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2007年06月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス・エンゲルス『共産党宣言』A

講義概要 P1-4

★-討論から P5-8

受講レポート P8-16

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-4 講義概要

第8期 第1課目 マルクス・エンゲルス 『共産党宣言』 3回シリーズそのA

第2回講義概要  講師 仲山良介

第1章 ブルジョアとプロレタリア

(7)プロレタリア革命(前回からのつづき)

●真の革命的階級としてのプロレタリア
 略。

(8)ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利の必然性

 最後の2つの段落の展開(<マルクス主義原典ライブラリー>『新訳・共産党宣言』第2版第1章)は何をどういうふうに言っているか。
 近代のプロレタリアートは、封建社会の農奴や小ブルジョアのように、自分の社会的地位を上昇させる将来があるか? ない。ますます自分の階級の(平均的)諸条件より悪い社会的地位、生活条件に沈んでいく。資本主義は、労働者に「階級として奴隷的生存を保つくらいの条件」すら保障できなくなる!「ブルジョアジーはもはや支配階級としてとどまることができない」。
 マルクスは、資本主義の本質というものをそういうふうにつかみきった。現在の資本主義の歴史的行き詰まりは、ここの展開を完全に復権させています。

●第1章最後の段落

 プロレタリアートのたたかいは、「組織による革命的団結をもたらす」。このこと自体が、<賃労働の不可能=労働力商品化の不可能>を突きつける。それは資本の存立の「土台そのもの」が成立しなくなるということです。
 ここの展開で重要なことは、<資本主義は必ず破綻し社会的危機と混乱をもたらす>ということと、<労働者の革命的団結の形成それ自体が資本の「立ち直り」を許さない事態をつくりだす本質的要因であるということ>、この2つのことがしっかり確認されていることです。根本的社会革命の条件を客体的・主体的に明らかにして、そのなかで、プロレタリアートの階級としての形成(革命的団結)を柱に、社会革命と政治革命の本質的一体性を提起している。『宣言』から『資本論』、その後までこれが一貫したマルクスの論理です。

第2章 プロレタリアと共産主義者

(1)「共産主義者たち」=共産主義者の党とは何か

 革命的プロレタリアートはその勝利と究極的解放のために党を必要とするが、ではどのような党か。「特別の原則をたて、その型にあてはめる」というのは、秘密結社的組織論も含むそれまでの「共産主義者同盟」の思想と路線を指しています。

 共産主義者が他のプロレタリア党と違う点。一つは、プロレタリアの様々な国民的な闘争において、国籍と無関係なプロレタリア階級全体の共通の利益を強調し貫徹すること、もう一つは、プロレタリアートとブルジョアジーのたたかいが経過していくさまざまな発展段階で、つねに運動全体の利益を代表すること、以上の点だけである(同第2章第5段落)

 基本的には他のプロレタリア党とこの2点だけが違う。しかしこれは大変な違いです。ブルジョア的なタイプの労働者党では、こんなことは貫徹できません。
 だから、共産主義者は、実践的にはあらゆる国々の労働者党のなかで最も断固としており、つねに運動を推進していく部分である。また理論的には、プロレタリア運動の諸条件、進行過程、一般的結果を見通している点で全プロレタリアートに先んじている(同第6段落)

 「実践的・理論的」に革命的プロレタリアートの前衛となる組織の中身が出されています。労働者階級そのものに基盤をもち、ブルジョアジーの支配を倒して究極の解放にまで進むことのできるプロレタリアート自身の革命的団結体という観点。したがって、各国ごとに別個につくられる労働者の政党というイメージとは根本原理が違う。
 そこを踏まえて、「共産主義者の当面の目標は、他のすべてのプロレタリア党と同じである。すなわち階級へのプロレタリアートの形成、ブルジョアジーの支配の打倒、プロレタリアートによる政治権力の奪取である」、と述べている。
 他のすべてのプロレタリア党も、多かれ少なかれこのような政治的目標(ここまでくっきりしているかどうかは別ですが)をもっています。政党である以上は、すべて政治権力を目指します。しかし、他のプロレタリア党は、ブルジョア的体制内でのプロレタリアートの利害を追求するだけです。
 ここで重要なことは、共産主義者にとっては、このような政治的目標は、「当面の目標」にすぎないということです。根本的な社会革命と一体でその始まりとしての政治権力の奪取であるということです。では共産主義者の究極の目標とは何か?

(2)共産主義者の目標=ブルジョア的私的所有の廃止

 第1章のなかでは、「プロレタリアートは、自分たちの、またこれまでのすべての獲得様式を廃止することによって、社会的生産力をわがものにする」というふうに、プロレタリア革命の「目標」が規定されていました。
 私的所有の廃止、それが一言で表現した共産主義の理論。
 <所有そのものの廃止>というような観念的な理論(目標)ではない。だが、プロレタリア革命によるブルジョア的私的所有の廃止は、階級的な所有の廃止となる。つまり、階級的搾取と階級の存在そのものの廃止となるのです。
 ブルジョア的私的所有の廃止は、「個人的に獲得した、自分自身の労働で手に入れた所有の廃止」ではない。資本は他人の労働(賃労働)を搾取し続けることで成り立つ所有です。賃労働者が作り出しているのは、資本つまり他人の私的所有でしかないのです。

 ここから約5ページ(『新訳・共産党宣言』第2版p34〜38)、共産主義者を罵倒するブルジョアジーのイデオロギー(いんちきヒューマニズム)との論争のかたちで、共産主義を積極的に論じています。ここでの展開の基本線は、『資本論』第1巻の最後<生産手段と土地の共有にもとづく個体的所有の復興論>とほぼ同じです。

