ホームページへ週刊『前進』月刊『コミューン』季刊『共産主義者』週刊『三里塚』出版物案内販売書店案内連絡先English

2007年07月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス・エンゲルス『共産党宣言』B

講義概要 P1-4

★討論から- P5-8

受講レポート P8-16

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-4 講義概要

第8期第1課目  マルクス・エンゲルス 『共産党宣言』3回シリーズそのB

第3回講義概要  講師 仲山良介

 第3章と第4章は学習会などでそれとしてはやらない場合がありますが、できるだけやった方がいい。『宣言』とは何か。そこで言われていることの意味、その普遍性、なぜ今も通用するのかなどについて理解が深まります。

第3章 社会主義的および共産主義的文献

●一のa封建的社会主義について
 略。

●一のb小ブルジョア的社会主義について

 小ブル的な尺度でブルジョア体制を批判したシスモンディなど。資本主義への批判としてはきわめて鋭いが、積極的な内容の点では後ろ向き。資本主義が人間的きずなをズタズタにすることを嘆くだけです。

●一のc「真正」社会主義批判について

 全部まとめて「ドイツ社会主義または共産主義」批判。
 遅れたドイツではフランス革命は思想として「輸入」され、革命的実践的内容はすべて哲学的言辞に置き換えられた。カントからヘーゲル、そしてフォイエルバッハまで例外はない。マルクスはある意味で昨日までの自分自身をもここに入れている。ここは「自己批判→階級的移行の貫徹」です。
 このドイツの哲学的共産主義は実践的に、「学者的な無邪気さ」をうしない、ドイツの絶対主義に対立している政治運動(ブルジョア自由主義)に対し、抽象的で無内容な社会主義を対置し、政治的反動になった。自分自身は一切の階級闘争から超越し、党派とは無関係な高い立場にたっていると宣言するところまでいきついたのです。

●二の保守的あるいはブルジョア的社会主義

 ブルジョア社会の存立のために社会的弊害を取り除こうとしているいろんな社会改良家。代表者としてプルードン。プルードンは、平等な交換の体系をもって、ブルジョア社会の弊害を無くそうとしました。
 「既存の社会秩序はそのままに、その中に潜む社会革命的・社会解体的要素だけはなくなって欲しい」「プロレタリアなしのブルジョアジーを望む」。
 これに対して、ブルジョア的社会主義のもうひとつのタイプ。
 「あれこれの政治的変革でなくて、物質的生活諸関係、経済的諸関係の変更だけが労働者階級にとって利益になる」といって、あらゆる革命運動への労働者階級の意欲に水をかける。彼らがいう物質的生活諸関係の変革とは、現在の生産諸関係の土台の上での行政的改善にすぎない。だから、賃労働と資本の関係には指一本触れない。

●三の批判的・空想的な社会主義および共産主義について

 バブーフら「労働者共産主義」の系譜とは別に、空想的社会主義の創始者とよばれる3人の教義と歴史的位置。
 この体系は、初期のプロレタリアートとブルジョアジーの闘争の未発達の時代に現われた。彼らは、階級対立を認識している。しかし、プロレタリアートの側に歴史的自発性も独自の政治的運動も認めない。彼らにはまだプロレタリアート解放の物質的諸条件はみえないため、この諸条件をつくり出すために彼らなりの社会科学や社会法則を探し求める。社会的活動ではなく個人的発明の活動、歴史的諸条件のかわりに空想的諸条件、プロレタリアートを階級へ組織する活動の代わりに、得手勝手なプランにもとづく社会の組織化が登場した。
 これらの創始者は、自分の計画こそもっとも苦しんでいる階級としての労働者階級を代表していると思っているが、プロレタリアートをこのように最も苦しんでいる階級としかみることができない。彼らは、階級対立から超越している。だから、一切の政治行動とりわけ革命的な政治行動を拒否した。
 彼らはブルジョア社会を鋭く批判した。たとえば、都市と農村の対立の廃止、家族・私的営利・賃労働の廃止、社会的調和の告知、たんなる生産管理機関への国家の転化−こうした未来社会に関する諸命題はすべて階級対立の消滅を表現しているものに他なりません。彼らは階級対立を最初のはっきりしないかたちで認識した。だからこれらの諸命題は、純粋に空想的です。
 階級闘争を空想的に超越したり克服することはできない。したがって、これら創始者たちが多くの点で革命的であったのに対して、弟子たちは反動的セクトを形成しているだけです。したがって、弟子たちは労働者のすべての政治運動に激しく反対した。
 以上のようにみてくると、第3章は今日的に生きていることがわかる。

第4章 種々の反政府党に対する共産主義者の立場

 共産主義者は、労働者階級の直接当面する利益を実現するためにたたかうが、現在の運動のなかにあって、同時に運動の未来を代表する。
 ドイツはブルジョア革命の前夜にある。イギリスやフランスとは違う条件のもとでこのブルジョア革命をなしとげる。ドイツのブルジョア革命はプロレタリア革命の直接の前奏曲になるほかない。
 共産主義者は、どこでも現存の社会的政治的状態に反対するすべての革命運動を支持する。こうしたすべての運動において、共産主義者は所有の問題をその発展形態いかんにかかわらず運動の根本問題として提起する。
 共産主義者は自分たちの見解と意図を隠すことを軽蔑する。共産主義者は自分たちの目的が、これまでの一切の社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に震えあがるがいい。プロレタリアートはこの革命において鉄鎖以外に失うものは何もない。プロレタリアが獲得すべきは全世界である。
 万国のプロレタリア、団結せよ!(〈マルクス主義原典ライブラリー〉『新訳・共産党宣言』第2版p70〜72)

