受講レポートから ★『国家と革命』(上)のレポートです。
【Q】
1。『国家と革命』の核心はプロレタリア独裁論であり、その実践(17年ロシア革命そのもの)そのものであること。ここに踏まえた上で、主体化していこうということ。もっと言えば、我々にとって切実でなければならない課題そのもの。
2。すべての日和見主義、レーニンの時代のカウツキー…、我々の時代の塩川一派…は、「プロ独の否定」にその核心があること。(同時に「国家」への屈服)
1と2の問題意識から『国家と革命』を学んでいくこと、実践的に塩川一派批判の深化が課題である。−現代革命、いまの課題そのもの−塩川一派批判→プロ独論深化という関係性がある。
3。「国家」が何物かというのは、たたかいに立ち上がった時にはっきりするということ。例えば、動労千葉のたたかいの前進に対する反動や弾圧、あるいは5・27臨大闘争弾圧のことを見ればはっきりしてくる。
塩川一派が「完黙」問題で屈服した内容を暴露していることは、「国家」に対する美化、プロ独の否定なんだということをはっきりさせるべき。
「弾圧」の問題は「国家」の問題そのものである。国家権力打倒→廃絶の立場は、労働者自己解放の中味そのものではないのか。つまり、プロ独問題ということだと思う。
○本学習会の最後の結論は、「3・16へ」ということを出していくべきという意見に賛成。
○「新自由主義」と国家の問題については、『共産主義者』155号島崎論文で出されていると思うが、この問題は、相当重要だと思う。勉強したい課題です。(動労千葉労働運動の意義=プロ独、世界革命の問題etc.)
○パリ・コミューンがプロ独の現実的内容だということの内容を、もっとヴィヴィッドに知りたいと思います。たとえば今、「東京コミューン」とかを動労千葉派がやったとき、どうするのか、というような問題意識で実感していくことが大事なのでは。つまり、「切実さ」として、革命の現実性として、ということからの接近。
【G】
討論が充実しました。
第1に、塩川一派批判を全体として貫くのは難しいのかなあと思いました。前回『帝国主義論』では、秋月論文(『共産主義者』152、153号所収)での前進もありましたので、スッキリした感があったのですが。暴力と団結の問題、プロ独の問題を、今日的実践的に踏まえ、学習会として成功させていきたい。
第2に、新自由主義と国家の問題について。一般的「左翼」が使っている「新自由主義」のゴマカシは、国家に対する日和見主義だということ。国家は階級対立を不鮮明化させ、「競争」というイデオロギーで、ブルジョアジーの私的所有=民営化攻撃を隠ぺいする最後の支配階級の道具なのだということ。警察や軍隊の肥大化は、それだけ帝国主義が行き詰まっていることであり、革命の前夜であることがわかる。国家という形で、資本の論理を貫徹する。5・27弾圧や法大弾圧などは、そう思いました。
「何故、国独資政策は破綻したのか?」ということは、74−75年恐慌で米帝が行き詰まったからという視点、とらえ方が重要ですが、そもそもロシア革命で終わった体制なのだということ。主体的問題としてとらえていくことは、新自由主義攻撃が、階級戦争であることをはっきりさせていくために重要だと思います。
【E】
国家と革命の問題をあいまいさなくはっきりさせることは、塩川一派や体制内日和見主義と闘う上で極めて重要であることがはっきりした。
つまりは、プロレタリア独裁である。議論の中でもはっきりさせられたことだが、新自由主義、最末期帝国主義下において、いよいよプロレタリアートが全権力を握る時が来たということだ。
塩川一派は「革命情勢ではない」などと言うが、冗談じゃない。今こそプロ独の実現の時だ。この情勢から脱落・逃亡した塩川一派や最末期帝国主義の最後の先兵と化した体制内執行部と断固たたかい、3・16に首都5000を実現することを実践的結論としたい。
自分の大学でも、すでに体制内をぶっ飛ばした決起が始まっている。勝負のカギは我々の煽動だ。動労千葉のような闘いをあらゆる職場・学園でまき起こし、11月は1万人結集を何としても実現しよう。
