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2006年11月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『ゴータ綱領批判』(上)

講義概要 P1-5

★-講師の感想 P5

受講レポート P5-8

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-5 講義概要

第4課目 マルクス『ゴータ綱領批判』

   前半講義概要  講師 畑田 治 

〔1〕なぜ『ゴータ綱領批判』を学ぶか

 共産主義社会は、階級的搾取と階級の存在そのものを廃止した社会ですが、マルクス『ゴータ綱領批判』は、この「共産主義論」を「労働者自身の階級的自己解放闘争論」として展開しています。ここが、資本主義に対する部分的批判や、道徳的弾劾にとどまる空想的社会主義や、小ブルジョア的な共産主義論との違いです。
 共産主義論は、だれか特定の個人の頭の中で構想されたものではないこと、資本主義の中にはらまれている矛盾そのものが、共産主義社会を必然的に準備すること、プロレタリア階級闘争をとおしてこの資本主義社会は、必然的に、より高次の社会に移行する以外にない。このことをつかむことが重要だと思います。
 マルクスは『フランスの内乱』(1871年)では、次のように言っています。 「プロレタリアートは何らかの理想(空想)を実現するのではなく、崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものがはらんでいる新しい社会の諸要素を解き放つのである」
 いま帝国主義の危機、その歴史的行き詰まりが全面的に露わとなってきている中で、共産主義社会の建設をリアルな課題として、自らの手で実現すべきものとしてとらえる必要がある。ここに『ゴータ綱領批判』学習の意義もあるのではないでしょうか。
 ところが、日共スターリン主義は、世界革命の課題の大きさ、その飛躍性、困難性の前にたじろぎ、ソ連スターリン主義の崩壊によって綱領的破産を深め、共産主義の実現を永遠の未来(実際上の実現不可能論)に押しやっています。
 日本共産党の不破委員長は日本共産党23回大会(2004年)での綱領改定をめぐる討論で、「市場経済を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である」「人類の本史、一大躍進の時代は数百万年続き、数十万の世代が生まれては死ぬだろう」と言っています。これは共産主義社会のことではなく、資本主義の永遠の発展の彼方に社会主義があらわれるとするものであり、プロレタリア革命の否定論です。
 「共産主義不可能」論を大衆的階級的にうち破り、現実の労働運動・理論の中に生き生きと復権させていくことは階級闘争の重要テーマです。

〔2〕『ゴータ綱領批判』が書かれた歴史的背景

 『ゴータ綱領批判』は、1875年に、マルクスがドイツの社会民主労働者党(アイゼナッハ派)の指導部にあてて送った手紙です。
 当時、ドイツにあった2つの労働者組織、ドイツ労働者協会(ラサール派)とドイツ社会民主労働者党が、ドイツ労働者階級の勃興の中で合同に向けての協議を開始しました。ラサール派は、時の国家権力にきわめて妥協的・屈服的でした。アイゼナッハ派は、国際主義・階級的な立場を明確にしており、マルクスの影響下にありました。
 1875年、マルクスとエンゲルスは初めて合同綱領草案を見ました。ラサール派へのあまりの妥協・屈服ぶりに、「一体、ドイツの指導部は何を考えているのか!」と激しく怒ったのです。合同そのものに反対し、怒りの返事をドイツの指導部に送りました。それが『ゴータ綱領批判』です。
 マルクスとエンゲルスの怒りと危機感は、どのようなものであったか。
 1871年のパリ・コミューンは、世界史上初めてプロレタリアートが国家権力を握ったものです。2カ月余りで壊滅させられましたが、この闘いの地平を引き継いで前進していくことが、この段階のプロレタリアートの課題でした。ところが、そういった地平とはまったく無関係に、圧倒的に後退した綱領の内容で、合同をやろうとしている。とんでもない、というのがマルクス、エンゲルスの怒りだったのです。
 マルクスはブラッケあての手紙で、「私の信念によればまったく唾棄すべき、党を堕落させる綱領を、たとえ外交的沈黙によってにせよ承認しないことは私の義務です」(国民文庫版p14)と書いています。
 しかし、マルクス、エンゲルスの批判・忠告を基本的に踏みにじって、ドイツの指導部は合同に向かっていきました。1875年にドイツ社会主義労働者党が結成されましたが、採択されたゴータ綱領は、ほとんど草案と変わらない中身です。
 社会主義労働者党はその後、分裂はせずに大きくなっていきました。後のドイツ社会民主党です。
 1878年にビスマルクの社会主義者取締法が発布されました。これは社会主義的な結社を禁止し、集会・出版を制限したものです。アメとムチの政策で、一方で厳しい弾圧を加えながら、他方で議会主義、合法主義の方向に導いていくものでした。1890年、社会主義者取締法は廃止され、社会主義労働者党はハレ大会で「ドイツ社会民主党」と改名し、翌91年、エルフルト綱領を採択しました。エンゲルスは、合法主義と日和見主義が社会民主党の中に非常に強力に根を張りつつあることを心配し、批判しました。それが「エルフルト綱領草案批判」です。
 同時にエンゲルスは、党幹部によって秘密にされてきた16年前のマルクスの『ゴータ綱領批判』を自らの手で公表しました。党が進もうとしている方向を危惧し、“マルクスの原点に戻れ”と叫びたかったのです。
 その後、ドイツ社民党は第2インターナショナル(1889年結成)の中心勢力になりましたが、その過程は同時に合法主義と日和見主義を全面的に開花させていくものでした。第1次世界大戦(1914−1918年)では、バーゼル宣言(1912年)を踏みにじり、政府の軍事予算に賛成し祖国防衛主義に転落しました。
 これに対してレーニンは、激しい批判と闘争を展開しました。『国家と革命』は、『ゴータ綱領批判』のとらえ返しの作業です。『ゴータ綱領批判』をいかに実践的に適用・貫徹するかという立場から書かれています。レーニンは、これを徹底的に自分のものにし、確信を持ったことによって、ロシアのプロレタリアートとともに十月武装蜂起に突き進むことができたのです。

