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2007年12月号党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容マルクス『ゴータ綱領批判』(下)

講義概要 P1-7

★討論から- P7-10

受講レポート P10-16 / 別冊付録(『1879年の回状』)

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-7 講義概要

第8期第4課目マルクス『ゴータ綱領批判』(下)

後半講義概要   講師 畑田 治

〔1〕後半講義にあたって強調したいこと

●体制内労働運動との闘いは帝国主義打倒の闘いそのもの

  後半の講義の冒頭に2つのことを提起したい。ひとつは、体制内労働運動との党派闘争の死活性。革命的情勢の成熟過程の中で、労働者階級を体制内労働運動の影響から解き放ち、階級的労働運動の大きな流れをつくり出す闘いが、革命の成否を握っているということです。レーニンは『帝国主義論』第10章で「帝国主義との闘争は、それが日和見主義に対する闘争と不可分に結びついていないならば、ひとつの空疎で虚偽な空文句にすぎない」と言っている。

●団結の究極の拡大が共産主義だ

  第2に、「共産主義は労働者階級の団結した闘いの中にある」「団結の究極の拡大が革命であり、共産主義だ」ということ。
  ブルジョアジーの反共宣伝と、スターリン主義の影響もあり、私たちは共産主義について、「理想としては高邁だけど、実際に実現するのは相当困難だ」「たとえ革命に勝利しても、何世代も生まれ変わらなければ実現できないだろう」というイメージを持っていないだろうか。そんなふうに「ものすごく難しいこと」と思うことが、労働運動と革命=共産主義を切断し、彼岸化させてきた。資本主義を永遠の体制として容認し、その中で若干の待遇改善を要求する体制内労働運動の跳梁ばっこの余地をつくり出してきた。
  それに対して、共産主義は、資本家を一掃しさえすれば、資本主義のもとで生まれてきた材料(諸条件)を使って、労働者階級が主人公となって直ちに建設を進めることができる。そのリアルな感覚を持って、「労働運動で革命をやろう」の闘いを推し進めようということです。
  マルクス、エンゲルスも労働者階級が現実に闘い取るべきものとして、共産主義論を提起している。マルクスは、「共産主義とは、今の状態を廃棄するところの現実的な運動である」(『ドイツ・イデオロギー』)、「崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものがはらんでいる新しい社会の諸要素を解き放つ」(『フランスの内乱』)のだと言っています。
  レーニンも、『帝国主義論』第10章で「自由競争の地盤の上に……成長する独占は、資本主義制度からより高度の社会=経済制度への過渡である」と述べ、帝国主義を「死滅しつつある資本主義」「プロレタリア社会主義革命の前夜」と規定した。そして1917年のロシア革命の勝利をもって、そのとらえ方の正しさを実証したのです。
  ロシア革命は世界革命の突破口を開きました。その意義はソ連一国的に総括されるものではなく、〈資本主義社会から共産主義社会への人類史の移行〉という世界史的スケールでとらえるべきものです。だからそれは、ソ連スターリン主義の崩壊によってもけっして否定されるものではない。今の労働者階級には世界革命の完遂こそが問われている。そして、そのことが今日の革命的情勢の成熟の中で、いよいよ階級闘争の具体的・現実的課題となってきたのです。
  以上のことを冒頭に提起して、前回に続き『ゴータ綱領批判』の具体的中身に入っていきます。

〔2〕『ゴータ綱領批判』の具体的中身(つづき)

●土地所有と資本独占

  ゴータ綱領草案は「今日の社会では、労働手段は資本家階級に独占されている。それによって生み出されている労働者階級の従属は、あらゆる形態の惨めさと隷属との原因」だと言う。
  マルクスは、「今日の社会では、労働手段を独占しているのは地主と資本家である」のに、ゴータ綱領草案は土地所有階級を問題にしていないと批判する。これは、ラサール派が地主階級の代表であるビスマルクと密約を結んでいたせいでもあるが、それだけではない。土地所有の独占は資本独占の基礎であり、土地の私有をそのままにして労働者階級の解放はありえないという、唯物史観とプロレタリア革命論の根本を提起しているのです。

●「国家援助の生産協同組合」論

  ゴータ綱領草案は「ドイツ労働者党は、あらゆる合法的手段を用いて、自由な国家−および−社会主義社会を実現するために力を尽くす」と言う。
  「あらゆる合法的手段を用いて」とわざわざ綱領にうたうことは、あまりにも屈服的で、プロレタリア革命の放棄を宣言したに等しい。また、「自由な国家」を社会主義社会と並べて実現目標とすることは、国家が階級支配の道具である(したがって階級がなくなれば国家は死滅する)ことについての無理解を示している。労働者階級の国家論ではなく、ブルジョア国家に対する完全な屈服です。
  さらに、ゴータ綱領草案は「働く人民による民主的管理下におかれる国家援助の生産協同組合の設立を要求する」と言う。
  生産協同組合とは、労働者が資金を出し合ってつくる工場で、当時そういう運動があった。国際労働者協会の創立宣言(1864年)でも、「人の援助を受けずに努力して設立した協同組合工場」「これらの偉大な社会的実験の価値は、いくら大きく見つもっても大きすぎることはない」と評価している。
  ところがゴータ綱領草案は、生産協同組合を設立する主体は、労働者ではなくて国家だと言う。「働く人民が、国家に対してこのような要求を出すということは、自分たちが今支配していないだけではなく、支配などとてもできないという自覚を表明しているようなもの」とマルクスは批判している。ラサール派の社会主義とは、この「国家援助の生産協同組合」なのです。
  今紹介した国際労働者協会の創立宣言では、生産協同組合運動の限界にも触れ、「もしそれが個々の労働者のときたまの努力の狭い範囲にとどめられるなら、独占の幾何級数的成長を阻止することも、大衆を解放することもけっしてできない」と言う。その上で、「政治権力の奪取が労働者階級の偉大な義務となった」と述べる。労働者階級は、生産協同組合運動にとどまるべきではなく、プロレタリア革命による政治権力の獲得へ、断固として進まなければならないということです。
  このような国際労働者協会とパリ・コミューンの闘いの地平がありながら、それを発展させるどころか、ずっと後退した内容でドイツの党の合同が行われようとしていた。マルクスが怒るのも当然です。

●資本家に屈服する「公正な分配」論

  マルクスはさらに、ゴータ綱領草案での「労働収益の公正な分配」論を批判する。
  「労働収益」という言い方は、ラサールが経済学上の概念の代わりに用いたあいまいなブルジョア的観念で、これには「賃金、利潤・利子、地代」などが全部含まれる。この言い方は、利潤・利子、地代の源泉が、労働者の剰余労働の搾取にあることを覆い隠し、それぞれが正当な労働で収益を得ているかのように正当化・合理化する。
  これはマルクスの時代だけではない。21世紀の現在においても、ブルジョアジーは、今日の分配のあり方は公正だと主張する。資本家は生産手段と労働力を価値どおりに買い、生産した商品を価値どおりに売って利潤を得ている。銀行家や地主もそれぞれの権利を主張する。「公正な取引で自分たちは利益を上げている。なにが文句あるか!」というわけだ。
  マルクスは、「資本主義的生産様式の基礎の上では、こうした分配が必然的に『発生』し、それを『公正な分配』とする法的諸関係、社会的な観念等々が発生する」と言う。「公正な分配」論を根拠にして共産主義を主張するのでは、労働者階級自己解放の理論にはならないと、批判しているのです。

●共産主義論の積極的展開

  その上でマルクスは、「労働収益」をひとまず「労働生産物」という意味にとって、“共産主義社会では労働生産物をどのように分配するか”と、論を進める。
  共産主義社会が成り立っていくためには、個々の労働者に分配する前に、まず総生産物から次のものを控除しなければならない。
  @生産手段の消耗部分を更新するための補填(ほてん)分。A生産の拡張のための追加分。B事故や自然災害に備える予備元本あるいは保険元本。
  これらは、年々の社会的生産を継続・維持するために必要な部分。
  残りの部分が、消費手段に使われる。各個人に分配される前に、さらに次のものが差し引かれる。@直接には生産に属さない管理費(この部分は、今日の社会に比べれば大幅に圧縮され、新社会が発展するにつれてますます減少する)。A学校や医療保険設備など、社会のための共同部分(この部分は、今日の社会と比べると著しく大きくなり、新社会が発展するにつれてますます増加する)。B労働能力を持たない者などのための元本。つまり、今日の貧民救済費に当たる元本。

●低次の共産主義―等量労働交換の原則

 以上の控除の上で、労働者にたいする消費手段の分配が行われるが、その分配はどのような基準で行われるのか。今、問題にしているのは、たった今資本主義社会から生まれ出たばかりの共産主義社会です。この社会では、あらゆる点で旧社会の名残りをまだとどめている。
  一人ひとりの生産者は、彼が社会に与えたのと正確に同じだけのものを−控除が行われたあとで−返してもらう。具体的には、これこれの量の労働を給付したという証明書を社会から受け取り、この証明書をもって消費手段の社会的蓄えの中から、ちょうど同じ量の労働が費やされている消費手段を引き出す。
ここでは明らかに、ある形の労働がそれと同じ量の別の形の労働と交換されるという限りにおいては、商品交換を規制するのと同じ原則が支配している。それでも内容と形式が変化しています。これは、資本主義社会で労働者に支払われる「賃金」とは本質的に異なる。なぜなら、「労働力の売買」と剰余労働の搾取は廃止されているから。資本主義のもとでは、労働者は、労働力の再生産費用しか受け取れなかったのに対して、革命によって労働者階級は搾取階級(資本家階級)を一掃し、労働生産物のすべてが自分たちのものとなる。
  この「労働時間に応じて」の基準は、旧社会の不労所得者(資本家階級、利子生活者、地主など)にたいして労働義務を課していくことを前提にしており、また労働者階級自身が自覚を持って積極的に労働していくことを要請する。
  労働時間という等しい尺度で測られるという意味では「平等」の原則が貫かれている。だが、個々の労働者の労働能力の差や、独身か家族持ちか、子どもが多いか少ないかというような事情は、原則としては考慮の外におくしかない。
このような不都合は、資本主義社会から生まれ出たばかりの共産主義社会の第1段階では、どうしても避けられない。それはただ、いわゆる物質的な生産力という問題だけでなく、そこにおける新社会の担い手の自己変革、共産主義的な関係の創造の問題にかかわる。マルクスの言葉で言えば、「権利は、社会の経済的構造とそれによって規定される社会の文化的発展の水準よりも、けっして高くはなれない」のです。

●共産主義の高次段階―能力に応じて働き、必要に応じて受け取る

  共産主義社会のより高度の段階になって初めて、各人は「その能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」ことができるようになる。
  この原則が可能となるためには、次の点で共産主義社会が発展していることが不可欠です。@諸個人が分業に奴隷的に従属しなくなる。Aそれとともに精神労働と肉体労働との対立が消え去る。B労働が単に生活のための手段であるだけでなく、それ自身第一の生命欲求となる。C諸個人の全面的な発展に伴って彼らの生産力もまた高まる。D協働的富のあらゆる泉が豊かに湧き出るようになる。
  こうなった時、初めて、狭いブルジョア的な〈権利〉という地平を踏み越えて、「一人ひとりの自由な発展が、すべての人びとの自由な発展の条件となるような協力体(アソシエーション)」(『共産党宣言』)をつくりだすことができる。
@〜Dは、単に高次段階の理念として掲げられるものではなく、過渡期−低次段階から可能な限りその現実化を闘いとっていくべきものとしてある。「まず低い段階をめざして、高次段階はその後で」ということではないのです。