【N】
今日的に我々が『国家と革命』をどう学んでいくのか? はじめ階級的労働運動路線を実践的にいかに突っ込んでいくのかという問題意識と、どう結びつくかピンとこない面があった。今回の学習を通じて、革命の問題の核心点にプロ独=国家の問題があるということがはっきり確認できた。
「一般にブルジョアジー、またとりわけ帝国主義ブルジョアジーの影響下から、勤労大衆を解き放つための闘いは、『国家』についての日和見主義的偏見と闘うことなしには不可能である」
現実の階級闘争は、世界の帝国主義国下で民営化=労組破壊の攻撃との死闘戦になり、それは体制内労働運動の弾圧・攻撃と、国家権力の暴力的な弾圧・攻撃と一体のものとして襲いかかってきている。国家論の問題は、この国家権力の問題、最末期帝国主義の体制的危機の問題として、あらゆる攻防の局面で問題になっていると思います。
「労働運動の力で革命を」「団結の拡大で革命を」。この闘いの中に、『国家と革命』の精神が脈々と息づいていることが重要だと思います。これをさらに団結の武器として、理論的・路線的にうち固めていくうえで、重要な提起でした。
マルクスもレーニンも、まさにいかに革命を実現していくのかと、実践的に現実の階級闘争に肉迫していく中で、国家論を形成しました。塩川一派と闘いながら、階級的労働運動路線を実践する我々が、『国家と革命』を今日的に再摂取していく作業は決定的だと再認識しました。
「イギリスの例外規定」の問題は、もう少し踏み込んで結論が得られれば、と思います。
【U】
「国家とは何か」というテーマは、労働者と論議する時に、必要不可欠なテーマです。「帝国主義」の破綻・危機は、現実の世界でかなりわかりやすさをもっている。「国家」は、イデオロギーに種々色取られていて、これを突き破っていくのは、国家と革命の基本的な骨格をしっかりとつかんでいないと、展開できない。
『家族・私有財産・国家の起源』にもとづいた論理展開は、ものすごく重要ということを今回も感じました。
「新自由主義」の使い方が、市民運動から体制的御用学者などで使われている点について、共通していることは、「資本主義の悪い政策」「政策を変えろ」ということではないか。我々の「帝国主義の破綻・危機・革命情勢論」でしっかりと前者を批判しつくすこと。体制内運動の論点が前者。体制内を批判し、粉砕する上で重要なテーマと思います。
その上で、今回の論議で、「新自由主義と国家」ということで討論になったことは、多くの学ぶものがありました。「新自由主義」の中で国家は凶暴化し、ブルジョアジーとその国家を守るためには、徹底して攻撃をかけてくる、労働組合の破壊(=民営化)、労働者の分断です。だからこそ、「革命情勢」なんだ! ということ。
塩川一派の核心的なことは、労働者の革命性、階級性に信をおかないから、これを革命情勢ととらえられないこと。今回感じたことは、「国家と革命」を「国家と革命」として学ぶことは、塩川一派の徹底批判でもあるということです。これは、前回の「帝国主義論」においても、しかりです。
【Z】
(1)あらためて『帝国主義論』と『国家と革命』は、レーニンにとって飛躍点を形成していることが、よくわかる提起であったと思います。
1912年プラハ協議会路線(=階級的労働運動路線)をやって、ロシア革命への過程に踏み込んできていたレーニンにとって、実際の実践的準備=蜂起・プロ独に今ひとつ飛躍するために、やはり『帝国主義論』(革命的時代認識)と『国家と革命』は、絶対不可欠のプロセスだったということです。
▲その場合の核心問題は、カウツキー主義に代表される日和見主義=体制内運動との、全面的戦争ということです。
革命とプロ独を否定する日和見主義の全重圧をはね返し、パリ・コミューンの直接の継承を歴史的に決断していくためには、マルクス・エンゲルスの全文献の丹念な調査の作業が絶対に必要だったということです。
