第8期第4課目マルクス『ゴータ綱領批判』(下)後半講義概要 講師 畑田 治 〔1〕後半講義にあたって強調したいこと●体制内労働運動との闘いは帝国主義打倒の闘いそのもの後半の講義の冒頭に2つのことを提起したい。ひとつは、体制内労働運動との党派闘争の死活性。革命的情勢の成熟過程の中で、労働者階級を体制内労働運動の影響から解き放ち、階級的労働運動の大きな流れをつくり出す闘いが、革命の成否を握っているということです。レーニンは『帝国主義論』第10章で「帝国主義との闘争は、それが日和見主義に対する闘争と不可分に結びついていないならば、ひとつの空疎で虚偽な空文句にすぎない」と言っている。 ●団結の究極の拡大が共産主義だ
第2に、「共産主義は労働者階級の団結した闘いの中にある」「団結の究極の拡大が革命であり、共産主義だ」ということ。 〔2〕『ゴータ綱領批判』の具体的中身(つづき)●土地所有と資本独占
ゴータ綱領草案は「今日の社会では、労働手段は資本家階級に独占されている。それによって生み出されている労働者階級の従属は、あらゆる形態の惨めさと隷属との原因」だと言う。 ●「国家援助の生産協同組合」論
ゴータ綱領草案は「ドイツ労働者党は、あらゆる合法的手段を用いて、自由な国家−および−社会主義社会を実現するために力を尽くす」と言う。 ●資本家に屈服する「公正な分配」論
マルクスはさらに、ゴータ綱領草案での「労働収益の公正な分配」論を批判する。 ●共産主義論の積極的展開
その上でマルクスは、「労働収益」をひとまず「労働生産物」という意味にとって、“共産主義社会では労働生産物をどのように分配するか”と、論を進める。 ●低次の共産主義―等量労働交換の原則 以上の控除の上で、労働者にたいする消費手段の分配が行われるが、その分配はどのような基準で行われるのか。今、問題にしているのは、たった今資本主義社会から生まれ出たばかりの共産主義社会です。この社会では、あらゆる点で旧社会の名残りをまだとどめている。 ●共産主義の高次段階―能力に応じて働き、必要に応じて受け取る 共産主義社会のより高度の段階になって初めて、各人は「その能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」ことができるようになる。 ●労働者階級が今直ちに主人公となって建設する共産主義
以上見てきたように、マルクスはゴータ綱領草案の「労働収益の公正な分配」論への批判を直接的契機としながら、相当突っ込んだ共産主義社会論を展開しています。ほかの論文にも見られない魅力的で独特の内容です。マルクスは何を強調したかったのか。 ●過渡期の国家=プロレタリア独裁
資本主義社会と共産主義社会のあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期には政治的な過渡期が対応しており、この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁です。プロレタリアートは自らの階級的力を国家権力に高めて、それを武器にして生産過程の計画的統制に着手し、ブルジョアジーを制圧し、資本主義から共産主義への移行を実現していく。 ●労働と人間の自由―労働時間の短縮
ここで、共産主義と「人間の自由・解放」について考えてみたい。 |
討論から●P 講師の方から、階級的労働運動というのは革命を目指す労働運動なんだということで端的に言われましたけど、まさにそういうことだと思うんです。僕が今回、前半と後半で学んだのは、革命というものは殻を破るようなもの、ある種簡単なものなんだ、資本主義自身が革命の条件を客体的にも主体的にも成熟させている。そういうマルクス主義の核心というか、骨格というか、そういうことを学んだ。そのことを、われわれの闘いの中にどう反映し、体制内労働運動との闘いの中で、どう路線的、思想的に活かしていくのかということが大切だと思う。 ●R 僕の問題意識から先に言っちゃうと、「障害者」の解放ということで、よくあるのは、マルクスは「障害者」のことを一切考えてない、という意見。僕の考えは、『ゴータ綱領批判』を見ると、あらかじめ「控除」ということを考えている。