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2007年01月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 レーニン『国家と革命』(上)

講義概要 P1-3

★『国家と革命』をどう読み返すか?  −討論から− P4-7

受講レポート P7-10

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-3 講義概要

第5課目   レーニン『国家と革命』

   前半講義概要  講師 川武信夫

 『国家と革命』は、何を提起しているか

 レーニンが本書につけたサブタイトルは、「マルクス主義の国家論と革命におけるプロレタリアートの任務」です。『国家と革命』は、労働者階級がみずからの階級的自己解放のために、国家に対してどのように考え、行動すべきかを提起しているのです。
 レーニンは、1917年2月頃から準備した上で、8〜9月に本書を仕上げ、10月の労働者権力樹立へ向かっていきました。
 今まさに日帝ブルジョアジー・安倍の国家イデオロギーをふりかざした戦争と民営化・労働組合破壊攻撃、改憲・教育基本法改悪攻撃が労働者人民に襲いかかっています。こうした攻撃にたいして階級的に反撃し、労働者階級の勝利をかちとる闘いにおいて、本書は、重要な闘いの武器なのです。

第1章 階級社会と国家

 本書全体の総論的な章です。エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』(1884年、以下『起源』)を出発点に、マルクス主義国家論の再建・展開が行われています。

1 階級対立の非和解性の産物としての国家

 @「国家は、階級対立の非和解性の産物であり、その現れである」(『国家と革命』研究会版p18)−支配階級と被支配階級に分裂した社会において、この2つの階級の利害は、相対立する(=階級対立の非和解性)。これが国家の生まれる必然性です。
 A「国家は階級支配の機関であり、一つの階級による他の階級の抑圧の機関であり、階級の衝突を緩和しつつ、この抑圧を合法化し強固なものにする〈秩序〉を創出する」(同p19)−この〈秩序〉とは、抑圧階級が被抑圧階級の反抗を抑えつけるための「秩序」です。
 以上@、Aの結論は、「国家が階級対立の非和解性の産物であるならば、被抑圧階級の解放は、暴力革命なしには不可能であるばかりでなく…国家権力装置を廃絶することなしには不可能」(同p20)だということです。

2 武装した人間の特殊な部隊、監獄その他

 国家の特徴は@「国民を地域によって区分する」、A「自分を武装力として組織する住民とはもはや直接には一致しない一つの公的権力をうちたてる」(『起源』)です。
 @の「国民の地域による区分」とは、氏族共同体が解体し、「和解しがたく敵対する階級へ社会が分裂した」(『国家と革命』研究会版p23)ということで、歴史の大転換です。
 Aの「公的権力」とは、支配階級に「奉仕する武装した人間の特殊な部隊」(同p24)です。だから、被抑圧階級が「自主的に行動する武装組織」を形成して、公的権力=支配階級の階級支配の暴力装置(「武装した人間の特殊な部隊」)を粉砕すれば、国家は崩壊してしまいます。

3 被抑圧階級を搾取する道具としての国家(民主的共和制とボナパルティズムなど)

 略。解説本p34〜48参照。

4 国家の「死滅」と暴力革命

 @プロレタリアートは、国家権力を掌握し生産手段を国有財産に転化させ、「プロレタリアートとしての自分自身とともに、あらゆる階級の区別と階級対立を廃絶し、国家としての国家をも廃絶する」(同p32)。
 Aブルジョア独裁権力のプロレタリア独裁権力との交替は、プロレタリア革命として行われる以外にない。
 Bプロレタリア独裁の時期における「国家」の政治形態は、「もっとも完成した民主主義である」(同p36)。ブルジョアジーの力が一掃されれば、「人にたいする統治に代って、物の管理と生産過程の指導とが現れる」(同p34)。政治形態の一つである民主主義そのものも消滅する。
 C「資本主義における国家として最上の形態である」民主共和制においても、「賃金奴隷制が人民の運命である」(同p38)
 D「暴力とは、社会運動が自分自身の道を貫徹し、死んで化石となった政治的なさまざまな形態を打ち砕くための道具」(同p39)。「勝利に終わったどの革命からも、大きな道徳的・精神的高揚が結果として生じている」(同p40)
 この節と第1章全体の結語として、レーニンは次のように書いています。
 「プロレタリア国家がブルジョア国家を制圧する(suppress)ことは、暴力革命なしには不可能である。プロレタリア国家、そして国家そのものの廃絶は、『死滅』の道をとおる以外に不可能である」(同p42)