●労働者階級が今直ちに主人公となって建設する共産主義

  以上見てきたように、マルクスはゴータ綱領草案の「労働収益の公正な分配」論への批判を直接的契機としながら、相当突っ込んだ共産主義社会論を展開しています。ほかの論文にも見られない魅力的で独特の内容です。マルクスは何を強調したかったのか。
  それは、〈プロレタリアートは階級的団結の力で共産主義社会を建設することは十分に可能だ。資本主義社会の組み替えで、こうすれば建設できる〉という道筋を示したかったのだと思います。そのためには、ゴータ綱領草案のような、ただ自分たちが受け取る消費手段のことしか考えないような狭い了見ではダメだ、社会の主人公となる立場で生産―再生産を含む社会全体のあり方を対象化して考えていこうと提起しているのです。
圧倒的な多数者としてのプロレタリアートが社会の主人公として目覚め立ち上がり、支配階級として自己を組織し、社会を運営する。生産の管理、新しい経済と社会のあり方を軌道にのせるために闘う。それ自身が政治と社会のあり方をめぐる分業と疎外の革命的打破にほかなりません。その闘いを、今直ちに始めようということです。
  このように考えたとき、労働運動、労働組合運動の革命論的意義も、一層はっきりしてくる。

●過渡期の国家=プロレタリア独裁

  資本主義社会と共産主義社会のあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期には政治的な過渡期が対応しており、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁です。プロレタリアートは自らの階級的力を国家権力に高めて、それを武器にして生産過程の計画的統制に着手し、ブルジョアジーを制圧し、資本主義から共産主義への移行を実現していく。
  このプロレタリア独裁の権力を認めるか否かが、無政府主義者(アナーキズム)とマルクス主義者の決定的な違いです。プル−ドンやバクーニンら無政府主義者は一切の権力を「悪」として否定しプロレタリアートの革命的独裁も認めない。
  しかし、このような無政府主義では、資本家階級の「組織された暴力(国家権力)」にうち勝つことはできない。国家それ自体は階級の廃止とともに死滅していくものですが、いまだブルジョアジーが根絶・一掃されたわけではない段階で、国家を止揚することはできません。ブルジョアジーの反抗を打ち砕き、共産主義社会の建設を軌道に乗せるために、国家の死滅に至る過渡的形態として、プロレタリア独裁国家は積極的な意義をもつ。それはパリ・コミューンの血の教訓でもある。無政府主義者のようにこれすら否定するのでは、およそ革命の勝利を真面目に考えているのかと問わなければなりません。
  労働者階級の団結した力(階級的力)こそが革命の力であり、プロレタリア独裁の実体です。
  ゴータ綱領草案は、プロレタリアートの革命的独裁について一言も述べていない。それは、この草案を作成したドイツの幹部たちが、自分たちの闘いで労働者階級を組織し、その力で革命を実現しようという主体的・実践的な立場が一切ないことを示すものです。

●労働と人間の自由―労働時間の短縮

  ここで、共産主義と「人間の自由・解放」について考えてみたい。
  共産主義社会では、労働能力を持つ全員が生産的労働に参加することによって労働時間を大幅に短縮し、個人の自由な時間を増大させることが可能になる。労働時間の短縮は、人間の自由の実現にとっての基礎的な条件です。マルクスは、共産主義社会で「労働が単に生活のための手段であるだけでなく、それ自身第一の生命欲求となる」と言っていますが、マルクスが言っていることはそれだけではない。『資本論』で「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、初めて始まる」「労働日の短縮こそは根本条件である」と言っている。このことは、人間の自由、共産主義について考える(想像する)ときにきわめて重要だと考えます。
  このことに関連しますが、ゴータ綱領草案では「標準労働日、及び日曜労働の禁止」を掲げています。マルクスは「こんな表現ではあいまいだ」と批判し、「党が現存の諸条件の下で標準的だと判断する標準労働日の長さを具体的に掲げるべきだ」と批判している。
  資本主義の発生以来、労働者階級は「労働日」をめぐって資本家と激しい「内乱」を展開してきました。当時、アメリカでもヨーロッパでも労働者階級は長時間労働に反対し、8時間労働制を要求する運動が盛り上がっていた。1866年の国際労働者大会(第1インターのジュネーブ大会)でも8時間労働制を要求に掲げています。労働時間の問題は、労働者階級の解放闘争にとってきわめて重要な問題です。
  このほか、『ゴータ綱領批判』では、ゴータ綱領草案が〈プロレタリアート以外の層を「反動的」と決めつけて農民層の獲得を放棄している問題〉、〈プロレタリア国際主義を放棄していること〉、〈「自由な国家」「国家の自由」などと「国家」信仰に無批判に屈服していること〉などを鋭く批判している。
  結局、このような諸点に現れている綱領草案の問題性は、プロレタリア革命の実践的立場を欠落した日和見主義であり、革命的なものが何もないということです。     (後半講義了)

党学校通信 討論から p7-10

討論から

●P

 講師の方から、階級的労働運動というのは革命を目指す労働運動なんだということで端的に言われましたけど、まさにそういうことだと思うんです。僕が今回、前半と後半で学んだのは、革命というものは殻を破るようなもの、ある種簡単なものなんだ、資本主義自身が革命の条件を客体的にも主体的にも成熟させている。そういうマルクス主義の核心というか、骨格というか、そういうことを学んだ。そのことを、われわれの闘いの中にどう反映し、体制内労働運動との闘いの中で、どう路線的、思想的に活かしていくのかということが大切だと思う。
  もう一つは、これまでは共産主義の低次の段階と高次の段階に分かれている、それが意味あるみたいなものとして考えていた。だけど、そもそも過渡期、第1段階から可能なかぎり高次の段階を目指して進んでいくんだと提起され、僕としては、新鮮で、ここも核心だなと思った。共産主義を実現するというのは、単に目指すとか、理想な社会だとか、将来の目指すべき目標ではなく、現実にプロレタリアート自身が勝ち取っていける、勝ち取る課題であるということを、僕としては、前回、今回をとおして学んだということです。
  体制内労働運動というのは、労働者は奴隷だ、革命なんかはできない、そういう帝国主義に屈服している労働運動なわけで、今言ったあたりが、本当に体制内労働運動にうち勝っていく骨格の思想になるんじゃないか。

●R

 僕の問題意識から先に言っちゃうと、「障害者」の解放ということで、よくあるのは、マルクスは「障害者」のことを一切考えてない、という意見。僕の考えは、『ゴータ綱領批判』を見ると、あらかじめ「控除」ということを考えている。「障害者」だけじゃなくて、いわゆる社会的な労働能力、労働者の結合ということを考えていく上で、絶対に重要な問題として、あらかじめ考えるということで、「障害者」への考えがまったくない、ということじゃないとずっと考えてきたんです。
  それともう一つは、今日講師が最初に言ったように、共産主義を労働者が自分たちの、労働者の解放として実現していく。今の言葉で言えば「労働者階級の団結」ということだと思うんですけど、いろんな分断をはね返してそこで結合をつくる。そして、「外皮」をうち破れば、本当に共産主義社会に大きく行けるんだ、ということだと思った。
  その上で、マルクスの時代の労働運動の中では、「控除」を考えるような実践的なものがあったのか、それとも、マルクスの独自の力で言い当てたことなのか、あるいは誰かが言っていたのかとか、そこはちょっと知りたい。
  それとあと「控除」の中の2番目の、新社会が発展してくれば学校、医療保険設備が増える、という点。共産主義社会になっていくと、病気とかが逆に減っていくのかなと考えると、病院とか医療設備というのがボーンと増えていくのだろうかと思う。減っていくのではないだろうか。そんなことを考えたんですけど。

●林

 ここではまず、ラサールの「狭い了見」の展開である「公正な分配」論の決定的誤りを、マルクスは粉砕している。
  その上で、賃金奴隷制を前提にして、そこからの「公正」とか「分配」の前に、まず社会がどういうふうに成り立っているのかについて見てみようじゃないか、と展開している。それが、未来的にはこうなるでしょと。医療保険設備とか学校とか、今の資本主義社会の中での病院とか、そういう発想ではない。共同で充たすための必要な部分、ますます人間が人間として、人間的に生きていくための、そうしたものがますます膨らんでいくだろうということを言っている。病院や施設が増えるという話ではない。社会の内側でそれは充たされていくものとしてあるということを言っている。

●N

 講師から、「共産主義は労働者階級の団結した闘いの中にある。それを労働者階級が政治権力を握って、社会全体に広げるのが共産主義だ」という形で出されて、『俺たちは鉄路に生きる3』の、当局が何日でやれというのを、何人で何日でやったという幕張電車区の話を思い出した。社会的な総生産だとか、その分配だとか言う前に、労働者が職場と生産点を握っていく、つまり、この労働にはどれだけの人間のどれだけの労働が必要だということも含めて、労働者が職場を支配していくということが前提にないと、ひとつもいかないという問題があると思う。そう考えたときに、革命というのが、政治権力を取るという一面的な問題ではなく、その前提に労働者が職場を支配していくという考え方というのは、非常にリアリティがある。そういうことをとおして、一斉武装蜂起の主体をつくっていく。そういう意味で、この間の「団結の拡大が革命だ」というイメージが膨らんだということが一つ。
  それと、『帝国主義論』からの引用を何カ所かしていて、帝国主義労働運動との闘いが核心なんだと。この間11・4に向かう過程というのは、帝国主義労働運動指導部との職場における闘いとして闘われてきた。『帝国主義論』を読んでいるけども、そういう問題そのものなんだというとらえ方が、ああそうだよな、と今気が付いた。そう言えばレーニンが提起していた核心問題を初めてわれわれがつかんで始めたんだなという、その辺の理解が、今日はじめてつながった。それがやっぱり重要だったなということです。
  あともう一つは、共産主義は理想を実現するということじゃなくて、崩壊しつつある古いブルジョア社会がはらんでいる諸要素を解き放つのである。僕なんかも、よく「外皮」という言い方がいろんな所で語られていて、ちょっと分かりにくいなと思っていたんだけれど。もっと具体的に、マルクスなんかは、銀行の看板を張り替えれば共産主義になるんだという話を出していたりしますよね。もっと世の中進んでいて、例えば、社会的総労働とか総需要とか、今インターネットの世界でバーッと出ちゃうとか。あと、貨幣なんか使わなくても、ポイント制だとか、結構現実にいろんなイメージで、これを共産主義的にひっくり返しちゃえばいいんだというイメージというのは結構分かりやすくて、勝手にそう理解している。青年の中では、そういう説明をしたりするんだけど、その辺の、もう非常に簡単な話なんだというところを、もっとイメージ豊かに展開できないかなと思う。そういう意味で、いろいろヒントになることが出されていてよかったと思う。

