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2007年11月号党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『ゴータ綱領批判』(上)

講義概要 P1-4

★-ドイツ社民党と「自由労働組合」 P5
討論から…P6-9

受講レポート P9-16

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-4講義概要

第8期第4課目 マルクス『ゴータ綱領批判』(上)

前半講義概要   講師 畑田 治

〔1〕 『ゴータ綱領批判』の歴史的背景

 『ゴータ綱領批判』は1875年に、マルクス(在ロンドン)がドイツの社会主義労働者党(アイゼナッハ派)の指導部にあてて送った手紙です。当時、アイゼナッハ派はラサール派と合同しようとしていた。合同の直前に初めて綱領草案を見て、「こんなのはダメだ」とリープクネヒトらに批判の手紙を送った。しかし、ほとんど受け入れられず、手紙はエンゲルスが1891年に公表するまで、16年間も隠され続けた。
 マルクス・エンゲルスの怒りと危機感はどのようなものだったか。
 1871年のパリ・コミューンは、世界史上初の労働者権力の樹立として闘いぬかれた。『共産党宣言』で宣言したことが現実のものとなり、世界のブルジョアジーに衝撃を与えた。その革命的意義と限界を総括し、教訓化して、世界革命に向かってプロレタリアートの隊列を再形成していくことが、この段階の革命党、労働者党の課題だった。
 ところが、そういった問題意識とはまったく無関係に、アイゼナッハ派よりも圧倒的に後退した内容でラサール派に妥協し、合同をやろうとしている。こんな合同は、なんのプラスにもならない、絶対にやめるべきだ、というのが2人の怒りだった。
 しかし、そういう声を踏みにじって、合同は行われた。エンゲルスは「こんな合同は長続きしない」と言ったが、ドイツ社会主義労働者党はその後、分裂もせずに大きくなってゆき、翌76年には早くも党員4万、機関紙読者13万人を数えた。労働者階級が独自の党を求めていたのです。
 ビスマルクの社会主義者取締法(1878−90年)の弾圧に対しても、労働者党員は断固対決して党を守り、拡大していく。しかし、その中身は労働者階級が求めるプロレタリア革命の要求に、真に応える内容ではなかった。
 1890年、皇帝ウィルヘルム1世が死去し、ビスマルクも失脚。社会主義者取締法は廃止される。これを契機に社会主義労働者党はハレ大会(1890年)で「ドイツ社会民主党」と改名し、綱領の改定を決定。翌91年の大会で採択されたのがエルフルト綱領です。
 すでにマルクスが1883年に死去している中で、エンゲルスは、合法主義と日和見主義が社会民主党の中に非常に強力に根を張りつつあることを心配し、『エルフルト綱領批判』を記して次のように警鐘を鳴らします。
 「社会民主党の大部分の新聞には日和見主義が根を張っている」「彼らは『今日の社会は社会主義へと成長・移行していく』と自分にも、党にも言い聞かせようとしているが、……この古い殻を力ずくでうち砕かなければならないのではないかとは自問してもみない」
 資本主義の自動崩壊を待っているだけのカウツキー主義の裏切りが、ここで批判されている。
 エンゲルスはこの時点で、社民党幹部が16年間も隠し続けてきたマルクスの『ゴータ綱領批判』を公表し、“革命の原点に返れ”と強く訴えた。
 その後、ドイツ社民党はヨーロッパ最大の「マルクス主義政党」に「成長」し、第2インターナショナル(1889年結成)の中心勢力となりますが、内実はプロレタリア革命の否定であり、ドイツの帝国主義的発展に完全に思想的に屈服し協力していく。第1次世界大戦(1914−18年)では、政府の軍事予算に賛成し帝国主義戦争に協力し、1918年のドイツ革命では、社民党から入閣した内相ノスケがローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトの虐殺を指示するなど、許し難い反革命に転落します。

〔2〕『ゴータ綱領批判』から何を学ぶか

 『ゴータ綱領批判』は、1950−60年代に革命的共産主義運動が、スターリン主義と対決して真のマルクス主義を復権していった時の重要な導きの糸。スターリン主義の「平和共存戦略」「一国社会主義」論を世界革命への裏切りとして弾劾し、マルクス世界革命論、共産主義論を現代に復権させる闘いの過程で、活動家がむさぼり読んだ。
 歴史をたどれば、レーニンも第2インターの腐敗と対決して、ロシア革命を実際にやり遂げるために熟読しました。その成果は『国家と革命』に著されている。このように『ゴータ綱領批判』は歴史の岐路で重要な役割を果たしてきたのです。

●労働者階級をどう位置づけるか

 マルクスが「ゴータ綱領草案」をみて、「これは違う! こんなのは労働者党の綱領ではない!」と叫んだ核心点はなんだったのか。
 それは、労働者階級を階級社会を廃絶する革命的階級とみるのか、それとも、みじめでうちひしがれている「救済の対象」とみるのか−この決定的違いです。前者がマルクス、エンゲルス、レーニン、革共同の立場であり、後者がゴータ綱領草案の立場だ。
 労働者階級は、最後の階級社会としての資本主義を転覆し、階級社会の歴史を終わらせることを使命とする革命的階級。資本主義の中で、このような階級が生まれてきた。
 ところが、ゴータ綱領草案では、こうした視点がまったく弱い。ないと言うべき。それは、「国家援助の生産協同組合の設立を要求」「労働者階級を保護するために」などの文言に示されている。
 もともとラサール派の「社会主義」は、国家の手による労働者の救済を中心としたもので、労働者階級自己解放の思想ではない。アイゼナッハ派もこの点は、まったくあいまいだった。だから、ゴータ綱領草案には労働者の職場闘争、労働組合の位置づけもない。エンゲルスは、「労働組合によって労働者階級を階級として組織することについて、まったく一語も述べていません」と批判している。
 私たちは、このマルクスの『ゴータ綱領批判』の中から、労働者階級の歴史的位置(使命)と労働者階級自己解放闘争の原点をしっかりとつかむことが必要です。

