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2006年12月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『ゴータ綱領批判』(下)

講義概要 P1-5

★なぜラサール派との合同はスンナリ行った?-討論から- P6-7

受講レポート P8-10

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-5 講義概要

第4課目 マルクス『ゴータ綱領批判』

後半講義概要 講師 畑田 治 

〔4〕 共産主義社会をどのように建設していくか

●「公正な分配」論批判

 今回は、『ゴータ綱領批判』の中では名高い共産主義論の領域に入っていきます。
 マルクスははじめに、綱領草案が、次のように「公正な分配」を主張していることを批判します。
 「労働を解放するためには、労働手段を社会の共有財産に高めること、そして総労働を協同組合的に規制して、労働収益を公正に分配することが必要である」
 これをマルクスは、「『労働手段を共有財産に高める』だって! これは『共有財産に転化する』というべきだろう」(解説本第2版p178)と批判します。「高める」は、プロレタリア革命ではなくて、なにか改良的積み重ねで労働手段の社会的な共有化が可能であるかのニュアンスで言われているから、これを批判しているわけです。その後、綱領の文章は批判を受け入れて「転化」という言葉に変えられましたが、根本における改良主義、国家権力への屈服性は変わっていません。
 次の批判点は、「労働収益を公正に分配する」と言っている部分です。マルクスはここでブルジョア社会の「公正」なるものの欺瞞(ぎまん)性を突き、そもそも資本主義的生産様式の根本的な変革を問題にしないで、消費手段の公正な分配のみを、社会主義の中心問題であるかのように論ずることの誤りを「許しがたい逸脱行為」(同p185)と批判します。
 「労働収益」という言い方は、ラサールが用いたあいまいなブルジョア的観念です。当時の国民経済学は、賃金、利潤・利子、地代を「所得の三大源泉」と言って、並列的にとらえました。これは、労働者も資本家も土地所有者も、それぞれの正当な労働で収益を得ているかのように合理化するものです。利潤・利子・地代が、いずれも労働者の剰余労働を搾取したものであることを隠蔽しています。
 その上で「公正な分配」とは何なのか。「ブルジョアは、今日の分配のあり方が『公正』だと主張しているのではないか」(同p179)と、マルクスは批判します。
 資本家は生産手段と労働力を価値どおりに買い、生産物を価値どおりに売って、利潤(=剰余価値)を得ています。資本家に言わせたら、「公正な取引で自分たちは利益を上げている。なにが文句あるか」というわけです。
 資本家は、生産過程で剰余労働を搾取しています。その剰余価値は生産物の交換をとおして実現するのですが、この資本主義的生産様式の基礎の上では、労働力をも特殊な一商品として交換関係が成立しているのです。そして、その等価交換を「公正な分配」とする法的諸関係、社会的な観念が発生するわけです。憲法、民法、商法など法律的諸関係も、「財産の保障、対等な契約、公正な取引」などを保証しています。だから、「公正な分配」を主張するのでは、資本主義批判にならないと、マルクスは批判しているのです。

●共産主義社会の「控除」と「分配」

 次にマルクスは、「綱領は、ラサールの狭い了見の影響で、…消費手段の分配についてしか問題にしていない」(同p181)と批判しています。
 共産主義社会が成り立つためには、個人への分配の前に、まず次のものが控除されなければなりません。
 第1に、生産手段の消耗部分を更新するための補填(ほてん)分。
 第2に、生産の拡張のための追加分。
 第3に、事故や自然災害に備える予備元本あるいは保険元本。
 残りの部分が消費手段として使われるわけですが、各個人への分配の前に、さらに次のものが差し引かれなければなりません。
 第1に、直接には生産に属さない一般的な管理費。この部分は、今日の社会に比べれば、最初から大幅に圧縮され、新社会が発展するにつれてますます減少します。
 第2に、学校や医療保険設備など、さまざまな必要を共同で満たすための部分。この部分は、今日の社会と比べると、最初から大きな額となり、新社会が発展するにつれてますます増加します。
 第3に、労働能力を持たない者などのための元本。高齢者への年金などもここに含まれるでしょう。
 やや細かい話になっているわけですが、どうしてマルクスは、このような控除のことを問題にしているのでしょうか。それは、プロレタリアートが社会の主人公となって新しい社会(共産主義社会)を建設していくためには、自分たちが受け取る消費手段の分配の問題だけでなく、生産−再生産を含む社会全体のあり方を対象化しなければならないからです。そのために、社会的総生産物の全体をどう活用するのかが問題となるのです。このことは、労働者階級が支配階級となり、「社会の主人公」となっていくこととイコールのことです。