(2)ここに、今日の塩川一派との闘いの歴史的意味が、完全に浮きぼりにされています。革命−プロ独への実践的準備に対する逃亡と敵対が、真に彼等の本質です。
マルクス主義・レーニン主義の真の継承と発展に対する(血債主義・糾弾主義をもってする)後退の要求ということです。
【V】
前回の『帝国主義論』の学習もそうだったが、どのような立場から学ぶのかが非常に重要で、とらえ方が全然違うものだということを強く感じる。
革命前夜という今の情勢の中で、革命に向かっての実践を本気でやるのかどうか。『国家と革命』で言えば、プロ独樹立の立場に立ちきるのかどうか、ということが核心だと思う。今回の塩川一派に対する批判に引き寄せた提起は、問題意識をより鮮明にさせてくれるものだった。
翻って、1980年代に初めて学習した時は、単に理論、イデオロギーを学ぶという立場でしかなく、およそ実践という問題意識はなかった。しかし、今や革命前夜情勢だからこそ発生する、様々な日和見主義や反動的イデオロギーと対決していくためには、そのイデオロギーがどう間違っているのか徹底的に明らかにし、実践的にこれと闘っていかなければならない。それが、マルクス主義の理論を今日的に研ぎすまし、この力で、様々な分断をうち破って、真に階級的な団結がつくり出せると思う。
【O】
1.レーニンの最重要文献である『帝国主義論』と『国家と革命』の学習会で、『帝国主義論』の学習会に参加できず、今回『国家と革命』の学習会に参加でき、非常にうれしく思っています。日常活動の中で解決できない事、モンモンとしたものが、マルクス、レーニンの文献を実践として学習し、集団で議論することで、「スコン」と落ちることがあります。やっぱり古典の学習は何才になっても、何度読んでも必要だと思います。マルクス、レーニンの文献は、現代(いつの時代でも)と結びついており、また実践の書でもあるからだと思います。
2.レーニンの『国家と革命』は、マルクスを継承し、レーニンの国家論、革命論、プロレタリアートの独裁論を展開したものだと思いますが、とくに今回の学習会で感じた点は2点あります。
@第2章の
「階級闘争を承認するだけでは、まだマルクス主義ではない。……階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認に拡張する人だけがマルクス主義者である」
この点の重要性。
Aコミューン4原則(革共同の整理)
この点は、決定的に重要だと思います。
パリの労働者、民衆が40万人、歴史上初めてブルジョアジーに勝利し、コミューンをうちたてた。しかし、反革命軍隊に数万の労働者、民衆が処刑された歴史。
この血塗られた闘いから、マルクス、レーニンは、革命は絶対実現できると確信し、レーニンはプロレタリアートの独裁論を形成し、同時にロシア革命を成功させた。
現在における革命の現実性。このパリ・コミューンからロシア革命に至る過程にあると思います。
3.塩川一派の事が議論になった。
僕は、塩川一派というのは中央打倒から、そのためにあらゆるものを利用し、革共同破壊のための策動をしている反革命であって、革命理論というのではまったくないと思う。
権力への屈服にたいする全同志の批判に対して、完全に居直り、革共同破壊にまで転落した一派であり、打倒ある以外ない一派であると思う。そのためにも、彼らを打倒する革命理論も必要です。
そのためにも、今日の学習や討論はよかったと思います。次回が楽しみです。
【J】
レーニンが『国家と革命』を書くに当たって、エンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』から書き始めているのには意味があります。
レーニンは『国家と革命』を1917年ロシア革命の最中に書いた。プロレタリア独裁国家が焦眉の課題だった。と同時に『国家と革命』は、ツァー国を暴力革命で打倒するために、日和見主義潮流とたたかうためであった。
国家の起源は、原始的な共同体社会が階級分裂したことによっている。初期の共同体社会は、氏族制社会を単位としていた。氏族・部族の長老、祭祀等が、共同体社会に行動的機関をもって社会を運営・営んでいた。民主的であった。