「障害者」だけじゃなくて、いわゆる社会的な労働能力、労働者の結合ということを考えていく上で、絶対に重要な問題として、あらかじめ考えるということで、「障害者」への考えがまったくない、ということじゃないとずっと考えてきたんです。 ●林 ここではまず、ラサールの「狭い了見」の展開である「公正な分配」論の決定的誤りを、マルクスは粉砕している。 ●N 講師から、「共産主義は労働者階級の団結した闘いの中にある。それを労働者階級が政治権力を握って、社会全体に広げるのが共産主義だ」という形で出されて、『俺たちは鉄路に生きる3』の、当局が何日でやれというのを、何人で何日でやったという幕張電車区の話を思い出した。社会的な総生産だとか、その分配だとか言う前に、労働者が職場と生産点を握っていく、つまり、この労働にはどれだけの人間のどれだけの労働が必要だということも含めて、労働者が職場を支配していくということが前提にないと、ひとつもいかないという問題があると思う。そう考えたときに、革命というのが、政治権力を取るという一面的な問題ではなく、その前提に労働者が職場を支配していくという考え方というのは、非常にリアリティがある。そういうことをとおして、一斉武装蜂起の主体をつくっていく。そういう意味で、この間の「団結の拡大が革命だ」というイメージが膨らんだということが一つ。 ●仲山 「控除」について、当時の問題意識とか議論とか、マルクスがそれを受けて書いたのか、という質問があった。『ゴータ綱領批判』というのは、『資本論』で資本主義社会をトータルにとらえて、それをひっくり返したわけです。労働者が社会全体を支配することを考えたら、今資本の搾取の結果、自分の利潤の追求のみを考えて結果として社会がかろうじて成り立っている、それを逆転して意識的・計画的に労働者はやる。団結して資本家をぶっ飛ばしたときには、全体として社会のことを考える。そしたら、個人的消費と生産の拡大とかどういう規模で生産するかということの間に、個人的消費でない社会的共同消費の部分も当然入る。それは病院とか学校だけじゃない。図書館、劇場、音楽文化施設とか、とにかく直接的生産部門ではない社会的な共同の部分というのはある。その部分は大きく増えるでしょう。それで最後に、文字通り個人的消費の部分はその後にくるんだというふうに原理がひっくり返る。だから、何か特別な問題意識じゃなくて、資本主義社会をひっくり返して、賃労働と資本の関係をひっくり返して、労働者が社会を運営する、全生産を握る、そこから、いわゆる「控除」は当然出てくる。 ●講師 レーニンの「帝国主義というのはプロレタリア社会主義革命の前夜である」「死滅しつつある資本主義」、「死滅しつつある」という時代認識を割り引くことなく確認して、われわれの闘いを考えるということがものすごく重要だと思うんです。革共同の6回大会報告の「20世紀の総括と21世紀革命の展望」は、本当にこの立場に立ってマルクス主義・レーニン主義があふれている。われわれが今の運動を闘っていくときに、原点になる時代認識、世界認識が出されています。だから、あらためてこれを徹底的に武装することを是非みなさんやってほしい。 |
受講レポートから ★『ゴータ綱領批判』(下)のレポートです。【G】
『ゴータ綱領批判』の中で、これまでの読み方より、さらに深まったと思います。 【S】
「労働者党」「左翼」を名乗っていても「体制内で生きる」ことを前提にする限り、腐敗し、労働者階級を地獄に引きずりこむ存在になってしまう。 【U】
『ゴータ綱領批判』は、社会主義について、「あ、そうか」と目の前が開けるような感激を受ける。同じような感激として、『資本論』でケネーの「経済表」の“練習問題”があった。実際に「社会主義」社会の運営を「やれるジャン」と思えるところからリアリズムとして示しているところにすごさがある。 【N】 ○11・4の勝利の地平を理論的・路線的にうち固めていくという問題意識に貫かれていて、非常によかったと思います。 【O】 1.マルクスの『ゴータ綱領批判』の後半の学習会でしたが、あらためてこの文献の重要性を感じました。マルクス=エンゲルスが『共産党宣言』−『資本論』で展開した理論と思想、それ以後、パリ・コミューンが闘いとられ、それ以後のヨーロッパでの階級闘争の問題が、共産主義論として全面的に展開されています。 【J】 一 資本主義から生まれ出たばかりの共産主義社会 【Z】 (1)『ゴータ綱領批判』もまた、マルクス主義の核心的文献である。 【F】
