受講レポートから ★『共産党宣言』第1回のレポートです。
【G】
発言したとおりです。すぐのレポートで、内容については詳しくは展開できないですが、何点か指摘するものです。
全体的に生き生きしていない。労働者が学んで空気の入る内容でない。論壇になっている。マルクスの思想を物質化している。マルクスも、マルクスの時代にあった内容で『宣言』を提起している。現在も、マルクスは今の時代にあわなくなったという主張があるが、それを現代的に復権しようとするのが我々の役割であると思います。それを、「どう読むか?」というスタンスでのぞむと“マルクス原理主義”になってしまうと思う。冒頭の提起では、“『宣言』を絶対化しない”と書いてあったが、内容的に絶対化している。現代的に復権するため、「19世紀の話でしょ、という反論」に対して、動労千葉労働運動や本山の闘い、現代の労働者階級の闘いを通していかなければ、マルクスが言いたかったことは、“継承・発展”できないと思います。そういう意味で、少数のインテリゲンチャを獲得することに全力を注ぐのではなく、ワーキングプアの労働者が階級性や誇りをとりもどすための「学校」へ変わるべきです。
講師は、“年輩の人も多いから”と言っていたことが気になります。やはり、革命家は生涯現役、若い労働者は若手がオルグすればいいという考えはやめて欲しい。私は学生は長いし、そういう気持ちもわかりますが、労働者細胞とかみ合わないところの細胞は腐っていくと思います。次回に期待します。
文句が多くて申し訳ありません。
【H】
○得たもの。『宣言』はそれ自体、ドイツ階級闘争を通した国際的な労働者階級の宣言であるということを再認識した。
「ブルジョアジーは…その武器をとる人々をも作り出した」の箇所について。これまで、「生産力」=武器をとる労働者と、字面的に読んで、ピンとこなかったが、「社会を動かしているのは労働者」ということなのだとはっきりさせられた。その上で、討論であったように、労働者は単に生産の担い手なのではなくて、職場を支配し、管理する、社会の主人公だというところまで鮮明にすることなのだと思う。「生産力」主義的なスタ的読み方の毒から全面的に解放させたいと思う。
『宣言』には、直接労働組合に言及しているところがないなと思ってきたが、団結がドンドン階級的に拡大する主体は、労働運動・労働組合に他ならないわけで、最初からそういうものとして実践的に読むことが大事と思った。
○講師の提起については、討論で意見があった通り、現代のプロレタリアートに直接語りかけるものとして、やってほしい。「前書き」の言及は最小限でよいし、マルクス解体派との関係で「我々はこう読む」では、それ自体が訓詁学的になってしまう。講師は、MSL理論合宿のレジュメなど読んでキャッチアップしたのであろうか? 3・18などで切りひらいた地平から全面的につかむ立場でやっていただきたい。
【X】
自分としては、党的な学習会で『共産党宣言』の学習指導、討論をしたことはなかったので、いま『宣言』について党の「最先端」でどんな討議が行われているのか知りたいと思って参加した。
(提起について。)
いくつか重要な提起もありました。とくに「階級社会をついに廃止するときが来た。資本主義は、それへの過渡というぐらいの認識であった」というのは、そういうものかとおもしろかった。
(討論について。)
学生の同志や、どちらかというと若い同志たちから、報告に対し批判が出されたことについて。
いまの、とくに青年労働者の現実について語られていない、いまの労働者の実態が出ていない−という批判があったが、自分としては、現在の労働現場の実態が語られたかどうか、ということではなく、『共産党宣言』の中に、その回答がある−当時マルクス、エンゲルスの時代とそう変わらない現実があった訳で−、プロレタリアートとブルジョアジーとの資本主義社会の本質論みたいな領域だけでなく、意見で出された、「あらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」の様な歴史観の領域も含めて、感じとして革命論を論じる様な内容になった方が良かったのではないかと思う。そこが一寸、文献解釈的な印象を与えるものとなったのではないか。
