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2007年10月号党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『賃金・価格・利潤』(下)

後半講義概要 P1-5
★-賃金闘争と動労千葉労働運動の普遍性 P6-11
受講レポート P11-16

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-5 講義概要

第8期 第3課目 マルクス『賃金・価格・利潤』(下)

後半講義概要   講師 岩谷芳之 

第8節 剰余価値の生産

●剰余価値の根拠

 第7節で「労働力」の価値が規定されたことを基礎に、この節では資本が剰余価値を搾取する仕組みが説き明かされます。
 例えば、1人の労働者の日々の必需品の平均量は、その生産に6時間分の平均労働を要するとしましょう。この場合、労働者は自分の労働力を再生産するために日々6時間ずつ働かなければなりませんが、それは労働者がもっと長時間、働きえることとは別問題です。資本家は、労働力の1日分の価値を支払うことによって、その労働力を1日にわたって使用する権利を得ています。だから、資本家が労働者を12時間働かせるとすれば、労働者は、自分の労働力の価値を補てんするに必要な6時間を超えて、さらに6時間働かなければなりません。後者の6時間の労働を剰余労働といい、この剰余労働が資本の取得する剰余価値の源泉です。

●資本の生産過程は、階級関係を再生産する--   略。

 

第9節 労働の価値

●労働力の価値は、必然的に「労働の価値」として現れる

 労働者が資本に売るものは労働力です。しかし、労働者が資本の指揮・命令に従って具体的・現実的に労働することによってしか、労働力を引き渡すことはできません。また、賃金が支払われるのは実際に働いたあとです。このことから、賃金は労働の価格=労働の報酬として現れます。
 さらに、時間賃金の場合、時間単価×労働時間という形で算定されます。こうした賃金の現実の運動が示す現象も、「賃金は労働の報酬」という外観を強めます。
 その結果、労働者の労働の一部分だけが支払われて他の部分は不払いであるのに、あたかも総労働が支払労働であるかのような外観が現れます。
 こうして賃金形態は、資本家と労働者の本当の関係を覆い隠すのです。

●賃金労働

 賃金制度は、奴隷主や封建領主の搾取とは違う、身分的・人格的束縛のない「自由」な形式のもとで、階級的本質を隠蔽しつつ支配階級=資本家階級が剰余労働を奪い取る形態です。このような賃金労働を中心軸に成立している資本主義社会は、まさに階級社会にほかなりません。

第10節 利潤は商品を価値どおりに売ることによって得られる--   略。

 

第11節 剰余労働が分裂する種々の部分

●地代、利子、産業利潤

 剰余価値は、地代や利子などに分解し、剰余価値の一部が産業利潤または商業利潤として事業を行う資本家の手元に残ります。この産業利潤や商業利潤は、事業を行う資本家があたかも自分の努力や才覚で稼いだものと観念されるようになります。
 こうして「労働者の賃金=労働者の労働に対する報酬」、「資本家の利潤=資本家の『労働』に対する報酬」という観念が形成され、これに対応して「地代=土地所有に対する報酬」、「利子=資本所有に対する報酬」という観念が形成されます。こうして搾取関係は覆い隠されてしまうのです。

●企業資本家による剰余価値の搾取こそが賃金制度の軸点--   略。

 

第12節 利潤・賃金および物価の一般的関係

 資本家と労働者とは、労働者の総労働によって測られた価値を分配するほかはない。だから、賃金が減少すれば利潤は増大し、賃金が増大すれば利潤は減少する。

第13節 賃金を値上げし、またはその値下げを阻止しようとする企ての主要な場合

 

●生産力の変動と賃金--   略。

 

●労働日延長が資本の普遍的傾向

 より多くの剰余労働を搾取するため、資本は常に労働日を延長しようとします。合理的限界を超えた労働時間の延長は、労働者の生活・生存を破壊します。賃金制度のもとで労働者が労働力を売らざるをえないのは、生きていくためであって、健康や生命まで資本に売り渡したわけではありません。しかし資本は、あくなき搾取のために労働者の全時間を支配しようとします。これに対して、労働時間の制限を始め、合理的限界内での労働条件を資本家に守らせるために闘うことは、労働者にとって自分自身と労働者階級を守るために絶対に必要なことです。
 時間外労働に対する割増賃金は、資本による勝手な労働時間の延長を許さないための方法であり、割増賃金を払えばいくらでも労働時間を延長できるというものではありません。労働時間が一定の限界を超えれば、どんなに割増賃金が支払われても労働力の消耗を償いえなくなります。その極限が「過労死」です。
 資本は、放っておけば労働者を殺してしまうところまで搾取を強めます。そのため、労働時間を法律で直接規制することが必要になりました。労働者階級の闘いが労働時間の法的規制を国家と資本に強制したのです。
 今日、日本経団連は「労基法は工場法時代の遺制」とうそぶき、労働時間規制を全面撤廃しようとしています。これを断じて許してはなりません。
 そもそも人間は、自由にできる時間があってこそ、自らを発展させることができるのです。労働者にとって資本から自由な時間を確保することは、団結を固め、資本の支配と闘うためにも必要不可欠です。

●労働の強度の増大

 労働強化が限度を超えれば労働力の再生産は不可能となります。労働強化=合理化は必ず団結破壊という狙いをもって貫かれることを見ても、これとの闘争は労働者にとって死活的です。