 ブルジョアジーは、私的所有の廃止イコール人格の廃止とみなして反発します。「われわれは、諸君が言うとおり、諸君の所有(そのもの)を廃止する」。それとともに、ブルジョア的自由、人格、個人は廃止されます。

(3)精神的生産物の取得と生産に関して

 ブルジョアジーは、古代の所有や封建的所有について理解したことを、ブルジョア的生産や所有については理解せず、それを永遠の自然法則に変えてしまう。
 @ブルジョアジーにとって、階級的な教養(文化)の廃止は教養そのものの廃止と同じである。
 A家族の廃止!
 現在の家族は、資本=ブルジョア的所有にもとづいている。「完全に発達した家族」は、ブルジョアジーにとってしか存在しない。これは、「プロレタリアに強制された無家族状態、公的売買春によって補完されている」。この補完物は資本が無くなれば消え去る。それとともに、ブルジョア的家族も存立条件を失う。誰かが無理に廃止しなくとも、私的所有と同じで無くなってしまう。
 B祖国と国民性
 「労働者は祖国をもたない」にはじまる原則的確認。
 根本的にはこれらはすべて生きている。階級闘争とプロレタリア革命によって民族問題は解決される。民族抑圧問題の根源は階級支配だからです。

(4)宗教、哲学そしてイデオロギー

 人間の観念、人間の意識は、生活諸関係や社会的諸関係、社会的あり方に規定され、それとともに変化します。革命的共産主義の思想も、プロレタリアという革命的階級の存在、階級闘争の発展を基礎として生まれてきた。逆ではない。宗教、道徳、哲学、政治、法・・・は階級社会の産物。それらは階級社会の廃止とともに無くなる。人間の意識活動あるいは思想の形は、自立逆立ちしたイデオロギー諸形態としてでなく、新しい形態と内容に置き換わっていくでしょう。

(5)プロレタリア革命による共産主義への前進

 労働者革命の第一歩は、<プロレタリアートを支配階級に高める=民主主義をたたかいとる>。 そして、次に、所有権とブルジョア的生産関係を専制的に侵害する。
 ここでの民主主義は議会制民主主義とは別の意味。レーニンが言うように、「プロレタリアート独裁の思想」の表明がここでなされています。
 ブルジョアジーを政治的に打倒し、資本を「次第に」奪い取る。この部分、政治権力の奪取と社会的生産の運営の関係について、『フランスの内乱』で階級闘争の現実の経験を踏まえた重要な修正があった。労働者階級は、できあいの国家官僚機構を奪い取って、経済運営の実権をもっているブルジョアジーと対峙しつつ政治権力を行使するのでなく、ブルジョア国家を粉々に打ち砕き、コミューン形態をもって生産および社会的運営の全体に乗り出していく。「これこそは可能な共産主義のはじまりだ」とマルクスは述べています。『内乱』では、明らかに、「次第に資本を奪い取る」が修正されています。(生産過程の全面的掌握に次第に習熟していくプロセスはあるのですが)

(6)階級の廃止と国家、および古いブルジョア社会の廃止

 まず、<階級区別の消滅=すべての生産が結合した諸個人の手に集中されること>。
<ふるい生産諸関係の廃止とともに、階級対立もなくなり、階級としての自分自身の支配もなくなる>
 こうして、<公的権力は政治的性格を失い、国家は消滅する>。抑圧組織=組織された暴力ではなくなる。国家権力は、ブルジョア社会の階級対立の政治的表現、政治的総括です。社会から生まれ、社会の上にそびえ立ち、社会全体を支配するという形で階級的抑圧を行います。階級対立が廃止されたとき、代わって登場してくるのは、国家の存在=国家と市民社会の分裂そのものを克服したアソシエーションと呼ぶしかないような自由な労働者の結合 関係です。
(第2回講義了)

党学校通信 p5-8

討論から

●F

 新訳本46ページに「プロレタリアートは、その政治支配を利用して、ブルジョアジーからしだいにすべての資本を奪い取り、すべての生産用具を……」とあります。この「しだいに」とは今はどういうものなのか? マルクスが『宣言』を書いてから20年後にパリ・コミューンの現実に接して、この書き方を変えたと言われましたけど、われわれは労働者の生産管理闘争として読むべきだと思います。
 日本の戦後においても偉大な生産管理闘争を闘ったプロレタリアートの歴史があります。この闘いを今どうやって実現するのか? 実践的な観点からこの部分は読むべきだと思います。プロレタリアートとブルジョアジーの生産関係を転覆していく過程がプロレタリア革命であり、その中でわれわれがどのように闘っていくのかということです。
 僕が『宣言』の学習会を地区の労働者、とりわけ青年労働者にたいしてやるとすれば、青年労働者が置かれている実態と無縁な所で学習会をやってもしょうがないと思います。青年労働者の実態に即して提起すれば、「マルクスの言う通りだ」と実感できると思うし、労働者をより獲得できると思う。

●U

 労働者は「俺の職場」という。労働者は職場に毎日行って、疎外労働やって帰ってくる。職場では、労働者は作った物に責任を負うという立場がある。疎外労働なんだけれども。労働組合とか職場という範囲で考えた場合に「自治」が形成される。一種の統治行為が内包されている。それが労働者の中にある。そういうことも含めて「俺の職場」という表現が出てくる。特に大工場の場合は凄いリアリズムが出てくる。そういうことを考えるとソ連でのような、官僚的に疎外された形態での労働をもう一つ超えた「俺の職場」というものの実感を、統治行為とか自治とかコミュニティー性とか、そういうものが内包されたものとして労働者の実感の中に形成される、萌芽なり、実体がある。

