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2008年01月号党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 『帝国主義論』(上)

講義概要 P1-6
★-討論から P7-11

受講レポート P11-16

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-6 講義概要

第8期 第5課目 レーニン『帝国主義論』(上)

前半講義概要   講師 柴田 之雄

【0】われわれは、『帝国主義論』から何を学ぶのか

 11・4全国労働者総決起集会―階級的労働運動路線と職場生産点での実践は、1917年ロシア革命が切り開いたプロレタリア世界革命を今日的に復権し継承していく闘いそのものです。この確信を深めるために、レーニン『帝国主義論』を学んでいきたい。
  革命的情勢が始まっています。資本家どもは、米サブプライムローン問題が破綻し世界大恐慌が始まっていることに心底恐怖している。そこから帝国主義は、一方では世界の市場・資源・勢力圏の独占的支配のためのブロック化を進め、イラクからイラン侵略戦争、朝鮮・中国への侵略戦争の拡大、世界戦争へと突き進むしかなく、同時に規制緩和、民営化・労組破壊の攻撃の激化によって、労働者階級を恐るべき虐殺と貧困、労働地獄のなかにたたきこんでいくしかない。
  そういう中で全世界的な労働運動の革命的高揚が始まっている。帝国主義・資本主義の「新自由主義」攻撃は、何より資本主義の墓掘り人たる労働者階級を全世界的に生みだした。このことが決定的です。そして労働運動は、全世界的に2つの潮流に分岐し激突へと発展しつつある。11・4に結集する階級的労働運動か、連合や全労連など体制内労働運動か。後者は今日、「生産性向上運動」を掲げた日本郵政グループ労組の結成に見られるように、その反動性はいっそう際だっています。
  レーニンも、当時の労働者階級も、まったく同じ問題に突き当たった。1914年に第1次帝国主義世界戦争が勃発したとたん、第2インターナショナルは雪崩をうって転向し、自国の帝国主義政府の戦争支持にはしった。ドイツ社会民主党議員の軍事公債への賛成投票、ロシアでの体制内指導部の戦時工業委員会への参加etc.。こうした裏切りによって労働者階級は「敵」「味方」に分断され、プロレタリア革命は重大な危機にぶち当たった。
  レーニンはこの現実と真正面から向き合い、帝国主義と労働運動における日和見主義潮流との結びつきを明らかにした。そして、帝国主義の没落とともに日和見主義は労働運動における最終勝利者にはならないという結論を確信をもって示しました。「帝国主義戦争を内乱へ」のスローガンを掲げ、帝国主義打倒のプロレタリア革命の宣伝とともに、日和見主義潮流との決別・対決・打倒を訴え、労働運動の革命的潮流の形成・発展に全力をあげた。これを徹底的にやりぬき、1917年ロシア革命に勝利していったのです。
  「民営化賛成」や「生産性向上」は、「軍事公債賛成」と本質的に変わりはありません。「民営化反対」「戦争反対」と言いながら体制内労働運動との決別・打倒をあいまいにするのは、レーニンが『帝国主義論』で徹底批判したカウツキー主義そのものです。階級的労働運動路線―動労千葉労働運動の実践とは、まさに帝国主義打倒のプロレタリア世界革命を今日に継承し復権していく闘いです。

【1】第1章 生産の集積と独占

 『帝国主義論』は最初から最後まで、「独占」を軸に展開されている。独占とは生産力と市場がほんの数個の独占体によって支配され、分割されつくしているということ。レーニンは、この「独占の段階に移行した資本主義」を「帝国主義」と規定し、この段階の資本主義を「最高の発展段階」と言った。次に来るものは没落しかない、プロレタリア革命をとおして「より高次の社会」=共産主義にとって代わられるしかないということを、独占論を基軸にしながら明らかにしたのです。
  『帝国主義論』は、まず生産における集積(吸収合併も含む大規模化と集中)という事実から始まる。それは、数個の巨大企業がカルテル・シンジケート・トラストといった形態で世界の市場を互いに分割し、価格や生産量なども決め、事実上の独占状態をつくり出す。
  こうしたカルテル・シンジケート・トラストは、現代においても行われています。ほとんどの大企業・大銀行が、「価格カルテル」や「官製談合」などで独占を競い合っている。帝国主義とはそもそも、そういうやり方でしか成り立たない体制なのです。
  また、「資本主義は、その帝国主義的段階において、生産のもっとも全面的な社会化にぴったりと接近する。それは、いわば、資本家たちを、彼らの意思と意識とに反して、競争の完全な自由から完全な社会化への過渡をなす新しい社会秩序にひきずりこむ」(岩波文庫版p43)。つまり社会主義に移行するための客体的諸条件が成熟しているということです。革命によってプロレタリアートが権力を取りさえすればたちまち共産主義が実現できる、そういう一歩手前にきているということを「イソップの言葉」で語っている。
  しかし、資本主義のもとにあるかぎり、「社会的生産手段は依然として少数の人間の私有」のままです。独占がもたらす「生産の社会化」によって、社会の成員全体の状態はよくなるどころか、「少数独占者のその他の住民に対する圧迫は、いままでよりも百倍も重く、きびしく、たえがたいものとなる」(同)。したがって、資本の支配に対する労働者階級の憤激や闘いもこれまで以上に激化していく。
  独占が形成されていくと無秩序な競争もなくなり、恐慌もあまり起きなくなるんじゃないかという人がいるけど、全然そうじゃない。逆に矛盾を激化させ、恐慌の新しい形態をつくり出す。現在の米サブプライムローン問題の爆発は、その極限と言える。