●仲山

 「控除」について、当時の問題意識とか議論とか、マルクスがそれを受けて書いたのか、という質問があった。『ゴータ綱領批判』というのは、『資本論』で資本主義社会をトータルにとらえて、それをひっくり返したわけです。労働者が社会全体を支配することを考えたら、今資本の搾取の結果、自分の利潤の追求のみを考えて結果として社会がかろうじて成り立っている、それを逆転して意識的・計画的に労働者はやる。団結して資本家をぶっ飛ばしたときには、全体として社会のことを考える。そしたら、個人的消費と生産の拡大とかどういう規模で生産するかということの間に、個人的消費でない社会的共同消費の部分も当然入る。それは病院とか学校だけじゃない。図書館、劇場、音楽文化施設とか、とにかく直接的生産部門ではない社会的な共同の部分というのはある。その部分は大きく増えるでしょう。それで最後に、文字通り個人的消費の部分はその後にくるんだというふうに原理がひっくり返る。だから、何か特別な問題意識じゃなくて、資本主義社会をひっくり返して、賃労働と資本の関係をひっくり返して、労働者が社会を運営する、全生産を握る、そこから、いわゆる「控除」は当然出てくる。

●講師

 レーニンの「帝国主義というのはプロレタリア社会主義革命の前夜である」「死滅しつつある資本主義」、「死滅しつつある」という時代認識を割り引くことなく確認して、われわれの闘いを考えるということがものすごく重要だと思うんです。革共同の6回大会報告の「20世紀の総括と21世紀革命の展望」は、本当にこの立場に立ってマルクス主義・レーニン主義があふれている。われわれが今の運動を闘っていくときに、原点になる時代認識、世界認識が出されています。だから、あらためてこれを徹底的に武装することを是非みなさんやってほしい。
  今の関西の一部指導部の路線反対派の動きは、この時代認識とか、本当に自分たちで革命を勝ち取れるんだということにたいする確信の揺らぎがある。彼らは、「29年的な世界大恐慌は起きない、いろいろ管理されてきているから。また、今は日米枢軸だ、だから日米対立という帝国主義間の争闘戦も、レーニンの帝国主義論みたいにはいかない」という議論をしている。
  そういうことがあった上で、「6回大会報告はひからびている」と。それから、6回大会では黒田に対する全面的な批判をやりましたけど、「コンプレックスでやっているんじゃないか」と。われわれが階級的な時代認識を磨き上げて、誤った傾向を粉砕することを通じて、革命の綱領的立場を確立するためにやってきている作業に対して、彼らはそんな議論をしている。組織論とかいろんなことを言っているけど、僕は根本には、革命の現実性とか、革命の勝利性ということに対する確信の揺らぎがあると思う。それを否定し、自分たちの日和見主義的・体制内的実践を合理化するために、いろんなことを言っているんだと思いました。こういう誤った主張が党内から出て来ているということを、今回学習してきたマルクス・エンゲルス・レーニンの闘いから見ても放っておくことはできないし、本当に革命に勝利する党と運動をつくり上げるためには、徹底的に闘って革命の原則をはっきりさせていかなくちゃいけないと思います。

党学校通信 p10-16 受講レポート

受講レポートから ★『ゴータ綱領批判』(下)のレポートです。

【G】

  『ゴータ綱領批判』の中で、これまでの読み方より、さらに深まったと思います。
  まず、ゴータ綱領批判の中で展開されている党内闘争、体制的な議論の枠内をまず、粉砕することから始まるという出発点がはっきりさせられたと思います。『ゴータ綱領批判』は、マルクスの未来社会論のようなものとして捉えられがちだが、プロレタリア革命の現実の階級闘争の中から発想していく、プロレタリア革命の戦略の問題として捉えていくことが重要だと思った。
  労働時間の問題など、単に資本とのやり合いではなく、自分たちで社会を運営していくことから発想した闘いであること、プロレタリア革命が自然発生的な革命ではなく、目的意識的革命であることが、よりはっきりさせられた。今後も、より深めていきたいです。

【S】

  「労働者党」「左翼」を名乗っていても「体制内で生きる」ことを前提にする限り、腐敗し、労働者階級を地獄に引きずりこむ存在になってしまう。
  「体制内労働運動との対決、打破」という今日的課題にとっても『ゴータ綱領批判』は重要な著作だと感じた。
  左派のアイゼナッハ派が右派のラサール派に妥協して体制すり寄り綱領が出来てしまった、ということではなく、左派も右派も含め、当時のドイツ社民党総体が「体制内労働運動」にどっぷり浸り、「自由な国家」「(資本主義を前提とした)公正な分配」「合法的手段を用いて」「国民国家の枠内の中で活動する」というゴータ綱領草案の表現に見られるような反動的思想でガチガチに労働者を抑えこんでいた、どうしようもない組織になっていた、ということがあると思う。
  だからマルクスはブチ切れて「お前ら、ええ加減にせえよ!」と、この怒りの書を書いたんだと思う。「労働者階級というのはお前ら労働官僚が考えているようなみすぼらしい存在じゃない。みんながハッピーになれる社会をつくる物凄い能力、パワーを持っているんだ」と言いたかったんだと思う。100年以上も前に「労働運動の力で革命を!」と訴えている。やっぱりマルクスは冴えているゾ。

【U】

  『ゴータ綱領批判』は、社会主義について、「あ、そうか」と目の前が開けるような感激を受ける。同じような感激として、『資本論』でケネーの「経済表」の“練習問題”があった。実際に「社会主義」社会の運営を「やれるジャン」と思えるところからリアリズムとして示しているところにすごさがある。
  「職場を労働者の力で動かしていく」ことは、労働者の団結を抜きにしたら、それは資本の力そのものである。社会を転覆する“テコ”は、労働者のたたかう団結がカナメ。この間の我々の実践と理論は、この点を圧倒的におさえ、実践として切り開いている。今回の学習会で、この辺を強く感じた。

【N】

○11・4の勝利の地平を理論的・路線的にうち固めていくという問題意識に貫かれていて、非常によかったと思います。
○核心的には、まさに現在の状況こそが、プロレタリア世界革命前夜そのものなのだ、ということを、徹底的にはっきりさせることだと思います。関西一部指導部の反対派との闘いも、まさにそこをめぐっての党内闘争であることがあらためてはっきりしました。
○講師の6回大会決定で党が武装し、一致していくことが重要との提起は、重要と思いました。革共同が、マルクス・エンゲルス・レーニンの革命的精神と理論を、今日的に継承しているのだということを、この間の青年労働者・学生の闘いの実践と結びつくことによって実証していることが決定的です。
○「共産主義は労働者階級の団結した闘いの中にある」「崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものがはらんでいる新しい社会の諸要素を解き放つ」…この辺の内容を、動労千葉を先頭とする現実の階級闘争の地平にふまえて、今日的に豊富化していく作業が重要と思いました。『俺たちは鉄路に生きる3』の主体化も、そういうレベルで深めていきたいと思います。

【O】

1.マルクスの『ゴータ綱領批判』の後半の学習会でしたが、あらためてこの文献の重要性を感じました。マルクス=エンゲルスが『共産党宣言』−『資本論』で展開した理論と思想、それ以後、パリ・コミューンが闘いとられ、それ以後のヨーロッパでの階級闘争の問題が、共産主義論として全面的に展開されています。
  「労働者階級の自己解放闘争」、賃金闘争、政治闘争、民族解放=国際主義の問題、全面的であり、日和見主義との闘い−カウツキー、ベルンシュタイン、ラサール、デューリング−の批判の豊かさ。かなり、整理でき、理解できました。
2.講師のレポートも前回同様、資料を駆使し、マルクス・エンゲルス・レーニンという流れの中で、共産主義論を展開し、わかりやすく、また討論もみな核心をついた内容で、盛りあがってきたと思います。
3.「体制内労働運動」の打破という、わが党にとって現在的に死活的な課題というのが、この間の学習会の中でかなり私にとっても、学習になりました。
  世界労働運動の歴史の中で前回もレポートしましたが、やっぱりロシア革命の成功から、「ドイツ革命の敗北」というのが、現在の革共同の闘いにとっても、重要な総括点だと思います。
  70年代に野島さんの『内戦論』は、反スターリン主義の観点から、1920〜30年代のヨーロッパ(ドイツ、フランス、スペイン)が出されたもので、かなり勉強になったのですが、ドイツ社民の反動イデオロギー(カウツキー、ベルンシュタイン、etc.)の批判、その歴史をもう少し、学びたいと思っています。ロシア革命の成功、ドイツ革命の敗北−現在の革共同の階級的労働運動路線の重要な、路線の問題で出てくるのではと思います。

【J】

一 資本主義から生まれ出たばかりの共産主義社会
  共産主義社会では、生産手段が共同で管理され、共同の元本が控除された上に、消費手段が個人的な「労働量に応じて」分配される。
  1 第1段階の共産主義:「各人は労働(量)に応じて生産手段を受け取る」
  第1段階の共産主義では、労働者階級人民によって、生産手段が共同で管理・運営されている。この生産手段の共同的運営を土台とすることによってはじめて、労働者階級は社会的な総生産を把握・分配できる。
  〔労働者階級は、自ら生産物を作っているのですから、生産手段・消費手段のことを一番よく知っています。労働組合は、その実体であり、拠点です。ソビエトは、社会全体の総生産物をどこに配分してよいのか、その方法を手にとるように知っているのです。〕
  2 社会的総生産物は、第1段階の共産主義ではどのように分配されるのか。
  社会的総生産物から、生産手段の再生産のための補填分(労働量)にまた社会的な共同の元本を控除した残りの社会的生産物(労働量)は、消費手段に等しい。
  3 ここから、第1段階での共産主義の分配の基準は明らかである(資本主義的生産様式を支配している価値法則(等量労働交換)は、今度は、内容も形式も違っての等量労働交換として)。
  労働者個々人が社会に与えた労働量に応じて、社会の中の消費手段を返してもらうのです。その際、分配には、以下の制約(不平等)があります。
  (1)体力があって、長時間働けるものは、消費手段を多く受け取る。
  (2)結婚して家族を持っているものは、独身者と同じ量の消費手段を受け取る。
二 それ自身の基礎の上に発展した共産主義
  資本主義から生まれ出た共産主義社会は、革命的転化の時期−第1段階の共産主義の土台そのものをバネとして、最初から発展した共産主義に向かって前進しているのです。この前進の中で、「労働量に応じて」の分配は、生産において、各種の生産部門への社会的総労働の配分の基準としての意味をもつだけになるだろう、ということです。
  この物質的生産の土台の上に、真の自由の社会が実現・獲得されていくのです。

【Z】

(1)『ゴータ綱領批判』もまた、マルクス主義の核心的文献である。
  特に、ラサール主義−「ゴータ綱領」に再現されている、共産主義に関する「公正な分配」論を根本から粉砕して、プロレタリア自己解放を共産主義論に貫いている。そのようなものとして、経済学−『資本論』の全成果を、その直接の転倒としての共産主義論を展開している。それは、『ユダヤ人問題によせて』−『ヘーゲル法哲学批判序説』−『経済学・哲学草稿』の初期マルクスの人間解放の叫びが、生涯を赤い糸として通したことの証でもあると思います。
(2)しかも、「党の革命」を通して、このガイストが生き生きと、動労千葉労働運動−階級的労働運動路線、22CC−23CC提起として、党と階級の中に、脈打ち始めていることこそが−11・4地平の到達点だと確信します。