●リアルな共産主義

 それからもう一点、『ゴータ綱領批判』から読みとるべきことは、労働者自身が闘いとる「リアルな共産主義」論です。
 共産主義は、遠い将来の雲をつかむような話ではなく、現実に闘いとるべきもの。共産主義の基礎的条件は、圧倒的に資本主義の中につくり出されている。問題は、労働者階級がそのことを確信し、ブルジョアジーにとって代わって支配権力の獲得へ大胆に踏み出すことだ。マルクスが、「われわれが共産主義と呼ぶのは、今の状態を廃棄するところの現実的な運動」(『ドイツ・イデオロギー』)、「共産主義者の理論的命題は、……われわれの眼前で起きている歴史的な運動の本当の諸関係を一般的に表現したもの」(『共産党宣言』)、「プロレタリアートはなんらかの理想を実現するものではなく、崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものがはらんでいる新しい社会の諸要素を解き放つのである」(『フランスの内乱』)と言っていることの真の意味を、正しくつかみたい。『資本論』執筆の成果の上に書かれている『ゴータ綱領批判』は、その点で、共産主義とはどのようなものかの核心的な手がかりを与えてくれます。

〔3〕『ゴータ綱領批判』の具体的中身

●労働と自然、資本主義のもとでの労働の特性

 マルクスはまず、綱領草案の冒頭の言葉「労働はすべての富とすべての文化の源泉である」を批判する。すなわち、「労働だけがすべての富の源泉なのではない。自然もまた労働と同じように、使用価値の源泉である」と。
 これはまず唯物史観の基本を確認している。人間労働は自然素材または(すでに加工された自然素材としてある)労働手段や労働対象と結合することによって、初めて成り立つ。『資本論』では「労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティが言っているように、労働は素材的富の父であり、土地はその母である」と言っています。
 その上でなおマルクスは、「ブルジョアが、労働には超自然的な創造力が備わっていると言い立てるのには、それだけの理由がある」と指摘し、なぜならば「生産手段を独占しているが、彼ら(資本家)には労働力がないからだ」と核心点を突く。資本家がどんなに多くの生産手段を持っていても、それが生きた労働者と結合しなければ、剰余価値を搾取することはできない。
 だから「労働」一般を超階級的に論ずるのでは、資本家の搾取を擁護することにしかならない。問題は、階級的に立てなければならない。プロレタリアートにとって、「労働はすべての富と文化の源泉」と言えるのか? まったく違う。
 「労働が自然に制約されている結果として、自分の労働力以外になんの財産も持たない人間は、どんな社会的・文化的状態においても、客体的労働条件の所有者となった他の人間の奴隷となるしかない」「自分の労働力以外になんの財産も持たない人間は、客体的労働条件の所有者となった他の人間が許可したときだけしか働くことができない。つまり、彼らがいいと認めたときだけしか生存することができない」
 −これがプロレタリアートの現実ではないか!
 以上をふまえ、マルクスは、「草案」に対して、以下の文章を対置する。
 「労働はすべての富の源泉であり……。したがって、自分で労働しない者は、他人の労働によって生活しているのであり、その文化もまた、他人の労働の犠牲の上に成り立ったものなのである」「労働が社会的に発展し、それによって富と文化の源泉となるにつれて、労働者の側の貧困と荒廃、非労働者の側の富と文化が発展する」「これが、今までの全歴史の法則である」
 さらにマルクスは続けて、「『労働』とか『社会』とかについて一般的な決まり文句を並べ立てるよりも、……《ついに現在の資本主義社会の中で、このような歴史的災厄をうち破る能力を労働者に与え、またうち破らざるをえないようにする物質的その他の諸条件がどのように生み出されてきたか》」を綱領で示すことが必要なのだと述べている。
 『共産党宣言』では、「工業の進歩は……競争による労働者の孤立化ではなく、組織による労働者の革命的団結をもたらす。こうして大工業の発展とともに、ブルジョアジーの足元から、彼らが生産し、その生産物を所得していた土台そのものが取り払われる。ブルジョアジーは何よりも、自分たち自身の墓掘り人を生み出す。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」(第1章)と述べている。マルクスは、この『共産党宣言』を念頭において、労働者階級の歴史的使命、階級的団結の必然性、労働者階級自己解放闘争の勝利の展望を、綱領にしっかりと明記することを求めたのです。   (前半講義了)

