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2007年09月号党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『賃金・価格・利潤』(上)

講義概要 P1-5
★ 労働時間、労働力の搾取、賃金奴隷制- P5-9
受講レポート P9-16

2006年9月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-5 講義概要

第8期 第3課目 マルクス『賃金・価格・利潤』(上)

 前半講義概要   講師 岩谷芳之 

なぜ『賃金・価格・利潤』を学ぶのか

 『賃金・価格・利潤』は、マルクスが労働者階級の基礎的団結体である労働組合の任務を正面から論じた書物です。マルクスは本書の結論として、次のように言っています。
 「労働組合は、資本の侵略に対する抗争の中心としては、立派に作用する。それは、その力の使用がよろしきを得なければ、部分的に失敗する。それは、現行制度の結果に対するゲリラ戦に専念して、それと同時に現行制度を変化させようとしないならば、その組織された力を労働者階級の究極的解放すなわち賃金制度の究極的廃止のためのテコとして使用しないならば、全面的に失敗する」
 つまり、@賃金闘争を始めとした資本との日常的攻防戦の不断の貫徹、A賃金制度の廃止−労働者階級の究極的解放に向けた闘い、を一個二重のものとして闘いぬくことが労働組合の任務だということです。ここには、「労働組合はもっぱら賃金闘争を行う組織、革命運動は革命党がやること」という労働組合観はみじんもありません。プロレタリア革命が、私有財産性の廃止=賃金制度の廃止を目的とするものである以上、「資本の侵害に対する抵抗の中心」である労働組合が、賃金制度の廃止のために闘うことは当然です。
 これは、動労千葉が『俺たちは鉄路に生きる3』で「『労働者が革命を起こして、お前たちに引導を渡してやる。労働者に権力をよこせ』という立場を持ってこそ、労働運動が前進していく時代が到来したのです」と述べていることに通じます。
 また、労働組合が資本との日常的攻防を貫かなければ、労働者の究極的な解放をかちとることはできません。マルクスは本書で、「もし彼ら(労働者)が、資本との日常闘争においておくびょうにも退却するならば、彼らは、そもそももっと大きな運動を起こすための能力を失うであろう」と鋭く提起しています。

「賃金闘争有害論」との闘争は労働運動の根本的な課題

 ウェストンは「賃金闘争は労働者にとって有害無益」と主張しました。これは、今でも体制内労働運動指導部が絶えず垂れ流してる屈服思想です。こうしたイデオロギーと対決し、実際に職場で賃金闘争を闘うことによって、労働者は労働組合を自らの手に取り戻すことができるのです。
 労働者が本気で賃上げを要求して闘おうとすれば、既成指導部は直ちに徹底した抑圧に出てきます。これとの闘いは、労働運動の階級的再生にとって根本的なテーマをなしています。
 資本は絶えず「賃上げをしても首切りを誘発するだけだ」と言い張ります。既成の労組指導部はこうしたイデオロギーに根本的に屈服しています。その根本にあるのは、賃金も雇用も、労働者にとっては運命のように受け入れるほかはない法則によって客観的に決まってしまっているという考え方です。この点ではウェストンの議論もまったく同じでした。
 これに対してマルクスは、「資本と労働者の闘争によって賃金の大きさは決まる」と述べています。この提起は、労働者階級と資本との利害が非和解であること、労働者階級が資本の侵害に対して全力で闘い、自らの生存を全うしつつ、賃金制度の廃止という究極の目的に向けていかに自己解放能力を形成していくかという問題と一体のものとして出されています。

ウェストンの主張とマルクスの批判(第1節〜第5節)

 ウェストンの主張は、要約すると「名目賃金が上がっても物価が上昇するから実質賃金は変わらない」ということです。
 その主張の背後にあったのは、「商品の価格はその商品を生産した労働者の賃金によって決まる」という考え方でした。例えば「賃金を10とし、利潤率を賃金の100%とすれば、資本家は10をつけ加える。地代の率も賃金に対して100%とすれば、さらに10がつけ加えられる。その商品の総価値は30となる」ということです。
 他方でウェストンは、実質賃金を問題にします。実質賃金とは、「支払われた名目賃金で買うことのできる諸商品の量」のことです。それは、諸商品の価格によって変わりますから、「実質賃金の大きさは諸商品の価格によって決まる」ということになります。
 つまりウェストンは、一方で「労働の価値が諸商品の価値を決定する」と言い、他方で「諸商品の価値が労働の価値(=賃金)を決定する」と言っているのです。これでは、商品の価値が何によって決まり、賃金の大きさがどう決まるのかは、まったく不明です。

第6節 価値と労働

●商品の価値は何によって決まるか

 そこでマルクスは、「商品の価値とは何か」「それはどう決まるのか」という根本問題を提起します。
 一商品の価値・交換価値とは、「その商品が他のすべての商品と交換される量的比率」を意味します。これらの比率は限りなく多様です。
 例えば、1gの小麦の価値は
  1gの小麦=0.5`の鉄
  1gの小麦=30個のみかん
  1gの小麦=10足の靴下
  1gの小麦=15本のボールペン
   …………
というように、ほとんど無限の他の商品に対する交換比率として現れます。
 しかし、これらの式はいずれも「1gの小麦の価値」という同一物の表現にほかなりませんから、1gの小麦の価値は、いろいろな商品との交換比率という相対的なものではなく、小麦1gに内在するものであるはずです。
 「1gの小麦=0.5`の鉄」という表現に即して言えば、1gの小麦の価値と0.5`の鉄の価値は、小麦でも鉄でもないある第三者に等しいことを表しているのです。
 では、このような形式で表現される共通の実体(「ある第三のもの」)とは何でしょうか?