【F】

  今回の核心は、われわれの眼前に共産主義革命の現実性があるということです。マルクス・エンゲルスが、ラサール派に対して展開した党内闘争は、結局、「労働者には自己解放の能力がない、だから革命などできないとお前らは言ってるだけじゃないか」ということに尽きると思います。ラサール派は、良心的なブルジョアジーの指導に服することが、労働者の勝利の道なのだということをまことしやかに言っていた。こういう所から革命党の腐敗は始まるわけです。今日のわれわれの解党主義者に対する闘いと非常に通ずるものがあります。
  結局、革命に対する日和見主義から、こういう解党主義が発生するのだと思います。マルクスの時代にも、第1インターの結成があり、パリ・コミューンがあるというかたちで、労働者の権力奪取=革命という現実性があった。それに対する日和見主義が、(ビスマルクの弾圧を背景に)ドイツの党内にあったということではないでしょうか。
  これに対してわれわれは、「革命の現実性はある」ということを言い切らなければならない。そのためにも職場闘争を、資本との職場支配権をめぐる闘争として、闘わなければならない。そのためには、革命をめざす職場闘争として闘うことが必要であり、だから、職場に党をつくることが核心になってくるのだ、ということではないでしょうか。『ゴータ綱領批判』を今日的、実践的にとらえ返すと、こういうことになると思います。

【V】

  核心的には、「共産主義はわれわれが今直ちに闘いとるべきもの、共産主義は労働者階級の現実の闘いの中にある」ことをつかみきることだと思った。『ゴータ綱領批判』で展開されていることも、我々が現実の課題もまさに革命を現実のものとして生き生きととらえるか、彼岸化して日和見主義に転落するか、ここにあると思う。これは言葉で言えば簡単なことだが、とことんマルクス主義を貫くかどうかにかかっている。共産主義社会をどう考えるか、過渡期社会をどう考えるかも、本気で現実の課題として革命を考えているかどうかで全く違ってくる。その点で、共産主義社会建設は、まず第1段階をめざせばいいのではなく、高次段階を展望しつつ闘うという提起は、なるほどと思った。この意識性が重要なのだと思う。
  「要は、結合した労働者が権力を取ればいいんだ」という確信が大事、革命が達成困難だと思うから、日和見主義が生まれてくる。まさに目の前にあることとしてとらえられるかどうかだと思う。そこからすると、レジュメp10のHで「プロレタリア革命の戦略問題」としてまとめられたことも、目の前にある実践的課題だと思う。わが党の現実を見た時、その中の「(1)中間層とりわけ農民層の獲得」という課題が立ち後れていると思う。こうした課題を全力でやり切ることで、革命をめざす労働運動が、より現実的な力を持ってくるのではないだろうか。

【R】

  『ゴータ綱領批判』で、ラサールの「労働収益の公正な分配」論を批判する中、マルクスは、控除の問題を徹底的に展開している。これは『資本論』のひっくり返しであると同時に、まさに、労働者が、たった今から、資本家ぬきに社会を動かし、社会的生産を担っていくという信条に貫かれた論の展開であることがわかった。「控除」は当たり前のことだが、「当たり前」と言い切れる運動こそが、我々の11・4で開始されている「労働者に権力をよこせ!」という運動であると思う。
  ラサールをはじめ、空想的社会主義や、それを容認している体制内労働運動の姿が、結局は、国家の支援を受け、土地貴族と妥協したり、労働者の自己解放ではなく、救済の対象でしかない論との徹底した闘争が大事であることがわかる。
  あらためて、プロレタリアートの団結(結合した労働者)の力の大きさ、社会変革力、偉大さを考えさせられたし、そこに立脚して、全人民解放に立ち向かいたい。

【I】

  11・4の興奮と高揚感がおさまらない中での、11・4と階級的労働運動(路線)についての「マルクスの言葉」による提起でもあったと思います。「この道を行く」ことに、あらためて深い確信を得た思いがしました。
  まとまったかたちでは、晩年のマルクスの「最後」の文献である『ゴータ綱領批判』ですが、そして、討論の中でもあったと思いますが、いわゆる「初期マルクス」から、『ドイツ・イデオロギー』、『共産党宣言』と経て“共産主義者となったマルクス”が、しかし一貫して、人間(人類)解放を貫いている熱い思いに触れられたと感じました。現実の階級社会を見据えればこそ、最後の階級社会である資本主義(帝国主義)と労働者階級の自己解放の力に不動の確信を持つ姿、信念的信念のようなものを思い知った気がします。
  やはり、その点で階級のただ中に、何としても労働者革命家をつくり出すこと。その持っている力と圧倒的可能性を確信すればこそ、自己の飛躍をかけて闘いを貫くことを、あらためて決意した次第です。

【X】

1)『ゴータ綱領批判』を学習するにあたって念頭にあるのは、「それでは君達は、どういう社会を実現しようとしているのかね?」という質問にたいする回答である。この質問にたいする回答には、どうしても未来社会論としての共産主義社会論を語らなければならない。これは「共産主義とは何か?」という質問に対する回答と同じであるが、しかしやはり若干ちがう。「共産主義社会の経済的システムは?」という傾きの質問だといえる。
2)これは以前、別の機会で紹介した質問とも似かよっている。その質問とは@北朝鮮はなんであんな社会になってしまったのか、Aあなたの党が北朝鮮のようにならない保証はどこにあるのですか? というものでした。これは青年労働者のオルグ場面において突き当たった問題でした。北朝鮮スターリン主義とその社会にたいする深い失望と、そうならないためにはどうしたらいいのかという質問が提起されています。
  「あなた、革命っていうけど、北朝鮮のようになりたいの?」・・市井にふだんにある会話といえます。この質問にどう答えるのかということを設問にして、ここ1年、いや2年にもなろうかという学習をしている。根底には、スターリン主義とはなにかという巨大なテーマが横たわっている。
3)何回か前の本党学校で、共産主義社会とは、「人類前史から本史」への従来の社会と比する断絶性があるのではないか、という質問に、共産主義とは資本主義社会に対置する未来社会ではない、そういうとらえ方自身がスタ的範疇のとらえ方なのだ、ということを含んだ回答をえた。それはそれでおおいに勉強になった。
  そのうえで、なおかつ、未練がのこる問題がある。17年ロシア革命があり、第2次帝国主義世界戦争後、東欧が共産圏とよばれるスターリン主義圏となり、49年中国革命が勝利し、そのあともキューバ、ベトナム、さらにはエチオピア、ソマリア?などアフリカにも「社会主義政権」ができる、世界の3分の1が「社会主義圏」となった、と言われた時期があった。それらも中国、ベトナム、キューバ、北朝鮮などをのこして崩壊した。
  まだ大学に「社会主義社会論」という講座があるころ、ちょっとかじってみたら、ようするにソ連や東欧、中国などの経済的特徴と現状分析を対象とする学問であることがわかった。生産手段の国有化とゴスプランのような計画経済、つまりソ連型モデルのようなあり方がスタ的にしろ、多かれ少なかれそういうのが「社会主義」「過渡期」のあり方だと思っていた。それをスタ官僚がやるのではなく労働者階級の自己解放闘争としてやるには、どうしたらいいのか、などと考えていた。
  そしたらソ連スタのあり方は、集権的あるいは一極集中計画経済システムと言うそうだ。この破産に対置して東欧では80年代から「分権的自主管理システム」が追求されたという。集権的だと硬直的だというのだ。だけど、それもソ連にさきがけて崩壊してしまった。中国は社会主義市場経済というのだそうだ。
  ちょっとショックだったのはソ連にしても東欧にしても崩壊後とられた経済政策のイデオロギーが新自由主義であったということだ。
  こういう歴史的経緯があって、もちろんその歴史についてどれだけ知っているかはそれぞれ深浅はあるとして、「それでは君達は、いったい、どういう社会を実現しようとしているのかね」という質問を発しているのだ。崩壊してしまったではないか、残っているのは北朝鮮、中国…だ、それを望むのか、といっているのだ。
4)これに対する回答はほんとうに簡単ではないのだ。しかも簡潔に答えるには。
  ひとつだけ、決定的に重要な回答の構成要素は、この間の新指導路線から階級的労働運動路線を鮮明化させてくるなかで、レーニンの『なにをなすべきか』の読み直しをやる作業が行われ、その中でスターリン主義における党と労働者階級との主客の転倒性という指摘が行われた。スタにおいては労働者階級も党のためにあるという転倒性があるのだ。革命の主体は労働者階級だ、共産主義は労働者階級の自己解放闘争だ、という核心中の核心がスタにおいてはこなごなに粉砕されていたのだ。
  その行き着いた先、極致が今日の北朝鮮スタの現実であるといえる。上記の質問を学習の緊張の糸として、さらに党学校で学んでいきたい。

【P】

  討論で話した内容と同じこともあるのですが、改めて書かせてもらいたいと思います。
  まず、講師の問題意識が実践的であるのを強く感じます。これが学習会全体を貫いており、私自身、体制内労働運動にうち勝って、階級的労働運動を前進させていく思想的核心に接近できた気がします。
  資本主義の発展が、プロレタリア革命の条件を限りなく成熟させていること。マルクスが「生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される」「古いブルジョア社会そのものがはらんでいる新しい社会の諸要素を解き放つ」と語っていることが、とても新鮮に、かつ胸に迫ってくるのを感じます。日和見主義者は、資本主義社会にたいしてこの捉え方がまったくありません。この捉え方こそマルクス主義であり、我々の党派性です。「労働運動の力で革命をやろう」の思想的ベースだと思います。この思想を労働者階級の中に広め、体制内労働運動と闘っていく武器として、我々は、もっともっと生かしていくことが大切だと感じます。
  ドイツ社民党関連で資料の16番目に出されていますが、「合法性」というのが彼らの決まり文句だったというのは驚きでした。エンゲルスが「1年も続きはしないだろう」と言っていたドイツ社会主義労働者党−ドイツ社会民主党が、なぜ世界最大の「労働者党」にまで成長し、ドイツ革命を血の海に沈めるまでに到ったのかは、多くの意見にあるように、解明される必要があります。その場合、帝国主義の危機の下で、それに屈服した日和見主義が権力(支配階級)と結びつき、エセ「マルクス主義」のイデオロギーで階級を獲得していくという構造でつかむことが重要だと思います。階級闘争の前進の中で生まれてきた日和見主義は軽視してはならないということです。今日の関西の一部指導部の一線を越えた動きについても、そのような観点を持って考えることが必要だと思っています。
  レジュメ、資料とも、とても工夫されており、学習しやすいものでした。講師の努力を感じます。今回の学習会の成果を生かし、更に深め、実践を進めていきたいと思います。

 訂正
  前号(2007年11月号)5ページ、左側の段の上から21行目の「兄弟組合」を「共済協会等」に訂正します。(*ホームページでは修正済み)

 

党学校通信 p1-16 付録 

「党学校通信GAKKOU」2007年12月号付録   〈第8期党学校『ゴータ綱領批判』(下)学習資料〉

マルクス・エンゲルスによるベーベル、リープクネヒト、ブラッケその他への1879年の回状 (97)(マルクス=エンゲルス全集第19巻p153〜170)

 この『1879年の回状』は、社会主義者取締法が出た前後の時期のドイツ社会主義労働者党の状態とそれにたいするマルクス・エンゲルスのかかわりを示すものとして重要である。ラサール主義的なものをどこにむかってどのように突破していくかをめぐる党内闘争の実状が垣間見られる。具体的には、社会主義者取締法のもとで、新しい党機関紙を創刊するにあたって党はどのような立場にたつべきかということが問題になっているが、それをこえた党組織論の本質的問題が提起されている。前半部はゴチャゴチャして読みづらいが、ぜひ後半まで読み進んで欲しい。  (党学校事務局)

