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2007年08月号党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』

講義概要 P1-5

★- P6 共産主義の断絶性
★- P7 「分業の廃止・労働の廃止」について

受講レポート P8-16

2006年8月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-5 講義概要

第8期 第2課目  マルクス・エンゲルス 『ドイツ・イデオロギー』

講義概要   講師 森尾 誠 

はじめに

 『ドイツ・イデオロギー』はマルクスとエンゲルスの共産主義者宣言、つまりプロレタリア革命論を彼らが獲得したことを示す文献です。
その寸前に刊行した『聖家族』(1845年2月)では「現実的人間主義」を標榜していた。彼らは大きく言えば、フォイエルバッハの思想圏にいました。しかし、フォイエルバッハは、社会の変革へ進もうとしない。マルクスは1845年前半期の青年ヘーゲル派内の論争を見て、ついに本格的なフォイエルバッハ批判を開始する。
 それはまず、「フォイエルバッハ・テーゼ」(1845年夏)となる。さらに、エンゲルスとともに資本主義の最進国イギリスを訪問し、チャーティスト運動や義人同盟(正義者同盟とも言う)の労働者革命家と討論するなかで、プロレタリア革命こそ、共産主義運動であるという確信をもったのだと思います。
 これは同時に、彼らのこれまでのヘーゲル左派の一員であったことからの決別の宣言でもある。『ド・イデ』は、理論的にはまだ荒削りの面もありますが、ついに「プロレタリア革命論」を獲得したという躍動感に満ち満ちています。

(1)序文−哲学的解放から現実の解放へ

 哲学者たちは意識を変えることによって自己の桎梏と制約を取り除くことができると夢想しているが、解放の事業は現実の歴史的な事業です。ドイツの哲学的英雄たちの騒動を正しく評価するには、「ドイツの外にある立場」すなわち近代社会とそのなかで立ち上がっている労働者階級の立場からながめてみる必要があります。

(2)A節前半−歴史の根源は人間生活の物質的生産

 本文の冒頭で、自分たちの立場は「実践的唯物論者つまり共産主義者」であると、フォイエルバッハの唯物論との違いを明らかにしている。哲学者たちは歴史の根源つまり人間生活の物質的生産という前提を欠いています。
 あらゆる人間の生存にとっての第1の前提は生きること、生きるために必要なこと、つまり食べること、飲むこと、住むことなどの物質的な生活の生産です。第2に、欲求の再生産、第3に「他人の生産」、つまり繁殖がある。そして、これらの3つは異なる段階ではなく、社会的な活動の3つの側面であって、すべて第1の歴史的行為です。
 第4に、こうした生活の生産は協働として、つまり人間は社会を構成して活動し生活している。
 社会的生産は時代時代によって特定の生産様式、発展段階をとる。したがって人間の社会は、この唯物論的基礎とその発展を軸にして解明されます。

●分業と私有財産

 こうした根源的な歴史的諸関係の4つの側面を考察してきて、それらとの関係においてはじめて意識の問題をとりあつかうことができる。ところが哲学者たちは、意識から出発することによって観念論におちいる。観念論、つまり意識が現存の実践とは別のものを現実と思いこむのは、分業によると指摘しています。
 アダム・スミスは分業をテコにイギリスの国民経済の世界制覇を説明した。スミスらの国民経済学への批判を開始していたエンゲルスは、この分業を社会そのものの解明に適用します。
 精神労働と物質的労働の分業こそ、指揮するものと指揮されるもの、すなわち支配・被支配の問題であり、享受と労働、生産と消費を別々の個人のものとする。つまり所有・私有財産を発生させる。
 分業は個別利害と共同の利害*1との対立を生みだし、また人間自身の行為が人間にとってよそよそしく、協働も外からの強制力に転化し、人間の意志とは独立した一連の発展段階をとおっていくことになる。*2
 したがって、分業から生じるこうした矛盾を解決するには分業を廃止する以外にない。つまり、革命による共産主義へ進むしかないのです。
なお、*1と*2の所に膨大な欄外記述がある。これは本文と立体構造で理解しなければなりません。

●国家論−第1の膨大な欄外記述(*1)

 共同の利害がでた所で、国家を共同の利害とみなす混乱をふせぐため、国家は、共同の利害から切り離された自立した「幻想上の(=ありもしない)共同の利害」と指摘しています。(〈マルクス主義原典ライブラリー〉『新訳 ドイツ・イデオロギー』p35〜37参照)

●革命の諸条件−第2の膨大な欄外記述(*2)

 この「疎外」(人間の活動が人間にとってよそよそしくなることを、マルクスは哲学者にわかるように哲学用語で書いた)の廃止の実践的条件として、まず「人類の大多数をまったくの『無産者』として生みだしていること」(同p41)、さらには生産諸力のいちじるしい発展をあげている。なぜならば、生産諸力の発展なしには窮乏が一般化されて必要物をめぐる争いがはじまり、古い汚物が復活するからです。
 さらに、共産主義は現実には「主要な諸民族の行為として『一挙に』そして同時にのみ可能」(同p42)であること、つまり世界革命論が明示されている。ところが、世界革命を否定し一国社会主義を主張したスターリン主義者は、この『ドイツ・イデオロギー』を44カ所以上も裁断し、まったくその論脈を理解できないものに改ざんした。さらに「世界革命」のところに、帝国主義段階では世界革命ではなく一国革命が正しいというデタラメな注を記載しました。
 なお、『ドイツ・イデオロギー』はこの改ざんにもかかわらず、1957〜58年の革命的左翼の誕生にとって決定的な役割をはたした文献の1つでした。