●商品の価値は、その生産に要した社会的労働の大きさによって決まる

 生産された物の自然的性質はさまざまですから、「共通の実体」は社会的なものであるはずです。それは労働、しかも社会的労働としての労働です。諸商品の相対的価格は、それに費やされた労働の分量によって決定される。
 最終生産物としての商品の価値には、最後に行われた労働だけでなく、それ以前に労働を加えられて生産された原材料や労働手段の価値も含まれます。

●商品の価値は労働の生産力に規定される

 社会的労働の大きさは、「与えられた社会状態において、一定の社会的平均的な生産条件のもとで、使用される労働の与えられた社会的平均的な強度および平均的な熟練で、その商品を生産するに必要な労働の分量」(岩波文庫版p62)を意味します。だから、労働の生産力が上がれば一定量の商品の価値は低下します。

●価格は価値の貨幣的表現

  略。

●あらゆる商品は、平均的にはその価値どおりに売られる

 生産の諸条件が個々の生産者にとって異なっていても、市場価格は同じ種類のすべての商品にとって同一です。市場価格は、平均的な生産諸条件のもとで一定の品物の一定量を市場に供給するために必要な、社会的労働の平均量を表現しています。
 確かに、市場価格は需要供給の変動によって、価値以上となったり以下となったりと動揺します。しかし市場価格は、価値どおりの価格(自然価格)に向かう傾向をもっています。あらゆる種類の商品は、平均的には、その「自然価格」で売られるのです。

●利潤は商品をその価値で売ることによって得られる

 すると、さまざまな事業の恒常的な利潤が、諸商品をその価値以上の価格で売ることから生まれると考えることはできません。
 そこでマルクスは、商品をその価値で売ることによってなぜ利潤が得られるのか、という仕組みの解明に向かいます。

第7節 労働力

●労働者が売るものは労働力

 労働者が資本家に売るものは、「労働そのもの」ではなく、労働力です。
 このことは、賃金形態によって覆い隠されているとはいえ、労働者の置かれている現実そのものです。労働者は、労働力を売ることによってその処分権を資本に引き渡すのです。資本にとってこれは、「買った労働力をどう使おうが俺の勝手」ということです。つまり、労働者は資本の専制的な指揮・命令に従って労働することを強いられます。
 だから、「もしいくらでも任意の期間にわたって労働力を売ることが許されたなら、奴隷状態が直ちに復活する」「このような売却は、もしそれが生涯にわたって契約されれば、その人を直ちに、彼の雇い主の生涯の奴隷たらしめる」ということになるのです。

●本源的蓄積=本源的収奪

  略。

●労働力の価値

 労働力の価値も、他の各商品の価値と同じように、その生産に必要な労働の分量によって決定されます。しかしこの人間の労働力は、人間の生きた個体のうちにのみ存在します。
 したがって、労働力の価値は、
 1)現役の労働者を個体的に再生産するに必要な生活必需品の価値
 2)将来の労働力を生殖をとおして世代的に再生産するに必要な生活必需品の価値
 3)労働者が一定の熟練を獲得するために必要な一定分量の価値
によって規定されることになります。

●賃金制度の上では「平等な賃金」はありえない

 マルクスが「賃金制度の上で平等な賃金はありえない」と述べているのは、労働者が熟練を獲得するための費用(養成費)は職種や業種によって異なることを現実の根拠にしています。
 もちろん、現実に存在する賃金の格差が、すべて厳密な意味での養成費の差によるものとは言えません。養成費の差として観念されることの中には、社会的・歴史的に形成された幻想的な要素も混じり込んでいますし、ある質の労働力の希少性や養成の困難性が労働市場の需給関係に反映して、その労働力の市場価格を高くするということもあります。さらに、帝国主義段階では、労働者支配=労働者の階級性の解体のために賃金格差を資本が意識的に貫徹するということもあるわけです。
 ただ、こうした要素をすべて取り払ったとしても、コアの部分において養成費の差による賃金の差は必然的に存在します。これを無視して「賃金の平等を中心的な要求とするのは、浅薄な急進主義でしかない」とマルクスは言っています。これは、賃金を資本と労働の階級的搾取関係としてとらえることに反対し、もっぱら労働者間の「賃金の平等」「公正な賃金」だけを追い求める空想的社会主義者に対する怒りの表現ととらえるべきです。
 今日の賃金格差は、95年日経連プロジェクト報告以来、資本が労働者階級総体を徹底した低賃金にたたき込むために、新たに労働市場に流入した青年労働者の賃金を極限まで引き下げる方策を取ったことから生じたものです。
 連合幹部は、これに屈服するだけでなく、「パート労働者との格差是正のためには、正社員の賃金切り下げも覚悟しなければならない」とさえ言っています。資本との闘いを抜きに「公正な賃金」のみを追い求める体制内労働運動との対決は、今もきわめて重大なテーマです。

 (前半講義了)

党学校通信 p5-9

労働時間、労働力の搾取、賃金奴隷制 −討論から−

●N

 「ある大陸法には、ひとがその労働力を売ることのできる最長時間が規定されているのである。もしいくらでも任意の期間にわたって労働力を売ることが許されたなら、奴隷状態が直ちに復活するであろう。このような売却は、もしそれが生涯にわたって契約されたならば、その人を直ちに、その雇い主の生涯の奴隷たらしめるであろう」(岩波文庫版p70)の「最長時間」というのは、1日何時間という最長時間ですか?