 親愛なべーベル!
  8月20日付の貴信への回答(*)が遅れたのは、一つにはマルクスが長いあいだ不在だった(**)ためであったし、次には、いくつかの不意の出来事によるものであった。つまり、はじめに『リヒター年報』(98)が到着したこと、ついでヒルシュ自身が当地にやってきたことがそれである。

   * ディーツ版全集第19巻では、8月29日付、となっているが、同全集、第34巻所載のテキスト、およびべーベルの自伝『わが生涯から』の記述によって訂正。
   ** マルクスは、1879年8月8日−9月17日のあいだジャージ島とラムズゲートに滞在した。

 私からリープクネヒトに送った最近の手紙を、彼はあなたに見せなかったのだと推断しないわけにはいかない。私は彼にはっきりと、そうするように頼んでおいたのだが。でなかったら、リープクネヒトがまえにもちだしてきて、私が前記の手紙(*)ですでに答えておいたものと同じ理由を、あなたがまたもやもちだしてくるはずがないからである。

 * 本全集、第34巻、92(原)ページを参照。

 それでは、ここで問題になっている各論点を調べてみよう。

   一 C・ヒルシュとの会談

 リープクネヒトがヒルシュに、チューリッヒで新たに創刊される党機関紙(99)の編集を引きうけるつもりはないかどうか、問い合わせる。ヒルシュは、新聞の資金事情を、つまり、どれだけの資金が利用でき、まただれがその資金を出すのかを知らせてほしい、と言う。まえの質問は、新聞が2、3ヵ月ではやくも店じまいを余儀なくされるようなことがないかどうかを知るためだし、あとの質問は、だれが財布の紐をにぎっており、したがってまた新聞の立場についての終局の命令権をにぎっているかを確かめるためである。リープクネヒトがヒルシュにあてて書いた「万事はちゃんとととのっており、もっと詳しいことはチューリヒから知らせるはずだ」(リープクネヒトからヒルシュへ、7月28日付)という返事がまだ届かないうちに、チューリヒから、ベルンシュタインの手紙がヒルシュのところに届く(7月24日付)。そのなかでベルンシュタインは、「(新聞の)発行の業務と管理はわれわれにまかせられた」と知らせる。「フィールエックとわれわれ」とで協議したさいに、

「あなたが『ラテルネ』(100)の編集者として何人かの同志と不和をきたしたことは、あなたの立場をいくぶん困難にするだろう」という意見が出た、「けれども、私はこの懸念をたいして重要なものだとは考えない」と。

 資金事情についてはひとことも述べていない。
  ヒルシュは、おりかえし7月26日付で返事を書き、新聞の物質的状態をたずねる。どの同志が赤字を補填する責任を引きうけたのか? どれくらいの額まで、またどれだけの期間引きうけたのか? と。−−この場合、編集者の俸給の問題は、全然なんの役割も演じてはいない。ヒルシュはただ、「新聞を最低1年間つづけていけるだけの資金が確保されている」かどうかを知りたいだけなのである。
 ベルンシュタインからは、7月31日付でこう答えてくる。赤字が出た場合には、自発的な寄付によって補填される。すでに若干の(!)寄付の申し出が受けつけられている、と。ヒルシュが、彼としては新聞にどういう立場をあたえるつもりかということについて書きおくった意見にたいして(これについては後述)、ベルンシュタインは不同意の意見を述べて、次の指示をあたえる。

管理委員会は、それ自体さらに監督のもとにおかれているので、つまり責任をもたされているので、それだけにいっそう強くこのことを主張しないわけにはいかない。したがって、 これらの点について、あなたは管理委員会の了解を取りつけなければならない。」

 おりかえし、なるべく電報で返事をもらいたい、と言う。
 だから、ヒルシュは、彼の正当な質問にたいしてはなんの返事ももらえず、そのかわりに、君はチューリヒに鎮座する管理委員会の指揮をうけて編集することになるのだ、という知らせを受け取るのである。しかも、その管理委員会は、彼の意見とは根本的に食いちがった意見をもっているのだが、その委員たちの名まえさえ彼には知らされないのである!
 まったく当然なことだが、ヒルシュはこういう取扱いに憤激して、ライプツィヒの同志たち(*)と話合いをつけるほうがよいと考える。8月2日付でリープクネヒトにあてた彼の手紙は、あなたもきっとご承知であろう。というのは、ヒルシュは、はっきりと、あなたとフィールエックとにそれを見せるように要求していたからである。ヒルシュは、管理委員会が編集部にたいして文書でその意見を述べること、またライプツィヒの監督委員会に上告して決裁を求めることができるということを条件として、チューリヒの管理委員会の指揮に従おうとさえ言う。

   * ライプツィヒは、非合法下のドイツ社会民主党の実質上の指導部である中央援助委員会の所在地であった。

  そのあいだに、リープクネヒトから7月28日付の手紙でヒルシュにこう知らせてくる。

もちろん、この企画の資金は確保されている。なぜなら、 全党+(その一部として)ヘヒベルクがその後楯だからである。だが、こまかい点には、私はかかわりあわないようにしている。」

 リープクネヒトのその次の手紙も、資金事情についてはなにも書いておらず、そのかわりに、チューリヒ委員会は編集委員会ではなく、たんに運営と財政事務をまかされているだけだ、と断言する。8月14日になってさえ、リープクネヒトは、私あての手紙でこれと同じことを書き、われわれの手でヒルシュを説きつけて引きうけさせてくれ、と頼んでいる。あなた自身、8月29日になってさえ、まだ真の事態をほとんど知っておらず、私に手紙でこう書いてきたほどである。

「同紙の編集部にたいして彼(ヘヒベルク)がもっている 発言権は、他のあらゆる著名な党同志がもっているものよりも大きいというわけではない。」

  ついにヒルシュは、8月11日付でフィールエックから次のような告白をふくむ手紙を受け取る。

  「チューリヒに在住する3人が編集委員会として新聞の設立にとりくみ、ライプツィヒの3人組の承認をうけて1人編集者を選ぶことになっていた。……私の記憶するところでは、右にお知らせした決定には、また、第2項にあげた(チューリヒの)設立委員会が、党にたいして政治的責任をも財政的責任をも負うことが、述べてあった。……こういう事情から考えて、……党から新聞の設立を委託されたチューリヒ在住の3人の協力を得ずに、編集の仕事を引きうけることは不可能だということは、はっきりしていると、私には思われる。」

 ここでヒルシュはついに、たとえチューリヒ組にたいする編集者の立場についてだけにせよ、すくなくともいくらか明確なことを知ったわけである。チューリヒ組は編集委員会であり、彼らは政治的責任をも負っており、彼らの協力を得ずに編集の仕事を引きうけることは不可能なのである。要するに、ヒルシュは、チューリヒの3人の了解を取りつけよという、単刀直入な指示を受けたのである。それでも、その3人の名まえは依然として彼に知らされない。
 しかし、混乱をいよいよ申し分のないものとしたのは、リープクネヒトがフィールエックの手紙への添書きにこう書いていることである。

  「いましがたジンガーがベルリンから当地にやってきて、こう報告した。チューリヒの管理委員会は、フィールエックが考えているような編集委員会ではなく、実質上は運営委員会であって、党にたいして、つまりわれわれにたいして新聞の財政上の責任を負っているのだ、と。もちろん、委員会の メンバーも、編集について君と討議する権利と義務をもっている(ついでながら、これは、すべての党同志がもっている権利であり、義務である)。彼らは、君の後見役をつとめる権限をあたえられてはいない。」

  チューリヒ委員会の3人の委員とライプツィヒ委員会の1人の委員−−この委員会から打ち合わせの会議に出席したただ1人の委員が、ヒルシュはチューリヒ組の公式の指揮のもとにおかれるはずだ、と主張し、ライプツィヒ委員会のもう1人の委員は、それをきっぱり否認する。それなのに、ヒルシュは、この諸君がたがいに意見の一致に達するのを待たないで、自分の進退を決しなければならないのか? 採択された決定−−彼がそれへの服従を要求されている諸条件をきめている決定−−を知ることはヒルシュの権利だとは、だれも考えなかった。ライプツィヒの同志諸君は、この決定の内容を自分で正確に知ろうと思いついたことさえないように見えるくらいだから、そういうことはなおさら論外であった。そうでなかったなら、どうして前述したような食いちがいが起こるわけがあろうか?
 チューリヒ組にゆだねられた権能について、ライプツィヒ組が意見の一致に達することができなくても、チューリヒ組には、これは完全にはっきりしている。
 シュラムは、8月14日付のヒルシュにあてた手紙でこう書いている。

  「ところで、もしあなたが、今後も」(カイザー事件と)「同様な場合には同じように行動すると、まえに書いていなかったとすれば、したがって同じような筆致の記事がのることが予想されなかったとすれば、われわれはこの点について一言でも費やしはしなかったであろう。しかし、あなたのこういう言明に接しては、われわれは、新しい新聞への論説の採用について決定票を投じる権利を留保せざるをえないのである。」

  ヒルシュの右の言明をふくむといわれるベルンシュタインあての手紙は、チューリヒの3人組の全権が確認されたチューリヒ会議よりもずっとあとの、7月26日付になっている。しかし、チューリヒ組は、自分たちの官僚的な全能権力の意識にすでにすっかり酔ってしまっているので、ヒルシュのこのあとからの手紙を根拠にして、すでに論説の採用を決定する新しい権能までも要求するのである。編集委員会は、はやくも検閲委員会になった。
 ヘヒベルクがパリにやってきたとき、はじめてヒルシュは彼の口から2つの委員会の委員たちの名まえを知った。
 そうだとすれば、ヒルシュとの話合いが不調に終わった原因は、そもそもなんであったか?
 (一) 新聞の財政的基礎について、したがってまた新聞をせめて1年間だけ生きながらえさせる可能性について、なんにせよ事実資料を彼に知らせることを、ライプツィヒ組もチューリヒ組もかたくなに拒んだこと。寄付の申込額についても、ヒルシュは当地で私から(あなたから私に知らせてきたことにもとづいて)聞いて、はじめて知ったのである。そこで、以前にあたえられた情報(党+ヘヒベルクという)をもとにしては、新聞はいまでもすでにおもにヘヒベルクに資金を仰いでいるか、でなくとも、じきに彼の補助にまったく依存するようになるか、そのどちらかだという以外の結論を引きだすことは、ほとんど不可能であった。それに、このあとのほうの可能性は、いまでもけっして排除されてはいない。800マルク−−私が読みちがえたのでなければ−−という金額は、当地の協会〈−−在ロンドン・ドイツ人労働者教育協会〉がこの上半期『フライハイト』(101)に出してやらなければならなかった補助の金額(40ポンド)とちょうど同額だからだ。
 (二) チューリヒ組はけっして正式に編集部を監督する立場にはないのだという、その後判明したところではまったく誤っている言明を、リープクネヒトがくりかえしておこなったこと、およびそのために起こったまちがい喜劇。
 (三) チューリヒ組は編集部を監督するだけではなく、自分で検閲をやることになっており、そのうえ彼(ヒルシュ)はたんなるでく人形の役割を果たすだけだということが、ついに確かになったこと。
 そこで彼がことわったのは、正しいやり方だと、われわれは言わざるをえない。われわれがヘヒベルクから(*)聞いたところでは、ライプツィヒ委員会にはさらに同地の在住者でない2人の委員が補充されたという話だから、同委員会が敏速に介入できるのは、3人のライプツィヒの同志の意見が一致した場合に限られるのである。その結果、ほんとうの重心は完全にチューリヒに移されるが、ヒルシュばかりでなく、ほかのだれであろうと、真に革命的でプロレタリア的な気分をもった編集者が、チューリヒの諸君と長いあいだいっしょに働くことは、不可能である。この点については、後述する。

