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2008年05月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

書記長メッセージ…p1

今月の内容 『2007年7月テーゼ』

講義概要 P1-6

★-討論から P7-10

受講レポート P10-24

2008年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 書記長メッセージ --p1

第9期党学校開講にあたっての天田書記長のメッセージ

 マルクス主義は、労働者階級解放の武器としてロシアプロレタリア革命をたたかいとった。しかし、ロシア革命のスターリン主義的変質のもとで、マルクス主義は労働者階級と対立する思想のごとく宣伝され永い苦闘を強いられた。しかし、その呪縛は全世界の労働者階級の決起で解き放たれた。
  スターリン主義ロシアの崩壊を経て、帝国主義体制に組み込まれた残存スターリン主義中国は、今や帝国主義体制と共に徹底的に打倒する体制である。
  革命的情勢の急速な接近から、「世界は革命情勢である」と宣言した革命的時代認識の確立は、青年労働者がマルクス主義を解放の哲学としてトコトン主体化し実践を開始したことで確立された。マルクス主義は、労働者階級の頭脳と心臓のなかに物質化され、甦った。
  ファシスト反革命との内戦の勝利の地平のうえで、5月テーゼを確立した革共同の闘いは、マルクス主義の新たな原則的階級的創造的確立を求めた。しかし、5月テーゼに反対し動労千葉労働運動に全面敵対し革命的共産主義運動から逃亡し敵対を開始した塩川一派は、「労働者階級解放闘争は、労働者階級自身の事業である」とするマルクス主義を否定し、労働者同志が階級の指導部として確立していくことに敵対し、青年労働者・学生の自己解放的決起を罵倒する一握りの反マルクス主義集団に転落した。
  第9期党学校は、全国から目も眩むばかりの期待の中で開講されます。階級的労働運動路線の実践の武器としてマルクス主義を学び、次代の革共同を全国で担う多くの同志が生み出されること心から期待をしています。
  草草不一

党学校通信 p1-6  講義概要

第9期第1回 「7月テーゼ」
講義概要

   講師 坂本千秋

(1)7月テーゼとマルクス主義・レーニン主義の現代的再確立

 今期の党学校の第1回を「7月テーゼ」から始めるのは、意味があると思います。今日、世界はまさに革命情勢に突入しています。1917年ロシア革命を引き継ぎ、第2次大戦後の戦後革命の敗北をのりこえて、21世紀のプロレタリア世界革命に勝利するために全力で闘いぬく時が来ている。だからこそ今、マルクス主義・レーニン主義を、スターリン主義や血債主義のもとでの長い間の歪みから解き放って、闘うプロレタリアートの思想として全面的に甦らせることが求められています。7月テーゼは、その出発点にほかなりません。
  7・7思想の血債主義・糾弾主義への歪曲は、労働者階級への不信と絶望の思想を生むものとなっていました。日本の労働者は排外主義・差別主義にまみれていて、そのままでは革命の主体にはなれないと。しかし労働者が闘えないでいたのは、労働者に問題があるのではなく、団結が破壊されていたからです。この間の階級的労働運動路線の実践は、そのことを明確にしました。しかし革命の時代が到来したその瞬間にそこから逃げ出した塩川一派や旧与田派の残党は、自らの逃亡を合理化するために血債主義にますますしがみつき、今やプロレタリアートの団結の完全な破壊者に転落しています。
  7月テーゼは、こうした血債主義・糾弾主義を克服し、プロレタリア自己解放の思想としての本来のマルクス主義・レーニン主義の再生・再確立を提起しました。それは単なる「再生」にとどまらず、21世紀の革命を実際にやりぬくための現代的再生・再確立です。具体的には動労千葉労働運動と11月労働者集会が切り開いてきた地平、さらに昨年3月以来の青年労働者の闘いの発展の上に、まさに「生きたマルクス主義」としてつかみとられてきたものです。7月テーゼの学習とは、その深化・発展をかちとることと一体であり、現在進行形の、きわめて創造的な闘いだと言うことができます。

(2)第一の核心=プロレタリア自己解放の思想の復権

 7月テーゼの第一の核心は、労働者階級自己解放の思想の復権です。
  「労働者階級の特殊的な階級的解放が、同時に全人間の普遍的な解放であること、ここにプロレタリア自己解放闘争の最も重要な核心がある。その意味において今日、ブルジョアジーの支配と闘っているすべての人民の中で労働者階級だけが真に革命的階級である」
  7月テーゼのこの提起は、『共産党宣言』の言葉と全く同じです。資本主義社会は、労働者階級に対する賃金奴隷制の上に成立している。労働者は、この社会を実際に動かしている社会の真の主人公であるにもかかわらず、現実には人間ではなく一個の労働力商品、モノとして扱われている。労働者が人間として生きるためには、この社会をもはや部分的にではなく全面的に転覆する以外にない。現在の社会で、このような絶対非和解の関係におかれているのは労働者階級だけなのです。
  しかも資本主義社会は最後の階級社会であり、プロレタリア革命によるその転覆は階級社会そのものの廃絶につながる。すなわち、階級社会のもとで奪われてきた人間的共同性の全面的奪還に道を開くものとなるのです。労働者階級とは、そうした世界史的存在です。資本主義自身がそういう階級を、自らの墓掘り人として歴史に初めて登場させた。農民など他の諸階級・諸階層も、この労働者階級の立場に階級移行して、労働者階級とともに闘うことでプロレタリア革命の一翼を形成し、自らの究極的な解放をも闘いとることができる。ここにマルクス主義の最大の核心があります。
  ところが塩川一派はこのことを真っ向から否定し、“労働者階級の解放だけでは民族抑圧や差別の撤廃はできず、階級の廃絶もできない”という主張を全面展開しています。これはあらゆる意味で間違っており、とんでもない反マルクス主義です。
  民族抑圧や社会的差別の物質的根拠はどこにあるのか。階級社会そのものにある。今日の階級社会は資本家階級による労働者階級の支配の上に成り立っており、それと切り離された社会関係など存在しない。部落差別や女性差別など資本主義以前の社会から引き継がれてきたものも、賃労働と資本の関係のもとで再編されて、資本の労働者支配を貫くための手段になっているのです。
  資本主義の帝国主義段階への移行は、ひとにぎりの金融独占資本による全社会の支配と搾取・収奪の強化のもとで、抑圧民族と被抑圧民族への世界の分断と、社会的差別の一層の強化をもたらした。それは、1871年のパリ・コミューンに始まるプロレタリア革命の現実性に恐怖したブルジョアジーが、労働者階級の団結を破壊し、国際的にも国内的にも徹底的に分断して支配するところにその本質がある。これと無関係に帝国主義のもとでの差別・抑圧が存在するのではありません。
  この差別分断支配を打ち破る道は、労働者階級の階級的団結の回復にある。この団結は、労働者階級が自らの職場生産点で、資本およびそれを支えるあらゆる体制内勢力との絶対非和解の闘いに立ち上がる中でこそ、本物の団結として獲得される。そしてそれは、資本のもとで奪われてきた人間的共同性を奪い返していく闘いと一体です。だからこそ「団結の究極の拡大は革命」と言い切ることができるのです。
  闘う青年労働者は、「本来は団結しないと生きていけない私たちが徹底的に分断されて競争させられている、こんな社会をぶっこわすことでしか仲間意識も団結も奪い返せない。そこにかけ切ろう」と言っています。今の社会で「対等・平等」な扱いを求めても何も変わらないと。ここが大事です。ブルジョア的な「人権」や「民主主義」によっては差別・抑圧問題の解決はできない。プロレタリア革命以外に真の解決は存在しないのです。
  言い換えるなら、差別・抑圧の問題を超階級的な問題としてとらえてはならないということです。塩川一派はこの点で完全に間違っています。
  部落問題や女性問題となったとたんに、労働者階級の立場から一切の物事を考えるのではなくて、「まず部落民として」「まず女性として」と問題を立てる。「労働者階級の利害と被差別・被抑圧人民の利害は共通する部分もあるが、違うところもある」としていく。このこと自体がブルジョア思想への屈服であり、階級性の解体です。ブルジョア的・小ブルジョア的な差別撤廃運動は、差別との闘いをまさにそうした「超階級的な課題」として押し出してきました。マルクス・エンゲルスもレーニンも、こうした小ブル的運動の欺瞞性を徹底的に暴き、逆に労働者階級の利害と被差別・被抑圧人民の利害は本質的にも現実的にも不可分一体であることを、革命的プロレタリアートが常に明確にして闘うことをゴリゴリと提起しています。
  血債主義・糾弾主義のもとでは、実はそこがあいまいでした。労働者階級は被差別・被抑圧人民の闘いを外側から支援する存在としか位置づけられていませんでした。そうではなくて、労働者階級がプロレタリア革命をともに闘う同志として被差別・被抑圧人民を獲得し、団結を一切の総括軸にして闘うことが必要なのです。差別・抑圧と闘う人民の側から言えば、体制内的・小ブルジョア的な運動と決別して労働者階級の立場に完全に移行し、革命勝利へ向けたプロレタリアートの大隊列の一翼を主体的・積極的に形成して闘うことが求められてくるのです。
  今日の帝国主義の危機の時代には、このことはますます重要です。最末期の帝国主義は、新自由主義攻撃によるむきだしの階級戦争に訴え、その一環として被差別人民の小ブルジョア的運動を体制の内側に融和主義的に取り込んで、労働者階級の団結破壊のテコに使うという攻撃を強めています。塩川一派のように、被差別・被抑圧人民の闘いを超階級的なものとして労働者階級の闘いと「並列する」という立場では、この攻撃と全く闘うことができません。