●講師

 時間という言葉を使っているから、そっちが適切だなという気がする。ただ、全体の論の運び方からすると、1日の労働時間と労働契約の期間のどっちも含んでいるような感じがしますよね。

●N

 その後に、「もしいくらでも任意の期間」とあるんで、そこと分けてしまうのはね。両方ないと「奴隷」にならない。
 あと、平等な賃金はありえないという所は、こんな激しい言い方をしていたのかという印象。われわれが今、賃金闘争をどうやるのかというとき、実際に格差化されているということがある。資本の側が、差別化し奴隷化するような賃金体系、成績給・能力給みたいなのをどんどん持ち込んで、生活給みたいなものを解体する攻撃とどう闘うのかということになる。この間、どういう要求を出すかと苦労するということがあった。格差化に反対するという意味で、同一賃金ならわかりやすいというか。ここまで激しく平等賃金論ナンセンスという言い方をしてたかなと思って、印象に残った。

●講師

 実際に現場で賃金闘争を闘っていく場合に、現実に労働者の感覚からしたって、これは許し難いという格差がある。それを、格差は当然だよ、というふうにはならない。マルクスが言っていることも、そういうことじゃない。現実にある格差というのは、養成費の違いで全部説明できない。むしろ、今の現実の中では、そんなものを覆い隠すくらい膨大な格差になっている。だから、格差是正、あるいは格差をただすことそれ自身がナンセンスだというのは成り立たないと思う。

●N

 これが正しい賃金体系だ、みたいなものはないということですよね。だから、積極的に賃金制そのものを廃絶することだし、そのために職場の団結をどうつくり出すかという意味での賃金闘争だということですよね。

●講師

 これが望ましい賃金体系みたいなものは、はっきり言ってないじゃないですか。だけど、賃金闘争もあるし、賃金要求というのもありますよね。それは、労働者にとって団結できる要求であり、団結できる闘いであるかどうか、というのが基準になると思うんです。例えば、何%上げろという要求だったら格差を拡大する。だから、1人あたり一律1万円上げろと要求するということもある。それは、いろんな現実があるから、置かれた現実の中で形態が違ってくると思う。だから、実際にどういうふうに要求するのか、どういうことを対置していくのかは、具体的事情によって様々だと思う。

●N

 この間の「労働運動の力で革命をやろう」「団結の拡大が革命なんだ」という中で、賃金闘争も革命に向けてどう団結をつくっていくのかという問題としてとらえ返すと、非常にスッキリするなとは思うんです。

●講師

 かつての高度経済成長の時代みたいに、要求すれば上がっていくことが永遠に続くと思われる方が特殊な時代で、マルクスの時代だって、今のわれわれの時代だって、要求したって簡単には通らない。その中で、闘うことによって団結をつくっていくために賃金闘争も闘うということだと思う。

●S

 ここの部分は、プルードンとか、バクーニンとか、こういう賃金制度が一挙に実現するんだみたいな夢物語を、闘争を媒介して実現するんじゃなくて、そういうことばっかりを言っている人たちに対する反論みたいな感じで書いているよね。要するに、そういう空理・空論で、一挙に平等賃金を実現するんだみたいなことを言っていることに対する批判。

●X

 賃金闘争は賃金闘争ですごく重要な闘争なんじゃないの? 要求しても、あんまり実現されないからというような言い方は、あんまりよくないんじゃないかと思う。だって、そもそも耐えられない低賃金であるという現実があるわけでしょ。

●講師

 ともすれば、みんなが納得する制度はどうなのか、みたいなことを、とくに既成労働運動なんか発想しますよね。その理想的な制度を実現するためにはこれだけ引き上げが必要だから、というふうに考えていくとちょっと違うんじゃないかということです。賃金闘争がものすごい重要だというのはそうですよ。

●A

 先ほど問題になった所。労働期間の問題。あれは労働日の問題で、1日の労働時間が限りなく延ばされたら、本来労働力だけを売っているにもかかわらず、人格それ自体を売り渡すのと同じで、だから、奴隷状態だと言っているんじゃないでしょうか? 労働者は、一生働き続けなければ生きていけないわけだから、それは何年であろうと、多少労働条件によって差は出てきますけども、変わらないと考えた方がいいんじゃないでしょうか。だから、労働日の問題なんだという理解の方がいいんじゃないか。

●U

 当時の状態から言えば、体力の続く限り、1日15時間でも16時間でも働いて、結果ギリギリ寝る時間を、ある種5時間、6時間にしちゃって、そういうのを1週間続けるとか、そういう状態になったら、それを奴隷状態と言うんじゃないの、という話を書いてるんじゃないかと私は思う。

●O

 資本主義のあり方とは、売るのが、労働そのものではなくて労働力なんだ。奴隷制はとにかく労働する人間そのものが商品として売買されるという世界。その辺の違いを言っているわけだよね。だから、大陸法には労働者が労働力を売ることのできる最長時間が規定されているという、いろんな労働者の闘いによってね。そういう形で書かれているわけだよね。これが「任意の期間」資本に任されたら、時間が規定されない。そういうふうに労働力を売ることが許されたら奴隷状態になっちゃうということを言いたいと思うんだけどね。

●X

 こだわっているのは、近代的労働者の大量的産出での、2重の意味で自由というやつ。封建的主従関係からの自由であるということと、土地から切り離されて生産手段から自由である。この2重の意味で自由だということによって、資本制社会が成り立っている。だから、人格を売るのじゃなく、労働時間を売るというところに資本主義社会の特質があるわけでしょ。そうするとこういう、もしも労働力を長期間にわたって売ることができれば奴隷状態になるというような展開になっていくと、そこの特質をまぜこぜにしているような感じがするなということなんだよね。奴隷制、農奴制、資本制の違いは、まずは承認するわけでしょ、われわれは。