●資本主義の循環運動と賃金

 諸商品の市場価格は景気循環の中で変動し、全循環を平均すれば、その価値によって規制されています。労働力商品の価値も、価格の循環的変動をとおして実現されます。したがって、好況期には可能な限り賃金を上げるために闘い、恐慌や不況期にはできる限り賃下げに抵抗して闘うことが、労働力の価値を維持するためにも必要です。
 賃上げのための闘争のほとんどは、それに先行する生産力や諸商品の価格変動、労働時間の延長、労働強化などの必然的結果として起こります。
 労働力の価値は固定的なものではないし、あらかじめ価値どおりの支払いが保障されているわけでもない。労働力を売り賃金を受け取るということ自体(雇用)が安定的に保障されているわけでもありません。だから、労働者が闘う力を失って資本の言いなりになるなら、古代の奴隷よりはるかに不安定でみじめな状態を強制されます。

第14節 資本と労働との闘争とその結果

●労働者は平均すれば自分の労働力の価値を受け取るだけ

 「他のすべての商品と同じように、労働についてもその市場価格は、長期間にはその価値に適応するであろう。したがって、あらゆる騰落にもかかわらず、また労働者が何をしようと、彼は平均的には彼の労働の価値だけを受け取るであろう」
 これは、「賃上げ闘争などやってもやらなくても同じ」ということではない。賃金を巡り争う当事者間の力関係は労働力の価値を決める要因のひとつだが、その価値が具体的にはどの水準であろうと、労働者が自分自身を維持・再生産するために必要な生活必需品の価値で労働力を売っていることに変わりはない、ということです。賃金制度を廃絶しない限り、資本家と労働者の階級関係は再生産され続けるのです。

●労働力の価値は、生理的要素と歴史的・社会的要素によって決定される

 労働力の価値は、生理的なものと、歴史的・社会的なものの2要素により決定されますが、その究極の限界をなすのは生理的要素です。生理的要素とは、労働者が自分自身を維持し再生産するために絶対に必要不可欠な必需品の価値のことです。
 しかし、この生理的要素にも、ある程度の弾力性があって、労働力の価値がどの水準で決まるかは、資本の攻撃と労働者の闘いのせめぎ合いによるところが大きい。
 他方、歴史的・社会的要素はより大きな弾力性を持っています。これは、
「伝統的な生活水準によって決定され」「人々がそこで生み育てられる社会的諸条件から生じる一定の欲望の充足である」「労働の価値に入り込むこの歴史的または社会的要素は、膨張することも収縮することも……また生理的限界以外には何も残らないほどすっかり消滅することもありうる」

●利潤の現実の大きさは、資本と労働との絶えざる闘争によってのみ定まる

 このように労働力の価値が可変的であれば、賃金の大きさと利潤の大きさがどの程度に確定されるかは、資本と労働との絶えざる闘争によってのみ決まります。資本家は常に賃金をその生理的最小限に引き下げ、労働日を生理的最大限に拡大しようとしているし、労働者はそれを反対方向に押し返そうとしています。事態は、両者の力の問題に帰着するということです。
 こうしたことから考えると、賃上げ要求の「論拠」として「賃金は労働力の再生産費だから、労働力の価値どおりに賃金を払え」と言うのは、労働力の価値には固定的・客観的に決まっている大きさがあると想定している点で、理論的に間違っている。もちろん、生理的最小限以下の低賃金がまかり通っている現実はある。しかし、それに対する怒りを「労働力の価値どおりに賃金を払え」という形でまとめてしまうと、青年労働者の激しい怒りを体制内に押し込めてしまうことにしかなりません。

 

●生産力の高度化と相対的過剰人口の生産。資本の有機的構成の高度化--   略。

 

●実践的結論

@日常的闘争の徹底的な貫徹
 標準賃金獲得のための労働者の闘争は、賃金制度と不可分の事象であり、賃上げを求める労働者の闘いのほとんどは、労働の価値を維持しようとする努力である。労働者階級が資本との日常闘争を貫かなければ、労働者階級はより大きな運動を起こすための能力も失ってしまう。
A労働者の究極的解放を根幹に据える
 日常闘争において労働者は、結果と闘っているのであって、原因と闘っているのではない。労働者階級は、資本の絶え間ない侵略や市場の変動から生じる不可避的なゲリラ戦に没頭してはならない。資本主義は、労働者に窮乏を押しつけるが、同時に、社会の経済的改造に必要な物質的条件と社会的諸形態をも生み出している。
 労働者は、「公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金!」という保守的な標語の代わりに、「賃金制度の廃止!」という革命的なスローガンをその旗に書き記さなければならない。
 この結論を定式化して、マルクスは第1インター中央評議会が次の決議を採択するよう求めました。
 「第1 賃金率の一般的騰貴は一般利潤率の低落を生じるであろうが、だいたいにおいて諸商品の価格には影響しないであろう。
 第2 資本制生産の一般的傾向は、賃金の平均標準を高めないで低めることにある。
 第3 労働組合は、資本の侵略に対する抗争の中心として立派に作用する。それは、その力の使用が適切でなければ部分的に失敗する。労働組合が現行制度の結果に対するゲリラ戦に専念して、現行制度を変化させようとしないならば、その組織された力を労働者階級の究極的解放、すなわち賃金制度の究極的廃止のためのテコとして使用しないならば、全般的に失敗する」