〔3〕資本主義下の賃金労働をどうとらえるか

 綱領草案の次の文言から、マルクスの批判は始まります。
 「労働は、すべての富とすべての文化の源泉である」
 マルクスはこれを「この決まり文句は、あらゆる初歩的入門書に見られるが、…ある言葉が意味をなすための前提条件に口を閉ざすようなブルジョア的な言い方をしてはならない」(解説本第2版p173)と言って批判します。
 批判のポイントは、2点あります。
 (1)労働だけがすべての富の源泉ではない。労働×自然としてとらえる。唯物史観の基本を確認する。(こうとらえたときに、労働者が自然を奪われていることの問題もはっきりする)
 (2)資本主義社会における労働の美化。無条件賛美。搾取の捉え方の欠落。問題はただ、分配の不平等にあるかのような。
 第1点について。「労働はすべての富の源泉ではない。自然もまた労働と同じように、使用価値の源泉である。(実際、そういう使用価値から物的富は成り立っているではないか!)」(同p172〜173)と言っています。
 ここでは、マルクスは唯物史観の基本的考え方を確認しています。
 人間労働は自然素材または(すでに加工された自然素材としてある)労働手段や労働対象と結合することによって、初めて成り立つ。しかし、この当たり前のことを無視して、どうして労働だけを「富と文化の源泉」だというのか? 「ブルジョアが、労働には超自然的な創造力がそなわっていると言いたてるのには、それだけの理由がある」(同p173〜174)
 資本主義社会では、自然にたいして「はじめから所有者として振る舞う」ことができるのは、ブルジョアジーだけである。全自然が資本家階級の独占的所有物である。しかし、資本家階級には労働力がない。自然を所有しているだけでは何ものも生み出さない。富を生み出すためには労働力が必要である。だから、資本家にとっては、労働または労働力があらゆる「富と文化の源泉」となるのです。
 一方、プロレタリアートにとっては、どうなのか。まったく、そうではない。これが第2点目の批判です。
  「労働が自然によって制約されている結果として、自分の労働力以外になんの財産も持たない人間は、どんな社会的・文化的状態においても、客体的労働条件の所有者となった他の人間の奴隷となるしかない…彼らが許可したときだけしか生存することができないのである」(同p174)
このように見てきたら、「労働は、すべての富とすべての文化の源泉である」と、労働を超自然的に美化した言い方は、完全にブルジョアジーの発想であり、奴隷所有者の発想でしかないことがはっきりする。
 マルクスは続いて、綱領草案の次の個所を批判します。
 「そして有益な労働は、ただ社会において、また社会を通じてのみ可能であるから、労働の全収益は、平等な権利にしたがって、社会の全構成員に属する」
 マルクスは、「この命題は、これまでのあらゆる時代に、その時どきの社会のあり方の擁護者によって主張されてきた」(同p176)と批判しています。
 「社会の全構成員」の「平等な権利」を主張するとは、「資本家の搾取の権利」を擁護することにしかならない。「労働者と資本家とが生産物をそれぞれのいろいろな形成要因の割合に従って分け合う一つの協働関係という間違った外観」(『資本論』)に沿って、「平等な権利」とか「公正な分配」を言いたてているに過ぎません。