●Z

 資本主義社会が奴隷制、封建制とは明白に違う、その意味では単純に言えば、歴史的な進歩だと。そこには一つの画然たる違いがあるんだという、そこのところは強烈に確認してほしいという意見だと思う。だけど、それに含まれつつ、なおかつ、マルクスがここで接続する形で、「奴隷状態が直ちに復活するであろう」というのは、もう紙一重で、奴隷制そのもの、いくらでもそうなるというふうなニュアンスね。それを強烈ににじませたいから、「奴隷状態が直ちに復活するであろう」ということを立体的に書いたと思うんだよね。13節で、「われわれは今まで、労働日の限界は与えられているものと仮定してきた。だが、労働日それ自身は不変の限界をもっているわけではない。資本の不変的傾向は、肉体的に可能な最大の長さまで労働日を延長することにある」(同p96)と。だから、資本というのは、放っておけば、まさにここで言うように、制限のない、最長時間のない、要するに奴隷制そのものにどんどん行くんだという、それが資本の本質的なあり方なんだということが出されて、それでプロレタリアートは放っておけば文字通りぶっ壊されるわけだから、したがって階級闘争になる。労働者にとって労働日問題というのは、資本主義の、あるいは資本主義における階級闘争の核心問題なんだよね。資本は極限まで制限なし。奴隷制そのもの。30代でバタバタ死ぬというところまで平気でやる。それは、今日の最末期帝国主義もまさにそう。
 それに対して、プロレタリアートが共産主義社会、要するに自己解放ということを考えたとき、それは労働日と関係する。つまり、労働が短ければ短いほど解放される。したがって、ブルジョアジーとプロレタリアートは労働日をめぐって、本質的に決定的に対立する。だから、1日の労働時間が問題になったのも、プロレタリアートの闘争の結果。闘って、押し上げて押し上げて10時間になったのも1848年だから、それはチャーティスト運動始め、プロレタリアートの階級闘争抜きにはまったく語れない。そこが、マルクスが「奴隷状態の直ちの復活」というふうなことににじませた思いではないかと思うんです。

●X

 いや、賛成です。

●仲山

 労働時間というのは資本主義以前は自然の摂理で決まっている。朝、お日様が上がったら畑に行く。夜は暗くなる前に帰って来る。労働時間を上から人為的に規制するということが基本的にないんです。ただ、自然の摂理を一切合切無視して、人間の働く力を徹底的に無制限に引き出す場所というのは、例外的にあった。それは囚人の労働で、無制限に人間の労働力を何年間かで使い切って死なせるという、金山とか鉱山の労働だけなんだということを書いてあります、『資本論』なんかで。基本的にそれ以外の封建社会の労働というのは、自然の摂理にしたがって、共同体の掟で労働した。だから、資本主義以前の段階では、権力者がやったことは、労働時間を引き延ばす法律をつくってそれをゴリゴリ押しつけようとするということなんです。だけど、それは無理がある。自然の掟で共同体的に労働を行っているというのが基本だから。それを外から来てハネて持っていくというのが搾取や収奪の仕方でしょ。だから、限界がある。だけど、直営の金山なんかでは、数年で死ぬまで働かせるということがあった。労働力を金銭で買うというのは、それと似ているということなんです。
 資本主義の原理というのは、人間を単なる労働力として、物として、できるだけ短期の間に使いつぶしてしまうというのが原理なわけですよ。だから、労働者や人間が使い尽くされて疲弊してしまわないように、労働時間を制限しなければいけないということを、ブルジョアジーの側も問題にせざるをえなくなる。
 だから、最長時間が規定されている。労働力の無制約な売買なんてことをやった場合には、直ちに奴隷状態が復活する。資本主義という社会は、そういう社会なんだということとの関係で、これは言っている。労働力の売買は、それくらいひどい、その非人間的な本質が、これほどまで基本となり、原理となった社会は歴史上ない、というようなニュアンスですよね。
 それを合理的に規制して、よい賃金制度とか平等な賃金制度の上に社会がなんとかなっていくということが考えられると言おうとしているのが、オーエン主義者の労働運動活動家であるウェストンなわけです。賃金の上げ下げをめぐって争ってもどうにもならない、抜本的に社会制度を変えましょうと。平等な賃金制度を保障される社会、これこそ根本的社会改革だというふうに心底思っている。
 それに対してマルクスは、プルードンだとかなんだとかというのを全部含めて、平等な賃金制度と言って、この社会の根本的矛盾を塗り隠してるが、ふざけんじゃないという感じで、激しく怒っているという構造になっているわけです。

●I

 労働者は「命までは売ってないよ」というのが、動労千葉の『俺たちは鉄路に生きる3』の中にも出てくる。ところが、現実は命まで全部とられている。「プレカリアート」の人たちもそうだけど、労働者は殺されている。

●N

 確かに労働者は売るのは労働力で、魂までは売らねえよ、ということがある、労働者として。だけど、まさに人格までも専制的に支配して、毎年自殺者が3万人。「プレカリアート」なんかその怒りの声なわけじゃない。資本主義というのは賃金奴隷制なんだ。だからこそ労働者階級は決起して、根底的に革命をやってひっくり返すんだと、『賃金・価格・利潤』を読むときに、はっきりさせるべきじゃないか。賃金闘争をそこにつなげて、団結論として、団結をどうつくり出すのかというものとして復権していく。そういうものとして、もう一回とらえ返す必要があるんじゃないかなと思う。