●資本主義から生まれ出たばかりの共産主義社会

 では、以上の控除の上で、消費手段の分配は、どのような基準で行われるのか。
 ここでまず問題になるのは、「たった今資本主義社会から生まれ出たばかりの共産主義社会」です。この共産主義社会は、経済的にも道徳的にも精神的にも、自分が生まれ出てきた母胎である旧社会のなごりをまだとどめています。
 そのため、一人ひとりの生産者は、彼が社会に与えたのと正確に同じだけのものを(控除が行われたあとで)返してもらいます。一人ひとりの生産者は、これこれの量の労働を給付したという証明書を社会から受け取り、この証明書をもって消費手段の社会的蓄えの中から、ちょうど同じ量の労働が費やされている消費手段を引き出します。
 ここでは明らかに、等価物の交換である限り商品交換を規制するのと同じ原則が支配しています。ある形の労働がそれと同じ量の別の形の労働と交換されるのです。
 しかし、内容は資本主義社会とはまったく違うものです。資本主義のもとでは、労働者は生きていくための最低限のものしか受け取れなかった(賃金=労働力の再生産費用)わけですが、労働者階級は自ら働いて生産したすべてのものを(一定部分を社会のために控除した上で)自らのものとすることができるのです。資本主義社会とは根本的に違います。
 それでも「平等な権利」は、なお依然として、ブルジョア社会のなごりとしての制約を受けざるを得ません。労働能力の差や、独身か家族持ちか、子どもは多いか少ないかというような事情は無視されます。
 「このような不都合は、…資本主義社会から生まれ出たばかりの共産主義社会の第一段階では避けられない。権利は、社会の経済的構造とそれによって規定される社会の文化的発展の水準よりも、けっして高くはなれない」(同p184〜185)
 重要なことは、マルクスが問題をとことん実践的に考え抜いているということです。共産主義の第1段階を、資本主義的な材料の組み替えをとおして到達できる社会としてはっきりさせているわけです。

●共産主義社会のより高度な段階

 「共産主義社会のより高度な段階で、すなわち、@諸個人が分業に奴隷的に従属しなくなり、Aそれとともに精神労働と肉体労働との対立が消え去ったのち、Bまた、労働が単に生活のための手段であるだけでなく、それ自身第一の生命欲求となったのち、Cまた、諸個人の全面的な発展に伴って彼らの生産力もまた高まり、D協働的富のあらゆる泉が豊かに湧き出るようになったのち、――そのときはじめて、狭いブルジョア的な権利という地平は完全に踏み越えられ、社会はその旗にこう書くことができる。すなわち、各人はその能力に応じて〔働き〕、その必要に応じて〔受け取る〕! と」(同p185、@A……は引用者)
 この高次の段階になって初めて「権利」を問題とする(もともとブルジョア的な限界をもっていた)関係そのものを止揚することができます。
 しかし重要なことは、前述の@〜Dは、単に理念として掲げられるものではなく、プロレタリア革命の最初からその現実化をめざして進んでいくものであること、そうした闘いの中でこそ共産主義は大きく前進するということです。
 圧倒的な多数者としてのプロレタリアート人民が「社会の主人公」となって、新しい経済と社会のあり方を軌道にのせるために闘うのです。その過程自身が、分業と疎外の革命的打破の過程にほかなりません。

