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2008年06月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『賃労働と資本』 (上)

講義概要 P1-6

★-討議から P7-11

受講レポート P11-24

2008年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-6  講義概要

第9期第2回 マルクス『賃労働と資本』(上)

前半講義概要   講師 畑田 治

■はじめに

 はじめに以下のことを確認したい。
  第1に、「マルクス主義の学習と徹底討論を」ということです。『前進』春季特別号2面労働者組織委員会論文では、党建設の課題として「党の路線をマルクス主義で徹底的に鍛え上げること」が提起されています。これはきわめて重要なことです。党学校は、階級的労働運動路線についての確信を深め、一人ひとりが革命の組織者、宣伝・扇動者として飛躍するための闘いの場です。そしてマルクス主義は、階級的団結をより強固なものにするための決定的な武器です。生き生きと、力が湧いてくるマルクス主義を自らのものにしよう。討論で徹底的に深めよう。
  第2に、「革命を絶対にやり遂げよう」ということです。全世界でプロレタリアートが立ち上がっている。アメリカを始めとする世界の帝国主義はどん詰まりの危機を深めています。まさに世界は革命情勢です。この情勢の中では、革命党が真に労働者階級に内在し、革命の勝利へギラギラの執念に燃えているか否かが勝負を決めます。いま闘われている「党の革命」、職場での革命(一歩の踏みだし)がプロレタリア革命に直結し、プロレタリア独裁を準備する闘いだということです。
  第3に、「新自由主義をぶっ飛ばせ」ということです。新自由主義のもとで「賃労働と資本」(資本主義社会)の矛盾がむき出しになっています。新自由主義にはなんの整合性も合理性もありません。「わが亡き後に洪水よ来たれ(あとは野となれ山となれ)」の利己的な資本家精神がむきだしになったのが新自由主義です。こんな資本家どもに地球を支配されていたら、労働者階級の未来はない。絶対に打倒しよう。
  第4に、「帝国主義を支えている体制内労働運動を打ち倒せ」ということです。
  よたよたの帝国主義がどうして延命しているのか。労働運動が体制内化して、労働者階級の団結を破壊し分断しているからです。レーニンも日和見主義者、社会排外主義者と徹底的に闘い、ロシア革命に勝利しました。
  日本の場合、連合が700万人を組織し、労働者階級の決起を抑えつけ、危機の自民党政権を支えています。連合の存在がプロレタリア革命を阻んでいる。これをうち破ることが、日本革命の戦略的課題です。

■序章/『賃労働と資本』について

 『賃労働と資本』(以下、『賃資』)について第1に確認したいことは、革命的激動の中で『共産党宣言』と一体で書かれた革命の書だということです。
  マルクス(1818年生まれ)は1843年頃、革命家となることを決意しパリにきて経済学研究を始めました。47年にブリュッセルで『賃資』のもととなる講演を行いました。48年に『共産党宣言』を発表した直後にパリで2月革命、ドイツで3月革命が相次いで起こりました。この時、マルクス・エンゲルスも革命に参加しますが、プロレタリアートは敗北します。その硝煙さめやらぬ中で49年に「新ライン新聞」に『賃資』の連載を始めました。やがてマルクス・エンゲルスは追われる身となり、ドイツにいられなくなりロンドンに亡命します。
  第2に確認したいことは、こういう経緯ですから、『賃資』にはマルクスの「新規まき直し」「今度こそ勝利」の決意が込められているのです。
『賃資』冒頭で革命的な立場が表明されています。
  「あらゆる革命的反乱は……革命的労働者階級が勝利するまでは失敗せざるをえない。およそ社会改造は、プロレタリア革命と封建的反革命とが世界戦争において武器をもって勝負を決するまでは空想たるにとどまる。われわれはそのことを証明した」(岩波文庫版p38)と強気の総括を行い、新規まき直しを決意表明しています。マルクスの燃えるような革命精神をここに読みとりたい。
  第3に確認したいことは、党派闘争の書だということです。
  資本主義の矛盾は爆発し、プロレタリアートは決起したが敗北した。では、どう闘ったら勝利できるか? 社会主義者から提案されるものは、あれこれの空想的な、上からの社会改良論であり、プロレタリアートの闘いと結びついていない。なによりもプロレタリアートを革命の主体とみていない。マルクスは、『共産党宣言』で社会主義諸潮流を批判しています。
  これに対してマルクスは、プロレタリアートこそが革命的な階級であること、プロレタリアートの闘いの中に共産主義の現実性、展望があることをはっきりさせました。
  今日でも、資本主義社会の危機と行き詰まりを嘆きながら、しかし共産主義を否定し、また労働運動の階級的再生と無縁なところで「改革」を語る人はたくさんいます。しかし、それらはすべて無力です。プロレタリア革命こそ現代世界の危機と矛盾を突き破る唯一の闘いであることをはっきりさせなければなりません。
  第4に確認したいことは、とりわけプルードン批判との関係で、労働者階級の被抑圧の根源を、「分配の不平等」ではなく資本制生産の核心としての賃労働制そのものにあることをはっきりさせたことです。
  無政府主義者のプルードンは「財産は盗みである」と私有財産制度を批判しましたが、「労働の量を基準として平等な生産物分配を行えば、人間の平等が実現する」と説きました。また、労働者階級のストライキや政治闘争に反対しました。
  マルクスは『哲学の貧困』(1847年)でプルードンへの徹底的批判を行いましたが、同じく『共産党宣言』でプルードンを「近代社会の生活諸条件はそのままにして、これが必然的に生み出す闘争と危険だけはなくなってほしいと望む……ブルジョア社会主義」だと容赦なく批判しました。プルードン主義との対決は、絶対不可欠の課題だったのです。
  さて、『賃労働と資本』の内容を6章に分けて具体的に見ていきます。

■(第1章)労賃とは何か? それはいかにして決定されるか?

●労賃とは「労働力商品の価格」

  1章の結論は、〈労賃とは、生産物の分け前ではなく、既存の労働力商品の価格〉だということです。つまり、いっさいの生産手段を奪われた労働者階級は、生きるために自らの労働力を資本家に切り売りする以外に生きられない存在だということです。1章のポイント的なところを引用します。
  「たとえば織物工場の労働者を例に取ってみよう。資本家は彼に、機(はた)と糸を提供し、糸は織られて立派な布となる。資本家はこの布を、たとえば20マルクで他人に売る。さて織物労働者の賃金は、この布の20マルクの分け前であろうか」(同p42〜43)
  「けっして、そうではない。布が売られるよりもずっと前に、織物労働者は自分の賃金を受け取った。だから、資本家は、この賃金を、布を売って手に入れた貨幣で支払うのではなく、手持ちの貨幣で支払うのである」(同p43)
  「資本家は自分の手元にある財産(資本)の一部をもって織物労働者の労働力を買うのであって、それはあたかも、資本家が原料である糸や、生産手段である織物機械を買ったのとまったく同じである」(同)
  だから労賃は、労働者によって生産された商品のうちの労働者の分け前ではないのです。労賃は、資本家が商品生産のために原材料と一緒に買い入れる既存の商品の一部分です。
  とはいえ、もちろんほかの原材料とはまったく違う独特の商品です。なぜならば、労働者は、自分の人格および肉体から切り離して労働力だけを資本家に売るわけにはいかないのです。労働力と労働者の生存は一体です。マルクスは労賃のことを「労働力の価格、すなわち人間の血と肉を容器とする以外にない、奇妙な商品の価格の別名にほかならない」(同p42)と言っています。