(3)第二の核心=プロレタリア世界革命論の再確立

 7月テーゼは第二に、11月集会が実践的に切り開いた国際連帯の地平の上に立って、プロレタリア革命が本質的に世界革命であることを提起しています。そしてその核心は何よりも、本来国際的に単一の階級である労働者階級が、帝国主義によって抑圧民族と被抑圧民族に分断されている状況を打ち破って、その階級的=国際的団結を奪い返していく点にあることを明確にしました。そして実際、労働者は、11月集会が実証したように、自分自身がプロレタリアートの国際部隊の一員として同じ敵と同じ闘いを展開していると自覚したとき、いとも簡単に国境を越えてひとつになれる存在なのです。
  7・7思想の核心も実はここにありました。70年7・7自己批判は、日本の労働者階級が、入管体制下で不屈に生きかつ闘う在日労働者人民との生きた結合をとおして、自らの階級的=国際主義的本質を奪い返すことを提起していました。しかし血債主義は7・7思想から「プロレタリアートには本来、国境などない」という最大の核心問題を抜き去って、“抑圧民族である日本の労働者階級が被抑圧民族のプロレタリアートと簡単に団結するなんて不可能だ”という全く逆の思想に変質させていた。しかも今日の塩川一派は、被抑圧民族の民族解放闘争を国際プロレタリアートの闘いと並ぶ「世界革命の共同の主体」に押し上げたのが7・7だとしています。これはレーニンのプロレタリア世界革命論を根本的に否定し、歪めるものです。
  レーニンは、帝国主義と民族・植民地問題について論じた中で、プロレタリアートの国際階級闘争の利害に一切を従属させる立場から、民族問題をも取り扱うことを最重要の原則として一貫して提起しています。その上に立って、3つのことを訴えました。@帝国主義のもとで他民族を抑圧している民族と、抑圧されている民族を区別すること。A抑圧民族のプロレタリアートは、自国内で抑圧されている諸民族の分離の自由(=民族自決権)のために断固として闘わなければならないこと。B同時に、被抑圧民族のプロレタリアートは自民族のブルジョアジーと対決して、「抑圧民族の労働者と被抑圧民族の労働者との完全な無条件的な統一−組織的な統一をも含めた統一」を実現するために全力で闘わなければならない、ということです。
  帝国主義による抑圧民族と被抑圧民族への世界の分断とは、プロレタリアートの分断がその最大の核心です。レーニンの提起はあくまで、プロレタリアートがこの分断を打ち破って単一の階級としてひとつに団結することにあり、民族自決権の擁護もこの団結を実際に闘いとる観点からなされている。また被抑圧民族がこうむった犠牲にたいして「償う」という問題も、帝国主義国の労働者階級が国際資本を倒すために、何よりも自国帝国主義打倒のために最も大きな犠牲を進んで払うことをとおして、プロレタリアートの闘いにたいする被抑圧民族の信頼を取り戻すこととして提起されています。
  塩川一派は、一方に帝国主義国の労働者階級の闘いをおき、他方に被抑圧民族人民の民族解放闘争をおいて、両者の「合流」が世界革命だなどと主張していますが、レーニンは、こんな二元論的な考え方を真っ向から拒否しています。逆にブルジョア民主主義的・民族主義的な民族解放闘争を「共産主義の色彩で粉飾することに対し、断固として闘争しなければならない」と言い切っています。塩川一派の主張は、まさにレーニンが否定し弾劾したものにほかなりません。その根本には、帝国主義国の労働者階級は超過利潤のおこぼれによって丸ごと買収されて堕落しているという、全く誤った認識と、労働者階級への不信があるのです。

(4)第三の核心=プロレタリア独裁論の明確化

 7月テーゼは第三に、「労働者階級の闘いは、すべてのものにプロレタリア性を刻印し、強制していくことを求める」と言い切っています。これはプロレタリア独裁論の明確化です。この「刻印し、強制し」に反対する塩川一派は、実はプロレタリア革命とは何かが全く分かっていません。
  塩川一派が思い描く「革命」とは、労働運動や労働組合とは全く切り離されたものであり、階級の上に立つ党がごく一部の先進部隊のみを率いて武装蜂起するという一種のクーデターでしかありません。だがプロレタリア革命は巨万の労働者階級自身による事業であり、その現実の壮大な運動です。全国の労働者が職場生産点を最大の拠点に底の底から階級的に団結して立ち上がって、その団結の力でこの社会を実力でひっくり返していく闘いです。
  そこでは、ブルジョアジーの支配を打ち破っていくことと、階級社会の中で奪われていた人間的共同性を奪い返していくことが最初から一体で進行します。プロレタリア革命とは、その過程で旧社会のあらゆる腐ったイデオロギーからの脱却が進み、大量の意識変革がそれこそ一挙にかちとられていく過程です。そして最終的に国家権力を掌握したプロレタリアートは、名実ともに生産と社会の主人公となり、資本家階級の抵抗を一掃しつつ、直ちに階級社会の廃絶=共産主義社会建設へと意識的な前進を開始するのです。
  プロレタリア革命が暴力革命であるのは、ブルジョアジーを倒すために最後は武力で決着をつける必要があるからだけではありません。もっと根本的には、階級社会の廃絶は、ブルジョア社会として強固に形成されている現在の社会をいったん徹底的に破壊・解体し、全面的に転覆することをとおしてしか実現しないということに規定されています。だからこそプロレタリアートの権力は「独裁」という形態をとるのです。
  そしてまた、共産主義社会の建設ははるかかなたにあるのではなく、その物質的諸条件は資本主義社会のうちにすでに生み出されている。一切の問題は、国家権力を掌握したプロレタリアートが旧社会の内側に胚胎していたそれらの諸要素を解き放ち、新社会建設の諸条件に直ちに転化していくことにあります。それはプロレタリア独裁権力によるきわめて目的意識的な闘いとして、全社会にプロレタリア性を文字どおり「刻印し、強制する」現実の運動として、強力に、急速に闘いとられていくものです。そこにプロレタリア革命の核心があります。

(5)血債主義・糾弾主義の完全打倒を

 最後に、血債主義者の最大の誤りは、労働者の自己変革はどこでかちとられるかが全く分かっていない点にある。
  労働者階級はブルジョア社会に生きている以上、「労働者が差別する」ということも当然起きます。しかしその同じ労働者が、賃金奴隷としての現実に怒りをもち、資本との非和解の闘いに団結して立ち上がることを知ったとき、その労働者の中に労働者階級が階級として本来もっている自己解放の巨大な力が呼び起こされてくるのです。労働者が、自らの職場生産点で資本・権力と徹底的に闘い、さらにあらゆる体制内的な思想と闘いぬくことをとおして「自らのもつ力と可能性を自覚し、誇りと団結を取り戻すこと」。これが差別分断支配を決定的に打ち破っていく力になるのです。
  被差別・被抑圧人民の存在と闘いに「学ぶ」ということも、それがあって初めて意味をもちます。そこから逃げて、別のところで差別・抑圧されている人々の闘いに「学ぶ」「連帯する」といってもそれは本物ではない。むしろ「他の労働者は差別するが、自分は違う」という免罪符でしかなく、それ自身が一種の腐敗です。
  血債主義・糾弾主義を今こそ根底的に粉砕し、打倒・一掃して、プロレタリア世界革命に向かって大前進していきましょう。

(講義了)

党学校通信 p7-10

討論から

●K

  7月テーゼは、僕自身の共産主義者としての再確立において、すごく重要な提起です。この間私の中で、一つだけはっきりしていないのが、「血債」の問題なんです。さっきも講師が、「血債」という言葉は文学的な表現だ、と。「文学的表現」だから何なのかと、私としては問いたいんです。
7月テーゼでは「償い」という形で語られていますけど、レーニンが主張しているから使われているのか。僕自身は「血債」は「血債」として、しっかりと日本の労働者階級人民はそれを償う必要があると思う。その核心は、自国帝国主義の打倒にある。自国帝国主義に対する闘いの中でこそ、血債を償うことができるんだという論理で、それは語られていいんじゃないか。具体的に日本の労働者階級人民がその先兵となっていった侵略戦争の事実について、労働者階級人民としてどうそれを克服していくのか。闘うアジア人民と連帯し、そして日帝のアジア侵略を内乱に転化していく。こういった戦略的総路線が、7・7自己批判を踏まえて提起されたと思うんです。
今日11・4の労働者集会なんかで明らかになってきたのは、日韓米の3カ国連帯を基軸とした世界の労働者階級が1つの軍勢となって世界革命をしていこうというね。そういう意味では、世界の労働者人民と、あるいは被抑圧民族人民と連帯して、という世界革命を視野に入れたスローガンが、新たに提起されていると思うんですけど、少なくとも7・7自己批判で提起された問題は、今も生きている、個別具体的に日本の労働者階級人民にとって。血債主義は批判して然るべきであると思うんですけども、血債の問題は生きているんじゃないかと私は思う。

