闘い(メンシェビキと闘ったような)が重要です。
3.前回と今回の『賃労働と資本』のテーマも、やはり最後は労働組合論であったことが理解できた。1849年の段階でプルードン主義と闘いながら、マルクスはこの地平に立っていたというのは正直スゴイことです。賃労働の分析においても、労働者間の競争について、「1人が5人、10人、20人分の労働をすることによって競争しあう」などは、現在の成果主義賃金や業績評価による団結の破壊、分断攻撃とも通ずるところがあり、本当に階級的団結が中心軸なのだ、総括軸なのだと実感できた。

【a】

 『賃労働と資本』を学習して、あらためて資本家階級と労働者階級は非和解であることを確信した。そして、賃金制度は、労働者を分断し、競争をさせて、資本主義を成立させている。逆に労働者が団結するならば、資本主義を打倒することができる。
  新自由主義の攻撃は、資本の増殖に行き詰まりながらも、資本を増殖しなければ生きられない為に、資本主義の幻想をはぎ取って、むき出しの弱肉強食の攻撃を、労働者階級におこなっている。労働者は、この資本の攻撃に対して、怒りを持ち、世界中で立ち上がっている。『賃労働と資本』を、賃金奴隷からの解放としてつかみとり、労働力の商品化を廃止していくことが、人間の共同性の回復だと思う。
  現実に資本主義は行き詰まっているのだから、職場の仲間を組織して、団結をつくって、資本主義をぶっ倒そうではないか。
  労働組合の権力を握ることは、体制内労働組合とぶつかり、今日の革命情勢を語ることが必要である。マルクスの労働組合論に立ちきって、体制内労働組合と闘うことだ。まさに動労千葉労働運動を実践することだ。革命を彼岸化したとき、塩川一派のように反革命になるのだ。現実の情勢を革命に転化できるかの立場に立ったとき、労働者の階級的団結が拡大できるのだ。
  なお、社会的に必要な労働時間←生産費のことが、わかったようで、いまいちハッキリしなかった。

【K】

 『賃労働と資本』でマルクスが核心的に訴えていることは何なのか。
  賃金は労働の「分け前」「対価」などでは断じてない。「労働力の価格」=「労働力商品の価格」である。「労働力の商品化」は、つまるところ労働の搾取であり、疎外された労働であり、労働者は賃金奴隷制の下で生きさせられているということである。
  賃金奴隷制という真実(現実)を根底からひっくり返す、廃絶をめざしてプロレタリアートが決起するのが、プロレタリア革命なのだ。
  ある種当たり前の確認なのだが、前回、今回の学習−討論を通して、この確認がいかに決定的なことがらなのかが、非常に鮮明になった。
  前回討論で提起された、賃金制度そのものが分断攻撃としてあるんだという点は、一層認識を深めた。重要な提起だった。
  革命情勢の到来、新自由主義攻撃、塩川一派との党派闘争という渦中で、あらためて『賃労働と資本』のもつ実践的力に触れることができ、大いなる勇気と革命への確信をもつことができた。
  労働者階級と資本は非和解の関係にあり、今日の革命情勢の到来の中では、ますます現実的にも、労働者階級の階級的団結が決定的に求められているし、階級的団結の究極の拡大が革命なんだということがハッキリさせられなければならない。「労働運動の力で革命を」のスローガンの革命性をあらためて確認することができた。
  提起を受けるだけでなく、もうひとつ主体的に踏み込んで、討論に参加し、そのことを通しての主体化をかちとっていきたい。

【P】

 1)2回の『賃労働と資本』の講義は、階級的労働運動路線を本当に物質化していくための大きな武器となっている。また、そういうものとしてあらためて『賃労働と資本』を自らのものとしてつかみとる意義をものすごく感じました。階級的団結論の核心は、労働者階級の自己解放=プロレタリア革命、ひいては共産主義の核心そのものであるという提起は、その意味で非常に納得できました。また、今回の資料としてとりあげられた松崎批判、特にその「労働組合と革命組織は違う」論は、まさに塩川一派との党派闘争の核心そのもの、体制内労働運動との決別をかけた闘いの内実そのものだと思います。これは、『俺たちは鉄路に生きる2』(中野洋著)でのわれわれの労働者観、労働組合論、労働運動論、革命論と完全に通じるものだと思いますが、自分自身あらためて、このマルクス主義的原点に立ちもどって猛然たる実践に突入していきたいと思いました。
2)そのことと、今回の講義で『賃労働と資本』の結論として、第6章「救済案」「労働組合」「賃金制度の積極面」を確認しきったことは決定的だと思います。この点は元々、マルクス主義基本文献学習シリーズの解説本でも触れられていたことではありますが、今回の講義と討議をとおして、われわれとして、完全にその意味と意義をはっきりつかみとることに成功したと思います。これは同時に、この2年にわたる塩川一派との党派闘争の大きな前進の結実であり、この間の中央労働者組織委の提起と全国的な討論にもとづく階級的労働運動路線の白熱的実践にとって、本当に大きな武器を手にしたといえると思います。
  この点が、自分にとっても一番の大きなことでした。『賃労働と資本』の威力をあらためて心から確認できました。
※マルクスの問題意識は、『共産党宣言』『賃労働と資本』『賃金・価格・利潤』から『資本論』『ゴータ綱領批判』まで、本当に一貫しているとも思いました。