生産力の発展の中で、剰余生産物が生み出され、所有階級が発生し、共同体社会は階級社会にと分裂する。支配階級の統治機関が国家である。この国家は、支配階級の特殊の武装力をもっている。
階級社会は、剰余労働の搾取のあり方から、奴隷制社会−封建制社会−資本制社会にと発展してきた。資本主義社会は、資本家が生産手段を所有して、労働力を売る以外に生きられない労働者を搾取している社会である。
労働者階級が、暴力革命で資本主義を打倒して、職場・生産点で生産手段を自ら管理・運営するとき、共産主義社会が建設される。労働者階級は、自らの民主主義をもとに、労働者自身の共同体意識(総意・事務・人間的営み)を作り出し、プロ独国家の統治機能をなくしてゆくのである。労働者階級は、階級としての自分自身を廃止するたたかいで、プロ独国家の成立根拠をなくしていきます。労働者個々人の共同体意識の成熟は、「国家の死滅」=「民主主義の死滅」を可能にしていくのである。
講師の提起で、“こういう社会が歴史的に存在していたということは、新たな共産主義社会形成の展望を物質的根拠をもって示す”に感銘を受けました。パリ・コミューンは、歴史的にプロ独国家のあり方を指し示しました。
【A】
『国家と革命』前半の今回の講義は、当面する現在的課題に切り込もうとする、とても生き生きとした活きの良い提起であったと感じました。
ことに、「はじめに」の部分で、レーニンの問題意識を今日的に継承する立場を鮮明にし、マルクス主義国家論・革命論・レーニン『国家と革命』の復権が、戦争と革命の時代に生きる私達にとっても死活的な課題であるという提起は、決定的に重要です。この立場から、塩川一派との闘いにとっての『国家と革命』の重要性の指摘も、同時に決定的に重要です。
これらの課題の最焦点に、プロレタリア革命そしてプロレタリア独裁の問題があるという指摘は、正鵠を得ていると考えます。討論においてもかなり深められているように感じ、感銘を受けました。
後半の講義と討論をおおいに期待しています。
【I】
・討論で出した点を再度、記しておきたいと思います。
一つは、確かに後半部分の「国家と革命における労働組合の役割」の問題を抜かしては語れないものもあるのですが、その上で、この『国家と革命』が、カウツキー(日和見主義)との論争(党派闘争)の書であった、ということから言って、今日的、より実践的には“プロ独”の問題として(プロレタリアートによる独裁国家の問題)として焦点をあてていくと、より実践的な提起になったように思えること。
もう一つは、いわゆる「原典」にこだわりつつも、「党学校」としては、より実践的方向性を強く持って、内容的にも今日的な焦点を鮮明にさせつつ展開していく、というあり方が正しいように思える、という点です。
・(もう一つ)直接『国家と革命』とは多少離れますが、前回(と前々回)の『帝国主義論』をも受けて、さらに今回のレジュメにある塩川一派批判をも受けて感じたこととして…
後発帝国主義としての日帝の支配階級たる日帝ブルジョアジーの危機性(脆弱性)について。日本の資本主義が、帝国主義の時代に資本主義化せざるをえなかったことに規定されて、「賃労働と資本」の関係に一切が規定されている中で、「非資本主義的要素(部落差別を含む)」を残存させてきたことは、ブルジョアジーの、むしろ危機性・脆弱性の現れとして押さえるということではないか、と感じました。国家権力を前面にたてた非常に暴力的な支配のあり方も、まさにブルジョアジーの危機性、脆弱性のゆえであることについて、あらためて確信を持った、ということです。
【L】
新自由主義と国家の関係についての議論の中で、ブルジョアジーは完全に破産し、それを開き直って、ブルジョア的私的所有で何が悪いと、一方ではごう然と国家を前面に押し立て、団結破壊の攻撃に出ているのですが、他方では、国家の関与を隠ぺいし、競争原理のように語ると言われました。ここで思ったことは、今日では、ブルジョアジーは支配階級として極めて脆弱な姿をさらけだしているということです。