党学校通信 p9-16受講レポート

受講レポートから ★『賃金・価格・利潤』(上)のレポートです。

【P】

 マルクスが「平等な賃金制度」はありえないと怒っているその激しさが何故なのか、当初シックリこなかった。今日の資本主義において、とりわけても労働者を分断するために賃金に驚くほどの格差をつけている現実があり、その意識の反映だったと思うのですが。しかし、これが賃金制度の根本的問題性を問題にせず、「平等な賃金制度」を空論的に掲げる空想的社会主義者に対する心からの怒りの表明であることが理解できました。
 ということは、賃金制度ということの中に資本主義の根本的な問題性があるとして、マルクスが提起しているとわかります。労働日のところの討論で理解が深まりましたが、資本は規制を加えなければ、労働者の命や健康などみじんも意に介さず、労働時間を極限的に延長させていくということ、ある意味で封建制などよりももっと非人間的なあり方であること、資本主義の下ではプロレタリアートは生きられない、資本主義の打倒の中にこそプロレタリアートの解放=全人間の解放があることを、自分自身もっともっとはっきりさせていきたいと思います。
 賃金闘争を闘う上で、資本とのイデオロギー闘争の面が極めて重要なこと、また体制内労働運動との闘いにとっても同様に、賃金問題をめぐるイデオロギー闘争が重要なことを自覚しました。レジュメの2〜3頁に引用されている政府や連合、自治労の文書は、賃金をめぐるイデオロギー攻撃文書だということがよくわかります。これまで、こういう文書はほとんど読まずにきたのですが、イデオロギー闘争として対象化し、肉迫していきたいと思います。
 本源的蓄積のところを、マルクスは「本源的収奪」と言いかえていますが、まさにそうだと思います。この問題をテーマとした部分は、何度読んでも資本主義に対する怒りが湧いてきます。同時に、資本主義がプロレタリアートから生産手段を奪い無産者とするということ、従って、それを転覆して本源的結合を新たな歴史的形態において再建するという共産主義論の展開は、とてもスッキリ理解できます。

【W】

 導入部分の、いわば「今、『賃金・価格・利潤』を読み直すことの意義」の部分が非常に重要と思いました。一つは、労働組合論を革命論から真っ向からとらえなおすということ。<資本との日常闘争>と<革命>を一体でたたかいぬくというテーマ。まさに『俺たちは鉄路に生きる2・3』でもっとも生き生きと描き出されている実践的テーマそのものですが、マルクスの実践的理論的格闘からもつかみとり深めていくべき問題です。そこに立ち向かっていく学習会として決定的だと感じました。
 また、「需要と供給の法則」による運命論に対して「資本と労働者の闘争によって賃金の大きさは決まる」ということを原理的に明らかにしていることは、連合・全労連批判として重要ですが、それが階級利害の非和解性を明らかにすることに眼目をおいていることが決定的です。
 この視点をすえきった上で、まずもって価値論、労働力商品化論をつかんでいったことは新鮮であり、自分としても新しい読み方を「強制」されるものです。次回の後半の提起・論議がとても楽しみです。  

【C】

 今日の『賃金・価格・利潤』の講義は、導入部がすごくよかったが、1節以降、7節までのところは、もう少しはしょってもいいが、重点を決めてウェストンへの批判点を出してほしかった。
 導入部の点でよかった点は、“なぜ、今、『賃金・価格・利潤』をやるのか”ということについて、労働者階級が、今生きられない現実の中で、@労働組合の日常的中心課題として賃金闘争を不断に闘うこと、A賃金制度の廃止−労働者階級の究極的解放に向けた闘い、の2つの課題を一個二重のものとして闘い抜くことが、階級全体の正面課題にならなければならない点を突き出したことです。
 しかも、Bその生きた実践主体として動労千葉などが存在し、「お前らの時代は終わったんだ。俺たち労働者がやってやる」と資本と真っ向から闘い抜いていること。こうした中で、C体制内労働運動指導部が、労働者階級を“生きさせない”ために資本の言いなりになって“折り合いをつけた”労働運動をやっていることを、階級的労働運動の断固たる遂行の地平から、“労賃問題、労働者支配政策”として批判しきっている点と、規制改革グループ会議に代表されるブルジョアジーの政策を合わせて批判している点がよかった。
 第1節から第7節までの“ウェストン批判”という点では、マルクスがこの『賃金・価格・利潤』で一番言いたかったのは、賃金と利潤の分割比は、ということは、かの議論になった労働日の最長時間の問題は、労働組合に組織された「闘争者たちのそれぞれの力の問題に最終的に帰着する」ものとの観点から、ウェストンの“賃金基金説”的な、いな、“ブルジョア階級の意志によって、賃金、物価がきまってしまう”論を根底から批判しているという点を、もっとくっきりと押し出してほしかった。
 労働組合・労働者階級は、賃金闘争をとおして“労働者の自己解放能力をつけていく”のだ。マルクスは、この視点から、ウェストン批判をしていると、講師は冒頭言っていたことを、そのとおりに提起してほしいと私は思った。次回に期待している。また、これにかみ合った議論をしていきたい。
 ウェストンの経済学的批判は、自分にとっては結構難しかったが、次は自分の言葉で突き出せるようにしたいと思った。