第2章 国家と革命 1848〜1851年の経験

 レーニンは、マルクス主義国家論の基本的論点と構造が、「1848〜51年の経験」をつうじてどう検証され、発展させられていったかを検討します。

1 革命の前夜

 レーニンは、マルクス国家論が、1848年以前の段階で到達していた地平(同p43〜45参照)を踏まえた上で、以下のことを確認しています。
 @「プロレタリアートが必要とする国家は…設立されたときからただちに死滅し始め、また死滅するしかないように設立された国家だけである」(同p46)
 A「大規模生産で経済的な役割を演じていることから、プロレタリアートだけがすべての勤労被搾取者の指導者となる能力をもっている」(同p48)
 B「プロレタリアートの独裁とは、人民の武装した力に直接支えられ、他の何人とも分有されない権力のことである」(同)
 C「国家権力、すなわち中央集権的な力の組織、暴力の組織」(同)が必要なのは「搾取者の反抗を鎮圧するため」、さらに「社会主義経済を〈組織〉するうえで、膨大な住民大衆、すなわち農民や小ブルジョアジー、半ブルジョアジーを指導するため」(同)
 D「労働者の党を教育することによって、マルクス主義はプロレタリアートの前衛を教育する。その前衛とは、権力を奪取し、全人民を社会主義へと導き、新しい体制を指導し組織する能力を持ち、すべての勤労被搾取者の教師、道案内、指導者として自分たちの社会的生活を、ブルジョアジーぬきで、ブルジョアジーに抗して、組織して行く能力を持たねばならない」(同p49)
 E「〈国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアート〉の歴史的役割を仕上げるものが、プロレタリア独裁であり、プロレタリアートの政治支配である」(同)

2 革命の総括

 この節は、『共産党宣言』で打ち出した国家論・革命論を、マルクスがどう発展させていったかを『ブリュメール18日』(1852年)をつうじて検討し(同p50〜59参照)、次のように集約しています。
 「帝国主義の時代は…プロレタリアートに対する弾圧の強化と関連して、〈国家機構〉の異常な強化、その官僚・軍事機関の前代未聞の成長」(同p59)がある。だからプロレタリア革命は、国家機構を破壊するために力をことごとく集中しなければならない。

3 1852年におけるマルクスの問題提起

 ここでレーニンは、マルクス主義国家論、革命論におけるプロレタリア独裁の決定的・中心的な位置を再確認しています。
 「階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認にまで拡張する人だけが、マルクス主義者である」(同p61)
 そしてレーニンは、1848〜51年の階級闘争から次のような結論を引き出し、第2章を結びます。
 「資本主義から共産主義への移行は…さまざまな政治形態をとらざるをえないであろうが、本質は不可避的にただ一つ、プロレタリアートの独裁であろう」(同p63)   (前半講義了)

党学校通信 p4-7

『国家と革命』をどう読み返すか?  −討論から−

【H】

 国家ができるというのは膨大な官僚なり、常備軍が形成される。マルクスの『フランスの内乱』なんかでそこら辺具体的に書かれてて、改めて読んでみて、そこら辺の新しい革命勢力に対する国家の現実的な形成過程を学ぶ必要を感じた。

【講師】

 2つあると思うんですね。1つは、国家がこんなに肥大化してきたのは、18世紀、19世紀、とりわけ19世紀後半になって加速してこうなってきた。昔の国家というのは、こんなに膨大な何十万の軍隊、何十万の官僚がいたわけじゃない。
 社会が発展すると社会的な事務が煩雑化するから官僚組織が出てくるという議論があるがそうじゃない。あくまでも階級闘争、資本主義発展の産物として現在の肥大化した国家があるんだ。その上で、そもそも国家とは何なんだという問題がある。国家というのを歴史的にとらえる。国家そのものが階級社会の発展として出てきたということと、階級社会の発展がいくつかの段階をとおして、その中で国家の形が変わってくる。
 1848年から51年は、ものすごい激動期だった。フランス革命というのは、まず封建領主を倒したんだけども、ブルジョアジーが政治権力をすぐに取るには至らずに、いろんな迂回を経ていく。いつもその対極には、成長しつつある労働者階級がいる。48年には、それが労働者の蜂起として、2月に王政を打倒して6月に階級決戦に至る、そんな激動期だったということですよね。

