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2006年09月号党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 マルクス『賃金・価格・利潤』A

第2回 講義概要 P1-5

★-今回の講義の強調点 P5

★ -討論から P5-7

受講レポート P7-10

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-5 講義概要

 第3課目 マルクス『賃金・価格・利潤』

  第2回講義概要  講師 岩谷芳之 

 今日は、『賃金・価格・利潤』の第7節「労働力」からです。

第7節 労働力

●賃金とは「労働の価格」という不合理な形態

 略。解説本p71〜73参照。

●労働者が売るものは労働力

 労働者は、労働そのものではなく、労働力=労働する能力を資本に売る。
 労働する能力から具体的にどのような労働を引き出すかは、労働力を買ってそれを自己の所有物とした資本の自由です。労働力を売った労働者は、資本の専制的な指揮・命令に従って労働することを強いられます。
 例えば、動労千葉が安全運転闘争をやりました。あのときに職場に、「自己の本分をわきまえ会社の命に服せ」という掲示が張り出された。これは実は、JRの就業規則にある言葉そのままです。
 「社員は、会社事業の社会的意義を自覚し、会社の発展に寄与するために、自己の本分を守り、会社の命に服し、法令、規程等を遵守し、全力をあげてその職務の遂行に専念しなければならない」
 これは、資本と労働者の関係を端的に表現していると思うんだけど、要するに、労働力というものを資本が買った以上、それをどう使おうが資本の勝手なんだというのが資本と労働の基本的な関係だということです。
 だから、極端な場合、資本は、買った労働力から具体的な労働を引き出さないことを労働者支配の手段とすることもあります。「リストラ部屋」や国鉄清算事業団などのように。
 そう考えると、労働者が資本に売っているのは労働じゃなく労働力だというのは、労働者の現実そのものを表現しているということだと思うんです。

●本源的蓄積=本源的収奪

 略。解説本p74〜76参照。

●労働力の価値

 労働力の価値も、それが商品である限り、他の商品と同じように、それを生産するのに必要な労働力によって規定されます。
 「労働力または労働能力というのは、人間の肉体、すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼が何らかの種類の使用価値を生産するときにその都度運動させるところの精神的および肉体的諸能力の総称のことである」(資本論第1巻第2編)
 まとめれば、労働力の価値は
 1)現役の労働者を個体的に再生産するに必要な生活必需品の価値
 2)将来の労働力を世代的に再生産するに必要な生活必需品の価値
 3)労働者が一定の熟練を獲得するために必要な一定分量の価値
 によって規定されます。

●賃金制度の上では「平等な賃金」はありえない

 賃金制度の上では「平等な賃金はない」というのは、労働者が熟練を獲得する費用は職種や業種によって違ってくるということが現実的な根拠となっています。
 ただ、今現にある賃金格差が全部、厳密な意味での養成費の差として説明できるわけではない。現実の労働力の働かせ方から言ったら必ずしも必要のないようなことも「養成費の差」の中に入り込んでいることもある。
 また、特殊な技能を持つ労働者として養成されるには一定の困難性みたいなものがあるわけだから、現実の労働市場の需給関係の中で差が出てくるということもある。
 それから、労働者を団結させない、労働者を分断し労働者支配を貫徹するためだけに意識的に格差をつけていくということも現実にあるわけです。
 ただ、こうした要素をすべて取り払ったとしても、核の部分では養成費の差は残る。そういう現実にあるものを無視して、「賃金の平等を中心的な要求とするのは、浅薄な急進主義でしかない」とマルクスは言っている。
 これは、賃金を資本と労働の階級的搾取関係としてとらえることに反対し、賃金制度を永遠のものと前提にして、その中でもっぱら労働者の間の「賃金の平等」や「公正な賃金」だけを求めることを要求する空想的社会主義者に対するマルクスの怒りの表現です。賃金の不平等は賃金制度の本質から不可避に出てくることであって、資本との闘いを抜きに労働者の間だけで「平等な賃金」を追い求めたら、労働者は階級的に団結することはできません。
 例えば、この間連合は、「格差社会に怒りを」と盛んに掲げていますが、連合・高木は「パート労働者との格差是正のためには、正社員の賃金切り下げも覚悟しなければならない」とメーデーなんかで平気で言うんです。そういう形では労働者が階級的に団結することはできないです。
 今いろんな形で合同労組運動が広がっている一方で、われわれの戦略的重心は4大産別決戦です。確かに、4大産別の労働者が、非正規で働いている人に比べたら相対的に高い賃金を得ているのは事実です。だけど、合同労組に結集した労働者と4大産別の労働者がどうやって階級的に団結するのかということを考えたときに、それは両者がともに職場生産点で自分の資本と闘っているということを根拠にお互いに闘っている者同士として団結し、連帯していくという関係です。
 「相対的に賃金が高い労働者が闘ったらより賃金格差が広がるだけだ」
 これは、ウェストンが賃金闘争に反対した理由の一つです。だけど、労働者の間だけの「公平」という理屈が労働者階級全体を覆ってしまったら、階級的団結は到底つくれません。労働者であるかぎり搾取されているのであって、自らの職場で、自らの生産点で、資本と闘うことをとおしてしか本当の階級的な団結は形成されないんだということです。