党学校通信 p5

ドイツ社会民主党と「自由労働組合」 −討論から−

●講師

 ドイツ社民党の百何十万党員の中心的部分は、「自由労働組合」の労働者党員だった(1890年代以後)。

●Z

 今われわれが党の分裂をかけてでも、絶対に体制内労働運動と決別しきらなかったら、ドイツ革命の敗北の二の舞だという切実な問題があるわけだよね。党と労働組合、労働組合と党。そのパラレルな関係の中で見ていく視点が必要だと思う。要するに「自由労働組合」、今日のドイツ総同盟なんですけども、レギンという奴が創立から1920年まで独裁している。1890年に社会主義者取締法が廃止されて、ドイツの党は公然化する。踵を接して、労働組合の方も、92年に自由労働組合の全国創立大会をやる。それまで労働組合もずっとあったんだけど、ビスマルクの社会主義者取締法下、全国組織は認められない。したがって、全国組織は解体して、共済協会等という形態をとっていた。92年に自由労働組合の創立大会でレギンが親分になり全国組織になる。その時にレギンは、「現在の社会を変革する闘争ではなく、現在の社会の枠内で、労働者の利益を増大させるために行う経済闘争のみが、組合の固有の活動分野である」、と主張する。最初から現在の松崎(JR総連)みたいな、マルクス主義と無縁の主張。要するに体制に触らない、社会の変革を求めない、経済闘争のみ、扇動なんてやつはとんでもない、集会も闘争もダメ、組織、組織、組織。これがレギンの自由労働組合の根本思想。
 強大なドイツ社民党、それを支えた自由労働組合、その思想的バックボーンと実態は何か。要するに、体制内労働運動そのもの。体制内左翼そのもの。まさに帝国主義労働運動。べーベルとか、リープクネヒトというのは、非合法時代をくぐり抜けてきた闘士なんだけど、現場の闘いとまったく切断されていて、本当に“議員さん”なんだな。この連中が修正主義がどうのという空中戦的論議をしている。現場では、レギンの思想で固められたビスマルク時代の弾圧など知らない30代の若手組合活動家が党と組合を牛耳っている。
 ロシアの1905年革命を援助するためにゼネストをやるべきだという論議にたいして、レギンが社民党幹部と秘密協定を結んで、とにかく自由労働組合との打ち合わせなしに絶対にゼネストはやらないという密約を取り交わす。労働組合がたがをはめるんだよ。ローザ・ルクセンブルクとかカール・リープクネヒトとか革命的オプロイテは、何と闘わなきゃいけなかったのか。ドイツ社民党というすさまじい官僚的党組織だけでなく、自由労働組合という体制内労働運動(帝国主義労働運動)、これにたいしてローザは扇動、集会、ゼネストという方向から突破を試みるんだけど、結局虐殺されて終わる。だけど、ここで教訓化するべきは、やっぱり組織ですよ。レギンが言っているのとは逆の意味で、労働組合の中にどう勢力をつくるかということが本当に生命線だ、それが血の出る教訓。

党学校通信 p6-9

討論から

●F

 今日の提起は、今の党の革命をもって「労働運動の力で11・4集会1万人結集を実現しよう」ということに完全に即した提起であったと思います。僕も、党が階級を指導する、党が労働組合を指導する、そういう考え方でずっと来てたけど、それは根本的に違う。党が労働組合を組織して、労働者を組織する。その階級性の中に完全に依拠して闘いぬく。労働組合の中に未来の共産主義社会のソビエトの形態を完全に見いだして闘うんだ、そういう立場に立たなきゃ絶対に革命にも勝利できないんだということが、今日ははっきりしたと思います。
 世界最大の「マルクス主義」の党であったドイツ社民党が、なんでナチスの反革命によって血の海に沈められたのか。われわれも今現在の問題として、日常的な活動の中でつくられた党の体質、激突回避の体質化、党組織の官僚化が昨年の「党の革命」以降、われわれ自身の中にもあったことがはっきりさせられた。資本・権力と折り合いをつける活動の体質化との決別が、われわれ自身に問われている。その立場から、動労千葉の労働運動を学びとっていくことが、われわれ自身に問われていると感じました。

●W

 今日の提起で、当時のドイツの党内闘争のやり合いの過程がかなりリアルに具体的な事実が出されて、結構ビックリした。結局マルクスが『ゴータ綱領批判』を出して、それは完全に隠ぺいされてそれで終わり。マルクスは、外交的沈黙というか、あるいは私信において完全な局外者で何の関係もないという声明を発表します、と言っているだけで実際出しもしない。エンゲルスは、16年経ってマルクスの『ゴータ綱領批判』の手紙を隠したのはドイツ社民党指導部だと言っている。党内闘争的には完敗ですよ、はっきり言って。本当にそれを生命線かけてやり合いしたのか疑問です、マルクスとエンゲルスちょっと問題があるんじゃないか。それ以降も結構ドイツ社民党は、帝国議会で躍進したり、それから弾圧されたりとか、激しい激突の過程というのはあるわけですけど、そこに本当に主体的にかかわっているようにも見えない。こういうことを、どう総括し、乗り越えていくかというテーマはあるんじゃないか。
 例えば、レーニンなんかが経済主義者との闘いという場合、『なにをなすべきか』一つとっても、ゴリゴリとあれだけ膨大なものを全党員に配って読ませた。党内闘争を本気で勝つというのは、そういう姿勢以外ないと思う。解説本の最後の新訳で30ページくらいのものをポッと指導部に出して、隠ぺいされてそのまま死んだり、“グチ”を言っているというのでは、やっぱりやり合ったと言えないんじゃないかと、今日の提起を聞いて思った。

●仲山

 かなり重要な提起であると思いますが、半分以上そうせざるをえなかったということはある。合同に向かっていくプロセスで、マルクスやエンゲルスの実際の影響力というのはほとんどない。組織の党首として指導する関係じゃない、理論的・思想的な存在としてロンドンにいるだけで。ということが一つと、じゃあ分かった段階で徹底的に粉砕するためになぜ闘わなかったのか、というのが今の話の一つのポイントなんだけど、労働者党としての階級的基礎とか、そういうものはまだ全然未確立、70年代冒頭は。階級の指導部として政治的にもものすごく未成熟です。一定の構築された組織体制があって、その中でがんがんイデオロギー闘争をやって獲得するという関係でもない。そういう意味では、間接的な影響力をどう及ぼすかという限られた条件の中にあった。
 だからと言って、別に擁護しなくてもいい。マルクスとエンゲルスも党員であるんだったら、どういう組織的影響力を及ぼしながら闘っていくのかというところまで徹底的にやるべきだったという考え方は、今われわれがとらえ返すときには、成立する。だけど、客観的な当時の歴史的状況の中では、どうにもならなかったという面が圧倒的に強い。だから、マルクスやエンゲルスの個人としての、革命家としての組織的実践ということを越えたところで、われわれは総括しなきゃいけない。そういう感想を持ちます。
 今われわれの中で、21世紀革命の実践的立場からのこの間の議論とか党内闘争との関係でも、ドイツ革命問題をもっと根本的にとらえ返すべきだということが、いろんなところで出ている。確かにロシアのロシア革命として勝利と失敗みたいなものとしてとらえるだけじゃなくて、マルクスという人物だけじゃなくて、ヨーロッパの階級闘争、国際階級闘争の本筋の流れにおいて、大きく国際階級闘争をとらえ返して、ドイツ革命とロシア革命、もっと言えばアメリカの革命とかアジアの解放闘争とか、国際プロレタリアートの階級闘争を、党と労働運動という大きな視野の中でとらえ返していくということが必要。
 マルクス、エンゲルスも、問題あるんじゃないか。これは、非常に実践的問題意識としては重要だと思う。今の視点からとらえ返して、今の状況の中で、どういうふうにわれわれが乗り越えていくのかという問題だ。レーニンだって同じです。どういうふうに乗り越えていくのか。全部われわれのテーマになって、いわば突きつけられている。そういう意味で、問題意識には半ば以上共感できる。