【2】第2章 銀行とその新しい役割

 銀行でも集積・独占・巨大規模化が19世紀後半から急速に進み、それまで「控えめな」「地味な」業界だった銀行が支配的な地位に立つようになる。
  今も、銀行は、不良債権を抱える企業に対する「貸し渋り」とか、労働者の首切りや労働条件の切り下げを資金提供の条件にしたりする。そういうえげつない支配を全社会に張りめぐらせます。
  銀行と産業資本との結合は、人的な関係でも深まっていく。銀行と産業との「人的結合」。それは、さらに政府との「人的結合」によって補足される。すなわち、「政官財の癒着」「贈収賄」「天下り」の横行。これは帝国主義一般の普遍的な特徴です。
  銀行における独占も20世紀初頭に完成する。次の第3章は、この金融資本とそれによる全経済的・政治的・社会的な支配の形態である金融寡頭制の暴露です。

【3】第3章 金融資本と金融寡頭制

 鉄工業などの重工業で生産の大規模化が進行し、生産設備(固定資本)が巨大化していくと、巨額の資金が必要となる。ここから独占的な大企業=大銀行が株式会社制度を使って全社会から資本をかき集めて、資本に変えることがおこなわれるようになる。これが金融資本的蓄積様式です。
  金融資本は、その圧倒的な独占の力をもって全社会を支配し、「金融寡頭制」をもたらす。この金融寡頭制に帝国主義の腐敗性・末期性が凝縮して示されている。レーニンは、この金融寡頭制の支配を怒りを込めて暴露・弾劾しています。資本主義はもう行き着くところまで行き着いて、倒されるしかないんだということです。
  今では銀行や証券会社が「シンジケート団」を形成して、財政破綻した自治体の発行する債券をシェアすることまでやっている。自治体の方は、「財政再建」の名のもとに、金融機関の意向を汲んでますます民営化・合理化を労働者・住民に押しつける。金融資本にたいする「貢ぎ物」を安定して継続して届けるために、民営化を推進しろ、年金も医療も介護も生活保護も解体してしまえというわけです。他方で10兆円以上もの利益をため込んでいるトヨタなんかは、まともに税金を払わない。キヤノン会長の御手洗などは、「もっと企業減税を進めろ」「消費税をあげろ」などと言ってはばからない!
  この少数の金融資本の支配者たちは、政治権力と結びついてこれを利用していく。「金権政治」が普遍的になる。防衛省官僚の汚職・収賄事件などは、その氷山の一角です。
  こうして「現代ブルジョア社会の、例外なしにすべての経済機関と政治機関のうえに、従属関係の濃密な網をはりめぐらしている金融寡頭制」(同p200)が成立する。レーニンはこれこそが、独占の「もっともあざやかな現れ」(同)だと言っています。
  ここまで腐りきった少数の独占者によるデタラメな支配体制は、もはや木っ端微塵に粉砕され、打倒するしかない。このことこそレーニンが言いたかったことです。

【4】第4章 資本の輸出

 金融寡頭制の支配を形成するまでにいたった少数のいわゆる先進資本主義国は、他のすべての国家にたいして優越し、「資本の蓄積が巨大な規模に達し」(同p102)ます。
  「自由競争が完全に支配していた古い資本主義にとっては、商品の輸出が典型的であった。だが、独占が支配している最新の資本主義にとっては、資本の輸出が典型的となった」(同)
  この資本の輸出をめぐって、帝国主義国間の世界分割・再分割闘争が激化し、植民地・資源・勢力圏などをめぐる侵略戦争、世界戦争が不可避となっていく。
  その問題に入る前に、レーニンは「資本の過剰」について以下のように述べています。
  「もし資本主義が、現在いたるところで工業よりもおそろしく立ちおくれている農業を発展させることができるならば、またもし、目まぐるしい技術的進歩があるにもかかわらず、いたるところで半飢餓の乞食のような状態にとりのこされている住民大衆の生活水準を資本主義がひきあげることができるならば、――そのばあいには、もちろん、資本の過剰などということは問題となりえないであろう。……なぜなら、発展の不均等性も、大衆の生活の半飢餓的な水準も、ともにこの生産様式の根本的な不可避的な条件であり、前提であるからである」(同p103)
  「資本主義が資本主義としてとどまるかぎり、資本の過剰は、その国の大衆の生活水準をひきあげることには用いられないで――というのは、そうすれば資本家の利潤をひきさげることとなるであろうから――国外へ、後進諸国へ資本を輸出することによって利潤をひきあげることに用いられるであろう」(同)
  このレーニンの叙述は、現代にますますぴったりあてはまっている。トヨタやキヤノンなどは毎年史上空前の利益をあげ続けていますが、それと労働者の生活状態の悪化は表裏一体です。文字どおり「食えない」人たちを膨大に生み出すことによって、資本は莫大な利益を手中にしている。さらに社会保障もどんどん切り捨てる。そして「過剰な」資本はアジアへ、世界へと輸出され、そこからまた莫大な超過利潤を吸い上げている。農業もまた徹底的に切り捨てられている。その最たるものが三里塚の農地強奪・営農破壊攻撃です。労働者も農民も帝国主義・資本主義を打倒する以外にないということがますますはっきりしてきています。
  資本主義のもとでは、国内市場は不可避的に国外市場と結びついている。しかも資本の輸出は国家的な対外膨張政策、植民地侵略政策と結びついて進められる。金融寡頭制の国家と結びついて市場や資源、労働力の奪い合いに勝ち抜くことによってのみ、資本の輸出はおこなわれる。だから何か平和的に資本の輸出がおこなわれるわけではない。
  さらに資本の輸出は、政治・外交力や軍事力によって、あるいは従属国にたいする借款や縁故、人的な関係をもとおしておこなわれていく。現在のNAFTAやEU、FTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)の締結競争なども、その典型です。
  また、ここで強調しておきたいことは、「資本の輸出」は、同時に、全世界で資本主義の墓掘り人である労働者階級を生み出した、ということ。現在においては韓国もそうだし、中国やインドなども含め、全世界でわき起こる労働者のストライキ闘争などにますます明らかです。プロレタリア世界革命の現実性は、帝国主義の時代においてますます成熟している。