 ここでの2つのアンダーラインのセンテンスは中身的に関連している。後者は単に、政治革命としての意味で暴力革命(国家権力打倒)を強調しているのではない。運動のどの段階でも「所有の問題を根本問題として提起する」ということは、階級的搾取、階級抑圧、階級的支配、つまり「これまでの一切の社会秩序」を暴力的に転覆し、そして廃止するという意味です。ブルジョア的私的所有つまり近代の資本の搾取と支配を廃止することが、階級的所有の全面的な廃止すなわち階級社会の全面的な廃止であるということ。そういうものとして、プロレタリアートは、「公的社会の一切」を吹き飛ばし身を伸ばし、社会の主人公となり、階級対立と階級の存在そのものを廃止していく世界史的存在なのです。ブルジョアジーの打倒=プロレタリアートの階級的解放はそのような根底的な革命であるということです。

『宣言』全体を第3章・4章との関係でつかみなおすために

 『宣言』は、共産主義者同盟を立て直していくためのその当時の必死の論争・討論と完全に結びついていました。
 マルクスがパリに出たころは、ヴァイトリングがドイツ人共産主義者の代表格。ヴァイトリングは、スイスで逮捕された後ロンドンに来て、シャッパー、モルらと1845年に同盟の再建をめざして1年くらいにわたる「共産主義連続討論」を行った。「共産主義とは何か、共産主義はなぜいまだに実現されていないか…」などなど。ヴァイトリングにとっても、労働者の解放は労働者自身の事業であるということはある意味で前提でした(「労働者共産主義」として)が、ここでの討論のなかで、「共産主義の導入に最も積極的に尽力するのは誰か」(第5項目)に関して、直接行動のための諸勢力を探し求める立場から「善意の領主たち、ルンペン・プロレタリアート、若者・および主情的婦人たち」と述べる。
 ヴァイトリングのキリスト教博愛主義的な「財産共同体」論ではもはやどうにもならない。ヴァイトリングは、逮捕以後、空論的な「貧民革命論、暴力革命論、世界革命論」的な革命論を強調し、ある種の宗教的神秘主義的宣伝の傾向を強めた。
 これにたいして、ロンドンにいたドイツ人労働者革命家たちは、脱ヴァイトリングの必要をみとめ、ドイツ哲学(フォイエルバッハ)を基礎とした唯物論的人間主義を柱とするという方向に傾いた。しかし、フォイエルバッハでは、キリスト教批判はできても共産主義の中身はない。このままでは、空疎な人間主義と「愛の説教」というドイツ的小ブル道徳主義のようなものになりかねない状態だった。マルクスとエンゲルスは、ヴァイトリング的なものから脱しつつある同盟が、階級的な基礎の上にしっかりと立てるように、ドイツ共産主義=真正社会主義の反動性を徹底的に突き出します。
 47年1月に、モルが使者としてブリュッセルを訪ね、共産主義者同盟への組織再編を前提としてマルクス・エンゲルスに正式に同盟に加入することを要請し、説得します。ヨーロッパ全土にわたる組織でしたが、正式同盟員は数十名であったとも言われています。事実上、数百人が連絡をとっていた。だがその周りに、ドイツ国内も含む多くの労働者協会会員がいる。「歴史」もあるし、実際に蜂起に参加してもいる。その影響力はけっして小さなものではなかったのです。
 論争の当事者たちは、この組織をとおして、労働者の国際的革命運動を階級的基盤の上に展開していくという展望をもっていたはずです。
 『宣言』はこういう状況の中で生まれてきた。この「同盟」の議論と組織的な綱領路線の決定は、ヨーロッパの労働者階級の運動の歴史を踏まえ、かつ、現在の差し迫った革命的情勢を見据え(イギリス産業革命から「50年の内乱」を経て)、かつ、これからの大きな展望をはっきりと打ち出すという意味をもっていた。『宣言』の冒頭のセンテンスから最後の一句までそういう意識性に貫かれています。
 このようにして革命的プロレタリアートの究極的勝利をめざす指導組織の形成、建設のたたかい、共産主義者の党のためのたたかいがはっきりと開始されたのです。党と階級の関係や、勝利のためにはどのような党でなければならないかなど基本的な問題を含めて、その後のプロセスの全経験をとおして豊かにとらえかえさなければならないことも多いですが、ここに最初の「出発点」がある。
 完成形態での共産党がここで誕生したわけではない。プロレタリア階級闘争の貫徹のための共産主義者の党が、その後の経過からいえば礎石的な意味を持つものとしてここで産声を上げたということです。早産ではあったが、労働者階級がここでそのような指導組織をみずから誕生させたという歴史的意味がある。そういうものとしてみたとき、『宣言』に、普遍的なものがぎっしりと詰まっていることがよくわかる。
(第3回講義了)

党学校通信 p5-8

討論から

●N

 マルクスがどういう問題意識でルンペン・プロレタリアートを問題にしているのかよく分かりました。
 たとえ失業していても労働者階級そのものなんだということを、ちゃんと原典的に確認する必要がある。プロレタリアートにも例外があるんだよ、というような理解の余地をなくすためにも、実はこういう人たちだったんだよと。正確に言うと、プロレタリアートじゃないということですよね?