自分としては、あまり現実の実態を語らないで、その実態に回答を与えることの出来る展開になるものがあったら良いのではないか、と思っている。どちらかというと、あまり現在の攻防を語ってすますということは、正しくないと思っている。しかしだけど、そこを語らないで、その事(労働現場)で格闘している、たたかっている人たちに通じるものを出来なければならない。内容ぬきで申し訳ないが、そういう風に思っています。
そのためには、@まず、ものすごい現状に対する怒りとパトスが必要だし、苦闘の現実にも接近することは重要なことになる。ボルテージをまんまんに高めること。Aマルクスが、この『宣言』で言いたかったタマシイみたいなものは何だったのかを、初めにガツンと全力で出すべき。内容的に反復することになるが。そうすれば、ディテールの説明について聞く方も意味を理解して聞けることになります。
現状を語らず『党宣言』を語ることによって、現場で闘う確信を与える、生みだすことができる、ということが学習会としてはベストだと思っています。
【W】
前書きについては、非常に新鮮にうけとめました。『宣言』の執筆というもの自体が、たたかうプロレタリアートが具体的にマルクス・エンゲルスをオルグし、獲得し、執筆させた産物だということ、また今日多くの反動家たちが『宣言』を低めおとしめるために解釈し、「もちあげ」ていることへの核心的批判も問題意識にかみあうものでした。さらに、マルクスが「フォークト氏」で『宣言』の趣旨を「空想的組織の実現でなく、眼前で進行中の変革過程への自覚的参加の必要性」をあきらかにするものだとうちだしていることも、鮮烈にうけとめました。
その上で、討論でも発言しましたが、こうした前書き部分の問題意識が本文でこそ貫かれるべきが、そうならなかったことは打破されねばなりません。
改めて問題意識を明らかにしてレポートにかえます。
@「これまでの歴史は階級闘争の歴史」「今日もブルジョアジーとプロレタリアートの対立の時代」ととらえることは、現実の労働者・学生の中にはあらかじめは存在しない概念であり、これを明らかにするということ自体が、極めて高度なかつ実践的に死活的な理論的作業であると思っています。若い人の中には、なんらかの運動にかかわっている人でも、〈悪人と善人の問題〉〈能力ある人しか生きられない仕組みの問題〉のようにとらえている人が多い。そこから、啓蒙やカンパニア運動になってしまっている。今日の日本階級闘争の現実を根底的に打破する理論上の中心的テーマとして、「現代社会はブルジョアジーとプロレタリアートの階級社会だ」と論証しきるイデオロギー的力が不可欠と思っています。
A階級闘争の推進構造として『宣言』で出されている「最初は個々の労働者が…」以降の展開のような現実を、まさに今日の現実としてうちたてるのが2つめの重大テーマと考えます。ハケン、ネットカフェ難民など生存以下の条件を強制され、民営化で首切りが当たり前のようにふりおろされても、単純に「個々の労働者がたたかう」ともなっていない。『宣言』1章はプロレタリアートの内在的自己解放的力として、暴動、公然たる革命まで発展せざるをえないことを、その経済的基礎の解明と具体的現実の統一として明らかにしていると思うが、まさに現代社会にそのような理論、生きたプロレタリアートの解放理論をうちたてることが求められている。
B最も職場闘争で格闘している同志が、実践問題として「仲間との間にある壁をぶちこわしてはじめて団結できる」と言っていることの理論化、普遍化の中にカギがあるのではないかと直感的に思っている。
なお、以上は批判というより、事務局から出されているとおり、自分にも主体的にかせられている課題として、理論闘争を担っていくつもりです。組織的に必ず突破していきたいと思います。
【P】
学生の同志を始めとした何人かの同志の発言を自分自身への批判として受けとめました。確かに私自身、学習としての学習のつもりで参加したのではなく、闘いの武器とする、団結の武器とする決意で臨んだつもりなのですが、旧来の学習会の意識を出ていなかったということです。
「現場の労働者の意識とかみ合っていない」「『階級闘争の歴史』ということをブルジョアジーは認めない。闘いに立ち上がったら集中的に攻撃をうける。ここがブルジョアジーとの血まみれの現場」。「『ブルジョアジーとプロレタリアート』ということは常識ではない」等々の意見が出されましたが、本当にここで勝ちぬき、労働者階級の団結を作り上げていける学習会(自分の学習)にしていかなければならないと痛感しています。