 * 「ヘヒベルクから」ということばは、鉛筆で書きくわえられている。

   二 新聞の予定された立場

 7月24日に、はやくもベルンシュタインはヒルシュにこう知らせる。彼が『ラテルネ』の編集者として何人かの同志と不和をきたしたことは、彼の立場を困難にするであろう、と。
  ヒルシュはこれに答えて言う。自分の考えでは、〔新しい〕新聞の立場は、全体として『ラテルネ』の立場と同じものでなければならない、つまり、スイスでは裁判ざたを引きおこさないように注意し、ドイツ国内では不必要にびくびくしない立場である、と。彼は、その何人かの同志というのはだれのことか、とたずね、つづけて言う。

「私には1人の同志しか思いあたらない。そして、約束しておくが、同じような規律違反のふるまいを今後彼が繰りかえせば、私はこの同志をふたたびまったく同じように取り扱うであろう。」

 これにたいして、ベルンシュタインは、検閲官という自分の新しい公式の顕職を意識して、こう答える。

  「ところで、新聞の方針についていえば、『ラテルネ』は模範とされるべきでないというのが、むろん、管理委員会の見解である。われわれの見解によれば、この新聞は、政治的急進主義にふけるよりも、むしろ原則的な社会主義的立場をとるべきである。カイザーにたいする攻撃は、例外なしにすべての同志(!)によって非難されたのであって、このような出来事は、どんな場合にも回避されなければならない、」

等々、等々。リープクネヒトはカイザー攻撃を「大失策」とよんでいるし、またシュラムはこれをはなはだしく危険なものだと考えるところから、さっそくヒルシュにたいして検閲を施行するのである。
 ヒルシュはいま一度ヘヒベルクに手紙を書く。カイザー事件のような出来事は、

「公式の党機関紙が存在していれば、起こるはずのないことである。党機関紙の明瞭な説明や善意の暗示を聞きながすほどに、一代議士が厚かましくなるということは、ありえないことだからである。」

 フィールエックもまた手紙にこう書く。新しい新聞には、

「冷静な立場をとるように、そしてどんな意見の不一致が起こっても、できるかぎりそれを無視するように、……指示をあたえるべきである。」

 新しい新聞は、「『ラテルネ』の拡大版」であってはならない。また、ベルンシュタインにたいして

「人々がくわえうる非難は、せいぜい彼が穏健すぎる方向をとっているということ−旗印を完全に鮮明にすることのできない時期にあって、これが非難のたねになるとすれば−だけである。」

 ところで、このカイザー事件とはなんであろうか、またヒルシュがおかしたといわれるこの許しえない犯罪とはなんであろうか? カイザーは、帝国議会で、社会民主党の代議士中でただひとり、保護関税に賛成の演説をおこない、賛成の投票をする。ヒルシュは、カイザーが左の点で党規律に違反したと言って、彼を非難する。すなわち、
 (一) 党綱領がはっきりと間接税の廃止を要求しているのに、その間接税に賛成投票したこと、
 (二) ビスマルクに金を出すことを承認し、それによって、われわれのあらゆる党戦術の第一原則−−この政府に一文も出すなという原則−−違反したこと。
 このどちらの点でもヒルシュの言い分が正しいことは、否むことができない。そしてカイザーは、一方では党綱領−−代議士たちは、大会決定というかたちで、この綱領を守ることをいわば宣誓しているのだ−−を、他方では、党戦術の最も動かしがたい、第一の根本原則を、土足で踏みにじって、社会主義者取締法への返礼として、ビスマルクに金を出すことに賛成投票したのだから、ヒルシュがあのようにあけすけにカイザーを攻撃したことも、われわれの見解によれば、同様に完全に正しいことであった。
 これまでわれわれは、ドイツ国内の諸君が、このカイザーにたいする攻撃のことでなぜあんなに猛烈に腹を立てたのか、どうしても理解できなかった。いまヘヒベルクから聞いたところでは、「議員団」がカイザーにああいう行動をとる許可をあたえたのであって、この許可がカイザーの楯になるものと考えられているという。
 もしこれがほんとうなら、じっさい、少々ひどすぎる話だ。まず第一に、ヒルシュは、一般の世人同様、そんな秘密の決定があるということを、まったく知るよしがなかった(*)。次に、党がこうむった汚辱は、これまではカイザーひとりのせいにすることができたが、このいきさつによって汚辱はいっそう大きなものとなり、また、カイザーのあのくだらない空文句と許しがたい投票とを公然と、全世界の前で摘発し、こうして党の名誉を救ったヒルシュの功績も、同様にいっそう大きなものとなる。それとも、ドイツ社会民主党は、実際に議会主義病に感染してしまって、人民によって選挙されたとたんに、聖霊が選良たちのうえに天くだって、議員団の会議は不過誤の公会議に変えられ、議員団の決定は不可侵の教義に変えられるとでも、考えているのだろうか?

  * 手稿では、このあとに次の文章が抹消されている。「また、他の2人か3人の社会民主党代議士(というのは、もっと多くの人間がこれにかかわりあっているとは、とうてい考えられないので)が、カイザーに、彼の世迷い言を全世界の前でしゃべりたてたり、ビスマルクに金を出すことを承認したりしてもよいという許可をあたえるほどに邪道に迷いこんだのだとすれば、彼らはみずからその責任を公然と引きうけ、ヒルシュがそれについてなんと言うか、待つ義務があった。」

 たしかに、大失策はおかされた。だが、それは、ヒルシュによっておかされたのではなく、自分たちの決定によってカイザーをかばった代議士たちによっておかされたのである。だれよりもさきに党規律の維持に心をくばる立場にある者が、こういう決定によって自分からこの党規律をあからさまに破るとすれば、事はいっそう悪質である。だが、カイザーがその演説と投票によって、そして他の代議士たちがその決定によって党規律を破ったのではなく、ヒルシュがこの決定−−おまけに彼の知らない決定−−にさからってカイザーを攻撃することで党規律を破ったのだと考えるほどに、連中がのぼせあがるとすれば、事態はいよいよ悪質である。
  とにかく、保護関税問題で党がとった立場が、これまでに起こった実際的な経済問題のほとんどすべてにおいて、たとえば国有鉄道の問題において、党がとったのと同じあいまいな、優柔不断なものであったことは、確かである。こんなふうになったのは、党機関紙、とくに『フォールヴェルツ』(102)がこの問題を根本的に討論しようとせずに、このんで未来の社会秩序の構成に熱をあげてきたためである。社会主義者取締法の実施後に、保護関税問題が突如として実際問題になったとき、意見はじつにさまざまな色合に分かれたが、明瞭で正しい判断を形成するための前提条件、すなわちドイツ工業の実態と、世界市場におけるその地位とについての知識をもっているものは、ただの一人も居あわせなかった。そのうえ、選挙人のあいだにそこここに保護関税に賛成する気分が現われるのは、まぬかれられないことだったが、人々はこういう気分にもやはり考慮をはらいたいと思った。この混乱から脱けだすただ一つの道、すなわち、問題を純政治的に把握する道(『ラテルネ』がやったように)をきっぱりとることは、けっしてなされなかった。そこで、この討論では、党ははじめにはためらいがちの、あやふやな、あいまいな態度をとり、ついにはカイザーのおかげで、またカイザーとともに徹底的な恥さらしをやることに、ならざるをえなかったのである。
  カイザーにたいする〔ヒルシュの〕攻撃は、いまやヒルシュにたいして、新しい新聞は『ラテルネ』のゆきすぎをだんじてまねてはならないとか、政治的急進主義にふけるよりも、むしろ原則的な社会主義的立場、冷静な態度をとるべきだとかと、口々にお説教をするきっかけとされている。しかも、ベルンシュタインばかりか、フィールエックまでがそうしているのであって、フィールエックには、このベルンシュタインが、穏健すぎるがゆえにこそ適任者だと思われるのだが、それというのも、いまは旗印を完全に鮮明にすることができない時だからなのだ。
  だが、旗印を完全に鮮明にするためでなくて、いったいなんのために外国にまで出てゆくのか? スイスには、ドイツの出版・結社法も刑法も施行されてはいない。だから、社会主義者取締法の出される以前からドイツの普通の法律によって国内で言うことのできなかった事柄を、スイスでは言うことができるばかりか、言う義務があるのだ。なぜなら、ここでのわれわれの聴衆は、ドイツだけではなく、全ヨーロッパなのであって、スイスの法律が許すかぎりで、ドイツの党の道と目標をヨーロッパにたいしてはっきり説明する義務があるからだ。スイスにいてドイツの法律で自分を縛ろうとする者は、とりもなおさず彼がこれらのドイツの法律にふさわしい人間であり、例外法以前にドイツで言うことを許されていたこと以外には、実際上なにも言うべき事柄をもっていないのだということを、証明するにすぎない。編集部員にたいしてドイツへの帰国の道が一時的に閉ざされる可能性があるということも、考慮すべき理由とはならない。こういう危険をおかす用意のない者は、このような敵前の名誉ある部署につく資格はないのである。
  そればかりではない。ドイツの党が例外法によって法の外におかれたのは、まさに党がドイツでただ一つの真剣な反政府党だったからである。党が在外機関紙においてこの唯一の真剣な反政府党という役割を捨ててしまい、お行儀よく、おとなしくふるまい、冷静な態度であまんじて足蹴を受けることで、ビスマルクに感謝の意を表するとすれば、党は、自分が足蹴を受けるのにふさわしいということを証明するにすぎない。1830年以後に外国で発行されたあらゆるドイツ人亡命者の新聞のうちで、『ラテルネ』はたしかに最も穏健なもののひとつである。だが、その『ラテルネ』でさえまだ無作法にすぎるとすれば−−新しい機関紙は、ドイツ以外の諸国の同志たちの面前で党の顔に泥をぬるものにしかなりえない。

   三 チューリヒの三人組の宣言

 そうこうしているうちにわれわれの手もとにヘヒベルクの『年報』が届いたが、それには『ドイツの社会主義運動の回顧』という論文(103)がのっている。ヘヒベルク自身が私に語ったところでは、この論文はほかならぬチューリヒ委員会の3委員の筆になるものだという。ここに見るものは、従来の運動にたいする彼らの正式の批判であり、同時に、新しい機関紙の立場が彼らの考えできまるかぎりで、この機関紙の立場についての彼らの正式の綱領である。
  そもそもの書きだしにこう書いてある。

  「ラサールがきわだって政治的な運動と見なした運動、彼が労働者ばかりでなくすべての誠実な民主主義者に参加を呼びかけた運動、科学の独立的な代表者たちや、真の人類愛にみたされたすべての人々が先頭に立ってすすむはずであった運動は、J・B・フォン・シュヴァイツァーの統率のもとで浅薄化して、工業労働者の利益のための一面的な闘争になってしまった。」