 今日的に言えば、「労働分配率」「利潤率」という考え方です。「生産物のうちの労働者の取り分、経営者の取り分、出資者の取り分」というような表現、外観です。搾取を覆い隠すものでしかないのです。だから綱領では「平等」とか「公正」というものに対する根底的・階級的な批判がなければならないのです。
 マルクスは以下の文章を対置しています。
 「自分で労働しない者は、他人の労働によって生活しているのであり、その文化もまた、他人の労働の犠牲の上に成り立ったものなのである」(同p174)。「労働が社会的に発展し、それによって富と文化の源泉になるにつれて、労働者の側の貧困と荒廃、非労働者の側の富と文化が発展する」(同p176)
 『哲学の貧困』では「富が生産されるのと同じ諸関係の中で貧困もまた生産されるのだ」と言っていますが、これが、今までの全歴史の法則なのです。今の世界と日本の現実−格差社会、ヒルズ族とワーキング・プア−を見ても、このことはまったく真理ではありませんか。
 マルクスは次のように続けます。
 「『労働』とか『社会』とかについて一般的な決まり文句をならべたてるよりも、次のことをはっきりと論証すべきだったのだ。すなわち、ついに現在の資本主義社会の中で、このような歴史的災厄を打ち破る能力を労働者に与え、また打ち破らざるをえないようにする物質的その他の諸条件がどのように生み出されてきたかを示すということである」(同p177)
 プロレタリアートは、単に搾取され、支配されるだけの惨めな階級なのではない。資本主義をうち破り、搾取のない新しい社会をうち立てる階級として生まれてきた。このことを、党の綱領の中でもはっきりさせるべきだということです。
 マルクスは、ゴータ綱領草案が、ラサール派の「鉄の賃金法則」などという誤った見方を取り入れて、「絶対的な過剰人口ゆえに低賃金は仕方のないことなのだ」と、賃金闘争と労働組合の意義を否定する論を振りまいていることを批判しています。ラサール派の主張は、「国家の援助による協同組合」であり、国家にすがって労働者に有利なものを引き出してくるというものです。労働者階級自己解放の思想と実践の否定論です。その屈服した思想がゴータ綱領草案のベースにはあるのです。  (前半講義了)

党学校通信 p5 講師の感想

講師の感想−前半講義を終えて

 「労働は、すべての富とすべての文化の源泉である」。マルクスの批判は、このゴータ綱領草案の冒頭部分への批判から始まります。
 実際、労働こそ人間の生活と文化を豊かにするはずのものなのに、資本主義のもとでは、額に汗して働く者が失業や貧困の恐怖から逃れられず、自分では働かない資本家が富を蓄積して労働者支配を強めていく。それはどうしてなのか。冒頭の言葉は、社会の現実に照らしたときに、あまりにも美辞麗句すぎないか。『ゴータ綱領批判』は、資本主義社会の常識、「平等・公正」などの決まり文句の虚偽を暴き、労働者階級にとっての真実と闘いの方向を「綱領批判」の形で私たちに示しています。
 労働者階級の自己解放の論理としての共産主義論を、『ゴータ綱領批判』を手がかりに、今日的に生き生きと復権させ深めていくことが重要と思います。講義と討論の中で、この課題に挑戦していきたいと思っています。