【O】

 今杉並の選挙で、犯罪被害者支援条例問題ってありますよね、あれにどういう立場をとるのかということで、それは国家暴力なんだと。被害者を助けるというような形で、ある種公的な権力として打ち出してきているけども、実際はブルジョア独裁を支えるための突破口なんだと。
 この前の糸数さんの沖縄の選挙なんかでも、糸数さんが勝つという情勢ができると、もうすでに国家はあそこで特措法を準備していたと。つまり、どんなにある種の議会選に勝ってもブルジョア独裁貫くよと、そこに国家の本質がある。だから、闘いによって暴力支配を全人民の前に明らかにする。これを叩いていく。労働者の立場からどうなんだということを、われわれが全人民に問うていく。だから、沖縄でつくり出したものというのは、ものすごく大きな問題ですよね。
 僕たちは昔流に言うと幻想共同体と国家を言っているけども、現実的な問題を一つ一つ引きずり出すことによって、国家ってそんなに難しい問題じゃなくて、国家の幻想性なんか吹っ飛ぶんだと。

【E】

 ここで今日言ったような、労働者大衆を一般的にはブルジョアジー、とりわけ帝国主義ブルジョアジーの影響から解放する闘いは、国家にたいする日和見主義的偏見と闘うことなしには不可能である、結局突き詰めていけば、国家をどう見るかということが決定的な分岐点になるということは明らかだと思うんですね。しかし、愛国心について言っても、左と言ってるような部分だってできないというか。「あなた愛国心ないんですか」って言われたら、いや、「あなたの言うような愛国心じゃない」という、いわゆる郷土愛みたいな話でごまかす。あと選挙で政権を取るというようなね。この本を共産党の党員が読むというのは禁止になっているんですかね。

【講師】 

まず彼らは階級的に、党として屈服しているということが大前提だとおもう、大きくは。それがあって、それを美化していくためになんだかんだ言う、今の共産党は。戦後革命を否定して、どうやって生き延びていくかということで、言葉の上ではごまかしてきたけども、一回たりとも労働者階級の中で戦闘的大衆的に闘ったことはない。核心は、基本的に労働者階級の持っている革命性に対する恐怖だと思うんです。
 現場で闘争をやった瞬間に、労働者はやっぱり立ち上がっちゃうと。そのいい例が2・1ストじゃないかと。それから、安保に至る大きな流れじゃないかということがあって、だから、職場の闘いを共産党の代議士に票を集めてしまうという形でチャンネルを作って、そのために国家そのものを幻想化していくというね。共産党のものを読んでいくと、職場でこういう不満があったというのはいっぱい書いてあるんだけど、あとは全部裁判闘争だよね。裁判闘争をわれわれ否定しないけど、そうやって、みんな個別的に裁判闘争をやって、勝った勝ったと言って、あとは職場は共産党がいた所が一番ひどいでしょ。そういうように全労連ができていくから、全労連の下部から職場闘争をやろうというと必ず上部にぶつかっていく。こういう構造をとっていると思うんだよね。職場からどういう闘いを起こしていくのかということが資本とのものすごい切り合いになる。独自の政治闘争と結合して闘う場合も、両方が力を出し合って、労働者階級が一つの階級として自分を形成していく。このことを一番恐れるのが日本共産党。
 60年のあと、総評にたいして共産党が対案を出すわけです。対案の中身というのは政党支持の自由だけ。三池闘争の総括の時に、共産党は呑んじゃったわけだよ、合理化を。共産党の反対提案は反合闘争じゃない、全部政党の自由なんです、社会党だけでなく共産党も支持されるべきだと。共産党は、ずっとそれでやってきたわけです。

【H】

 関連して、とくに日共は今回、動労千葉とは一切組むな、あるいは、1047名闘争闘うなというところまでエスカレートした。だから、今の国鉄闘争の局面というのは、本当に1047名問題、大きな転機をむかえてます。若い人は全労連の現場でも、動労千葉を支持する、中核派の問題も含めて。そうやって日共の伸びすぎた手を徹底的に叩いていくという局面に入っているわけですよ。

【O】 

 やっぱり今のわれわれの新指導路線からいくと、さっき出されたブルジョアジーを打倒することはプロレタリアートによってのみ可能であると。ここに本当に信頼というか、絶対的確信をもつかどうか、今それが職場闘争、現場で問われている。