●社会の表面では「労働の価格」

  さらに『賃資』では、「資本家がこの購入(原料や機械、労働力)を行った後は、資本家はもはや、原料と労働用具(生産手段)をもって生産するばかりである。わが善良な労働者ももちろん労働用具の仲間であって、彼は織物機械と同じように、生産物または生産物の売り上げの分け前には少しもあずからない」(同p43)と言っています。
  つまり、労働者は、自分の生産手段を使って自分の活動として労働を行っているわけではない。資本家によって、自分の労働力(労働する能力)をモノのように消費される関係にあります。生産過程の主体はあくまでも資本であり、実際に労働する労働者は労働用具や原材料と同じ物の位置におとしめられている。労働者の位置が完全に転倒しているのです。
  また労働の契約は労働する前に行われるが、労賃が支払われるのは、基本的に労働が行われた後です。
  こうしたことにも規定されてブルジョア社会の表面では、労賃はまるで「労働の価格」として、すなわち一定量の労働に対して支払われる一定量の貨幣(労働の報酬、分け前)として現れるわけです。
  資本家や体制内派は、この「労賃=生産物の分け前」論で労働者を組織します。“資本家は生産手段(原材料や製造設備、工場施設)を提供し、労働者は労働を提供し、地主は土地を提供し、それぞれが役割に応じて協力してモノを生産している。だから、それぞれが正当な報酬(利潤・利子、賃金、地代)を受け取る権利がある。利益を配分するのだ。何か文句あるか”というわけです。マルクスの時代から、資本家はもとよりのこと、ブルジョア経済学者もこう主張してきました。
  今日でも、たとえば「労働分配率」という言い方がされますが、これだとあたかも労働者と資本家が利益を分け合っているかのようです。また日本経団連は「企業は労使の運命共同体だ」と言い、連合は「経済成長に見合った労働側への成果配分を求める」「公正・公平な分配の確立を」などと言っています。労働力商品化(賃金奴隷制)による搾取の問題は、まったく覆い隠されてしまいます。
  賃金が「労働の価格(分け前)」という現象形態をとることによって、真実の階級的関係が覆い隠されるのです。すなわち、人間にとって最も根源的な活動である労働において人間が他者に隷属させられていること、労働力を搾取されていること、生産活動の主体ではなく客体的存在におとしめられていることなどが、賃金制度の中で隠蔽されてしまうのです。
  しかも法律(民法、商法、そして〈法〉そのもの……)では、こうしたことはすべて「公正・平等な取引・契約」とされるのです。その基礎の上に叫ばれる民主主義、平等・公正などのスローガンが、この階級社会の本質を押し隠しています。

●「疎外された労働」

  労働は人間の生命の活動であり、生命の発露です。ところが、上に見てきたように資本主義社会では、生産手段を持たない労働者にとっては、彼の生命の活動は生活手段を確保するための単なる一手段にすぎない。彼は生きるために労働するのです。だから、労働は、自分の自己実現ではなく、むしろ彼の生活の一犠牲でしかない。だから、彼は労働する時間を自分の生活には算入しない。
  そして、彼の生産する物もまた、彼の活動の目的物ではない。今日的に言えば、マンションや邸宅の建築現場で柱を組み立て、床や壁や屋根を造っているのは、多くの不安定雇用の低賃金労働者です。また何十万円もする最新鋭の液晶テレビや自動車を製造しているのも、外国人労働者を含む低賃金・非正規の労働者です。
  しかし、生産物としての家やテレビやクルマは、みな自分のものではない。彼がその日の労働によって自分のためにつくり出したのものは、わずかばかりの生活費です。そうした労働者の中には、健康保険料も払えず、病気になったらどうしようと、失業の恐怖に脅えるような日常を強いられている青年もたくさんいます。
  労働が疎外されたものであるとき、労働が終わったあとの生活もまた、本来的・人間的なものであることはできません。家に帰っても、ご飯を食べ、少しの酒を飲んで、ふとんにもぐり込む繰り返し。長時間労働によって家族との生活も犠牲にされ、労働力商品を再生産しているだけの「生活」です。
  そして労働者は、受け取った賃金をきょう生きるために消費すれば、あとには何も残らない。明日また自分の労働力を切り売りする以外に生きられない。これの繰り返しです。どんなに一生懸命に働いても、とうてい財産(資本)をつくり出すことなどできず、資本家階級になることなどないのです。
  「働けど、働けど、わが暮らし楽にならず……」と明治期に石川啄木は歌いました。「蟹工船」は昭和初期のことです。そして、現代のワーキングプア、ネットカフェ難民、借金地獄……。明治の頃と比べたら、生産力は圧倒的に高まっているのに、貧困と抑圧、労働者の奴隷的状態はなにひとつ変わらない。貧富の差はもっと開いている。賃金制度(賃金奴隷制)を撤廃しない限り、労働者の解放はないということです。

●賃金労働の歴史的独自性

  労働力はいつでも商品だったわけではありません。労働力が商品となるのは、非常に独特な、資本主義に特有の関係です。
  ここで簡単に階級社会の歴史を振り返ってみましょう。
  @古代奴隷制社会では、奴隷労働者自身が人間丸ごと一個の商品として売買されていました。だから労働力は彼の商品ではなかった。支配階級は、奴隷の労働を奪い取って富と文化を築いていたのです。
A中世封建制(農奴制)社会では、農民は領主に身分的に隷属し、同時に土地に縛りつけられていました。農民(農奴)が賃金を受け取るのではなく、領主が農民から貢ぎ物を受け取る関係でした。いわゆる経済外的強制によって搾取が行われていました。
B近現代の資本制社会は、極限的に搾取が行われる社会です。労働者は表向きは人格的に「自由」になっていますが、労働力を商品として販売し賃金を受け取る関係の中で搾取が貫徹されます。労働者はいつでも資本家のもとを去ることは可能ですが、しかし自分の生存を断念することなしに資本家階級を見捨てることはできない。だから労働者は、あれこれの資本家には属さないが、資本家階級に属している。

●階級対立―階級闘争―階級のない社会への展望

  資本は、「毛穴という毛穴から血と脂(あぶら)をしたたらせながら生まれてきた」(『資本論』)のです。土地を奪われいっさいの生産手段から切り離された労働者は、労働力を商品として売りに出す以外に生きられなくなってしまいました。ここに極限的な階級社会が生まれ出たわけです。
  しかし、逆にそのことによって、階級社会の長い歴史を終わらせ、階級のない(つまり、だれも他人を搾取することができない)社会を生み出す条件をつくり出したのです。それが可能になったのは、この社会を根底からひっくり返す以外に自らを解放しえない革命的階級=プロレタリアートが生まれ出たからです。
  古代奴隷制、中世封建制のもとでは、奴隷や農民は、どんなに英雄的に闘っても「階級のない社会」を実現することはできませんでした。そのような歴史的条件が未成熟だったのです。
  資本主義になって初めてそうした条件がつくり出されました。@「鉄鎖以外に失うもののない」無産の労働者階級の大量の創出と階級的団結、A労働者の疎外労働で発達した高度な生産力。それを基礎に、プロレタリア革命という意識的行為によって、「階級のない社会」=共産主義をつくりだすことが可能になったのです。
  動労千葉の中野顧問は『甦(よみがえ)る労働組合』p50で次のように言っています。
  「これほど過酷で、食ってすらいけないような賃労働を強制する資本から自らを解放するためには、資本制を廃止し、労働者がとって代わるということだ。それは基本的な考え方としてそうあるべきだということだけではなくて、それで労働者は団結できるということだ」
  「労働者や労働組合には、それだけの能力があってしかるべきだ。また、なければならないという自負や確信だ。それは労働者が生産を握っているからだ」
  「社会主義は、有り余るほどの膨大な生産力がない限り、あるべき平等や公平も実現しない。つまり資本主義がつくり出した膨大な生産力に依拠する。その生産を担い、握っているのは労働者階級だ。労働者階級が唯一、資本主義を打倒し、社会主義を建設できる能力を持っている」

(前半講義了)

党学校通信 p7-11

討論から

●A

 うちの地区でも先日、第1回の労働講座をこの『賃労働と資本』でやりました。『賃労働と資本』のマルクスのスタンスですけど、「われわれは労働者に分かってもらいたいのだ」「経済学の最も初歩的な概念さえも前提とはしないであろう」ということで、かなりユニークな講義をやってもらいました。最初に何を言ったかというと、中野さんの『甦る労働組合』の中の「賃金とは資本による労働者や労働組合にたいする分裂や分断の一番基本的でオーソドックスな攻撃である」。賃金とは攻撃なんだというのを聞いて、あ、そういうことなんだと、賃金とは攻撃なんだというね。そこで、まず何かみんな分かった気になった。

●E

 序章の所で、マルクスの改めての決意、立場表明なんだと書いてあった。団結を総括軸にして『賃労働と資本』を書いたんだというところが、やっぱり決定的なことなんじゃないかなと思った。マルクスは、賃金というところから始まって、資本家とは折り合いなんかつけられる関係じゃないんだということをハッキリさせたし、だから、モノを取った、カネを取ったじゃなくて、団結を総括軸にして、もう一回腰を据えて革命をやろう、ということをハッキリさせるのかなと思う。

●I

 『共産党宣言』と一体なんだということが言われていて、自分もそうだと思ったんですけども、『賃労働と資本』自身が、労働組合の中のイデオロギー闘争として、とりわけプルードン主義ですけど、ガンガンやっているということだと最近感じて、そういう意味では『共産党宣言』では「党」ということを言って、実践的には今のわれわれの階級的労働運動路線ということなのかもしれないけれども、そして『賃労働と資本』という形で、労働組合の中で問題になっていることにたいしてマルクスは、さっきも言われた資本とは絶対非和解なんだということを徹底的にハッキリさせたというのが、『賃労働と資本』をマルクスが執筆した目的なんじゃないかなと。
  だから、『賃労働と資本』は、労働組合の中での、そういう意味では労働者、労働運動の中でのイデ闘、党派闘争として、徹底的にそこでマルクスは勝負したんだと僕は思った。