第8節 剰余価値の生産

●剰余価値の根拠

 労働力を再生産するために必要な労働の分量と、その労働力から引き出しうる労働の分量とは異なります。後者の方が前者より大きく、その差は資本家のものとなります。

●具体例に基づく搾取の解明、階級関係の再生産

 一人の労働者の日々の必需品の平均量は、その生産のために6時間分の平均労働を要すると仮定した場合、労働者は自分の労働力を再生産するために、日々6時間ずつ働かなければならない。
 他方、資本家は、労働者の労働力の1日分の価値を支払うことによって、その労働力を1日にわたって使用する権利を得た。資本家がこの労働者を12時間働かせるとすれば、労働者は、自分の労働力の価値を補てんするに必要な6時間を超えて、さらに6時間働かなければならない。前者の6時間を必要労働時間、後者の6時間を剰余労働時間という。
 詳しくは解説本p85〜90参照。

●剰余価値率

剰余価値率は、剰余価値と労働力の価値との割合として示され、それは剰余労働時間の必要労働時間に対する割合に対応しています。これこそが実際の搾取の比率を端的に表しています。

第9節 労働の価値

●労働力の価値または価格は、必然的に「労働の価値または価格」として現れる

 「労働の価値または価格」という形態は、真実を覆い隠すものですが、どうしてもそのように現れてくる必然性を持っています。
 @労働力を売るといっても、労働者は具体的・現実的に労働することによってしか、資本に労働力商品を引き渡すことはできない。
Aまた、労働者は本質的関係としては、労働力を売ってから労働するが、賃金を支払われるのは実際に働いたあとだから、賃金は労働の価格=労働の報酬として現れてくる。
Bさらに、賃金の支払形態は現実にはさまざまな形をとるが、時間賃金の場合、時間単価×労働時間という形で算定される。このことも賃金は労働の報酬という外観を強める。

●賃金労働

 賃金労働(労働力の商品化)は、身分的人格的束縛のない「自由な労働」であり、また労働のすべてが支払われているかのような見せかけを持っています。しかし、賃金制度は、奴隷主や封建領主の搾取とは違う「自由」な形式のもとで、階級的本質を隠蔽しつつ支配階級としての資本家が労働者から「不払労働」=剰余労働を奪い取る形態です。
 こうした賃金労働を中心軸に成立している資本主義社会は、階級社会にほかなりません。

第10節 利潤は商品を価値どおりに売ることによって得られる

 「商品に含まれている労働の一部分は支払労働であり、一部分は不払労働である。だから、……正常的かつ平均的な利潤は、諸商品をその現実の価値以上にではなく、その現実の価値で売ることによって得られるのである」(岩波文庫版p82〜83)

第11節 剰余労働が分裂する種々の部分

●地代、利子、産業利潤

 剰余価値は、地代や利子などに分解し、剰余価値の一部が産業利潤または商業利潤として事業を行う資本家の手元に残ります。この産業利潤や商業利潤は、資本所有そのものから生まれる利子とは区別されて、事業を行う資本家が自分の努力や才覚で稼いだものと観念されるようになります。
 こうして労働者の賃金=労働者の労働に対する報酬、資本家の利潤=資本家の「労働」に対する報酬、という観念が形成され、これに対応して地代=土地所有に対する当然の報酬、利子=資本所有に対する当然の報酬、という観念が形成されるのです。
 こうして搾取関係=階級関係は覆い隠されてしまいます。