【E】

 今労働組合に行くと職場闘争というのはほとんどないわけです。じゃあ何をやっているのかと、交渉ですよね。4大産別的に言えば、平和フォーラムなんか組織されていて、反戦平和闘争はやるわけですよ。もう一つは、選挙ですよね。だけど、はっきりしていることは、基地闘争に自治労や日教組が決起してくるというのは重要なんだけど、じゃあそれで勝てるのかということね。そこはそうはいかないわけですよね。結局、職場における闘いということをとおして、たたかう労働組合として形成されていく、階級として形成されていく、そういう闘いを抜きにしてはないわけですよ。職場闘争をやらない代償として基地闘争なんかをやっている、悪く言えば。現実には今、資本とはまったく闘わないで、アリバイ的な基地闘争はやる。それにしかすぎない。だから、そこがやっぱり、たたかう階級的労働運動をつくり出していくということの根幹をなしている、そこのところの根幹に、今日の国家論、やっぱり階級支配をどう覆すのかを抜きにして、労働者の社会など形成されないということを徹底的に明らかにしていかなきゃいけない。

【O】

 愛国主義をぶち破るようなイデオロギーというのは、なかなかできないですよね。自分の生活と家族を守りたいというような気持ちは、すがりつくようにあると思うんだよね。それを本当にぶち破っていくというのは、やっぱり労働者が動労千葉のようにストライキを打つということ。生産は自分たちのものなんだ、俺たちがやったら資本は止まると。ストライキのできる職場を作り出すこと。それが一番今の秩序を破っていくこと。

【N】

 地区で活動しているんですけど、この間権力が組合に介入してきているんですよ。一定程度運動が盛り上がると、必ず権力がちょっと介入して、そしてブルッちゃうわけですよ。僕の実感として、労働組合までやっている人というのは、幻想なんかあんまり持っていないですね。むしろ恐怖ですね。権力の方から何か来るとブルッちゃう。むしろ、署名運動なんかやってくれている普通の大衆というか、労働組合とかあまり関わっていない人の方が幻想を持っているというか、そういう実感がありますよね。
 だから、市民運動なんかやっている人は結構権力に対して戦闘的です、資本と闘っているわけじゃないですからね。これに対して、権力と資本が一体で襲いかかってきたとき、みんなブルッちゃう。つまり権力とだけ闘って、資本関係ではあんまり厳しい関係にないような人(市民的権利だけを問題にする戦闘的民主主義者)は非常に大切だということです。(だが、それだけでは限界がある。)
 その辺はだから、階級的に職場闘争やっているところは、権力に対してもビシッとやれるが、それがないと権力に対してもブルッちゃう。その辺が一体的に進んでいるなというふうな気がしますよね。
 この『国家と革命』というのは、学生時代からこれでオルグされた、これで暴力革命の思想を獲得した。革命観なんかも、この『国家と革命』によってつくってきた。例えば、霞ヶ関を武装占拠するんだとか、というふうなイメージを持っていたけども、なんか違うなと。5月テーゼとか19全総とか「党の革命」を経て思ったことは、自分がそういうふうに培ってきた革命観とイメージというのが、武装闘争と思想闘争オンリーになっていた。職場闘争がすっぽり落ちていたんですよ。その辺のとらえ返しというか、プロ独といったら何なのか、労働者が霞ヶ関を占拠するじゃなくて、職場で支配権を握っていくということと一体で進んでいくんだなということを、改めて『国家と革命』を今読んでいく上で、はっきりさせていかなくちゃいけないんだという気がしました。
 今の路線的な立場から、実は資本と国家は一体で進んでいくんだよというふうな立場で打倒対象というのをはっきりさせていく。その辺が課題として出ているんじゃないかなというふうに思いますね。
 レーニンが『国家と革命』を書いて権力を奪取していくということを非常に言ったでしょ。でも、実際には、もうソビエトと職場で権力を握っているわけですよ。あとは国家権力を奪取するだけだよという背景のもとで、こういう論文が書かれているわけですよね。じゃあ、われわれが職場で権力を握っているのか、ということを考えると、やっぱりその辺が非常に不十分だなと。だから、プロ独というのは、職場で権力を握っていくことなんだよと。プロ独というのは実は目の前にあるんだよと。だから、霞ヶ関とかどっかにあるわけじゃないんだよと。その辺をもう一回とらえ返していくというかな。そういったかたちでもう一回『国家と革命』の原点に返っていくというのが、非常に重要だなというふうに感想として思いました。