●プロレタリア独裁論

 資本主義社会と共産主義社会のあいだには革命的転化の時期があります。それに対応して政治的な過渡期があり、この過渡期の国家はプロレタリア独裁以外のものではありえません。
 ところが、綱領草案は、プロレタリアートの革命的独裁についても、また共産主義社会における将来の「国家(的制度)」についてもふれていません。プロレタリアートの解放にとって、国家権力の問題は、きわめて重要なことです。綱領草案がこの問題をプロレタリアートの主体的な問題として据えていないところに、現存国家に対する思想的屈服が示されています。
 とりわけ、1871年にパリの労働者階級が世界史上初のプロレタリア権力をうち立てた後では、国家にどういう態度をとるかは、いよいよ実践的なテーマになっていたのです。
 「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなし遂げるためのついに発見された政治形態であった」(マルクス『フランスの内乱』)
 コミューンが指向しつつあったものは、その延長に共産主義とならざるをえない階級的で革命的なものであったのです。
 このプロ独国家は、資本家から私有財産を収奪し、その反抗の制圧をなし終えれば基本的に死滅=眠り込みを開始します。エンゲルスが『空想から科学へ』で、「国家が国家として行う最後の自主的な行為」と言っている意味は、そのような意味です。同時にこの過程は、計画的な社会的生産が大いに発展する過程でもあります。
 ところでカクマル=黒田寛一は、この過渡期について、かなり長い期間を想定して「過渡期社会」と規定し、“価値法則に代わって過渡期社会に適用される法則があるはずだ。それは何か”という論を展開しました。
 しかし、「過渡期社会」を資本主義社会と共産主義社会の間に挟まった人間社会の一歴史段階として、固定化してとらえることは誤りです。ましてや「過渡期社会の法則」なるものを求めることは、プロレタリア革命の歴史的意義についての根本的な無理解、歪曲であると言わなければなりません。
 資本主義社会に貫かれる価値法則は労働者が特殊な商品として資本によって搾取される、言い換えれば労働者が他律的に支配されることによって成り立つものです。価値法則が成立するということは、労働者が他の外在的な力によって支配されていることを意味するのです。それを廃絶し、労働者が真に社会と歴史の主役、創造者として登場するのがプロレタリア革命です。黒田のように、労働者が他律的に規制される法則を過渡期に求めるのは、プロレタリア革命の目的意識性を否定するものです。
 過渡期は、ほうっておけばブルジョアジーが反革命的に復活してくるような困難な時期です。その困難な諸条件と格闘しつつ、労働者が生産過程の計画的統制に着手し、習熟し、社会の支配を実現していくのです。大変と言えば大変ですが、資本主義的生産のデタラメさに比べたら、革命をやり遂げた労働者階級の情熱と能力と団結をもってすれば、多少の困難も大したものではないと言えるでしょう。

●労働と人間の自由の問題

 ちょっと本題をはずれますが、「必然性の国」と「自由の国」に関してマルクスが『資本論』で言っていることは、共産主義論として重要だと思うので触れておきたい。
 マルクスは第1巻15章ですべての労働能力ある社会成員が等しく労働するようになれば、「社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、個人の自由な精神的・社会的活動のために獲得された時間部分はますます大きくなる」と言っています。そして、第3巻48章「三位一体的定式」で、「自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、初めて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域の彼方にある」と語っています。
 ここに明らかなようにマルクスは、狭い意味での「労働の変革・解放」にとどまらず、人間的活動の全体を問題にしているのです。
 共産主義社会の解放性や豊かさ、共産主義的自由の意味はこうした次元でつかまなければならないでしょう。スターリン主義のように共産主義を、物質的生産活動の計画的実現や生産力至上主義に切り縮めてしまうのでは、人間の人間的解放をめざす共産主義の豊かさは失われてしまいます。

●終わりに

 『ゴータ綱領批判』はさらに、綱領草案が農民層の獲得の重要性を規定せず、「反動的なひとつの集団をなすにすぎない」と言って切り捨てていること、またプロレタリア国際主義を放棄していることを批判しています。
 また国家論について、草案は「自由な国家……を実現するために力を尽くす」とか、「国家の自由な基礎として次のことを要求する」などと、まるで国家が階級支配の道具ではなく、人間の自由を実現する主体であるかのように美化しています。ブルジョア的・観念論的な国家観に屈服しているのです。このことを、マルクスは「社会主義的理念が皮膚の厚さほども染みとおっていない」(解説本第2版p197)と痛烈に批判しています。
 以上見てきたように『ゴータ綱領批判』は、きわめてラジカルな立場からブルジョア社会を批判し、共産主義への道筋を提起しています。21世紀革命をめざす私たち労働者階級にとって、きわめて有意義な書であると思います。 (後半講義了)

党学校通信 p6-7 -討論から-

★なぜラサール派との合同はスンナリ行った? -討論から-

【Y】

 マルクスとエンゲルスがあれだけ激しく反対しているのに合同がなぜスンナリ行ったのか? 最大の疑問です。「党の革命」が起きたっておかしくないじゃん。ドイツ社会主義労働者党は、当時の労働運動と関係ないところでやっていたんじゃないの?