●企業資本家による剰余価値の搾取こそが賃金制度の軸点

 マルクスは、地主、金貸し資本家、企業資本家への剰余価値の分配を明らかにし、資本主義社会の全体をとらえた上で、企業資本家による剰余価値の搾取こそが「賃金制度の全体および現存生産制度の全体の軸点である」(同p85)ことを確認しています。
 ここで資本主義社会の全体像を押さえることができるようになったのは、「商品の価値はそれに要した労働によって決定される」ということから問題を立てて解明してきた結果です。
 例えば、ブルジョア経済学には労働価値説がまったくない。地代、利子、労働者の賃金は、全部市場で決まっている、その市場の価値関係の差をうまく利用して企業資本家は利潤を得る、言ってみればそれだけしかない。賃金が高いとか安いとか、公正だとか公正じゃないとか、そんなことは問題にならない、とにかく市場で決まっている以上はそれに従う以外にないんだ、というのが彼らのイデオロギーです。労働者が搾取されているという関係は完全に隠されてしまうというか、そもそも問題外にされてしまっている。
 そもそも社会の中で労働とその成果がどのように配分・分配されるのかということから見ていったときに、はじめて搾取関係というのは明らかになる。だから、「商品の価値が労働によって決まるんだ」ということは、狭い意味での経済のあり方の分析からだけではなくて、実は剰余労働が搾取されてきた階級社会の歴史的な発生までさかのぼって今の社会も階級社会であるということを明らかにしつつ、はじめて鮮明になったという関係だと思うんです。

●もう一度ウェストン批判

 略。解説本p105〜109参照。

第12節 利潤・賃金および物価の一般的関係

●賃金が減少すれば利潤は増大し、賃金が増大すれば利潤は減少する

 略。解説本p109〜112参照。

●生産力が増大すれば1単位あたりの商品の価値は下落する

 略。解説本p112〜114参照。

 これらを確認した上で、マルクスは、賃金をめぐる資本家と労働者の対立・抗争が、賃労働と資本との本質的矛盾から不可避となることを明らかにする展開に入ります。 (第2回講義了)

党学校通信 p5 今回の講義の強調点

◆今回の講義の強調点◆ −講師の発言より−

 私も、『賃金・価格・利潤』や『賃労働と資本』を初めて読んだときは、労働と労働力って何が違うのかと理解に苦しみました。「大して違わないんじゃないの」っていう議論にだってなりますよね。その時は、「労働力」というのは、搾取ということを説明するためにインテリが考えついた概念装置みたいに思っていたところがあった。
 だけど、よく考えてみたら、「労働者が売っているのは労働力だ」というのは、学者が論理を追求して発見したことではなくて、労働者の置かれている現実そのものを言っている。そこに現実の階級関係が端的に示されていると同時に、支払労働と不払労働、つまり剰余価値の搾取が解明されるキーポイントになっているということです。
党学校通信 p5-7 討論から

●生徒1

 マルクスは、資本主義の賃金制度のもとでは、平等な賃金はありえないって言っているわけだけど、一方では、同一労働同一賃金っていうことがある。で、同じ職場で働いていても、正社員と派遣じゃ給料は違う。韓国ではそのことが問題になっている。この現実との関係は?

●講師

 平等な賃金ナンセンスっていうのは、別に、格差を変えるために闘うってことを全然ナンセンスだ、賃金制度を廃絶しなきゃどうしようもないんだっていうことじゃない。
 今の社会の中で、正社員と派遣、あるいは派遣だって同じ職場でも派遣会社が違ったら時給が違ったり、無茶苦茶になっている。実際にそれに対して闘うっていった時に、なんで正社員より俺ら、半分しかもらえないんだとか、そういう怒りをバネにして、そこから闘いが始まるってことだってありえるし、それは当然やらなきゃいけないことだと思うんです。だけど、その場合でも、じゃぁ正社員と同じになればいいの、っていうことはある。正社員だって搾取されているんだから。多少賃金の差があったとしても、だけどみんな労働者階級であって搾取されているには変わりない。やっぱりそこを共通の怒りの基盤にして、全体をひっくり返していく以外にない。労働者の間での平等が確立されさえすればいいんだっていうふうに問題を立てたら、やっぱりおかしくなりますよね。
 同一労働同一賃金とか、あるいは、今連合がペテン的に言っている同一価値労働同一賃金というのは、賃金の問題を考える時に、こういう賃金のあり方が社会的に公正なんだという基準を観念的に考えて、そこに到達するようにしなきゃいけないというような理屈じゃないですか。それは、「社会的に公正な基準」を頭の中でつくり出せば、自分が闘わなくても、ある種の社会的な強制力で、そうなってくれるだろうという発想でしかないですよね。だけど、そんな「公正な基準」というものがあるのだろうか? そもそも賃金は労働者が闘って力で取るものだ、っていうことが基本だと思うんです。
 派遣で働いている人たちのものすごい低賃金ということも、大きな意味で、全体の階級的力関係に規定されていますよね。だって、本当に春闘で組織労働者が毎年ベアをかちとっているというような状況の中で、お前は派遣だから正社員の半分でいいんだ、みたいな働かせ方は成り立たないですよね。組織労働者が闘いを放棄して屈服していくという中で、そういう現実が平然とまかり通っちゃっている。だから、大きく今の資本と労働者階級とのあり方を変えていくっていうこととセットで初めて派遣労働者の闘いも現実のものになっていくんだと思います。