党学校通信 p7-10  受講レポート

受講レポートから ★『国家と革命』(上)のレポートです。

【N】

 『国家と革命』は、プロレタリア独裁、暴力革命、武装闘争の思想、考え方を教えてくれる重要な論文です。これは、ボルシェビキが多くの職場で権力を握り、職場支配権を確立している中で書かれました。2重権力状態の中で「一切の権力をソビエトへ」と掲げたレーニンの結論としての権力奪取は、まさに資本との闘いを一切の土台としてあるわけです。このことが、今日われわれが『国家と革命』を読む場合にハッキリさせなければならない留意点だと思います。
 その点では、レーニンが国家論を、プロレタリアートの独裁との関連で展開しているのが大切だと思います。プロレタリアートが軸になって闘う。生産手段を奪取する。それが革命であり、それへの敵対として権力が出てくるという構造。だから、プロレタリア独裁とは、職場での支配を貫徹するということである。議会よりも、街頭よりも、何よりも職場が戦場なんだということ。これぬきにプロ独はあり得ないし、これこそがプロ独なんだということだと思う。だから、「職場闘争なんかできませんよ」という意見は、「革命運動なんかできませんよ」という意見と見ていい。それは、マルクス主義の否定、プロ独の否定、『国家と革命』の思想の否定であると思います。
 今日、資本との闘いは、同時に権力との闘いであるという状況がよりハッキリしてきていると思いますが、資本と権力が直接襲いかかってくるということもあるが、よりそれ以上に厄介なのは、連合、全労連です。つまり、労働者の味方面をして労働者に敵対する組合幹部(労働貴族)との闘いです。この点の重要性、重大性は、すでに『帝国主義論』の学習会で強調されていますが、その点も合わせて『国家と革命』を学び直すということも非常に大切だと思います。
 党の革命の推進の理論的武装として、『国家と革命』『帝国主義論』をそういう立場で改めて学び、職場闘争の古典的バイブルにしたいと思います。

【H】

 第2章「1848−51年の経験」は、今回の講義をうけて、ある種興奮をおぼえた。理論的には、われわれがこれまで『ドイツ・イデオロギー』の新訳と『国家と革命』第1章・レーニン主義を徹底的に主体化する作業の上で、それを検証し、唯物論にかきあげた。とくに第2章は、マルクス主義国家論の骨格として再度、われわれのものにしていくために提起された。そして、見事に成功している。
 国家とは、どう形成されたのか。巨大な官僚、常備軍を持つ国民国家として生まれ、とくに48−51年、ブルジョアジーとプロレタリアートの共同歩調がついに破裂し、プロレタリアートの胎動に対してブルジョア独裁の国家として形成される。この48−51年の革命の中で、国家の基礎としてレーニンが注目し、ときおこし、論じきったことは、実に興奮するものがある。
 これまで第2章は、1章と『ド・イデ』で理論的・原則的に勉強し、サラッと国家を理解したものにすぎなかったので、これを契機にさらに深め、実践へのカテにしたい。

【J】

1.討論で、『国家と革命』の今日的・現実的な貫徹という課題に関しての討論は、とても有意義だった。
 @とくに、職場闘争−職場支配権の確立をプロレタリア独裁−プロレタリア革命の必須要素=基礎として位置づける観点は、非常に重要とあらためて感じた。(戦略的位置づけ、再確立)
 A日本共産党は、戦前から日本におけるプロレタリア革命を否定しており、戦後は従属論によってプロレタリア革命−革命を否定してきた。そういう意味でも、日共の職場闘争放棄とプロレタリア革命の否定(とりわけプロ独の否定)とは密接に関連している。
2.現代における革命、とりわけ日本における革命を展望し、実践的に実現していく上での『国家と革命』の意義については、革命家・革命党にとっては論をまたないものである。
 しかし一方で、マルクス主義(あるいはレーニン主義)を語る者たちの中で、『国家と革命』を否定する者たちは数多くいる。これを粉砕するためにも、今回の学習会はとても有意義であった。とくに、『ド・イデ』における「国家」の規定、また「幻想的共同体」規定と、『国家と革命』の「国家」規定とを対立的に論じてプロ独−暴力革命−プロレタリア革命を否定しようとするものは、有力な潮流としてあるが、レジュメでのまとめは、この点で強力な反批判としてある。(マルクスの国家論の一貫性−歴史的現実的な形成過程論も、同時に非常に重要で)これらの点について、大いに学べた。今後の学習に生かしていきたい。