今回の核心は、われわれの眼前に共産主義革命の現実性があるということです。マルクス・エンゲルスが、ラサール派に対して展開した党内闘争は、結局、「労働者には自己解放の能力がない、だから革命などできないとお前らは言ってるだけじゃないか」ということに尽きると思います。ラサール派は、良心的なブルジョアジーの指導に服することが、労働者の勝利の道なのだということをまことしやかに言っていた。こういう所から革命党の腐敗は始まるわけです。今日のわれわれの解党主義者に対する闘いと非常に通ずるものがあります。 【V】
核心的には、「共産主義はわれわれが今直ちに闘いとるべきもの、共産主義は労働者階級の現実の闘いの中にある」ことをつかみきることだと思った。『ゴータ綱領批判』で展開されていることも、我々が現実の課題もまさに革命を現実のものとして生き生きととらえるか、彼岸化して日和見主義に転落するか、ここにあると思う。これは言葉で言えば簡単なことだが、とことんマルクス主義を貫くかどうかにかかっている。共産主義社会をどう考えるか、過渡期社会をどう考えるかも、本気で現実の課題として革命を考えているかどうかで全く違ってくる。その点で、共産主義社会建設は、まず第1段階をめざせばいいのではなく、高次段階を展望しつつ闘うという提起は、なるほどと思った。この意識性が重要なのだと思う。 【R】
『ゴータ綱領批判』で、ラサールの「労働収益の公正な分配」論を批判する中、マルクスは、控除の問題を徹底的に展開している。これは『資本論』のひっくり返しであると同時に、まさに、労働者が、たった今から、資本家ぬきに社会を動かし、社会的生産を担っていくという信条に貫かれた論の展開であることがわかった。「控除」は当たり前のことだが、「当たり前」と言い切れる運動こそが、我々の11・4で開始されている「労働者に権力をよこせ!」という運動であると思う。 【I】
11・4の興奮と高揚感がおさまらない中での、11・4と階級的労働運動(路線)についての「マルクスの言葉」による提起でもあったと思います。「この道を行く」ことに、あらためて深い確信を得た思いがしました。 【X】 1)『ゴータ綱領批判』を学習するにあたって念頭にあるのは、「それでは君達は、どういう社会を実現しようとしているのかね?」という質問にたいする回答である。この質問にたいする回答には、どうしても未来社会論としての共産主義社会論を語らなければならない。これは「共産主義とは何か?」という質問に対する回答と同じであるが、しかしやはり若干ちがう。「共産主義社会の経済的システムは?」という傾きの質問だといえる。 【P】
討論で話した内容と同じこともあるのですが、改めて書かせてもらいたいと思います。 |
訂正 前号(2007年11月号)5ページ、左側の段の上から21行目の「兄弟組合」を「共済協会等」に訂正します。(*ホームページでは修正済み) |
「党学校通信GAKKOU」2007年12月号付録 〈第8期党学校『ゴータ綱領批判』(下)学習資料〉 マルクス・エンゲルスによるベーベル、リープクネヒト、ブラッケその他への1879年の回状 (97)(マルクス=エンゲルス全集第19巻p153〜170)この『1879年の回状』は、社会主義者取締法が出た前後の時期のドイツ社会主義労働者党の状態とそれにたいするマルクス・エンゲルスのかかわりを示すものとして重要である。ラサール主義的なものをどこにむかってどのように突破していくかをめぐる党内闘争の実状が垣間見られる。具体的には、社会主義者取締法のもとで、新しい党機関紙を創刊するにあたって党はどのような立場にたつべきかということが問題になっているが、それをこえた党組織論の本質的問題が提起されている。前半部はゴチャゴチャして読みづらいが、ぜひ後半まで読み進んで欲しい。 (党学校事務局) |
親愛なべーベル!