【5】第5章 資本家団体のあいだでの世界の分割

 19世紀末から20世紀の初めにかけて、資本の輸出とともに、国際カルテル、国際トラストといった独占団体による世界の分割が進行した。これは独占の究極の段階です。レーニンはこれを「資本と生産との世界的集積の新しい段階であり、過去のものとはくらべものにならないほど高い段階である」(同p112)と指摘している。そういうレベルまできた資本主義の現実のなかに、共産主義社会に向けて生産手段や労働力を世界的規模で分配し、労働者が調和的な生産を組織していくことが十分可能な客体的条件がつくり出されているということです。
  ただし、この延長から社会主義が芽生えてくるとするのではない。ここでレーニンは、国際カルテルを美化するカウツキーを徹底的に批判している。
  カウツキーは、“国際カルテルは世界平和の土台になる。今起きている世界戦争は一時的な「異常事態」にすぎず、独占がもっと進んでいけば、一つの国際的独占体が支配する「超帝国主義」になり世界平和が訪れる”と主張した。しかし、国際カルテルや国際トラストは、けっして独占体同士の世界分割、再分割をめぐる争闘を克服したものではない。ただたんに、現在の「資本(の規模)に応じて」「力に応じて」世界の経済的分割をおこなっているにすぎない。そしてこの力関係は不変ではないし、現実にたえず変動し、再分割に向かっていく。

【 6】第6章 列強のあいだでの世界の分割

 資本主義が帝国主義段階に入った19世紀末〜20世紀初め、すでに全地球の領土的分割はほぼ完了していた。レーニンは20世紀は再分割の時代だと言っている。
  金融資本の時代の植民地・領土の再分割をめぐる闘争は、独特の死活的性格をもっています。
  「資本主義の発展が高度となればなるほど、原料の欠乏がより強く感じられれば感じられるほど、また全世界における競争と原料資源にたいする追求が尖鋭化すればするほど、植民地獲得のための闘争はますます激烈となる」(同p136)
  「金融資本にとっては、すでに発見されている原料資源ばかりでなく、可能的な資源もまた意義をもっている」(同p138)
  「資本輸出の利益もまた同様に、植民地の征服をうながす」(同p139)
  ところが、小ブルジョア改良主義者、カウツキー主義者らは、戦争とか植民地支配などをやらなくても、もっと平和的に資源や市場の確保はできると帝国主義を「批判」する。たとえば、今のイラク侵略戦争「批判」でも、アメリカはあんな戦争なんかしなければ、もっと安全に石油を手に入れることができたはずだとか。
  しかし、そんなものは幻想でしかない。それは、帝国主義はもっと安全に、確実な方法で発展できるはずだという「帝国主義美化」論です。こうした論は、最新の資本主義の主要な特質である独占の事実をすっかり忘却している。
  さらに帝国主義の侵略戦争政策は、資源や市場の確保といった「経済的諸原因」からだけではなく、「社会的・政治的諸原因」からも成長する。帝国主義の階級支配というのはなんら安定的ではない。
  そもそも帝国主義は、1871年のパリ・コミューンとその軍事的鎮圧、血の弾圧から出発している。このパリ・コミューンは世界のブルジョアジー(とくに遅れて出発した日本のブルジョアジー)にすさまじい衝撃を与えた。帝国主義は、プロレタリアートの闘いを鎮圧しなければいつブルジョアジーが倒されるかわからないという、すさまじい階級支配の危機に直面するなかで形成されていったのです。
  ブルジョアジーはパリ・コミューン以来、階級支配の危機と破綻、体制崩壊の恐怖、内乱の恐怖にたえず突き動かされていた。それが排外主義と全面的な支配・抑圧、政治反動を進め、帝国主義的植民地政策と侵略戦争を進める強力なバネになってきた。20世紀初めのボーア戦争から今日のイラク侵略戦争にいたるまで、帝国主義の侵略戦争が徹底的な残虐性をもつのは、まさに内乱の恐怖を反映しているからにほかなりません。
  レーニンは、第6章の最後で、帝国主義諸国の発展の不均等性の問題にふれています(岩波文庫版p133〜143参照)。帝国主義の不均等発展によって、世界の再分割をめぐる世界戦争は不可避なのです。(前半講義了)

党学校通信 討論から p7-11

●F

 『帝国主義論』は、レーニンが、17年革命を準備していく過程で書かれたということで、かなり実践的な課題を含んでいる。今日のわれわれにとっても、帝国主義をぶっ倒すためにどういうふうに闘うべきなのか、帝国主義の攻撃の総体に対して、どういうふうにわれわれが立ち向かうべきなのか、ということを、かなり実践的に展開していると思う。
  銀行が企業の経営にたいしてもろに介入していくという話が出てきたけど、僕は今も帝国主義そのままだなということを、現実の闘いの中で知らされた。要するに、労働者をリストラしなければ、銀行は金を貸しませんよ、ということを会社の経営にたいして言ってくる 。それに対して、労働組合としてこの攻撃の本質を考えた場合、中間主義的闘い方では絶対に叩き潰される。そういう中で、動労千葉労働運動で闘うしかないんだということを、個別オルグをやったり、あるいは職場集会を持ったりとか、徹底討論した結果として、今年の11月労働者集会では、2桁の動員を勝ち取った。
  あと、質問なんだけど、レーニンの『帝国主義論』が書かれたのが1916年だから、第1次大戦が始まって数年。革命という問題が日程に上ってきたという中でカウツキー批判のために書かれたという側面性もあると言われましたけど、カウツキーの超帝国主義論というのが出てきたのは、革命にたいする日和見主義というのが土台になっているのか、それとも、そもそもカウツキーはそういう奴だったのか?