●J

 『前進』新年号が出たときの学習会で、『賃労働と資本』の後半の方を提起したんですけど、『賃資』で言いたいことは、資本家階級と労働者階級の絶対的非和解性、それと労働者階級の革命性、この2点だと僕は思っているんです。それ以降、イデ闘で、これでどう獲得していくのか、本当に党派闘争だし、行動提起のときに使うものだなと常々思っていて、今日の内容もまったくそうだと。『賃資』というのは、徹底的に労働者階級と資本家階級というのは一切の妥協はないんだ、打倒するのみなんだ、ということを言っているわけですよ。僕らはここで完全に一致して、その中で団結をつくっていくということが求められていると思います。

●T

 今どう闘うのかというときに、資本との党派闘争である、あるいは体制内労働運動との党派闘争である、と言葉では確認できるんですけど、実践的に非和解的に闘うというのは相当大変なんですよね。ある種浮きまくるというか、そういう厳しさがやっぱりある。そうじゃないと、労働者は自分の階級性をつかんで、自分の力をつかんで団結するということはできない、ということをハッキリさせるということなんだろうなと。賃労働と資本の非和解性というのは、言葉じゃなくて実践において貫かれなければいけない。
  4月25日に学生が1000人くらい決起して法大包囲デモ大爆発したんですけども、「授業は支配、デモは解放」というスローガンは、そういう中で生み出されたんですよね。うちらはある種、弾圧されてなんぼなんです。だから、敵の支配にガンガン踏み込んで、それをぶっ壊せという提起を学生にしないかぎり、決起も起こらないし、団結もできない。実際、デモと授業というのは物理的に矛盾している。デモに出るということは授業をぶっ飛ばすということだし。
  だから、実践的に貫くということの結構大変さもあるけど、とにかく資本主義は危機なわけです、倒せるということなんです、倒せるときが来たということで団結することが、重要だ。ついにやっぱりここまで搾取して、搾取自身が何事もなく進んでいるわけではなく、それ自身が矛盾をつくり出して、ついにハイパーインフレをつくり出さないと資本主義もたないという状況になった。で、労働者がついに暴動を始めたというところに立って、ついに倒すときが来たというふうにして、第2波包囲デモは、そのままストライキに突入するというようなテンションでやってサミット粉砕していきたいなと思っている。

●t

 今日、すごい重要だなと思ったのは、今まで『賃資』の学習会をやってもあんまり空気が入らないというか、つまり、こんなに労働者搾取されているんだみたいなところで終わってたというのが、自分のやってきたことから言うと違ったなと思って。今日言われている「決意表明」というのは、すごい決定的だなというね。労働者に、あなたはこうですよ、非和解ですよ、ということを説明しているんじゃなくて、階級闘争をやって本当にこれでぶっ倒すという確信をつかむ、『宣言』と一体ということはそういうことだと思うんです。そこをつかんだという、そこは重要だと思った。
  マルクス主義の基本というのは、賃金奴隷制というこの中にすべてがある。つまり、すべての差別であり、何であり、というのはやっぱりここにあるというね。だから、賃金をもらうこと自身が分断だという、これは労働者、現場の人に聞くと実感だというんです、賃金明細もらった途端に、派遣とやっぱり正規の人の間がすごく冷えるというか。いくら貰っているかが問題じゃなくて、貰っているあり方そのものが徹底的に分断によってつくられている、これを全部ぶっ壊すんだということとして読まなきゃと。

●g

 今日つかんだ最大の核心は、不平等に対する怒りを組織するんじゃなくて、賃金制度そのものに対する怒りを組織するということの重要性。今、新自由主義攻撃の中でやっていることは無茶苦茶で、本当に賃金のあり方なんかもひどすぎる状況がある。そのひどさに対して怒るというんじゃなくて、その資本そのものに対してどうやって怒りを組織するのかということが、すごい今重要なんじゃないかと思ってる。賃金とはそもそも何なのかというところに徹底的にこだわって、これが攻撃であり、分断そのものなんだということを、こっちがガンガン出していくということだと思うんです、結局、非和解性ということなんですけど。そこが本当に、新自由主義との対決という点で、今問われているし、実は党の団結というのも、ここで組織するというね。他のところに党の団結があるんじゃなくて、職場でのやり合いの中で、賃金制度とは何なのか、その非和解性ということを徹底的にハッキリさせながら、そこで党の団結も組織する、党をそこでつくるというか、そういう問題意識が重要なんじゃないかと思いました。

●Y

 そもそもこの賃金奴隷制をつくるためには、本源的蓄積という奴隷貿易とか、人間を路頭に迷わせて羊をという、それ自身が、古代の奴隷制自身を使ったというか、そういう形でつくり上げた、つくり上げた結果、また奴隷制だというね。今度は賃金奴隷で、実は奴隷制よりも、それ以上にある種過酷だというね。

●講師

 結局、賃金制ということは、労働力の商品化ということで、何でそうなってしまったのかというときに、誰かがそういうシステムを考えたというよりも、原蓄過程なんかでは農民が土地を奪われて無一物になったと。自分で労働を実現できなくなる人がたくさん生み出された。そしたら、自分が労働力を他の人に売るしか自分は生きていけなくなってしまった。

●L

 ただプロレタリアートというのは、土地から放り出されただけでプロレタリアートにならないんですよね。流民として始まって、強制的に労働させられるという形をとおしてプロレタリアートになるんですね。ブルジョアジーが生きていくためにはプロレタリアートを強制的につくり出す以外に、要するに工場ができたって働く奴がいなけりゃダメなわけだから、それで流民をともかく、無茶苦茶な強制労働、罪人扱いして働かなかったらムチと焼き印という暴力的過程をとおしてプロレタリアートというのは、強制的に生み出されたわけですよね。

●M

 今日の『賃労働と資本』の学習で感じたんですけども、マルクスが言っているのは、労働者階級にたいして結局、賃金が上がるというところにおいて実際には労働者階級がつくり上げてきた価値とか労働を半分以上奪っちゃうわけですよね。結局、それをまた資本家階級は武器にして、労働者階級をそれで搾取しているというね。
  だから、奪われているその現実をどうやって打開していくのかという、革命ということなんですけども、その革命に向かっていく根源的な力というのは結局、われわれ日々働く中で賃労働と資本の現場において奪われている労働、資本家階級が一方的にある意味じゃ剰余労働として搾取しているその部分、それをもっと奪い返すんだ、自分たちの手に取り戻すんだ、そういうようなスローガンみたいなのを打ち出すというかな。現実に搾取されているんだという、そこを確認するだけじゃあ、「ああ、そうですか」と終わっちゃう。でも、前に一歩踏み出すには、われわれの方向性、前向きな、何を求めているのかという。奪われている労働を取り戻すというか、そういう方向性というか指向性がないと、結局階級的な団結って言ったって方向性のない団結になっちゃうというね。革命って言ったってまだまだ一般的な話になっちゃうという。

●柴田

 労働を奪い返すというのは、俺はよく分からない。現実的には、資本の命令には従わないということになっていくわけですよ、要するに、金を払っているんだからもっとちゃんと働けとか言ってくるわけですよね、実際には。ちゃんと働けってことは、もっと働けということなんですけど、そういうことに対して、いや、そんなふざけるなというんで命令を拒否するという闘いなわけです。そこで処分とか弾圧とかもあったり、職務命令とか出されるんですけど、そういうものとの対決という点で、そのやり合いをとおして、その非和解的やり合いをとおして、職場に団結をつくっていくんで、労働者の団結でもって職場支配権を握っていくという闘いですよね。実際には超勤拒否とかといって、働かないぞってやるわけですよ。こんなの働いてられるか、ふざけるなと、課長お前やれ、というふうになるわけです。そういうやり合いに入っているわけですよ。不起立だってそうでしょ、やらないよ、立たないよ、となるわけで、そういう闘いにどんどん入っていくわけで、資本との非和解性というところを本当にハッキリさせるようなスローガンということで言えば、ちょっと「労働を奪い返す」というのはいまひとつじゃないかなというふうに僕は思います。

●M

 だって今日の『賃労働と資本』の中でも、資本家は必要労働、剰余労働という形で奪っているわけでしょ、剰余労働という部分を。現実がそうなんだということをマルクスが提起しているわけでしょ。その現実に対してどうするのかということです。

●f

 現実には、ここまでが必要労働で、ここから先が剰余労働だという区切りをつけて分けられるものじゃないし、要するに核心的には、デタラメな理由で労働者は解雇されるという現実はあるわけであって、それは資本が職場を支配しているから、それに対して組合が闘わないから労働者が解雇される。それに対して、その解雇された労働者が、こんな現実ひっくり返さなければいけないということで労働学校に結集しているわけですよね。その辺の怒りだと思うんだな。やっぱり資本の支配の下で労働者がすべての人格を奪われていると。だから、奪い返すということがあるんだったら、資本支配によって奪われた人格、労働者として生きるための人格だとか、そういうすべてを奪い返す、要するに全世界を奪い返すということだと思うんだよね。