●第1インター第1回大会の決議『労働組合、その過去・現在・未来』

 マルクスが提案した決議案の中身は、第1インター第1回大会で採択された決議『労働組合、その過去・現在・未来』で全面的に取り入れられています。
 「労働組合はもともと、労働者の生活を少なくともまったくの奴隷状態以上に引き上げるような契約をかちとるために、このような競争をなくそうとして、またはできる限り制限しようとして自然発生的に生まれた。したがって、労働組合の直接の目的は、日常の諸要求、資本の絶えざる侵害からの防衛の手段、一言で言って、賃金と労働時間の問題に限られていた。労働組合のこのような活動は正当なだけでなく、必要なものである。これは、現在の生産制度が続く限り、やめるわけにはいかない活動である」
 「他方で、労働組合は、自分たちでは自覚することなしに、労働者階級の組織の中心となった。……労働組合は資本と労働の間のゲリラ戦のために必要なのであるが、賃金制度そのものと資本の支配を廃止するための組織された力として一層重要である」
 「労働組合は、もともとの目的は別として、今や労働者階級の組織的中心として、労働者階級の完全な解放という大きな利益を目指して活動することを学ばなければならない」
 全階級的利害から個々の労働組合の路線・方針も打ち立てなければなりません。現に動労千葉は、そのことを実践しています。 

 (後半講義了)

党学校通信 p6-11

賃金闘争と動労千葉労働運動の普遍性 −討論から−

●講師

 講義の中で、“再生産費どおりに賃金を払え”というのは賃上げ要求の根拠にならないと言いました。私が言いたいのは、資本と労働との闘争ということと別個に、労働力の再生産のためにはこれだけ必要だということが客観的に決まっていて、それに現実の賃金が達していないということで、賃上げ要求の根拠を組み立てるというのは違うということです。
 現実の労働力の再生産と言われている中身それ自身も、弾力性がある。肉体的な限界から言ったら、人間が生きていくために何キロカロリー消費しなきゃいけないからこれだけのメシを食う必要があるという意味で、絶対的な肉体的・生理的な限界というのは、客観的に出てくるかもしれない。現実の労働者の賃金というのは、そこに押し込められようとするんだけども、社会的・歴史的に決まっている要素もあって可変性をもっているわけです。
 だから、社会的な相場に比べてうちの会社は低いとか、そういうことは言えるにしても、これが客観的な再生産費なんだということを根拠に、“再生産費どおりの賃金を払え”という言い方というのは成り立たない。そこに込められている気持ちというか、相場から見てまともに払ってないじゃないかということを、実は言っていると思うんです。

●川武

 こんな低賃金では食えないという階級的要求を社民がねじ曲げて、賃金交渉する場合に、資本家にも労働者にも通用するような完璧な根拠みたいに歪曲する。そこにいろんな労働学者らが群がって、賃金形態論、賃金論なんかを論ずるという長い伝統があったと思うんです、平和的な高度成長の発展の中で。そういったイデオロギーがあって、資本はこれだけ儲けているんだからこれだけ要求するという、超階級的な根拠づけをする。協会派とかスターリン主義者は、労働力の再生産費(=価値)を客観的な根拠みたいにねじ曲げていく。

●W

 60年代末の『最前線』に陶山さんが賃金問題で書いているものがある。あるA君という青年労働者の賃金の価格、給料明細を2年間比較して、会社の側は賃金を上げたと言っているんだけど、実際手取りは下がっている。これはどういうことなのか、ということを今回解明してみようというテーマでやっている。その最後、なぜ下がっているかという決定的根拠は、そのA君は借金をしていて、そのローンを返済するということで下がっていたということだった。それを含めて会社の責任じゃないかということでアジりまくっている。会社の責任じゃないというふうに入ることも含めて、実際に労働者の生活は生きていけないような現実になっているんだと。それも含めて保障するのは当然だと、がんがんアジっている。僕は、こういうことが通用した時代なのかなと見てたんだけど、今回、賃金問題を、完全にブルジョアジーをどう打倒していくか、あるいはどう闘いの中で団結をつくっていくのかという問題として、まず真っ向からすえて、それを闘いの武器にしていくという思想がまずガーンとないと闘えないんだという意味で、理論的によくわかった。

●丹沢

 今のアメリカの教師の労働運動と日本の教師の既成労働運動は決定的に違う。
 アメリカの場合は、賃金闘争をゴリゴリやるんです、賃金を絶対的に上げるという闘い、それから労働条件を改善する闘いとして。日本の場合は、職場の労働条件はものすごく厳しい状況になっているのに、既成労組指導部の下、全然闘争をやらない、賃金闘争もやらない。むしろ、忙しいということを口実にして闘争をやらない。
 また、アメリカの教師の運動というのは、賃金闘争を通じて団結を固めて、移民の問題とか、カリフォルニア州とかでは高校での募兵官粉砕の闘争とか、そういう政治闘争もゴリゴリやる。日本においても、既成指導部をうち倒し、教育労働者自身が自分を労働者だと位置づけて、賃金闘争なり労働条件改善の闘いをやる必要がある。
 その点で、今日のレジュメの最後の「マルクスの草稿『賃金』の『労働組合』から」という所で言われているんだけど、団結を獲得するための闘いというのはすごく重要なんだ、そのための結論として賃金闘争を強めるということが出されて、すごく空気が入った。

●W

 オークランドの闘争なんかは、僕はよくわからなかった。大幅な賃上げを要求している。それが保護者や生徒を巻き込んで組織している。これ、どういうことなのかなと。教師の賃金を上げろということで、教師がストライキをして、それに保護者や生徒も一緒になって闘っていく。こういうことが賃上げ闘争という枠組みの中で、どうして成り立つのかなというふうに思っていた。賃金制度そのものに対する闘いということをすえたときに、移民の問題とか、今のアメリカの階級支配のあらゆる問題と闘うことの一環として、真っ向から賃金問題を提起できるという闘い方をしなかったらありえないようなことが起こっていると思うんです。だから、僕は賃上げ闘争でこういうことが起こっているというのが、今までよくわからなかったんだけど、それもやっぱりマルクス主義的じゃないなと。今回の提起を受けて、むしろそういう闘い方が賃金闘争の本来の闘い方であるというふうに、われわれの側の賃金闘争の概念を変えなきゃいけないと思います。