●講師

 今の党内闘争と一緒です。体制内的な思考とか思想ということは、労働者党といえども無縁ではない。革命の決定的なチャンスが来たときに、体制内的なものと対決・決別するのか、それとも共存しながらやるのかということが問われる。すなわち、ブルジョアジーの側に立つのか、プロレタリアートの側に立つのかという。その時、根本的には自分の小ブル的立場ということを温存した者が、あたかも労働者の中でマルクス主義的な言葉で資本主義を批判したりとか、革命ということも言ってみたりとか、ということじゃないですかね。
  だから、国際的なカウツキー主義という一つの運動の潮流との闘争として、カウツキー批判をレーニンは構えきってやらなきゃいけないというふうになったんじゃないかと思います。

●Z

 自分の勉強した範囲内ですけど、今の論議にかかわってみると、3つくらいある。
  カウツキーのもともとのマルクス主義理解が、レーニンのマルクス主義理解、マルクスのマルクス主義とまるっきり違うんだということが、まず一つ。彼のマルクス主義というのは、プロレタリア自己解放論じゃない。超客観主義そのもの。放っておけば、資本主義の矛盾のおもむくところ、新しい社会、社会主義になるという。だから、カウツキーのもとでのドイツ社民党の革命戦略は、“熟柿が落ちるのを待つ”、“待つことだけが問題だ。革命は必ずくる”ということ。そういう「マルクス主義」だったということが、まず前提。
  その上で、もう一つは、帝国主義段階に入った。それから、第1次世界大戦という歴史的情勢の中にカウツキーが投げ込まれて、マルクス主義ならざるマルクス主義者として完璧に難破し、超帝国主義論に至った。
  3つ目は、レーニンなんです。レーニンの闘い、ボルシェビキの闘いとの対抗関係の中で、情勢に規定され、プロレタリアートの階級闘争に規定されて、どんどん右に行く、どんどん反革命化する。基本的にそういうことじゃないか。
  だから、1917年にロシア革命が勃発すると、ドイツ社民党は分裂する。カウツキーなんかが担がれて、独立社会民主党という形で分離し、右往左往する。とにかくレーニン、ロシア革命に揺さぶられてそうなっていっているということが、大事な観点だと思う。

●I

 『共産主義者』152号、153号の秋月論文もそうなんですけど、カウツキーに代表される、革命的情勢のときに出てくる日和見主義というか、反動分子というか、これとの格闘ということが、かなり念頭に置かれて『帝国主義論』は書かれている。
  これまでの僕の『帝国主義論』の理解というのは、どっちかと言うと経済主義的というか、現段階が帝国主義段階なのかどうなのか、をはっきりさせたところに意義を見いだすという傾向が、なきにしもあらずだった。
  前回の『ゴータ綱領批判』の時もそうだったけど、革命ということが本当に問題になるときというのは、必ずそういう意味では、マルクス主義というか、革命の言葉を語った反動というのは絶対に出てくる。そことどう格闘するのかということが、実は実践的には最大の問題。今日で言えば塩川一派みたいな連中の実際的な有り様ですよね。その姿を暴露し、批判し、たたいていくということも絶対に必要。実際にレーニンもやっているわけだし、カウツキーなんかに対して。
  もう一方では、何を主眼に置いたのかというと、革命の主体はプロレタリアートなんだ、労働者階級なんだという。『帝国主義論』は、当時の労働者、労働者階級に、全面的に理解してもらう、あるいは受け入れてもらう、ということで書かれている。だから、かなり生々しいし、それだけ逆に資料も豊富に取り揃えて、まさに革命が問題になった情勢下で出された。そこをまず受け止めるのが、重要だと思う。

●L

 今の意見で言われたことで、学ばなきゃいけないと思ったのは、レーニンが、なぜ『帝国主義論』を提起しえたのかということにかかわることで、今年の木崎論文(『共産主義者』152号所収)に出ていたような、革命の現実性というのは、革命家の執念の中にあるんだということ。今、彼が言ったことはそういうことにかかわることだと思う。
  プロレタリアートの闘い、プロレタリア革命にたいする信頼と絶対にやり遂げるという執念。ここですよね。共産主義者と名乗ったら一人残らず逮捕されるような、そういう戦時下の情勢の中で書かれているということにしても、そうだというふうに言える。ましてやロシアのようなツァーリズムの体制の下で、なおかつ農民が膨大に人口を占めているという中で、革命の主体はプロレタリアートなんだということを真っ向から提起して、国際共産主義運動をけん引していくという、ものすごい闘いをやっている。だから、レーニン多数派だったかというと、そうも見えないし、少数かもしれない。だけど、今の僕たち、動労千葉を先頭にして闘っている階級的労働運動路線派は、今の戦争と民営化の時代の中で、国際共産主義運動・労働運動というものを、プロレタリア世界革命に向かって、すごく画歴史的なものを切り開いているというふうに思うんです。
  レーニンはプロレタリア独裁を打ち出し、4月テーゼを打ち出していくんですけど、僕たちは7月テーゼを今、出しえている。階級的労働運動路線の中で、僕たちが帝国主義打倒論、プロレタリア独裁論、そういうものを理論的に打ち立てていっている過程としてあるんだと思う。講師も、11・4の労働者総決起集会の歴史的地平に立って、『帝国主義論』の講義を行っている。そういう中で、『帝国主義論』は階級的労働運動路線、体制内労働運動との決別、対決、打倒の闘いの中で、実践的武器だなと思った。