【L】

 今回は、階級的労働運動路線を闘っていくにあたって、賃金闘争について学習し、議論をした。自分のように労働運動についてまったく未経験な者にとっては、現場で闘う同志たちの議論を聞くことが非常に大事だと思いました。
 1つは、「マルクス主義的に正しい賃金闘争」などというものはないということ。あくまで職場の団結を生みだすことに目的があるのだということは大事な確認でした。「労働運動の力で革命をやろう!」という路線のもとで職場の団結を打ち固めていくために、賃金闘争を位置づけるのだということが議論され、そういう風に考えなければダメなんだなと思いました。
 2つ目には、賃金奴隷制としての資本主義社会についてです。「労働者は売るのは労働力で、命までは売っていない」ということについて話されました。そして議論の中で、資本主義社会で労働者が置かれている現実は、「命まで売っている! 死に追いやられている! 資本主義は賃金奴隷制なんだ!」ということが述べられました。やはり、資本主義=賃金奴隷制への怒りを奮い起こして、労働者の団結のために賃金闘争を闘うということ、資本主義そのものを打倒するために闘うことが、革命の唯一の道なんだということが、今一歩はっきりしてきたように思いました。実践を担えるように頑張りたいと思います。

【A】

 『賃金・価格・利潤』はマルクス経済学の基本的概念を的確かつ平易に述べられたものですが、これを学習し、今日的に実践していく課題にこたえるものとして、今回の講義と討論はなされたと思います。
 講義では、まず『賃金・価格・利潤』を今日的に捉えるという観点から、労働組合の任務と闘いについて、マルクスの結語から引用・要約して、賃金闘争をはじめとした日常的攻防戦の不断の貫徹と労働者階級の究極的解放に向けた闘いを「一個二重のものとして闘い抜く」ことが必要であると鋭く提起されていました。
 そして、階級的労働運動路線の主体的党的推進基軸が労働者細胞から生まれた階級の指導部の形成であるという核心問題にふまえた上で、資本に屈服する体制内労働運動が、マルクスが『賃金・価格・利潤』の中で批判したウェストンの「賃金闘争有害論」のイデオロギーを継承するものであることを暴露し、これをマルクスに学び批判し、打倒してゆくべきことが提起されました。これらの点については、『賃金・価格・利潤』を今日的に学習し、実践していく上で重要な点であると考えます。
 活発な討論がなされましたが、これも、とても有意義で学ぶところの多いものでした。

【R】

 第1インター・イギリス代表のウェストンは、賃金制度そのものの廃止を掲げなかった地平から、「賃上げ・賃金闘争有害」論を主張してしまった。これは、まさしく空想的社会主義に後押しされた論であり、現実には、イギリスをはじめ労働者階級の闘いが、ストライキが、賃上げ闘争として爆発し始めている時には、まったく反動的役割を果たしてしまった。マルクスは『資本論』完成に先駆けても、ここでウェストンと立ち向かったのは、重大な闘いだった。
 そこには同時に、労働者自己解放闘争の論が打ち立てられず、様々な救済の対象とみるオーエン、プルードン、バクーニン、ラサールらとの論争があり、特に、賃金制度をそのままにしての「平等な賃金」論主張との対決の重要性もあったと思う。それは労働力を商品化して、契約・売買を表向きの看板にしながらも、人間を奴隷のごとく扱う賃金奴隷制の正体を暴き、「平等の奴隷」を主張することではなく、その粉砕を闘うことこそ、労働組合や労働者階級の闘いであることを正面から打ち出した。
 今日の規制改革会議の主張した「賃金に見合う生産性を発揮できない労働者の失業をもたらすから、労働者の権利は強められない」という言い草は、まさに、第1インターで闘ったマルクスの戦闘性をよみがえらせて、粉砕しなければならないと思う。それは、マルクス主義を空想的社会主義に引き戻し、帝国主義の買収を押し隠す体制内労働運動打倒の闘いそのものだと思う。

【X】

 資本主義社会の成立が、封建的な主従関係からの自由を前提にしたというところから、資本主義社会を何かスマートな社会であるかのように捉える感覚を一面で持ってきたことを反省的に捉え返しました。
 封建制社会では、囚人労働であったような自然的制約を越えた銀山、炭鉱労働を資本主義社会はやっているのだということ、賃金奴隷制という表現もまったく適切なんだと改めて自覚した。
 資本は命まで奪って利益をあげる存在なんだということ、今の社会がまさに末期的な危機の資本主義としての非人間性を全面バクロしていること。これこそ、まさに資本主義社会の本質なんだと徹底的に確認することを肝に銘じました。
 後半の2回目は、きちんと学習してきます。第1回目の報告はよく準備され、良かったと思います。

【B】

 いい討論になったと思う。「命までは売ってねえよ」という動労千葉労働者の言葉をひいて討論が行われた。労働力商品として、資本家は買ったものはとことん消費しつくすということである。それが賃労働と資本の関係である。つまり、適正な賃金要求という考え方は、この資本家の労働力自由使用権に対して、このへんまでが適正で、そうすれば社会が維持されるでしょうという考え方。それは、資本主義の中では夢物語でしかない。現実は、貧困と生命力の極限的酷使です。
 労働は時間ではかられる。それが価値。労働者に支払われるものは労働力の価値。それは労働力の再生産費でしかないということ。あくまでも商品としての労働力に対して払われるものであって、労働の対価でもなければ、労働者の人間的生活を保障するものでもない。これが資本主義的生産のあり方であり、賃金制度であること。労働者の要求はその次元でとまってはならない。この、労働力商品制度そのものを覆さないかぎり生きていくことはできない。そのための闘争の第一歩が、資本の専制支配への侵害である賃金闘争だということです。この闘いは、その意味で労働者にとって死活的で、より巨大な闘争のために絶対必要であるが、そこにとどまらず、資本主義の転覆へ闘うことが必要である。そのための団結をつくり出すためにも重要な闘い。

