受講レポートから ★『共産党宣言』第2回のレポートです。
【Z】
(1)第1章の残りの部分の提起は、前回の諸提起をうけとめて、結論が、プロレタリアの「団結」論を実践的に突き出した点が、決定的ふみこみとなっている。
▲特に、〈団結のくり返しの破壊→さらなる革命的団結をもたらす〉中で、党と労働組合の立体的な構造と弁証法にふれている点の論及は、大きな収穫であり−
▲かくして、第2章の意義が、より実践的に鮮明になる契機となっている。
(2)以上は、発言の通り。
(3)第2章としては、〈労働組合の革命論的とらえ返し〉にふまえて、だからこそ、党の意義を徹底的にはっきりさせることが、今日的な核心だと思います。
▲マルクス「所有」論への論及は、マルクスの共産主義論の真の深さをのぞかせて、示唆的です。 【F】
『共産党宣言』そのものを読む(向き合う)ということは、私自身絶対的にやらなければならないことだと思っています。ただ、その時に重要なのは、もちろん『宣言』を文献学的に読むということではなく、マルクスが、当時の労働者階級の闘いにたいして、どう感じ、また階級にたいして何をどう訴えようとしたのかをちゃんと知るということにほかなりません。48年2月革命、3月革命に接して、これを本当に勝利させるには、党が必要だ、労働者階級を党に結集させることが絶対的に必要だと、マルクス、エンゲルスが感じたことが、『宣言』の動機です。この彼らのパトスをわれわれが、現代的にどう継承させるのかが重要だと、提起と、その後の討論を聞いていて感じました。
ただ私は、そのためにも、講師の問題意識として、いまの労働者階級の状態、階級情勢とどうかみあわせるかというのは、やっぱりあってほしいと思っています。 【I】
前回参加できなかったので、今回は楽しみにしてきました。
数年前の初期の党学校とも違って、“送り手”、“受け手”という「あらかじめの分担」が無くなっていることが実感されました。“党学校”それ自身の在り方も含めて、共に論議して打ち立てていきたいと思っています。
(『党宣言』そのものについて。)
あらゆるマルクス主義の文献についていえると思いますが、やはりその時々の時代背景、状勢と当然ながら無縁ではなく、『党宣言』も一つひとつの文章、コトバが当時の、そして今に至る生々しい闘いの歴史の中で生み出されたものだと思います。
その点で、「ルンペン・プロレタリアート」の項目への着目には共感できたのですが、内容的にこの部分の展開があれば、もう少し4大産別論などとの関係でもおもしろかったかな、と思います。 【G】
多く述べさせて、いただきました。
1章の内容の前進ということは、圧倒的だと思います。ただ、やはりそれもMWLの職場のたたかいや3・18、一方での革命情勢(格差社会、労組の結成…etc.)で切り開かれたと思います。だからこそ、2章での展開も、…と期待しましたが、やはり「解釈する」「どう読むか」という提起でした。
2章は、労働者階級に「党に結集し闘おう!」という熱烈なアジテーションです。ブルジョアジーの支配に対する(皮肉もあるが)徹底的な弾劾です。それを“どう読むか?”というスタンスは違うと思う。
また、1章は、「団結」というのが一定すえられていますが、2章には、団結がない。討論の中でも“団結革命論”という言葉が出されていましたが、2章での党の団結という討論の中身はなかった。
最近の党内論議でも、“路線で団結するのが党”ということが提起されている。しかし、その辺のギリギリとした白熱的な問題意識や緊張感がない2章は、自分自身の問題であるし、党学校そのものの問題。その辺すら、客観的に論じられていて腹立たしい。『宣言』はマニュアル本ではない。生きた革命の本だ。
その辺の問題意識で、党学校関係者は、細胞的“一致”をお願いしたい。(次回は、もう少し、主体的内容的発言になるように心がけるつもりです。)
あれこれ現実の問題を引用しろと言っているのではありません。「『共産党宣言』に書かれている原文を使って、ブルジョア支配への怒りや、革命をアジって欲しい」ということです。ソリダリティーを読んで欲しい。 【S】
2回出て、正直言って「とんでもない所に顔を出してしまった」という感じです。青年労働者への学習会のチューター養成講座かな、と思って参加しましたが、ちょっと違うようです。全体がもうちょっとスッキリしてから出たかった、というのが正直な所です。