●R

 『帝国主義論』というのは、今まで勉強してきたのは、世界戦争の必然性を論証する、という観点からだけだった。しかし、現実に戦争が始まっている中で、レーニンは必死に、これは蜂起に至る革命しかない、その主体は労働者だと。現実に戦争が起こっていても、ある種そういう侵略などにまみれていても、労働者は立ち上がるという呼びかけを死守している。あらためて『帝国主義論』というのは、そういうものなんだということを感じた。
  だから、労働者が戦争や抑圧とか差別とかにまみれれば、もう終わりなのかというとまったくそうじゃない。本当にこれは確信もてるというか、そういったことを感じます。

●F

 塩川一派は、7月テーゼに全面的に反対する。「資本主義を倒そう」という青年労働者のスローガンには帝国主義論がない、自国の資本主義を倒せばそれでいいというものじゃない、血債の立場がない、ということを言って。つまり、労働者は世界的な存在なんだということが、彼らの主張にはまったくない。労働者階級が主体となって帝国主義を打倒していく中に、民族・植民地問題も解決されていくんだという立場がないから、血債主義を振りかざす議論になっていく。
  革命の根本問題にたいして、彼らはマルクス主義の言葉を借りながら、本多さんの著作選やレーニンの引用だとか、そんなことを随所に散りばめながら、実はレーニン主義の核心的な部分を否定していくという、それが奴らの一番犯罪的なところ。そこは、はっきりさせていかなければならない。

●Z

 そこにかかわって、まずは、帝国主義段階に入るときに、それまでの経済も社会も、階級闘争もそうだけど、まったく一変する情勢に入った。それがマルクス主義陣営にはどういうふうに現れたのかと言うと、ベルンシュタインがいち早く資本主義は変わった、革命はもう必要ない、とマルクス主義の修正を要求する。そういう形で現れた。それに対してカウツキーは、「正統派マルクス主義」の立場から、いろいろ変わったかのように現象しているんだけど、『資本論』は貫かれているんだというのが、ベルンシュタインとカウツキーの、修正主義者と「正統派マルクス主義者」間の論争だった。
  レーニンの『帝国主義論』は、それにたいする回答でもあった。帝国主義段階ということで何がどう変わったのかということをはっきりさせる。その上で一番決定的なのは、「イソップの言葉」でしか書けなかったから後で「序言」で書いたんだけど、帝国主義というのは「死滅しつつある資本主義」で、最後の資本主義で、「社会主義革命の前夜」なんだ、革命は遠のいた、冗談じゃない、今一番接近したんだ、というふうに出した。
  今日の講師の提起も、レーニンの1916年に書いた帝国主義のいろんな諸事象、それは今にピタッと合っているんだという、ピッタシなんだということを強烈に出している。秋月論文もそうですけど、そこが今われわれが『帝国主義論』を学ぶときの一番大事な点だと思う。つまり、『帝国主義論』が一番近くなったという、革命に一番接近したという、今ね。そういうものとして、はっきりさせた。それが、最末期帝国主義ということだと思う。帝国主義論の行き着くところ、資本主義の打倒ということが極めて現実的な具体的な階級のテーマとして登場したということでしょ。
  ここが重要だと思うんです。最末期帝国主義が、ありとあらゆる歴史的経過の、ありとあらゆるインチキな論も全部洗い流しちゃった。で、帰るところに帰らざるをえない、ということでしょ。この期に及んで何を言うかということが、やっぱり核心だと思う。
  だから、『帝国主義論』を学問、経済学というふうに閉じ込めるんじゃなくて、生きた階級の、今の現実を時代観にする。それが動労千葉のやっていること。今のプロレタリアートの時代観、時代認識なんだ。だから、今日も講師が、今日的なデータをバンバンぶち込んだという、これが今日の『帝国主義論』の学習の仕方として一番大事だと思う。今の時代観、階級の時代観としてはっきりさせる、そのために勉強しているんだから。
  レーニンは第6章で、帝国主義は、パリ・コミューンとの対応関係の中で、支配と分断の政治的な政策をとらざるをえないという側面を相当強調している。今日われわれが、帝国主義とは何かということを明らかにしていくときにも、パリ・コミューンと帝国主義ということをバーンとすえることが大事だと思うんです。

●N

 「労働運動のこの分裂が帝国主義の客観的諸条件とむすびついていること」は、「『奴隷の』ことばで語らなければならなかった」と書いてありますけど、この間、党の革命、塩川一派との闘いということが、この問題をめぐって、労働運動の分裂ということをわれわれの側からつくり出しているわけですよね。「労働運動の力で革命をやるんだ」というものとしてつくり出してきて、これは帝国主義の問題なんだと。それと結びついたものとして必然的なものとしてあるんだということを、われわれは奴隷の言葉で語る必要はないわけだから、徹底的にはっきりさせていく。今の党の革命をめぐる闘争も、そういうものとして積極的に、路線的にはっきりさせるということが、絶対に必要だなと思いました。

●講師

 『帝国主義論』って読む者の立場によって読み方が全然違うということをすごく思った。労働運動における実践ということと一体で、マルクス主義ということもつかまれないと歪んだものになると思うんです。
  自分で話してて、もうちょっと現実の方が進んでいるよな、確かに安倍は打倒されているしみたいな、帝国主義はすごい脆弱なものをさらけ出しているよなと、すごく思った。
  だからこそ、こういう学習会も、実践の中で鍛えられるし、その中でもうひとつ深化されていくものはあるんだなということを、すごく感じました。また次回、頑張って提起したいと思います。