 歴史的に見てはたしてそうなのか、またどの程度までそうなのかということは、いまは検討しないことにしよう。ここでシュヴァイツァーがとくに非難されている点は、シュヴァイツァーがラサール主義−−それは、ここではブルジョア民主主義的=博愛主義的運動と解されている−−を浅薄化して、工業労働者の利益のための一面的な闘争にしてしまったということであって、それというのも、彼がブルジョアジーにたいする工業労働者の階級闘争としてのこの運動の性格を深めたからだ、というのである。(*)次に、シュヴァイツァーが非難されている点は、彼が「ブルジョア民主主義派を拒否した」ということである。ブルジョア民主主義派が社会民主党のなかでいったいなにをするのか? もし彼らが「正直者」からなりたっているなら、入党したいなどと希望するはずはまったくないし、それにもかかわらず彼らが入党を希望するとすれば、それは争いを引きおこすことを目的とするものでしかない。

  * 手稿には、はじめこの段落のここまでの文章のかわりに、次の一節があった。「シュヴァイツァーは、まったくやくざな人間ではあったが、大きい才能の持主であった。彼の功績は、まさに国家補助という制限された万能薬をふりまわしていたはじめの狭いラサール主義を打破した点にあった。‥‥彼は、腐敗した動機からどんな罪をおかしたにせよ、また自分の支配権を維持するために国家補助というラサールの万能薬にどんなにしっかりしがみついていたにせよ、はじめの狭いラサール主義を打破し、党の経済的視野を拡大し、それによってこの党がのちに全ドイツ的党に解消するための準備をしたことは、彼の功績である。プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争が、あらゆる革命的社会主義の中軸であるが、このことは、すでにラサールも説いていた。シュヴァイツァーがこの点をいっそう鋭く強調したことは、たとえ彼が自分の独裁をおびやかす人々を中傷する口実にそれを利用したにしても、それ自体として、やはり一つの進歩であった。彼がラサール主義を工業労働者の利益のための一面的な闘争にしてしまったということは、まったくそのとおりである。だが、それが一面的であったのは、彼が腐敗した政治的動機から、大土地所有に反対する農業労働者の利益のための闘争をかえりみようとしなかったからにほかならない。ところが、いまここで彼が非難されているのは、その点についてではない。彼がブルジョアジーにたいする工業労働者の階級闘争というこの運動の性格を深めたこと、それが『浅薄化』だというのである。」

 ラサール党は「最も一面的な仕方で労働者党としてふるまうほうを選んだ。」こういうことを書いている諸君が、彼ら自身、最も一面的な仕方で労働者党としてふるまっている党の党員であり、現在この党のなかで役職についているのだ。これは絶対的にあいいれない事柄である。もし彼らが自分で書いているとおりに考えているなら、彼らは党から脱退すべきであり、すくなくともその役職から辞任すべきである。彼らがそうしないとすれば、彼らは、党のプロレタリア的な性格とたたかうために自分の職務上の地位を利用するつもりでいることを、それによって告白することになる。だから、党が彼らをその役職にとどめておくのは、自分自身を裏切るものである。
  こういうわけで、これらの諸君の見解によれば、社会民主党は一面的な労働者党であってはならず、「真の人類愛にみたされたすべての人々」の全面的な党でなければならない。党は、なによりもまず、粗野なプロレタリア的熱情を捨てることによって、「よい趣味をやしない」「よい作法を学びとるために」(85ページ)教養のある博愛的ブルジョアの指導に服することによって、そのことを証明しなければならない。そうすれば、若干の指導者たちの「下品な態度」も、尊敬すべき「ブルジョア的な態度」に席をゆずるであろう。(まるで、ここに言われている指導者たちの外見上の下品な態度は、彼らにくわえうる非難のうちでいちばん些細な点ではないかのような言い方だ!)そうなればまた、

  「教養ある有産階級のあいだにも多数の支持者が見つかる」であろう。「だが、……われわれのおこなう扇動が顕著な成功をおさめるべきだとすれば、彼らをこそまずもって獲得しなければならないのである。」ドイツ社会主義は、「大衆の獲得にあまりにも大きな意義をあたえ、そのさい、いわゆる社会の上層のあいだで精力的な(!)宣伝をすることを怠った。」 というのは、「党には帝国議会内で党を代表するのに適当した人々がまだ欠けている」からなのだが、「関係資料を根本的に研究するための十分な機会と時間をもっていた人々に代 議士の全権を委任することが望ましく、また必要」である。「普通の労働者や小親方が……そのために必要な余暇をもっていることは、まれな例外の場合にすぎない。」

 だから、ブルジョアを選出せよ!
  要するに、労働者階級は自力で自分を解放する能力をもっていない。このためには、労働者階級は「教養ある、有産の」ブルジョアの指導に服さなければならない。労働者のためになる事柄を研究する「機会と時間をもっている」のは、彼らだけだからである。第二には、ブルジョアジーとはけっしてたたかってはならず、精力的な宣伝によって彼らを−獲得しなければならない。
 だが、社会の上層を、あるいはせめてその善意の分子だけでも獲得しようと思えば、だんじて彼らを恐れさせてはならない。この点で、チューリヒの3人組は慰めになる一事実を発見したと考える。

「まさに今日、社会主義者取締法の圧迫のもとにあって、党は、暴力的な流血の革命の道をすすむ意図をもたず、……合法性の道、すなわち改良の道を歩む決心でいることを、明らかにしている。」

  だから、社会民主党に投票した50万ないし60万の選挙人、すなわち選挙人総数の10分の1ないし8分の1にすぎず、そのうえ国中に散らばっているこの人々が、頭で壁にぶつかっていったり、1対10で「流血の革命」を企てたりしないだけの分別をもっているというと、そのことは、彼らが、対外的な大事件や、その結果引きおこされた突然の革命的高潮や、それどころか、この高潮から生じた衝突のなかでたたかいとられた人民の勝利を利用することを、未来永劫にわたっても自分に禁じたということの証明になるのである! ベルリンがいつかふたたび3月18日(104)をやるほどに無教養になったときには、社会民主主義者は、「バリケード熱に駆られたルンペン」(88ページ)として闘争に参加することなく、むしろ「合法性の道を歩んで」、なだめすかし、バリケードをとりはらわなければならず、必要とあれば、光栄ある軍隊とともに一面的な、粗野な、無教養な大衆に向かって進撃しなければならないのだ。それとも、この諸君が、そんなことを言うつもりではなかった、と主張するとすれば、それなら彼らはいったいなにを言うつもりだったのか?
 それからさきはますますありがたい話になる。

  「したがって、それ」(党)「が現状を批判し、現状の変更を提案するさいに、おだやかに、客観的に、思慮ぶかくふるまえばふるまうほど、さきごろ」(社会主義者取締法の制定のさいに)「意識的な反動派が赤い妖怪の恐怖でブルジョアジーをおどしつけるのにつかって成功をおさめたような策略の繰りかえしは、それだけ不可能になるであろう。」(88ページ)

  ブルジョアジーの不安をあとかたもなくぬぐいさるために、赤い妖怪はほんとうに妖怪にすぎず、実在してはいないことを、彼らにはっきりと、納得のいくように証明して見せなければならない。だが、赤い妖怪の秘密は、ブルジョアジーとプロレタリアートとのあいだの、起こらずにはすまぬ生死をかけた闘争にたいするブルジョアジーの不安でなくてなんであろうか? 現代の階級闘争の避けようのない決着にたいする不安でなくてなんであろうか? 階級闘争をなくすがよい。そうすれば、ブルジョアジーと「すべての独立的な人々」は、「プロレタリアと手に手をたずさえてすすむことを恐れない」であろう! だが、そのときにだまされるのは、ほかならぬプロレタリアであろう。
 だから、党は、社会主義者取締法がつくられるきっかけとなった「不作法なふるまいやゆきすぎ」を永久に捨てさったということを、へりくだった、あわれっぽい態度によって証明するがよかろう。党が、社会主義者取締法の枠内でだけ活動するつもりである、と自発的に約束すれば、むろん、ビスマルクとブルジョアは、そうなれば無用の長物であるこの法律を、かたじけなくも廃止してくださるだろう!

  「どうか、われわれの言う意味を理解してくれたまえ。」われわれは「わが党とわれわれの綱領とを捨て」ようとするものではない。「だが、いっそう遠大な志望の実現を考えることのできるまえにぜひともかちとらなければならない一定の卑近な目標の達成に、われわれの全力、全精力をそそぐときには、今後長年にわたってわれわれのしなければならない仕事がいっぱいあると、われわれは考えるのである。」

  そうすれば、「現在遠大な諸要求に……恐れをなしている」ブルジョアや小ブルジョアや労働者も、群をなしてわれわれの味方となるであろう。
 綱領を捨てるのではない、−−無期限に延期するだけだ、というのだ。綱領は採用するけれども、じつのところ、それは自分自身のためでも、自分の生きているあいだのためでもなくて、死後のため、子や孫への遺産としてなのである。それまでは、やはりなにかしらやっているように見せかけるとともに、ブルジョアジーを恐れさせないために、ありとあらゆる瑣末な事柄や資本主義的社会制度をつくろう仕事に「全力、全精力」をかたむけるのである。だが、それくらいなら、2、3百年のうちには資本主義社会の崩壊は避けられないという自分の不動の確信の正しさを証明するために、さかんに、せっせと投機をやって、1873年の崩落(105)を呼びおこすのに一役買い、それによって現存制度を瓦解させるために実際になにほどかの仕事をしている共産主義者ミーケルのほうがましである。
 「会社設立者たちにたいする誇張された攻撃」も、よい作法に反するもう一つの行為であった。なぜといって、彼らは「時代の子にすぎなかった」ではないか。「だから、ストラウスバーグやその同類を罵倒するのは、……さしひかえたほうがよい。」残念なことに、人間はだれでも「時代の子にすぎない」のだから、もしこのことが十分な言いわけになるとすれば、これからはだれをも攻撃してはならないことになるし、われわれの側から論戦や闘争をしかけることはいっさいやめになる。われわれは、反対者からどんなに足蹴にされても、おとなしく耐えしのぶことになる。なぜなら、われわれ賢人は、彼らが「時代の子にすぎず」、いまやっていることと違った行動をとりえないということを、むろん、よく知っているからである。彼らから受けた足蹴に利子をつけてお返しするかわりに、われわれはむしろ、このあわれな連中を気の毒に思わなければいけないのである。
 同様に、〔パリ・〕コミューンに味方したことも、

  「日ごろわれわれに好意的だった人々を押しのけてしまい、一般にわれわれにたいするブルジョアジーの憎悪を強めた」点で、不利であった。それから、「10月法(106)が成立したことについても、」党に「全然責任がないわけではない。なぜなら、党は不必要にブルジョアジーの憎悪を強めたからである。」