●I

 講義の例の所で、4時間分1日、1時間1000円で買われている、で、その4時間作った後に4時間資本家に、というふうな、例としては確かに説明するときに僕も結構そうするし、分かりやすいという面あるんですけども、でもやっぱり、資本主義のこの社会の中で労働するということは、1分1秒でも、要は資本家のために働いているんだということなんですよね。最初の4時間が必要労働で、残りの4時間が剰余労働でその分資本家に、ということじゃなくて、1分1秒すべてが資本家のためなんだということだと僕は思います。

党学校通信 p11-24 受講レポート

受講レポートから ★『賃労働と資本』(上)のレポートです。

【O】

 今回の学習会では、マルクス主義−団結−実践の関係が深まったと思います。
  特に、「賃金自身が分断」という提起は鮮烈でした。確かにそうだと思います。
  さらに次回に期待します。

【R】

 1848年の時点に立ってみたとき、マルクス(30才)が革命を志して「上京」=パリに出て来て5年が経っています。そして、1848年パリ2月革命、ドイツ3月革命の敗北の上に、新たな決意として書かれたものということで、感覚的にとらえると、非常に身近く思われます。
  又、上記敗北の経験を「負けることでプロレタリア世界革命しかないことを証明した」とするマルクスの総括は、すばらしいと感じます。
  『共産党宣言』と『賃労働と資本』で、30才のマルクスが世の中に向かって言いはった革命性と戦闘性として、まず学びたいです。そして、この2つで、「万国の労働者よ、団結せよ」と「労働者と資本家は非妥協である」ということが決定的に出されていますし、『宣言』と『賃資』が上記の革命実践の中で、そのたたかいの武器として出されているのが重要だと思います。
  このマルクスの提起は、同時に党派闘争として実践の場では革命の勝利に向かって、何が必要なのかということを明確にしていったと思います。プロレタリアートの自己解放闘争−社会変革の主体(労働力商品化=最後の階級社会の転覆)ということですね。
  マルクスが「賃労働」という、−労働者にとって最も身近で切実なところからズバーッと切りこんで、階級闘争−プロレタリア革命へストレートに論じ、実践を提起するあり方に学ぼう! 討論でも出てきた「賃金とは分断」であるということを実践の場で切りこんでいくことだと思う。
  今、現実にたたかっている労働者はたくさんいるし、新自由主義攻撃の下では、たたかわなければ実際に生きていけない状況も進行します。そして、一番大切なことは、労働者が団結すれば勝てるし、世の中を変える(今の現実を変える)ことができるということを、トコトン確信をもって訴え、実践することだと思う。マルクス『賃労働と資本』で労働運動に革命がおこせるということだ。
  なお、マルクス『宣言』や『賃資』の時代の階級闘争の実際や党派闘争の具体的内容などを、ビビッとに機関紙誌や研究などで出していってほしい。
  また、原蓄期の資本主義の実態、賃金奴隷制確立過程の実際を、もっと広く宣伝した方がいいと思う。初期資本主義というもの「自由・平等・博愛」?→それが帝国主義段階でひどくなっていったというイメージを破壊しよう。

【g】

 新自由主義との闘いの中で、“賃金とは何か”をはっきりさせることが決定的に重要であることが、はっきりした。労働者の団結を徹底して破壊し、ブルジョアジーは「会社がつぶれたらお前らも生きていけない」「国が破産したら−」と言い、体制内組合指導部は「運命共同体」と言って労働者に襲いかかってくる。その根底に貫かれているのが「分け前」論だということ。
  特に問題意識としては、労働者のどういう怒りを組織するのかということ。不平等に対する怒りを組織するのではなく、賃金制度そのものに対する怒りを組織することの重要性、別の言い方をすれば資本のやり方のひどさに怒るのではなく、資本そのものへの怒りを組織すること。そのための核心が“賃金とは何か”という点をはっきりさせることにあると思う。意見として出た「賃金というあり方は攻撃である」「賃金をもらうことそのものが分断」という点は決定的。そこをはっきりさせることが、『賃労働と資本』を学ぶ最大の獲得目標であると思う。
  これは、血債主義・糾弾主義との闘いの核心でもある。結局、血債主義・糾弾主義とは、「不平等に対する怒りを組織する」ということなのだ。不平等に対して平等を対置し、賃金制度そのものを廃絶させること、すなわち革命を永遠の彼岸と化していくのが塩川一派であるということだ。

【j】

 ○日経連がいう「企業は労使の運命共同体」論、を絶対粉砕する基礎が『賃労働と資本』にある。
○動労千葉の中野顧問のいう「労働者を食わせられなくなった資本主義は終わった。おれたちに権力よこせ」という気概が、はじめてつかめた。
○労働組合を賃金奴隷制を廃止する武器にする必要性と団結の形成、理論や頭ではわかっても、生身の労働者を相手にするとむずかしいという感想を持っています。

【I】

 『賃労働と資本』を、これまでは「賃労働とはこういうものだ」というように読んできたけれども、階級的団結論を通して読み返すと、「資本と労働者は徹底非和解で、労働者は資本を打倒することで解放されるんだ」というマルクス主義そのものがよみがえってくると思った。とくに、最初の読み方のところで、マルクスが「世界革命の勝利以外に労働者の勝利はない。労働者は勝利できる」と、ものすごいパトスをもって執筆した立場に立ちきって読むことが本当に重要。
  また、『共産党宣言』と『賃労働と資本』の関係について。党−労働組合という関係で一体でとらえていくことが大事かなと思う。党派闘争(しかも労働組合、労働運動をめぐって)というものとしてとらえるということは、レーニン『帝国主義論』が労働運動内部の社会排外主義(日和見主義)との闘争として書かれたことと一体だと思う。
  非和解性をハッキリさせること=民主主義的あり方からの断絶。退路を断つということ。

【E】

 ○冒頭のマルクスの「総括と決意表明」は、『賃労働と資本』を“学ぶ”にあたって決定的に重要なことであると思いました。マルクスが立った資本主義に対する原則的立場にたち切ることが、今の我々に問われているのだと思います。
○プルードン主義批判は、過去の対象ではなく、現在的、普遍的課題であると思う。『賃資』はそこに貫かれているし、我々もそこの立場を貫かなければならない。そうでないかぎり、体制内にとり込まれる問題としてあるのだ。国独資×体制内労働運動から我々も“自由”ではないと思う。階級的労働運動路線の下、絶対反対の立場で階級的団結をつくるということの決断、退路を断てるかどうかも、あいまいなものをなくしているかどうかも、そこに表れてくると思う。
○賃労働と資本は非和解なんだ。団結してブッ飛ばそうじゃないか。団結のみに依拠して闘い、組織する指導部になろうということ。
○「賃金(制度)が分断攻撃である」という規定は、なるほど、と思いました。そこで団結をつくる、党をつくる、指導部をつくるということだと思います。
○最後の論議のスローガンは、
  「労働者は鉄鎖以外に失うものは何もない。獲得すべきは全世界。万国の労働者団結せよ!」
しかない。労働力商品化の現実の根本的転覆を、団結のもとによって成し遂げるということしかないと思います。

【e】

 「競争と分断」に対して、個人的にはこれを否定して革命家への道を歩みだしました。今日始まっていることは、「競争と分断」に対して、労働者階級が階級的団結をとりもどしていく過程が、現実のものになりはじめているということです。
  生産手段の資本家的私的所有の結果として、労働者は自らの労働を自らのものとして使用することを不可能にされてしまった存在です。<資本家のもとで、資本家のものとされている労働者の労働>を奪い返す以外に、奴隷状態からの出口はないということです。
  この<賃労働と資本>の関係を労働者が理解し、憤り、転覆していくために、マルクスの理論はあります。その武器は、団結であり、労働組合です。資本によって強制される競争を止揚し、労働者の結合を強化するためにこそ、労働組合は生まれたのです。
  新自由主義の極限的攻撃は、労働者同士の分断と蹴落とし合いを強制し、これを体制内労働組合が積極的に支えていることで成り立っています。
  今日の『賃労働と資本』の学習から、賃金奴隷制度そのものの廃止を、労働者階級の闘いのスローガンに復権させていく理論的根拠をつかめたと思います。
  提起にあったように、最大の党派闘争は、ブルジョアジーとの職場支配権をめぐる闘いです。労働組合本来の目的である階級的団結を喪失した体制内労働運動をうち倒し、となりの仲間と団結を拡大していくということです。
  戦闘的な提起になっていて、現場の実践の武器になるマルクス主義学習に参加できたと思います。