●X

  今「血債」それ自身が生きているんじゃないかと言われたんですけども、逆に根底的な総括が、むしろ私は大事だと思っている。地区の学習会の中である同志が、「連帯し、侵略を内乱へ」とわれわれ言ってきたけど、きわめて抽象的な相手と観念的な連帯しかしてこなかったんだ、そうちゃんと総括すべきだという、非常に鋭い反応を出した。民族問題も、階級性と切り離して、蒸発させて論じてきた根本的な問題について突破するということがハッキリされないと、「血債」は生きているとかというだけで論じたんじゃあ鮮明にならないという気がする。
なぜ動労千葉が米韓と連帯できるのか。あるいは今、学生とマル青労同の同志に古い党が打倒されるという過程が始まった、ハッキリ言えば。その場合、何で連帯できるかといったら、自分が資本と職場で闘う、非和解的に、処分・弾圧を恐れず闘うということによってのみ、それは変革されるし、突破されるし、連帯できるという関係に今入っていると私は思っている。

●g

 ある同志は、戦前の日本の労働者階級が闘えなかった、屈服したのは、差別・排外主義にまみれていたからなんだ。差別・排外主義にまみれていたから侵略戦争に加担し、屈服してしまった、自分もそれは絶対真理だと思っていた、それが完全に違うんだなということが、この間の7月テーゼの論議で完全にハッキリした。そうじゃなくて、徹底的に闘ったんだ、労働者は。共産党の敗北もあって、その団結を破壊されてということがあるんだということを見ないといけないんじゃないかということに気が付いたわけです、7月テーゼの学習をとおして。そういう形で、その同志は縛られてきた。それでは職場闘争やれない、隣の労働者を信頼できない。それはまさに血債主義が、職場闘争そのものを封じ込めてきたという過程だったと思うんです。
本当に労働者が生き生きと職場闘争をやる、血債主義、糾弾主義と闘うということは、職場闘争に労働者が向かっていく、そういうものすごい積極的なものがあるというところをハッキリさせることが、僕は核心だと思う。

●Y

 レーニンの「償い」という問題自身のもっている意味というのは、大ロシア主義的なものと闘って、民族の自決権をちゃんと求める。それを本当に世界革命とか労働者の団結とか、そのことを貫くためにレーニンは提起したんだという、この観点が「血債」という言葉ではある種語られてこなかった。という意味で、「償い」という言葉に変えて理解していく。そういったらもちろん歴史を学ぶということは、それとしてやらなきゃいけない。その場合、何でアジア人民を2000万人も虐殺するところまで日本帝国主義がいったのか、あるいは、ロシア革命が起こって何でドイツ革命が圧殺されるのかとか、30年代の階級闘争における帝国主義での体制内労働運動のでかさとか。ここで闘えてこなかった敗北の結果ということもハッキリさせて、しかし同時に戦後革命、戦後数カ月の日本でロシア革命のような革命を引き起こそうという闘いが起こるとか、そういう歴史の全体を見て、自分の革命にかけた闘いのバネにした方がいいんじゃないかと思う。

●T

 率直に言うと、団結を求める存在として全員が純化するということだと思う。血債があるとかないとかは、やっぱり文学的で、賃労働と資本じゃないですか。われわれは、それを転覆したいという、そこからちょっと外れているという違和感を感じる。
もう一つは、団結を求めるという場合に、労働者に、あなたには血債があるんですよ、ないんですよ、と言うわけじゃない。隣の労働者と団結するために党学校ってやるわけじゃないですか、マルクス主義を学ぶわけじゃないですか。だから、労働者に向かって何を言うのかということをハッキリさせて、7月テーゼってそうじゃないですか。団結を世界革命をやる団結として拡大するための路線として、7月テーゼがハッキリと出されている。これをハッキリさせて、資本と非和解に闘う、で、団結をつくる、ということが世界につながっているという。
この間田中委員長とかも、自分たちが動労千葉という組合でやってきて、国際連帯を始めてあらためてそのでかさをつかんで再獲得されるみたいな、自分たちの動労千葉労働運動がどれだけでかいのかということを。だから、マルクス主義をもう一回つかむというのは、まさに労働者階級の現実の運動なわけです。つまり、動労千葉そのものなわけで、これをハッキリさせて、あらためて僕が思ったのは、ゲリラ戦の被告になった人たちが労働者になって、「処分は勝利だ」と闘っている革共同はすごいと。青年労働者の決起も、革共同がなかったらない。動労千葉もないし、ということは青年労働者の決起もないし、学生の決起もない。その誇りが団結を組織するわけです。
7月テーゼは、スゲー実践的なんです、日々、闘う中でどんどん内容が変わっているという、そういうもんだと思うんです、マルクス主義というのは。7月テーゼでも『共産党宣言』そのものの内容が出されていて、マルクス主義を現代に復権するというのはそういうことだというふうに思っている。
最初に言いましたけど、隣の労働者に何を訴えるかという問題意識で党学校もあるんだということをハッキリさせたいと思いました。

●U

 自分が革命運動を始めた30年くらい前の大学と今の現実はガラッと変わっちゃっている。大学そのものに借金を背負わされ、搾取されている。だから、ストレートに資本主義に対する怒りとか、そこまで新自由主義という形で資本主義の文字通り末期が全社会的に来ているという時代に完全に入っちゃって、そういう意味で、学生とか青年がストレートに時代は革命だし、団結を求める。そういう時代に完全に入っている。だから、単に30年前は瑞々しくて、というんじゃなくて、そういう時代認識を自分なりにつかみ直さないと、本当に今の中で21世紀革命ということに、自分はたどり着けないなとあらためて感じました。

●講師

 K同志のしゃべった気持ちはよく分かる。確かに内戦の時代なんかは、悲壮な決意をしてやった。それを支える要素になる血債の思想ということがあってやれたという側面もある。だけど、本当は自己解放闘争なんて自分が解放されなかったらおかしい。革命運動というのは楽しいものじゃなきゃおかしい。そこの根本的な転換がこの間求められている問題だと思う。
あと、単純に今私が思っているのは、「血債」という言葉自体は、あまりにも違うイメージとして、ひとつの意味を持っている。だから、やっぱり使いたくないという。その上で、いわゆる「文学的表現」というのは、やっぱり曖昧なものがあったんです、その当時における、いろんな評価があるけど。そこも含めて、今の時点でちゃんと総括していく。その総括は、私は、今の時代にどうやってプロレタリア世界革命、そこへ向けての団結をつくっていくのかという立場から問題を深めていく一環としてやる作業だと思う。
で、7月テーゼは出発点で、今日の話も私の問題提起です。現在進行形で考えていきましょう、ご一緒に。

●E

 超階級的なあり方に問題設定すると言っても、そもそも僕らだけで運動をやっているわけじゃなくて、敵がいる。どちらが労働者階級を獲得するのかということをやっているわけで、だから団結破壊という敵の方が階級的に攻撃をかけてきている。それに対して僕らが階級的に闘わない、団結拡大して闘わないことにはダメだし、そこから逃亡したのが塩川一派だと思う。
中国でも労働者階級が闘いに立ち上がっているし、何より日本で動労千葉が新自由主義攻撃に対して闘い抜いているし、法大でも、法大資本と体制内執行部というのを吹き飛ばした闘いが始まっている。「血債」に依拠するんじゃなくて、団結に依拠して闘うことが、今何より決定的だと思います。それが、プロレタリア性の刻印・強制ということの、言葉は激しいかもしれないけど、その中身は、団結のみに依拠して闘うしかないんだぞ、俺たちはと。逆に、そうしたときに絶対に革命ができる、そういう時代が来ているんだということが、7月テーゼでハッキリしたんじゃないかと、今日あらためて思いました。

党学校通信 p10-24  受講レポート

受講レポートから ★「2007年7月テーゼ」のレポートです。

【B】

 (差別は)「賃労働と資本の関係の下で再編されて、支配を貫く手段となっている」と整理された文章で、非常にクッキリしたと思いました。
  「まず部落民として」を立てる傾向と、「支援・防衛・連帯」と、“真に同志として獲得する関係”にしない傾向、の指摘(特に、今日的には後者)で非常にクッキリしました。
  要は、どこにでもいる、目の前の労働者のもっている、自己解放能力、自己変革能力に、トコトン確信すること、そのように実践的に、共産主義者が労働者とむきあって、一体化していくことだと思います。実践こそが打開の力だと思います。