【J】

 資本家と労働者階級の労働日をめぐる討論は非常によかった。
 資本主義の下で、資本家と労働者階級は労働日・労働時間をめぐって争ってきた。資本主義における階級闘争は、労働者の労働時間と賃金をめぐる闘争であったし、現在もそうである。
 資本主義における労働者階級からの搾取は、すなわち資本による労働者への労働時間の延長は無制限である、ということが討論をとおして鮮明になりました。
 資本は労働者の生きること、生活・家族を思って生産物をつくっているのでなく、資本のあくなき利潤の追求のために、労働者の労働時間を無制限に追求し、労働者が倒れるところまで搾取するのである。その上に、資本は労働者が使えなくなれば、新たに労働市場から補充するのである。産業革命後のイギリスにおいては、資本が自ら労働者の、女性・子供の労働時間を制限しなければ、国民が絶滅してしまうあくなき搾取を行ったのである。
 今日の8時間労働制は、労働者階級が内乱的な死闘をとおして、闘いとったものである。ところが連合は、労働者の階級的な闘い・決起をおしとどめ、労資協調路線のもとに、資本の言うとおりになっているのである。この連合、全労連の屈服が、格差社会を生みだし、毎年3万人もの自殺者を生み出しているのである。
 今日の討論で、私は、労働者階級は資本の攻撃に対し、労働者の究極的解放の立場から労働組合をテコに闘うことによって、自らの賃金アップ、労働条件を闘いとれることを、新たにしました。労働日をめぐる闘争こそ、資本と労働者階級の根幹です。

【I】

・質問し忘れたことを冒頭に一つ。なぜ「7節」で切ったのでしょうか?
・レジュメの冒頭部分に『俺たちは鉄路に生きる3』や『前進』の引用をもってきて『賃金・価格・利潤』に向かう姿勢を明らかにしようとした点は、非常に良かったと思います。この間の学校での論議に踏まえたものになっていて、私としては、望むべき方向性が具体的“形”として表れたものとして歓迎したいと思います。
・その上で、今回の「(上)」までの過程だけでは判断しづらいのですが、賃金闘争、労働日の問題(課題)を真正面から論じた「労働組合原論」としての『賃金・価格・利潤』は、よりナマナマしく展開されていかないといけない、とも感じました。賃金や労働日の問題を理論的にも明らかにして、資本主義そのものへの怒りを組織していこうとする決定的な内容の書(原典)であるだけに、ある種の「現代版 賃金・価格・利潤」とも言えるものを党学校全体で作り上げていくような迫力が求められていると思った次第です。
・そういう(上記のような)観点から、「なぜ、7節だったのか?」とあらためて疑問に思った、ということです。

【O】

 マルクスの『賃金・価格・利潤』の学習は以前、部分的には何回かやったことがあるが、現在の党の基本路線下で徹底再学習することが重要だと感じました。
 マルクスがウェストンの論理を徹底的に論駁することの内容が、過去の話ではなく、資本主義の発生以降、とくに現代における資本、労働、賃金etc.の基本的考え方が出ているからです。
 後半学習すれば、もっと明らかになると思いますが、この中に資本主義の根幹の問題、資本、労働、賃金、価値、通貨etc.基本的なものが出されていて、労働者が賃金制度および資本支配一般の廃止のための組織された動力、労働組合をつくって、資本主義打倒のために闘うことの内容がほぼ出ているからです。
 そういった点では、少し難しい(講演)点もありますが、今日の討論の中でいろいろ意見が出されてよかったと思います。
 講師も、かなり本文に忠実に沿って、また解説本の内容で当時の闘いの背景などにも触れてレポートしてくれたので、かなりわかりやすかった。
 『賃労働と資本』や『共産党宣言』とは別の意味でもかなり重要な文献だとあらためて感じました。
 次回を楽しみにしています。

【U】

@ウェストンの「賃金を上げても物価が上昇するだけ」の論は、資本家や御用組合がよく使う論。現在的にも、現場ではブルジョアジーの論として生きている。重要。
A第1節〈生産と賃金〉から第7節〈労働力〉までの展開は、「あ、そうか」ということで一枚一枚“?”がとけていく展開。
B今日論議になった「労働日」のたたかいは、今日的に「変型労働時間」ということで攻撃がかけられている。労働日をめぐる攻防は、“命のやりとり“をめぐって今日的に階級的大テーマ。
C春闘が毎年行われていた20年、30年前は、賃金闘争は、春闘期、年2回の一時金闘争、組合大会をめぐる方針論議など年間に何回も職場論議が積み重ねられた。今日では、賃金をめぐる職場討論そのものが、活動家の意識的たたかいの重要テーマになっている。団結をつくり出す重要な柱としてある賃金論、労働組合論として『賃金・価格・利潤』の意義をものすごく感じました。

【Z】

(1)討論は6節、7節に集中したが、当然のことだと思います。
 ▲それは何より、『賃金・価格・利潤』が“労働組合原論”だという基本的性格、徹底的な実践的性格ゆえである。
 ▲従って、「なぜ“『賃金・価格・利潤』をいま問題にするのか」「その成立と背景」「前置き〜5節」ががっちり提起され、確認されたからこそであると思う。
(2)第7節の討論テーマについては発言の通り。
(3)第7節の「平等な賃金」批判問題については、今日的には“07年7月テーゼ”の提起から確認しておく問題があると思っています。
 ▲部落民労働者の、差別賃金への怒りと「平等な賃金」要求をしっかり確認しつつ、そこに“プロレタリア性を刻印−強制”していくといった領域です。
 ▲この場合も、講師の提起のとおり、連合・高木やJR総連・松崎−体制内労働運動への根底的怒りとして、はっきりさせることだと思います。