【W】

 1)『賃労働と資本』の実践的結論が、「階級的団結論」であることを聞き、すっきりした。最近『共産党宣言』の最後に、「万国のプロレタリア、団結せよ!」とあることを意識化したばかりで、感動していたわけだが、160年も前に、マルクスが「階級的団結論」の真髄を説いていたということをあらためて受け止めました。
2)そして、資本の構造についてプロレタリアに説き、資本家は、資本の価値を完全に維持し、さらに増殖することに対し、ストライキによる工場の制圧、労働者の工場管理、プロレタリア革命による「資本家財産」の専制的侵害、工場の接収は、労働者の全く当然、正当な権利だということを喝破したことは、すごいと思いました。
  奪われたものを奪い返す闘いとの説明、その通り!原点だ。
3)動労千葉労働運動についての学習会に参加した時のキーワードとして「生きたマルクス主義が、ここ(動労千葉労働運動)にある」ということだった。今まで、マルクス主義はマルクス主義、動労千葉は労働千葉と、意識的には分けて考えてしまっていた。こんな近くに生きたマルクス主義があったんだというとらえ返しがあった。
  今回も、実践として、労働運動の力で革命やろう、動労千葉労働運動をとことん広めよう、ということだと思うし、これがプロレタリア革命の要だと思った。
4)講師が、「革命のリアリティをもてるか」との設問があった。講師も言っているように、4大産別で動労千葉労働運動をどうつくれるか、であると思うが、今の内外情勢を見たとき、自分に感じるものが確かに見えてきたと思います。

【V】

 資本家と労働者の関係は、絶対的非和解の関係にあることが、今回の党学校で改めてはっきりした。
  労賃(賃金)こそ、労働者と資本家の関係を成立させている基本中の基本。これをひっくり返すことこそが革命。
  新自由主義は、このブルジョア的賃金制度をもって、労働者を競争させ、対立させ、分断支配を強めている。賃金制度こそ、資本家にとってもっともオーソドックスな労働者支配の武器。
  賃金闘争は、体制内労働運動の賃上げ闘争では勝利できない。今日の評価制度による賃金攻撃と対決していくためには、一般的賃上げではなく、団結の拡大を求めるたたかいでなくてはいけない。
◎ 商品の価格は、生産に社会的に必要な労働時間で決まる。労働力商品も同じ。しかし、一般商品のように生産・再生産費用とは言えない。資本家にしてみれば、最低限に切り下げてくる。(現代のワーキングプア)
  −この点は非常に重要な確認だと思う。
◎ マルクスの『賃労働と資本』は、「マルクス経済学」の入門書ととらえがちだったが、党学校に参加して、そのような考えは改めて粉砕できた。
  『賃労働と資本』は労働者の革命の書である!!

【i】

 資本主義の原理が競争と分断にあり、共同性の解体・否定にあるとの規定は、資本主義の転覆=革命がその規定を根底からひっくり返すこと、すなわち、階級的団結の形成・拡大そのものにあることが明らかにされている。
  いまひとつは、賃労働と資本の非和解性・絶対的対立性である。階級的団結論で闘う、絶対反対論で闘うとは、すなわちマルクス主義で闘うということだ。
  しかし、ここでおもしろいのは、これほどの対立関係にある賃労働と資本が表裏一体の関係にあるということ。資本の強大さを創りだしているのが外ならぬ賃労働であり、したがって社会形成の中軸も賃労働にある。社会主義−共産主義への主体的契機は完全に成熟していると確信をもって断言できる。

【g】

 『賃労働と資本』の学習が、階級的労働運動路線の実践にとって決定的であることを核心的につかむことができた。
  資本と賃労働との矛盾とは、資本による生産過程そのものの中にある。商品として売買された労働力が「二重の仕方で消費される」ことをとおして、資本家は労働者から剰余労働を搾取する。この生産過程における矛盾=搾取そのものを、労働者が生産過程=職場での闘いをとおしてなくすこと、これこそプロレタリア革命の核心的内容をなしているということ。これこそプロレタリア自己解放の中身そのものなのだ。
  革命運動の核心をここに置かない一切の立場は、このプロレタリア自己解放を否定するものである。「格差社会」に対して、プルードン的な「不平等の是正」「平等な配分」を対置することしかできず、労働者を救済の対象としか見ることができない。
  労賃の問題から見れば、労賃が労働力という商品の価値ではなく、労働の対価というとらえ方しかできないということ。頭の中でどんなに「労働力商品の価値」として認めたとしても、現実の資本との攻防、労働運動の実践において、労働組合の役割を「労働条件の改善」に切り縮めてしまったならば、結局、「労賃は労働の対価」論に屈服してしまうことになる。マルクスがプルードンを批判した、その原点が、今こそ、体制内労働運動との対決において決定的になってきているということだと思う。