●Z

 “賃金は労働力の再生産費だから労働力の価値どおりに賃金を払え”という賃上げ要求、つまり「マルクス主義」の言葉をもってする賃上げ論。こういう論理というのは全部、思想の枠組みで言うと、「『公正な1日の労働に対する公正な1日の賃金』という保守的な標語」、要するに公正な賃金論なんだよね。あたかも客観的に公正な賃金なるものがあるかのように、科学の名において掲げているというのは全部、「保守的な標語」なんだ。それに対して、賃金闘争で確認すべき核心点は、「『賃金制度の廃止』という革命的なスローガン」、これが眼目中の眼目だと思うんです。「マルクス主義」の言葉を使っているけど、ただの公正要求でしかないということが核心じゃないかと思う。

●X

 圧倒的には生きていけない賃金なわけでしょ。ブルジョアジーの生活と比べたら天と地なわけで、そういう意味では、この辺が頃合いだというようなものはないと思うんだよね。

●講師

 ブルジョアジーも労働者も互いに認めあえるような賃金水準なんてない。それをあるかに言うのが、「公正な賃金」ということだと思うんです。ブルジョアジーと論争したら、百年前はお前らの生活はこうだったんだからそれで我慢しろ、それ以上のものは贅沢だ、となるに決まっている。それを合意できるかのように言うのがとんでもない間違いだと思うんです。
 それと、さっきのZさんの議論でちょっと飛躍するかもしれないんですけども、共産党にしても協会派にしても、「要求で団結する」と言う。それは、要求の根拠は客観的に存在しているということが前提になっている。だけど、賃金は客観的な根拠があるわけじゃなくて、労働者が資本と争ったその結果が出ているにすぎない。だから、「要求で団結する」という賃金要求は成り立たない話だと思うんです。革命に向けて自らの隊列を強化していく、自己解放の能力を自らの中に培っていくというところを根幹に据えないかぎり、団結にはならない。もちろん、資本の攻撃というのは、絶えず生存ギリギリまで賃金を下げさせようとするから、それに対する抵抗というのは絶対ある。それ自身は要求と言えば要求なのかもしれないけど、ただ、それを絶えず客観的なものに変えようとする。客観的なものに変えるということは、資本と折り合いをつけるということだから、そこに根本的な間違いがある。

●X

 労働者の生活がよくなるというのは、高度成長過程の一時であって、ごく例外なことで、絶対的貧困化ということがある。つねにそういうことを突きつけられるというか、闘わなければ生きていけないという階級関係があるんだということが重要だと思う。

●V

 最近、三里塚反対同盟の萩原進さんが口にすることで、安い農産物でいいという話になれば、結局それは労働者の賃金に跳ね返ってくる。労働者が安い農産物が食べられる賃金でいいじゃないかという形で資本家にやられるじゃないかと。そういう形で、労働者自身が賃上げ闘うことが重要だというような提起がされていると思う。そういう点で、「公正な賃金」論というのは、まさにそういった資本の攻撃にさらされる理屈だなというのをすごく今日聞いて実感した。
 そういった階級的な闘い、あるいは労農連帯ということを考えていく上でも、労働者自身が「賃金制度の廃止」ということを掲げていくということ、それが闘いなんだなということを、大事な点として押さえていけるんじゃないかと思ったということです。

●講師

 レジュメでは略して申し訳ないんですけど、ちゃんと読むと、当時のイギリスの穀物法の話が出てきます。外国からもドンドン輸入すれば穀物が安くなるんだ、その安くなった分、労働者の生活が豊かになるじゃないかというキャンペーンをブルジョアジーはした。だけど実際には、輸入を自由化して、それに応じて労働者の賃金がガーンと下げられたという話が出てきます。それとまったく同じです。

●X

 “価値どおりの賃金をよこせ”というのは、価値論的な考え方自身で誤りがあるわけでしょ。1カ月の生活費どのくらいだから、これが価値だ、というようなことが言えなくはないような面があるけど、労働力商品の価値がどれだけなのか、なんてことはわからないわけでしょ。

●講師

 マルクスは、労働力商品というのは、他の商品と違ってある種の弾力性があるんだということを強調し
てます。最低限は肉体的限界なんだけど、社会的・歴史的要因があって、ある種の幅をもっている、そういう商品なんだということを言ってます。だけど、実際の賃金の大きさは、資本と労働との間の取り分をめぐる争いなわけだから、その力関係によってしか決まらない。そこをすっ飛ばして、客観的なものがあるんだということを前提として賃金要求するということ自身がおかしいということです。

●I

 自治労の給料日は早い。横浜は5日、前払いなんです。自治労自身が戦後の過程で闘争をやった。契約したんだから、早いうちに払えと。それはそれで大した闘争だし、重要なんだけど、それで終わってしまってはというところはある。だけど、それで団結が勝ち取れるんだったら、そういう闘争だってやるべきだ。賃金闘争はそういう形態もありうるということだと思う。