●講師

 単に職場の問題だけじゃなくて、社会全体を「俺達のもの」として考えるにはどうしたらいいかということも大切。生産している現場でこそ、自分のものとして関わっていることがまず前提になりますよね。所有論的接近というのはそういう関係を意味していると思う。その工場なら工場、職場なら職場全体がそこでやっていることとの関係で、そこも含めて「俺自身の行為」だと。
 生産手段の共有に基づく個体的所有の復興、生産と消費の全体を統一した形で自分のものとして生産を行い、「獲得」が実現されていく。そういう形で所有論を共産主義論として出していく。労働者が文字通り自分のものとして社会的生産を運営していくことを考えたときに、所有論は重要な中身として提起されなければならない。

●G

 2章はマルクスが作った昔話ではなく、「党」とは中核派そのものなんです。僕たち党学校に集まっている一人ひとりなんです。しかし「党に結集してほしい」というパトスが全く感じられない。「どう読むか」という接近の仕方で労働者階級から逃げている所が2章の提起の展開に現れています。今こそ路線で団結する党が求められているし、「党に結集してほしい」と青年労働者に訴えなければいけない。なのに党と階級の弁証法が全くなく、ただの教条になっています。
 党とは何ですか? ブルジョア支配の中で、革命の路線の下に結集して、自己解放を勝ち取っていくための団結体です。こういう展開が全くありません。党学校に集まっているということは何なのか? 団結した結集体だと思います。同志の集まりなんです。「『革命を目指す党に結集して欲しい』と労働者に向かって言おう」−そういう党学校にしてほしいんです。
 レジュメの17ページで「革命をもたらす思想」云々と書かれていますが、これも問題があります。革命の現実性は革命党の中に、革命家のパトスの中に宿っているんです。革命の現実性は革命という未来を切り開く思想の中にあるということを否定するような意見は我慢ならないです。
 革命というパトスをレジュメに反映してほしい。労働者階級と党学校を切り離さないでほしいということです。「党は階級そのもの」なんです。その中で僕達自身が職業革命家として本当に飛躍しなければいけない。党学校は変わらなければいけないと思います。

●講師

 G同志が言っていることについて、私も「よく分かる」という面もあります。「読む」ことに関しては、『宣言』を復権することが重要な問題としてあり、「『宣言』は生きている」と党が出していくのは重要なことだと思います。『宣言』そのものにあれこれ注釈をつけるのではなくて、『宣言』を今の労働者に向かって「160年前の提起だけれど、今も生きているんだよ」と出す、との考え方で提起しました。

●Z

 私は1章の最後のまとめまででいうと、レジュメの9ページまでですけれど、前回の論議に答える形で出されたんじゃないかと思っている。今日の1章の最後のまとめの出され方である種の踏み込みがあって、2章で1章が先ほどの提起で言うと党への結集へのアジテーションであってほしいというものにつながっていくようなものが提起の中にあったと思うんです。
 踏み込みというふうに感じるのはどういうことかというと、現実のことで言うと3・18を巡ってあれが空気入るかあるいは若気の至りの空叫びでどうしようもないのか党内論議があるけれど、3・18の特に基調報告の核心問題は要するに団結革命論なんですよ。団結ということが革命ということと比べて前段階の程度が低い話で、団結そのものの究極の形態がそのまま革命だという3・18の基調の出し方はマルクス主義の逸脱じゃねえのかと。理論的にはそういう反論だよね。そこには動労千葉労働運動をどういうふうに位置づけるのか、革命論的に。そういうことと密接に絡んでいる。
 『宣言』でそこら辺は1章の最後の所で出されている。そこの所を講師は出したと思う。それはどういうことかというと資本主義社会の客体的な恐慌とか食わせていけない食っていけないというのが片方にある。資本主義社会はそうだからダメで片方ではプロレタリアートを生み出す。ということだけれども、それだけじゃない、1章の結論は。プロレタリアート自己解放ということだけど、プロレタリアートというのは団結する。したがって資本主義社会の1章の提起の必然性として、プロレタリアートが団結を開始していくことは含まれている。団結の開始が逆作用で何をもたらすのか。資本主義社会のメカニズムをぶっ壊していく、止めてしまう。そこの所が1章の提起ではあったと思う。プロレタリアートが資本に抗して団結を開始することそのものが資本主義社会のぶっ壊しの根源なんですよ。したがって、3・18の基調提起の「団結の究極の形態が革命だ」ってテーゼは『宣言』的に位置づけられるし、確認できる。ここの所をゴリッとはっきりさせることが大事。
 もう一つ重要な事は、『宣言』の1章で団結はぶっ壊されると書いている(新訳本p25)。絶えずぶっ壊されるんだと、古い同志は確認すべきなんだ。てめえが体制内労働運動だろうがなんだろうが後生大事に抱えたい、自分の人生かけてきたんだから、だけど壊される必然性もまたある。その中から労働組合と革命党の立体的メカニズムが働いていく。そこの所をゴリッと確認するのが1章の結論なんだよ。そのメカニズムが提起されたから、2章の共産主義者の組織、党が、という論理が確認されるということが大事と思う。

●P

 「党の革命」の中で、本当に革命を実現するという立場から、学習の構え方も一つ転換が必要だと思う。

●X

 自分としては『宣言』の学習会という場合、『宣言』をとことんやるのは賛成なんですよ。今、3・18をめぐる党内論議とか、重要な論議がある。もちろんそれを見据えながらやるということ。その革命的な回答が『宣言』の中にあると思う。だから報告の批判は、何々がないという批判でなく、これは間違っているのではとか、トーンが違うとか、われわれの向き合っている情勢に対して迫力がない、かみ合ってない、という形で内容的に批判していくべきだと思う。