(3)A節後半−歴史観の根本

ここでは、@唯物論的歴史観と観念的歴史観の対比、A唯物論的歴史観の実践的結論、Bこの歴史観の根本、Cこれまでの歴史観への批判が展開される。
 とりわけAでは、第1に革命期の到来は革命の担い手を生みだすこと、第2に革命的な闘争は支配階級にほこ先を向け、打倒しなければならないこと、第3に共産主義革命の歴史的特質、第4に共産主義的意識を大衆的規模でつくりだすためにも、またこの事業の貫徹のためにも、実践的な運動、革命が必要であることが示されています。
 さらにBにおいて、一切は生活の物質的生産から出発して現実の社会を解明すること、とりわけ哲学ではなく、革命こそが歴史の原動力であること、革命の物質的要素と革命的な大衆の形成が問題とされています。

●史的唯物論とは

 これらの提起は現代革命の問題の提起であるとともに、史的唯物論の提起でもある。しかし、史的唯物論とはスターリン主義者が「歴史の法則」としたような歴史理論でも、客観主義でもない。
 史的唯物論とは実践的唯物論であり、あくまでも現実の社会、資本制社会を打倒し共産主義社会を実現するための理論です。

(4)B節 歴史を思想の支配とみる観念論への批判

 この節は「支配階級の思想は、どの時代でも支配的思想である」(同p72)という『共産党宣言』にもある文章ではじまり、歴史を思想の支配とみる観念論批判をおこなっています。

(5)C節 所有の近代的形態と共産主義

 A節では、分業をもって社会の把握がはじめられ、それが所有・私有財産の問題にいきつきました。C節では分業はもちろん依然として分析のテコではあるが、重心は所有の問題へと発展していく。つまり歴史的な所有の形態、そして近代的所有の形態と共産主義の問題へと進む。そして近代的所有の問題の性格を明らかにするために、近代以前の所有の形態がまず概略的に示されます。

●近代社会以前の所有の諸形態

 所有の第1の形態は氏族所有、第2の形態は古代的な共同体あるいは国家所有、第3の形態は封建的所有あるいは身分的所有です。
 なお、ここで言う氏族所有はのちに解明される原始共同体をまだ知らない段階でのものです(『共産党宣言』1888年序文参照のこと)。

●近代的資本の成立とその特質

 資本はまず封建的な諸関係のもとであらわれる。しかし、それは同業組合にしばられており、まだ近代に登場する近代的資本ではない。
 中世以降の私有財産、つまり近代的資本は長い過程を経て発展します。
 ・第1期−マニュファクチュア
 ・第2期−商業と海運
 ・第3期−大工業
マニュファクチュア(工場的手工業)の出現にともなって、ただちに所有関係も変化する。商業と結びついた市場を相手とする生産は、これまでの封建的諸関係のもとでの生産のあり方を根本的に変えていきます。
 同時にそれは流民の時代を引きおこす。また、各国は商業戦に入り、マニュファクチュアを発展させていたイギリスが海戦にも勝ち、世界の商業戦に勝利し、動産的な資本の蓄積を促進します。世界航路の発見とあいまって、この動きはマニュファクチュアの生産力を超えた需要をつくりだし、機械制大工業を生みだす。そしてその発展を可能とするために、社会の封建的諸関係を粉砕する革命を必要とした。
 これが、イギリスのピューリタン革命(1642〜49年)、名誉革命(1688年)、フランスでは1789年の革命です。
 大工業は世界史をつくり、農村にたいする都市の勝利を完成します。

●プロレタリアートの登場

 大工業はどこの国でも同一の利害をもつ国籍を失った階級、プロレタリアートを生みだす。この階級こそ古い世界全体から完全に離脱しており、同時にこの古い世界全体と対立している階級です。

●生産諸力と交通諸形態の矛盾―革命

生産諸力と交通諸形態(ほぼ現実の社会形態のこと)との矛盾がこれまでの歴史にあらわれ、そのつど革命となって爆発した。

●プロレタリア階級の形成

 階級への従属も分業も、プロレタリアのような「もはやなにひとつ特殊な階級利害をつらぬく必要のない階級」によってしか廃止できません。この階級への従属の廃止、分業の廃止は、共同体なしには不可能です。
 国家は“みせかけの共同体”であり、“あらたな桎梏”です。

●階級への従属とそれからの解放

 プロレタリアが自分の人格を実現するためには、これまでの自分の生存条件であるとともに同時に社会全体の生存条件である労働(疎外された労働のこと。言葉としては活動と対比される)を廃止しなければなりません。だからプロレタリアは、自分の人格性を貫徹するためには国家を打倒しなければならない。

●近代資本と共産主義

 「大工業と競争において……二つのきわめて単純な形態になっている。つまり、私有財産と労働である」(前出新訳本p130)と、“賃労働と資本”にほとんど近づいている。そして、生産諸力の全体を獲得するために、その獲得の内容を明示しています。
 ・対象−発達した世界的生産諸力の     全体
 ・獲得の主体−現代のプロレタリア
 ・獲得の方法−団結と革命
 獲得は団結によってのみ達成できますが、この団結は世界的団結以外にありえない。さらにこの革命のなかで、プロレタリアートはこれまでの社会的地位のためになおまとっていた一切のものを脱ぎすてるということも明示しています。

●所有にたいする国家と法の関係

 ここで注目されるのは、近代国家論についてふれている所。すなわち、「近代的資本は共同体のみせかけをことごとくぬぎすて、そして所有の発展にたいする国家のあらゆる影響を排除した純粋の私的所有……。この私的所有に対応するのが近代の国家」(同p138)と述べている。まさにA節前半の第1の膨大な欄外記述の国家論と正確に対応しています。
 さらに「国家は、ブルジョアが外にたいしても内にむかってもその財産と利益をたがいに保障しあうために必要とする組織形態以外のなにものでもない」(同p139)と言い切っている。