具体的には、「現場に出る」「労働者階級の中に入っていく」ことと一体でなかったら学習会もまた、現実の労働者階級とはかけ離れたものになってしまうということだと思います。マルクス主義の学習を積み重ねていくことと、労働者階級の中に入っていくことをひとつのこととして、実践していくことを自らに課したいと思います。
『共産党宣言』やマルクス主義は、労働者はわかるということは真だと思います。それは、マルクス、エンゲルスが批判した資本主義というものの現実、労働力の商品化、資本の専制という現場に実際に労働者階級(とりわけ青年労働者)は叩きこまれているということです。しかし、そういうことも考えられないような極限的な長時間労働・強搾取の状態を強制されているということ。したがって、1人の同志が発言していましたが、この現実(ブルジョアジーの側のすさまじい階級性解体の攻撃、イデオロギー攻撃、そして考える時間もとれないような現実)に勝ちきって労働者と結合し、ブルジョアジーのイデオロギー攻撃をぶち破って、「労働者階級こそ社会の主人公」「自己解放の主体である」というマルクス主義の核心で獲得していける何か=マルクスの提起を21世紀冒頭の労働者階級の現実の中で生き生きと労働者階級に伝えていける何か、すなわち現実とトコトンかみ合った内容(思想・実践も含めて)をつくり出すことが求められていると思います。
学習会のやり方としては、学生の同志が発言していましたが、『俺鉄2』などの本を脇に置いて、それらを重ね読みしながらやっていくことが必要という意見は、非常に貴重であったと思います。私自身、今後、そのような読み方に変えていきたいと思っています。
今回の同志たちの意見・批判から学んで、改めて、闘いの武器とする、労働者階級の団結の武器とするものとして、次回以降の学習会に臨んでいきたいと思います。
【V】
マルクス主義を実践の立場から学ぶということが、これまでの学習ではできてこなかったことなので、その立場に立ちきろうと思って参加した。全体の話は、労働現場の中での苦闘の中から、どう現場のオルグをすすめていくのかという話になると思ったので、率直にそれを吸収したいと思っている。(自分の現在の闘いの場の中では、なかなか労働現場の生きた話が伝わってこないし、自らの実践ともちょっと違ってくる。)
今日の内容は、講師の提起以上に、参加者から出された問題提起が非常に参考になった。学生の現場、労働者の現場の中で、生きた問題意識がよくわかった。
ひるがえって私の問題意識はといえば、労農同盟をいかにつくり上げていくのか、その実践の立場からマルクス主義を自分のものにしていくということである。その点では、レジュメの13〜14ページの内容を深化していかなければと思うが、今回の提起ではよくわからなかったというのが率直な思いである。14ページでいわれていることはその通りだと思うが、「本質的に同じなのだ」と一言ですまされてはよくわからない。300万の農民が14万経営体にまでされようとしている現実は、まさにここで指摘している状況だと思うが、しかし当の農民自身は今、「将来の利益のために」自己解放的にたたかっているのだろうか。本当に微妙な表現なのでよくわからないところである。この辺のとらえ方は、『宣言』を絶対的なものとして読むのではなく、さらにレーニンの提起に触れ、なおかつ現代の我々の『宣言』をうちたてていくという立場から考えていけばよいのだろうか。
提起そのものの中で一番印象に残っているのは、『宣言』が単にマルクス、エンゲルスが書いたものではなく、当時の労働者階級が書かせたということです。やはりこの党学校も、生きた論議の中から実践の内容をつくり上げていくべく、自分自身の問題意識をさらに鮮明にして臨んでいきたい。
なお、労農同盟を発展させていくという立場からレジュメ14ページの提起をもっと深めたいと思いました。「共同闘争の主体として位置づける」というのは、言葉で言えば簡単なことだが、文字通りどう実践するのかが問われることだと思います。
党の大きな力点は「労働運動」「職場闘争」ということにあると思いますが、現実の階級攻防の中で、同時に対象化して、かつ、必ず一体のものとしてたたかえるものだと思います。ですから、14ページの内容については、どこかでもっと深める論議がしたいと思っています。
【C】