●E

 僕が感じたことは、講師の方の問題意識がぼんやりしている、かみ合っていないということ。これを使ってどう復権していくか。どう持ち込んでいくか、どう党をつくっていくか、メンバーをつくっていくかということが見えてこない。復権というところから言っても、どう理解するかみたいな話になっている、マルクスを。今の青年労働者の問題意識に答えるようなものになってなくないですかと。青年労働者の中で党を作っていくということにこだわっていないという。

●L

 革命情勢が来ている今、革命をやるために勉強するということじゃないかと。

●G

 誤解を恐れず言うと『宣言』にこだわりたい。『国家と革命』とかこういう感じでもいいと思っているが、『宣言』は、これで党を作ろうと読み合わせして、2章終わったら、「はい、加盟書」っていう。正しさだけでは決起はつくれない。
 もう一つ言えば、やっぱりここで団結しようっていうものとして『宣言』があるんですよ。だから『宣言』にこだわりたい。イデオロギー戦線の前進は階級闘争の前進の中でしか切り拓けない。3労組共闘とか3国連帯という中でマルクス主義が豊かに復権されている。青年労働者、動労千葉の闘いに理論戦線の前進もある。そういう関係に入っている。僕は、実践の中でしか理論戦線の前進はないと思う。
 僕も無責任にああだこうだとは言っていないつもり。理論戦線の同志とともに進んでいきたいと思っている。

党学校通信 p8-16 受講レポート

受講レポートから ★『共産党宣言』第2回のレポートです。

【Z】

(1)第1章の残りの部分の提起は、前回の諸提起をうけとめて、結論が、プロレタリアの「団結」論を実践的に突き出した点が、決定的ふみこみとなっている。
 ▲特に、〈団結のくり返しの破壊→さらなる革命的団結をもたらす〉中で、党と労働組合の立体的な構造と弁証法にふれている点の論及は、大きな収穫であり−
 ▲かくして、第2章の意義が、より実践的に鮮明になる契機となっている。
(2)以上は、発言の通り。
(3)第2章としては、〈労働組合の革命論的とらえ返し〉にふまえて、だからこそ、党の意義を徹底的にはっきりさせることが、今日的な核心だと思います。
 ▲マルクス「所有」論への論及は、マルクスの共産主義論の真の深さをのぞかせて、示唆的です。

【F】

 『共産党宣言』そのものを読む(向き合う)ということは、私自身絶対的にやらなければならないことだと思っています。ただ、その時に重要なのは、もちろん『宣言』を文献学的に読むということではなく、マルクスが、当時の労働者階級の闘いにたいして、どう感じ、また階級にたいして何をどう訴えようとしたのかをちゃんと知るということにほかなりません。48年2月革命、3月革命に接して、これを本当に勝利させるには、党が必要だ、労働者階級を党に結集させることが絶対的に必要だと、マルクス、エンゲルスが感じたことが、『宣言』の動機です。この彼らのパトスをわれわれが、現代的にどう継承させるのかが重要だと、提起と、その後の討論を聞いていて感じました。
 ただ私は、そのためにも、講師の問題意識として、いまの労働者階級の状態、階級情勢とどうかみあわせるかというのは、やっぱりあってほしいと思っています。

【I】

 前回参加できなかったので、今回は楽しみにしてきました。
 数年前の初期の党学校とも違って、“送り手”、“受け手”という「あらかじめの分担」が無くなっていることが実感されました。“党学校”それ自身の在り方も含めて、共に論議して打ち立てていきたいと思っています。
 (『党宣言』そのものについて。)
 あらゆるマルクス主義の文献についていえると思いますが、やはりその時々の時代背景、状勢と当然ながら無縁ではなく、『党宣言』も一つひとつの文章、コトバが当時の、そして今に至る生々しい闘いの歴史の中で生み出されたものだと思います。
 その点で、「ルンペン・プロレタリアート」の項目への着目には共感できたのですが、内容的にこの部分の展開があれば、もう少し4大産別論などとの関係でもおもしろかったかな、と思います。

【G】

 多く述べさせて、いただきました。
 1章の内容の前進ということは、圧倒的だと思います。ただ、やはりそれもMWLの職場のたたかいや3・18、一方での革命情勢(格差社会、労組の結成…etc.)で切り開かれたと思います。だからこそ、2章での展開も、…と期待しましたが、やはり「解釈する」「どう読むか」という提起でした。
 2章は、労働者階級に「党に結集し闘おう!」という熱烈なアジテーションです。ブルジョアジーの支配に対する(皮肉もあるが)徹底的な弾劾です。それを“どう読むか?”というスタンスは違うと思う。
 また、1章は、「団結」というのが一定すえられていますが、2章には、団結がない。討論の中でも“団結革命論”という言葉が出されていましたが、2章での党の団結という討論の中身はなかった。
 最近の党内論議でも、“路線で団結するのが党”ということが提起されている。しかし、その辺のギリギリとした白熱的な問題意識や緊張感がない2章は、自分自身の問題であるし、党学校そのものの問題。その辺すら、客観的に論じられていて腹立たしい。『宣言』はマニュアル本ではない。生きた革命の本だ。
 その辺の問題意識で、党学校関係者は、細胞的“一致”をお願いしたい。(次回は、もう少し、主体的内容的発言になるように心がけるつもりです。)
 あれこれ現実の問題を引用しろと言っているのではありません。「『共産党宣言』に書かれている原文を使って、ブルジョア支配への怒りや、革命をアジって欲しい」ということです。ソリダリティーを読んで欲しい。