* ディーツ版全集第19巻では、8月29日付、となっているが、同全集、第34巻所載のテキスト、およびべーベルの自伝『わが生涯から』の記述によって訂正。 私からリープクネヒトに送った最近の手紙を、彼はあなたに見せなかったのだと推断しないわけにはいかない。私は彼にはっきりと、そうするように頼んでおいたのだが。でなかったら、リープクネヒトがまえにもちだしてきて、私が前記の手紙(*)ですでに答えておいたものと同じ理由を、あなたがまたもやもちだしてくるはずがないからである。 それでは、ここで問題になっている各論点を調べてみよう。 一 C・ヒルシュとの会談リープクネヒトがヒルシュに、チューリッヒで新たに創刊される党機関紙(99)の編集を引きうけるつもりはないかどうか、問い合わせる。ヒルシュは、新聞の資金事情を、つまり、どれだけの資金が利用でき、まただれがその資金を出すのかを知らせてほしい、と言う。まえの質問は、新聞が2、3ヵ月ではやくも店じまいを余儀なくされるようなことがないかどうかを知るためだし、あとの質問は、だれが財布の紐をにぎっており、したがってまた新聞の立場についての終局の命令権をにぎっているかを確かめるためである。リープクネヒトがヒルシュにあてて書いた「万事はちゃんとととのっており、もっと詳しいことはチューリヒから知らせるはずだ」(リープクネヒトからヒルシュへ、7月28日付)という返事がまだ届かないうちに、チューリヒから、ベルンシュタインの手紙がヒルシュのところに届く(7月24日付)。そのなかでベルンシュタインは、「(新聞の)発行の業務と管理はわれわれにまかせられた」と知らせる。「フィールエックとわれわれ」とで協議したさいに、
資金事情についてはひとことも述べていない。
おりかえし、なるべく電報で返事をもらいたい、と言う。 * ライプツィヒは、非合法下のドイツ社会民主党の実質上の指導部である中央援助委員会の所在地であった。 そのあいだに、リープクネヒトから7月28日付の手紙でヒルシュにこう知らせてくる。
リープクネヒトのその次の手紙も、資金事情についてはなにも書いておらず、そのかわりに、チューリヒ委員会は編集委員会ではなく、たんに運営と財政事務をまかされているだけだ、と断言する。8月14日になってさえ、リープクネヒトは、私あての手紙でこれと同じことを書き、われわれの手でヒルシュを説きつけて引きうけさせてくれ、と頼んでいる。あなた自身、8月29日になってさえ、まだ真の事態をほとんど知っておらず、私に手紙でこう書いてきたほどである。
ついにヒルシュは、8月11日付でフィールエックから次のような告白をふくむ手紙を受け取る。
ここでヒルシュはついに、たとえチューリヒ組にたいする編集者の立場についてだけにせよ、すくなくともいくらか明確なことを知ったわけである。チューリヒ組は編集委員会であり、彼らは政治的責任をも負っており、彼らの協力を得ずに編集の仕事を引きうけることは不可能なのである。要するに、ヒルシュは、チューリヒの3人の了解を取りつけよという、単刀直入な指示を受けたのである。それでも、その3人の名まえは依然として彼に知らされない。
チューリヒ委員会の3人の委員とライプツィヒ委員会の1人の委員−−この委員会から打ち合わせの会議に出席したただ1人の委員が、ヒルシュはチューリヒ組の公式の指揮のもとにおかれるはずだ、と主張し、ライプツィヒ委員会のもう1人の委員は、それをきっぱり否認する。それなのに、ヒルシュは、この諸君がたがいに意見の一致に達するのを待たないで、自分の進退を決しなければならないのか? 採択された決定−−彼がそれへの服従を要求されている諸条件をきめている決定−−を知ることはヒルシュの権利だとは、だれも考えなかった。ライプツィヒの同志諸君は、この決定の内容を自分で正確に知ろうと思いついたことさえないように見えるくらいだから、そういうことはなおさら論外であった。そうでなかったなら、どうして前述したような食いちがいが起こるわけがあろうか?