おわりに−労働者の世界観の成立

 『ドイツ・イデオロギー』は『ヘーゲル法哲学序説』、『経済学・哲学草稿』などを「助走」として、マルクスとエンゲルスの明白なプロレタリア階級への階級移行と“プロレタリア革命論”の獲得を示しています。しかも、それはシュレージエンの織工の蜂起をはじめ、チャーティスト運動へのイギリスの労働者の決起などが彼らの前進をつき動かしたと言っても過言ではない。
 そして、この地平が直ちに『哲学の貧困』に示されているように、リカードらの価値論の批判的摂取、さらには共産主義者同盟の2回大会(1847年11〜12月)の討論へと発展し、『賃労働と資本』×『共産党宣言』へと結実していくのです。   (講義了) 

党学校通信 p6

共産主義の断絶性について −討論から−

●X

 共産主義運動は現在の労働者階級の利益を実現する運動で何ら特異なものではないということと、共産主義社会とブルジョア社会の隔絶性ということがあるでしょ。人類の前史が終わって本史が始まると。ある種自然成長性に対して、人間の意識性が支配していく社会になるという。僕は学習会なんかで、この意識性が社会を支配するという隔絶性に意義を感じていた。
 当時は、ソ連、東欧があり、ベトナムが米帝に勝利する中で、スターリン主義への批判はあっても、幻想も結構あった。ところが、ソ連が崩壊し、スタの崩壊=共産主義の崩壊という大宣伝がやられる。その中で自分は、マルクスやレーニンの言質から、共産主義は成立するという論の確信を得たいみたいなことをやってきたんだよね。

●仲山

 革共同の戦後の歴史の中での形成の仕方とも関係がある。目的意識性が、スタに対する批判の核心としてかなり言われた。僕は、スタ崩壊とマルクス主義を原点からとらえるという90年代基本文献学習シリーズをやっている段階で、自然発生的な資本主義に対して、目的意識的共産主義社会という対置は、ものすごく一面的だと。
 階級のない社会になれば、労働する諸個人が結合して社会的生産を自覚的に共同して運営していくということが一番根本的な規定です。資本の無政府的な生産に対して、狭い意味で計画経済を対置するのではなく、人間の営みをもっと根本的に豊かにとらえなきゃいけない。だから、自然発生的な資本主義あるいはこれまでの階級社会に対して、(価値法則の廃絶として)目的意識性とか計画性を対置することで、スタ批判になっていると考えると一面的。スタは、疎外された計画性だから。そういう観点でマルクスを見たら、国家によってがんじがらめにされたものを粉砕していく中で、社会の胎内から自然発生的な力が根本的にわき上がってくるみたいなことを、共産主義論の中で言っている(『フランスの内乱』など)。マルクス主義を原点からとらえ返すという場合には、そういうことが含まれる。
 『共産党宣言』も、それから『ド・イデ』も、理想を実現するという話じゃないということをかなり強調する。労働者階級が階級闘争でブルジョアジーを倒して資本主義を止揚していく、自分の力で。これが共産主義。要するに、労働者階級がブルとの階級闘争を貫徹していくことの中に、これまでの歴史の根本的な転換というか、断絶がある。そのようにとらえていきたい。

●X

 そういうことだと思う。とらえ方自身が、スタ批判をスタ的な範疇で考えるみたいなところがあった。

●仲山

 革命、共産主義を、プロレタリアート自身の事業というところに軸を置いて考えていくことで、平板な一面性みたいなものは乗り越えられる。『宣言』でも、最後は根底的に決裂するのが当たり前という結論にもっていく。そういう構造だと思う。

党学校通信 p7

「分業の廃止・労働の廃止」について

 討論で出た質問に対応するものとして、全面展開とはなりませんが、スペースの許すかぎり討論に参加するような発想で触れてみます。   (事務局)

分業の廃止について

 精神労働と肉体労働の対立が本格的固定的となるや分業も単なる自然的な理由にもとづくものとは区別される、社会的・階級的意味を持つ分業となる。そうした分業への移行は、労働を指揮する者と労働させられる者への社会の分裂として始まる。単純な機能的分担の延長のようなものであっても、精神的労働を行う者と肉体労働を行う者への社会成員の分割(固定化)となる場合は、階級的分裂の萌芽となる。逆に、ある程度複雑な技術的分業であっても、単に技術的な意味を持つ分業であるかぎりは階級的な社会的分業ではない。例えば、オーケストラの指揮者や建築現場の棟梁のような役割分担は機能の問題としては必要不可欠である。
 分業は生産活動だが、所有はその結果としての生産物に対する関係の問題。分業の階級的な本格的展開は、私的所有をもたらす。私的所有はまた、生産活動(分業)の社会的前提条件となり、分業をますます巨大なものとして発展させ、歴史を人間の手に負えない「運命の支配」のようなものとする。したがって、人間が自らの歴史を自覚的に創造できるようになるには、分業の廃止が必要。だから分業の廃止(階級的搾取の廃止)こそが共産主義だ。このように、A節の本文では展開している。

  特殊利害と共同利害の対立

 第1の大きな欄外注記の所での「分業にともなう、諸個人あるいは個々の家族の利害と交通しあうすべての諸個人の共同の利害との間に生み出される矛盾」とは、個と現実的全体の間の矛盾ということ。それは階級的特殊(階級的関係)を媒介にして発現する。支配階級に属する個人と被支配階級に属する個人とでは「共同利害との矛盾」の意味合いがまったく違う。国家は時として支配階級に属する特定の個を弾圧する場合もある。問題は、国家は共同利害そのものではないということにある。階級的特殊利害の防衛と貫徹のための組織でしかない。被支配階級を弾圧し搾取を貫徹することこそがその本分であり、存在価値なのだ。