●柴田

 マルクス、エンゲルスの党内闘争は問題だったというのは、単にこんな合同なんか徹底的に粉砕しちゃえばいいということでもない。階級闘争の大地に根ざして問題を見た場合、アイゼナッハ派が、動労千葉と結びついていないということなんです、当時の、そういうのがあったとすれば。もしくは、当時のドイツの中で動労千葉をつくるんだという目的意識性がアイゼナッハ派に決定的に欠落しているということが、かなり致命的な弱点で、合同することに問題があるというより、そこの意識性がまったくないし、あるいはドイツの労働者階級、あるいはそこにおける階級的労働運動と結合していない、切断されているというところの致命的問題を抱えたまま合同に走るというところが根本的に間違い。マルクスやエンゲルスも、そこのところを徹底的に批判していると思う。というふうに問題をとらえた方がいい。合同後の社会主義者取締法下の十数年間、まさに国鉄分割・民営化と同じなんです、やられたことが。社会主義者取締法と名前が付いているけど、単に社会主義者、労働者党だけへの攻撃ではなく、労働運動を徹底的に解体していく、体制内化していく攻撃。動労千葉がこの時存在して、社会主義者取締法に対して何らかの闘いを徹底的にやった場合、情勢が違ったということです。
 だから結局、僕的には、階級的労働運動というところで徹底的に勝負していくという、ここの目的意識性というところで、どうだったのかということが、総括の軸になると思う、この合同問題というのは。マルクスもエンゲルスも何が言いたかったのかというと、動労千葉つくれよ、そこで勝負しろよ、ということなんじゃないか。
 今われわれも、動労千葉と結びついているから、党の革命とか階級的労働運動路線でやれるのであって、動労千葉が仮にもしない状態だったら、どうなるか分からないという状況ではある。動労千葉労働運動の意義というものを深めないところで行くと、一部指導部の人たちみたいにおかしくなる。だから、問題はやっぱり、マルクス主義というところの原理・原則、あるいはその理論的なところでやり合うというのは、空中でやるんじゃなくて、現実の階級闘争の中で、いかに労働者階級の闘いとか、そこでの先端でのやり合いというところと一体となってやっているかというところで問題が立てられていくんだと思う。だから、マルクスが実際には綱領批判ということをめぐってやり合っているけども、問題になっているのはプロレタリアートの組織化というところなんだ。何に向かって組織するの、お前らということです。

●N

 今日の提起と討論を聞いていて、当時のドイツのゴータ大会での合同から自由労働組合の流れというのは、今のわれわれが直面している体制内派とまったく重なった。本当に労働運動と共産主義との関係だとか、労働運動、労働組合がなんなのかということについて、その根本的な、本質的なところで勝負していかないと、当時のアイゼナッハ派の状況というのは他人事じゃない。そういうときに、われわれは動労千葉を持っているということの決定的な位置ということ、11月集会の唯一性ということで、全党的に当時を今日的に乗り越えていくものとして11・4集会1万人結集を実現していくということと結びつくんじゃないか。
 あとそれと、マルクス主義・共産主義の党が、共産主義論というところの中で、青年・学生の「生きさせろ」という闘いなんかも階級闘争の中に積極的に位置づけた、闘う路線をつくれるかどうか。行く行くはそういう怒りは体制内にとどまらないと思うし、その受け皿として、われわれがそれだけのでかさを持っているかどうかということが問われてくると思う。そういう意味で、動労千葉派、4大産別を軸としてそういう闘いをつくり出していく。そこでも11・4ということがガーンと位置づく。そういう観点でとらえ返して、非常に重要な文献だなと思いました。

●E

 僕としては、いかにして11・4集会に1万人集めるかというところからの問題意識がある。学習会と、討論とかやって、本当に今僕らが問われているのは、体制内に転落するのか否かというところ。結局、体制内との闘いであり、動労千葉というのが強固にあるというのと、1万人集めきれなかったらドイツ社民党になるんだ、というものとしてとらえていくべきかなと思います。動労千葉があるからこそということであるし、体制内との闘いというのも、本当に今あらゆる職場で、大学で、ガチガチやり合っている。ここに勝ちきれるかどうかというのは、11・4に1万人集めきれるかどうか。というところからとらえて、今日の学習会は、かなり自分としてもよかった。
 一番核心的なのは、権力と折り合いつけるドイツ社民党というところで、そことの対決というか、処分恐れず権力・資本と激突し、それを糧として成長していくという労働組合のあり方、革共同であるし、動労千葉。今の闘いというのは、そこにかかっている。闘いに立ち上がった瞬間すぐに組合から処分される、というところの闘い。そこがすごい重要かなと思います。そういう闘いを、ドイツ社民党の教訓から、闘えないマルクス主義ならざるマルクス主義を乗り越えて闘おうというところかなと思いました。まさに11月1万にかかっているということを、かなりはっきりさせましょう。