ヒルシュの右の言明をふくむといわれるベルンシュタインあての手紙は、チューリヒの3人組の全権が確認されたチューリヒ会議よりもずっとあとの、7月26日付になっている。しかし、チューリヒ組は、自分たちの官僚的な全能権力の意識にすでにすっかり酔ってしまっているので、ヒルシュのこのあとからの手紙を根拠にして、すでに論説の採用を決定する新しい権能までも要求するのである。編集委員会は、はやくも検閲委員会になった。 * 「ヘヒベルクから」ということばは、鉛筆で書きくわえられている。 二 新聞の予定された立場 7月24日に、はやくもベルンシュタインはヒルシュにこう知らせる。彼が『ラテルネ』の編集者として何人かの同志と不和をきたしたことは、彼の立場を困難にするであろう、と。
これにたいして、ベルンシュタインは、検閲官という自分の新しい公式の顕職を意識して、こう答える。
等々、等々。リープクネヒトはカイザー攻撃を「大失策」とよんでいるし、またシュラムはこれをはなはだしく危険なものだと考えるところから、さっそくヒルシュにたいして検閲を施行するのである。
フィールエックもまた手紙にこう書く。新しい新聞には、
新しい新聞は、「『ラテルネ』の拡大版」であってはならない。また、ベルンシュタインにたいして
ところで、このカイザー事件とはなんであろうか、またヒルシュがおかしたといわれるこの許しえない犯罪とはなんであろうか? カイザーは、帝国議会で、社会民主党の代議士中でただひとり、保護関税に賛成の演説をおこない、賛成の投票をする。ヒルシュは、カイザーが左の点で党規律に違反したと言って、彼を非難する。すなわち、
たしかに、大失策はおかされた。だが、それは、ヒルシュによっておかされたのではなく、自分たちの決定によってカイザーをかばった代議士たちによっておかされたのである。だれよりもさきに党規律の維持に心をくばる立場にある者が、こういう決定によって自分からこの党規律をあからさまに破るとすれば、事はいっそう悪質である。だが、カイザーがその演説と投票によって、そして他の代議士たちがその決定によって党規律を破ったのではなく、ヒルシュがこの決定−−おまけに彼の知らない決定−−にさからってカイザーを攻撃することで党規律を破ったのだと考えるほどに、連中がのぼせあがるとすれば、事態はいよいよ悪質である。 三 チューリヒの三人組の宣言 そうこうしているうちにわれわれの手もとにヘヒベルクの『年報』が届いたが、それには『ドイツの社会主義運動の回顧』という論文(103)がのっている。ヘヒベルク自身が私に語ったところでは、この論文はほかならぬチューリヒ委員会の3委員の筆になるものだという。ここに見るものは、従来の運動にたいする彼らの正式の批判であり、同時に、新しい機関紙の立場が彼らの考えできまるかぎりで、この機関紙の立場についての彼らの正式の綱領である。