労働の廃止について

 A節で展開された「分業の廃止」が、C節では「労働の廃止」としてつきつめられているともいえる。もともとは精神労働と切り離された肉体労働を労働と呼ぶのであって、「精神労働」とは支配階級(他人の労働を支配するものたち)の精神活動のことなのだ。単純に、労働現場で頭脳労働によって搾取されている労働者をイメージしてはならないだろう。『ド・イデ』における「労働の廃止」とは、階級的搾取関係の廃止そのものということである。

党学校通信 p8-16 受講レポート

受講レポートから ★『ドイツ・イデオロギー』のレポートです。

【S】

 『ド・イデ』が革命的共産主義運動の誕生にとって決定的な文献になった(世界革命、という提起)、ということを聞いて、改めて『ド・イデ』の重要性を認識しました。
 直接は、当時流行していたシュティルナーのニヒリズムが流す害毒を徹底的に叩く、という動機で書かれた著作だとは思いますが、「共産主義は現実が基準とすべきなんらかの理想でなく、現在の状態を廃止する現実の運動である。」(6・9集会でも青年が同様の発言をしていた!)「共産主義は、主要な諸民族の行為として『一挙に』そして同時にのみ可能」(世界革命!)など当時のマルクスの精神的ミ揚が感じられる表現も満載の著作で、今丸ごと使える論文だと思います。スターリン主義が必死になっておし隠そうとした革命性を復権させる原典復元を(革共同が)成し遂げた意義は大きい。
 原典復元、という画期的な作業をやりながら、広松渉は哲学的解釈の迷路に迷いこんでしまったが、我々は労働運動に取り組む中で、革命的に読みこむ「バイブル」として活用したい。

【Q】

@ 『共産党宣言』と『ド・イデ』の一体性・連続性のイメージができてよかったです。
A 「分業」からプロレタリア革命へ一気に論じていく力強さがスゴイと思います。「知識」「論証」「理」に足をすくわれていないマルクス・エンゲルスの問題意識とセンスがすばらしいです。階級−共同性、そして団結(これ自身、人間の本質か)の意義を鋭く提起していると思います。
B カクマル・黒田の『ド・イデ』解釈の観念性、スタ批判のための「道具」的扱い、「理論」のもてあそびについて逆照されているなという感じもうけました。
C 総じて、『ド・イデ』の私的「偏見」(読んでないので)が払拭されてよかったです(というのは、学生の頃、カクマルが『ド・イデ』をバイブル化して吹聴していたのと、フォイエルバッハとマルクスの違いをよくわからないでいたので、非常に勉強になりました)。

【G】

 学習会としては良かったと思います。『ド・イデ』が革命の書、プロレタリア革命論をはっきりさせるものとして書かれた、ということが良くはっきりさせられていました。哲学者との論争の中でも、階級闘争の渦中で革命をめざして共産主義者として飛躍していく『ド・イデ』の躍動感がよく出ていました。
 あと、実践的唯物論者として、これまでの歴史(封建制、奴隷制)を資本制社会の批判としてとらえきっていく立場をはっきりさせている、という提起が新しかった。
 以上ですが、『ド・イデ』解説本での内容があらためて完成されていると思いました。
 実践的には、もう少し視点を変えた提起でも良かったのでは? 何故『ド・イデ』を書くに至ったのか? 前回の『共産党宣言』3章で提起された正義者同盟等との論争もあるが、ドイツやヨーロッパの階級闘争の中で、マルクスが労働者階級に獲得されていったのか? など、労働者階級を主語にした『ド・イデ』のとらえ返しが必要なのではないか? 「汚物」の問題なども、実際の階級闘争の中でマルクスが実感した問題。(かなり、無理難題のような要求かもしれないが。)
 基本文献学習シリーズを労働者階級の歴史からとらえ返していくことが必要ではないか? C節(第7章4節など)の中身は、3・18−6・9の内容を理論化していく上で重要だと思います。『ド・イデ』を、コンパクトでもっと使えるものにした学習会を、次はやりたいですね。

【N】

 とてもよかったです。マルクスが「実践的唯物論者」=共産主義者としての自己確立を、自身の自己批判的作業として、実践的には青年ヘーゲル派(フォイエルバッハも含めて)と決別して、決着つけるものとして、やり抜いた場として、『ド・イデ』をとらえ返していくことが重要だと思いました。
 「分業と私有財産」についての質問(「ここでの“分業”は、物質的労働と精神的労働との分業を中心に論じたものではないか?」)も、物質的労働を全くしないで(精神的労働を専業として)支配する人間(個人、家族)の登場と存在によって、観念の自己運動が可能になる。実践的にも、ブルジョア社会におけるイデオロギーや理論(哲学)は、支配階級のイデオロギーになる。それに対する批判は、分業の廃絶、すなわち革命なんだと、青年ヘーゲル派やそれまでの自己のあり方と決別していくものとしてあったのだと思う。
 「党の革命」の中で打倒されたあり方、「マルクス主義」をふりまわして私党化をつくりだしたあり方を、どう総括していくのか、その辺の問題意識を、こうしたマルクスの作業に学びながら明確にできたら、と思います。

