第8期 第2課目 マルクス・エンゲルス 『ドイツ・イデオロギー』講義概要 講師 森尾 誠 はじめに 『ドイツ・イデオロギー』はマルクスとエンゲルスの共産主義者宣言、つまりプロレタリア革命論を彼らが獲得したことを示す文献です。 (1)序文−哲学的解放から現実の解放へ哲学者たちは意識を変えることによって自己の桎梏と制約を取り除くことができると夢想しているが、解放の事業は現実の歴史的な事業です。ドイツの哲学的英雄たちの騒動を正しく評価するには、「ドイツの外にある立場」すなわち近代社会とそのなかで立ち上がっている労働者階級の立場からながめてみる必要があります。 (2)A節前半−歴史の根源は人間生活の物質的生産 本文の冒頭で、自分たちの立場は「実践的唯物論者つまり共産主義者」であると、フォイエルバッハの唯物論との違いを明らかにしている。哲学者たちは歴史の根源つまり人間生活の物質的生産という前提を欠いています。 ●分業と私有財産 こうした根源的な歴史的諸関係の4つの側面を考察してきて、それらとの関係においてはじめて意識の問題をとりあつかうことができる。ところが哲学者たちは、意識から出発することによって観念論におちいる。観念論、つまり意識が現存の実践とは別のものを現実と思いこむのは、分業によると指摘しています。 ●国家論−第1の膨大な欄外記述(*1)共同の利害がでた所で、国家を共同の利害とみなす混乱をふせぐため、国家は、共同の利害から切り離された自立した「幻想上の(=ありもしない)共同の利害」と指摘しています。(〈マルクス主義原典ライブラリー〉『新訳 ドイツ・イデオロギー』p35〜37参照) ●革命の諸条件−第2の膨大な欄外記述(*2) この「疎外」(人間の活動が人間にとってよそよそしくなることを、マルクスは哲学者にわかるように哲学用語で書いた)の廃止の実践的条件として、まず「人類の大多数をまったくの『無産者』として生みだしていること」(同p41)、さらには生産諸力のいちじるしい発展をあげている。なぜならば、生産諸力の発展なしには窮乏が一般化されて必要物をめぐる争いがはじまり、古い汚物が復活するからです。 (3)A節後半−歴史観の根本 ここでは、@唯物論的歴史観と観念的歴史観の対比、A唯物論的歴史観の実践的結論、Bこの歴史観の根本、Cこれまでの歴史観への批判が展開される。 ●史的唯物論とは これらの提起は現代革命の問題の提起であるとともに、史的唯物論の提起でもある。しかし、史的唯物論とはスターリン主義者が「歴史の法則」としたような歴史理論でも、客観主義でもない。 (4)B節 歴史を思想の支配とみる観念論への批判この節は「支配階級の思想は、どの時代でも支配的思想である」(同p72)という『共産党宣言』にもある文章ではじまり、歴史を思想の支配とみる観念論批判をおこなっています。 (5)C節 所有の近代的形態と共産主義A節では、分業をもって社会の把握がはじめられ、それが所有・私有財産の問題にいきつきました。C節では分業はもちろん依然として分析のテコではあるが、重心は所有の問題へと発展していく。つまり歴史的な所有の形態、そして近代的所有の形態と共産主義の問題へと進む。そして近代的所有の問題の性格を明らかにするために、近代以前の所有の形態がまず概略的に示されます。 ●近代社会以前の所有の諸形態 所有の第1の形態は氏族所有、第2の形態は古代的な共同体あるいは国家所有、第3の形態は封建的所有あるいは身分的所有です。 ●近代的資本の成立とその特質 資本はまず封建的な諸関係のもとであらわれる。しかし、それは同業組合にしばられており、まだ近代に登場する近代的資本ではない。 ●プロレタリアートの登場大工業はどこの国でも同一の利害をもつ国籍を失った階級、プロレタリアートを生みだす。この階級こそ古い世界全体から完全に離脱しており、同時にこの古い世界全体と対立している階級です。 ●生産諸力と交通諸形態の矛盾―革命生産諸力と交通諸形態(ほぼ現実の社会形態のこと)との矛盾がこれまでの歴史にあらわれ、そのつど革命となって爆発した。 ●プロレタリア階級の形成 階級への従属も分業も、プロレタリアのような「もはやなにひとつ特殊な階級利害をつらぬく必要のない階級」によってしか廃止できません。この階級への従属の廃止、分業の廃止は、共同体なしには不可能です。 ●階級への従属とそれからの解放プロレタリアが自分の人格を実現するためには、これまでの自分の生存条件であるとともに同時に社会全体の生存条件である労働(疎外された労働のこと。言葉としては活動と対比される)を廃止しなければなりません。だからプロレタリアは、自分の人格性を貫徹するためには国家を打倒しなければならない。 ●近代資本と共産主義 「大工業と競争において……二つのきわめて単純な形態になっている。つまり、私有財産と労働である」(前出新訳本p130)と、“賃労働と資本”にほとんど近づいている。そして、生産諸力の全体を獲得するために、その獲得の内容を明示しています。 ●所有にたいする国家と法の関係 ここで注目されるのは、近代国家論についてふれている所。すなわち、「近代的資本は共同体のみせかけをことごとくぬぎすて、そして所有の発展にたいする国家のあらゆる影響を排除した純粋の私的所有……。この私的所有に対応するのが近代の国家」(同p138)と述べている。まさにA節前半の第1の膨大な欄外記述の国家論と正確に対応しています。 おわりに−労働者の世界観の成立 『ドイツ・イデオロギー』は『ヘーゲル法哲学序説』、『経済学・哲学草稿』などを「助走」として、マルクスとエンゲルスの明白なプロレタリア階級への階級移行と“プロレタリア革命論”の獲得を示しています。しかも、それはシュレージエンの織工の蜂起をはじめ、チャーティスト運動へのイギリスの労働者の決起などが彼らの前進をつき動かしたと言っても過言ではない。 |