 以上がチューリヒの3人の検閲官の綱領である。これは申し分なく明瞭である。1848年以来こういうきまり文句をのこらず知りぬいているわれわれには、なおさら明瞭である。これは、プロレタリアートが自己の革命的な地位に駆られて「ゆきすぎをやる」かもしれないという不安でいっぱいになった小ブルジョアジーの代表者が、その本音を吐いたものである。断固たる政治的反対ではなくて−−全般的な和解、政府やブルジョアジーとの闘争ではなくて−−彼らをくどき説きつけようとする試み、上からの迫害にたいするミ然たる抵抗ではなくて−−へりくだった屈従と、罰せられたのは自分たちの自業自得だという告白。歴史的に必然的な衝突はすべて誤解だったことに解釈しなおされ、あらゆる討論は、根本的にはわれわれはみな同じ意見なのだという断言でおしまいになる。1848年にブルジョア民主主義者として登場した連中は、いまなら社会民主主義者と名のってもよいことになる。前者にとって民主的共和制が到達できない遠いところにあったように、後者にとって資本主義制度の倒壊は到達できない遠いところにあり、したがって、現在の政治的実践にとっては絶対になんの意味ももっていない。そこで、彼らは思うぞんぶん仲裁し、妥協し、博愛を衆に及ぼしてよいことになる。プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争についても、まったく同様である。紙の上では彼らはこの闘争を承認する。というのは、もはやそれを否定するわけにはいかないからである。だが、実践ではこの闘争はもみけされ、ぼかされ、弱められる。社会民主党は労働者党であってはならず、ブルジョアジーの、いや一般にだれかの憎悪をまねいてはならない。党は、なによりもまずブルジョアジーのあいだで精力的な宣伝をやらなければならない。ブルジョアを恐れさせるうえに、現世代の生きているあいだには到達できない遠大な目標を重視するのをやめて、むしろ古い社会制度に新しいつっかえ棒をあてがうような、それによっておそらく終局の破局を、徐々に、なしくずしに、可能なかぎり平和的におこなわれる分解過程に変えるであろうような、小ブルジョア的つぎはぎ改良に、党の全力、全精力をそそがなければならない、というのだ。これは、いそがしく働いているように見せかけながら、自分ではなにもしないばかりか、およそ−−おしゃべり以外のなにかがなされるのを阻止しようとするあの同じ連中である。1848年と1849年にいっさいの行為を恐れるあまり、運動を一歩ごとに妨げて、ついにはそれを没落させてしまったあの同じ連中である。反動派の存在をだんじて見ようとせず、ついに抵抗もできず逃げることもかなわない袋小路にはいりこんでしまってから、びっくり仰天するあの同じ連中である。自分の狭い俗物的な視野のなかに歴史を閉じこめようとするが、いつでも歴史にとり残されるあの同じ連中である。
 彼らの社会主義的な実質についていえば、これにたいしては、すでに『〔共産党〕宣言』の「ドイツ社会主義または『真正』社会主義」の章(*)にあますところのない批判がくわえられている。階級闘争が好ましからぬ「粗野な」現象だとして排除されるところでは、社会主義の基礎としては、「真の人類愛」と「正義」にかんする空虚な美辞麗句とのほかにはなにも残らない。

 * 本全集、第4巻、485−488(原)ページを参照。

 これまでの支配階級の出身者もまた、戦闘的なプロレタリアートの味方となって、これに教養の要素を供給するということは、発展過程のうちに基礎をもつ不可避的な現象である。これは、われわれがすでに『宣言』のなかではっきり述べたことである(*)。しかし、そのさい次の2つの点に注意をはらわなければならない。

 * 前掲書、471−472(原)ページを参照。

 第一に、プロレタリア運動の役に立つためには、この人々はやはりほんとうの教養の要素をもちこんでこなければならない。だが、ドイツの大多数のブルジョア的改宗者たちについては、そういうことは言えない。『ツークンフト』も『ノイエ・ゲゼルシャフト』(107)も、運動を一歩でも前進させるようなものをなにひとつもたらさなかった。そこには、実際的なものであろうが、理論的なものであろうが、ほんとうの教養材料はまったく存在しない。そのかわりに、そこにあるのは、上っつらだけ取りいれた社会主義思想と、これらの諸君が大学やら、ほかのいろいろなところからもちこんできた種々さまざまな理論的立場とを調和させようとする試みである。それらの理論的立場は、現在ドイツ哲学の残存物がたどっている分解過程のおかげで、いよいよ出でていよいよ混乱したものとなっている。だれもかれも、まずはじめにこの新しい科学〔社会主義〕を自分で根本的に研究しようとはしないで、むしろ自分がもちこんできた立場に合わせてこの科学を仕立てなおし、自家製の科学をむぞうさにつくりあげて、それから、それを他人に教えようというおこがましい望みをもって、さっそく乗りだしてくるのであった。だから、これらの諸君のあいだには、人間の数とほとんど同じ数の立場がある。彼らは、なんらかの問題に明瞭さをもたらすのではなくて、はなはだしい混乱を引きおこしただけであった。−−幸いなことに、混乱は、ほとんど彼ら自身の仲間のあいだに起こっただけであったが。自分の学ばなかったことを他人に教えることを第一の原理とする、このような教養の要素をもたないでも、党は十分にやっていける。
 第二に、こういう他階級の出身者がプロレタリア運動に参加する場合、第一に要求されることは、彼らがブルジョア的、小ブルジョア的、等々の先入見の残滓をもちこまないで、プロレタリア的な見方を全面的に自分のものにすることである。だが、右に指摘したように、これらの諸君の頭にはブルジョア的な観念や小ブルジョア的な観念がいっぱいに詰めこまれている。ドイツのような小ブルジョア国では、こういう観念が存在するのには、たしかに正当な根拠がある。しかし、それに正当な根拠があるのは、社会民主労働党の外部でのことに限られる。これらの諸君が社会民主主義的な小ブルジョア党を組織するというのであれば、彼らにはそうする完全な権利がある。その場合には、われわれは彼らと話し合って、事情によっては連合を結ぶ等々のこともできるであろう。だが、労働者党の内部にあっては、彼らは不純な要素である。さしあたっては彼らを大目に見て党内においてやる理由があるにしても、他方では、党内においてやるだけにして、党の指導部に彼らの影響が及ぶのをけっして許さず、彼らとの決裂は時間の問題にすぎないことをつねに意識しておく義務がある。そのうえ、そういう決裂の時はすでに来ているように思われる。党が、この論文の筆者たちをこれ以上大目にみて仲間に入れておくことがどうしてできるのか、われわれには理解できない。党指導部でさえ多かれ少なかれこういう連中の手におちいるようであれば、党はまったく無力化されてしまい、プロレタリア的な決断力はなくなってしまう。
 われわれについていえば、われわれの過去全体から見て、一つの道しかひらかれていない。ほとんど40年来、われわれは、階級闘争が歴史の直接の推進力であること、とくにブルジョアジーとプロレタリアートとの階級闘争が現代の社会的変革の大きなてこであることを強調してきた。だから、われわれは、この階級闘争を運動から抹殺しようとするような連中といっしょにやってゆくわけにはいかない。インタナショナルを創立したとき、われわれは、労働者階級の解放は労働者階級自身の事業でなければならない、という戦いの合言葉をはっきり定式化した。だから、われわれは、労働者は無教養すぎるから自分で自分を解放することはできず、まずもって博愛的な大小のブルジョアの手で上から解放してもらわなければならない、と公然と明言するような連中といっしょにやってはいけない。新しい党機関紙がこの諸君の意向にそった立場、つまりプロレタリア的ではなくてブルジョア的な立場をとるなら、われわれとしては、まことに遺憾なことではあるが、それに反対することを公然と声明し、これまでわれわれが外国に向かってドイツの党を代表してきた連帯関係を解消するほかしかたがない。でも、そんなところまで事態がすすまないことを希望している。
 この手紙は、ドイツ国内の委員会の5人の委員とブラッケとに読んでもらうためのものである。……
 チューリヒ組にこれを見せることについても、われわれには異存はない。

1879年9月17−18日に執筆
雑誌『ディー・コンムニスティッシェ・インテルナツィオナーレ』1931年6月15日付、第12年23号にはじめて発表
エンゲルスの手稿による
(村田陽一訳)

 〔注解〕

(97) 1879年9月17日−18日付のマルクスとエンゲルスの『回状』は、党内資料の性格をもっている。これは、この回状の内容と、またこの回状についてのマルクスとエンゲルス自身の言明とが証明しているところである。1879年9月19日付のゾルゲにあてた手紙のなかで、マルクスは、この文書のことを「ドイツの党指導者のあいだで内輪で回覧する」ことを予定した「回状」とよんでいる。
この手紙の草案は、エンゲルスが9月なかばに書きあげた。マルクスが保養の旅から帰ってきたあとで、9月17日に2人はこの草案をもう一度共同で審議し、手紙の最終の成文をつくった。
『回状』は、『コンムニスティッシェ・インテルナツィオナーレ』第12年号、上半期、ベルリン、1931年、1012―1024ページにはじめて発表された。

(98)  『リヒター年報』−『社会科学・社会政策年報』のこと。改良主義的傾向をもった雑誌で、1879年から1881年までカール・ヘヒベルク(ルートヴィヒ・リヒター博士という匿名で)によってチューリヒで発行されていた。

(99) 新たに創刊される党機関紙−『ゾツィアールデモクラート』のこと(注解一一八をも参照)。当時、この機関紙の発刊が準備されていた。

(100) 『ディー・ラテルネ』−ドイツの社会民主主義的な週刊風刺新聞。1878年12月から1879年6月まで、カール・ヒルシュの編集でブリュッセルで発行されていた。同紙は、とくに社会主義者取締法の当初に現われたドイツ社会民主党内の日和見主義的傾向を批判した。

(101)  『フライハイト』−1879年はじめにヨハン・モストによってロンドンで創刊され、おもに彼の手で編集されていたドイツ語の週刊新聞で、無政府主義的な性格をもっていた。『フライハイト』は、ロンドン(1879−1882年)、スイス(1882年)およびニューヨーク(1882−1908年)で発行されていた。マルクスとエンゲルスは、無政府主義的扇動の理由で、モストと彼の新聞をくりかえし批判した。

(102)  『フォールヴェルツ』−1876年のゴータ党大会以後のドイツ社会民主労働党の中央機関紙。1876年10月以後ライプツィヒで発行されていた。同紙は、1878年10月に、社会主義者取締法が採択された結果、停刊を余儀なくされた。

(103) これは、カール・ヘヒベルク、エドゥアルト・ベルンシュタイン、カール・シュラムが書いて、雑誌『社会科学・社会政策年報』第1年上半期号、チューリヒ−−オーバーシュトラース、1879年、75−−96ページに発表した、悪名高い三つ星論文のことである。

(104) 1848年3月18日−1848−1849年のプロイセンのブルジョア民主主義革命の発端であり、同時にその最頂点である。ベルリンの大衆集会とデモンストレーションを武力で解散させよという皇太子ヴィルヘルムの命令にたいする回答として、この日バリケード戦闘が起こった。

(105) 1873年の崩落−ドイツでいわゆる会社創立時代を終わらせた恐慌。
「会社設立者たち」(Grnder)とよばれたのは、1870−1871年の戦争後にフランスから獲得した賠償金をもとにして、1870年代に大がかりな投機によってのしあがってきたドイツの企業家たちのことである。

(106)  10月法−1878年10月にドイツ帝国国会を通過し、社会主義者取締法として労働運動史上にその名をとどめているドイツの社会主義的労働運動にたいする例外法のこと。

(107)  『ディー・ツークンフト』−改良主義的傾向をもったドイツの雑誌。1877年10月から1878年11月までベルリンで発行されていた。同紙の発行人はカール・ヘヒベルクであった。マルクスとエンゲルスは、党を改良主義の道に引き入れようと試みているという理由で、同誌を激しく批判した。
『ディー・ノイエ・ゲゼルシャフト』−改良主義的月刊雑誌。1877年10月から1880年3月まで、F・ヴィーデ博士によってチューリヒで発行されていた。