【X】

 1.私の地区では、4月に第1回の労働学校を、青年労働者を中心にスタートしました。開始した職場闘争をマルクス主義としてとらえ返し、固める活発な討論で成功です。
2.『賃労働と資本』は、今日提起されて、『共産党宣言』と一体にゴリゴリやることが、大切だと思いました。
  @「賃金は資本の分断攻撃だ」という非和解性を怒りをもってバクロし、
  A『甦る労働組合』(中野洋著)も引用されたように、団結論を鮮明な総括軸に展望を示すことだと。

【m】

 これまで『賃労働と資本』について、自分が非常に限定的な理解だったと感じました。講師の冒頭の提起も含めて、賃金闘争そのものが資本主義打倒=革命の重要な課題であることを再確認できました。“人間の血と肉を容器とする「奇妙な商品」”、しかし今日的には、そこからも排除されてしまう膨大な「プレカリアート」の存在がある。新自由主義が、自らの墓掘り人を生み出している現実。
  あらためて、資本主義社会に対する怒りが湧いてきました。「労働運動の力で革命をやろう」というスローガンの奥深さを感じました。

【t】

 『賃労働と資本』の読み方が変わった。「労働者は搾取されている」「だから闘おう」ではなく、賃金奴隷制で日々分断されていることへの怒りを組織して、団結をつくり出す実践の武器にする。これは決意ですが。
  塩川一派との最大の党派闘争は、賃労働と資本関係の廃絶で労働者も人民も解放されるかどうかだった。賃金奴隷労働−「賃金をもらっている」ことそのものの中に、全ての差別・分断があることをガッチリとつかんで、職場を団結の砦にすること。ここに我々の党派性があるし、そのように地区活動を打ち立て変革していきたいと思った。
  資本主義社会は、その出発からとてつもなく非人間的で暴力性によってできたものであり、一刻も早く廃絶しなければならない。また、新自由主義攻撃は、逆に資本主義を終わりにするチャンス到来だ。これを実践にゴリゴリ貫いていきたいと思います。

【C】

 「賃金」とは攻撃である。→この言葉がすごくよかった。この一文で全てがわかる。この一文で『賃資』がわかった。
  学生の中にいると、“就職”ということが常に問題になるし、討論になる。学生に訴えるときに「就職率40%だから……」ということを前面に出すよりも「正規の奴隷になるか、非正規の奴隷になるか、資本主義ぶっとばそう!」ということをガンガン出していかないと、自身の発言が体制内になると思った。
  資本主義の下での労働は、自分の労働が社会を動かしている一方で、労働全てが資本を支え、資本を肥やしている労働だ。だからこそ、ストをやれば資本なんて全部ぶっとばせる。
  学生だったら優秀な奴隷の育成。だから、この支配機関でストをやることが資本主義なんて全部ぶっとばせると訴えていきたい。

【P】

 1)今日の提起の重要な所は、『賃労働と資本』の「はじめに」と序章で、マルクスの決意について相当な力をこめてはっきりさせきった所にあると思います。『賃労働と資本』が党派闘争の書=さまざまな諸党派(当時も今日も)という意味もあると思いますが、やはり最大の問題は、今の資本主義社会は、資本があってわれわれがあるのか、逆にそうではなく、労働者の存在があって資本含めた全社会が成り立っているのか、一点、この点に関わる大闘争だと思います。自分が『賃労働と資本』を最初に読んだときの感想は、資本と賃労働の関係は非和解で徹底的に対立している、ということもありますが、結局なんだかんだと言っても、今の社会の全部をつくり出し、担っているのはわれわれ労働者なんだ、という何とも言えない気分であったことを思い出しました。(最初の本格的な学習会は、労働組合の人たち含めた当時の青年労働者とのフラクションのテキストが『賃労働と資本』でした。)
  その点で、今日の講義でもすごく感じたことですが、マルクスは労働者に向かって、しかもすでにフランスで、ドイツで、イタリアで、ベルギー……でガンガン、ブルジョアジー含めた反動と闘いぬいている労働者に向かって、@資本と賃労働の関係、A農民含む諸階級、階層との関係、B当時のイギリスを中心にした主にヨーロッパの国々の関係を真正面から提起しようとした、今日的意味で言えば、マルクス主義的時代認識に立って、その全部を明らかにしようとした、ここの所がまずすごいと思います。そしてその立場で、最も肝心な資本と賃労働の関係について、即ち、労働者とは何者で、何を担うべき存在であるかについて、賃労働の中身そのものに踏み込んで見事に暴き尽くした、そういうように思います。そのことの何とも言えない解放感と展望が、今も当時も、闘う労働者に与えた力は巨大だったし、今後さらに一層その力を強めていかねばならないと思います。
2)討論は、前回に引き続いて、現実の実践に立って、マルクス主義をさらに深めていくものとして、すごく重要だったと思います。自分も体調整えて、討論の場でも問題意識を率直に出していきたいと思います。

【J】

 今回の学校で、g同志より「不平等に対する怒りじゃない、賃労働に対する怒りだ!!」というのがあったが、僕もまったくそう思う。
  今の革命的情勢の中では、本当にブルジョアジーもプロレタリアートも、生きるか死ぬかの状態だ。(今回のレジュメであった例で、T同志が指摘した)「資本家にとっては……」の部分について、資本家だって本当に生きられない。だから、「生きるか、死ぬか」的なヒューマニズムに流されては闘えないと思う。
  この『賃労働と資本』で僕がつかんだことは、ブルジョアジーとプロレタリアートの徹底的な非和解性であり、プロレタリアートの革命性だ。我々は、こんな社会をぶち破って、人類史に真に階級のない社会を作り出す力をもった存在だということだ。
  今回の学校では、様々な同志から、「賃金自体が分断」という提起がされた。本当にそこだと思う。大学で言えば、「授業自体が分断だ」ということ。ここで、どんどん『賃資』をもちこんで、獲得していきたい。

【V】

 何回か『賃労働と資本』の学習会に参加してきましたが、今までの中で、今回の党学校の内容と討論が一番良かったと思います。
  それは、かなり現実の実践とかみ合う形での討論になったからではないかと思います。自分がやってきたのは、どうしても解説主義的で、「学習会としての学習会」になっていた面があったからです。『賃資』を革命の書として、学習し主体化することが、やはり核心ではないかと思いました。
  『賃資』の冒頭でも、マルクスは「階級闘争の物質的諸関係を述べる」と言って書いています。だから、極めて実践の書として書かれていると思います。階級的労働運動を実践し、物質化していくもの、具体的に労働者を獲得していく武器として活用していかなくてはならないと思いました。
  私の地区でも「労働講座」で『賃資』をやるので、大変参考になり、生きた内容になりつつあります。
※青年労働者、学生同志の発言は、非常に重要な提起をいつもしていると思います。大いに学ばなくては、という思いを強めています。

【r】

 ☆『賃労働と資本』の位置ということについて、ひとつ「『共産党宣言』と一体の革命の書、革命の激動の中で」ということと、もうひとつ「新規まき直し、今度こそ勝利」というなかで書かれたことの強調、大切だと思いました。それと「党派闘争の書」であるという視点も。私もこれまで、『賃労働と資本』『賃金・価格・利潤』は『資本論』の入門というものとして読んできましたが、『賃資』の魂にふれた思いで新鮮でした。
☆「はじめに」で1〜5の5点が出されたこともよかったですね。
☆それと、E同志やT同志が指摘した問題、「資本家にとっては、もうけが少し減るぐらいの話…」「資本家の観念では『当たり前』なんの不正も自覚しない」についての疑問は、自分も「ハッ」としましたが、じつに重要! 個々の資本家のそのときどきにあっては、少し余裕があるとかないとかはありますが、いま資本家階級は最末期帝国主義として、まったく余裕などない状況。1000兆円の債務もその表現でしょう。だから、ここらへんの説かれ方が高度成長時代のときとは、おのずと異なるということでしょうね。
☆「最末期帝国主義の時代に『宣言』と一体で賃金奴隷制廃止の書として読む」というのが今的には正しいのではないでしょうか。

【Y】

 「賃金とは何か」と労働者に聞くことで、私有財産制の廃止にまで労働者をオルグしようとしている姿が、まずすばらしいと思う。賃金自体が、労働者の分断や競争をひきおこす、「人間の評価」ではまったくなく資本家によって搾取を強要され、新しい奴隷制まで押しつけられた結果であることをあばき、資本主義の打倒まで闘おうと促すことが重要だ。
  我々は、その担い手がプロレタリアート自身であることもまた、はっきりさせなければならない。マルクスの時代より(レーニンの時もそうだが)、今は、プロレタリアートの存在は圧倒的に多い。団結のチャンスも多い。しかし、それが、国独資や労働貴族の買収、それらを基盤にした体制内労働運動によって奪われ、ますます分断されている。この団結の土壌さえ階級闘争の中によみがえらせば、圧倒的に世界のプロレタリアートの闘いとの団結は切り開かれる。何よりも、『共産党宣言』と一体で、万国の労働者の団結のために、『賃労働と資本』を活用していきたい。