党学校通信 p11-16受講レポート

受講レポートから ★『帝国主義論』(上)のレポートです。

【G】

 革命的情勢の接近、世界戦争の時代に、マルクス主義や労働者階級の側でありながら、カウツキーのような体制内派、社会排外主義者に対する闘いとして、レーニン『帝国主義論』が書かれているということが重要です。今日の11・4の地平から、レーニン帝国主義論をとらえ返し、プロレタリアートが革命の主体であるということがよくわかる。ややもすると、レーニン帝国主義論が、現代の世界が帝国主義段階なのか、そうでないのか? 世界戦争が起きるか、起こらないのか? という本として読まれてきたと思う。
  独占、金融寡頭制、資本の輸出…etc.資本のあるところには、労働者の怒りがあるし、闘いがあるということ。その中で、帝国主義が世界支配を拡大すればするほど、世界のプロレタリアートが決起する前提条件をつくりだしている。そのあたりが強調されていて、良い提起だったと思います。

【F】

 いままでの『帝国主義論』の読み方とは違った、より実践的な読み方ができた学習会だったと思います。それは、「小泉改革」以降、とくに04年のイラク侵略戦争以降、日帝の攻撃が全面化し、革命情勢が切迫しつつあることに規定されているということで、良いことだと思っています。
  「小泉改革」のもとで、金融資本が、企業の経営に口を出し、「労働者のリストラ計画を出せ、さもないと、金は出さない」という露骨な攻撃に労働者が怒り、動労千葉のように闘おうと、11月労働者集会に結集しています。
  労働貴族の問題にしても、資本の腐朽性の問題(守屋問題など)、いまわれわれの眼前で起きていることではないですか。それを『帝国主義論』の魂で斬っていくことが大事だと思います。
  『帝国主義論』が書かれたのは1916年で、第1次大戦にすでに突入していた頃のわけです。その時代にレーニンは、労働者に向かって、「帝国主義は腐っている」ということをガンガンにアジっている。そこをわれわれは、学んでいかなければならないと思います。

【N】

○戦時下における労働運動の分裂が、帝国主義の客観的諸条件と結びついていることを徹底的にはっきりさせることが、「労働運動の力で革命をやろう」と訴え、闘いを開始した我々にとって、非常に重要な課題であることを再認識しました。
○「党の革命」や関西の一部指導部との闘いも核心的には、ここをめぐる路線的闘争であることを明確にする必要があると思います。
○提起は、11月集会や、この間の「党の革命」の地平の上に立って、上記の問題意識で提起されていて、非常によかったです。
○『帝国主義論』の基本的土台の上に、今日の帝国主義の腐朽性は、レーニンの時代とは比較にならないものがあると思います。そうしたものをきる、更なる理論的解明と暴露を期待します。

【Z】

(1)講師の提起は、最末期帝国主義の今日的諸データを意識的に持ちこんでいて、大変な努力が払われていて、労作となっていた。
(2)最末期帝国主義は、どんどん帝国主義の原点−資本主義の本性を暴きつつある。帝国主義の本質的危機性と脆弱性が突き出されてきている。
  そのことが「イソップの言葉」を突き破って、レーニン帝国主義論の階級性をあらためて、てらし出すものとなっていると思います。

【E】

 激動期情勢の中での『帝国主義論』を学習するということの意義がはっきりさせられたという点で、今回の学習会は非常によかったと思います。
  帝国主義の末期的危機と、11・4、9・29 を始めとした労働者階級の決起、革命を押しとどめているのが体制内労働運動(党内においても)であり、それはレーニンの時代でも、カウツキー等、同じような形であったということ。これらを打ち破って、動労千葉型の労働運動をつくり出していくことの決定的意義を、あらためてはっきりさせていく必要があると思いました。
  その上で、帝国主義における独占と寡占、特に金融においての破滅的危機であり、もはや再分割するしかなくなった帝国主義には、本当に未来がないということを感じました。

【R】

 帝国主義戦争が、実際に階級的立場から様々に語られている時代に、レーニンは、帝国主義が「死滅しつつある資本主義」であり、それは「プロレタリア革命の前夜」であるから、労働者は帝国主義を打倒しようと正しくも呼びかけた。
  資本主義を打倒するために、まさに「帝国主義段階論」を提起し、社会主義革命の必然性や、体制内労働運動の反動性を徹底的にはっきりさせることができた。『帝国主義論』を読む上で、『共産党宣言』を変わったと説き、否定する、あらゆる修正主義や日和見主義をはね返し、資本主義(=最末期帝国主義)を倒す立場を堅持し、プロレタリアートの決起を信頼して闘うことが、すごく重要だとわかった。

【C】

 今日の『帝国主義論』の学習会に参加してつかんだ点を、以下に述べたいと思います。
  一つは、今日の階級的労働運動路線のもとで闘いとられた11・4集会の“世界革命への運動の前進”の地平から、『帝国主義論』を学びとる立場での提起がなされ、新鮮に感じた。それは、レーニンのカウツキーとの「排外主義」をめぐる大党派闘争が、実は、われわれが当面する「体制内労働運動との決別・打倒」をかけたたたかいと、“関西一部指導部の反階級的労働運動派”とのたたかいとピッタシ一致している点で、“戦争と民営化”下の“革命的情勢の切迫”下で行われていることを、つくづく感じている。
  従って、レーニンの帝国主義論の今日的把握、特に集積・独占−世界の分割・再分割の帝国主義間争闘戦が、イラク・アフガニスタン、北朝鮮、イランをめぐって面前で激発ないし爆発、発展しようとしていることを、まさに『労働運動の力で革命を』が完全に問われていることを、しっかりつかみとる必要を私は感じた。帝国主義の脆弱性が、これほどくっきりと見据えられるのもまた、レーニンの帝国主義論の理論的、実践的成果を、今日的に踏まえることで可能になったということです。
  二つに、従って、サブプライムローン、資源の分けどりetc.の帝国主義間戦争は、『集積・独占、金融寡頭制支配、列強間対立、帝国主義批判』の観点から、今日的により突っ込んで、政治・経済・社会・軍事的にとことん解明しきっていかなければならないことを感じた。
  今日の学習会は、非常に参考になりました。