【R】

 資本と非和解に闘う動労千葉が、全世界労働者との団結をつくり出していく。ここに現代における世界革命、プロレタリア自己解放への道を確信することが必要だと思う。
  第9期党学校が、そういう意味で「7月テーゼ」から出発することの意義があるし、きわめて実践的だ。
  反面教師としての塩川一派たちの主張が、この「7月テーゼ」の内容をめぐって決定的になっていったことは当然だ。
  現在の帝国主義世界がすさまじい危機に陥っている中で、民族差別等々は極限的様相を呈しているのではないか。あらゆる人間性が奪われ、人が物にされている悲惨な日々…。どこに出口があるのか、その解答を明確に出すことが、革命党の存在意義ではないのか。
  団結の拡大が革命だ、差別は団結破壊だ、まさに「万国の労働者よ団結せよ」と今こそ叫び、実践しよう。
  世界革命情勢下で、「差別」「血債」の名で労働者階級の階級的団結を破壊する現代の反革命への道を塩川一派たちが転がっている。革命の隊列から生まれる反革命にうちかつのは、敵とのたたかいを進めること、階級性をはっきりさせること、だと思う。
  帝国主義は、人民を分断し、とりこむことなくしては存在できないほどおいつめられている。今サミットのテーマが「環境問題」というのもきわめて象徴的だ。資本主義が「人間主義」を標ぼうして登場しつつ、全人類、地球を滅亡に導く結果となったということだ。次は我々労働者の時代だ! と高らかに宣言して進もう。
  塩川一派批判の深化=7月テーゼの深化だと思います。共に深めていこう。

【O】

 「7月テーゼ」の主な核心点が鮮明に提起されて意義深いものでした。
  11月集会、動労千葉と民主労総ソウル本部との交流の意義を、プロレタリア自己解放思想の復権、プロレタリア世界革命論、プロレタリア独裁論の立場からとらえ返し、血債主義・糾弾主義批判が深まっています。
  自分自身としては、職場での闘いを進めることを通じて、塩川一派と対決する内容を強めていきたいと思います。
  自分を例外にしないで頑張りたいと思います。

【X】

 (1)2年間の党内闘争の中で確立・提出された「7月テーゼ」は、一方ではマルクス主義・レーニン主義の再確立の大事業であり、他方で直接の塩川一派と旧与田派との大衆的闘いを階級的に闘う只中にあることからも、重大でした。
(2)私の地区では、3月に講師に提起していただいて「7月テーゼ」学習会を行いましたが、今日の提起は何点も、更に踏みこんだ論及がありました。特に『ソリダリティ4号』p82の医療労働者の提起の部分は、過去、自分も陥っていた「差別・抑圧の問題を超階級的にとらえる」誤りを打破する上で重要だと思いました。
(3)討論全体で、団結論を正面にすえた闘い方こそ重要と集中したことがよかった。

【I】

 血債の問題について。血債を返さなければならないとかということは自分にはあまりよくわかりませんが、動労千葉労働運動が民主労総と団結しているという一点をもって、「つぐなって」いるのではないかと思います。結局のところ、動労千葉労働運動をやるのかやらないのかということが問題なのだということです。だから、塩川一派は7月テーゼと、動労千葉への特化論をにくしみをもって「弾劾」しているのだと思います。
  7月テーゼは最初に読んだときは、「ふ〜ん」という感じでしたが、今読むと、生きたマルクス主義=現代の共産党宣言というのがとても感じられました。それはこの間、自分自身が「団結を総括軸」にした闘いをやってきて、団結論、自己解放論としてつかめたからだと思います。
  全体を通して、とても実践的に論議できてよかったです。時間の関係で今回は発言できませんでしたが、次回からも積極的に討論していきたいと思います。

【g】

 ○「7月テーゼは、マルクス主義・レーニン主義をプロレタリアートの思想として全面的によみがえらせることである」ことがますます完全にはっきりした。血債主義・糾弾主義との闘いは、労働者が職場闘争を実践し、職場の団結をうち固め、職場に細胞を建設していく闘いそのものであること、その決定的武器としてあることである。
○もともと1つの階級、1つの存在である労働者階級が支配階級によって分断され、競争させられている現実。これに対して、青年労働者の根底的な反撃、「生きさせろ」という決起がはじまっていること。動労千葉の闘いに必死に学びながら格闘してきていること−こうした実践こそが7月テーゼを生み出したということだと思う。
  党としての闘いの蓄積と新たな階級的労働運動路線の実践、その結び目に7月テーゼがある。
○レーニンが、抑圧民族にたいしてのみならず、被抑圧民族の労働者にたいしても、「抑圧民族の労働者と被抑圧民族の労働者との完全な無条件的な統一−組織的な統一も含めた統一」を実現するために全力で闘うことを呼びかけていたことは決定的に重要。まさに、「無条件的な統一」という表現の中に、レーニンが国際プロレタリアートを単一の、1つの階級、1つの存在としてみていたことがはっきりしていると思う。

【f】

 今日の提起と討論を聞いていて、私自身非常にスッキリしたことがある。「7月テーゼ」の中の「刻印し、強制し」という部分である。私も最初「7月テーゼ」を読んだ時に、「ここはちょっと言いすぎじゃないか」と感じた。しかし今日の提起で、プロレタリア革命が、労働者階級の階級的団結のなかで準備され、階級社会の中で奪われた人間的な共同性を奪いかえしていく歴史的行為なのだと聞いた時に、あらためて、労働者階級が真に革命的な階級なのだ、ということが理解できた。塩川一派はここに激甚に反応している。そしてそのことによって、差別・抑圧問題の核心が、資本主義社会にあり、革命の問題なのだということを否定しているのだ。だから彼らの運動は、せいぜい帝国主義社会の現実の中で民主主義を実現しろということでしかないのだろう。そして現実の革命運動に敵対していくのである。
  「血債」ということに関して言えば、自分自身、多くの古参の同志と同じように「血債」をバネにして、革命運動に決起したという経験をもっている。血債があるからこそ、帝国主義を打倒しなければならないと考えた。だからこそ三里塚闘争を闘い、獄中闘争を闘うことができた。しかし現在は、90年の時とは全く違う。全世界的に革命的情勢が到来している時に、「血債」だけで本当に階級を組織し、革命に勝利することができるのか、むしろ「血債」の思想があるからということが、隠れ蓑になってはいないかということが否応なしに党に問われている。そのなかから「7月テーゼ」が生みだされてきたのだと思う。
  最後に、だから「7月テーゼ」の学習は、もしくは塩川一派の打倒は、血債主義にまみれていた自分自身の打倒、変革なしにはありえない。そのためには労働者を組織して組織しぬくことだと決意しています。

【G】

 自己解放的なたたかいにならないたたかい方、あるいはそれを支える「理論」はやっぱりおかしい。では、どんなたたかい方、あるいはそれを支える理論こそが僕らを自己解放的にたたかわせてくれるのか。それはやっぱり動労千葉のようなたたかい方だし、「すべてはひとつ!」「プロレタリアートがすべてをひとつにして、人間のほんとうの歴史をはじめる主人公だ」という理論だと思う。
  賃労働と資本の関係の外に問題を追いやってしまうと、部落解放も女性解放も大学解放もウソになってしまう。これはほんとうにそう思う。たとえば学生は、互いに分断させられ、時には互いの眼がおそろしくてちぢこまって生きていたり、あるいは他をけおとすことだけを考えて自分のみじめさを忘れよう忘れようとしている。教育も学問も、団結破壊の道具にされている。すべて「賃労働と資本」の枠内にある。他人事ではなく、自分自身それに苦しみながら、なんとか立ち続けている。なぜ立ち続けることができるかと言えば、それは自己解放の喜びがわかるし、仲間がいるからだ。
  こういう実感、感覚にぴったり来るものとして7月テーゼはある。
  こういう実感、感覚をとぎすまし、職場や学校で団結を拡大していくために党学校で学んでいきたい。

【i】

 「7月テーゼ」に関する地区党組織での論議は、血債主義・糾弾主義によるゆがみとは…それを克服していくためには…という方向からのものになりがちでした。しかし、今日の学習会ではっきりとつかむことができたのは、「7月テーゼ」をマルクス主義・レーニン主義の現代的再確立として、しかもプロレタリア世界革命論として主体化するということです。その意味で、党学校の開講の講義が「7月テーゼ」であったことの意義がつかめたと思います。
  今、マル青労同やマル学同の若者たちが学びとっているマルクス主義は、明らかに自分が学びとった(つもりでいる)マルクス主義とは位相を異にするものなんだろうと思います。「世界は革命情勢です」という中で、しかも11月労働者集会の地平において学びとられているマルクス主義なのですから。そこで展開されている論理が、みずからの実践の中で「本当にそのとおりだ」と実感されるものであるはずです。私自身、そうしたマルクス主義・レーニン主義を切実に学びとっていきたいと思っています。