歴史的に見てはたしてそうなのか、またどの程度までそうなのかということは、いまは検討しないことにしよう。ここでシュヴァイツァーがとくに非難されている点は、シュヴァイツァーがラサール主義−−それは、ここではブルジョア民主主義的=博愛主義的運動と解されている−−を浅薄化して、工業労働者の利益のための一面的な闘争にしてしまったということであって、それというのも、彼がブルジョアジーにたいする工業労働者の階級闘争としてのこの運動の性格を深めたからだ、というのである。(*)次に、シュヴァイツァーが非難されている点は、彼が「ブルジョア民主主義派を拒否した」ということである。ブルジョア民主主義派が社会民主党のなかでいったいなにをするのか? もし彼らが「正直者」からなりたっているなら、入党したいなどと希望するはずはまったくないし、それにもかかわらず彼らが入党を希望するとすれば、それは争いを引きおこすことを目的とするものでしかない。
ラサール党は「最も一面的な仕方で労働者党としてふるまうほうを選んだ。」こういうことを書いている諸君が、彼ら自身、最も一面的な仕方で労働者党としてふるまっている党の党員であり、現在この党のなかで役職についているのだ。これは絶対的にあいいれない事柄である。もし彼らが自分で書いているとおりに考えているなら、彼らは党から脱退すべきであり、すくなくともその役職から辞任すべきである。彼らがそうしないとすれば、彼らは、党のプロレタリア的な性格とたたかうために自分の職務上の地位を利用するつもりでいることを、それによって告白することになる。だから、党が彼らをその役職にとどめておくのは、自分自身を裏切るものである。 だから、ブルジョアを選出せよ! 要するに、労働者階級は自力で自分を解放する能力をもっていない。このためには、労働者階級は「教養ある、有産の」ブルジョアの指導に服さなければならない。労働者のためになる事柄を研究する「機会と時間をもっている」のは、彼らだけだからである。第二には、ブルジョアジーとはけっしてたたかってはならず、精力的な宣伝によって彼らを−獲得しなければならない。 だが、社会の上層を、あるいはせめてその善意の分子だけでも獲得しようと思えば、だんじて彼らを恐れさせてはならない。この点で、チューリヒの3人組は慰めになる一事実を発見したと考える。
だから、社会民主党に投票した50万ないし60万の選挙人、すなわち選挙人総数の10分の1ないし8分の1にすぎず、そのうえ国中に散らばっているこの人々が、頭で壁にぶつかっていったり、1対10で「流血の革命」を企てたりしないだけの分別をもっているというと、そのことは、彼らが、対外的な大事件や、その結果引きおこされた突然の革命的高潮や、それどころか、この高潮から生じた衝突のなかでたたかいとられた人民の勝利を利用することを、未来永劫にわたっても自分に禁じたということの証明になるのである! ベルリンがいつかふたたび3月18日(104)をやるほどに無教養になったときには、社会民主主義者は、「バリケード熱に駆られたルンペン」(88ページ)として闘争に参加することなく、むしろ「合法性の道を歩んで」、なだめすかし、バリケードをとりはらわなければならず、必要とあれば、光栄ある軍隊とともに一面的な、粗野な、無教養な大衆に向かって進撃しなければならないのだ。それとも、この諸君が、そんなことを言うつもりではなかった、と主張するとすれば、それなら彼らはいったいなにを言うつもりだったのか?