講義と討論を踏まえて、感じたことを簡単に書くと以下の点です。
第1に、講師がスタンス論として提起した、21世紀プロレタリア世界革命を実現する観点から、具体的には「階級的労働運動で革命をやろう」の観点から、ナマの『宣言』として、今に生きる形で読んでいくことが最も大事なことだと、ぼくも思いました。この点では、やはり“階級闘争の歴史の勉強”に流れたきらいがある。
今、わが党と党員は、完全に階級的労働運動、第2、第3の動労千葉労働運動の実現、青年労働者の獲得に必死の形相で、自己変革・脱皮しようとしている。こうした中では、これまでの『党宣言』の提起を完全に越えたもの、最先端のプロレタリアの現状把握から出発し、そこにそれを位置づけない限り通用しないと思う。
否、マルクスは当時、上記のような観点から、国際階級闘争とその党・その綱領を書いているのであって、問題は討論で出された視点、階級的労働運動にとってどう『宣言』を物質化していくのかというわれわれ自身の把握をこそ問題にしなければならないということです。
2つには、自分自身ももう一度、上記の視点で『宣言』の再学習をしていこうと思っています。
「プロレタリアートは、…他のどの階級よりも革命的階級なのである」という問題をがっちり基軸に据え、プロレタリアの現実、すなわち“蓄積様式の核心”のところでも提起されたように、ブルジョアジーはどういうふうに現在搾取しているのかを、資本と労働力の関係そのものにあること、工場の中だけではなく、外でもどういうふうに搾取されているのかをつかんできっちり提起し、プロレタリアの現状の根底的打倒・変革にこそ未来があることを言いきっていくことが大事だと思った。
第3に、第2回では、もっと生きた討論にかみあえるよう、全力をあげたい。
【L】
党学校に初めて参加し、第1回目の感想は、悔しいものがあるということです。
何が課題か、まだはっきりとは見えません。しかし、帝国主義の生き残りをかけた強搾取と団結破壊の攻撃の中で、労働者としての誇りと団結を取り戻そうと苦闘している労働者に、“革命”を訴えるために『宣言』を学習するのが獲得目標だと思います。
3・18や、この間の『前進』紙上で語られていることは、「労働運動の力で革命をやろう」ということですが、この資本主義社会が階級社会であり、「それはただ新しい階級を、抑圧の新しい条件を、闘争の新しい形態を、古いものとおきかえたにすぎない」ということを、まず内容として出す必要があった。前半部分の大事なところだと思う。
あと、「労働者階級が唯一の革命的階級である」ということについて、これが核心であることは間違いないことで、自分としても、何とかしてつかみ、提起しうるようになりたい。
とにかく、足らざるところをもう一度考え、次回にのぞみます。
以上、短いですが、今後ともよろしくお願いします。
【R】
『共産党宣言』は、何のために必要か、ということを、自分でも改めて確認するために参加した。提起者も、本日分が全部終わらなかったので、最終的には何を強調したかったかわからない面が強かったが、討論なども通して、逆に、ポイントとして押さえなければならないことなども確認できたのは少しは参考になった。「労働者はなぜ唯一革命的なのか」。これにどう答えるかではあるが、社会の生産力・富を搾取されることで、資本家のために作り出していながら、「自由な契約」として、まったく対等であるかのようにふるまわれ、人間として際限なく徹底的に虐げられ、人間扱いされない存在を労働者が自覚したとき、資本家のみならず、搾取制度自身をも打ち倒す「墓掘り人」となるからである。それは、労働力商品という自分を除いて鉄鎖以外失うべきものをもたない無産階級であるからであると思う。
『共産党宣言』はやはり、党(労働者)がブルジョアジーを打倒できるという確信がなければ、世に出さなかったのであろうし、それを成したのは、労働者が党を宣言し、目の前のブルジョアジーを倒せるという確信と現実があったからだと思う。この『共産党宣言』の核心を再度確認するとき、改めて、「党は階級そのものである」という言葉の意味が、理解できた気がする。
【A】