●講師

 大工業の固有の産物としてのプロレタリアート本隊ということを軸に据えるかどうかが問題の中心だと思います。「ルン・プロ」という言葉で失業者一般を指すのではない。失業者も含めて労働者階級なわけです、理論的にも実際的にも。
 歴史的に引き継がれた、その国の独特の社会的形態にある労働者たちを、どういうふうに階級支配の中に組織しているのか、そういうかなり具体的な支配のあり方の問題なんです。そういう点で言うと、歴史的かつ実践的概念としてとらえなければいけない。今のワーキングプアとか、ロストジェネレーションとか、これから先も10年、20年経ったって、この延長みたいなのがずっと続いていくというあり方そのものが、今の資本の蓄積の仕方、人の搾取の仕方なんです。だから、資本のあり方、労働者を労働力商品として、くり返し搾取しながら上から社会を制圧して、しかも政治的にも抑圧して成り立たせている。こういうあり方の具体的問題として考えなきゃいけない。
 だから、資本の蓄積のあり方が基本的にどういうふうになっているのか、あの段階と今。その構造の中で、いわば大工業プロレタリアートと言っているプロレタリアート本隊に当たるものを、われわれはどういうふうに考えるのか。その中に、若者の大半を置いている状態があるわけだから、それは階級本隊の脇にいる人たちだよ、というふうには絶対にならない。それは、まさに資本の蓄積の本筋のあり方なんです。今の資本主義のあり方、資本の蓄積の構造そのものを真っ向から見据えて、労働者階級の具体的な現状に即して組織していく必要があると思うんです。だから、不安定雇用である、あるいは失業しているということで、ルン・プロとして、いわば政治的蔑称みたいな規定を与えるというのは、完全に間違っている。今の社会的存在の中で、どれに当たるのかみたいな、あるいは階級の中のどういう存在かという形で、「ルン・プロ」概念に接近するのはダメでしょう。資本主義だって歴史的にダイナミックに展開するわけだから、昔と今の共通点みたいなもので考える考え方、マルクス主義はそういう発想ではない。

●E

 過去のルンペン・プロレタリアートがなんだかんだというのを学ぶことは重要かもしれないですけども、今日の9割の人間をワーキングプアにするというようなこと、あるいは、希望は戦争と言っている31歳フリーターの問題。こういったのに対して、革命的回答を与えていくというところから出発した方がいいと思うんですよ。今や資本主義体制が最末期に陥っていて、まったく食わしていくことができない、労働者を。買収だとかなんだとか、そんなレベルの話でもないと思うんですよね。路頭に迷わせていつ死んでもいい、というふうに全員をたたき込んでいく攻撃としてあるという、そこから『共産党宣言』の内容をいかに活かしていくか、そういう論議にしていった方がいいんじゃないかと個人的には思いました。

●N

 問題意識は一緒だと思う。例えば希望は戦争であるという彼なんか、要するに、コンビニでフリーターを一生やっているよりも、軍隊に入った方が人間らしい生活ができて、人間らしい死に方ができるんじゃないかと。そういう人たちにたいして、革命は実現可能なんだということを、われわれが示せるかどうかということだと思っている。プロレタリア独裁にこそ自分たちの希望があるんだということを、どう出していけるか、それがやっぱり革共同の党派性として問われてくるし、マルクス主義の力で展望をどう打ち出せるかということだと思うんです。プロ独をやらないと俺たちの未来はないんだということで、非正規も正規も含めて、どう階級的団結をつくるのかというところで、本当に通用するマルクス主義ということが問われている。
 だから、こういう〈ルン・プロ〉規定みたいな、それを破壊する要素は絶対に曖昧にしちゃいけないと思うんです。そのこと自体をゴチャゴチャやるというんじゃなくて、現実の社会で働いて生活している労働者を獲得するイデオロギーにしなくちゃいけないという問題意識なんですよね。

●I

 3回目の『党宣言』は、9割方満足。だけど、残りの1割について意見を言いたい。やっぱり具体的な現下に起こっている問題を、一言でいいから引き寄せてレジュメの中でも反映させてほしかった。これは『党宣言』の学習会だから詳しく書くべきだとは思わないんですが、『俺たちは鉄路に生きる2』、あるいは3・18の基調報告、6・9の発言でもいいですけど、これと『党宣言』の関係というのが、一言でも二言でも結びついているということが重要で、それが党学校の醍醐味というか、実践性に裏打ちされた党学校の発展形態というか、だと思います。

●G

 僕も今回は、おもしろかったなというか、かなり勉強になったということの上で、3章の展開をどう言っていくかということ。1章はプロレタリアートは決定的なんだと、2章は党に結集しよう。そこで加盟書を出すと、大体言い訳をやってくる、労働者はそんな力はないでしょうとか、社会主義どうやって運営するんだとかね。そういう意見に対して、プロレタリアートは決定的で、革命しかないんだということを言っていくのが、3章、4章というかな。結局、他党派というか、そういう批判をとおして、プロレタリアートが決定的な存在で社会の主人公なんだという、そういうことをくり返しはっきりさせるということが重要だと思います。
 3章、4章に引きつけて言えば、今のワーキングプアに関する論客だとか、今ある運動だとかは、貧しいから助けてあげようという運動なんですよね。プロレタリアートは革命的な存在なんだということを必死で隠ぺいするためのものになっている。僕は、それに対する3章だと。結局、それがプルードンだし、オーエンだとかそういう思想であって、われわれ共産主義者の立場は違うんだということをガンガン言っていくことが、今からもっともっと必要になってくる。3章、4章の展開は、もっともっと必要になってくるということ。それは、200万人の公務員のクビが切られる、そういう中で、やれハローワークだ、やれ競争だ、という形で煽られて、団結が奪われ、階級支配に対する怒りをくもらされているという、そういう体制内労働運動がドンとあるという。それに対する階級的怒りを発展させていくということが、今必要になってきているなというふうに思います。
 あと、レジュメに沿って言うと3、4章の展開の所なんかで、共産主義者同盟をマルクスが獲得していくために必死になっていった歴史みたいに読み取れるけども、僕は、マルクスが自分を自己脱皮していくみたいな、党と階級の弁証法みたいな描き方をしないと、ある種論客同士で論争して『宣言』にたどり着いたという感じがして。やっぱりドイツ革命、ドイツ・プロレタリアートが覚醒していくという中で、マルクスが確信を深めていく。マルクスはその中で自己形成、プロレタリアートに触発されて自己形成していくという、僕はそういうとらえ方。