【A】

 資本主義が帝国主義段階に推転し、ついにその矛盾が世界戦争として爆発する。その時代にレーニンは、この事態こそ、世界革命の時代であることを論証し、実践し、そしてロシア革命を世界革命の端緒として勝利させた。
  私たちが今日、『帝国主義論』を学ぶ時、このレーニンの立場に立ちきることが核心となる。党学校『帝国主義論』前半の今回の講義とその後の討論では、この点が鮮明にされ、とても勉強になりました。
  今日、私たちが生をうけているこの時代は、再び世界戦争が現実化している時代です。この時代を世界革命の時代としてとらえ、世界革命を実践していく時代です。世界戦争の時代を革命の現実性として徹底してとらえ、実践してゆく立場こそ、レーニン『帝国主義論』を真に学び、今日的に継承してゆく立場です。
  次回後半部に、おおいに期待しています。

【I】

* 『帝国主義論』の捉え方、読み方、向かい方については、討論でも出したところですが、あらためて、この『帝国主義論』の「序文」にある「イソップの言葉でもって…これらの個所を読みかえすことは、苦痛である」という、まさにこの部分の「苦痛」を解き放つことこそが、この文献(原典)の核心中の核心であろうと思います。下部構造−上部構造の解明、あるいは“学問”としての「疑う余地のない厳格さ」をもった帝国主義の実態の暴露も、詰まるところ、革命を永遠の彼方に追いやるカウツキーetc.の「沼地派」との結着のためであることをはっきりさせることだと思います。
* 上記の点と同じことですが、あらためて、革命は“世界革命”として貫徹される以外にないこと、労働者階級は階級としてひとつであることを深く確信した次第です。
[追記] 「イソップの言葉」で語られつつも、(そうであるがゆえに?)細かいところで、「経済主義的理解」を防ぐための工夫もなされているのではと、今回改めて感じました。日本語訳になって「変更」されている部分もあるのかどうかはわからないのですが、例えば、国際カルテルに関する部分etc.、現実の動向が絶えず変化しつつも、絶えずその“階級的本質”を厳格に押さえている辺りで。

【J】

 レーニン『帝国主義論』は、第1次帝国主義戦争(1914年8月〜18年11月)のさなかに書かれた。すなわち『帝国主義論』は1916年の1〜6月にかけて書かれ、1917年ロシア2月革命−ロシア革命情勢の4月に発刊されたのです。
  『帝国主義論』は4月テーゼと合わせて、労働者階級の理論的・実践的な指針として、党・労働者階級の革命的行動をつくりだしたのです。〔レーニンが、『帝国主義論』を16年1月から書き始めていたことは、この帝国主義戦争のさなかで、いかにロシア革命−ドイツ革命の勝利をめざしていたかが迫ってきます。〕
  レーニンは、『帝国主義論』と一体の革命的な指針として、17年8〜9月に『国家と革命』を執筆しています。『国家と革命』は、『帝国主義論』で打ち出していた独占の「生産の社会化」を、いかにプロレタリアートの独裁のもとに−生産手段の共有化のもとに、共産主義社会を推進・具体化していくか、として明らかにしたものです。『帝国主義論』が「生産の集積と独占」から始まっていることは、決定的意義をもっています。
  レーニンは、眼前で起こっている帝国主義戦争を分析します。
  レーニンは、19世紀末〜20世紀初期の主要な資本主義諸国の経済資料を分析し、資本主義の基本矛盾(賃労働と資本)は、「生産の集積と独占」として現れたことを把握しました。資本主義は最高の段階に達し、各国の金融資本・独占体は、巨大銀行を媒介にして、国内市場の独占−分割・再分割戦をおこないつつ、資本を輸出する世界市場の独占−分割・再分割戦を不可避とすることを明らかにしました。主要帝国主義国の不均等発展は、世界市場の再分割戦として帝国主義戦争を不可避とすることを明らかにしたのです(世界戦争にゆきつく独占論として)。
  歴史的に、第1次帝国主義戦争は、先進イギリス、フランス帝国主義の世界分割にたいするドイツ帝国主義の再分割戦として爆発しました。
  今日、アメリカ帝国主義・日本帝国主義がイラク・中東侵略戦争に突入しているのも、“世界戦争にゆきつく独占論”を動力としているのです。党・労働者階級は今、革命をたたかいとるときです。

【L】

 今回の『帝国主義論』の学習会は、11・4の全国労働者集会の歴史的地平をしっかり確認し、階級的労働運動を推し進めていく立場が貫かれていました。
  それは、「はじめに」から第1章から第6章で、単に、帝国主義の金融資本の支配のあり様を、経済論的に論じたりするのではなく、今日の新自由主義の下で繰り広げられる職場をめぐる攻防として、労働運動をめぐる闘いとして展開されていた。ここから、今日の帝国主義は、やはり死滅しつつある資本主義であるということ、プロレタリア革命の前夜であることを、明らかにしていた。
  自分としては、『帝国主義論』の学習会は、これまでも何回か参加してきたのですが、これだけプロレタリア革命の時代の到来と動労千葉労働運動をストレートに明確にした学習会は初めてでした。帝国主義は、労働者階級の団結した力で打倒できるんだということ、組合員を圧殺していく体制内指導部を打倒していこうということを、労働者に熱烈に訴えていく武器にしていきたいと思います。