【S】

 2回出て、正直言って「とんでもない所に顔を出してしまった」という感じです。青年労働者への学習会のチューター養成講座かな、と思って参加しましたが、ちょっと違うようです。全体がもうちょっとスッキリしてから出たかった、というのが正直な所です。
 第2章は「ブルジョアジーはこんな出鱈目で労働者を洗脳しようとしているが真実はこうだ。真実を知って世の中ひっくり返すには党に結集するしかないんだ」という空気の入る章だと思います。「読み込む」のも大切だとは思いますが、学習会にきた若者たちが目をランランと輝かせるような話のできるチューターを養成する、というスタンスでお願いしたい。当時の状況にはあったが今はあまり重要でない部分は端折っていいと思います。「ルンペン・プロレタリアート」の部分も、当時まだ組合の団結で革命を起こす、という発想が未熟で、自暴自棄的な直接行動に訴える労働者の足元を見透かしたブルが、こうした未熟な運動を叩き潰すために買収した層であり、今の時代にあてはめるのは無理があるような気がします。

【Q】

○ G同志の発言の中で「第2章」で革共同に結集する! ということをどう実現するような理論闘争をつくれるかという問題提起は、非常に重要だし、スタートだし、この党学校の大きな課題だと思います。
○ 目をくもらされていることによって我々も含めて、「革命だ!」といえない、いっても現実に通用しない、あるいは「逃げる」「ごまかす」「安住」するというところを、実践、学習等々でうちやぶって、ほんとうに今の現実を突破する、まったなしの緊張感をもって理論学習を進めていくことの重要さを改めて感じます。
 また、「せん動」「宣伝」のストレートな武器として、マルクスの『宣言』そのものがもっている革命性を、我々が己のものにする作業を本気で開始したいです。3・18や6・9、動労千葉のたたかい…と『宣言』が時代と空間を打ち破って1つになっていく内容を真に復権していくこと。実践そのものが革命理論になるようなたたかいを戦闘的に形成しましょう。
 第2章では、党と階級の関係、プロレタリアの党の問題がストレートに出されていることに感動しました。どのような党なのかを、ということについて生き生きとシンプルかつ根源的に出されていると思います。
 「共産主義者が他のプロレタリア党と違う点」として、「国籍と無関係なプロレタリア階級全体の共通の利益を強調、貫徹」すること「運動全体の利益をつねに代表」すること、というこの2つのシンプルな提起や、あれこれの原則でプロレタリアの運動をはめこまないことといった提起にも、今日的課題そのものを感じました。
○ 他の方も言ってましたが、「ルンペン・プロレタリアート」についてのマルクスの論及の内容や背景、経過、論争などについての内容、それこそ「学術的」でもいいし、もっとききたいです。
 また、これと関連して、今の党内論議についての深化をぜひ出していただきたいです。

【X】

質問。
 第2章で、「共産主義者は特別の原則をたてて、その型にプロレタリアの運動をはめこもうとするものではない」とか「〜歴史的な運動のほんとうの諸関係を一般的に表現したものであるにすぎない」という表現があります。共産主義の主張は、何ら特異なものではない、と言っているように感じます。
 この言い方と、たとえば『経済学批判』のいわゆる「公式」のところで、人類前史と後史という言い方をして、共産主義社会のある種、断絶性を提起していますが、「共産主義の主張は、何ら特異ではない」という表現とそぐわない感じを持っていました。
 学習会などでは、ブルジョア革命は「あるがままを認めろ」というものであったのに比して、共産主義は(物化されたものが人間を支配するのではなく、その逆に、)人間の意識性が社会を形成していくものとして、ほんとうの意味での自由が実現されるのだと空気入っていたのですが、「断絶性」にその意義を感じていたわけです。「何ら特異ではない」という主張とプロレタリア革命(共産主義)の断絶性の、整合性について質問いたします。

【E】

 第1章でブルジョアとプロレタリアの階級闘争を明らかにし、第2章において共産主義者の党の宣言として革命の具体的内容が明らかにされているという点で、極めて重要であると思います。つまりは革命党の必要性、我々自身についての必要性を明らかにし、党への結集を呼びかけるものとして第2章は決定的だと思います。
 所有諸関係の部分などは、よく議論になるので押さえておく必要があると思います。
 その上で、やはり『共産党宣言』の学習会という点で最も重要なのは、実践であると思います。『共産党宣言』をいくら正しく理解したところで(それ自体は重要なことだとは思いますが…)労働者が決起するわけではありません。現実の闘いの中でより深められていくものです。
 前回も話になりましたが、まだまだこの党学校というものの実践的立場が弱いと思います。
 マルクス主義の豊かな内容を実践で生かしていくような学習にもっともっとしていかなければならないと思います。
 具体的には、動労千葉や青年労働者の闘いだと思います。この中に『共産党宣言』の言っていることの実践があると思います。
 単に古典の学習ととられかねないような党学校からもっと飛躍をかちとっていくべきだと思います。