●講師

 言っていることはよく分かる。マルクス自身の思想的歩みは、ヘーゲルがどうで、フォイエルバッハがどうで、その論理的展開の中から深まっていったのではなく、文字通り労働者階級との交流の中で全部書かれていった。ある程度想定していたよりもストレートにそうなんだなということを感じている。
 文字通りプロレタリアートが革命の主体として自分自身をはっきりさせていく。その一環として、ブルジョア社会というのはどういう社会なのかという歴史的認識が形成されていった。それ自体が、いわばプロレタリアートの階級闘争そのものがはらんでいる関係を理論的に表現しただけなんだというふうにマルクスは言っている。そういうこととして、私は言いたいわけ。

●F

 4章の「まとめ」の部分は、今の党内論議の的になっている部分だと思う。「共産主義者は所有の問題を発展形態のいかんにかかわらず運動の問題として提起する」。その後の、「共産主義者は自分たちの目的が、これまでの一切の社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを公然と宣言する」。この2つのセンテンスは、最初読んだ時には、当たり前じゃないかと。実際前半の部分は階級的労働運動そのものですからね、賃労働と資本の関係を転覆するということだから。階級的労働運動を実際に実践していくという立場。それと、政治的な革命を達成するということはまったく一緒なんだということを、今年の『前進』新年号のアピールでも、要はそういうことを言っていると思うんです。政治闘争と階級的労働運動はまったく同じなんだ、対立するものじゃないんだ。
 これは、当たり前だと思っていたんだけど、実際にこれを実践するとなると、まったく別の問題なんだと。だから、僕らが職場で労働者を組織する、労働者にたいして革命を提起するということにたいして、それに日和るということは、『宣言』の結論部分にたいして僕ら自身が実践できませんよ、というふうになってしまうということなんです。だから、ここは通り一遍ですますんじゃなくて、本当に内実化していかなければいけない。

●講師

 僕も一応そういう問題意識を持って、言っている。70年世代の中には、マルクス主義者はとにかく権力奪取、政治闘争なんだと、そこのないマルクス主義はナンセンスなんだというようなことが、どうしても先に来るような物事のつかみ方をしている部分もいる。だけど、『共産党宣言』なんか見たらそうじゃない。ブルとプロの闘いというのは、この社会の基本関係であって、賃労働と資本そのものなんだよ。日常の生活そのものの中の階級対階級の対決なんです。そこの非和解的階級的な対立関係があるから、いわば政治的な権力による上からの全面的な支配というものがあるわけで、この両者を完全に一体でとらえたことによって、『宣言』ができたんだよね。
 そういう社会革命として問題をとらえきって、ここから階級として自己を形成したプロレタリアートが、ブルと完全に対峙して、その中から一個の階級闘争=ブルを倒す革命的政治闘争が問題になるという構造になっているわけです。そこの所をはっきりさせていきたいという問題意識があります。

党学校通信 p8-16 受講レポート

受講レポートから ★『共産党宣言』第3回のレポートです。

【F】

 今回の提起は、マルクスが当時のエセ社会主義諸党派と論争しつつ、自らの共産主義理論を形成していった過程がよくわかりました。プロレタリアートのブルジョアジーへの怒りを反動的に組織していった封建的社会主義、観念的な階級闘争から超越したところに身を置いたドイツの「真正」社会主義、労働者を救済の対象としてみているプルードン派に対して、労働者こそきたるべき革命の主力部隊なのだと主張したのが、『宣言』第3章です。
 プロレタリア革命の主体は、いうまでもなく労働者階級自身です。この事実に立つのか立たないのかということを、マルクスは、われわれにたいして『宣言』のまとめを通して問うているように感じました。
 講師も強調していたように、マルクスは、単に政治革命としての意味で暴力革命を強調していたのではなく、賃労働と資本という所有関係を転覆するという労働者階級の蜂起として提起していたのです。階級的労働運動路線を巡って党内で論議が起きている今だからこそ、この点を「前提」であるとして素通りするのではなく、ガッチリとおさえていかなければならないと感じた次第です。

【G】

 今回の提起に関して、最後のまとめのところで、『宣言』の全文を通してまとめていたのが良かったです。
 当時のマルクスの共産主義の萌芽的な運動に対するイデオロギー闘争としての3章という展開は、深みがあった。ただ、大きく労働者階級とマルクスという関係ではっきりさせられていなかったので、論争的論争になっていてもったいなかったと思う。実体的に労働者階級に獲得されたという部分と、マルクスがマルクス主義をつかみとっていく(階級移行していく)という部分の立体的構造みたいなものは必要。
 また、現代的に普遍的問題として。労働者を救済していく、空論的な共産主義、プロレタリアの革命性を低めていくイデオロギーに対して、階級的立場をまずはっきりさせて批判していくことが重要だと思った。その辺は、現代的に批判していく上でも重要であろう。「労働者階級の中に革命して、社会の主人公になっていく力がある」。このことをくり返し、批判を通してはっきりさせていくことが3、4章で重要なことだろう。

【S】

 3章は、学習会でも「昔の党派の話だから」とトバしてしまうことが多いのですが、今回は、当時の革命運動のダイナミックな歴史を聞けて良かったと思います。6・9集会でも、「革命というのは難しいことではなく、自分を抑えつけている一切のものを無くすことだ」と発言した青年がいましたが、革命運動というのは複雑で固定したものでなく、シンプルで躍動的なものだと思います。ブランキやフーリエなど良いことを言っているが、ブッとんだこともやっている愛すべき連中との党派闘争、革命的労働者達との交流を通じて、マルクスが思想を豊かにしていったように、「自分も仲間もドンドン変わっていく」革命運動を楽しむ、このことを3章で教わった気がします。