第2章は「ブルジョアジーはこんな出鱈目で労働者を洗脳しようとしているが真実はこうだ。真実を知って世の中ひっくり返すには党に結集するしかないんだ」という空気の入る章だと思います。「読み込む」のも大切だとは思いますが、学習会にきた若者たちが目をランランと輝かせるような話のできるチューターを養成する、というスタンスでお願いしたい。当時の状況にはあったが今はあまり重要でない部分は端折っていいと思います。「ルンペン・プロレタリアート」の部分も、当時まだ組合の団結で革命を起こす、という発想が未熟で、自暴自棄的な直接行動に訴える労働者の足元を見透かしたブルが、こうした未熟な運動を叩き潰すために買収した層であり、今の時代にあてはめるのは無理があるような気がします。
【Q】
○ G同志の発言の中で「第2章」で革共同に結集する! ということをどう実現するような理論闘争をつくれるかという問題提起は、非常に重要だし、スタートだし、この党学校の大きな課題だと思います。
○ 目をくもらされていることによって我々も含めて、「革命だ!」といえない、いっても現実に通用しない、あるいは「逃げる」「ごまかす」「安住」するというところを、実践、学習等々でうちやぶって、ほんとうに今の現実を突破する、まったなしの緊張感をもって理論学習を進めていくことの重要さを改めて感じます。
また、「せん動」「宣伝」のストレートな武器として、マルクスの『宣言』そのものがもっている革命性を、我々が己のものにする作業を本気で開始したいです。3・18や6・9、動労千葉のたたかい…と『宣言』が時代と空間を打ち破って1つになっていく内容を真に復権していくこと。実践そのものが革命理論になるようなたたかいを戦闘的に形成しましょう。
第2章では、党と階級の関係、プロレタリアの党の問題がストレートに出されていることに感動しました。どのような党なのかを、ということについて生き生きとシンプルかつ根源的に出されていると思います。
「共産主義者が他のプロレタリア党と違う点」として、「国籍と無関係なプロレタリア階級全体の共通の利益を強調、貫徹」すること「運動全体の利益をつねに代表」すること、というこの2つのシンプルな提起や、あれこれの原則でプロレタリアの運動をはめこまないことといった提起にも、今日的課題そのものを感じました。
○ 他の方も言ってましたが、「ルンペン・プロレタリアート」についてのマルクスの論及の内容や背景、経過、論争などについての内容、それこそ「学術的」でもいいし、もっとききたいです。
また、これと関連して、今の党内論議についての深化をぜひ出していただきたいです。 【X】
質問。
第2章で、「共産主義者は特別の原則をたてて、その型にプロレタリアの運動をはめこもうとするものではない」とか「〜歴史的な運動のほんとうの諸関係を一般的に表現したものであるにすぎない」という表現があります。共産主義の主張は、何ら特異なものではない、と言っているように感じます。
この言い方と、たとえば『経済学批判』のいわゆる「公式」のところで、人類前史と後史という言い方をして、共産主義社会のある種、断絶性を提起していますが、「共産主義の主張は、何ら特異ではない」という表現とそぐわない感じを持っていました。
学習会などでは、ブルジョア革命は「あるがままを認めろ」というものであったのに比して、共産主義は(物化されたものが人間を支配するのではなく、その逆に、)人間の意識性が社会を形成していくものとして、ほんとうの意味での自由が実現されるのだと空気入っていたのですが、「断絶性」にその意義を感じていたわけです。「何ら特異ではない」という主張とプロレタリア革命(共産主義)の断絶性の、整合性について質問いたします。 【E】
第1章でブルジョアとプロレタリアの階級闘争を明らかにし、第2章において共産主義者の党の宣言として革命の具体的内容が明らかにされているという点で、極めて重要であると思います。つまりは革命党の必要性、我々自身についての必要性を明らかにし、党への結集を呼びかけるものとして第2章は決定的だと思います。
所有諸関係の部分などは、よく議論になるので押さえておく必要があると思います。
その上で、やはり『共産党宣言』の学習会という点で最も重要なのは、実践であると思います。『共産党宣言』をいくら正しく理解したところで(それ自体は重要なことだとは思いますが…)労働者が決起するわけではありません。現実の闘いの中でより深められていくものです。
前回も話になりましたが、まだまだこの党学校というものの実践的立場が弱いと思います。
マルクス主義の豊かな内容を実践で生かしていくような学習にもっともっとしていかなければならないと思います。