【V】

 @)この「党学校」を自己の再生、マルクス主義の再確立のために1年間、出席していきたい。
A)第1回目が「7月テーゼ」の学習になったのは、決定的に重要だったと思う。古典学習だけではなく、今、最も大切な実践課題=“階級的労働運動の白熱的実践”を推進していくにあたっての核心的テーマだからである。
B)提起されたこと
  @プロレタリア革命=プロレタリア自己解放闘争の思想の復権、Aプロレタリア革命論の再確立、Bプロレタリア独裁論の明確化、C血債主義・糾弾主義の打倒、この4点、要するにプロレタリア階級の革命性ということが、明確になった。(「血債」についての討論もよかった。)
C)95年19全総・第5報告でも一定とりあげたが、なぜ物質化しなかったのか。
  やはり、動労千葉労働運動=階級的労働運動の前進が「7月テーゼ」をかちとったと思う。
  11月集会、青年・学生のたたかいが、6回大会−新指導路線−「党の革命」−階級的労働運動路線をおしすすめたことをはっきりさせたい。
  “実践”が一切である。
  この党学校も、自らの実践と一体で、労働者を組織化するための“武器”として活用できるようにしていきたい。

【P】

 1)党学校の第1回が「7月テーゼ」についての学習であったこと。かつ、その冒頭で「血債の思想」(血債主義ではなく)について、我々として、今日的にどう考えていくべきなのかということが率直に出されて大いに討議となったこと自身、素晴らしいことでした。自分の意見をどう考えるか、討論の中で考えていたことは、@やはり「血債の思想」としてくくるあり方は、文学的なひびきというだけでなく曖昧さがのこる、A70年7・7自己批判、7・7思想の根幹に何があったのかということを、むしろもっと全力あげて明らかにしていくべきだと思いました。この点は今日の講師の提起の中で、“プロレタリアートの国際的存在、そもそも国際的存在として、単一の階級としてあるプロレタリアート”そのまさに世界史的、革命的存在としてあるプロレタリアートの自己解放の思想とその威力に今こそ確信をもって団結を深めていくこと、ここに最大の核心があると思います。70年7・7自己批判の大きさは、その思想をあの時点ではっきりさせ、かつともに世界革命を担う存在として、まさに“隣に存在し、生きかつ闘っている在日”の存在をともに闘う軍勢の一員として、はっきりと措定できたところにあると思います。だからこそ革共同は、ケレンみなく7・7自己批判を、世界革命にむけたあらたな戦闘宣言としてだしきれた。その後の我々の戦略的総路線の最大の柱にすえることができたと思います。この点は、今後の討論の中でも積極的にだしていきたいと思います。
2)いまひとつは、やはり自分自身の総括として、血債主義・糾弾主義の問題をすえ直して、いま一度やり直さないといけないと思っており、むしろ今日の提起をそういう観点で聞いていました。具体的には、1989年〜の地区の総括の深化にかかわることであり、22CCの第1報告で整理された90年代の革命的議会主義の総括にふまえ、革命的議会主義のゆがみの問題だけでなく、その土台にあった地区党建設の中にあった「ゆがみ」の問題を、今の時点でもうひとつはっきりさせたいなと思っています。(→これは別の作業としてやります)
3)「7月テーゼ」それ自身は、今日あらためて、階級的労働運動路線の白熱的実践と本当に一対であり、この2つが結合してはじめて、その全面的推進も可能であると確信しました。討議は、古参同志、若い同志がともに自分の問題意識をぶつけあって非常によかったと思います。

【t】

 革命とは、団結することそのものにある。これが今の私がつかんだことです。塩川一派は、「革命やらない限り、日本の労働者がアジア人民と肩並べることはできない」と言う。私も、プロ独実現で初めて債務を払えると思ってきた。また、そう指導されてきた。
  しかし、動労千葉と民主労総ソウル本部の団結が示すものは、労働者は資本と闘って団結し始めた瞬間から、プロレタリアの単一性、国際性をとりもどせる。むしろ、隣の労働者と団結できたら、それはもう革命の始まりだということ。それが「共同性の奪還」だと思う。そう考えれば、日々革命していく過程である。
  「血債」という言葉そのものについても論議になったが、我々はあらゆるものをマルクス主義の原色にぬりかえ直して世界革命のイデオロギーにしなければならないと思う。
  例えば「差別・排外主義と闘う労働運動」というフレーズも、交流センターなどで語られてきたが、これも曖昧で、どうとでもとれる。職場で差別問題の学習会をすることが重要なのではなく、職場で資本と徹底的に闘って団結つくれば、パワハラや女性差別なども吹っ飛ぶ。とにかく団結をつくることを一切にすえて闘うこと、その実践を思いっきりやろうと思いました。
  革命運動とは楽しい!

【A】

 「党学校」に参加できて良かった。振り返って考えてみたら、これまで「学校」というものに通ったことがなかった。長い間、色々な活動をやって来たのに…。
  本社に来たのも初めてだった。千早町の頃は、社防だけしかやっていなかった。30年近くのうち、対カクマル戦−獄中−地域運動をやってきたが、我流でマルクス主義を解釈した歴史だった。マルクス主義の再確立というより、マルクス主義の学び直しが始まったということだろう。「勘だけで運動を回している」という批判を受けたのが、昨年の春の事。
  それから色々あって、そのことを受け入れることができずに、引き延ばして来たが、今年に入り青年労働者たちから打倒され、自分を変革しよう、マルクス主義者としてぶっ立とう、という決意をもって、本日のぞみました。貫徹できて良かった。
  “革命をやろう!”還暦をすぎて、改めて、その決意に立てたのが、本日の成果でした。

【S】

 大学を72年に卒業して以来の「学生」になりました。主体的に「学ぶ」ということの「学生」では初めてです。
  本日、自分として改めて、また一番つかんだことは、革命運動と人生は、人間解放を目ざす、自己解放の事業だということです。今日の講師が最後に言っておられたことでしたが、本当にそう思い、感じました。
  “明るく楽しいものになるはずの革命と団結が、悲壮なものになってしまったら、それはどこかおかしいんではないか”
  そう思います。
  なお、ロシア革命の「当時は民族解放の主力は圧倒的に農民」という提起。「ロシア革命がプロレタリア革命ではない」というのは間違いである…というような半かじりの知識があるせいか、当時と今の違いと本質的に同じこととの判別がうまくできません。

【C】

 ストライキをやるということは、まさに全社会に強制することになる。今、法大でクラス討論で休み時間中に「団結しよう、ストライキしよう」と呼びかけているが、鐘が鳴ったり、先生が来たりすると、討論をやめて帰っているという状態がある。授業時間までくい込むと、学生の方から反動意見が出てくる。ここに、自分がどういう立場で訴えるのかが問われる。ブルジョア的に「教育を受ける権利が妨害される」という意見に自分がどう出るかということ、学生にプロレタリア性を強制し、刻印していくということ。
  7月テーゼは団結論だという意見が出たが、まさにそうだと思う。法大生から「中核派と一緒にやりたくない」といわれ、「純粋法大生じゃないからそう思われるのだろうか…」と塩川一派的に考えてしまうこともあった。だれにでも「女性じゃないから…」「部落民じゃないから…」「『障害者』じゃないから…」相手のことがわからないという発想はでてくると思う。そういうものをぶっ飛ばす階級的団結論が7月テーゼであり、動労千葉労働運動だと思う。

【W】

 40年におよぶ自己の党活動、91年5月テーゼから16年。私にとって「7月テーゼ」は、変なたとえだが「水を得た魚」のように生き返った思いです。
  それまでも、古典の学習会は折に触れやっていたものの、「机上の空論」になっていた。この「7月テーゼ」で、生きたマルクス主義を実感し、我々が目ざしていたものは、プロレタリア革命であり、動労千葉は生きたマルクス主義、三里塚の勝利はプロレタリア革命の中にある、と確信できた。そのプロレタリア革命はプロレタリア独裁論にあるということもわかった。
  ただ、「7月テーゼ」を読んだ07年8月の時点では、「これまでの自分の思考に打撃」を受けたような感覚であったが、塩川一派が「7月テーゼ」の撤回を言い出してから、その内容の革命的なものが鮮明になってきた。やはり、階級闘争の歴史の中であらわれた右翼メンシェビズム=塩川一派の登場と、彼らの粉砕・打倒の中に、あるいはそれを通して、プロレタリア革命の実現があるんだという感想をもちました。
  今日の討論で一層明確になったのは、K同志の質問(あるイミですごくよかった)で「血債」の問題がよく解明できたこと、「労働運動の力で革命やろう」「団結の究極の拡大は革命」ということが、ますます鮮明になりました。
  第9期党学校、はじめての参加ですが、1年生の気持ちで、断固として講師レベルへの飛躍目ざして闘っていきたいと思います。

【Q】

 大変印象深い学習会でした。理論的にも実践的にも、今後の革共同の闘いの前進のためのヒントが満載されていると感じました。ランダムですが、いくつか。
  一つは、「血債主義」といわれている問題の歴史について。個人的な感想になりますが、「ここで決起しなければ人間じゃない」というオルグが一番流行していた。もちろん、対カクマル戦下の闘いですが、これでガチガチに武装して、押し渡ってきたのである。当時は、新自由主義が始まる前の段階で、「根底的動揺」という時代認識を学生たちと共有することは結構大変だったと記憶する。上層分子の買収という面でも物質力があった。故に、誤解を恐れずに言えば「血債の思想」は、闘いを決意した若き活動家の大きな“武器”であった。
  二つめは、やはり現在の時代認識(現実そのもの)の大きさ。いまや血債主義では全く闘えないのである。マルクス主義の現代的復権を、労働者階級の現実の運動と結合してなしとげることが、7月テーゼで提起された核心問題が(その輪郭が)見えたと思いました。
  もうひとつ。「内在的に積極的に位置づける」ということの積極性(外からの支援ではない)。これは非常にスッキリしました。
  その他、様々ありますが未整理。とりあえず、以上。