【O】

@ レポーターも報告してましたが、『共産党宣言』の学習は、通常1章、2章どまりで、3章、4章までふみこんでやる学習会は僕も1回しか経験がなく、今回の報告はかなりよかったと思う。とくに、マルクスの思想の形成や『共産党宣言』が、どう党派闘争的に、あるいは種々の間違った思想と対決して形成されていったのか、この3章、4章は実は極めて重要な章だと思います。1章、2章の内容は、3章、4章の内容の背景から形成されてきたものだと思います。この3章、4章は、あの当時の問題だけではなく、現在の問題でもあると思います。
A 学習会の報告と討論も、かなりかみ合ってきていて、学習にもなりました。
 以前、津田道夫の書いた本だったと思いますが、バブーフ、ヴァイトリング、ブランキの時代の労働者のたたかいの歴史が書かれていた本を読みましたが(30年ぐらい前だったと思います)、かなり興奮して読みました。とにかくあの当時は、マルクスだけではなく、労働者が、労働者の個性豊かな代表たちが、陰謀家が次々と現れ、ブルジョアジーと闘い、死んでいった。これとの闘いの中で、マルクスは自らの思想を鍛え上げ、労働者階級のたたかいの綱領『共産党宣言』をあらわす事ができたと思います。
B マルクスというと、ヘーゲル哲学、イギリスの経済学、フランスの社会運動が源泉になっているとよく言いますが、核心的には、労働者のたたかいに感動し、その勝利のためにたたかい、マルクス主義という労働者の解放のための唯一無二の思想を形成していった。今回、この事が出されていた学習会だったので、よかったと思います。
C 前回の「ルンペン・プロレタリアート」の問題は、討論として出しつくされたと思います。「労働者種族」という言い方は、マルクスが使う労働者にたいして愛情をもって言う事と、現在、「労働者種族」という言い方を「障害者」解放闘争で言う場合には、まったく意味が違います。「種族」という概念と、日本の現在の運動の場面での「種族」という言い方にはギモンを感じます。差別的なものを感じます。
D 結論。今回の学習は、かなり勉強になりました。「学習は学習」で何才になっても必要だと感じました。

【E】

 まず、今日的に『共産党宣言』からどう学ぶかということをはっきりさせていく必要があると思います。マルクス主義の生きた実践である動労千葉や3・18−6・9といった実践的な観点から『宣言』をもっと深めていく必要があります。結論としては、11月1万人であり、マル青労同、マル学同の1000名建設です。
 いろいろ不十分な所もあったと思いますが、3回の学習会でつかんだことをただちに実践にうつしていきたいと思います。
 今回の学習会としては、やはり党派闘争的な論争の重要性を今日的につかみとるということだと思います。社会改良だとか資本の枠内での生活向上といったものに対して、プロレタリアートの解放は根底的な革命によってのみ実現されるということを明らかにしているという点で、重要だと思います。
 今日的には、社・共といったものに対して、「労働運動の力で革命をやろう」といった3・18−6・9の訴えこそが、青年労働者や学生を獲得できる唯一の内容だということです。
 闘わない組合執行部、体制内労働運動から決別し、青年労働者・学生先頭に、11月へ進撃していきたいと思います。

【V】

 3章、4章を今日的に引き寄せて読んでいく、そのためにも3章、4章が書かれる背景としてどのような論争がおこなわれ、それを受けて書かれたのか、非常に大切だし、興味深かった。これまでは単に、1章、2章の内容をはっきりさせるために、当時の他党派に対する批判を書いた、くらいにしか思っていなかったが、この『宣言』が生まれてくる当時の運動との関わり、ダイナミズムとともに、当時の論争もとらえていくことによって、今日のさまざまな諸反動や諸党派、さまざまなイデオロギーが渦巻く中で、生きたマルクス主義を、労働者の実践の思想として提起していけると思った。
 自ら学習会を組織したことがまだないので、自分の問題意識がまだ漠然としているが、3回の学習を通して、議論にも触れ、自らが組織者になるという、何よりもぶっ立てなければならない問題意識がはっきりしてきた。『宣言』についてはこれで終わりとなったが、どういうダイナミズムの中で『宣言』が生まれてきたのかを、3回の内容にふまえて、再度読み返してみたい。

【X】

1)3回受講して、大変勉強になりました。3回目は、第3章に関連して、『宣言』が書かれた当時の運動との関係のみならず、プロレタリアートとの交流の中でマルクスの論及も深められていった等々の歴史的流動の中で『宣言』が描かれていて大変おもしろかった。1、2章も、生きた言葉としてよみがえって来た様な気がしました。
2)自分としては、1848年の革命自体がどの様なものだったのか、『党宣言』をやる都度に、何か読んでみようと思ってきたのですが、今回も、一寸読み始めたところで完読できていませんが、今日の話を聞いて、読み切りたいという気持ちになりました。
3)若い人たちの発言、批判も、ものすごく刺激になりました。革命をやるんだという気持ちで読もうとしているところに、追い立てられるものを感じました。
4)討論の最後のところで、仲山同志が、「70年世代は権力奪取がない…からナンセンス」となって云々、4章まとめのところで、マルクスは云々、両者を合わせて云々…と言われていましたが、ここの所は、すごく重要なことを言っていると思います。