これから階級的労働運動路線を職場で実践していく上で、大事なことだと思います。新自由主義においては、国家=支配階級の暴力装置ということが、誰の目にも明らかになっていく。労働者は、人間として生きるためには、仲間とともに団結して、革命に向かっていく以外にない。国独資政策の時代には、眠り込まされていたプロレタリアートの力が、急速に目覚めていく。国家権力の弾圧と一体化する資本、当局、そして体制内労働運動指導部に対して、自分たちの階級性に依拠して闘うことを学んでいく。ブルジョア国家の打倒、プロレタリア独裁の樹立に向かう意欲を、「オレたちに権力をよこせ!」と全社会のどこでも示す。プロレタリアートの課題に、自分も一体的に向かっていくつもりで、今後も「国家と革命」を取り組んでいきたい。
【S】
思い起こせば、私が生まれて初めて読んだマルクス主義の古典が、この『国家と革命』です。当時は学生でしたが、「スゲー、スゲー」と興奮しながら読んだものでした。
今回久しぶりに学習することになりましたが、一番感じたのは、今「願ってもないチャンス」を我々が手にしている、ということです。
レーニンの時代はどうだったか? 当時のロシアは封建制度の残滓が色濃く、プロレタリア階級は未成熟、おまけに頼みの第2インターが戦争賛成にまわり、ボルシェビキ党も古参の幹部の右翼的雰囲気が党内を支配し、まるで塩川一派に牛耳られたような状態、こんな四面楚歌の状態を不屈の革命精神でぶち破り、世界初のプロレタリア革命を成し遂げた。
一方、今の我々はどうか?
帝国主義は末期も末期、出口が見つからず、サブプライムローン問題に表れたように「死の苦悶」にのたうち回っている。一方主体の側も、一旦はかなり危ない所まで行きそうになったが路線的腐敗を暴き出し、革命党として息を吹き返した。青年労働者の決起にも支えられ、本来の革命運動をまっしぐら、3国連帯で現代のインターナショナル、世界革命の展望を切り開いている。
こんな好条件に恵まれてモタモタしていたら罰が当たる。あらためて『国家と革命』を闘いの武器として活用したい、と思った。
【X】
これまで読んだときより、カウツキーやベルンシュタインらSPD批判に全力投入しているレーニンの強固な決意を読み取ることができた。『帝国主義論』も『国家と革命』も最後はカウツキーらの批判についやされている。これまでの党学校(とくに『ゴータ綱領批判』のとき)におけるSPDやドイツ自由労組についての紹介や討論が、そういう理解を深めさせた。
4月テーゼによって、全ての権力をソビエトヘというスローガンが、ロシア・プロレタリアートとボルシェビキとの行動綱領となったとはいえ、依然として臨時政府とソビエトとの2重権力状態はつづいていた。このとき一方でドイツ社会民主党SPDは、議会主義的な「躍進」のなかで第1党にもなる「先行的」状況があった。改良主義・社会排外主義に転落しながらといえども。巨大な山のような反革命の存在。
このときレーニンがやったのが、全面的な徹底したマルクス主義の復権であった。それが帝国主義論につぐこの『国家と革命』だとおもう。だから、ここでレーニンは、国家論のみならず、プロレタリア革命とはなにか、めざす共産主義とはなにか、およそマルクス主義の全部を展開した。この革命に、われわれは何をかけているのか、なんのために闘っているのか、その思いのたけを論述しているのだ。ここがすごい。
国家は階級支配の道具だ。目的は階級の廃絶であり、無階級社会だ、だから革命は、議会主義的ブルジョア国家の擁護などではなくその粉砕であり、(さしあたって)プロレタリア独裁にとってかわられなければならないと訴える。ソビエトこそパリ・コミューンだ、全ての権力をソビエトヘ、プロ独へ、レーニンの、そこ深い渾身の扇動は、感性を吸引し、奮い立つ勇気をうみださずにはいない。
【P】