【W】

 当時の労働運動の現実との関係では、むしろべったりしすぎていた。

【R】

 歴史的局面をつかむ必要がある。パリ・コミューン後の弾圧が全ヨーロッパ的に吹き荒れていて、ドイツが階級的攻防の中心になっている。60年代のラサールの運動や第1インターの影響(パリ・コミューンの威力)などを背景に、ドイツの労働運動が新しい発展を求めている。ドイツの権力にとってはマルクス派だけでなく、凋落しつつあるラサール派の運動だって恐怖の対象だった。その中で、階級として団結して反撃しようという全体の機運が生まれてくる。労働者にとってはだから、情勢に対応するために、合同して権力と闘う必要があるととらえられていた、大きくは。綱領の文言がどうこうではなかった。
 マルクスもエンゲルスも、合同そのものは認めている。しかし合同綱領を見たら、あまりにもくだらないんで、ふざけんじゃないということになったんだが、時遅しみたいなところがあって、これをとんでもない裏切りと思った人はほとんどいなかった。
 理論と組織の現実みたいなことから言えば、当時のドイツの党はこの批判を消化して正しく貫徹できるような実態じゃなかったでしょう。だから、今の我々の党派闘争、党内闘争と同じものとして考えた場合には理解しにくい。大きな流れの中で見たときには、原則的なことをはっきりさせながら(原則を売り渡さずに)、できるだけ有利な合同をやるべきだったというのが答えだと思う。
 ラサール派的な結構広い基盤を持った運動を、組織的にはアイゼナッハ派がいわば自分達のヘゲモニーのもとに解体・吸収した。そのために綱領的・路線的にはいい加減なことをやったわけだが、意識的な戦術としてそうしたというよりも、原則を売り渡しているという自覚もなかったところが深刻な問題だ。
 しかし、『共産党宣言』から『資本論』そして『フランスの内乱』まで確認されてきたようなことを、本当に労働者階級の党の綱領として、どういうふうに形にしていくのか、そういう試み自体がまだないわけです。第1インターの経験はあったけど、あれは党の建設そのものではなかった。
 本当の意味で党をどう作っていくのか。階級的基盤を持ちながら原則を貫きとおすためのいわば本当の闘いがこの辺から始まっている、長い前史の上に。パリ・コミューンという試練をくぐって、ドイツというちょっと遅れて、本格的に労働者階級が成長・発展しつつあるところで、ひとつの歴史的挑戦が行われている。階級的・大衆的でありながら本当にブルジョアジーを倒していく、パリ・コミューンを引き継ぎ越えていく党の建設をどう進めるかが問題になっていた。しかし、そこがはっきり自覚されていない。マルクスはそこにイライラしている。そこのギャップみたいなのがあって、それが16年間も批判の手紙を公表しないというかたちで現れている。
 マルクスとエンゲルスは「1ダースの綱領より現実の運動の進展が重要」と言った。要するに、現実を無視してただ理屈でなで切っているだけじゃ行かない、現実に踏まえながら、なおかつ階級的未熟さを克服しつつ原則的にやっていく、そういう実践的プロセス、企てだと考えていたのではないか。

【Q】

 指導部以外のアイゼナッハ派とかラサール派のプロレタリアートはこの綱領をどう見たのか?

【W】

 徹底的にマルクス主義の文献は禁止され、大衆的には読まれていない。ラサール的扇動がかなり入っていて、それを階級的・マルクス主義的に批判する力は未形成だったと思う。

【O】

 60年安保ブンドを革共同が獲得したとき、本多さんなんかは綱領的一致については、ゴリゴリと本当に自己批判をとおしてやっていったと思う。
 今年突きつけられた「党の革命」の問題で、労働者党員と党の関係が提起されているが、こんなナンセンスな合同だとは、当時のドイツ社会主義労働者党の党員は実際に分からなかった。労働者階級が指導部に背筋をきちっとさせるという意味の党の浄化作用というか、そこにおける組織のあり方は大きい問題。党員自身が実際に党の指導部との緊張関係をどう保っていくかという問題は、今われわれに突きつけられた非常に重要なテーマだと思う。
 党組織における中央と基本細胞という問題として考えると、主体的な問題としては、こんなの許せないということがどういうふうに反映されていくのか。党建設においてこれは一番大きい問題かもしれない。その場合、大原論文で、党と階級は一つ、われわれはそこに到達したと書いてあるけれど、ひとつの機構とか精神とか固定してあるわけじゃない。到達したと書いてあるけど、階級闘争の展開の中で、いつまたそこからズレていくか分からない。そこをたえず追求する、党と階級がいつも一つになっている状態、緊張関係を持てる状態をどうつくり出していけるかが問題だと思う。党であっても本当に一致し一体化するというのはやっぱり難しいというかね。革命の現実性と勝利への執念という問題がある。党を労働者階級の前衛党たらしめていくには、やっぱり革命の現実性を現実性として受けとめながら、絶対に勝利するという決意そのものを階級意志として明確にしていくことが絶対に必要なのかなと思います。