【H】

 「血債」は、魯迅の評論の一節「炭で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない。血償はかならず同一物で返済されねばならない。支払がおそければおそいほど利息は増さねばならない」から出てきた。日帝のアジア人民へ与えた苦しみを日帝打倒で返済するというように、7・7自己批判以後の闘いで理解してきた。また、対カクマル戦の渦中にあっても、カクマル派の「被抑圧民族こそ自己批判しなければならない」という主張と思想に対して、むしろ血債の思想と歴史観を守りつつ闘ってきたように思える。血債主義・糾弾主義は、対カクマル戦の過程の中で、全党の課題としてあった入管、部落解放、「障害者」解放、女性解放の課題を「諸戦線」という形で切り離してきたところから歪みが始まったのではないか。
  しかし、マルクス主義者の党として、労働者階級の自己解放の闘いの中に諸戦線の課題をしっかりと組み込んで、単一の党を形成することが急務だったと思う。
  戦線の地区への移行も、全然、戦線課題を切り捨てるものではなく、地区の課題として実践しようということです。かつて3全総で、労働運動の前進に向けて党が転換しようとしたときに、黒田はこれまでのあり方に固執して脱落していった。今、同様のことがおきている。しかし、この分裂を悲観するのではなく、この分裂に学ぶ姿勢が重要だ。
  党学校の第1回目のテーマに7月テーゼを置いたことはきわめて実践的だったし、良かったと思う。

【m】

 生きたマルクス主義の学習として「7月テーゼ」を党学校の冒頭でやるという考え方は正しいし、まさに実践的だと思いました。
  7月テーゼは、塩川一派との激しい攻防の中で、日々深化されていますが、階級的団結論としてすえた時、差別・抑圧問題−差別・抑圧攻撃の本質が明らかになったと思います。塩川一派は、差別・抑圧問題を超階級的なものとしてとらえるが故に、その問題を訴える当該(たとえば在日であり、部落民であり…)を、団結する対象としてはとらえない。そこには、訴える人とそれを聞いて受けとめる人という関係の中で、救済の対象としてのみ当該を措定することしかなく、血債主義、糾弾主義をより一層純化することになっていく。
  塩川一派−早瀬が7月テーゼで決定的な分裂に走ったということ自体が、我々の勝利性、7月テーゼの正しさを示しています。
  党学校に参加するということは非常に重いものを感じていましたが、第1回に参加して、今後に意欲が湧きました。まさに自己解放の闘いとして、学習を深め、実践していきたいと思います。

【J】

 7月テーゼというのは「団結論」なんだ、ということがはっきりした。僕自身、「階級性の刻印と強制」という言葉に対して、なんでここまで強調するんだろうと思っていた面はあった。だけど、本当にプロレタリア革命をともに主体的にやっていく仲間なんだと相手を措定するときに、まさにプロレタリア性の刻印なしには団結できない。僕自身学生で、どうやって学生にプロレタリア性を刻印していくかについては、この前のマル学同総会まで、すごく悩んでいた。「プロレタリア性といっても、学生は労働してないしよくわからん」とオルグのとき言われると、困っていた。その一方で学生は、どんどん搾取されていく。これに対し、いや、団結して革命しようと、真っ向から訴えれるのが、プロレタリア性の刻印ということなんだと思う。
  学生は今、本当に分断されまくっている。学費、単位、成績、国籍、ありとあらゆるものが分断に使われ、そして競争させられ、10人に1人がウツになっていく。誰もが、こんな現実に対して怒っている。ここで、団結を対置していくことで、どれだけの絶望が希望にかわるか、どれだけの学生がプロレタリア革命に合流していくか、ということだ。プロレタリア性の刻印というのは、観念的なことではまったくない、まさに革命に組織し、団結をよびかけるということなんだと、すごくスッキリしました。

【U】

 1)差別・抑圧の問題を、賃労働と資本の関係の矛盾の問題としてとらえるのではなく、「超階級的なもの」としてとらえる傾向が決定的なあやまりを生むということが分かった。
  資本主義社会にあって、差別・抑圧は、プロレタリアを分断し、資本の支配を貫徹するためのテコ、革命の圧殺として、資本主義・帝国主義によってつくり出されていることなんだ、ということをはっきりさせて闘っていくことがポイントである。
  したがって、階級的団結の強化・隣の労働者との団結をつくるために闘う、つまり、プロレタリア革命を実現する中でこそつきぬけていけることが鮮明になった。
2)「血債」をめぐる討論は、非常におもしろかった。自分も最初は、血債という言葉を使ってもOKと思っていたが、単に言葉の問題ではなく、“我々の運動の総括と進むべき方向の中で、どう考えるのか”という指摘が重要と思う。
  今日の情勢の中で、我々が世界革命をどう実現していくかと考えたときに、“団結を求める”という路線で闘うことだと思う。自己解放闘争として闘っていくことだと思う。

【n】

 (1)これまで、マルクス主義の学校(党学校)は、「多忙」を口実に避けてきましたが、改めて、「今の時代」に、まず自分からやり直そうという気持ちで参加し、提起・討論とも、実践的な問題意識を喚起されました。(地区でも「労働学校」を始めて3年目、個人としては「党学校」的なものは二十数年ぶりです。)
(2)本日の7月テーゼについて。
  ○非常に決定的テーマです。K同志の意見をめぐる討論にかめませんでしたが、今後の活動の中で、「継続・発展」させたい。
  @自分の活動経験(経験主義的それ)から言っても、狭山・三里塚から30年、
  A「党の革命」〜選挙戦、さらに地区内での塩川一派との攻防の2年を路線的にも堂々と積極的に総括する上でも、
  B何よりも「7月テーゼ」は、マルクス主義そのものの原理的な(今日的な)復権であるという意味でも。
(3)より組織的に深めていきたいことは、
  @現に部落解放を闘う大衆と共に闘う上でも、地区における階級的労働運動の実践をより具体的に前進させるために7月テーゼを実践の中で深めたい。
  Aユニオンの高栄分会(『前進』2338号の記事)の労働者は、1人の組合員の賃金差別のためにストに立った。教訓たくさんある。こういう闘いを、自分と地区でつくる闘いの中で、マルクス主義、7月テーゼを深めたい。

【L】

 基本矛盾の史上3度目の歴史的爆発という情勢に、ついに到来した革命のチャンスとしてハッキリつかむことが一切の出発点である。
  革命は労働者階級の事業である。プロレタリアートとは歴史的・世界史的存在であり、「労働者階級の特殊的解放が、同時に全人間的解放である」−7・7の核心。
  新自由主義は、マルクスやレーニンの時代を再びラセン的にたどっている。第2次大戦後の二十数年間が帝国主義の特殊の時代なのであって、本来の帝国主義の姿が今あらわれている。このことをハッキリさせ、私達自身にしみついたものを払しょくしていかなくてはいけない。
  賃労働と資本の現場をはなれたところで革命を語っても、観念論でしかない。資本とたたかう、権力とやりあうという現場をぬきに革命運動はない。革命は語ることではなく実践することである。
  となりの労働者をカクトクする、団結することの中に一切がある。この実践。
  革命は世界革命である。国際連帯。
  とりあえず、これで終わります。

【F】

 現代世界は、国際帝国主義国を主導的基軸とする、資本主義・帝国主義の時代である。国際帝国主義の争闘戦と侵略戦争はソ連スターリン主義の崩壊(ソ連一国社会主義社会の矛盾の爆発)を促進し、現代世界は帝国主義の世界戦争・侵略戦争のもとに残存スターリン主義ロシア、中国を巻き込む世界戦争過程に突入している。
  米帝・日帝・欧州帝をめぐる石油資源の争奪は、米・日帝を枢軸とするイラク侵略戦争として世界戦争過程に突入している。
  現代世界は、資本主義の原理−賃労働と資本−を基軸とした世界であることである。すなわち、現代世界は、労働者階級の闘いを土台・基軸とする世界革命の時代であることである。労働者階級は歴史的な存在として、世界史的な解放の主体であり、労働者階級の特殊階級的解放が、すべての階級・階層を普遍的に解放する。“労働者階級の解放は、労働者階級自身の手でたたかいとらねばならないこと”(国際労働者協会暫定規約)である。
  労働者階級・共産主義者のたたかいは、国内でたたかうすべての闘いと同時に新植民地諸国人民のたたかいと団結・連帯し、共にたたかうことによって、7月テーゼを主体化する実践によって、すべての階級を普遍的に解放するのである。労働者階級のたたかいが国内的な農業・農民問題、身分差別と抑圧を真に解決できる。また世界的な農業・農民問題、民族・植民地問題を真に解決できる。塩川一派を打倒しよう。