●生徒2

 全体の力関係が変わればっていうのは確かにそうなんですけど、やっぱり今、自分がそこにいる職場でどう資本との力関係を変えていくかっていうところが、やっぱり一つあると。で、派遣の実体的中心は青年労働者で、働いても生きていけないという死活的な状況の中で、無断欠勤とか、集団でサボタージュするとかいう形で反乱がおこる。組合的に団結して、会社に対して賃上げを要求するとか、ストライキやっちゃうとか、そういうふうには簡単にはならない。でも、できればそういうことをしたいっていうことは、間違いないと思うんですよ。そういうところにもう来ている。その場合に、賃金とは何かっていう問題は、結局、賃金闘争とはどうあるべきなのかっていうことだし、職場闘争を労働者はどう闘うべきかっていうことです。マルクスはその理論的基礎になるようなことをここで展開しているんじゃないかなって、僕は非常に思ったんです。だから、同一労働同一賃金っていうのを高木みたいに解釈したら、ほとんど高木は死ねっていう感じですね。

●講師

 使う言葉の中に込めた気持ちはいろいろとあるわけだから、同一労働同一賃金っていう言葉を使ったから連合と同じだとは決めつけられない。
 さっきの派遣社員の話だと、確かに正社員と比べて賃金が安いっていうのが直接の怒りなんだけど、それがもし本当に闘いになれば、格差があるっていうことだけじゃなくて、そもそも俺たちは資本によって搾取されているっていうことに意識がいくようになるし、逆に、本当にそういう闘いを持続させようとしたら、やっぱりそこをはっきりさせないと、多分うまくいかないだろうなっていう感じがするんです。つまり、労働者の中だけで比べて、俺たちはこうだっていうだけじゃなくて、そもそもその全体が資本の搾取を貫くための攻撃としてあり、俺たちは資本によって搾取されているんだっていうことがはっきりした時に、本当に持続的な団結体をつくっていけると思うんです。

党学校通信 p7-10 受講レポート

受講レポートから  ★『賃金・価格・利潤』第2回のレポートです

【C】

 やはり「労働者が売っているのは“労働”ではなく“労働力”」というのは簡単に理解してもらうというのは難しいと考える一方で、しかし現実の労働者なら必ず理解できると思える。
 今回、剰余価値がなぜ発生する(しうる)のかは詳しくは述べられなかったが、結構重要な部分であると終わった後で思った。

【Y】

 「賃金とは何か」を明らかにすることは、「労働者階級は賃金闘争をどのように闘うべきか」を鮮明にさせることと同義であると思った。今回の学習会でとりあげられた「第7節 労働力」〜「第12節 利潤・賃金および物価の一般的関係」のくだりも、そのような問題意識を貫いて読んでいくことが重要だと思いました。
 あとは、今の労働者の現実というか、
職場の現実に根ざした議論をしていくことでしょうか。『賃・価・利』そのものは、まさに現在の労働運動(もしくは労働者階級)が直面している課題を突破していく理論的核心を提起していると思うので、討論もそうした方向でもっと深めていければと思った。

【E】

 資本主義的搾取が、正当な契約のもとで、合法的に行われていることが、資本主義社会を成立させている根本的原理である。奴隷的・農奴的搾取が、形態を変えたものに他ならない。
 資本主義が危機を迎え、その矛盾が全面的に爆発しつつある今日にあっては、その隠ペイされた搾取の真実があらわにならざるを得ない。
 そのことを全面的に暴露したものこそ『賃・価・利』であり、当時も、今も、誤った考えが流布される中で、労働者階級の賃金制度の廃絶という究極の勝利の道をさし示している。
 賃金が、労働の対価ではなく、労働力の価格、価値であることをはっきりさせたことは、決定的である。労働者の搾取に対する怒りの根拠を明らかにしている。資本主義のからくりを解明することを通して、労働者とは何かを全面的に明らかにしている。