【Z】

 そういう「党の革命」の視点で見ると、労働者階級の現実と党的に論争になっている点がどれだけかみ合っているか、踏み込んでいるか、どれだけ多くの党員大衆、労働者大衆の参加をかち取っていけるか、ここに焦点があるんじゃないかと思う。

党学校通信 p8-10 受講レポート

受講レポートから  ★『ゴータ綱領批判』(下)のレポートです。

【Y】

 マルクス『ゴータ綱領批判』を学ぶ(後半)の提起を自分なりにどのように受けとめ、問題意識を発信すべきか、かなり悩みながら聞いていたが、やっぱり現在的には「労働者階級の団結、もしくは労働者階級の党をどのような原則に基づいて形成していくのか」という視点でマルクスの『ゴータ綱領批判』を学んでいくということかなと思います。
 「ゴータ綱領」問題には、プロレタリア自己解放の歴史的諸原則を真剣に貫いていく党綱領の問題と、その組織的あり方の問題が、絡みあって存在していると思う。その点では、マルクスの『ゴータ綱領批判』の手紙が、まさに手紙としてのみ扱われて、当時のドイツ社会主義労働者党の全党員に公開されず(?)に16年間封印されてしまったのは、やはり問題だったと思う(あくまでも2006年現在の自分から見て、ということですが)。
 資料集Aのp8のNo.19の引用にある「われわれの敵はわれわれの合法性によって破滅するであろう」という社会主義者鎮圧法下でのドイツ社民党のスローガンには驚いた。これまでの自分の認識は、かなり間違っていた。社会主義者鎮圧法がひっこめられた後で、ドイツ社民党は合法主義・議会主義に転落していったのかと思っていたら、そうじゃなかった。ビスマルク体制との全面的な激突に入る前の段階から、やはり折れていたのか? とすれば、1875年の時点での「ゴータ綱領」問題は、単に当時の指導部の歴史的経験の有無というレベルではなく、プロレタリア自己解放の思想の根幹に関わる重大問題だったのでは? と思う。
 マルクスの批判は、パリ・コミューン後の反動の中で、いかにプロレタリアートが階級的に団結し闘っていくのか、まさにその点に注がれていたのだと思います。

【F】

 『ゴータ綱領批判』は、唯物史観の立場から資本主義社会を根本から批判し、労働者階級が現実の共産主義の闘いをとおして、プロレタリア権力を闘いとり、結合した労働者階級は現実の手持ちの諸条件で直ちに共産主義に向かって前進しなければならないことを明らかにしたと思います。
 労働者階級は、資本家の工場で、労働組合を闘いとり、「労働者階級の究極的解放の立場」から資本の攻撃と闘い、そして結合した労働者は、職場支配権の掌握−プロ独権力の下に生産手段を運営し(再生産し)、労働者の個人的な労働量に応じて、労働者自身の生活手段を手にします。
 資本主義から生まれ出たばかりの共産主義社会の分配の基準は、労働者個々人の労働量−労働時間です。労働者個々人は、ある人は独身であり、ある人は家族(子供)がいます。生活手段を手に入れるのは「不平等」という現実があります。学校での討論をとおして、この「不平等」は、生まれたばかりの共同性−みんなで支えあうことで、徐々に解決していくことである、と学びました。
 結合した労働者は、獲得した共同体・プロ独をバネにして、高次の共産主義に向かって、直ちに前進してゆきます。『ゴータ綱領批判』は、資本主義の打倒−共産主義の実現を全面的に明らかにしている、と学んでいます。