【E】

 学習としては、極めてわかりやすいものだったと思う。
 核心的には、ドイツ哲学批判を通じてプロレタリア革命論を確立していくマルクスの飛躍ということが決定的だと思います。
 さらには、最後の方にあった団結と革命というところは、今現実の闘いと完全にリンクしていると思います。
 動労千葉と3労組共闘、そしてILWU、民主労総との国際連帯は、まさに世界革命の現実性を示していると思います。
 日本共産党や既成労組指導部・体制内労働運動(学生運動)をぶっ飛ばし、11月1万人結集に向けて総決起していくことこそが、『ド・イデ』−『共産党宣言』を通じてマルクスがつかんでいったことを我がものにしていく唯一の解答であると思います。
 あと、疎外労働、よそよそしい力といった所は、現在の労働現場の実態などから照らし合わせてみると、非常にわかりやすいと思います。労働というものが完全に本来的なものから切り離されているということ、そしてそれを打ち倒し、労働者が社会を運営する能力があるんだということ、そして現実に闘いが始まっているということをしっかりととらえ、革命に向かい団結をうち固めていく、ということを学習会を通じてつかんだと思います。

【D】

○ 1回でやりきる『ド・イデ』学習会は今回初めてだが、私としても、全体に貫かれる問題意識や、全体構造が大づかみに出来てわかりやすかったし、成功していると思う。
○ 分業論のダイナミックな展開が、やはり圧巻であると思う。人間生活の物質的生産を論じた上で、「意識、その現実からの遊離はなぜおこるのか」と提起し、分業とその裏返しとしての私有財産が、「われわれを支配する物的な強制力へと凝縮する」「この物的な強制力がわれわれの手におえないものにまで成長し」「よそよそしいかれらの外にある強制力となってあらわれる」。この分業=私有財産の廃絶こそが、「人間をふたたび交換、生産、そしてかれら相互の関わり方を自分たちの支配のもとにとりもどす」−これこそ「私有財産の廃絶=共産主義」の真骨頂であると思う。その「乱暴さ」の中に、マルクスとエンゲルスの“熱さ”がビンビンと伝わってきた。
○ 討論の中で出た最後の質問の「一人ひとりの個人の利害あるいは個々の家族の利害」のところは、その前のパラグラフを見ても、ブルジョア的な個人、ブルジョア的家族のことを指していると思う。すなわち、私有財産にもとづく利害のこと。これに対し、「たがいに交通しあうすべての諸個人の共同の利害」とは、プロレタリアートも含めた、というか成員のうち圧倒的多数を占めるプロレタリアートの利害のことではないか。その後の、「現実のなかに分業にたずさわる諸個人の相互依存」とは、職場・工場などでの生産活動、あるいはあらゆる分配の活動の中で必要となる結びつきのこと。この、言ってみれば「職場での結びつき=団結」とブルジョアジーの利害との対立、という風に私は読んだ。

【Z】

@ 『ド・イデ』を1回でやるというのは、自分自身の体験からしても、大変な挑戦であるが、みごとに貫徹されたと思う。
 ▲前5期と6期の努力が結実している。
 ▲同時にあらためて、『ド・イデ』の全面的再編集の作業に突貫して、やりぬかれたということが、講師的にも全党的にも決定的な威力を発揮していると、つくづく再確認した。
 ▲『ド・イデ』のとらえ返しに、今日の革共同のマルクス主義把握における決定的優位の管制高地があるのだということ。
A 『ド・イデ』×『共産党宣言』(『宣言』×『ド・イデ』)の立体的把握の中に、現情勢に対するわれわれの係わり方の拠点があるし、また逆に、「労働運動の力で革命を」の今日的実践が、前回『宣言』と今回『ド・イデ』学習の地平を押しあげている。
B 具体的には、第1に、『ド・イデ』の核心=マルクス・エンゲルスの共産主義者宣言の核心点を、プロレタリア革命論の確立として、とらえきることである。
 ▲特にB節−C節を重視すること。
C 第2に、そうであればあるほど他面で、マルクス・エンゲルスの「階級移行」論として、はっきりさせることである。
 ▲この「階級移行」論の領域は、今日のわれわれのマルクス主義の地平で切実で決定的なテーマだと思う。
D 討論について。
 ▲「分業論」について→やはり、「私的所有」論として、はっきりさせることが大事だと思う。結局、マルクス・エンゲルスがそうしたように、『宣言』の“私有財産廃止!”の結論をしっかり確認することだと思う。

【B】

 討論の最後で、共同利害と個別的利害の対立、そして国家の成立に関しての質問に、私は僭越にも答えようとして混乱してしまいました。ここで答えを出しておきたい。
 私のその場での答えとしては、私的所有というのを入れるとわかりやすくなるのではないか、というものでした。しかし、「調停者」的国家の方向に流れて失敗した。新訳本p82を参照しながら考えたい。
 古代。共同体所有。国家公民の共同の私的所有。不動産の私的所有。社会の編成全体の崩れ。民族の力も崩れ。分業。都市。農村。……私的所有の集中。内乱。帝政。
 ここから若干想像してみる。物質的利害対立は、現代から考えるなら不分明ということがあると思う。様々な伝統的色彩にいろどられている。単に経済的な有力者が支配するというのでもない。戦争は決定的に重要だと思う。その中でしかも、私的利害を貫徹することも行おうとするだろう。しかし、奴隷などに対す利害(共同利害)においてかろうじて保たれるものとしての国家。このような国家は決定的に不安定であり、新たな利害対立の前に、独自な運動を展開せざるを得ないようなものとしてある。その本質は暴力である。
 近代では、経済的な支配は露骨に行われる。階級支配貫徹の道具以外のなにものでもない。すでに幻想的要素は失われている。

【U】

@ 「日本共産党から(スタから)革命的左翼が分離した文献の一つ」ということでしたが、「計画経済」=「意識性」ということで出されたことも含め、かなり「あ、そう」と思う点がありました。
A 論議を聞いて、「生産力」とか「労働」とかいうことが概念的なレベルで論じられている。もっと現在の「生産力」とか「労働」(疎外労働)というリアリズムを考えれば、もっと違う議論になるのではないか、という気がしました。
 もちろん、マルクス自体は「概念」的レベルで扱っていることもあるが(しかし、『資本論』では、概念が実体の裏付けをもって使われている)、現在的にわれわれは、<今の飛躍点>まで前進して「学習」することが求められているのでは、とも思います。
B 以前は私は、獲得の方法−団結と革命、という点などほとんど注視していなかったと思います。今回、この点も、「アッ」ということで新鮮に感じています。
C 短時間でしたが、「マルクス主義者としてその基本骨格を形成した飛躍の現場」ということは、私は伝わってきました。