●仲山

 さっきの価値論的な、というところで発言させてもらいたいんだけど、再生産費というのは、労働者が人間らしく生きて働くために必要な費用というふうにみんな考えてしまうけど、そうじゃない。資本にとって、必要なかたちで市場で労働力商品が購入できればいいわけです。フラフラになろうが、とにかく労働力市場で商品として労働力を買ってきて工場でこき使う。一番鋭く書いているのは、『賃金・価格・利潤』だと思うんですけど、早死にして速く回転しようが、ある程度平均寿命が長くなって、長く働きながらゆっくり回転する、世代的に。どっちでもいいんだ。ギリギリまで生活条件、労働力再生産の条件を削って削って、早く死にながらドンドン労働力を提供する、子どもを生んで次の労働力世代を提供する。あるいは長く働く。そのどちらでもいい、資本にとっては。労働力市場で労働力を商品として調達できるということが、どんな形であれギリギリ保証されればそれでいい。それが再生産費用ということです。
 価値法則にもとづく労働力の再生産費用を価値論的にとらえられるというのはそういう意味であって、一人ひとりの労働者が人間らしく生きることを保障して、ちゃんと資本のために働いてもらうという、そういうものを保障する価値法則なんていうのはない。だから、人間労働力を商品としてとらえるということ自体が無理があるし、それは弾力的で可変的で、結局最後は、文字通り生理的に成り立って、資本のために働いて、なおかつ次の労働力を世代的に提供できればそれでいい。だけど、資本の傾向は、そういうこと自体が成り立たないところにバンバン進んでいく。まずいと思ったらちょっと修正する。だけど、またそこへ戻る。そういうことを初めからやっているし、今でもやる。その辺のことは、一番激しく『賃金・価格・利潤』に出ているんじゃないかと思う。

●Z

 『賃金・価格・利潤』は、賃金論あるいは賃金闘争論ということで決定的だけど、読めば読むほど、また今日の提起を聞いても思うけど、マルクス主義の真髄そのものなんだということが非常に決定的。
 もう一つ重要なことは、『賃金・価格・利潤』の団結論、賃金闘争論、労働組合論で動労千葉がやってきたということ。われわれは『賃金・価格・利潤』も持っているんだけど、動労千葉も今持っている。だから、『賃金・価格・利潤』を確認するときに、動労千葉という闘い抜いてきた生きた現実があるから実によくわかる。そういう相互関係に完全にある。そこが核心だと思う。
 とくに先ほどの「公正な賃金」論のところなんか、要するに、賃上げ闘争というのは、早い話が「生きさせろ」という叫びと要求を土台に置いて、それからもう一つは、共産主義社会をつくるんだから、もうちょっと自由な時間をくれなきゃ労働者としてやっていけないんだという要求も出す。その「生きさせろ」ということと共産主義社会のためにということとの幅の中で、言いたいことを言う。そういうふうにやっても後追いで、落ち着くべきとこにしか落ち着かない。だから逆に言うと、「公正な賃金」論で手足縛っているんじゃ始まらない。「生きさせろ」という叫びと、それから、俺らプロレタリアートは共産主義社会を目指すんだから時間をよこせと、これが階級としての生きる要求だということを含めて出して徹底的にやって、それで団結で総括するという。言葉で言えばそういうことだけど、動労千葉だよね、やっぱり。そこが核心じゃないかと思う。

●講師

 本当にそのとおりです。動労千葉の闘いがあって、その現実があるから、われわれが『賃金・価格・利潤』の内容をとらえられたという面と、それから、仮に論理的にこう言えるにしても、空理・空論にならないというものを現実に持っているということがやっぱりすごいことだと思います。
 実際に、『賃金・価格・利潤』で言われていることをストレートに実践している動労千葉の闘いがあって、これをやるのかどうか、というふうに問題を立てられるというところが、今われわれが手にしているすごい地平だと思うんです。何もなかったら、言葉でそうは言っても、としかならないのに、それを打ち破れるものがあるというのがすごいところ。その確信に燃えて、11月集会1万人結集へ向かって進んでいくということだと思います。
 あと、今日のW君の提起おもしろかったよね、賃金闘争で地域共闘みたいなのができるという。そういう構え方というか、賃金闘争といった場合も、戦後労働運動の中でつくられてきた非常に狭いイメージみたいなものを本当に打ち破っていくということが、もっと必要ですよね。

党学校通信 p11-16 受講レポート

受講レポートから ★『賃金・価格・利潤』(下)のレポートです。

【S】

 マルクスはとっても過激、というのが感想。空気入りました。
 「公正な一日の労働にたいする公正な一日の賃金!」という保守的な標語の代わりに、「賃金制度の廃止!」という革命的なスローガンをその旗に書き記さなければならない。(14節)
 ここでは、協会派の「公正な賃金」論、日共の「要求で団結」などという保守的スローガンを、マルクスが一刀両断で粉砕している。
 『賃金・価格・利潤』は単なる『資本論』の入門編ではないことが良くわかった。ブルジョアジーによるピンハネをなくす賃上げ闘争というゲリラ戦を徹底的に闘いながら、ついには賃金制度の究極的廃止のためのテコとして労働組合を使用する、というマルクスの結論は非常にスッキリしている、と思う。

【Z】

(1)『賃金・価格・利潤』は、あらためて学習してみて、やはり決定的な書だと思う。
 賃金論−賃金闘争論を核心において、マルクス主義そのものの精髄が出されている。階級的労働運動路線において、あらためて重視されなくてはならない。
(2)また、今日の動労千葉労働運動の存在の大きさである。
 『賃金・価格・利潤』を体現してきた労働運動の、生きた実践がここにあるということである。<『賃金・価格・利潤』   動労千葉>の関係で、とらえつくしていくということである。
(3)以上、発言の通り。