ブルジョアジーの不安をあとかたもなくぬぐいさるために、赤い妖怪はほんとうに妖怪にすぎず、実在してはいないことを、彼らにはっきりと、納得のいくように証明して見せなければならない。だが、赤い妖怪の秘密は、ブルジョアジーとプロレタリアートとのあいだの、起こらずにはすまぬ生死をかけた闘争にたいするブルジョアジーの不安でなくてなんであろうか? 現代の階級闘争の避けようのない決着にたいする不安でなくてなんであろうか? 階級闘争をなくすがよい。そうすれば、ブルジョアジーと「すべての独立的な人々」は、「プロレタリアと手に手をたずさえてすすむことを恐れない」であろう! だが、そのときにだまされるのは、ほかならぬプロレタリアであろう。
そうすれば、「現在遠大な諸要求に……恐れをなしている」ブルジョアや小ブルジョアや労働者も、群をなしてわれわれの味方となるであろう。
以上がチューリヒの3人の検閲官の綱領である。これは申し分なく明瞭である。1848年以来こういうきまり文句をのこらず知りぬいているわれわれには、なおさら明瞭である。これは、プロレタリアートが自己の革命的な地位に駆られて「ゆきすぎをやる」かもしれないという不安でいっぱいになった小ブルジョアジーの代表者が、その本音を吐いたものである。断固たる政治的反対ではなくて−−全般的な和解、政府やブルジョアジーとの闘争ではなくて−−彼らをくどき説きつけようとする試み、上からの迫害にたいするミ然たる抵抗ではなくて−−へりくだった屈従と、罰せられたのは自分たちの自業自得だという告白。歴史的に必然的な衝突はすべて誤解だったことに解釈しなおされ、あらゆる討論は、根本的にはわれわれはみな同じ意見なのだという断言でおしまいになる。1848年にブルジョア民主主義者として登場した連中は、いまなら社会民主主義者と名のってもよいことになる。前者にとって民主的共和制が到達できない遠いところにあったように、後者にとって資本主義制度の倒壊は到達できない遠いところにあり、したがって、現在の政治的実践にとっては絶対になんの意味ももっていない。そこで、彼らは思うぞんぶん仲裁し、妥協し、博愛を衆に及ぼしてよいことになる。プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争についても、まったく同様である。紙の上では彼らはこの闘争を承認する。というのは、もはやそれを否定するわけにはいかないからである。だが、実践ではこの闘争はもみけされ、ぼかされ、弱められる。社会民主党は労働者党であってはならず、ブルジョアジーの、いや一般にだれかの憎悪をまねいてはならない。党は、なによりもまずブルジョアジーのあいだで精力的な宣伝をやらなければならない。ブルジョアを恐れさせるうえに、現世代の生きているあいだには到達できない遠大な目標を重視するのをやめて、むしろ古い社会制度に新しいつっかえ棒をあてがうような、それによっておそらく終局の破局を、徐々に、なしくずしに、可能なかぎり平和的におこなわれる分解過程に変えるであろうような、小ブルジョア的つぎはぎ改良に、党の全力、全精力をそそがなければならない、というのだ。これは、いそがしく働いているように見せかけながら、自分ではなにもしないばかりか、およそ−−おしゃべり以外のなにかがなされるのを阻止しようとするあの同じ連中である。1848年と1849年にいっさいの行為を恐れるあまり、運動を一歩ごとに妨げて、ついにはそれを没落させてしまったあの同じ連中である。反動派の存在をだんじて見ようとせず、ついに抵抗もできず逃げることもかなわない袋小路にはいりこんでしまってから、びっくり仰天するあの同じ連中である。自分の狭い俗物的な視野のなかに歴史を閉じこめようとするが、いつでも歴史にとり残されるあの同じ連中である。 これまでの支配階級の出身者もまた、戦闘的なプロレタリアートの味方となって、これに教養の要素を供給するということは、発展過程のうちに基礎をもつ不可避的な現象である。これは、われわれがすでに『宣言』のなかではっきり述べたことである(*)。しかし、そのさい次の2つの点に注意をはらわなければならない。 第一に、プロレタリア運動の役に立つためには、この人々はやはりほんとうの教養の要素をもちこんでこなければならない。だが、ドイツの大多数のブルジョア的改宗者たちについては、そういうことは言えない。『ツークンフト』も『ノイエ・ゲゼルシャフト』(107)も、運動を一歩でも前進させるようなものをなにひとつもたらさなかった。