【E】

 7月テーゼと階級的労働運動路線は一体だということがこの間提起されていますが、職場生産点で、大学で、資本・当局、体制内と闘うにあたって、さらには自己の体制内的あり方をぶっ飛ばしていくにあたって、あらためて7月テーゼで提起された内容は、決定的だと思いました。しかも、格好の批判対象として、塩川一派もいます。
  7月テーゼにおいて、我々は、プロレタリア世界革命への管制高地に立った。実体としては、11月集会と動労千葉がある。「マルクス主義・レーニン主義の現代的再確立」とありましたが、革命的情勢への突入というなかで問われているのは、マルクス主義・レーニン主義への徹底的な純化だということだと思います。それは同時に、階級の決起への圧倒的確信であるし、団結の勝利性に獲得されていくということです。
  現実の階級攻防で、そうしたことを貫いていくこと、揺らぐことなく、原則を貫くことは並大抵ではない。しかし、動労千葉はそうして時代の勝利者として登場しているし、革共同もそうだということだと思います。だから、改めて、7月テーゼで曖昧さなく一致して職場闘争に突っ込んでいく、隣の仲間に革命を訴えていくことに生きる展望があるのだと思う。
  国独資と、スタ・社民の下で、団結を奪われ、誇りを奪われてきた労働者階級が、いよいよ時代の最前線に登場する時がきているなかでの「7月テーゼ」を勝ちとったことの意義をさらに鮮明にしていくことが実践とともに重要です。
  K同志の発言は、参加者だけでなく、多くの同志のなかにある傾向だと思うし、そうしたことを討論と団結で突破を開始した本日の学校はよかったと思います。
  7月テーゼの立場を踏みはずすことなく、その観点から常に検証し、また実践のなかでも検証して、マルクス主義・レーニン主義の現代的復権の一翼を担えるようになっていく決意です。

【b】

 今日の討論に発言できなかったのが残念です。まだ現実の闘争で団結拡大を実現できていないということではないかと思います。7月テーゼを、まだ観念的にとらえている面が強い。皆の発言を聞いていて、本当にかみ合って討論できていることにびっくりしました。実践のなかからの発言、塩川一派との実践的闘いを通して出されている。
  だから結論としては、労働運動の実践ということになると思います。言葉の批判で返すだけでなく、実践をもって批判していく。今日の参加者の発言に貫かれていたのは、そのことだと思います。
  そこをなんとしてもやっていきたい。7月テーゼはすごいと思います。動労千葉がきりひらいた11月集会陣形。民主労総との団結に世界革命の現実性が示されている。そこに立って出されている。世界革命への熱烈なアピールです。労働者階級は世界的にひとつです。そして、その革命の内容が労働者階級の自己解放闘争として豊かに展開されている。資本家と非和解に、体制内をぶち破ってとなりの労働者と団結することが即世界につながっている。労働者が主人公として、賃労働を廃止する、私的所有を廃止する、階級社会を廃絶するということが、いかにすごい闘いで、そこに全人民をひきつけ、プロレタリア性を刻印していくことが本当に必要だということです。だって、動労千葉と民主労総の団結の中にそのことが示されているじゃないかということです。帝国主義をぶっ飛ばすのに、他のどんな方法があるのかということです。労働者が主人公として登場してきたし、労働者自身がそのことを身ぶるいする喜びをもって確認しているということです。
  階級社会の転覆というのは、この世界革命のなかにしかないし、あらゆる差別・抑圧からの解放もまた、この世界革命のなかにしかないということも明らかです。労働者はこの闘いの中で、支配階級として登場するなかで古い汚物をはらいおとして、社会的生産と新しい共同性を豊かに実現していけるということです。だから、自らの階級性を全社会に強制しようということです。

【D】

 党学校第1回目が「7月テーゼ」だったのは非常に良かった。提起はもちろん、討論を含めて、マルクス主義・レーニン主義の現代的再確立の意味・意義がはっきりした。また、その実践性も明確になった。
  最末期帝国主義の危機の中で、資本主義のボロボロに破綻しつつも、本性むき出しの状態=労働者階級への搾取、収奪、社会的連帯への破壊がある。これに対して、労働者階級はすでに世界中で立ち上がっている。労働者階級とはそういうものだ、私自身もその中の1人だ。
  ところが、世界が革命情勢に入って、動労千葉を軸に具体的な国際連帯が始まり、職場での実践、地域、学園での実践が始まったとたんに、これに反対する連中が出てきた。−それが塩川一派だ。彼らは、階級の上に党をおき、自分たちを特別の存在として置きつづけようとしてきた。その際使っているのが血債主義・糾弾主義で、反マルクス主義に純化した。生きた、目の前の労働者に向きあわず、口先で評論している、実践と団結をトコトン拒絶しているのが、彼らの特徴だ。
  今日の学校で、70〜80年代以降、様々な潮流−労働運動の体制内化もそうだが、とりわけ差別・抑圧と闘う勢力の中の一部をとりこんで支配する攻撃が強まったとあった。女性解放戦線の中では、婦民全国協が唯一、均等法攻撃、三里塚、国鉄分割・民営化攻撃と対決して分離独立して闘ってきたが、この帝国主義の最末期危機の中では、このとりこみ攻撃はあらためて全戦線にわたって強まっており、これとの対決、階級性の鮮明化は、一層重要不可欠、価値創造的闘いになっている。どっちの立場に立つのか! <階級的団結><絶対反対論><組織拡大>を一体にして闘っていこう!

【M】

 プロレタリア革命・世界革命を、以前は自分の中でも彼岸化していたのではないか。様々な闘いが、それぞれ力をつけていけば、その先に革命があるのではないかと漠然と考えていた。しかし、この間の闘いで、今目の前の賃労働と資本の現場で闘いを始めることが、プロレタリア革命なんだということを思い始めている。
  07年11・4集会の直後の『前進』には、いきなり「世界革命」という言葉が大見出しで出て、内心びっくりした。私自身、世界革命の現実性をまだ見ていなかった。しかし、プロレタリアが今目の前の自分が直面している現実に対して実践的に闘い始めることが、プロレタリア革命・世界革命なんだということ、このことを今こそハッキリさせる必要がある。そういう意味では、闘いというのは、極めて単純明快なものなのではないかという気がする。ブルジョアジーとプロレタリアートの2大階級に大きく分裂している資本主義社会に対する闘いを、ブルジョアジーを打倒していくプロレタリアートの闘い、そのためにはプロレタリアートが階級的に団結していくという極めて単純明快な闘いを今こそ始めようということではないか。
  労働者階級の国際連帯については、動労千葉が韓国の民主労総とも、アメリカのILWUとも知り合いになり、そこから国際連帯が始まったということは極めて実践的な話だ。この現実こそが、動労千葉の階級的労働運動の真骨頂を示している。塩川一派は、この現実がまぶしすぎて直視出来ないのだ。
  塩川一派は、「差別」糾弾闘争において、一個人を人格的歪みと非難しているようだが、ここには闘いのために団結を求めるという立場がない。バラバラに分断された労働者を階級的な団結で問題を克服していくという実践こそ、人間的共同性を回復させていくことができる。マルクス主義・レーニン主義はそのための武器として使いきることが今の我々に求められている。
  確かにかつての学習は、実践にたどりつかない学習だった。今こそ実践を求めた学習が必要だとも思っている。7月テーゼとはもっと格闘していく必要を感じた。

【r】

 まさに現在進行形の問題で、議論をすればするほど新たに気づかされ、問題が深まり鮮明になっていくのを感じました。私がとくに言いたいのは、<世界は革命情勢>というなかでの国際連帯の現実的な形成(の重要性)とそれをがっちりとふまえた7月テーゼだ、という構造です。
  20年間くらい「革命的情勢の急接近」論に立ってやってきましたが、「世界は革命情勢」というのは明らかに別の段階です。ということで、世界のホームページを見てみると、毎日毎日どこでもここでもストライキ、暴動、市街戦の波また波。このようななかで、動労千葉−民主労総ソウル地域本部を軸とする国際連帯をもっているということが、革命にとって、革共同にとって、どれだけ大きいことなのか、ということです。
  国際連帯ということで言えば、動労千葉の85−86年の分割・民営化阻止闘争がどれほど重大な世界史的意義をもっているのかということを、私達はソウル地域本部やILWUローカル10から教えられたわけです。つまり、全世界的な新自由主義攻撃に唯一勝利的に闘いぬけた動労千葉(と革共同)ということです。
  7月テーゼも、この国際連帯を一つの決定的要素としています。あと、「プロレタリア革命は労働者階級自身の事業である」をがっちりとふまえた階級的労働運動路線。それとこの両者にもとづいたマルクス主義の労働者自己解放の思想・理論としての革命的復権という3つかな。
  それにしても、動労千葉はじつに偉大なことをこともなげにやってのけたんだなと思います。それは、03年の訪米と訪韓です。あれは日本と世界の階級闘争に、じつに偉大な戦略的地平を生みだすものだった。逆に言うと、塩川一派は、この国際連帯と階級的労働運動路線とマルクス主義を、3つとも否定するものとしてあることがはっきりとわかります。