【N】

 「ルンペン・プロレタリアート」の質問については、今回の提起と討論の中で、はっきりさせることができました。実践的な問題意識を軸にしながら、討論を深めていくことの重要性を再確認しました。
 3章、4章についても、まさにマルクスの革命家の実践という立場を明確にさせることがポイントだったと思います。その点で、今回の学習会は、『宣言』の理解をかなり深めてくれました。
 ただ、本当の意味で3章、4章をはっきりさせるためには、我々の立場で、実践的に3章、4章的な内容を形成していかなければならない、と思いました。例えば、既成の労組の中で決起したMWLの仲間が激しい攻撃を一身に受けて闘っている。彼らがこの攻撃と闘い抜き、仲間を獲得し、全体を獲得していく−その力となり、武器となるマルクス主義、『宣言』の内容を、党の力で形成していかなければならない、ということだと思います。産別的な宣伝・扇動の中にも『宣言』のガイストが貫かれている−そういうレベルで我々が『宣言』を使い切れるレベルをどう形成していけるのか。私としては、『宣言』はまさにそれに値する革命の書だということを確信することができました。その一つだけでも、重要な学習会でした。

【P】

 ルンペン・プロレタリアートについての討論が非常に良かったと思います。マルクス主義に対する批判のひとつとして、「ルンペン・プロレタリアートを腐敗した連中であると非難している」という批判があります。しかし、『党宣言』での提起は、「ルンペン・プロレタリアートとは、旧社会の最下層の人びとの受動的な腐敗現象」と規定しているわけであり、資本主義の成立期の歴史的事態として言っているということがわかりました。批判する人たちは、マルクス主義者が、今日のホームレスの人たちなどを「ルンペン・プロレタリアート」として非難していると言わんとしているわけですが、まったく的はずれだということです。そういう人たちについて、帝国主義段階の過剰労働力の問題として捉えていくことで整理できると思います。
 今回、1840年代のヨーロッパの労働者の闘いと、その中で、マルクス・エンゲルスの闘いが位置づけられて提起され、理解が深まりました。とりわけ正義者同盟−共産主義者同盟への飛躍とそこでのヴァイトリングとの討論が大きな意味を持ったということです。ヴァイトリングの思想(キリスト教的友愛思想)からプロレタリアートを解放主体とする思想への飛躍が成し遂げられ、組織としてもプロレタリアートの党としての共産主義者同盟への飛躍が勝ちとられたということです。
 ここにおいては、マルクス・エンゲルスが一方的に労働者をオルグしたということではなく、労働者の側におけるヴァイトリングの思想からの脱却と、マルクス・エンゲルスのプロレタリアートの側への獲得という面があったということです。この面については、これまでの学習でも学んではきましたが、よりプロレタリアートの闘いに結合した形であったのだということが理解できました。

【Z】

(1)『宣言』のまとめとして、前2回の論議をうけとめて、大変な力作。今日的に1つの水準をぬいたのではないかと思います。
(2)3章の重要性について→小生自身も全く同感です。思想・理論・路線は、垂直的正置形態のみならず、対立的論争的、党派闘争的に展開されてはじめて、主体的実践的なものに高められるというのは、絶対的真理だということです。
 ▲また、マルクス・エンゲルスが、他党派の階級的正体のとらえ方において、極めて厳格的・厳密であり、全力投入している姿勢です。
(3)『宣言』全体を第3章、4章との関係でつかみ直すために→
 ▲なぜ『宣言』が21世紀革命のバイブルたりうるのか? なぜ不滅なのか? その秘密の1つが、今回出されていることは重要な地平です。
 すなわち、「共産主義者同盟」の思想的綱領的(再)確立をかけたヴァイトリングとの死活の党派闘争−そこに身を置いたマルクスの必死の格闘と飛躍ということ。当時の階級闘争の先端の攻防そのものは、忘却の彼方に消え去っていこうとも、先端的基軸的死闘とその所産は、古典性と普遍性をおびるのであり、その古典性と普遍性ということを媒介として、時空をこえて、絶えず新しい相貌をみせ、絶えず新しいメロディを奏でずにはおかないということでしょう。
(4)『宣言』全体の捉え返し→
 ▲今日的テーマを捉えこんで、1つぬいたと思います。
 ▲今は“革命やろう”ですが、早晩、所有の問題−“私有財産の廃止”が現実のスローガンにのぼることが示唆されています。
(5)「ルンペン・プロレタリアート」について→
 ▲討論の流れに賛成。特殊歴史的現象ですから、社会科学的経済学的にというよりも、私自身は、学習会では文学的に出しています。何よりマルクスの『ブリュメール18日』です。それから、フランスはユジューヌ・シューの『パリの秘密』、イギリスではディッケンズの諸作で描かれた資本主義社会初期の大都市の「暗黒社会」etc.の描写ですが……。

【C】

 今回の講義は、とても興味深い、意義あるものでした。
 1つは、『党宣言』が、マルクス・エンゲルスとヴァイトリングをはじめとした当時のヨーロッパの労働運動の担い手・指導者たちとの“共産主義とは何か”をめぐる論争の結果として、その成果として生みだされた、ということ。
 2つは、共産主義が「ブルジョア的私的所有の廃止を根本的な総括軸にしていく」ということに結論づけられるプロセスが、実は、プルードンの「平等の交換の体系をもって、ブル社会の弊害を無くそうとする」などのアイマイでペテン的立場と思想を徹底批判しきる形で突き出されたのだ、との講義の提起も、すごく動的に、おもしろく聞くことができた。
 3つに、第3章は、「封建的・小ブル的・ドイツ的・社会主義」「ブルジョア的社会主義」「空想的社会主義」との「共産主義とは、いかにあるべきか?」をめぐる徹底した論争の立場で書かれていることを、講義では、もっと出してほしかったし、おもしろくしてほしかった。
 4つに、第4章は、「まとめ」のところが、すごくよく提起されていてよかった。特に、「共産主義者は、所有の問題をその発展形態いかんにかかわらず、運動の根本問題として提起する」「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでの一切の社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを公然と宣言する」という点と、それへの講師の解説「プロレタリアートは『公的社会の一切を』ふきとばし、身を伸ばし、社会の主人公となり、階級対立と階級そのものを廃止していく世界史的存在としてある」とのまとめは、圧巻であった。いつもこういう提起だとよかったと思う。
 ルンペン・プロレタリアートの問題での議論は、当時の王党派とその貴族どもが私費を投じても、自分たちの手兵としてつくりだしたのではないか、という提起は、興味深い問題として、現在的にとらえた。
 講師と関係者の努力に感謝します。