【N】

 この間の「党の革命」をやり抜いてきた地平から、マルクス主義を本当に党と労働者階級の武器にしていく必要があるし、『宣言』にあらためて向きあってみて、『宣言』の中に本当に今の階級を獲得していく革命性がガンと存在していると思いました。
 学生の同志たちのたたかいや問題意識は非常に重要です。党の理論戦線を、単なる「学習」の場に終わらせるのではなく、本当に実践的に闘いを切り開いていく力をつくり出していくものとして、みがきあげていかなければいけません。党学校に結集する者として、立場をあらためてはっきりさせなければいけないと反省しました。その上で、参加する多くの同志から主体的な意見が出され、団結して「党学校」を成功させていける展望を感じました。
 内容的には、「ルンペン・プロレタリアート」とはどういう人たちなのか、もっと具体的に明らかにしてもらいたいと質問をだしました。『宣言』は全体的に今日的にピタッとはまってしまう部分と、はまりにくい部分があると思います。労働者階級、ブルジョアジー、インテリゲンチャ…こういった概念は学習会だけで理解するのではなく、実践の中ではっきりしてくるのだと思いますが、「戦後民主主義」でくもらされた「階級」の規定、意識をはっきりとうちたてていく、自覚していく、そのためには何をはっきりさせていかなければいけないのか、これを全体の力を明確にさせていくということが大きなテーマではないか、と思います。

【U】

@ 所有論の図解での説明を聞いていて感じたのですが、個体的所有・個人的所有の実態的、あるいはそこから整理された概念的まとめのような処にいたるものは、労働者・職場闘争・職場支配権、などをとおして、労働者が実体的・実践的に形成していく未来的所有として考えると、極めて単純・明快なものと考えることができるような気がしました。あまりくどくど説明しなくとも、労働者には単純に伝わるような気がしました。
A 党学校に主体的に何をもって参加するのかについて。
 自分が地区・地域・職場で「学校」を主催することをまず第一に前提において参加しているのではないかと思いますが(私はそうです)、今までの職場・地域などの取り組みで、「ここがうまく出来なかった、もう一つ踏み込めないか」などの問題意識によって、出されてくる意見もかなり違うようにも思えました。共同闘争として「学校を形成していく」ことが重要と再度思いました。
B Zさんが言及していた第1章の前後のところと2章のはじめの「共産主義者とプロレタリア一般の関係」の部分は、決定的。今日的核心をなすものだと思います。理論的にも、実践的にも。
C 概念説明のようなものは、かなり整理させていないと全体の柱がボヤケルような感じを受けました。
D 党学校・年表資料のダーウィン『種の起源』の件について。マル・エン全集では、まず、マルクスがややマトハズレな手紙をエンゲルスに送り、それに対しエンゲルスが、「そうじゃないよ、これは重要なんだ」として意見交換がおこなわれていきます。
 この時代がどのような時代なのかを「ア、そうか」という感じで理解できたという、以前に読んだ時のことを思い出しました。

【J】

 前回党学校において、1つに“プロレタリアートだけが真に革命的な階級である。…プロレタリアートこそは大工業のすぐれて固有の産物なのである”が深く提起されていた、と感じています。2つに、労働者階級の自己解放が、労働者階級の闘いを基礎にして「党、労働組合、コミューン・ソビエト」との立体的関係として、明らかにされていたと思います。第2章では、この立体的関係が“プロレタリアと共産主義者”として提起されている、と感じました。すなわち、労働者階級の自己解放は、“共産主義者の理論的命題は、現におこなわれている階級闘争、つまりわれわれの目の前で展開されている歴史的な運動のほんとうの諸関係を一般的に表現したものであるにすぎない”といえる中に込められていると思います。
 労働者階級の自己解放は、いまこの職場での現実の労働組合の闘いをとおして、賃金をアップする、労働条件の改善をテコにして、究極的にこの賃金制度を廃止していくことにあります。
 労働者階級は、資本家の生産手段に従属していますが、生産物をつくっているのは労働者自身です。労働者が団結して、闘って、生産を管理することの闘いは、自らの生産物を意識的に分配することを意味します。すなわち、共産主義の諸条件が、いま現に労働者が闘っている目の前・職場にあるのです。3・18声明の「労働者階級の団結の究極が革命なんだ」こそは、今日の党・労働運動・労働組合の実践的指針です。

【C】

 今日の報告を聞いて感じたことは、以下の点についてです。
 その1つは、共産主義者(とその党)の問題の提起、すなわち、本質的規定と独自性という点については、きちんと出されたと思う。特に、「労働者階級の利益のために闘う」「国籍を越えた全世界のプロレタリアートの利害(国際連帯・世界革命論)」ということ。さらに「実践的理論的な徹底性、先見性」ということ。
 その2として、共産主義者の党とその建設問題の後の「ブルジョア的私有財産(私的所有)と、家族問題、民族問題、上部構造、法律問題」という点については、当時のブルジョアジーとブルジョア政党、さらには空想的社会主義者党との激烈な論争の視点から、ゴリゴリ押し出してほしかった。一つひとつのセンテンスを字義通りにというか、その紙幅(文言が規定するウラに隠された内容=歴史と現実)をできるだけ簡潔に、しかし怒りを込めて提起してほしかった、と思っています。(五)のところのプロレタリア革命から共産主義への前進のところは、「プロレタリア革命を通して、プロレタリアートが主体的に国家と社会の分裂をアソシエーション(協力体)に、個体的所有を軸心に実現していく」というところは、空気が入って聞くことができました。
 最後に、次回の学習会は、『党宣言』を、全内容を本質論として深めるように出し、己のものにしてゆきたいと思っています。
 前回の議論に続いて、今回の議論も非常に学ぶものがあった。