【C】

 職場生産点における支配権を労働者が握ることなしに革命はありえない。しかし、支配権力をとった労働者は、国家の問題をそれまでとは違った感覚でとらえるだろう。

【O】

1)『国家と革命』は、レーニンがそうであった様に、「戦争と民営化」が吹き荒れる時代に決定的な実践の書として書き抜かれている。このいま自分が住み、生活している国家を粉砕したらどうなってしまうのか。また、日帝の戦争(北朝鮮・中国への侵略戦争)攻撃に対して、祖国敗北主義(=内乱)を対置する根底的・原則的たたかいで労働者階級人民を組織できるのか。本当に重いテーマが襲いかかってくる内容をもった学習会です。これで職場に切りこんでオルグできるのか。この学習会で武装したたかいぬく決意で党学校に臨んでいます。
2)レジュメ(p14)で明らかにされたことは決定的に重要。プロレタリアートの「指導性、革命的能力、自立した」たたかいに依拠、信頼し、たたかうことを再確認・再武装することを求められています。労働者階級の職場から決起をかちとっていく絶対的な確認です。
3)国家は「階級対立の非和解的産物」「階級支配の機関」として提起されていることをガッチリと踏まえて、われわれは、われわれのたたかいによって国家暴力(=ブルジョア独裁)をひきだし、政治的暴露をし、これを粉砕していくプロレタリアートの鉄の団結をつくりだしていかねばならない。日常的な職場での「職場支配権」の攻防戦の中でこそ、真に勝利するプロレタリアートの隊列が登場できることを肝に銘じてたたかいたい。
4)こうしたたたかいをプロレタリアートの側に立った視点で必死になってたたかうことなくして、階級的な立場は形成できない。
 「階級の党」としてありつづけるためのたたかいは、再武装(自己変革)の不断のたたかいなくして、国家暴力(政治的暴力)の物質的な力には無力と化すことをはっきりさせ、ブルジョア・イデオロギーとの対決を自覚的に、意識的にたたかいぬこう。(ブルジョア・イデオロギー粉砕のたたかいは、プロレタリアートのストライキが決定的な突破口となる。動労千葉のようなたたかいを1つでも多くかちとることが、「階級の武装=党の武装」の具体的なたたかいである)

【F】

 「階級対立の非和解性の産物としての国家」は、階級社会の歴史的発展の段階において、それぞれの国家形態をとります。資本主義社会は、資本家と賃金労働者が対立する社会であり、国家はブルジョア国家です。マルクス・エンゲルスは、1848−51年のヨーロッパの内乱、パリ・コミューンを総括し、『フランスにおける階級闘争』『ゴータ綱領批判』『家族・私有財産・国家の起源』を著し、労働者階級がプロレタリア独裁権力のもとで、共産主義社会の建設すべき方向を明らかにしました。それは、共同の社会的生産と結びついたコミューン4原則の着手と実現です。
 本講義から、私は、レーニンが党を建設し、労働者階級自己解放を闘いとり、プロレタリア独裁権力−手持ちの条件のもとで、コミューン4原則の実現に向けて、断固として前進を開始したことを学びました。
 また、本講義をとおして、第1次帝国主義世界戦争の最中、プロレタリア革命をたたかいとるのだ、と革命に肉迫していったレーニンの真骨頂が伝わってきました。
 ドイツ社民党−カウツキーの国家観は、資本家階級と労働者階級の対立を和解するものとして、プロ独に敵対するものでした。レーニンは、第2インター・カウツキーの打倒に向けて、『国家と革命』を著していると思います。
 『国家と革命』は、労働者階級が職場闘争をたたかう実践の書・指針であることを学んでいます。

【E】

 革命的情勢の急接近という今日の情況の中で、『国家と革命』の中で出されている国家の問題は、理論的のみならず、実践的、政治的な面でも、重要性を増している。
 〈国家〉についての日和見主義的偏見とたたかうことなしに、労働者大衆を帝国主義ブルジョアジーの影響から解放することはできない。日帝・安倍政権が「国家」を押し出した攻撃を激化させている中で決定的である。
 国家とは、階級支配の機関であり、労働者大衆が、行動を起こし、旧国家機構を粉砕し、それを新しい機構ととりかえ、こうして自分の政治的支配を社会主義的社会改造のための土台としなければならないという結論こそ、マルクス、レーニンがうちたてたプロレタリア革命の果たすべき課題であり、労働者大衆を獲得し、組織化していく核心だと思います。
 この点での鮮明化があって、ロシア革命は勝利したのではないか。