【I】

 討論の中で展開しきれなかった点について書いて、レポートにかえたいと思います。
 『党宣言』の学習会として、3回目にしてきわめて“実践的”なものに近づいた、という感想は述べた通りです。この間、現実の展開がとても激しく、かつダイナミックな中で、実践面で出される様々な文書、あるいは意見・見解(批判)などは、マルクス主義のガイストをめぐって、その原典の引用なども含めて多く引き合いに出されています。この現実の攻防にかみ合うかたちで、やはり「原典学習」の側からも必要だと考えています。そうなってこそ、現場の闘いと「原典学習」が相互に“発展”していくと思います。
 今回は、まさにその点で「まとめ」の部分が、「所有の問題」と「社会秩序の暴力的転覆」の“核心中の核心部分”が、現下の論争点とガッチリ向き合っていた、ということが「第3回」の全体を非常におもしろいものにしたと思います。これは、まさに暴力革命が、単にブルジョアジーの「暴力的武装」に対峙・打倒するためだけに必要なのではなく、プロレタリアート自身がその中で「あらゆる汚物」を払いのけるためにも必要だという点とも重なって、とても勉強になり、自分自身の理解も(したがって、実践的にも)深まったと思います。

【R】

 『宣言』は、3章、4章を通して、1章、2章で明らかにした、プロレタリアートの「唯一の革命性」という確信を、徹底的に論争しながらも明らかにし、プロレタリアートの国際的団結を最初から呼びかけていることが、すごいと思った。
 『宣言』を読んで全体的に感じることは、マルクス・エンゲルスの「本=提起」として今日も読みつがれているのだが、労働者階級が実践を通して、マルクス・エンゲルス、そして党を育て、支えてきたという、その柔軟さ、対応の万能性に、あらためて気がつかされたということです。マルクス・エンゲルスと共に階級闘争を闘い、党を宣言した労働者一人ひとりの顔が浮かぶようなところまで肉迫できれば、プロレタリアートの独裁が私的所有を廃止し、共産主義社会の中で、人間の解放をかちとることができるということに確信が生まれます。
 そういう意味で、3章、4章の論争の激しさが、死活をかけた論争であることが、今日的にも明らかになってきていると思います。

【J】

 「共産主義者の理論的命題は、現におこなわれている階級闘争、つまりわれわれの目の前で展開されている歴史的な運動のほんとうの諸関係を一般的に表現したものであるにすぎない」(新訳本33頁)。
 『共産党宣言』の学習を通して、「共産主義者の理論的命題」の理論的・実践的な内容を学ぶことができました。
 『共産党宣言』は、イギリス産業革命が終わり、イギリス資本主義が確立し、資本主義の生産様式がヨーロッパ−世界に広がろうとしていたそのときに発行されています。1789年のフランス大革命、イギリス産業革命・資本主義生産様式の確立によって、ブルジョアジーが権力を握り、労働者階級は団結と闘いを必要としていました。労働者のあらゆる運動と団体を糾合するための理論的・実践的指針−批判が必要であったのです。
 それは、イギリス労働者階級・ヨーロッパの労働者階級がブルジョアジーとの闘いを本格的に開始するその時です。労働者階級にとって革命党が必要であったのです。
 労働者階級の闘いのもとで、マルクス・エンゲルスは、1847年2月「正義者同盟」に加入します。「正義者同盟」の改組である共産主義者同盟の第1回大会が6月ロンドンで開かれる。12月、マルクスは『共産党宣言』の執筆に入る。そして、『宣言』は、1848年2月に刊行される。ときに、1848年が勃発した。『宣言』の発行と1848年革命の勃発は同時であった。
 『宣言』は、党と労働者階級の普遍的関係・内容に満ちています。資本主義が資本主義であるかぎり、『宣言』は1848年にして、同時に今日の『宣言』なのです。
 〔レーニン『帝国主義論』・『国家と革命』等を学ぶことによって、反帝国主義・反スターリン主義−現代帝国主義の打倒がかちとられます。〕
 私自身の闘い(−生活)の場で、『宣言』を実践的に生かします。

【A】

 『共産党宣言』第3回目。第3章・第4章の講義を受けて、最も強く印象に残った点について。
 講義とその後の討論を通して、『党宣言』の著述過程が共産主義の実践そのものとしてあったという認識がとても鮮明になりました。
 当時の西欧における共産主義的な運動の諸潮流間の闘争・論争、そして何より階級闘争の中から、マルクス・エンゲルスによって著述されたものとして『党宣言』があったことがよく理解できました。
 また同時に、この著述を進める中で、マルクス・エンゲルスがかつての自分たちのたたかいを自己批判的に乗り越えてゆこうという姿も鮮明となりました。
 そういうものとして、現実の階級闘争の中から、自ずからそのあらわれとして、共産主義とは何であり、どういうものとして実践されてゆくものかを自ずから示すものとしてあったし、その最初の第1歩としてあったという点での認識が深められました。
 やはり『共産党宣言』は良い。学ぶ度に新たな活力が生みだされます。今回の講義とその後の討論も、『党宣言』を実践的に学び、活用していくという真剣さが伝わるものでした。
 なお、ルンペン・プロレタリアート規定について。「旧社会の最下層の人びとの受動的な腐敗現象」という規定で、特殊歴史的な存在として捉えるべきという点は理解できます。しかし、一方で、もう現実には「存在」しないという認識については疑問が残ります。ルン・プロを「最下層の人びと」と規定する誤りは明らかですが、同時に、やはりブルジョアジーに取り込まれ、その尖兵として白色テロをふるう腐敗現象(社会的な層としての存在=例えばヤクザや右翼〔現代日本的な右翼〕など)はこれに通じるものがあると思われます。