【f】

 賃金が、労働者階級に対する攻撃だということが、今日の提起と討論の過程ではっきりしたと思う。
  賃金は、ひとつには、労働者階級に対する分断の攻撃である。男性労働者と女性労働者との分断、正規労働者と非正規労働者との分断、日本人労働者と外国人労働者との分断etc.
  もうひとつは、賃金労働自体が、労働者階級に奴隷の思想を植えつけるためのものだということ。実際には、労働者は、自分の労働力を商品として資本家に買ってもらわなければ、生きていくことさえもできない。資本家と労働者は対等だという民主主義的装いをとりながら、実際には奴隷的な関係が貫かれている。だから、労働者が“オレも人間だ”と声をあげた時には、資本家は“それでは解雇だ”ということになるわけだ。
  “それなら解雇は上等だ”と突きぬけることが重要だと学生の同志が言っていたが、それこそ革命の思想だということです。

【A】

 レジュメの「はじめに」にあるように、「党学校は、階級的労働運動路線についての確信を深め、…革命の組織者、宣伝・扇動者として飛躍するための闘いの場。これもひとつの党の会議」という提起をガッチリと受け止め、実践していきたい。
  今回は、第1回に発言できなかったので、上手でなくても発言しようと決め、2度発言できたのが、ささやかな勝利。
  講義の中では、序章にあるが、『賃労働と資本』は『共産党宣言』と一体の革命の書であり、「プロレタリア革命は労働者階級自身の事業である」ことを、階級的労働運動路線の白熱的実践を貫くことの中に、学ぶ・実践があるのだと思った。
  この世の中を動かしているのは、世の中を変革する力をもっているのは、労働者階級だけである。労働者は、資本主義を打倒して、必ず真の社会の主人公になる。
  労賃とは、労働者をただ働きさせる搾取の仕組みである。賃金制度とは、階級対階級の対立的関係そのものであり、資本と労働者は、絶対的・非和解的関係であることが、明確につかみとれました。労働力の商品化は、資本主義の基軸そのものであり、だから、労働者階級は革命によって、それを廃止・廃絶しよう!

【H】

 1.『賃労働と資本』を若い頃から何度も読んできたが、独学だったので、知識として蓄積されたものはあった。しかし、学習会と討論をする党学校では、実践課題に引き寄せることで、さらに知識も意欲も深められていくように思った。討論の中で、『賃労働と資本』を『資本論』への橋渡しとして読んできたために「空気が入らない」という発言もあったが、賃金制度を覆っている「たてまえ」が引きはがされ、賃金制度そのものを打倒していく展望がこの書にはあるという理解は、これまでにない新鮮な感じがした。
2.2月革命を前後する時期に書かれた『共産党宣言』と双子の関係にある『賃労働と資本』はまた、イデオロギー闘争の書でもある。第一に、ブルジョア経済学の賃金論との、第二に、プルードン主義との。その中で、マルクス主義経済学が確立していく。そして実践的には、資本とは非和解であるプロレタリアートの運動が、第1インターナショナルとして結実していったのだろうと思う。
3.自分に引き寄せていうならば、体制内労働組合の中において、マルクス主義で勝負していくということだろうと思う。組合幹部も、かつては協会派のマルクス主義だったが、今では完全に転落してしまっている。そして、体制内派は、マルクス主義を労働組合に入れない、排除しようと躍起になっている。マルクス主義派を組合内につくり出していき、組合権力を奪い取るというかまえで闘っていきたい。

【U】

 1.『賃労働と資本』を通してマルクスは、プロレタリアートとブルジョアジーの非和解性をとき明かして、賃金奴隷制の廃止・革命を明らかにしているんだということが、今回のポイントだと思った。
  かつて自分が活動を始めて、最初に『賃資』を学習したときに、目の前がパッと開けた感じで、「あ、そうなのか」と、衝撃を受けたことを思い出す。資本主義の仕組み自身の中に搾取があることをつかんだことが、革命家として決意することの重要な転換点であったと思ってきた。今日の提起と討論を通じて自分がつかんだことは、かつての自分は、何に空気が入ったのかというと、この“非和解性”をつかんだんだと思う。
  ただ、その後の自分の『賃資』の学習会では、今日の討論の中でも出されたが、「資本主義の仕組みを分かりやすく理解するために」的なところにとどまったものであったと感じている。かつて、自分が感じたような“衝撃”を相手に与えることができてこなかったのは、この“非和解性”を意識的につき出すという視点でやらなかったためであったと自覚した。
2.「賃金は攻撃だ」「資本主義の下では、労働の全ては資本家のためなんだ」という視点は、非常に重要な指摘である。全く同感。

【T】

 全ては実践的にどうするか、でハッキリさせることだと思う。そこから離れたスローガンは、スローガンたりえないと考える。〈労働者が、職場で〉
  M同志が、どのような実践から「とりもどそう」ということをいっているのかは分からないのですが、最後に言われたように、資本主義社会のもとで、労働者は全てを奪われているということなのであり、星野文昭同志を見せしめとしながら、でも実は星野同志がおかれている現実(全てが奪われている!)は、全ての労働者(とりわけ青年労働者)の現実そのものです。だから、全ての労働者は「星野同志のように闘おう」であり、それが、全てを取り戻すスローガンだと思います。
  『賃労働と資本』ですが、マルクスの革命的執念をつかみきった提起は、すごくよかったと思います。私も、あらためてマルクスの本を何冊か読んで感じた事でもあります。
  古代奴隷制から資本主義に至る中で、「すべてが不払い労働」から「すべてが支払い労働」という言い方がされていました。それはその通りだと思うのですが、結局すべて階級社会であり、被支配階級は1分1秒すべて奪われている。何か被支配階級の社会的地位が上がったということなのか? と当初受け止めてしまったが、そうではないと思うのであり、はっきりさせたいところではあります。
  なお、まだ入っていませんが、長船社研が「賃金制度廃止のための春闘」を掲げたというのには、めちゃくちゃ空気入りました。「労働運動の力で革命やろう」並のスローガンですね。

【b】

 最後(討論)の「奪われているもの」を奪い返すために訴えかけるスローガンは? という質問は、いい質問だったと思います。やはり、労働者は人間性の全てを奪われている。これを奪い返すためには、体制内労働運動を打倒してプロレタリア世界革命をやる以外ない。階級的労働運動路線の白熱的実践を、ということだと思います。
  血と肉を容器とする労働力商品にされていること、この現実そのものをひっくり返すこと。資本主義社会が階級社会として極限的なまでの非人間性を貫く社会であることを暴露し、賃金奴隷制度そのものをぶっとばすこと、資本主義を打倒して労働者が権力をとること。労働者が人間として生きるには労働組合に結集し、となりの仲間をかけがえのない存在として団結を拡大する。この団結の力のみに依拠して、資本との非和解的対決をやるなかにしか労働者は生きられない。
  『賃労働と資本』は、労働者が革命にたちあがるしかない階級としてあることを明らかにしたものではないかと思いました。

【d】

 『賃労働と資本』の学習会は、(自分の体験では)解釈主義的でスタティックなものばかりだったが、今回初めて、そうでないものに出会った。「資本家にとってはもうけが少し減るだけ」とか「不正・公正」とかの指摘はあったが、提起には、資本そして資本主義に対する怒りがみなぎっていて、自分もチューターをつとめる時には、今回の講師にならいたいと考える。
  賃金は「労働の価格」ではなく「労働力の価格」である。「労働の価格」とは「生産物の分け前」のことであり、連合式「労働分配率」論に代表される体制内労働運動そのものとなってしまう。連合は、08春闘で「労働分配率の1%アップ」を当初掲げたが、日本経団連に「株主への配当を削れという意味か!」と恫喝されてあわてて引っこめた。そのことを見聞し、最初は不可解に思っていたが、よく考えたら「総評」ではなく「連合」だったのだ。あらためて新自由主義攻撃−国鉄分割・民営化−総評解散の重みを思い知った。体制内派を手先とする資本家との職場闘争に勝利し、職場支配権を奪取し、職場をプロレタリア革命の砦にしよう。