【U】

@賃金闘争論としても論議が深められたと思います。
A実践的結論として、徹底的な貫徹、究極的解放を根幹にすえる。この点において、理論においても、実践的な領域において動労千葉をもっているリアリズムにおいても、我々の地平は、ここを握りしめていく! この中にこそ、勝利があることが確認されました。圧倒的に賛成です。
B『賃金・価格・利潤』を、労働組合論、団結論を軸にした究極的な解放の論として、我々がつかんだことが、ものすごく大きいことを今回も感じました。

【G】

 『賃金・価格・利潤』での、賃金闘争のあり方みたいなイメージの展開が最もはっきりした。
 @つは、賃金=労働力の再生産費というものではなく、労働力市場で売買される金額のことで、闘わなければ資本のもとでは生きられないということ。
 Aつは、賃金闘争のもっているものの考え方。戦後の賃金闘争というと、労使で「より良い賃金体系」を模索するというようなイメージがあった。そうではなく、結局、労働者階級と資本との力関係によってしか、賃金は落ち着くところにしか落ち着かない。賃金体系そのものを破壊していくしか、労働者階級の要求は貫徹できないなどということがわかりました。
 B賃金闘争のイメージそのものを変えていく必要。生きていくための闘い、地域共闘できるような、幅のある発展的なものとしてとらえていく必要があると思いました。

【X】

@資本は、常に労働市場で労働力を得られれば良い限りで、賃金を可能な限り安くしようとすること、だから労働者階級は、常に最大の要求を突きつけて闘う必要があること、この賃・資の力関係によってのみ労賃が決まることを、改めてしっかり確認した。労働者階級が、ブルジョアジーよりつましい生活をしている事が当たり前、なんていうことも当たり前にしてはいけない。
A労賃の上昇、生活条件の改善ということも、戦後高成長過程のほんの一時で、80年代中半以降、労賃の絶対額の下落が始まって、貧困層が増大するという現実となっている。本当に、高成長期のというか、国独資期の平和意識を粉砕して、プロレタリア階級の貧困化、雇用・労働条件の悪化、医療・介護・年金etc.解体に怒りを爆発させて闘っていかなければならない。
B『賃金・価格・利潤』を学習して、資本主義への怒りを改めておぼえることができた。70年代に読んだときとは別の、非常に現実的な印象を強くしました。

【V】

 党の革命を経て、階級的労働運動路線を実践するという立場から『賃金・価格・利潤』を読むと、かつてマルクス主義経済学の入門書としてしか見ていなかった時に比べて、全然違う読み方、とらえ方になるなと思います。
 「労働組合は、労働者を階級的に結合する手段であり、ブルジョア社会を根底から覆すための準備手段でさえある」。それを実践の中から確信できるのが賃金闘争であり、『賃金・価格・利潤』の学習をとおして、それが明確にとらえられると思います。
 賃金闘争のイメージを豊かにもっていくことは重要だと思います。体制内労働運動の枠の中でのこれまでのイメージを吹っ飛ばし、世界の労働者階級の賃金闘争にも学び連帯しながら、「団結の拡大」をキーワードにつくり上げていくものだと思います。
 賃金闘争による団結の拡大は、労働者階級の団結にとどまるものではなく、労農連帯、労農同盟をつくり上げていく上でも、大事なのではないかと思います。「農産物は安ければいい」と思ったら、それは必ず労働者の賃金にはねかえる。これに対して、公正賃金論では太刀打ちできない。賃金制度の廃止という立場をしっかり持って闘うこと、その立場で闘うことは、労農同盟につながっていくのではないかと思います。
 この問題意識から、あらためてもう一度読み返してみたいと思います。

【P】

 『賃金・価格・利潤』は、賃金闘争の決定的意義について提起している点が重要であると思います。
 資本の力は、労働時間の延長等によって利潤率を上げることに常に働く。それにより労働者は、生存の危機を絶えず強制され、平均寿命が短縮されるほどの非人間的状態に落とし込められる。かつまた、考える時間も奪われ、「けだものの心」同然の精神にまで追いやられてしまう。
 したがって、労働者は人間として生きるためには、資本との日常的闘争・賃金闘争を闘わなければならないということである。
 それだけではない。労働者はその闘いをとおして、賃労働と資本の関係、資本家階級と労働者階級の非和解性を確認し、階級形成を成し遂げていくということ。さらに、労働者の団結を形成していくということである。そのことによって、賃金制度そのものを廃止していく闘いの能力をも獲得していくことが出来るということである。
 結論的に言って、賃金闘争は、労働者階級の根源的な闘いであり、これをもって、マルクス主義が労働者階級の闘いと完全に一体となることができたものと思います。
 動労千葉の闘いが、これを実践しており、このことによって、我々も『賃金・価格・利潤』を実践的に内容深くつかむことが出来るとの発言がありましたが、まったく同感です。『賃金・価格・利潤』の実践としての動労千葉の闘いという視点で、改めて動労千葉の闘いから学びたいと思います。
 「労働組合、その過去・現在および未来」で、「労働者たちの唯一の社会的力は、彼らの数である。だが数の力は、不統一によって破れる」という記述がありますが、「団結」の中身の問題として注目しました。当たり前のことのようですが、プロレタリアートが圧倒的多数であること、したがってこの団結が、ブルジョアジーを打倒する力をもっているということ。だからこそ、ブルジョアジーは常に労働者の団結を破壊しようと攻撃してくるわけです。であるが故に、労働者の団結をつくり上げていくことが、力関係を転換し、賃金制度そのものを廃止していく、基軸的な闘いであると明確に言えると思います。