【R】

 『ド・イデ』は、マルクス、エンゲルスが、青年ヘーゲル派と対決し、「実践的唯物論者=共産主義者」として宣言し、また、プロレタリア革命論のための史的唯物論を打ち立てたことの中に、その格闘の証が見てとれる。
 今回の講義は、1日ということもありA−B節中心だったが、C節の必要性も、あらためて重要だと感じた。
 史的唯物論は、歴史の総枠の把握というよりも、プロレタリアートの登場と、共産主義の意識の発生に重点を置いて、理解することが大事だということがわかった。
 また、「革命が必要なのは〜うちたおす階級がただ革命のなかでのみ、いっさいの古い汚物をはらいのけて社会をあらたに樹立する力を身につける」の所は、「これまでの自然成長性に依拠した生産関係をはぎとり、結合した諸個人の力のもとに従わせる」ということだと考える。それは、やはり分業や競争で、他の階級よりも孤立させられたプロレタリアの団結に、新しい共産主義社会をつくり出すカギがあるということだと思う。

【X】

 それまでの社会と共産主義社会との「隔絶性」に対する仲山同志の回答については非常に空気が入りました。私の共産主義に対する認識として、共産主義=計画経済という考えがハナからあり、それにとらわれ過ぎていたという事にハタと気が付きました。そのことによって(共産主義という)理想に近づこうとする運動でもないという事も良く分かった様な感じを持ちました。スターリン主義崩壊に対して、それに対置できる共産主義社会体制論というか、有るべき姿をはっきりイメージできないと闘いに限界が生じるという意識をずーっと持ってきた様に思う。自由に結合(団結)したプロレタリアートが、つくり出していくんだ(それをもとにして考えていく、考えていけばいいんだ)−という事を、いったんしっかり確認すればいいんだ、という事を確認しました。これまでも、そういう言い方を聞いた様にも思うんですが、納得できないものがありました。
 革共同中央労働者組織委員会・全国会議で、「団結の内容に深化がある」という様な発言がありましたが、3・18−6・9MWLのアピールに確かにそういうものを感じてきました。それは何だろうと思ってきました。共産主義はプロレタリアートの自己解放闘争である、ということにある種、万感の信頼をおいたとき、「共産主義は、プロの利益を代表するものである」ということと、共産主義社会論もその線のなかで捉えればいい(捉えるべき、そのことが重要)と思い至った。この事に自分自身、非常に空気が入りました。

【V】

 『ド・イデ』の学習以前の問題として、討論の中で話題になったスターリン主義批判、ソ連崩壊後のマルクス主義の復権というテーマで非常に気づかされたものがあった。マルクス主義=スタの現実という大宣伝に対して、「いや、本当のマルクス主義はこうだよ」と語れなければならないという思いにずっととらわれていた。しかし、これはやはりスタの影響下で形成された考えにずっととらわれていたのだと思う。崩壊したソ連を反面教師にするような発想でしか共産主義を捉えていなかった、もっと自由で豊かなものなのに。何よりも「ブルジョアジーとの闘争を貫徹していくことに共産主義がある」という極めて実践的な立場に立ちきることが、何より大事だとあらためて感じた。
 今日、『ド・イデ』を読み、『ド・イデ』を語るのはそういう立場だと思うが、そう考えると、本当にマルクス主義誕生の書として、本当に共感し、自らのものとしていきたい内容が詰まっている。ただこれまでは、どうしても文章自体の未完成さから読みにくさが先に立って、断片だけを拾い出し、「要は史的唯物論の本だ」という見方しかしていなかった。やはり、『ド・イデ』を「プロレタリア革命論を獲得したことを示す本」として、徹底的に実践の立場からトータルに捉え直して、読み返してみたい。

【I】

 今日的な問題意識とかみ合って、とても(あらためて)勉強させられたのですが、やはり自分のこととして、この『ド・イデ』をできるだけ大衆的な学習会の中で、その中に自分の身を置いて生きたものとしていくための努力が必要だと痛感させられました。
 しかし実際的には、現実の労働者(特に現下の青年労働者)の中に「『ド・イデ』学習の必要性」を認識してもらうには、なかなか難しいものがあります。というのも、生活自身、賃金や労働時間、職場環境のあまりに過酷な現実を前に、“現実問題”への解答に迫られることが多く、労働者(としての)世界観、階級的視点というのは「あとからついてくる」という傾向になりがちだと(自分では)思っています。
 ……がんばります。

【P】

 マルクス主義の誕生の現場として『ドイツ・イデオロギー』をつかむということが重要な点であると思います。マルクス・エンゲルスが青年ヘーゲル派とそれまでの自分達の哲学的立場を批判しきることを通して共産主義論を確立していったということ。それは同時に、マルクス・エンゲルスが労働者階級の闘いから学びつつであったということ。そして実践的唯物論者として、具体的実践・闘いにふみだす決定的飛躍の場としてキチンと捉えることが、まず大切な点であると思います。
 歴史を観念から説明するのではなく、人間の生存ということをまず出発点として押さえ、「根源的な歴史的諸関係の4つの契機」から出発していることは、非常にわかりやすい展開といえます。
 社会的生産は、時代時代によって、ある特定の生産様式、協働様式をとるということ。人間社会の歴史の発展を「4つの契機」が時代によってどのような変転をとげていくのか、として捉えていくということだと思う。
 分業によって、原始共産制社会の崩壊から階級社会−共産主義社会までを展開しているのは、ある種乱暴という説明もありましたが、原始共産制から共産主義までを理解する一つの軸として、非常にスッキリと理解できました。
 部分部分の展開はよく理解できるようになったのですが、『ド・イデ』をどのようにトータルに理解していくのかが、今後の自分の課題だと思っています。