1.第8期党学校開講にあたって、事務局の提起している「現実・実践とかみ合う形でマルクス主義を提起する」、そして「参加者自身がマルクス主義で武装する場というだけでなく、労働者・学生をマルクス主義で獲得していくためのエネルギーを生み出す場、また実践的訓練の場として積極的に位置づけ活用して」いくという観点は、今日的に極めて重要だと考えます。その点で、今回の講義、そして討論は、そうした学校を共につくり出していくという点で有意義であったと思います。特に、現場の労働者・学生の中での討論や学習会で何が問題となり、どう提起していくべきかについて、具体的な問題として党学校での講義のあり方についてまで踏み込んだ議論がなされている点は、実践的な意味でも重要であったと思います。
2.『共産党宣言』の学習にあたって、これを初めて手にし、そして読んだ時の新鮮な感動を想起しています。それは何よりも、マルクス、エンゲルスの書いていることは今日の現実そのものではないか、そう素直に感じました。そして、この現実を打破していくのは、革命=プロレタリア革命しかないと確信するようになっていくというプロセスがありました。今、あらためて『党宣言』を学ぶという時、この感動・確信を、どのようにして今日的に労働者人民と共有していくのか、『党宣言』でプロレタリア革命に向けて労働者人民、闘う人民を組織していくのかという観点で、党学校での学習を取り組んでいきたいと考えています。
なお、レジュメp14の提起は、プロレタリア革命の実践的あり方として、綱領的レベルの問題として極めて重要と考えます。
【D】
○レジュメの「前書きをどう読むか」の中で、講師が提起している様に、『党宣言』自身が「階級的組織によってマルクスとエンゲルス自身が獲得された」ものとしてある。まさに『党宣言』の学習とは、文献の解釈ではなく、現実の階級との『党宣言』をめぐる格闘をとおして、自らが階級的に獲得されるものとしてあるはずである。
その点で、講師自身がいかに3・18集会−杉並区議選の闘い、動労千葉労働運動の中から階級的に獲得されたのか、その格闘を提起し、参加者もそこに肉薄し、革共同自身の『党宣言』をつくり出していかなければいけないと思う。
○内容的には、「労働運動の中でつくり出される団結こそが、革命そのものである」「労働者の団結の究極は革命である」ことの豊かな中身が1章の一切、『党宣言』全体の一切に座るべきではないか。
私が青年労働者との『党宣言』学習会をやった時、その青年は「労働者はときどき勝利することがある。しかし、その勝利は一時的なものにすぎない。労働者の闘争のほんとうの成果は、直接の成功にあるのではなくて、労働者の団結がますます広がっていくことにあるのだ」の一文に衝撃を受け、この一文だけでマル青労同に加盟した。労働者とはそういう存在なのだ。
しかし、今回の提起の中では、この一文については何一つ触れられていない。これは一つの象徴的なことであって、労働者がお互いに競争させられ、分断されている現実をぶち破り、資本と非和解的に対決し、職場での団結をとり戻していく闘い、そのものの中に根底的な革命性があること、ここが一切の軸として『党宣言』がつかみとられるべきだと思う。「これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という冒頭の一文の理解も、そうした観点からダイナミックにみるべきではないか。青年労働者がドキドキする様に。
○いずれにしても、党学校が上からの一方通行ではなく、現場での苦闘と切り結び、そこでの格闘をとおして、党が階級的に獲得されていくものとして、つくられていくべきだと感じた。
【E】
本日の党学校で自分がつかんだこと。
第1に、階級闘争史観の重要性である。ブルジョアとプロレタリアの2大階級に分かれていることは、ブルジョアの側が最も隠そうとしてことである。階級対立をもっともっと鮮明にさせなければならない。
第2に、『共産党宣言』を軽く見てはならないということ。「党の革命」で突き出されたこと、あるいは平田らなどが言っていること。マルクス主義でも何でもない。党内で不一致があったし、今もあると考える。今一度の一致が必要。
第3に、プロレタリアが真に革命的な存在であるということ。労働者の闘いと結合してこそ学生の闘いも位置づく。このへんはもっと深化させていく必要がある。11月労働者集会への学生の大結集をかちとる意味でも重要。
問題点。講師の提起に実践がほとんど出てこなかった。もっと動労千葉や3・18の闘いを出すべき。「昔の話」になってしまっている。実践論的な学習会としてかちとっていくべき。
【B】