【C】

 今日の『賃金・価格・利潤』の学習会と討論でつかんだ大事な点は、つぎの点にあると思います。
 1つは、この『賃金・価格・利潤』は、ウェストン批判という形をとりながら、当時から現在を貫く“賃労働と資本の関係”、そしてその根底的転覆を「賃金制度の廃止」という標語を掲げ、実践論として、言ってみれば階級的“賃金闘争論”を提起しているということです。
 2つに、したがってそれ故に、「物価の上がり下がりとは直接関係しない」ところの、資本(家)にとっての利潤と、労働者にとっての賃金をめぐる闘争が、労働者にとっての“労働力の必要な再生産費”をめぐって、徹底的に闘われなければならない根拠があるということ。
 さらに3つ目に、一番重要だと思った点は、労働者にとっての“その労働力の再生産のために必要な費用”というのは、ブルジョアジーによって、現在の一般的市場価値(価格)によって、これで足りるとされてしまったら、労働者の賃金は、労働力の再生産に必要な費用以下に簡単に落とし込められてしまうということです。
 さらに4つ目に、実践的には、賃金闘争で、アメリカ教育労働者運動に学びながら、日教組こそ、いな4大産別全体が、地域・住民闘争(小・中・高校生をも巻き込んで)を切りひらいていく必要があるし、できるということです。
 そして最後に、この『賃金・価格・利潤』の“賃金闘争論”の生きた実践が、動労千葉労働運動そのものの中に貫かれており、これに学び、実践していくことが、われわれはできる、ということをはっきりさせたい。
 われわれの生きている社会は、まさに『賃金・価格・利潤』の生きた実践を求めている、ということを痛切に感じた学習会でした。すごく有意義でした。

【J】

 『賃金・価格・利潤』は、当時の労働者階級の労働運動にたいする考え方・実践にたいして、マルクスが第1インターでの講演で、賃金闘争は大いにやるべきだ、と労働者階級の闘いのあり方・運動をはっきりさせたものです。
 『賃金・価格・利潤』は、ジョン・ウェストンの当時の労働運動の考え方を同志的に批判することによって、『資本論』の立場から、賃金闘争とは、労働者階級の自己解放の闘いであることを、打ち出したものです。
 ウェストンは、“労働者が賃金を上げても、資本家は物価を上げて、すぐ取り戻すであろう”と言いますが、マルクスは資本主義的生産の解明から、商品の価値(価格)と賃金は別のことであると言って、商品の価格は資本家の意思によって決まるものでない、と明らかにします。
 マルクスは、商品の価値は社会的労働量の大いさであると言って、商品の価値は、労働者の労働時間によって客観的に決まるものである、と明らかにします。そして、“商品の価値とは何か”として、商品の価値は、労働者が、資本家の生産手段(工場・機械・原材料等、c)に従属して、ある目的のもとに生産物を加工することで、生産手段の価値を生産物に移転しつつ、その生産物に自らの労働量を付け加えることである(労働時間によって計られる量、v+m)と。
 ここで、vは労働力の価値・賃金で、労働者が明日もまた働き、家族を支えていく生活必需品に相当するものです。mは、労働者が生きる生活必需品以上のもので、資本家の剰余価値・利潤です。このように、資本家が1日の労働の報酬として支払う賃金は、資本家の利潤を覆い隠しています。資本家の利潤は商品の中に実現されており、資本家は商品を価値どおりに売って利潤を得ているのです。資本家はm・利潤を大きくするために、絶えずv・生活必需品を小さくしようとします。すなわち、資本家は生産力を増大して商品1個当たりの価値を小さくするために、機械の改良・発明(自然力の効率的な利用)を行うのです。
 資本主義的生産−その資本の蓄積運動は、労働者の賃金を絶えず低めようと作用しているのですから、労働者は、賃金アップを絶えず闘いとらねばならないのです。労働者の賃金アップは、資本主義的生産(資本の運動)との闘いであるから、労働者は労働組合をテコに団結して、労働者階級の究極的解放の立場から闘わなければならないのです。「労働者階級の解放は、労働者階級自身の事業である」。そのために、労働者階級は、自らの労働者党を建設しなければならない。

【L】

 賃金闘争について経験がないということで、議論をきくことにしました。
 ただ、自分としては、討論の中でとり挙げられた、60年代末に出された『最前線』での闘いや、アメリカの教育労働者と日本の教育労働者の闘いの違いや、オークランドの、保護者や生徒まき込んでの賃上げの闘いなどを聞くにおよんで、生きた材料はいくらでもあるんだ、と考えさせられました。賃金闘争で団結し、政治課題を闘い、「賃金制度の廃止」に突き進んでいく闘いが、現にある。自分などはやっぱり、賃金闘争をただ「学習の対象」として落とし込めているという思いがしました。プロレタリアートにとっては、「生きられない」という地点から闘いを始め、団結して、どんどん階級的自覚と自己解放能力を開花させていくものとしてある。
 討論での三里塚についての発言は、労働者の賃金闘争は、農民の利害にも深く関わっているんだという趣旨だったと思いますが、「賃金制度の廃止」は、労働者階級の革命的事業であると同時に、全人民の解放の課題なのだと、端的に表現していると思いました。
 総じて、『賃金・価格・利潤』の学習会は、実践的だったと思います。賃金闘争は、プロレタリア革命そのものだし、マルクス主義者であるのか否か、という問題としてあるのだと、初めて考えさせられました。だから今後、生きた賃金闘争と労働運動の歴史、そして動労千葉の闘いを学びつつ、『賃金・価格・利潤』を振り返っていこうと思います。