【M】

 賃労働と資本の関係の廃止! これをいかに現代の労働現場で具体的に分かりやすく出していくか、これが問題だと思います。プロレタリアートは社会の諸資本から切り離された存在、生産手段から切り離された存在故に、自らを労働力商品として切り売りしなければ生きていけない存在。そして労働現場における労働がそうであるが故に資本家階級に奪われている存在、資本家階級から見ればプロレタリアートは資本が既に持っている蓄積された労働(=価値)を増やすためだけに存在している。一個の人間というよりはモノとしてあり、実際そのように扱われている。これが資本主義社会の現実(=本質)だ。
  このような現実を根底からひっくり返すために、我々プロレタリアートは資本家・資本家階級に奪われた労働を我々プロレタリアートの側に奪い返そうというスローガンが、プロレタリアートの階級的団結をかちとっていく上で、いいスローガンではないかと思った。しかし、討論の最後で、今の社会では「全ての労働が資本家のためにある」と言われ、考え直しているところです。
  そうです。今の資本主義社会では、現に存在している労働が絶対的、固定的なものではなく、あくまで資本家階級が生きのびるために作り出された労働であることを考えれば、単に「奪われた労働を奪い返す」というのではなく、やはり賃労働と資本の関係によって作り出されたあらゆる生産諸関係を資本家階級の打倒・廃絶をとおして、労働者階級が搾取のない生産諸関係を作り直していくことこそが、ハッキリさせられなければならないと思いました。
  賃労働と資本の廃止! この中味を現代の労働現場で真正面から訴えていくために、やはり分かり易いスローガンというものはないのか、改めて考えてみたいと思います。

【L】

 賃金とは何か、ということをハッキリさせる中に資本主義というものの本質がみえて来る。『賃労働と資本』は『共産党宣言』と一体で出されており、つかみとるとされています。プロレタリアートとはどのような存在なのか、このことをハッキリさせることではないであろうか。
  マルクスは、革命の主体をハッキリさせプロレタリアートにすえ、プロレタリアートの闘いの中に、共産主義の現実性、展望があることをハッキリさせた。マルクスは、普通の労働者にも分かってもらいたいという意識性をもって『賃労働と資本』の講演をおこなっていますが、マルクス主義をいかに労働者の中にもちこむのかというときに非常に重要な視点である。
  賃金の現象形態を暴く、ひっくり返すこと、これをマルクスは行おうとしていますが、賃金という形態の中に資本主義の一切の原点、出発点(経済的、法律的)があり、ブルジョアジーとこれにくみする一切の輩とのイデオロギー闘争はここに有り。
  資本主義は出発点からして欺瞞であることをハッキリつかみ取ることが大切。
  本来の人間的行為としての労働が生きるための手段におとしめられていることの奪還という意味での革命という観点も重要。

【W】

 『賃労働と資本』を開始された階級的労働運動路線下に自己を位置づけて、新たな気持ちで参加した。これまで『賃資』を学習した際、どうしても「学習的」になり、実践とかけ離れていた面、プロレタリア革命を先の方に見ていた。『賃資』の講義をあらためてきいたとき、それが、当時の体制内労働運動ともいえるプルードン主義との党派闘争として実践的に提起され、労働者の団結と決起を根本からつくり出す革命の内容であることが、主体的に受けとめられ、大変よかった。
  討論の中でも、学生や若い部分が、この学習をとおして党員になった例や、「労働運動の力で革命をやろう」という意気込みを聞き、自らもそのように受けとめた。
  三里塚における83年3・8分裂で「絶対反対」の闘いこそが勝利の道であることをはっきりさせた。今回、プロレタリア革命に敵対する塩川一派が出たことにより、体制内労働運動ではなく、階級的労働運動、7月テーゼでプロレタリア革命をかちとっていくことが、全人間の普遍的解放、三里塚闘争の勝利につながることが、いっそうはっきりと確信できた。
  マルクスの洞察力の深さとマルクスの労働者階級の階級的決起への本質的見地を実践的に感じられたのが、最大の自己成果と思います。

【K】

 党学校=古典の学習会という固定観念にとらわれている自分が、根底から粉砕されてしまうような、党学校であった。
  とりわけ、学生からの提起には圧倒されてしまった。「一般的にマルクスの書物はむつかしい」という感じで、今回の『賃労働と資本』にも臨んだのだが、そう感じてしまう自分には、“革命情勢だ”とか“革命の現実性”と口にしても、それがまだまだ観念レベルで止まっているから、マルクスの言葉が理解できないのだと痛感した。
  学生から、『賃資』の核心は、労働者と資本の非和解性ということと、労働者階級の革命性ということだ。したがって、実践的には階級的労働運動路線のもとで労働者階級の団結をかちとり、資本主義を打倒していくことであり、その正当性を『賃資』を通して、あらためて主体的に裏づけていくことが、この学習会の目的である、と提起され、そのあまりの核心性に圧倒されてしまった。
  1847年段階で書かれたマルクスの書物を「古典の書」として理解するのではなく、まさに「実践の書」として学び、活用していくことを、あらためて胸に刻んで、次回以降の党学校に臨んでいきたい。

【F】

 米帝のサブプライムローンを発した住宅バブル崩壊は、米帝はもとより国際帝国主義の信用収縮−大金融恐慌を引き起こし、産業資本の過剰資本を全面的に暴き、大恐慌への突入を不可避とする情勢をつくりだした。この情勢は、現代帝国主義はもう生き残れないことを示しいてる。洞爺湖サミットは、最末期帝国主義の大恐慌を解決できない。
  世界の労働者階級のたたかいは、職場・生産点において、たたかう労働組合を拠点に資本への反転攻勢−国際連帯を強めている。労働者階級は、資本の攻撃と闘い、革命を闘いとるために、マルクス『賃労働と資本』を実践の武器としているのである。
  マルクス・エンゲルスは、ヨーロッパの労働者のたたかいに実践的にかむことによって、『ドイツ・イデオロギー』(1845年秋から46年夏)で労働者の世界観を明らかにした。それは同時に、自らを共産主義者として打ち立てることであった。マルクスは、ヨーロッパの革命情勢の中で、『賃労働と資本』の講演(1847年後半)を行った。
  『賃労働と資本』は、資本主義の経済的分析を行い、労働者は自らの労働力を売らなければ生きられない歴史的・世界史的な存在であることを明らかにした。それゆえに、すべての労働者は闘いをとおして団結し、資本主義・帝国主義と闘うことをとおして、自らを解放し、その解放の力で、あらゆる階級・階層、そして被抑圧人民を解放する階級主体なのである。
  資本主義が資本主義であるかぎり、『賃労働と資本』は、反帝国主義・反スターリン主義−世界革命の革命の書であり、全人民解放の武器である。

【a】

 「賃労働とは何か」ということで学ぶ中で、賃金のあり方がどういうことか、少しわかりかけてきた。資本家が労働者に支払うのは、半分であるが、労働者は、労働力で賃金をもらっている。つまり、生活するために「労働力」を売るしかないのが労働者であるが、「労働」を売っているのではない。しかし、現実的には、労働力を売ることで、労働者のほとんど全てが、賃金奴隷となってしまう。だから、労働者が、労働用具・原材料と同一に扱われている。この商品として扱われる労働者の怒りが今の資本主義を打倒しないかぎり、「労働」の自由な解放がないのだ。
  だから、資本とは、非妥協的なのだ。
  資本の分断・団結破壊攻撃が、賃金制度ということが、非常にわかりやすかった。だから、賃金制度の廃絶こそが、資本主義を打倒することなのだと思う。

【D】

 今日の学習を通じて、『賃労働と資本』の学習の姿勢が完全に変わりました。階級的労働運動路線の下で実践が始まり、討論もすべて刺激を受けました。
  まず講義の中で、
  @「はじめに」の1〜4が非常に重要だと思った。マルクス主義で武装し、革命を絶対に実現する、まったく整合性も合理性もない新自由主義などもうすでに資本主義は終わっているのだ、それを延命させているのは、とことん体制内労働運動であり、戦後革命を敗北に到らせその後の体制内労働運動と共にあったすべての運動のブルジョア思想、プチブル思想だと思う。
  A序章における『共産党宣言』との一体性、プロレタリア革命への強気の総括、党派闘争(@〜C重要!)−賃労働と資本の関係の中に革命の勝利の条件を見る、ということ。マルクスが、当時のサロンに集まって空想的なオシャベリをしていた社会主義ではなく、革命の主体をプロレタリアートにすえた共産主義として鮮明にうち出したことが重要だと思った。プルードン主義批判、今日の体制内労働運動、塩川一派etc.etc.真っ向対決するものとしてつかむことができた。
  B1章→賃金とは攻撃だ!がわかりやすい。体制内派の「生産物の分け前」論で組織しているものと徹底的に闘うことだ。賃労働と資本の関係の上にある、民主主義・平等・公正…こういうものとの闘いだ。人間を人間たらしめている「労働」をもっとも奴隷の作るものにおとしこめているものに対して、労働運動−階級的団結こそが、人間たらしめる!
  C討論では、g同志の「不平等に対する怒りを組織するのでなく賃金制度そのものとの闘い、ひどさに対して怒るのではなく、この非和解性をこそ明らかにして組織するということ。また党の団結を組織すること」というのが強く残った。