『共産党宣言』第1回は、講義後の質問から始まったといえる。全学連の学生が口火を切った。根本的に違うのではないかと激しく出された。読む、学ぶではなく、どう団結を強化するか、革命を呼びかけるか。かみあってない。今、ここに革命情勢がある。若者の現実ということもある。その姿が出てこない。労働者階級とは何か、『俺鉄2』とか本山闘争の本を置いて言っていかないと。レジュメのプロレタリアート「最大の生産力」違うのではないか。
私も学生の意見を受けて、革命の主体としてプロレタリアが座ってない、プロレタリアのみが唯一、革命的階級であること、「現場の労働者に聞けばそんなの当たり前じゃないかとなる」と発言した。マルクス自身も、2大階級として単純化した階級闘争の歴史として展開している。仲山さんの展開は、学者的・アカデミズム的である。
私の発言としては、プロレタリアの発達の部分は重要な部分。プロレタリアの団結がどのように発展していくかというのは圧巻ではないかと思ったということがある。
更に別の発言者が続いて、「階級闘争の歴史」で激しいイデオロギー闘争となる。常識ではない。そこが大切な所という発言。団結を回復する、そのカギをつかむ。生活していけない労働者の苦闘のなかで。
更に別の発言者が続いて、「ブルジョアジーは『階級闘争の歴史』認めない」。そこを打ち立てれば全体が行くくらいの位置を持ってる。血まみれの現場的課題である。そこを講師はさぁーっといっちゃった。「革命的階級ということがわかった現場労働者は顔つきが違う」「たたかっている所と誇りを奪われた所と」「大工場で労働者は自分史的にそういう過程を通る」「『これが疎外労働か』『これが労働者か』と」「それを制圧して資本は成り立つ」
更に別の発言者。「うちわに文献学的にやっても意味ない」「そこでリフレッシュしていく。そのためにやる」
etc.
今回の講義は、労働者が革命の主体であることがすわってないと強烈に感じた。これではダメではないか。マルクス主義をとらえそこなってないか。階級闘争としてわかってないのではないか?
【J】
第8期党学校に参加することによって、労働者階級の自己解放の闘い(職場・現場の闘い)を主体化したい。マルクス・エンゲルスは、イギリスの労働者階級の状態に触れ、イギリス−大陸の労働者と討論することによって、実践的唯物論の立場に立った。
マルクス・エンゲルスは実践的唯物論者(史的唯物論)に踏まえて“これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である”の立場から、イギリス資本主義を研究・叙述し、労働者階級のたたかいを受けて、“プロレタリアートだけが真に革命的な階級である”ことをつかみ取った。
資本主義の生産関係は、自らの巨大な生産力の発展−過剰資本を包摂できなく、その矛盾を労働者に押しつけるのです。この資本の攻撃に対して、労働者は闘うことで、自らの力を自覚し、ますます団結を強めていくのです。
『共産党宣言』は労働者こそ社会の主人公である立場から、“資本の条件は賃労働である”を明らかにし、“ブルジョアジーはなによりも、自分たち自身の墓掘り人を生みだす。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である”を理論的・実践的に明らかにしたのです。
討論をとおして、ますます職場・現場の労働者のたたかいと共にあって、自らのたたかいを推し進めなければならないことを非常に強く感じた。
【S】
率直に言って、リフレッシュし、みんなを奮い立たせるような内容にまだなっていない、という印象を持った。次回からは抜本的な改善が求められると思います。
『宣言』が生み出された背景については勉強になりました。
現代に引きつけて考える、という問題意識は評価しますが、引きつけ方が一般の労働者の意識にかみ合う内容になっていない、という感は否めないと思います。党学校参加者が青年労働者のオルグの為の学習会を組織できるようにする、という観点で内容を豊かなものにして頂けると有難い。
【F】
今回、党学校に出るにあたって、『宣言』が160年前に書かれたものとは思えないくらい全く今でも通用するものだということに改めて気づかされました。資本主義社会の性格は、19世紀も現代も全く変わっていない。それどころか、階級対立はいっそう深まり、労働者階級を戦争に引きずりこもうとしています。