【A】

1、討論の中でも出されていましたが、『賃金・価格・利潤』はマルクス主義の真髄をあらわしているという意見には賛成です。小冊子でかつ平易に書かれていますが、その点も含めて、マルクスの著作の中でもやはり一つの頂点を示していると考えられます。党学校の限られた期間での学習文献として選定されている理由も、ここにあると理解できます。
2、今回は『賃金・価格・利潤』の後半ということで、資本の生産過程の実体を解明している部分ですが、それは即ち、労働力の商品化の実体の暴露でもあります。この部分は、資本主義社会における労働のあり方の本質、したがってまた労働者階級の存在の本質を理論的に鋭く提起されている部分ですが、同時にこの記述は、労働者にとってストレートに理解されやすいものとなっています。
 討論の中で、賃金闘争論をめぐる社民やスターリン主義の誤りは、労働者階級の要求の抑圧や敵対としてあらわれていますが、それは理論的には『賃金・価格・利潤』の歪曲・否定というかたちをとっていることが明らかにされました。
 賃金闘争や労働条件改善要求は、労働者の生存をめぐる闘いという面と、資本の搾取に対する憤りの爆発という面とがあります。しかし、こうした闘いは、賃労働と資本の本質的な関係に直面することになります。そこには、賃金奴隷制の廃止へと、労働者階級の自己解放へと発展していくべき内容が包摂されています。歴史的過程もこのことを示しています。
 動労千葉の存在と闘いが、『賃金・価格・利潤』の実現形態であるという指摘は、重要でした。

【R】

 マルクスの『賃金・価格・利潤』は、その内容において『資本論』のガイスト的に書かれているのだが、それはまさに『資本論』自体が『賃金・価格・利潤』で対象化している、労働者階級との対話の中から生まれてきたことを実証していると思う。
 第1インター中央評議会でのイギリスのウェストンの主張する「賃金闘争は無益で、労働者の団結を破壊さえする」。そして結局は、「労働者は、プルードンやオーエンのような相互扶助的な社会建設に没頭させる」という論に、マルクスは徹底的にこだわり、『資本論』の完成の「遅れ」への躊躇すらいとわず論戦に突進した姿は、本当に感動的だ。
 しかも、その内容は、賃上げ闘争や労働時間短縮闘争なり、労働者の日々の日常闘争的課題であり、同時に反合理化闘争として、賃金制度の廃絶、プロレタリア社会主義革命そのものを団結を基礎に、労働者の課題として掲げていることに、今日的な労働運動の発展の共通性をみることができる。
 資本主義社会が、労働力の商品化を土台にした賃金奴隷制社会である事実と向き合い、プロレタリアートこそが、この最後の階級社会をはじめ、すべての階級社会を廃絶できるということを、資本主義自らが、その墓掘り人として、その担い手である労働者階級を生み出してしまった事実の中でつかみ、全人民の解放にとってもプロレタリア革命の基軸性を確認していきたい。

【W】

 今回の講義は、自分にとってマルクス主義、原理論の体系的整理を自分のなかでもう一度やらねばならないと考え込まされるものであった。結論を先に言えば、宇野原理論的な、マルクス主義を没階級的論理主義で整理してしまうような面(むしろ宇野はそれをウリにしている)から脱出して、徹頭徹尾階級闘争の武器として、原理論を自分のなかに復権しなければならない、是非したいという欲求にかられた。
 前回の労働力の商品化論にふまえて、賃金制度というもののあくどさをマルクスは暴いていく。賃金制度そのものの根底的批判に大きな力点がある。資本家はあたかも労働の対価を正当に与えているかのような形態をとる。しかし実際には剰余価値の拡大のみを動機として労働時間を拡大し、よりいっそう搾取を強化しようとする。実際には賃金制度はより「自由な」形態をとった奴隷制度であり、資本家と労働者はその存在として非和解的関係を再生産していく関係にある。
 ここから講師が強調的に提起していた「自由にできる時間がなければ人間的発展はない」の項がもっとも鋭角的であるが、以降のすべての面についてマルクスは「労働者の生理的限界性」「生活水準」という形で、論理とは違う次元の「生きた労働者階級」そのものを真っ向から対象化して論じている。
 そして結論的には、討論でも明らかになったが「正当な賃金ライン」のようなものはありえない、それこそ体制内労働運動の考え方だということである。そもそも賃金制度のもとにある以上、労働者が人間として扱われることはない。従って賃金制度の撤廃にむけた日常的な闘争として賃金闘争をやりぬくということである。賃金闘争を「労働者に一番身近な要求闘争」「革命運動のすそ野を広げる闘争」かのようにとらえることが完全に間違っている。実に根底的な、資本家階級に対する非和解的な奴隷制度撤廃宣言として突きつけたたかわれねばならないということである。とても有意義な学習会でした。

【I】

 今回は特に興味深い(おもしろい)内容だったと思います。
 討論でも出ていましたし、提起にもありましたが、『賃金・価格・利潤』については、その具体的実践例は動労千葉にまさに実現されていることを、あらためて深く実感しました。
 いっそのこと、『俺たちは鉄路に生きる2』を『賃金・価格・利潤』的に読む、というような内容で、講座があってもいいいのではないかと思いました。