党学校通信 p8-16受講レポート

受講レポートから ★『ゴータ綱領批判』(上)のレポートです。

【W】

 討論で発言した問題について、やはりこだわりがあります。つまり、「ラサール派との合同問題=決定的な革命綱領の変質=党の変質」とマルクス・エンゲルスがとらえていながら、なにゆえ「ゴータ綱領批判」を指導部に提出しただけで、闇に葬られてなお公然たる党内闘争をやりぬかなかったのかという問題についてです。
 これは私は非常に実践的にも大事なことだと思う。もちろん、両者が非常に困難な状態におかれていたこともありましょう。しかし提起にあったようにエンゲルスは「このような基礎の上での合同は一年も続きはしないだろう」と言っている。つまりあまりに労働者の利害を踏みにじっているため、自然に破産するに違いないと考えていたのだ。これは明らかに<体制内労働運動に対する過小評価、自然崩壊への期待>だと思う。ここは我々が今日的実践的に乗り越えるべきテーマのように思います。
 例えば、教労職場において都高教本部への反発は多く聞かれる。都教委にやりたい放題されてなお、闘争しないのだから当たり前である。しかし反発が各所で崩壊・打倒―革命的再建に発展しているかといえば、全く違う。絶対に自然には崩壊しない。革命党の極めて意識的行為として、体制内運動を相当やっかいな敵と認識し、乗り越えて闘う組織と運動をつくらない限り勝てない。
 そういう意味では、今日の我々だったらゴータ綱領に対してどう批判を出すのか、というテーマはあると思う。もっと激しい徹底的な批判の論陣を形成していくべきだったのではないか。また特に大事なことは、実践的に、ドイツ階級闘争の現状の総括(困難性)と真の(社民党的拡大ではない)突破の道を、革命的に打ち出していく実践的指針が必要だったのではないだろうか。それはそのまま、今の日本階級闘争の現状におけるわが党の課題としてつきつけられる中身そのものである。そういう立場で読み直して、次回に出席したいと思います。

【A】

 ゴータ綱領批判を今日的に実践してゆく。ゴータ綱領批判を過去の歴史の中に埋没させてしまおうとする勢力との闘いに勝利してゆこう、という観点に貫かれた提起であり、それを受けた討論であったと思います。
 『ゴータ綱領批判』は、マルクスがゴータ綱領を批判する手紙という形で、ストレートに共産主義者の党の綱領を提起し、我々に残したものです。それは『共産党宣言』を踏まえ、パリ・コミューンを総括したものとして、党綱領の根本問題が鋭く提起されている。
 『ゴータ綱領批判』学習の前半としての今回の学習会では、「現実の共産主義」論、賃金労働制の廃止、革命の主体としての労働者階級、プロレアリア革命が、階級社会のなかで生み出される様々な差別、抑圧からの解放を実現するということ、体制内労働運動との闘いの死活性などについての提起が、強く印象に残りました。
 ことに、討論のなかでも活発に議論されたが、労働組合の革命的意義、体制内労働組合とのたたかいの意義、歴史的には、ドイツ社民の反革命への転落、そして今日的には、動労千葉型労働運動の革命的意義については、認識を深め、あらためることができました。21世紀世界革命−日本革命の勝利をめざした実践、そして学習を更に進めていきたい。

【J】

 『ゴータ綱領批判』(1875年のマルクスの手紙)は、ドイツ社会主義労働者党の綱領が、労働者自己解放の闘いから、全く後退−裏切っていることを、マルクスが怒りをもって、リープクネヒト、べーベルらを批判したものです。
 『ゴータ綱領批判』は、プロ独権力の闘い−パリ・コミューンの地平をひきつぐ立場から、労働者の闘い・革命は資本主義のいまある現実の条件から直ちに共産主義社会の建設を目指すことを明らかにしているのです。
 ところが、「ゴータ綱領」は資本主義を認めておいて、ラサール式の「国家援助の生活協同組合」を目指しているのです。また「ゴータ綱領」は現状を肯定しておいて「労働手段が共有財産に高まる」などと言って、労働者の闘い−革命を無視しているのです。「労働収益の公正な分配」などという言い方は、ブルジョア的価値観なのです。マルクスは、資本家は労働者の労働日にたいして、給料を「公正」に支払っているではないか、と批判しています。
 マルクスは、資本主義社会を徹底的に解明することによって、共産主義社会を闘いとるものとして、
 “資本主義社会を打ち倒した労働者階級は、プロレタリア独裁権力のもとに、「革命的転化の時期」を闘いとるのですが、同時に、労働者階級は、共産主義社会の第一段階(資本主義から直接に生まれ出たばかりの共産主義社会)を始動しているのです。すなわち、労働者階級は生産手段を社会的に共有し、社会的総労働量の配分と労働者個々人の「労働給付に応じて」の生活手段の分配を行っているのです。そして、この共産主義社会の第一段階は、社会的な生産手段の共有を土台として、高次の共産主義社会に向かって前進しているのです。”
 討論から、ドイツ革命の敗北は、資本主義・帝国主義とたたかわない自由労働組合を土台としていたこと、党の指導部の日和見主義にあることがはっきりわかりました。