具体的には、動労千葉や青年労働者の闘いだと思います。この中に『共産党宣言』の言っていることの実践があると思います。
単に古典の学習ととられかねないような党学校からもっと飛躍をかちとっていくべきだと思います。 【N】
この間の「党の革命」をやり抜いてきた地平から、マルクス主義を本当に党と労働者階級の武器にしていく必要があるし、『宣言』にあらためて向きあってみて、『宣言』の中に本当に今の階級を獲得していく革命性がガンと存在していると思いました。
学生の同志たちのたたかいや問題意識は非常に重要です。党の理論戦線を、単なる「学習」の場に終わらせるのではなく、本当に実践的に闘いを切り開いていく力をつくり出していくものとして、みがきあげていかなければいけません。党学校に結集する者として、立場をあらためてはっきりさせなければいけないと反省しました。その上で、参加する多くの同志から主体的な意見が出され、団結して「党学校」を成功させていける展望を感じました。
内容的には、「ルンペン・プロレタリアート」とはどういう人たちなのか、もっと具体的に明らかにしてもらいたいと質問をだしました。『宣言』は全体的に今日的にピタッとはまってしまう部分と、はまりにくい部分があると思います。労働者階級、ブルジョアジー、インテリゲンチャ…こういった概念は学習会だけで理解するのではなく、実践の中ではっきりしてくるのだと思いますが、「戦後民主主義」でくもらされた「階級」の規定、意識をはっきりとうちたてていく、自覚していく、そのためには何をはっきりさせていかなければいけないのか、これを全体の力を明確にさせていくということが大きなテーマではないか、と思います。 【U】
@ 所有論の図解での説明を聞いていて感じたのですが、個体的所有・個人的所有の実態的、あるいはそこから整理された概念的まとめのような処にいたるものは、労働者・職場闘争・職場支配権、などをとおして、労働者が実体的・実践的に形成していく未来的所有として考えると、極めて単純・明快なものと考えることができるような気がしました。あまりくどくど説明しなくとも、労働者には単純に伝わるような気がしました。
A 党学校に主体的に何をもって参加するのかについて。
自分が地区・地域・職場で「学校」を主催することをまず第一に前提において参加しているのではないかと思いますが(私はそうです)、今までの職場・地域などの取り組みで、「ここがうまく出来なかった、もう一つ踏み込めないか」などの問題意識によって、出されてくる意見もかなり違うようにも思えました。共同闘争として「学校を形成していく」ことが重要と再度思いました。
B Zさんが言及していた第1章の前後のところと2章のはじめの「共産主義者とプロレタリア一般の関係」の部分は、決定的。今日的核心をなすものだと思います。理論的にも、実践的にも。
C 概念説明のようなものは、かなり整理させていないと全体の柱がボヤケルような感じを受けました。
D 党学校・年表資料のダーウィン『種の起源』の件について。マル・エン全集では、まず、マルクスがややマトハズレな手紙をエンゲルスに送り、それに対しエンゲルスが、「そうじゃないよ、これは重要なんだ」として意見交換がおこなわれていきます。
この時代がどのような時代なのかを「ア、そうか」という感じで理解できたという、以前に読んだ時のことを思い出しました。 【J】
前回党学校において、1つに“プロレタリアートだけが真に革命的な階級である。…プロレタリアートこそは大工業のすぐれて固有の産物なのである”が深く提起されていた、と感じています。2つに、労働者階級の自己解放が、労働者階級の闘いを基礎にして「党、労働組合、コミューン・ソビエト」との立体的関係として、明らかにされていたと思います。第2章では、この立体的関係が“プロレタリアと共産主義者”として提起されている、と感じました。すなわち、労働者階級の自己解放は、“共産主義者の理論的命題は、現におこなわれている階級闘争、つまりわれわれの目の前で展開されている歴史的な運動のほんとうの諸関係を一般的に表現したものであるにすぎない”といえる中に込められていると思います。
労働者階級の自己解放は、いまこの職場での現実の労働組合の闘いをとおして、賃金をアップする、労働条件の改善をテコにして、究極的にこの賃金制度を廃止していくことにあります。
労働者階級は、資本家の生産手段に従属していますが、生産物をつくっているのは労働者自身です。労働者が団結して、闘って、生産を管理することの闘いは、自らの生産物を意識的に分配することを意味します。すなわち、共産主義の諸条件が、いま現に労働者が闘っている目の前・職場にあるのです。3・18声明の「労働者階級の団結の究極が革命なんだ」こそは、今日の党・労働運動・労働組合の実践的指針です。 【C】