【R】

 『共産党宣言』は、1章、2章を終えてもなお、ブルジョアジーに対する労働者階級の打倒宣言であり、それが必ず勝利するんだということの確信をますます教えてくれている。第1章は、プロレタリアートが唯一、多数による新しい生産関係・所有関係を作り出すことによって、全人民の解放をかちとらなければならない真に革命的階級であることを宣言している。第2章と合わせれば、労働者の団結を破壊し、分断するために、資本家は、「個人所有をなくす気か」とか「家族を廃止する気か?」とか、あらゆる悪罵を投げかけ、労働者の団結や闘いへの決起を打ち砕こうとしてきている。これへの猛然たる反撃と、それを共産主義者(=党)として、仲間を増やすために、積極的に、共産主義の正当性として宣言している。本当に、この時点で「加盟書」を提起することを準備して学習すべき本である。
 労働者階級は、資本家に富を与え、搾取され、その富で弾圧され抑圧され、しかも一個の「商品」として人格も一から十まで否定されている。しかし、ブルジョアジーが封建勢力との闘いに動員することから始まり、巨大な労働者の団結とか、教養、闘い方を身につけざるを得ない。政党を作り出し、人間の抑圧の根源が資本家的私的所有にあることをあばき、必ず決起する。労働者階級が唯一の革命的階級であることの確信を提起してやまない本であることが、よくわかりました。

【O】

1.報告、討論ふくめて学習になりました。前回、出席できなかったので、申し訳なく思っています。仲山さんの報告は、僕も1章の最後のところの労働者の団結の問題がはっきりだされていて、今の党の革命への決起の問題、「労働組合の力で革命やろう」の路線、マルクスの内容がはっきりだされていて良かったと思っています。学習になりました。
2.討論にもなりましたが、僕は『共産党宣言』を3回でやるのは大変な事だと思います。最初に学習で『宣言』をやったのは70年ぐらいだったと思います。その当時、1週間に1回で3〜4カ月ぐらいかけて『宣言』をやったと思います。最近でも、川武さんや野口さんをよんで地区で『宣言』の学習会をやりました。
 今日の討論と以前の学習会を通じて感じた事は、『宣言』は『宣言』で徹底的に学習する事が重要だと思います。
 3回というのは足りないと思いますが、その学習、討論を通して自己学習してマルクスに接近、学ぶ事が重要ではと思います。
3.3回だとどうしても、マルクスの本の「論理構造」の学習だけになってしまい、あの当時のフランス革命、イギリスでの闘い、ドイツ等々で、ブルジョアジーがどう形成され、それに対して労働者、労働者階級がどう形成され、どう闘って、どうブルジョアジーに殺され(フランス革命、パリ・コミューン)ていったか等の生の歴史について、なかなかイメージがわいてこないので、もう少し当時のたたかいの内容について出していった方がいいのではと思います。その労働者のたたかいの歴史に感動し、マルクスがマルクス主義を形成していったと思います。
 その当時の労働者の決起、たたかいは、今の3・18の闘いにも通底するものであると思います。『宣言』をもっと豊富化するためにも、その当時の歴史、ブルジョアジーがどう世界支配を貫徹していったか(1章にでてきますが)、そういった歴史背景や、フランス、ヨーロッパの労働者の状況etc.がだされれば、今日ギロンになった「ルンペン・プロレタリアート」の問題、ダーウィンの問題もふくめて、あきらかになるのではと思います。
4.今日の学習、討論を通じて、学習になりました。2章の共産主義論のところは、ほんとうに学習が必要だと思っています。
 今後とも学習していきたいと思いますので、よろしくお願いします。

【B】

 2章冒頭「特別の原則」を立てるものでないという部分。今回やってわかってきた。プロレタリアの勝利は必然であるということとして読みたい。団結論をやったことでさらによくわかってきた。
 プロレタリアの勝利ということの必然性=ブルジョアジーの打倒。ブルジョアジーの支配の打倒は資本主義的生産諸関係の全面的転覆である。それは私的所有の廃止ということとして展開されている。この「私的所有の廃止という一語に総括できる」という部分への展開をしっかりやっていきたい。今回所有論を若干やってくれたので手がかりにしていきたい。

【V】

 今回は自分の問題意識があいまいなままで参加してしまったので、みんなの意見をいろいろと参考にさせてもらったという感じが強い。
 感じることは、今回の論議に踏まえてということになると思うが、3月の学校の案内にもあった「古典を今日の階級的労働運動の『実践の書』として読む」とは具体的にどういうことなのかガッチリ提起して、方針を明らかにして学校をすすめるべきだと思う。これ自身、大切な議論だと思うので、必要ならそれだけ議論して方向性の一致をかち取った上で学校をすすめた方がいいと思う。この一致の上に学校がすすまないと、本来もっと内容につっこんで論議すべきところがその手前でとまってしまうし、時間も足りなくなる。
 今の自分の闘いの現場では、労働現場と向き合う中での切実な要求というのは、なかなか実感としてわからない。自分自身は学習を組織したこともないし、実践的な課題にひきつけてとらえることが弱いのだが、例えば“『宣言』を『宣言』として読む”ということがやはり最も基本にあるべきだと思う。実践にひきよせてということを安易に切り札的アイテムのように切りちぢめてしまったとしたら、方向性として間違っていると思う。やはり、この『宣言』からマルクス主義を深く、鋭くつかみ取り、自らのものとし、『宣言』を通して自在に語れる。それが現実の労働現場においてもかみあった話になり、決起をつくり出す力になるのではないか。今回十分理解できなかったが、所有論の話は非常に面白く(例えば私的所有と個体的所有というのはよくわかっていなかった)感じた。ここをもっとわかりやすくして、ブルジョア・イデオロギーをぶち破るものとして議論できたら、『宣言』をアジテーションとしてとらえ、また使っていく上でも、実践的で豊富なものになるのではないか。
 くり返しになるが、私は、まず『宣言』を『宣言』として読む立場が貫かれるべきだと思う。その上で、それが具体的実践において、どこがポイントになるのか、どこを核心的につかみ、あるいは核心的に訴えていくのが議論できるような提起であるべきだと思う。
 (結論部分は自分の問題意識があいまいなので、あいまいな結論です。)