【Q】

 『共産党宣言』の学習会は、非常にエキサイティングで勉強になりました。
1.現在の路線討論−革命情勢下での党の路線をめぐるたたかいを背景として、特に労働者同志、若い学生同志の主体的決起の内容にふれることができました。
2.まさに、マルクス主義の復権が実践的にチャレンジされた学習会になっていったと感じました。さらに内容を深めて、「共産党宣言」が現実の革命と党アピールになるようがんばりましょう。
3.マルクス自身の「階級移行」をかけた「宣言」であることが、より鮮明になったと思います。
4.私が誰か(労働者)を対象にやる学習会では、もう少し当時の情況・歴史背景の資料、また現在の情勢等の資料を使いながら、より具体的に今のこととしてアプローチしてやる方がわかりやすいような気もします。(準備と学習が必要ですが、自分が説明しやすいと思っています。)

【B】

 第3回での提起は『宣言』への接近の仕方として歴史的に位置づける意図は感じました。しかし今現在求められている接近の仕方としてはやや違うのではないかという感想を持ちました。ただ私自身、当時のプロレタリアートの闘争の本格的発展期についての認識というのはほとんどなかったのでその点での示唆が与えられたことは良かったと思います。
 現在われわれは労働者階級の闘いの本格的発展のなかで労働者の党をつくろうとしている。階級は自らに必要なものは創り出すと思います。マルクス主義もまたそのように形成された。「社会全体に革命をもたらす思想があるといわれる。それは古い社会の内部に新しい社会の要素が形成されたこと…」(第2章、新訳本p44)。この言葉はマルクス自身の自己規定としてもあるのではないでしょうか。
 当時の労働者階級の闘いを現在われわれが戦後革命期の闘いを学んでいるようなかたちでダイナミックに描き出し、そこにいかに『宣言』が有効な指針たりえていたのかということを検証するということはできないでしょうか。労働者階級の闘いと経済学的批判というのが大半を占めなければならないのではないかと思うのですが。
 第3章、新訳本p52、「…僧侶的社会主義は封建的社会主義と結託している」このへんは韓国の階級闘争はおもしろいと思います。1970年代の民主労組運動においてカトリックやプロテスタントの組織が果敢な闘いを行っている。労働運動においてかなりの影響力を与えているのではないか。これは当時とは違う点です。
 前回につづいて所有の問題について展開されています。しかしこの問題について語る場合、帝国主義についてまず触れないわけにいかないと思うのですが。「帝国主義は社会主義の前夜」という言葉は私的所有ということと生産関係が如何に相容れなくなっているかということとしてもとらえられます。これまでの取得のあり方は私的なかたちで行われてきたということ。ローマ市民というような市民。市民というのは公的だろう。しかし極端に私的なもの(奴隷制)を条件とする公である。国家もまた公である。しかし階級対立の産物としての公である。公務員は公か。公として作られたが4大産別闘争は労働者階級の闘いの先頭にたつことで革命にとって決定的位置をもっている。民営化や私的所有の「…この取得の惨めな性格である」。トヨタ、キャノン、グッドウィル・グループ。
 戦争というのは最も公的な性格のものだろう。しかしそれさえも私的な性格が刻印されている。封建社会では家の名誉など。武勇の誉れ。帝国主義戦争はあまりに巨大で悲惨だがもっとも反動的なものである。階級と階級の闘いではなく強盗同士の戦争。私的所有の延命のための戦争である。この帝国主義戦争を階級対階級の決戦に転化していくのが労働者の闘いだと思う。
 このような公的世界の全体を吹き飛ばす闘いに労働者階級は起ちあがってきたしいままた起ち上がりつつある。「共産主義革命は伝来の財産(所有)諸関係からのもっとも根底的な決裂である」(第2章、新訳本p45)。所有概念そのものが決定的に変化していくということだと思う。
 以上、生意気ですが批判的に書かせてもらいました。

【L】

 自分としては、質疑応答で出されたレジュメ7ページのまとめの部分が重要な意義を持っていると思いました。講師が、今回いちばん提起したいことだったと思います。労働運動においても、他党派を批判したり、戦闘的な民主主義者との統一戦線にしても、自分たち労働者階級の運動は「所有の問題を運動の根本問題にする」ことは、共産主義革命に向かって実践的に推し進めていく上で、決定的だと思う。
 動労千葉が「労働者を食わしていけないような資本はただちにやめろ! 代わりに俺たちがやってやる! という構えに立って闘う。これで労働者は団結できる。労働者がそれができるのは、生産を握っているからだ」と労働者に提起していることは、このまとめの部分の実践のように思う。「所有の問題を運動の根本問題にする」ということが、実際には、今の社保庁の労働者にしかけられているような最末期の帝国主義の攻撃を、労働者階級が人間的怒りを爆発させて、団結して闘い、労働者や労働組合の誇りをとりもどすという闘いをする、導きの糸になると思います。