【Z】

 『賃労働と資本』の核心的内容を、ついにつかんだ気がします。それは、賃金奴隷制の廃止ということ、階級支配そのものを覆していくということにあります。このことが、提起と討論、さらに『賃労働と資本』をテーマにした先日の労働学校の中で明らかになりました。「不平等」に対する「平等」ではない、「労働力の商品化」そのものの廃絶のために労働者階級は闘うということです。
  討論の中でいくつか印象に残ったことは、「解雇されて初めて労働者であると自覚した。労働力を売る以外に生きていけないから」「賃金とは労働者階級を分断する攻撃だ」「『賃労働と資本』は、資本家階級との非和解性をハッキリさせている。だから団結だ」「資本の支配にふみこんで闘う」「『賃資』は、資本主義を倒すという労働者階級の戦闘宣言」等々。まさに階級的労働運動の前進、動労千葉労働運動の実践を裏打ちし、確信をもたせる内容だと思いました。だから、たいへんおもしろかった。
  動労千葉・中野顧問の「資本に食わせてもらっているのではない。俺たちが食わせてやっているのだ」という言葉がありますが、まさにこの通り。『賃資』では労働者は、資本家の分け前をもらっているのではないということが、労働と労働力の違いを通して明らかにされています。資本家階級の支配の核心が、まさに労働力の商品化であることが、明らかにされていると思いました。これを賃金奴隷制という形をとって支配している。
  また、疎外された労働論についても、よくわかりました。「自分自身のために生産するものは労賃であって…」という部分。これこそ疎外された労働そのもの。だから、資本の支配をとことん食い破っていく、職場支配権をうちたてていくことこそが決定的です。資本家の下での労働は例外なく疎外されている。だから、資本家の嫌がることをやる、生産手段を武器に「鉄路を武器」に闘うということ。人間共同性論の中には、資本主義の下でも「いい労働」があるかのような幻想がありがちだが、この点について、そうではないとよくわかった。
  実践において、この立場を貫いていきたい。

【Q】

 『賃労働と資本』の読み方が、極めて実践的な問題意識からの提起と討議によって大変前進している、と感じました。
  賃金奴隷制度=資本主義に対する根源的な(ラジカルな)批判とは、この現代社会で青年労働者をまさに革命的に獲得できる武器となる。そうした実践的な武器として、本書を再学習し、活用したいと思います。

【S】

 労働力を労働者は資本家に売る。貨幣を受け取る。これが労賃である。
  生産された商品の分け前ではない。資本家に売った労働力=一商品=一定時間の拘束の価格にほかならない。
  労賃⇔必要労働+剰余労働⇔支払い労働のみが現象⇒資本主義的生産様式のいっさいの欺瞞の元
  だから、労賃、給料は資本の攻撃なのだととらえて闘うことは正しい。
  など学習できました。
  1847−1818=29才のマルクスが書いた論文。次年にはパリ2月革命。青年マルクスが革命情勢の歴史渦中で、それと呼吸しながら社会の「転倒」されて現れた労働者の奴隷制の鎖を断ち切る科学的哲学と経済学を鋭くつかみきって実践に結びつけている。後年の論究で深められる「資本」論がそのパトスの中からほぼ正確に、「労働者のために分かりやすく」書かれたものであったことを知り、マルクス・エンゲルス経済学ではなく、マルクス主義として学ぶものだと思いました。

【N】

 講師の提起も、参加したみんなの問題意識も、階級的労働運動の実践の観点からマルクスの「何としてもプロレタリア革命を」という当時の実践的立場に迫って『賃労働と資本』を捉えるというもので非常に刺激的で、もの凄く勉強になりました。
  今回の受講でつかんだものは第一に、賃労働と資本の絶対的非和解性を徹底的にはっきりさせること、賃金制度そのものへの階級的怒りを解き放つこと、何よりも賃金制度そのものが階級的分断攻撃としてあること、これをぶち破って団結をつくることの決定的重大性ということです。
  1回目に配られた「年表資料」を見ても明らかですが、マルクス・エンゲルスは一貫して共産主義者の党(プロレタリア党)を建設しようという燃える闘志をもった実践家として46年から49年にかけての激浪のなかにありました。『賃労働と資本』は47年の労働者向け講演がそのもとですが、48年のフランス・ドイツの革命の敗北の総括を〈労働者自己解放闘争を徹底的に爆発させることでしか、ブルジョアジーに勝つことはできない〉と激烈な党派闘争のなかから確信したマルクスが、党・労働組合・労働者階級の再武装をかけて世に出したものではないかと思うのです。その場合、賃労働と資本は絶対に非和解であること、賃金制度そのものの廃絶無くしてプロレタリアートは自己を解放することができないことを、まず徹底的にはっきりさせることが必要だったのだと思うのです(フランスにおいて蜂起した労働者階級は、ブルジョアジーへの幻想の故に血の海に沈められてしまった!)。だから、みなさんが言うとおり、これを今日的には労働者自己解放の原点、階級的団結論として、とことん位置づけて読むべきと強く感じました。非常に新鮮で、その通りと思いました。
  もう一つは、新自由主義にもとづく徹底した分断攻撃としてある人事評価制度に対する非妥協的闘いへの確信です。これに対する闘いはすでに始まっていますが、党派闘争として徹底的にやり抜くなかで団結をとことん強化・拡大するために闘い抜くことです。社会の上部構造を支える自治体労働者は、自らの労働力を国家・支配階級に売って生活している。その労働力商品を国家・支配階級がランク付けして労働者を競わせ分断し、国家権力のなかに取り込もうとする攻撃が人事評価制度だと言えます。つまり、これに対して階級的に闘い抜くことでしか公務員労働者の階級的団結はつくれないし、革命の拠点をつくることはできないという問題です。逆に、革命派こそがトコトン闘える決定的チャンスであるということです。「賃金こそ分断」という議論から、より鮮明になりました。問われているのは、やはり実践です。

【n】

 (1)『賃労働と資本』をどう学ぶか−提起について。
  @新鮮に感じた。(討論で何人もが言っていることに共感)
  これまでも「『共産党宣言』と一体」と言われてきたが、地区で始めた『共産党宣言』自身が、「全く新たな」=今日的な学習と討論になっている。
  Aそれは、「理解の仕方、内容のつかみ方の変化」が先にあるのではなく、今日のわれわれの闘いと情勢の中で、われわれ(階級)が渇望している思想としてつかもうとしているから。
  B特に、マルクス主義−マルクスの思想の中に、「団結を総括軸」があり、党派闘争があり、プロレタリアート自身の事業としての革命ということが徹底していることのとらえ返し。
  われわれの中にも、「上からの改革論」ではないにせよ、主体は労働者階級ということがすわりきっていなかった問題(前回の7月テーゼ学習)と連続して学んだ意義がある。
  C労賃とは何か、について。
  特に、「奇妙な商品」論や、表面上「労働の価格」として現象しているが、本質は何か、ということ。ここがブルジョア社会の支配の根幹。「分け前」論=奴隷的におとしこむ。ここの突破は、怒って闘う、団結する−闘いと一体。
  Dマルクス主義について「むずかしい」と思うのは、やはり、小ブル的。労働者は理屈以前に感じているものがある。
(2)討論について。
  @「労働者は勝てるのか」の質問の例について。「勝てる」と言い切ることが団結をつくると思う。
  A大阪・橋下「賃下げ」論のある種の「説得力」問題。特に4大産別でぶちぬく上で重要。「赤字」論+「体制守る側に立て」論をぶち破ること。分岐を恐れない−いいこと。絶対労働者を信頼する。
  B「労働奪い返す」スローガン論議は、その前後の討論で、基本的に答えは出ていると思う。すでに労働者は怒っており、闘いを始めている。上から労働者を見るな、ということではないか?

【i】

 「賃労働と資本」の関係性は、徹頭徹尾“非和解”であるということ。“非和解”であることに、解決しようのない矛盾が集中しているということも含まれている。だからこそ、「賃労働と資本」の階級的な関係をひっくり返すプロレタリア革命は、徹底性が貫かれた決定的な闘いとして貫徹されるし、されなければならない。
  「科学」は“客観・公平”なものとして宙空にあるものではなく、現実に対する階級的怒りに源を発するものではないだろうか? 文字通り“真実を覆い隠す” 資本主義的生産様式の真実、その根底的転覆の方向性は、この階級的怒りなしには発見されえなかったであろうし、みずからの智慧として体得されないだろう。