そこには、実際的なものであろうが、理論的なものであろうが、ほんとうの教養材料はまったく存在しない。そのかわりに、そこにあるのは、上っつらだけ取りいれた社会主義思想と、これらの諸君が大学やら、ほかのいろいろなところからもちこんできた種々さまざまな理論的立場とを調和させようとする試みである。それらの理論的立場は、現在ドイツ哲学の残存物がたどっている分解過程のおかげで、いよいよ出でていよいよ混乱したものとなっている。だれもかれも、まずはじめにこの新しい科学〔社会主義〕を自分で根本的に研究しようとはしないで、むしろ自分がもちこんできた立場に合わせてこの科学を仕立てなおし、自家製の科学をむぞうさにつくりあげて、それから、それを他人に教えようというおこがましい望みをもって、さっそく乗りだしてくるのであった。だから、これらの諸君のあいだには、人間の数とほとんど同じ数の立場がある。彼らは、なんらかの問題に明瞭さをもたらすのではなくて、はなはだしい混乱を引きおこしただけであった。−−幸いなことに、混乱は、ほとんど彼ら自身の仲間のあいだに起こっただけであったが。自分の学ばなかったことを他人に教えることを第一の原理とする、このような教養の要素をもたないでも、党は十分にやっていける。 1879年9月17−18日に執筆 〔注解〕 (97) 1879年9月17日−18日付のマルクスとエンゲルスの『回状』は、党内資料の性格をもっている。これは、この回状の内容と、またこの回状についてのマルクスとエンゲルス自身の言明とが証明しているところである。1879年9月19日付のゾルゲにあてた手紙のなかで、マルクスは、この文書のことを「ドイツの党指導者のあいだで内輪で回覧する」ことを予定した「回状」とよんでいる。 (98) 『リヒター年報』−『社会科学・社会政策年報』のこと。改良主義的傾向をもった雑誌で、1879年から1881年までカール・ヘヒベルク(ルートヴィヒ・リヒター博士という匿名で)によってチューリヒで発行されていた。 (99) 新たに創刊される党機関紙−『ゾツィアールデモクラート』のこと(注解一一八をも参照)。当時、この機関紙の発刊が準備されていた。 (100) 『ディー・ラテルネ』−ドイツの社会民主主義的な週刊風刺新聞。1878年12月から1879年6月まで、カール・ヒルシュの編集でブリュッセルで発行されていた。同紙は、とくに社会主義者取締法の当初に現われたドイツ社会民主党内の日和見主義的傾向を批判した。 (101) 『フライハイト』−1879年はじめにヨハン・モストによってロンドンで創刊され、おもに彼の手で編集されていたドイツ語の週刊新聞で、無政府主義的な性格をもっていた。『フライハイト』は、ロンドン(1879−1882年)、スイス(1882年)およびニューヨーク(1882−1908年)で発行されていた。マルクスとエンゲルスは、無政府主義的扇動の理由で、モストと彼の新聞をくりかえし批判した。 (102) 『フォールヴェルツ』−1876年のゴータ党大会以後のドイツ社会民主労働党の中央機関紙。1876年10月以後ライプツィヒで発行されていた。同紙は、1878年10月に、社会主義者取締法が採択された結果、停刊を余儀なくされた。 (103) これは、カール・ヘヒベルク、エドゥアルト・ベルンシュタイン、カール・シュラムが書いて、雑誌『社会科学・社会政策年報』第1年上半期号、チューリヒ−−オーバーシュトラース、1879年、75−−96ページに発表した、悪名高い三つ星論文のことである。 (104) 1848年3月18日−1848−1849年のプロイセンのブルジョア民主主義革命の発端であり、同時にその最頂点である。ベルリンの大衆集会とデモンストレーションを武力で解散させよという皇太子ヴィルヘルムの命令にたいする回答として、この日バリケード戦闘が起こった。 (105) 1873年の崩落−ドイツでいわゆる会社創立時代を終わらせた恐慌。 (106) 10月法−1878年10月にドイツ帝国国会を通過し、社会主義者取締法として労働運動史上にその名をとどめているドイツの社会主義的労働運動にたいする例外法のこと。 (107) 『ディー・ツークンフト』−改良主義的傾向をもったドイツの雑誌。1877年10月から1878年11月までベルリンで発行されていた。同紙の発行人はカール・ヘヒベルクであった。マルクスとエンゲルスは、党を改良主義の道に引き入れようと試みているという理由で、同誌を激しく批判した。 |