【J】

 マルクス・エンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』で、自らを実践的唯物論者・共産主義者と宣言しました。それゆえに『ド・イデ』は、“生活が意識を規定する”ことを根底に据えきったのです。
 生活とは、労働することです。『ド・イデ』は、人間が生きる、労働することを根底的にとらえることによって、すなわち、唯物史観は人間労働−人間の労働をすることを根底に据えているのです。
 人間の社会史−歴史過程は、生活することを土台としてとらえられます。それゆえ、社会史の根拠は、4つの歴史的行為を出発点にしているのです。社会史は、4つの歴史的行為を出発点にしているもとで、労働における社会的分業の発達で、生産力があがり、剰余生産物が得られ、所有階級が現れ、階級社会が形成されます。そして、支配階級の特殊利害が、あたかも人びとの−被支配階級の共同利害であるかのようにおしだす国家が形成され、国家は共同利害から切りはなされて、自立的な姿をとります。と同時に、それはありもしない共同性としてです。
 階級社会の生産関係での、剰余労働の搾取のあり方が、階級社会の発展段階です。その時代の階級社会・生産関係は、生産力の発展を包摂できなくなり、革命を引き起こします。
 封建社会において、都市のマニュファクチュアの発展はギルドを解体し、農村の分解を促しました。農民は、都市でプロレタリアートと化します。商品経済の拡大−世界市場は、機械制大工業をうみだし、イギリス資本主義社会を確立します。プロレタリアートは、大工業の固有の産物です。『ド・イデ』は資本主義の解明をとおして、労働者階級の自己解放・プロレタリア革命を徹底的に鮮明にしました。この資本主義社会の物質的生産の中に、現実の共産主義があるのです。〔資本主義社会(−生産力の発展)は、労働者階級が自ら作りだした総生産物を労働者個々人の「労働給付に応じて」意識的に分配する共産主義社会を明らかにしているのです。〕
 『ド・イデ』は、プロレタリア革命の物質的基礎です。

【C】

 全体として、非常にいい講義だったと思う。
 自分にとって印象に残った点としては、以下の3点について。
 1つは、『ド・イデ』が、マルクスとエンゲルスがマルクス主義者になる、その誕生の瞬間を表したものとして、すなわち共産主義者宣言をしたこと。「プロレタリアを主体とし、そのプロの特殊的解放が、同時に全人間の普遍的解放なのだということ」を提起しきったこと=プロレタリア革命論をついに獲得したこと、として提起されたことが強く印象に残った。
 2つに、人間の歴史の根源を「4つの契機」においてとらえ、それをふまえてはじめて意識が捉えられること、意識もまた物質的な手段=言語と一体でとらえられ、生産、協働、意識を唯物論的にとらえることから、分業をキーワードに、社会の発展をとらえて、分業と私有財産、その社会的諸関係、物質的な生産諸関係の自然発生的な発展から、共産主義論までいく展開は、じつに圧巻だ。マルクス・エンゲルスが、アダム・スミスの『諸国民の富』の分業論を検討・研究する中から、この共産主義論を導き出したということを聞いて、本当に実践的唯物論者としての革命家の荒々しさ、すごさを感じとれた。
 3つ目は、「目的意識性と共産主義社会論」の議論は非常に参考になった。それは、資本主義社会の暴力的打倒・権力奪取を通して、資本家的所有を止揚し、価値法則を廃絶し、計画経済のもとで社会を組織していくということだが、その場合、やはりスターリン主義のように、価値法則や予め考えられた法則にあてはめるものではない、ということ。あくまで労働者階級の主体的な活動(生産)を基礎にして、躍動的に生みだされるものであり、まさに現存の目の前にある階級的労働運動と労働組合、農民・学生の団結・結合を土台にしてつくられる、つくるものであることは、極めて大事な指摘だと思った。『ド・イデ』では、新訳本p122冒頭の「共産主義者は、……」は、その点で非常に示唆に富む論述だと私は思っている。

【L】

 『ドイツ・イデオロギー』を3時間でA節(前半・後半)、B節、C節のポイントをまとめて提起されたので、率直に言って、驚きととまどいも感じる面もあるのですが、良かったのではないかと思います。しかし、現場で闘う同志の話は非常に良かったです。
 革命的共産主義運動を、日本共産党との命がけの闘いを通して、創成していくにあたって、この『ドイツ・イデオロギー』が果たした位置の巨大さは、伝わりました。以後50年の時間を経て、最末期の帝国主義の攻撃に対して、国際労働者階級の闘いが不屈に闘われている。この時代において、『ドイツ・イデオロギー』を、どういうものとして労働者階級に提起するのかということで、レジュメの2ページの冒頭では、「『ドイツ・イデオロギー』はマルクスとエンゲルスの共産主義者宣言、つまりプロレタリア革命論をついに獲得したことを示す本」として踏みこんで出された。プロレタリアートの特殊利害の貫徹=人間の普遍的解放について、マルクスとエンゲルスがつかんだからこそ、プロレタリア革命論を獲得したからこそ、共産主義者として自らを宣言することができた。プロレタリアートの歴史的運動が、彼らの階級移行を勝ちとり、共産主義者へと形成した。
 討論としては、活動と疎外労働の話から、人間らしい本来の労働の姿をどうプロレタリアートは闘いとっていくのか、やはり具体的な団結に関わる問題だと思いました。僕としては、『ドイツ・イデオロギー』をもう一度全体として通して読む(A節、B節、C節)ことで、皆が出した「目的意識性」とか「分業」とか「人格」の問題などに関われれば、と思いました。