【P】

 学生戦線の2人の同志から講師(理論戦線)に出された批判はかなり厳しいものであると思います。というのは、現在MWLの同志達と共に3・18を切り開き、前面に立って闘いを担っている同志達からの批判であるということです。発言でも言いましたが、「『宣言』を『宣言』として読む」「復権する」ということだけではかみ合った答えになっていないと思います。「復権する」という場合でも、21世紀革命の武器として鍛え上げるということでなければならないのは言うまでもありません。したがって、ブルジョアジーとスターリン主義、カクマルによってねじ曲げられ、歪曲されたものを強烈な革命の魂をもって復権させるということだと思います。『宣言』第2章などはブルジョアジーとのイデオロギー闘争として書かれているわけですが、そういう意味で「復権」という場合も、ブルジョアジー、スターリン主義との激しいイデ闘をもったものとして「復権」していくということではないでしょうか。しかし、講師の答えでは、どうしても「マルクスの言っていることを正確に読みとる」というように聞こえてしまいました。ではなく、21世紀革命の武器として復権させるということが大事と思います。
 内容的には、1章の「貧困が人口と富よりも急速に増大していく」のところ、講師も自分の以前の受け止めを語っていましたが、私自身も同様に思いました。以前読んだ時には、現代においてプロレタリアートが「奴隷としての生存ができない」ところまで貧困に追い落とされることがピンとこなかったのですが、今日まさにその状態となりつつあるわけであり、マルクス主義が資本主義を根底的に批判しきっていること、今日的にもプロレタリアートの武器そのものであると改めてつかむことができました。
 団結のところ。プロレタリア革命の勝利の不可避性を恐慌の面から捉えていたのですが、労働者の団結が、資本の土台を根底からひっくり返していくこと(だからこそ資本はたえず労働者を分断しようとする)、として読みといたのは、重要な点であると思います。MWLの同志を先頭とする闘いが、マルクス主義の実践そのものとして、明確にされたと思います。
 なお、「党の概念が『革命的プロレタリアートそのもの』と限りなく重なっている。『プロレタリアートの革命的団結』とも重なっている。」(レジュメp10)という点が、重要な指摘だったと思うのですが、私としては明確に理解できなかったので、次回可能なら少し説明お願いします。

【L】

 今回の第1章の終わりから第2章にかけて、自分としては前回悔しい思いもしたので、少しでも前進したいと思ってきました。理論的なことについては、新訳本33ページから「共産主義者の理論的命題は、現におこなわれている階級闘争、つまりわれわれの目の前で展開されている歴史的な運動のほんとうの諸関係を一般的に表現したものであるにすぎない」とあります。(「現におこなわれている階級闘争」では、青年労働者は「団結の究極の拡大は革命です!」と宣言した。)革命の旗を真っ向から掲げて青年労働者が決起する時代と切り結んだ学習会をする。しかし、講師のあり方を質問してそれで済む話で断じてなく、参加した党員の革命への情熱が試される場になっている。そういうものとして、とにかく、くらいついていきたいと思います。
 第2章については、発言した通りです。私的所有についての展開は、図式で説明していくべきではない。労働者階級にとっては、自己解放の闘いは、すべて私的所有の侵害としてあると思うし、ここは、「よしやってやろう!」と労働者が思えるように提起してほしい。『宣言』のブルジョアジーとの論争的鋭さは、僕は、労働者をつかむ力はあると思うし、それを生かした方がいいと思う。

【A】

 『党宣言』第2回目の報告及び討論は、私自身の革命的共産主義者としての確信を形成してゆく上で、とても有意義なものでした。
 また、今回の討論でも、革命の組織者として最前線で闘う同志達の党学校によせる期待の大きさが、ひしひしと伝わってきました。これは何よりも、同志達の闘いの前進を反映したものとしてあります。
 青年労働者や学生を組織してゆく上で、『党宣言』をどう学習し、活用してゆくのかという課題についての議論に関しては、その第1義的な最も核心となる点は、何よりも『党宣言』をはじめとするマルクス・エンゲルス、レーニンの著作の学習を通して組織する者自身の共産主義者としての自己形成にあると考えます。党学校の課題も、したがって第1義的にはこの点にあります。党学校は、参加者を革命的共産主義者として獲得・再獲得してゆく場です。報告そして討論を通して、これを実現してゆくことになります。
 今回の報告では、所有論について新鮮な刺激を受けました。これはスタ批判として非常に重要な点で、現代における『党宣言』の学習の1つの大きなポイントになる様に思います。
 なお、プロレタリアの階級としての形成との関係でのルン・プロ規定をとらえるという点は、もう少し展開して頂きたかった。
 また、レジュメp8(新訳本第1章第53段落)に関する部分については、特殊戦後的な「高度成長」期と一定の階級関係の中で、隠ぺいされていた面もあるが、今日的に全社会的に顕在化しているといえる。しかし、その時期でも下層のプロの生活は悲惨であったし、全世界的な観点から見ればやはりはっきりとあらわれていたのではないかと思います。
 最後に、『党宣言』が、社会革命における客体的・主体的条件を明らかにしており、それが『資本論』、その後のマルクスに一貫したものであったという提起については、次回の報告に期待したいところです。