党学校通信 p5-8 受講レポート

受講レポートから ★『ゴータ綱領批判』(上)のレポートです。

【K】

▽ 久しぶりに『ゴータ綱領批判』を読んだが、今日的な議論の中で、大原論文の地平で読み直していくことが、極めて重要だと思いました。
 1871年パリ・コミューンの闘いの地平の中で、プロレタリア階級自身が革命的労働者党を闘いとっていく格闘そのものとして、ゴータ綱領をめぐる論争を読み返す、ということではないかと思う。
 これまでは、『ゴータ綱領批判』については、ラサール派とマルクス派(アイゼナッハ派)の指導部間の論争という視点から、労働者階級の指導部間の党派闘争、論争という受けとめ方が、自分としては強かった。
 そうではない。1848年の革命(その激動の渦中からでてきた『共産党宣言』)と敗北、『資本論』を生み出す格闘、さらに1871年パリ・コミューンの快挙と、その地平を守り発展させ、革命に勝利する労働者党を必死で打ち立てようとした闘いとして、『ゴータ綱領批判』を読む必要がある。
 階級闘争の大地に立って、それを必死に一歩でも前に進める(一歩の後退も許されない)という闘いとしてマルクスの批判がある。そう読んでいくと、その意義が、自分としても、生き生きとはっきりしてくる。
▽ ワーキング・プア、格差社会についてのわれわれの批判も、これぐらいの鋭さでやらないと全くダメですね。ラサール的な、没階級的、ムード的批判というレベルのものが、まだまだ多い気がする(自分も含め)。ここを本当に突破したら、ものすごい獲得性と求心力を、革共同が持つことは明白だと思いました。実践的に火急の課題であるということだと思います。

【O】

1)『ゴータ綱領批判』は、パリ・コミューン(1871年)の総括から生まれ、ロシア17年革命の力強い理論的裏付けとなった革命の実践書である。同時に、プロレタリア革命の最良の理論書である。(共産主義社会の現実的な設計計画でもある)
2)『ゴータ綱領批判』(前半)の中で、やはり決定的に重要なことは、賃労働と資本に関する革命的暴露のたたかいの重要性です。この関係が搾取関係であり、非和解的な敵対関係にあることを全面的に明らかにすることにあること。
3)階級(闘争)と党の関係における確認。文字通りプロレタリア階級の血を流してきた中で、マルクスの決起、そしてマルクス主義が形成されたこと。ここの確認も、現在的に現在進行的に「実践と理論」の革命的関係として確認することは依然として重大な確認です。(以下の確認の重要性)
 @プロレタリア自己解放=労働者階級の解放は労働者階級自身のたたかいによって実現される。
 A労働組合の革命的役割についての確認。
 B労働者階級と党建設の関係。
 こうしたことを豊かに大きく再武装していくことが求められている。
4)結論的に言えば、階級社会(資本主義)において、プロレタリアートは、社会の主人公になれるし、ならなければ一切は解決しないことの絶対的確認。このことをマルクス主義として全面的に豊かに掘り起こしていくことに学習会のたたかいの意義があるのではないでしょうか。

5)追記。
 原則性というと「何か固く縛りつける」もののように思いますが、実際は、この間のマルクス主義学習会(党学校)で確認してきたように、非常に豊かなものを柔軟=フレキシブルにつくり出す原点になっていることです。
 マルクスの徹底武装・深化としてのレーニン。
 動労千葉の原則的たたかいのもつ普遍的な大きな広がりなど。

【C】

▽ 時代背景も含め解説して頂いて、かなりイメージがわきました。
▽ ラサール派やその他の労働者党のきわめて曖昧な文言とそれに対するマルクス、エンゲルスの鋭い反論は、見ているだけでかなり勉強になる。現実の党派闘争も、こんなものだからだ。
 様々な局面の中で、様々な人々と我々は統一戦線をつくったり、歩調を合わせて行動したりという事はよくある。綱領の取り引きはしない、というマルクス、エンゲルスの姿勢の中に革命家であり、リアリストとしてのマルクス、エンゲルスを見た。

【J】

 初めて学習会に参加して、これまで非常に長い間、独習という形で学習していたものを、新たな面から再検討することができました。
 今回特に印象に残った点は、以下の諸点です。
 1)『ゴータ綱領批判』における『資本論』とパリ・コミューンの意義。
 2)党組織論という範疇における『ゴータ綱領批判』。
  @共産主義(現実のプロレタリア階級闘争の中に在るものとしての共産主義)からとらえ返された党の在り方の問題。
  Aプロレタリア革命−プロレタリア独裁の実現という観点からの党組織の在り方。
  Bこの@、Aが共に、共産主義の党=階級の党としての在り方を示している。(共産主義を実現するものとしての党の在り方)
 3)『国家と革命』と『ゴータ綱領批判』の関係。
 4)反スタ運動形成の重要な基礎の一つとしての『ゴータ綱領批判』の意義。