【P】

 動労千葉の中野顧問がよく言われることですが、時代認識を明確にする、時代認識で一致することが、われわれの闘いにおいて土台をなすと思います。その意味で、レーニン『帝国主義論』を正しく読みとり、現代世界・時代を鋭角的に把握することが不可欠の闘いとなることは明らかです。
  「独占」をキーワードとすることによって、生産の集積と独占から世界の分割に至るまで、帝国主義というものを明瞭につかみとることが出来ます。現代に生き闘うわれわれにとって重要なことは、それが今日においても変わらないということです。しかも、レーニンの時代とは比較にならない程、より徹底し、腐朽を極めて貫かれていることを日々目にしている。サブプライムローン問題もそうですが、今回資料として出された、「40億人の貧困層」からまで収奪しようとしているということは座視できないことです。資本主義こそが生み出しているこの膨大な人々をターゲットとし、更にむしり取る。ここまで、帝国主義はもはや延命の道を失い、腐敗を深めているということです。「資本主義の最高の発展段階」「腐朽しつつある資本主義」「社会主義の前夜」の規定が完全に当てはまります。帝国主義を一刻も早く打倒しなければならない。このことが、この例ひとつをとっても鮮明です。
  帝国主義の侵略戦争を市場、資源の確保の問題から語ることは核心ですが、階級支配の問題から捉える視点は、これまで以上に重視することが必要であると思いました。パリ・コミューンと帝国主義段階への移行の問題。セシル・ローズの発言の引用は、この関連がよくわかります。しかもこれは、かつての日帝の朝鮮・中国侵略戦争と国内階級支配の関係等、帝国主義にとって一般的なことです。また今日においても、帝国主義間争闘戦−市場と資源の分捕り合いの面と国内階級支配の面の双方から、米帝のイラク侵略戦争(−イラン侵略戦争への発展が迫っている)が進められているわけです。われわれの闘いにおいて、帝国主義の動向の分析−大衆的暴露の両側面において、この観点をより重視することが重要であると感じました。
  総じて、現代帝国主義が、レーニンの帝国主義の分析が完全に当てはまるということ、もはやすべての手段が破産し、延命のしようもなく行き詰まっており、腐敗し、プロレタリアート−人類とは共存できないということです。11・4で切り開いた地平を更に前進させ、プロレタリア革命を実現しよう。

【S】

 爽やかなレクチャーでした。
  「古典を読む」と言うより「現代を語る」という内容展開が良かったと思います。「民営化賛成」「生産性向上」は、ドイツ社民党の軍事公債への賛成投票と本質的に同じだ、という講師の指摘は重要だと思います。ただ、当時のドイツとの違いは、ドイツではリープクネヒトの英雄的決起にとどまったが、我々は11月勢力という形で「戦争と民営化に反対」の広汎な労働者の決起をガンガン推し進めている、ということ。
  「自治体の民営化攻撃は単に民間丸投げということではなく、地方自治体を丸ごと独占資本の子会社にしてしまう攻撃」という指摘も示唆に富んでいます。
  資本の輸出が、同時に労働者の決起を創り出している、という話も、その通り! アメリカ、フィリピン、韓国の争議に日本の労働者が連帯して日本の親資本にデモをかける、というような連帯の輪が端緒的に始まっているが、インドや中国の労働者との連帯行動も今後出てくるでしょう。
  いずれにせよ、「ブルータス、お前もか!」という感じで、今まで立派なことを言っていた人間が、次々に反動化し、ミニ・カウツキーになるのを目の当たりにしている昨今、久しぶりに爽やかなレクチャーで溜飲が下がりました。

【X】

 大学で活動を始めたとき、経済・社会学部合同で社会思想史を教えていた良知力という教授がいた。知っている人は知っているとおもう。初期マルクスの本を何冊も出していた。大教室での授業であったが、この先生は「自治会です。時間をください」というと、席のいちばん前に座ってアジを聞いていた。大変、静かな、まじめな先生でした。
  そんなときのある日、70年安保決戦にいたる激闘につぐ激闘のときだったとおもう。もらった約束の時間がおわると、良知先生はやおらビラをくばりはじめた。それは大学当局の「授業の妨害は認めない」という警告の通知であった。わたしは、「先生、何でそんなもんまくんだ。やめろ」と抗議した。ビラを手にして演壇から「先生は、いったい、このビラの内容に賛成なのですか」と弾劾した。ベトナム反戦、そして安保を粉砕することのほうが、いまもっとも大切なことではないか、それを止めろということはどんなに反動的なことかは、先生が講義で話されていることではないですか、と。
  良知先生は、内容には賛成出来ませんが、私も大学から給料をもらっている大学の職員ですから、と答えた。その回答にちょっとショックを受けた記憶が今もある。マルクスをだれよりも知っている人がマルクス主義者だとは限らないのだ、と強い印象としてのこった。このころ、私(たち)は初期マルクスをむさぼるように読んでいたのだ。
  いま党学校では、ドイツ社会民主党やドイツ自由労働組合についての論議が活発におこなわれている。もちろん党内の路線論議にも係わってのことである。自由労組についてのZ同志の紹介と解説など全党の同志にもぜひ聞かせたいすばらしい内容だったと思う。
  ベルンシュタインは、帝国主義の時代を、もはや大恐慌などおこらない新たな成長発展の時代だと思った。レーニンは、その帝国主義を帝国主義は死滅しつつある資本主義であり、プロレタリア革命の前夜である、革命は遠のいた? 冗談じゃない、革命の前夜なんだとやりかえした。PT・PU段階の戦いがあり、マルクス主義・レーニン主義を正対して学ぶのは、ほとんどこの学生時代以来かと思うほどである。若き学生として学んでいる。