【A】

 『ド・イデ』は、その断章の理解という点では、独習でそれなりに進めてきましたが、トータルに考察し、理解しようとすると非常な困難に直面していました。『ド・イデ』とは一体なんなのか、という課題です。今回の党学校では、この点で大きな手がかりを得ることができました。
 『ド・イデ』におけるマルクス・エンゲルスの躍動する思考と論理が、実践的唯物論者−共産主義者としての立脚点の確立、それをもって現実の階級闘争の発展にマルクス・エンゲルスが共産主義者として実践的に全面的に取り組んでいく過程が相互媒介的に進行していくということに根拠づけられていることが、良く理解することができました。
 殊に、唯物史観の確立がその跳躍台を形成していたという指摘は、とても有意義であると思います。また、それは『経済学批判』序文における定式的な理解を実践的唯物論としての史的唯物論として捉えるという面でとても深めるものでした。(スタティックな理解を突破していくという点で決定的なものとしてありました。)
 今回は、『ド・イデ』における史的唯物論の確立について強調して講義が行われましたが、短時間で『ド・イデ』の学習を行う場合にとても有効であると思われました。
 その他の点。
1.「幻想的共同性」についての「幻想」の理解について、再考できました。
2.スターリン主義による『ド・イデ』の隠ぺいと改ざんの核心が、世界革命の否定にある点についての解説も、生きた時代の体験を通して講義されましたが、これは「聞けて良かった」。

【W】

 非常に重要な提起だったと思います。これまで『ド・イデ』については、何度か学習会で使うことがありましたが、その場合でも物質的生活の生産の土台性→4つの契機を確認したら、あとは唯物史観の公式(『経済学批判』序言)や、『共産党宣言』に入っていくような、それ自身を対象化しない「利用」の仕方をしていました。まさしく、今回レジュメで出されている、「すばらしいことが書かれているが、全体としては理解できない本」として僕自身が扱ってきたように思います。新訳本で学習してもなお、全体像をつかむことはできていないどころか、むしろ全体としてのまとまりがなされてない書物と誤解さえしておりました。
 しかし、今回、短時間ではありましたが、全体を骨格的に骨太につかんでいく作業が講師から行われたことによって、マルクスとエンゲルスが共産主義革命論を産みだしていくその現場、大胆かつラジカルに組み立てていくその瞬間を、見ることができたと思います。のちのちに諸概念については整備されていくわけで、そういう意味では用語などは漠然としたところもあるのかもしれませんが、しかしこの時点での、プロレタリア革命論の体系的全体がこうも一定のまとまりをもって論じられていたのかと、自らの無理解を恥じ、また感銘を覚えました。講師のレジュメにピックアップされている引用部分が極めて的確であったのだろうと思います。
 つかんだ内容を整理します。まずもって「人間の生存にとっての第一の前提」として社会的生産の4つの要素を歴史の根源として確認する。この生きた人間、現実的な人間の実践ということを土台にすえたところから、この社会的生産が時代によってある特定の生産様式をとるということを直ちに明らかにしている。
 そしてこの「特定の生産様式、社会様式」、さらには「意識」の問題も、分業論で解き明かしていく、『ド・イデ』展開の核心にうつっていく。論じている中身は階級対立論、階級社会の廃絶論そのものなのだが、なぜ分業という言葉にこだわっているのかについて、講師から「アダム・スミスの批判的摂取ゆえ」と解説され、腑に落ちた。この分業論の展開のなかで、疎外労働と私的所有の対立、資本による生きた人間(労働者)の支配の問題、それがよそよそしい強制力としてつまり誰も制御できない自己運動として歴史的阻害物となっていくこと、したがって「需要と供給」なるものに左右されている生産活動は、組織された労働者によって共産主義的に規制・解決されていかねばならないこと、など一気に共産主義革命論の結論にまで至る。
 そこから論的展開をすすめるのではなく、(マルクスらが)国家の問題や革命の条件・主体の問題といった、リアルに革命を実現する立場からの解決すべき諸問題に立ち向かっていく。その実践的リアリズムのなかから世界革命論も論じられていく。私が一番感銘を受けたのはこの展開です。彼らが「新しい論の提起」に関心があったのではなく、やはり『ド・イデ』の時点で真に実践的に革命を実現する立場からアプローチしていたということが実感できた。
 だからA節後半以降の展開などで、明らかに論としてさらに突っ込んでいく領域というのがあったとしても(例えば資本主義以前の歴史的諸段階についての言及の荒っぽさや、資本主義論もマニュファクチュアについて一言だったり)、そんなことはおかまいなしに、グイグイと実践的課題の解明に踏み込んでいく論陣になっているのである。そしてそのあたりになると、かなり明示の形で「現実社会の実践的転覆」ということばかりをゴリゴリ論じている。A節後半の展開は特に今日的にも非常に大切な中身である。唯一の革命主体としてのプロレタリアートということであり、革命とは支配階級の打倒ぬきにはありえないということであり、それは政治的変革にとどまるのではなく生産関係の転覆にまで至らねばならないこと、そしてなによりも現実的な実践のなかでのみ大規模な変化が生じ革命の展望が生み出されていくということ……などである。
 その中身とともに、マルクスとエンゲルスの立ち向かい方、立場性と問題のたて方にこそ学ぶところがあった。実践的諸課題に大胆に踏み込み、ラジカルに新たな領域を切り開いていくような姿に本当に感動しました。