【H】

 『ゴータ綱領批判』のとらえ返しという意味で大きな前提は、労働者のたたかいが革命=共産主義のリアリズム論のわれわれのとりもどしである。
 そのために、『ゴータ綱領批判』の前半部分でありますが、労働力と労働素材を取り込んでの資本の運動に対する根底的批判が、非常に重要なことだということ。当時の党でも、労働者の団結、階級闘争のとらえ方の根底からの歪みを、マルクスが全力で、労働者の闘いとマルクス主義の深化の下で批判したこと。これを改めて対象化すること。今回の講義の核心のひとつとして、これを受け止めました。
 今ひとつ、労働運動の爆発をつくり出すために『ゴータ綱領批判』を起点とすること。これは、議会制を通した資本の支配の中で、直接政府・資本との攻防がリアル性をもっていることをかなり意識した闘いが重要だと思います。このつくり出しが、国鉄では、「政治解決」論のペテンを粉々に粉砕していく闘いのリアル性を、もっと確信的にとらえ返すことになる。この意味からも、『ゴータ綱領批判』のとらえ返しを今日的にしていくものとして、学習を深めていきたい。

【F】

 『ゴータ綱領批判』は、共産主義は未来のことではない。今闘われている労働者階級の自己解放の闘いである。マルクスは、そのことをはっきりさせた。『ゴータ綱領批判』は資本主義の転覆−つくりかえによって、共産主義はリアルにわれわれの目の前にあることを明らかにした。
 マルクス、エンゲルスはゴータ綱領を見て、労働者階級は今日では、パリ・コミューンを闘いとっているではないかと批判したではないか。
 『共産党宣言』−『資本論』は、資本主義−賃金制度とは何かを明らかにし(現実の共産主義)、労働者階級の歴史的存在・使命を明らかにしているではないか。
 ドイツの現状の社会体制を肯定していて、「労働」、「社会」、「労働収益の公正な分配」と言っても、それはブルジョア観である。
 マルクスは、ラサールらのゴータ綱領は、労働者階級の立場に立った綱領ではない、と批判した。共産主義(−プロレタリア独裁へのたたかい)は、今われわれが権力・資本と闘っている現実の運動・闘いそのものであると。

【N】

 『ゴータ綱領批判』を学ぶことの今日的な意義を明確にすることが、やはり極めて重要なことだと思います。
 今日の格差社会をはじめとする階級的現実をみる場合、なんとかしたいという欲求は死活的です。別の言い方をすれば、共産主義社会のイメージを提起することは、戦後今ほど求められている時はない。レジュメp2で、〈共産主義はむずかしくない〉という視点は、スンナリ出てくる視点だと思います。ソ連の崩壊によって、共産主義への絶望が蔓延しましたが、その意味で言えば、マルクス主義の復権という点に、『ゴータ綱領批判』の学習をすることの深い意味があると思います。
 共産主義の現実性をいかにつかむか、という点は、例えば過渡期社会の固定的とらえ方を批判していくことを通じて、われわれは理論的につかみ取った経緯があると思いますが、『帝国主義論』の独占論の具体的現実と照らし合わせて考えてみると、共産主義のリアリズムがもっとつかめるのだと思います。その意味では、党学校で『帝国主義論』をやり切った地平をいかに引き継ぐかが、『ゴータ綱領批判』を今日的に学んでいく上で重要なのではないかと思います。
 また、職場闘争という観点からも、ラサール、ウェストンの賃金闘争否定論への批判は大切で、この点をいまひとつの柱としてやることも学習会の今日的な意義だろうと思います。
 さらに言うと、『ゴータ綱領批判』は、レーニンの『国家と革命』にもつながっていくことからして、安倍政権批判や、そもそも労働者にとって国家とは何なのか、ということ、労働者の自己解放という視点から見た国家論をとらえることも意義あることだと思います。