【C】

 今日の学習会は、現在の当面する運動にとって非常に密接不可分な視点がいくつも出されていて有意義でした。
 私が感じた最も重要な点は、革命党の綱領というものは、なぜ重要なのかと言えば、“共産主義社会の実現が遠い未来社会”にあるのではなく、現在の帝国主義の危機の深刻さと革命的情勢からすれば、数ヶ月後、数日後さえ問題にしなければならない時にあること、したがって、その崩壊的危機を階級的労働運動の力で革命に転化せんとするその党と階級が、その綱領に革命的路線・方針をきっちり打ち出し旗幟を鮮明にさせてゆかなければならないということです。
 ドイツ社民党が100万からの党員を擁しながら敗北したのは、アイゼナッハ派の曖昧性にあり、マルクス・エンゲルスが『ゴータ綱領批判』で根底的に批判した点にこそあったということです。
 翻って、われわれ自身の党に引き寄せて考えるなら、「党の革命」で「階級的労働運動路線」と「対権力闘争」を曖昧にする部分とは徹底的に闘い、はっきりさせ、その旗幟を鮮明にさせることをとおして、階級的労働運動・動労千葉労働運動を全国の各職場で実現していく、ということだと思う。
 そして、この階級的立場で、11・4集会の1万結集を真剣に、何が何でも実現していくものでなければならないということです。
 現在の党と階級的労働運動が、世界革命論、共産主義社会論を、現にその職場で、学園で、地区で体現していなくて何でその革命的危機を革命に転化することができるのか、という問題、それは、日々準備され、体現し、実践していなければ、いざという時はじき飛ばされてしまうということです。
 マルクス・エンゲルスが「労働はすべての富と文化の源泉である」という綱領草案を批判し、唯物史観の基本について徹底的にはっきりさせ、労働者階級と資本家の立場を絶対に曖昧にしない、させない闘いにこだわったのは、上の点からも明白であった。問題は、階級的に立てられなければならない。

【R】

 『ゴータ綱領批判』の前半で学んだことは、綱領における労働者階級の見方への言及の重大さだと思う。マルクス・エンゲルスが、1848年『共産党宣言』を起草し、第1インターも始動し、パリ・コミューンにまで国際階級闘争の前進がかちとられていながら、「ゴータ綱領」では、ラサール派への譲歩だけで終始し、「労働者が自己解放かけて社会を建設するんだ」というパトスの片りんも見られないことは、本当に悔しかったに違いない。しかし同時に、このことを反面教師として、「労働者は唯一革命的階級である」と言い切って、全人民解放の先頭で、労働者階級が起ちあがっていくことの重要さを改めて教えてくれている。「労働者は資本家がいなくても、社会を担えるし」、また「プロレタリア革命によっていっさいの搾取、抑圧、差別を打ち破る土台を切り開くことができる」という確信があれば、マルクス主義の確信は踏まえられるのではないかと思う。「ゴータ綱領」自身は、階級闘争的には、パリ・コミューン原則に踏まえられ、重要な提起も出ているとは思うが、やはり、そういった重要な綱領項目を掲げてみたところで、それを実際に実現しようとする気概がなければまったくの「絵に描いた餅」に終わるということは、その後のドイツ社民党の歴史的敗北の歴史を見ても明らかである。実際、ナチス勝利にいたるその後の過程を見ても、労使協議機関というアメの機関にからめとられ、「体制内社会主義」に終始したその破産と反革命性は、ドイツ革命の敗北の教訓、ひいてはロシア革命の世界革命への発展を閉ざした一因としてはっきりさせなければならないと考える。

【V】

 11・4集会1万人結集の実現に向けた実践とかみ合う形で、問題意識を鮮明にできた学習会だったと思う。やはり、体制内労働運動、日和見主義と曖昧さなく対決して階級的労働運動を実践すること。この「曖昧なく」というのが決定的で、なおかつ、それは階級的労働運動の目的意識的な実践のなかでこそ、勝ち取れるのだと実感した。
 その上で、より根本的には、レジュメの〔2〕のBで提起された「労働者自身が闘いとる『現実の共産主義』論」への確信が決定的だと思う。ロシア革命の歴史や、ドイツ革命の敗北、あるいはスターリン主義の発生についてきちんと対象化し、教訓化する必要があるが、それを困難性という側面からばかりとらえてしまうのではなく、革命は現実に可能なんだ、外皮を爆破するだけなんだ、という視点をガッチリかつ明確に持っていることが、すごく重要だと思う。これは、体制内労働運動との対決でも重要だし、この間の党内闘争の総括の中で、時代認識の重要性が語られていることとも軌を一にすると思う。
 自分に引き寄せてみるならば、まだまだ革命を彼岸化する考え方が自分の中にあったのではないか。たとえば、一斉武装蜂起を実現できたとしても、まだまだその先は長い、という考えで、革命のダイナミズムを歪小化してしまっていたように思う。
 この点も含めて、本当に今の階級的労働運動を実践していく上で、「むさぼるように読む」べき本だということがよくわかった。(下)の学習会に向けて、再度読み返そうと思う。

【X】

@当時のSPDの変節が明らかにされたことが、それに対する批判としてマルクスのゴータ綱領批判が行われたものとして、理解が深まったと思う。当時、すでにマルクスとSPDとの間では、相当な乖離があった。
A報告と討論で、階級的労働運動の立場から、体制内労働運動への批判として、マルクスのSPD批判が行われたのだと確認されたことも良かったし、理解を深めた。
Bやはり、われわれの運動の前進の中で(こそ)、マルクスの「古典」への理解は深まり、進むのだと実感することができた。このことも良かった。動労千葉労働運動の闘いが、マルクス主義への理解を深めるとともに、逆にその闘いの革命性を感じることにもなっている。そのことが、生きた学習になっていると思う。繰り返し学習することの大切さを感じて良かった。