今日の報告を聞いて感じたことは、以下の点についてです。
その1つは、共産主義者(とその党)の問題の提起、すなわち、本質的規定と独自性という点については、きちんと出されたと思う。特に、「労働者階級の利益のために闘う」「国籍を越えた全世界のプロレタリアートの利害(国際連帯・世界革命論)」ということ。さらに「実践的理論的な徹底性、先見性」ということ。
その2として、共産主義者の党とその建設問題の後の「ブルジョア的私有財産(私的所有)と、家族問題、民族問題、上部構造、法律問題」という点については、当時のブルジョアジーとブルジョア政党、さらには空想的社会主義者党との激烈な論争の視点から、ゴリゴリ押し出してほしかった。一つひとつのセンテンスを字義通りにというか、その紙幅(文言が規定するウラに隠された内容=歴史と現実)をできるだけ簡潔に、しかし怒りを込めて提起してほしかった、と思っています。(五)のところのプロレタリア革命から共産主義への前進のところは、「プロレタリア革命を通して、プロレタリアートが主体的に国家と社会の分裂をアソシエーション(協力体)に、個体的所有を軸心に実現していく」というところは、空気が入って聞くことができました。
最後に、次回の学習会は、『党宣言』を、全内容を本質論として深めるように出し、己のものにしてゆきたいと思っています。
前回の議論に続いて、今回の議論も非常に学ぶものがあった。 【R】
『共産党宣言』は、1章、2章を終えてもなお、ブルジョアジーに対する労働者階級の打倒宣言であり、それが必ず勝利するんだということの確信をますます教えてくれている。第1章は、プロレタリアートが唯一、多数による新しい生産関係・所有関係を作り出すことによって、全人民の解放をかちとらなければならない真に革命的階級であることを宣言している。第2章と合わせれば、労働者の団結を破壊し、分断するために、資本家は、「個人所有をなくす気か」とか「家族を廃止する気か?」とか、あらゆる悪罵を投げかけ、労働者の団結や闘いへの決起を打ち砕こうとしてきている。これへの猛然たる反撃と、それを共産主義者(=党)として、仲間を増やすために、積極的に、共産主義の正当性として宣言している。本当に、この時点で「加盟書」を提起することを準備して学習すべき本である。
労働者階級は、資本家に富を与え、搾取され、その富で弾圧され抑圧され、しかも一個の「商品」として人格も一から十まで否定されている。しかし、ブルジョアジーが封建勢力との闘いに動員することから始まり、巨大な労働者の団結とか、教養、闘い方を身につけざるを得ない。政党を作り出し、人間の抑圧の根源が資本家的私的所有にあることをあばき、必ず決起する。労働者階級が唯一の革命的階級であることの確信を提起してやまない本であることが、よくわかりました。
【O】
1.報告、討論ふくめて学習になりました。前回、出席できなかったので、申し訳なく思っています。仲山さんの報告は、僕も1章の最後のところの労働者の団結の問題がはっきりだされていて、今の党の革命への決起の問題、「労働組合の力で革命やろう」の路線、マルクスの内容がはっきりだされていて良かったと思っています。学習になりました。
2.討論にもなりましたが、僕は『共産党宣言』を3回でやるのは大変な事だと思います。最初に学習で『宣言』をやったのは70年ぐらいだったと思います。その当時、1週間に1回で3〜4カ月ぐらいかけて『宣言』をやったと思います。最近でも、川武さんや野口さんをよんで地区で『宣言』の学習会をやりました。
今日の討論と以前の学習会を通じて感じた事は、『宣言』は『宣言』で徹底的に学習する事が重要だと思います。
3回というのは足りないと思いますが、その学習、討論を通して自己学習してマルクスに接近、学ぶ事が重要ではと思います。
3.3回だとどうしても、マルクスの本の「論理構造」の学習だけになってしまい、あの当時のフランス革命、イギリスでの闘い、ドイツ等々で、ブルジョアジーがどう形成され、それに対して労働者、労働者階級がどう形成され、どう闘って、どうブルジョアジーに殺され(フランス革命、パリ・コミューン)ていったか等の生の歴史について、なかなかイメージがわいてこないので、もう少し当時のたたかいの内容について出していった方がいいのではと思います。その労働者のたたかいの歴史に感動し、マルクスがマルクス主義を形成していったと思います。