共産主義の断絶性について −討論から−●X 共産主義運動は現在の労働者階級の利益を実現する運動で何ら特異なものではないということと、共産主義社会とブルジョア社会の隔絶性ということがあるでしょ。人類の前史が終わって本史が始まると。ある種自然成長性に対して、人間の意識性が支配していく社会になるという。僕は学習会なんかで、この意識性が社会を支配するという隔絶性に意義を感じていた。 ●仲山 革共同の戦後の歴史の中での形成の仕方とも関係がある。目的意識性が、スタに対する批判の核心としてかなり言われた。僕は、スタ崩壊とマルクス主義を原点からとらえるという90年代基本文献学習シリーズをやっている段階で、自然発生的な資本主義に対して、目的意識的共産主義社会という対置は、ものすごく一面的だと。 ●X そういうことだと思う。とらえ方自身が、スタ批判をスタ的な範疇で考えるみたいなところがあった。 ●仲山 革命、共産主義を、プロレタリアート自身の事業というところに軸を置いて考えていくことで、平板な一面性みたいなものは乗り越えられる。『宣言』でも、最後は根底的に決裂するのが当たり前という結論にもっていく。そういう構造だと思う。 |
「分業の廃止・労働の廃止」について討論で出た質問に対応するものとして、全面展開とはなりませんが、スペースの許すかぎり討論に参加するような発想で触れてみます。 (事務局) 分業の廃止について 精神労働と肉体労働の対立が本格的固定的となるや分業も単なる自然的な理由にもとづくものとは区別される、社会的・階級的意味を持つ分業となる。そうした分業への移行は、労働を指揮する者と労働させられる者への社会の分裂として始まる。単純な機能的分担の延長のようなものであっても、精神的労働を行う者と肉体労働を行う者への社会成員の分割(固定化)となる場合は、階級的分裂の萌芽となる。逆に、ある程度複雑な技術的分業であっても、単に技術的な意味を持つ分業であるかぎりは階級的な社会的分業ではない。例えば、オーケストラの指揮者や建築現場の棟梁のような役割分担は機能の問題としては必要不可欠である。 特殊利害と共同利害の対立第1の大きな欄外注記の所での「分業にともなう、諸個人あるいは個々の家族の利害と交通しあうすべての諸個人の共同の利害との間に生み出される矛盾」とは、個と現実的全体の間の矛盾ということ。それは階級的特殊(階級的関係)を媒介にして発現する。支配階級に属する個人と被支配階級に属する個人とでは「共同利害との矛盾」の意味合いがまったく違う。国家は時として支配階級に属する特定の個を弾圧する場合もある。問題は、国家は共同利害そのものではないということにある。階級的特殊利害の防衛と貫徹のための組織でしかない。被支配階級を弾圧し搾取を貫徹することこそがその本分であり、存在価値なのだ。 労働の廃止についてA節で展開された「分業の廃止」が、C節では「労働の廃止」としてつきつめられているともいえる。もともとは精神労働と切り離された肉体労働を労働と呼ぶのであって、「精神労働」とは支配階級(他人の労働を支配するものたち)の精神活動のことなのだ。単純に、労働現場で頭脳労働によって搾取されている労働者をイメージしてはならないだろう。『ド・イデ』における「労働の廃止」とは、階級的搾取関係の廃止そのものということである。 |
受講レポートから ★『ドイツ・イデオロギー』のレポートです。【S】 『ド・イデ』が革命的共産主義運動の誕生にとって決定的な文献になった(世界革命、という提起)、ということを聞いて、改めて『ド・イデ』の重要性を認識しました。 【Q】 @ 『共産党宣言』と『ド・イデ』の一体性・連続性のイメージができてよかったです。 【G】 学習会としては良かったと思います。『ド・イデ』が革命の書、プロレタリア革命論をはっきりさせるものとして書かれた、ということが良くはっきりさせられていました。哲学者との論争の中でも、階級闘争の渦中で革命をめざして共産主義者として飛躍していく『ド・イデ』の躍動感がよく出ていました。 【N】 とてもよかったです。マルクスが「実践的唯物論者」=共産主義者としての自己確立を、自身の自己批判的作業として、実践的には青年ヘーゲル派(フォイエルバッハも含めて)と決別して、決着つけるものとして、やり抜いた場として、『ド・イデ』をとらえ返していくことが重要だと思いました。 【E】 学習としては、極めてわかりやすいものだったと思う。 