【N】
 発言したことに重なりますが。
 『ゴータ綱領批判』の内容は、体制内労働運動との決別を闘っている我々にとって、まさに今日的な内容であるとの思いを強くしました。
 @体制内労働運動の側からの我々への処分、弾圧、攻撃、排除(国鉄1047名闘争など)の背景には、労働組合、労働者階級の解放に対するブルジョア・イデオロギーが強固に存在している。
 Aこれに対する我々の闘いは、11・4動労千葉労働運動を水路に「労働組合の力で革命をやろう」という、階級の団結、闘いをいかにつくり出していくのか、というところにある。
 Bその根底のところに、革命的なマルクス主義・レーニン主義をいかに復権していくのか、というところを据えきっていく必要がある。
 前回に続いて、労働組合論を明確にさせていく上で、非常に学ぶところ大でした。
 ドイツ革命の革命的総括について、ちゃんと学習した記憶がない。討論でも出されましたが、今日的にとても重要なテーマだと思いました。論文を出してもらいたいです。

【E】
 今回の学習会において、やはりドイツ社民党の体制内的あり方が我々自身に問われているんだということを感じました。
 11月1万結集の実現に向けて、体制内との闘い(党内も含めて)の決着をかけて突入していかなければならないと思います。
 ゴータ綱領というものが、やはり合法主義・日和見主義・議会主義であり、そうであるがゆえに敗北したということをとらえ返してみた時、現在開始されている体制内執行部との闘いの意義は決定的だと思います。
 処分・弾圧を恐れず闘いぬくこと、それを糧として成長していく党・労働組合のあり方こそ、今の革命情勢に最も鋭くかみ合うと思います。

【F】
 11・4集会への1万人結集を闘っている過程で貴重な1日をさいて出席しましたが、お釣りをもらったくらいの意義ある学習会でした。ドイツ社民党の急速な体制内勢力化と没落、そしてナチスによって血の海に沈められるという過程から、われわれが学ぶべきものはいっぱいあると思います。党は階級そのものであるという立場、労働者階級の怒りとたたかいに徹底的に依拠して闘うという立場、これこそが、われわれ自身に問われているという風に思います。まさに革命以外に階級の未来は保証されることはないし、若い労働者自身がいまそれを求めている。「生きさせろ」という叫びの根底には、革命への欲求が確実にあるのだということです。
 そこで、私自身のなかにもあった、「党を階級の上に置く」というあり方、「労働組合の上に党はある」という考え方を、11・4集会へ向かう過程で払しょくしていかなければならないと思っています。党が組合を組織する、そのなかで、労働者を党に組織していくという観点が決定的に重要です。
 それと、7月テーゼの重要性です。反軍闘争、「障害者」解放闘争など、プロレタリア革命の課題はさまざまあります。しかし、資本が、労働者階級を分断・支配するうえで、差別を必要としているのです。そこで党は一致する必要があります。差別と闘う上でも、階級闘争の観点・立場性がぜったいに必要だということです。

【I】
○きわめて実践的なところで提起・討論が行われ、刺激的でした。
○今回の講座で、今一つ勉強になった点は、問題となっているゴータ綱領が、すべてにわたって階級的にあいまいである点。これは以前からも“読んで”いましたが、今日的なたたかいの中で、こういう「あいまい」は運動の死をもたらすことを痛切に感じさせられた次第です。

【G】
 『ゴータ綱領批判』が書かれた歴史的背景とドイツ革命の敗北まで、詳しく知ることが出来たと思います。
 ポイント的には、党と労働組合との結びつき、関係性がどうなのか? ということです。マルクス・エンゲルスが党内闘争的にどうだったのか? という点についての指摘など、極めてそうだと思いますが、党と労働組合とが結合していないところで、いくらマルクスやエンゲルスのような理論家がいてもダメなのだ。逆に、ドイツ社民党のような体制内的な党、労働組合に転落していくのだということがわかりました。そういう意味で、1848年『共産党宣言』以来のドイツ階級闘争の歴史を明確にさせていくことは、急務だと思いました。

【Z】
(1)提起は、今日的問題に係わらせて、極めて整理されて出されたと思います。
(2)特に『ドイツ社民党のその後の歴史』については、今日的には、「自由労働組合」の歴史的総括とリンクさせて、立体的に突き出す必要があると思う。<党  労働組合>という視点が貫かれなくてはならないということです。
 内容的には、発言した通りです。 

【D】
 「労働はすべての富と文化の源泉である」というラサールの主張に、なぜマルクスがここまでかみついたのか。核心は、この主張こそ労働者を奴隷につなぎとめる主張であり、トコトン労働者の自己解放性を否定する主張であるからだ、と理解した。
 ドイツ社民党をめぐる激しい党内闘争の激突もここにあったということだと思う。その点で、マルクスがこのラサールの主張に対して、「ついに現在の資本主義社会の中で、このような歴史的災厄をうち破る能力を労働者に与え、またうち破らざるをえないようにする物質的その他の諸条件がどのように生み出されてきたかを示すことである」という対置は、本当に労働者のもっているものすごい可能性と歴史変革性への確信に裏付けられていると感じた。

【S】
 『ゴータ綱領批判』と言えば、マルクスの共産主義論=未来社会論、というイメージがあったが、実際はドイツ労働運動の変節につながるトンデモ綱領へのマルクスの怒りの書だった、ということが良くわかりました。
 労働組合は革命の学校、共産主義を実現するにはプロレタリアートが「資本主義的な外皮」を爆破しさえすればよい、それなのにわが弟子たちは労働者を革命に向けて組織する、という肝心な任務を投げ捨て、労働者階級を永遠に賃金奴隷制度にしばりつけるような野合(アイゼナッハ派とラサール派)に血道をあげている。フザけんな! というマルクスの怒りが伝わってくる。
 「社会主義鎮圧法」下の非合法活動をくぐり抜けて作り上げた大組織が一戦も交えることなく帝国主義戦争に呑みこまれていった歴史の出発点が、このゴータ綱領(体制への寄りかかり綱領)にあったことは、今我々が、ドイツ社民党の敗北の歴史を塗りかえて日本革命→世界革命につき進むためにも、きっちり押さえなければいけないと思う。