【N】

 討論の中で、ラサール派とアイゼナッハ派とがなぜ合同したのかという疑問が出され、当時の状況が説明されました。現実の運動の流れと、綱領問題とがどういう関係で推移していったのかは、時代の違いを感じました。とくに党というものが、今日ほど厳密ではないということが、大きな要素としてあったのだと思いました。
 パリ・コミューンのあとのドイツ階級闘争の位置が否応なく大きくなり、それが、綱領問題で誤魔化してきたことが結局は矛盾を拡大していくことになった。
 そういう流れの中で、運動を総括した場合、必然的に出てくるのが、党という問題の重要性だったんだろうと思います。レーニンの登場は、マルクス、エンゲルスの思想を引き継ぐものであったのだと、討論を通じて改めて意義深いものだったと痛感しました。
 今日、大原論文で「党と階級の一体性」が語られている中で考えると、当時のドイツ社会主義労働者党と労働者階級とが密接にむすびついていたという現実は、今日的にとらえ返してみると、「そういう現実があるにもかかわらず、なぜ合同が行われたのか」という疑問が湧いてくるが、党と階級との一体性は、無前提的にある考えではないのだと思うし、党と階級とのレーニン主義的な歴史的経験を経てはじめてたどりついた思想的地平なんだと思う。そういう意味では、当時のドイツの状況は、階級闘争的には未成熟なのかもしれないと思います。

【O】

1)今回も、マルクスの徹底した「ゴータ綱領批判」が展開された。階級の党はどうあるべきか、いい加減な党の合同=統一は許さないし、そんな党は勝利できないことを鮮明にした。
 ここでも、マルクスのリアルな共産主義論と、それに基づく階級闘争論が語られている。(ある意味でビスマルクとラサールの密約を見抜いていたような)
2)プロレタリアートが階級闘争の主人公であり、新社会建設の担い手であることを明らかにし、共産主義論が提起されている。スターリン主義の「生産力第1主義」を粉砕し、マルクスの限りないプロレタリアートへの信頼=確信が述べられている。
3)ロシア革命における「過渡期の現実」、ここにおけるコミューン4原則の現実的適用のたたかいなどもわれわれの課題としてある。(世界革命と国内建設、官僚制の問題)
4)率直に感じたことは、われわれ自身の時代に大きく制約された自己の観念のあまりの狭さを感じた。理論(=対象化された現実、現実の対象化)の重要性は決定的な力であることを再確認する。
5)同時に、たたかうアメリカ労働者のスローガンに見られるように、労働者階級の階級本能に基づくような素晴らしいスローガンを作ることが、いよいよ求められている。(動労千葉の「闘いなくして安全なし」的な)
6)党学校に参加し、各テーマの講義が全部つながっていることも、大変勉強になっています。
 マルクス理論がレーニンに引き継がれ、われわれのたたかいの手本となっている。あくまでもいかにマルクス主義・レーニン主義を戦闘的にたたかいとっていくか、これは依然として、階級闘争の第1級の課題である。

【E】

 革命的情勢の全世界的切迫という現在の情勢の中で、『ゴータ綱領批判』の中でうち出している内容は、決定的に光を放っている。
 「共産主義」は、遠い将来の社会のあり方として考えるのではなく、まさに、政治支配をたたかいとった労働者階級がただちに、与えられた材料と条件をもって、建設しはじめていく社会のあり方としてとらえられている。「資本主義から生まれたばかりの共産主義」というつかみ方が重要だと思います。
 労働者階級の進むべき道を、具体的イメージをもってさし示している。労働者階級はいかなる社会の建設を目指して闘うのか、を明らかにしていることは、労働者階級の獲得と、その闘いへの決起を実現していく上で、決定的に重要です。
 スターリン主義をのりこえ、労働者階級が社会の主人公として登場していく現実的勝利性、必然性を積極的に明らかにしていくことは、今決定的になってきていると思います。

【C】

▽ゴータ綱領が、新指導路線反対派のそれに見えてくる。
▽これまで『ゴータ綱領批判』は、自分にとって「綱領の重要性」というものを抽象的に確認することにとどまっていた。しかし今回初めてトータルに批判できた。
 それで、私もY君の様に「なんでこんな壊滅的な批判をうけた綱領が採択されたのか」という疑問をもった。(それは解消された)
▽実際には、ドイツの党はこの批判を事実上うけいれずに合同していき、その後変質していく。
 「綱領をとるか、運動をとるか」という状況になった場合、どっちをとるかは現実の政治をみない限り判断できない難しい問題だが、マルクス/エンゲルスの批判はきわめて鋭く正しいと思う。
▽いずれにしても、『ゴータ綱領批判』は、今の我々の現実の闘いと様々な面でオーバーラップして得るところ多かった。