【D】 ○ 1回でやりきる『ド・イデ』学習会は今回初めてだが、私としても、全体に貫かれる問題意識や、全体構造が大づかみに出来てわかりやすかったし、成功していると思う。 【Z】 @ 『ド・イデ』を1回でやるというのは、自分自身の体験からしても、大変な挑戦であるが、みごとに貫徹されたと思う。 【B】 討論の最後で、共同利害と個別的利害の対立、そして国家の成立に関しての質問に、私は僭越にも答えようとして混乱してしまいました。ここで答えを出しておきたい。 【U】 @ 「日本共産党から(スタから)革命的左翼が分離した文献の一つ」ということでしたが、「計画経済」=「意識性」ということで出されたことも含め、かなり「あ、そう」と思う点がありました。 【R】 『ド・イデ』は、マルクス、エンゲルスが、青年ヘーゲル派と対決し、「実践的唯物論者=共産主義者」として宣言し、また、プロレタリア革命論のための史的唯物論を打ち立てたことの中に、その格闘の証が見てとれる。 【X】 それまでの社会と共産主義社会との「隔絶性」に対する仲山同志の回答については非常に空気が入りました。私の共産主義に対する認識として、共産主義=計画経済という考えがハナからあり、それにとらわれ過ぎていたという事にハタと気が付きました。そのことによって(共産主義という)理想に近づこうとする運動でもないという事も良く分かった様な感じを持ちました。スターリン主義崩壊に対して、それに対置できる共産主義社会体制論というか、有るべき姿をはっきりイメージできないと闘いに限界が生じるという意識をずーっと持ってきた様に思う。自由に結合(団結)したプロレタリアートが、つくり出していくんだ(それをもとにして考えていく、考えていけばいいんだ)−という事を、いったんしっかり確認すればいいんだ、という事を確認しました。これまでも、そういう言い方を聞いた様にも思うんですが、納得できないものがありました。 【V】 『ド・イデ』の学習以前の問題として、討論の中で話題になったスターリン主義批判、ソ連崩壊後のマルクス主義の復権というテーマで非常に気づかされたものがあった。マルクス主義=スタの現実という大宣伝に対して、「いや、本当のマルクス主義はこうだよ」と語れなければならないという思いにずっととらわれていた。しかし、これはやはりスタの影響下で形成された考えにずっととらわれていたのだと思う。崩壊したソ連を反面教師にするような発想でしか共産主義を捉えていなかった、もっと自由で豊かなものなのに。何よりも「ブルジョアジーとの闘争を貫徹していくことに共産主義がある」という極めて実践的な立場に立ちきることが、何より大事だとあらためて感じた。 【I】 今日的な問題意識とかみ合って、とても(あらためて)勉強させられたのですが、やはり自分のこととして、この『ド・イデ』をできるだけ大衆的な学習会の中で、その中に自分の身を置いて生きたものとしていくための努力が必要だと痛感させられました。 【P】 マルクス主義の誕生の現場として『ドイツ・イデオロギー』をつかむということが重要な点であると思います。マルクス・エンゲルスが青年ヘーゲル派とそれまでの自分達の哲学的立場を批判しきることを通して共産主義論を確立していったということ。それは同時に、マルクス・エンゲルスが労働者階級の闘いから学びつつであったということ。そして実践的唯物論者として、具体的実践・闘いにふみだす決定的飛躍の場としてキチンと捉えることが、まず大切な点であると思います。 【J】 マルクス・エンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』で、自らを実践的唯物論者・共産主義者と宣言しました。それゆえに『ド・イデ』は、“生活が意識を規定する”ことを根底に据えきったのです。 【C】 全体として、非常にいい講義だったと思う。 【L】 『ドイツ・イデオロギー』を3時間でA節(前半・後半)、B節、C節のポイントをまとめて提起されたので、率直に言って、驚きととまどいも感じる面もあるのですが、良かったのではないかと思います。しかし、現場で闘う同志の話は非常に良かったです。 【A】 『ド・イデ』は、その断章の理解という点では、独習でそれなりに進めてきましたが、トータルに考察し、理解しようとすると非常な困難に直面していました。『ド・イデ』とは一体なんなのか、という課題です。今回の党学校では、この点で大きな手がかりを得ることができました。 【W】 非常に重要な提起だったと思います。これまで『ド・イデ』については、何度か学習会で使うことがありましたが、その場合でも物質的生活の生産の土台性→4つの契機を確認したら、あとは唯物史観の公式(『経済学批判』序言)や、『共産党宣言』に入っていくような、それ自身を対象化しない「利用」の仕方をしていました。まさしく、今回レジュメで出されている、「すばらしいことが書かれているが、全体としては理解できない本」として僕自身が扱ってきたように思います。新訳本で学習してもなお、全体像をつかむことはできていないどころか、むしろ全体としてのまとまりがなされてない書物と誤解さえしておりました。
|