【T】

 党学校の最初のテーマが「7月テーゼ」であるということは決定的だったと思う。発言でも言ったが、徹底的に団結を求める存在になろうということ。7月テーゼで誰とでも団結できる、団結を呼びかけられると思ったという発言があったが、それが核心だと思う。階級的団結のための党学校である!
  「血債のあるなし」は、語弊を恐れず言えば、どうでもよく、やはり資本・当局と非和解で団結して闘うという事が核心で、それがあるから動労千葉(そして革共同)が民主労総ソウル本部と同志的団結を形成できているし、なければ、いくら「血債」を言ったところで連帯できない、ということだと思う。
  「この党学校で血債主義を克服したい」という発言があったが、党学校で克服できるというわけではないと思う。現実と向き合い、現実の中にとびこんで闘う、団結を組織する以外に「克服」などない。「現実こそが最もラディカルである」というのは真実だ。“感性のみずみずしさ”が問題になっているわけではないと思う。
  7月テーゼは獄中で読んだ。重要なのは、あらためて「プロレタリアートとは何か」「プロレタリア革命とは何か」を提起されたと感じた。これを全く受け入れない塩川一派は、最低の団結破壊者である。打倒する以外ない。
  とにかく「団結を組織する」という問題意識でのぞむことが党学校の核心だ。「再整理」とか「どう読むか」など、自己確認としての自己確認のためでなく。
  それから、無限の信頼を置くということがすごく重要。これは労働者との激突も含むということ。団結のために、あくまで団結のために!

【d】

 新自由主義攻撃が開始された時、帝国主義者は「あらゆる社会的連帯を一掃する」(サッチャー)と宣言した。団結破壊を階級攻撃の基軸にすえる、という表明だった。
  だとするならば、帝国主義による分断をうち破り、国際労働者階級の無限の団結を求めてうって出ることの中に、最末期帝国主義を打倒し、プロレタリア世界革命を実現する実践的カギがある。7月テーゼこそ、その道しるべである。この道を行こう。
  血債主義・糾弾主義は、労働者階級の自己解放的決起を信頼せず、抑圧民族・被抑圧民族の労働者階級の間にみずから万里の長城を築く自殺行為である。これでは職場闘争は成立しえない。
  労働者が最も抑圧され、最も疎外されている職場・生産点における闘争を、動労千葉に続いて開始し、資本・権力を足元から揺るがす階級的労働運動を組織し=決起をかちとりともに闘う中で、革命的情勢の急接近に全力でそなえたい。

【Y】

 7月テーゼが、副題として「労働者階級自己解放と差別・抑圧からの解放」「階級的労働運動路線のもと、7・7思想の革命的再確立を」の2本を掲げていることは、非常に重要であると感じた。本当に党が年輩も青年も団結するために、血債主義・糾弾主義克服のための討議をし、回答を出していくことは、逃げ出した塩川一派には絶対に出来ないことだ。我々は、何でも肥やしにして党の団結をかちとる。被差別・被抑圧人民との団結は、プロレタリア世界革命をめざす階級的団結によってかちとれるのだ。その解放の頭脳と心臓は、まさにプロレタリアートであり、この現実からの逃亡は絶対に許さない。
  レーニンの時代ですら、少数であったプロレタリアートを助け、その上、被差別・被抑圧人民との柔軟な結合と、世界革命にむけた闘いを開始したのではあるが、それから見れば、今はまったく革命の条件がプロレタリアートの圧倒的登場として成熟していることに、あらためてびっくりする。団結の拡大という土壌が階級闘争によみがえれば、絶対に世界革命は可能だ。
  塩川一派は、スターリン主義を自らが体制内として屈服していることで「恐るべき」とかゴジラ化している。本当にそうか!「革命の条件」を見ることのできない連中が、革命をしない理由を挙げているだけだ。労働者階級の自己解放闘争の巨大さに、日々世界は、文献を超える労働者の決起として激動している。これに確信もって闘おう。

【a】

 7月テーゼを読んだとき、血債主義・糾弾主義の意味がよくわからなかった。まして、血債主義・糾弾主義によって自己批判をさせられるということがあったのか、信じられなかった。私としては、差別・抑圧の問題は、資本主義がなくならないかぎり、あるのではないかと思っていた。だから、自分を解放するために革命することであるし、差別・抑圧をなくすために資本主義を打倒することだと思う。しかし、今日の7月テーゼを学習することでわかったことは、血債主義・糾弾主義者つまり塩川一派は、プロレタリア革命しても、差別・抑圧から解放されないと思っている。しかし、プロレタリアの団結を前進させる中で、労働者の階級意識が形成されながら、労働者が差別をなくしていくことではないか。新自由主義の攻撃は、団結をすべて破壊する攻撃であり、労働者を分断することである。だから、労働組合の組織を中軸にして団結を形成することで、革命の現実が見えてくるのだ。
  うまくまとまりませんが、現場での実践からしか組織は広がらないと思っている。

【K】

 7月テーゼの提起は、「党の革命」を通して、革共同がほんとうに世界革命をたたかいとるプロレタリア党に生まれ変わるためには、不可避なものであった。
  プロレタリア革命は、本質的にも現実的にも世界革命であり、今日の革命的情勢の急接近情勢の下で、「7・7思想」の世界革命論としての再確立が決定的に求められた。その再確立の第1歩が、7月テーゼとして提起されたのだということ。
  資本主義(最末期帝国主義)社会における差別・抑圧との闘いは、世界革命を遂行していく上で決定的闘いである。その場合、しっかりおさえるべき点は、「プロレタリアートが資本による分断支配をうち破って階級としての団結を奪い返していく闘いそのものの中にある」という点である。同じことだが、「差別分断支配の本質は、労働者階級の階級的団結の破壊にある。逆に団結の形成こそが差別と分断をうち破るカギである」という本日の提起を、しっかり受けとめ、主体化していきたい。
  「血債」の歴史的事実(侵略の歴史)は、日本労働者階級人民として、避けて通ることはできないのではないか、文学的表現だといって切って捨てることはできないんじゃないかと、率直なところを問題提起したのですが、貴重な意見をたくさんもらい、学ばされました。一番感じたことは、自分が、まだまだ階級的団結論に立ちきれず、「血債主義」にどっぷりとつかっているということです。「革命にたいして悲愴感をもっている」という指摘は、まったくその通りです。若者のつきぬけた明るさ、楽観論は、すばらしいと思います。「隣の労働者に何を語るのか?」ということが党学校で学ぶことの目的なんだ、という発言にも教えられました。
  あらためて、1年間の党学校で学ぶことを決意します。7月テーゼをより一層、発展・深化・主体化するためにも、マルクス、エンゲルス、レーニンの著作を学習することが決定的だと感じました。

【N】

 講師からも何故、講義の第1回目に「7月テーゼ」を選んだのかについて、問題意識が語られたが、これから生きたマルクス主義を再確立していくうえで、労働者自己解放の原理・思想を土台にすえることが決定的であるとつくづく感じている。血債主義・糾弾主義を打倒しきることは並大抵の闘いではない。われわれ、中堅・古参の党員は、血債主義に一度完全におおわれ、それを拠り所に闘ってきた。つまり日本労働者階級が必ず革命的に決起するという確信をもてず、日本の労働者階級には拭いがたい思想問題があって、それを党の目的意識性で克服していくことが党の任務だというような、党を階級の上に絶えず置き、階級と一体的に進むことがあたかも偏向をきたすがごとく思ってしまう、そうした傾向が色濃くあったと思う。いや、「あった」と過去形で扱うことができないほど、現実の青年・学生の「革命したい。団結したい」という闘いに直に接するほど、自分たちのあり方が、桎梏になっていて、その根底に、体制内思考とともにこの血債主義的歪みがあることに気づかされるのだ。今回の講義では、7月テーゼの核心として、プロレタリア自己解放の思想の復権、プロレタリア世界革命論の再確立、プロレタリア独裁論の明確化、それを通した血債主義・糾弾主義の根底的打倒として、その核心が押さえられた。労働者自己解放への確信をますます深めることができた。だが、これは単なる理論的確認ということでは勿論ない。それは現実の労働者階級の運動と闘い、とりわけ青年の「生きさせろ」「労働者に権力よこせ」の職場闘争の苦闘の中から生きたマルクス主義の復権として生みだされたものであり、階級と一体となった党が、階級から学びつかみ取った地平であると思う。どこまでも、「党は階級そのものである」のだ。
  今後、マルクス・レーニンの古典に入っていくわけだが、現実の労働者階級の運動と一体で、新たなマルクス主義の復権をかちとっていきたという意欲が湧いてきました。党学校は、講師と受講生の共同の作業だと思いました。新たな気持ちで古典に取り組み、ともに生きたマルクス主義の現代的復権を実現していきたいと思っています。