その当時の労働者の決起、たたかいは、今の3・18の闘いにも通底するものであると思います。『宣言』をもっと豊富化するためにも、その当時の歴史、ブルジョアジーがどう世界支配を貫徹していったか(1章にでてきますが)、そういった歴史背景や、フランス、ヨーロッパの労働者の状況etc.がだされれば、今日ギロンになった「ルンペン・プロレタリアート」の問題、ダーウィンの問題もふくめて、あきらかになるのではと思います。
4.今日の学習、討論を通じて、学習になりました。2章の共産主義論のところは、ほんとうに学習が必要だと思っています。
今後とも学習していきたいと思いますので、よろしくお願いします。 【B】
2章冒頭「特別の原則」を立てるものでないという部分。今回やってわかってきた。プロレタリアの勝利は必然であるということとして読みたい。団結論をやったことでさらによくわかってきた。
プロレタリアの勝利ということの必然性=ブルジョアジーの打倒。ブルジョアジーの支配の打倒は資本主義的生産諸関係の全面的転覆である。それは私的所有の廃止ということとして展開されている。この「私的所有の廃止という一語に総括できる」という部分への展開をしっかりやっていきたい。今回所有論を若干やってくれたので手がかりにしていきたい。 【V】
今回は自分の問題意識があいまいなままで参加してしまったので、みんなの意見をいろいろと参考にさせてもらったという感じが強い。
感じることは、今回の論議に踏まえてということになると思うが、3月の学校の案内にもあった「古典を今日の階級的労働運動の『実践の書』として読む」とは具体的にどういうことなのかガッチリ提起して、方針を明らかにして学校をすすめるべきだと思う。これ自身、大切な議論だと思うので、必要ならそれだけ議論して方向性の一致をかち取った上で学校をすすめた方がいいと思う。この一致の上に学校がすすまないと、本来もっと内容につっこんで論議すべきところがその手前でとまってしまうし、時間も足りなくなる。
今の自分の闘いの現場では、労働現場と向き合う中での切実な要求というのは、なかなか実感としてわからない。自分自身は学習を組織したこともないし、実践的な課題にひきつけてとらえることが弱いのだが、例えば“『宣言』を『宣言』として読む”ということがやはり最も基本にあるべきだと思う。実践にひきよせてということを安易に切り札的アイテムのように切りちぢめてしまったとしたら、方向性として間違っていると思う。やはり、この『宣言』からマルクス主義を深く、鋭くつかみ取り、自らのものとし、『宣言』を通して自在に語れる。それが現実の労働現場においてもかみあった話になり、決起をつくり出す力になるのではないか。今回十分理解できなかったが、所有論の話は非常に面白く(例えば私的所有と個体的所有というのはよくわかっていなかった)感じた。ここをもっとわかりやすくして、ブルジョア・イデオロギーをぶち破るものとして議論できたら、『宣言』をアジテーションとしてとらえ、また使っていく上でも、実践的で豊富なものになるのではないか。
くり返しになるが、私は、まず『宣言』を『宣言』として読む立場が貫かれるべきだと思う。その上で、それが具体的実践において、どこがポイントになるのか、どこを核心的につかみ、あるいは核心的に訴えていくのが議論できるような提起であるべきだと思う。
(結論部分は自分の問題意識があいまいなので、あいまいな結論です。) 【P】
学生戦線の2人の同志から講師(理論戦線)に出された批判はかなり厳しいものであると思います。というのは、現在MWLの同志達と共に3・18を切り開き、前面に立って闘いを担っている同志達からの批判であるということです。発言でも言いましたが、「『宣言』を『宣言』として読む」「復権する」ということだけではかみ合った答えになっていないと思います。「復権する」という場合でも、21世紀革命の武器として鍛え上げるということでなければならないのは言うまでもありません。したがって、ブルジョアジーとスターリン主義、カクマルによってねじ曲げられ、歪曲されたものを強烈な革命の魂をもって復権させるということだと思います。『宣言』第2章などはブルジョアジーとのイデオロギー闘争として書かれているわけですが、そういう意味で「復権」という場合も、ブルジョアジー、スターリン主義との激しいイデ闘をもったものとして「復権」していくということではないでしょうか。しかし、講師の答えでは、どうしても「マルクスの言っていることを正確に読みとる」というように聞こえてしまいました。ではなく、21世紀革命の武器として復権させるということが大事と思います。