問題は、この『宣言』を、『宣言』が正しいと確認することだけでは全く何の意味もない。ワーキングプアにおとしこめられ、階級性を解体されている青年労働者に対して、『宣言』を武器としてどう組織化するかということに他ならないと思います。そのためには、「われわれは、労働力商品ではない。人間だ」「資本家階級は労働者階級を単なる生産力としてしかみていない。だから生産力が過剰になったからといって首を切ろうとしている。そんな社会は打倒しよう」とズバッと言い切るしかないのではないでしょうか。
【U】
@ 提起と集団的討議で、『宣言』の実践的立場、武器を形成していく作業として党学校が重要なのだ、ということがわかりました。討議の内容の深化ということと、集団的な討議での形成ということの両面からの対象化が必要ではないかということ。その面からの「学習」として考えています。
A 内容的には、「真の革命的階級」という規定のとらえ返しはきわめて重要と考えています。諸戦線的課題をプロレタリア革命ということの中でどう位置づけていくのかという、今、党の中でテーマ化している事を、『宣言』的に明確にして提出しています。
B 今、われわれは『宣言』を実践的にどのように取り組むのか、この点での講師の4点にわたる問題意識は、きわめて重要な視点と思います。この点にこだわり、この点で前進していくことで、突破の道をつくり上げていく、共に共同の作業として、たたかおう!
【Q】
○マルクス主義の学習については、体系的にやったことがないので、新鮮でした。
○ここでの学習内容や討議については、組織的に報告、討論を行い、現場労働者との討論、オルグにダイレクトに役立てることができるようにしていきたいです。
○『共産党宣言』というのは、マルクス主義者としてのイロハのイであり、アイデンティティだと思うのですが、はっきり言って、今そうなっているのだろうか、あるいは、そうしなければならないとすればどうしてか、というような根源的なところがあるように思います。
○今回の討論でも出されましたが、「古典」を学ぶ、あるいは「文献学」という傾向になっているのは何故なのかと思って、ちょっと考えてみましたが、「学習会」あるいは「党学校」のあり方、位置づけ、やり方から考え直した方がいいところがあるのではと思います。
○マルクスがこの『宣言』を書いたのは、「共産主義者同盟」という党の正式綱領としてという歴史の事実にもあるように、やはり党の実践的革命論を確立するという問題意識、現実のプロレタリアートのたたかいと生の実態、そしてそれとの格闘という、真剣さの中味をつくっていくところ、そうした問題提起の強烈さが、特にこの『共産党宣言』学習の課題なのではないかと思いました。
ブルジョアジーを現実に打倒していくたたかいの度合いに応じて団結がつくられていくと思います。
いずれにせよ、革共同の党員ひとりひとりが、『共産党宣言』を今やっていくという主体的なところが問われているし、中味を1つでも創ることができればと感じました。
なお、「唯一の革命的階級−プロレタリア階級である」というところを、もっともっと深める内容で、論証的、党派闘争的にやってほしいです。
【Z】
(1)第1章の核心点は、階級−階級闘争ということ、プロレタリアートが唯一の革命的階級であるということです。
@討論で提起された問題については、「はじめに」の立場の設定の問題性という講師の回答の通りとは思うが、もうひとつ、提起が途中で終わって、団結と革命的実践という結論がはしょられてしまったことも、あると思う。プロレタリアートの団結という実践的核心を欠いたことが、階級闘争とプロレタリアート=唯一の革命的階級という、講師自身がまさに突き出したかった点についての、あいまいな印象をもたらしたのではないか。
A討論者が出していた「プロレタリアート=唯一の革命的階級ということは、いろいろ論じなくてもプロレタリアートは即わかるのだ」という点は−その通りという面と、しかし、まさにこの点の破壊とあいまい化が『宣言』をめぐる全党派闘争と今日のブルジョアジーの攻撃との攻防点であり、「論ずる必要なし」は言いすぎ。逆に、徹底的に、特に革命戦略論的にはっきりさせるべきだと思う。
(2)もう1つ。「団結はつくられても、すぐ崩される→何度も何度も挑戦−再挑戦していく」−この『宣言』の提起は、とくに今日的に重要だと思います。 |