【N】

・自分としては、討論をとおして、今日的に『賃金・価格・利潤』をどう復権していくのか明確になったと思います。
・資本主義以前は、労働時間(労働日)は、「陽がのぼってしずむまで」「例外は炭鉱、金・銀山(囚人労働)」「資本主義はすべての自然的制約をひきはがした」というイメージは重要だと思います。労働日(をめぐる攻防)を理解する上でも、今日資本主義がどこに行き着いているかを理解する意味でも。
・討論でも出しましたが、今日の状況は、マルクスが『賃金・価格・利潤』を書いた時代とまったく同じ賃金奴隷制なのだ、とはっきりさせることが重要なポイントだと思います。奴隷制なのだから、賃金闘争だけに終わってしまったら解放されない。しかし、労働者階級が資本主義を打倒するための階級形成=団結の強化・拡大を実現するための日常的戦場として賃金闘争・経済闘争を位置づけ直す、そういう賃金闘争論の復権の重要性がはっきりしたと思います。

【Q】

 資本主義の仕組みの本質が、賃金制度の中にはらまれていること、資本主義の反人民性、人間性の否定(とことん徹底的なもの)について、マルクスが鋭く提起していることの画期性を見るべきだと思いました。プロレタリアートの存在が人間解放への大きなものであること、プロレタリアートが自らの存在の本質をつかみ、資本主義とたたかうことの人類史的意味の根本部分が提起されているのがわかります。したがって、賃金闘争、労働組合運動、団結の意義も明らかになると思います。
 労働力を売ることによってしか生きられない存在であるプロレタリアート、そして、その非人間的あり方を基礎にしてしか成立しない社会の根本的変革ぬきに、人間活動のいっさいは現実とならないということだと思う。そのことに気づき立ち上がる時代が今だと、いきいきと感じることが大切だと思います。

【S】

 『賃金・価格・利潤』は題名からしても経済学説の本だと勝手に思っていたが、マルクスの労働組合論だ、ということが良く理解できました。「労働組合はその組織された力を労働者階級の究極的解放のためのテコとして使わないならば、全面的に失敗する」というマルクスの言葉は重要だと思う。
 「賃上げ闘争はやるべきでない」というウェストン氏の議論が、当時まかり通っていたというのは驚きだが、考えてみれば、今の体制内労働運動がやっていることはウェストン氏と同じ。
 この著作を、労働運動、賃金闘争爆発の武器として使っていきたい。

【G】

 『賃金・価格・利潤』の重要なポイントがおさえられていたと思いました。はじめのところで、連合や自治労の賃金に対する考え方や、ブルジョアジーの考え、ウェストンという人物だけでなく、第1インター内部での討論など、現代的に通ずる部分があり、とても印象に残りました。
 労働運動の中で、どこで闘うのかというと、賃金闘争であるという部分が多いと思いますが、そもそも理想的な賃金体系などない、戦後発展期の右肩上がりの賃金闘争こそ「特殊な」存在なんだということがわかりましたね。そもそも、賃金体系そのものを破壊することなしに始まりはないということ。
 7節は、『賃金・価格・利潤』の主柱をなす部分であり、やはり学ぶべきところが多い。労働日の問題、「生きさせろ」という今の「プレカリアート」の時代で、「命までは、人格までは売っていない」という討論の中で深められた点が重要でした。

【E】

 冒頭で出されている労働組合原論、結論として出されている賃金闘争の意義を、まずしっかりと押さえることが重要だと思いました。
 資本と闘う上で、賃金制度そのものを廃止する立場というものが決定的であり、また動労千葉のたたかいがまさにそうしたものであるということをとらえ返していく上で、『賃金・価格・利潤』を学習していくことの今日的意義は、かなり大きいものであると実感しました。
 労働力の価値の部分は、まさに資本主義における労働者の状態を端的に示していると思います。
 あと、平等な賃金はありえないという部分も、これも現在の賃金制度の中ではありえないということ、これを曲解する松崎などの許し難さなどは明らかだと思います。
 しかし、現在青年労働者が置かれている状態は、再生産に必要なものすら奪われているように思います。資本主義そのものが最末期であるということと、今こそ組合を基礎とした団結した闘いが圧倒的に求められており、そして資本主義・帝国主義をうち倒す闘い、11月労働者集会への1万結集への執念をもった決起で圧倒的に一致していく必要があると思います。

【V】

 『賃金・価格・利潤』について、以前はマルクス主義経済学の入門書と言われていた(自分もそういう視点でのみとらえていた)のに対して、“マルクス主義基本文献学習シリーズ”でも、今回のレジュメでも、「労働組合原論」として位置づけるということが提起されている。すなわち「賃金闘争の意義」ということだが、自分の現場の実践が特殊違っていることもあって、過去4回の学校に臨むときよりも問題意識が希薄だった。今回は、討論を通して、自分の問題意識が喚起されたというところ。
 団結をかためるという視点から賃金闘争を考える、そのために資本主義社会の非人間性を、賃金の仕組みを明らかにすることによって、実践的には賃金闘争の中ではっきりさせていく。そういう視点で読むべきだなと感じた。
 あらためて読み返して、次回の学校に臨みたい。