内容的には、1章の「貧困が人口と富よりも急速に増大していく」のところ、講師も自分の以前の受け止めを語っていましたが、私自身も同様に思いました。以前読んだ時には、現代においてプロレタリアートが「奴隷としての生存ができない」ところまで貧困に追い落とされることがピンとこなかったのですが、今日まさにその状態となりつつあるわけであり、マルクス主義が資本主義を根底的に批判しきっていること、今日的にもプロレタリアートの武器そのものであると改めてつかむことができました。
団結のところ。プロレタリア革命の勝利の不可避性を恐慌の面から捉えていたのですが、労働者の団結が、資本の土台を根底からひっくり返していくこと(だからこそ資本はたえず労働者を分断しようとする)、として読みといたのは、重要な点であると思います。MWLの同志を先頭とする闘いが、マルクス主義の実践そのものとして、明確にされたと思います。
なお、「党の概念が『革命的プロレタリアートそのもの』と限りなく重なっている。『プロレタリアートの革命的団結』とも重なっている。」(レジュメp10)という点が、重要な指摘だったと思うのですが、私としては明確に理解できなかったので、次回可能なら少し説明お願いします。 【L】
今回の第1章の終わりから第2章にかけて、自分としては前回悔しい思いもしたので、少しでも前進したいと思ってきました。理論的なことについては、新訳本33ページから「共産主義者の理論的命題は、現におこなわれている階級闘争、つまりわれわれの目の前で展開されている歴史的な運動のほんとうの諸関係を一般的に表現したものであるにすぎない」とあります。(「現におこなわれている階級闘争」では、青年労働者は「団結の究極の拡大は革命です!」と宣言した。)革命の旗を真っ向から掲げて青年労働者が決起する時代と切り結んだ学習会をする。しかし、講師のあり方を質問してそれで済む話で断じてなく、参加した党員の革命への情熱が試される場になっている。そういうものとして、とにかく、くらいついていきたいと思います。
第2章については、発言した通りです。私的所有についての展開は、図式で説明していくべきではない。労働者階級にとっては、自己解放の闘いは、すべて私的所有の侵害としてあると思うし、ここは、「よしやってやろう!」と労働者が思えるように提起してほしい。『宣言』のブルジョアジーとの論争的鋭さは、僕は、労働者をつかむ力はあると思うし、それを生かした方がいいと思う。 【A】
『党宣言』第2回目の報告及び討論は、私自身の革命的共産主義者としての確信を形成してゆく上で、とても有意義なものでした。
また、今回の討論でも、革命の組織者として最前線で闘う同志達の党学校によせる期待の大きさが、ひしひしと伝わってきました。これは何よりも、同志達の闘いの前進を反映したものとしてあります。
青年労働者や学生を組織してゆく上で、『党宣言』をどう学習し、活用してゆくのかという課題についての議論に関しては、その第1義的な最も核心となる点は、何よりも『党宣言』をはじめとするマルクス・エンゲルス、レーニンの著作の学習を通して組織する者自身の共産主義者としての自己形成にあると考えます。党学校の課題も、したがって第1義的にはこの点にあります。党学校は、参加者を革命的共産主義者として獲得・再獲得してゆく場です。報告そして討論を通して、これを実現してゆくことになります。
今回の報告では、所有論について新鮮な刺激を受けました。これはスタ批判として非常に重要な点で、現代における『党宣言』の学習の1つの大きなポイントになる様に思います。
なお、プロレタリアの階級としての形成との関係でのルン・プロ規定をとらえるという点は、もう少し展開して頂きたかった。
また、レジュメp8(新訳本第1章第53段落)に関する部分については、特殊戦後的な「高度成長」期と一定の階級関係の中で、隠ぺいされていた面もあるが、今日的に全社会的に顕在化しているといえる。しかし、その時期でも下層のプロの生活は悲惨であったし、全世界的な観点から見ればやはりはっきりとあらわれていたのではないかと思います。
最後に、『党宣言』が、社会革命における客体的・主体的条件を明らかにしており、それが『資本論』、その後のマルクスに一貫したものであったという提起については、次回の報告に期待したいところです。
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