世界大恐慌へと突入し、今日、世界的にプロレタリア革命が課題となっている。その時代に応えるために、革命の性格とプロレタリアートの任務を現代的に明確にし、階級を武装していくことが必要であると思います。
「労働運動の力で革命を」「団結の究極の拡大が革命」と、青年労働者が闘いを開始していることに対し、塩川一派が「空論だ」「暴力革命論がない」等々と悪罵を投げかけているが、彼らの方こそプロレタリアートの階級的闘いを基盤にしない空論、暴力革命論のもてあそびでしかない。階級的労働運動路線と職場闘争の実践こそ暴力革命の路線そのものだということです。即ち、職場闘争の実践によってこそ、日々賃労働と資本の非和解性が明白になっていき、かつ、その資本が買収した政府であるブルジョア国家権力を打倒することによってしか自分たちの解放はありえないことを、プロレタリアートは自覚していくということです。故に、今日的に言えば、職場闘争をトコトン実践することが核心であるということ。従って、冒頭に書いたレーニン国家論・革命論で武装を勝ちとっていくということも、「欠落しているものを提示していく」という意味ではなく、闘いの中でプロレタリアートがつかんできたものを、より自覚的・意識的・理論的なものにしていくということだろうと理解しています。
4大産別決戦こそが、今日的にプロレタリアートの武装蜂起−プロ独−共産主義革命を準備していくものだということです。帝国主義段階に入って、ブルジョアジーは支配機構の中に大量のプロレタリアートを組み込まざるをえなくなった。ここに階級的闘いが残っていることは、ブルジョアジーにとって喉元に刃を突き付けられているに等しい。故に、敵は自治労を始めとした4大産別に攻撃を集中してきているということです。
4大産別決戦論こそ、レーニンの暴力革命−プロ独論を今日的に継承し、実践化した路線と思います。4大産別の労働者を革命の側に獲得するのか、ブルジョアジーの側にとられる=産業報国会的に動員されてしまうのか、ここに勝敗がかかっているということです。ここの攻防に全力を集中し、ここでこそレーニンの国家論・革命論を復権し、闘うことだと思います。
【R】
『国家と革命』というと、今までは「暴力革命の必要性、必然性」を説き明かす書として見てきたが、昨今の最末期帝国主義の下での「労働運動で革命を!」を掲げる階級的労働運動路線の推進論としてとらえ直すと、やはり新しいコミューンをどう準備し、つくり出すかという極めて積極的、実践的で、対ブルジョアジーへの徹底したイデ闘、党派闘争としてあることを確認したい。
国家とは「外から押しつけられるものではなく、内部から発生する」というのは重要である。労働者階級こそが、「国家」として表現される資本の独裁による階級対立を粉砕し、さらに階級をも止揚・廃絶することができる任務を持っているからこそ、言い当てることができるのだと思う。無政府主義と異なる階級的団結を軸にしたマルクス主義の真髄だと思う。それは、パリ・コミューンに実例を取ったコミューン4原則を実現し、プロ独を推進しながら共産主義を闘いとる歴史を切り開くことが、やはり具体的には労働組合(と党)という団結形態をとりながら、ブルジョア独裁と戦いぬいていく過程だと思う。まさに階級的労働運動がプロ独を切り開くそのものの路線であることを、鮮明にさせていると思う。今日の職場闘争の推進も、こうしたプロ独をたぐり寄せるための「労働者の誇りと団結」をとり戻す行為だということが、よくわかる。
また、国際連帯をうち固め、農民、被抑圧諸国人民と連帯し、被差別人民等をプロ独に糾合させるための闘いも、軸は労働運動の爆発にかかっているし、青年獲得と指導部建設が絶対的だ。“戦線的利害”は、すでに国独資の解体と新自由主義的蹂躙の開始によって、プロレタリアート対ブルジョアジーの戦争を軸に変転しているのであり、プロレタリア階級としての強固な自覚と階級移行の闘いのもとで、プロ独への糾合として問題をたてないと解決されていかないと思った。
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