【Q】
 『ゴータ綱領批判』は、学生の頃は、「過渡期建設」論として、つまり、あるべき社会への途中みたいな感じだった。したがって、何かややこしい「段階」を経て「理想社会」に行くというイメージを、何かマルクスが天才的に予見しているのだろうと思っていたわけです。
 この「へだて」は、あらゆる「左翼」を名乗る潮流の日和見主義だったということを、学習を通じて理解しました。
 現代の体制の根本矛盾は、労働者が、ある時間を資本家のためにただ働きをしなければ存在できない社会即ち、賃金奴隷制にあるということ、そのことをはっきりさせること、そして、労働者階級がこのことをはっきりさせ、つまり自己解放闘争に決起すること、それが「共産主義社会への過渡」そのものであること。
 こうしたマルクス主義のきわめて扇動的、魅力的中味を青年労働者にダイレクトに出していくことが重要だと思いました。
 それにしても、マルクスの時代から、「階級的労働運動」に反対する潮流がいたことを知りました。まさに、マルクスの原点にもどれ! ですね。『ゴータ綱領批判』は、今日的課題との関係でみると、世界革命、反帝・反スタ、プロレタリア革命論、党と階級のテーマ等々から、極めて重要な「要」であることを認識できてよかったと思います。
 それと、1870年代ヨーロッパの労働運動、階級闘争、党の歴史の実態をもっと、今の私たちの中に知っていくことは大切だと思います。歴史総括の問題→切実な今の課題との結合、実感を労働者階級の中に入れていくこと、いってみれば、空間(国境とか)、時間(資本主義発生、労働者階級登場)をこえた主体化が必要なのではと思います。
 ラサールとかアイゼナッハ等々、それぞれの思想、活動などもっと知りたいのですが、自己学習が必要だと痛感しています。

【O】
1.今日の学習会はかなりよかった。学習になりました。講師が『ゴータ綱領批判』をきちんと整理し、重要な資料も整理し、わかりやすく出してくれました。また、現在的なわれわれの路線問題として、動労千葉のたたかいや、党の路線問題を提出し、マルクスの『ゴータ綱領批判』を通して、いろいろな点で問題を発展させて提起してくれたと思います。
2.世界共産主義運動にとって、われわれにとっても、「ドイツ革命」の敗北は決定的な事で、その総括が重要だと思いますが、その歴史や、マルクスの『ゴータ綱領批判』は、また当時の「ドイツ社民」の批判内容は、現在的にも決定的重要な問題だと思います。
 この中に、資本とは何か、労働者とは何か、労働組合とは何か、共産主義論の問題etc.全面的に課題にし、報告され、討論されました。かなり重要な学習会だったと思います。
3.とくにマルクスの『資本論』からと、レーニンの『国家と革命』を執筆するさいの『ゴータ綱領批判』を学習し、ロシア革命を成功させる問題など。マルクスの「共産主義」論→それを実践したロシア革命。講師のかなり目的意識的な報告、学習の内容でよかったです。
4.マルクスの『ゴータ綱領批判』だけではなく、『資本論』、『共産党宣言』etc.、レーニンの文献を通して、講師自身の革命論、共産主義論がでていて本当によかったです。学習になりました。
 講師の報告内容、提起、討論が、革共同反対派、日本共産党、カクマル派を粉砕して、11月決起論としての内容で勝ちとられた学習会だったと思います。
 討論含めて、今までで一番よかった。かみあった学習会でした。

【P】
 よく言われるように、『ゴータ綱領批判』というと“将来の共産主義社会論”を展開しているように思い込んでいたのですが、今回の学習をとおして、現に存在する労働者自身が闘いとる「現実の共産主義」論としてあることが鮮明になりました。ゴータ綱領にしても、日共にしても、そしてあらゆる日和見主義の党がそうですが、共産主義を遠い未来の話にしてしまう。そして、その思想的根拠として、資本主義の自動崩壊論がある。しかし、マルクス主義の核心は、「外皮は爆破される」とあるように、今日のプロレタリアートが現実に実現するテーマであるということです。階級的労働運動路線、そして11・4集会1万人結集方針がそこに直結しているものとしてつかむことができます。
 そのようにつかむと、マルクス・エンゲルスが、プロレタリアートを自己解放の主体として徹底的につかみきっていたということが明確になります。この点では、もうひとつ、マルクスが控除の問題等をしつこく述べていることが何故なのかわからなかったのですが、プロレタリアートの主体性を根幹においているが故に、そのような展開になっていることがわかり、プロレタリアートの自己解放にたいするマルクスの信頼を非常に生々しく感じます。別言すれば、プロレタリアートの自己解放というマルクス主義の核心を、ひとつ深いレベルでつかめたように感じます。
 講師からも提起があり、討論でも活発な意見が出されていましたが、我々が日本革命−世界革命を準備・実現していくために、少なくとも1860年代以降の国際階級闘争を研究し、総括していくことが必要なテーマとなってきていると感じます。アイゼナッハ派とラサール派の合同ということも、パリ・コミューン(と、ブルジョアジーによる血の圧殺)に対する日和見主義という面で捉えると納得できます。しかし、これを許してしまったことが(単純化して言えば)、ドイツ革命の敗北、ロシア革命の孤立からスターリン主義の登場にまで到ってしまう流れとなるわけであり、極めて今日的な課題でもあると思います。また、現在テーマにしているドイツ社会民主党が体制内労働運動と決別できなかった問題も、階級的労働運動論を深めるうえで、更に進める必要があることを痛感しました。とにかく、この総括は多くのテーマがあり、階級的労働運動の実践・日本革命−世界革命の勝利に向かって重要性が深まっているのを実感しますし、自分自身の闘いとしても、推進していきたいと考えています。