【t】

 『賃労働と資本』を階級的団結論として見事に復権したレポートだと思いました。今までの自分の理解では、「搾取」=悲惨とヒューマニティックにとらえる傾向がどこかこびりついていた。これでは、日本共産党、カクマル、塩川一派らと同じ「結局、労働者は勝てない」に行きつきかねない。つまり、資本主義万能論になってしまう。しかし、資本主義は、労働者を分断するが、労働者が団結する条件をもつくり出してきた。討論であったように、新自由主義は、革命の現実性の到来だとはっきりさせることが大事だと思った。
  ILWUとイラク港湾労働者の連帯スト、動労千葉と民主労総ソウル本部の団結は、新自由主義自身が引きよせたものであり、まさに新自由主義−「賃労働と資本」の本質としての“分断”をつかむことによって、労働者階級は国際的な共同性をとりもどし、団結することができる。そのためにも、搾取の現場で闘いを起こし、資本との非和解性を貫き、職場支配権を握ることが革命そのものに直結する。現場の労働者と何度でも学習していきたい。
  資料として出された日共、カクマル批判は、路線をみがく上でとても大事だと思った。動労千葉の中野さんの提起は、あくまで資本と徹底的に闘っての団結を言っていること、労働者には革命する力があることを言っていて、やはり圧巻である。

【Y】

 労賃は、生活維持費と労働者種族の繁殖費、修養費とから成るというが、「個々の労働者は、生存・繁殖しうるだけを受け取っていない」という。そして「全労働者階級の労賃は、その変動の内部においてこの最低限に一致する」という。つまり労賃には、剰余労働を生みだしておきながら、これを除外した所の残りの経費としての労賃の中から、労働者の維持や種族としての再生産費を調達しようとしている。労賃自身は、「幾百万の労働者は、生存・繁殖にも足りない」にもかかわらず、資本家は、あくまで労賃を「自力で繁殖までして再生産しろ」と言わんばかりに、労働者負担強要のイデオロギーを押しつづけている。このイデオロギーを粉砕する上で、剰余価値を否定しているプルードンの共済組合論や、「労働の価値どおりの労賃」要求論は、何ら労働者の解放にはならないことをはっきりさせるのが重要だ。
  また、労賃に加算や減算で分断が行われるが、労働者総体では、それすらできるとは限らない維持と繁殖費でしかなく、団結の必要性と、剰余労働の資本家の独占の暴露、及び、今日的な社会保障費にもかかわることだと思うが、労働者の維持の再生産費まで、わずかな労賃の中からやりくりさせようという仕組みを、徹底粉砕していかなければならない。

【D】

 1回目のときの1848年革命敗北後のマルクスの強気な総括、団結を総括軸としている点、また、「本腰」を入れて、革命をやり直す。長期強靱に労働者階級を革命に向かって組織していく、プロレタリアートの党、共産主義者の党をつくる−そのための出発点が『賃労働と資本』ということが、今回の学校−提起と討論で、さらに確信がもてたように思う。
  まさに現在、世界中で、とりわけアメリカ、韓国−日本で新自由主義−最末期帝国主義のむきだしの攻撃に対する闘いが爆発する中で、「こんな社会はぶっ倒せ、労働者に権力をよこせ、新しい社会を築いてやる」という闘いが始まっている。又、そのことをめぐっての改良主義者、救済者たちとの大激突がまきおこっている。やはり、「賃労働と資本の関係を前提としたあり方を認めることはできない!」というマル青労同の同志の弾劾的提起そのものが核心だと思う。「搾取」を否定し、賃金=労働の対価としてしまっている限り、労働運動、労働組合の役割を、改良や救済にしていくことになり、結局、革命をやるものでなくしてしまうことになる。「労働運動の力で革命をなどと、ふざけた云々」と言っている同志がいるということで、問題が非常に明確になったと思った。生きたマルクス主義で展開されている動労千葉労働運動を我が職場で闘いぬくということになっているかどうかだ。その同志は、否定的だったのだ。動労千葉労働運動を棚に上げて、自らの足元では別のことをやっていく‥こうしたことは塩川一派と同じことになってしまう。
  学生の同志の発言も非常にわかりやすかった。勝ち組ということに対して、「どれだけ搾取をうまくさせるか」だし、「どれだけ徹底した賃金奴隷になのか」だということを話す、というのは、ヒューマニズムに訴えるのと根底的に異なることだ‥わかりやすい。これまでであれば、せいぜいヒューマニズムに訴えたのではないか。
  話はそれるかもしれないが、ある女性が、「これまでの労働運動は、ワーキングプアなどと急に若い人たちの問題に取り組んでいるが、ずっと男性の賃金の半分に落としこめられてきた女性労働者の問題には気がつかなかった、見過ごしてきたではないか」と言ってきたのに対して、「賃金でこそ資本は分断をしてきたと思う。これまでの体制内の労働運動が、そういう意味で分断に屈していたからこそ、今、資本と非和解で体制内と決別する労働運動=階級的労働運動をやろうとしているのだ」と話しているところです。