【N】

 『賃・価・利』で、賃金とは何か?ということは労働と労働力の違いをハッキリさせることを通じて大きな意味を持ってくるが、結論的には搾取社会という本質があり、それが賃金制度という形を軸にあらわれている。従って、労働者の階級的団結もここを最深の理論的根拠にすえることが可能かどうかにかかってくると思います。その意味で、今日における非正規雇用の問題は大きい。正社員との団結をいかにかちとっていくのか、ということだ。また、講師が提起した問題も意義深い。つまり、国鉄における国労闘争団と本隊労働者の団結がカネを巡って崩れている。
 そういう問題意識をもちながら『賃・価・利』に接すると、団結のあり方が根源的に問われていると痛感する。例えば、非正規の社員よりも正社員がいいか、というと実はそうではない。膨大な非正規社員の搾取の上に、よりおそろしい搾取が正社員にもおそいかかっている、という現実をみすえないとブルジョアジーによる分断政策にからめとられてしまう。現場で同じ仕事をしていると、「同じ仕事なのに賃金が違う」ということで互いの溝が生まれていた段階から別の段階に移っている。すなわち、どちらも身体がもたない。仕事そのものがもう耐えられない、苦痛になっているということ。特に正社員はそうだ。この事実を根拠に団結できうる点に、総評時代とは違った新しい時代を感じる。まさに生きていけない、という革命的情勢だ。
 討論の中で、「仕事をやめさせてくれない」という労働相談の報告が出されたが、これは重大な兆候だと思いました。近代社会はふたつの自由から成立していて、一つは土地からの自由、もう一つは労働力を売る自由。ところが労働力を売らない自由を認めないというのは、近代市民社会=ブルジョア社会の原理が根本的に崩れているとみるのは、うがち過ぎでしょうか。
 いずれにしろ、『賃・価・利』を労働組合の団結論として読むことによって得られるものは計りしれなく大きい。というのは、これまで自分はこの本を、経済学のテキストとして読んでいた面があるということです。労働者の自己解放という観点で接近することで『賃・価・利』のマルクス主義的本質に肉薄したいと思います。

【F】

 ウェストンらは資本主義社会を自然現象のようにみていて、資本主義社会の生産様式が賃労働と資本の絶対的対立関係にあることをとらえていなかった。ウェストンは資本家に対して、賃上げの闘争をしても意味がないのだと主張した。マルクスはおおいに賃上げ闘争をやるべきである、とウェストンを丁寧に批判したのです。
 資本主義社会の商品の価値とは何か、を明らかにすることによって、労働者階級は賃上げ闘争をしなければ生きてゆけないと。商品の価値は、
 商品の価値=生産手段の価値(c)+労働力の価値(v)+剰余価値(m)
 によって構成されていることを明らかにしました。
 この等式で、v+mは、労働者が1日に生産物(商品)に付け加えた労働量(社会的労働の大いさ)です。しかし、資本家の支払う賃金はvに相当するだけで、mは搾取する剰余価値(利潤)です。ここで、vは労働者が明日もまた労働し、生きていくための生活手段の価値です。
 この等式は、賃金(労働力の価値)が上がると利潤(剰余価値)が下がることを示し、ウェストンの理論的誤りの根拠を指摘しています。資本家の労働者からの搾取率は、m/vです。
 このように、労働者と資本家は絶対的に対立しているのであり、たえず搾取されているのであるから、労働者は闘わなくては生きてゆけないのです。
 資本の蓄積運動の中で、労働者の賃金は、たえず引き下げられてくるのですから、労働者階級は労働組合を中心に断固として闘わなければならないのです。
 学校では、労働現場の現状が報告されて、討論されてよかったです。

【O】

1)今日の学習会は『賃・価・利』の核心中の核心である「労働と労働力」の違い、「労働力商品化」(=資本の搾取)について徹底的に明らかにした。労働力の商品化こそが資本の非人間性、反社会性、反労働者性、反階級性の根源であることを暴きだした。
 われわれは、この原理的核心をつかみとり、あらゆる職場で行われている資本の攻撃(大きくは「命令と服従」(=非人間的扱い)と「経済的冷遇」)に対して、職場労働者の具体的な怒りの発露と切り結んで、その怒りを組織し、たたかいを組織していこう。
2)動労千葉のたたかいの先進性。(反合・保安運転闘争の教訓化)
 資本の必然としての合理化攻撃は、いまや労働者階級のたたかいによって、資本の側の破綻点となり、資本家階級の最も弱点となっている。動労千葉の反合・保安運転闘争が、そのことを体現している。
 動労千葉の反合・保安運転闘争は、労働者階級こそが、社会的責任を全面的(根底的な「安全・安心」)に明らかにし、社会の主人公として、資本にとってかわる根本的な社会変革の担い手として登場し、たたかいぬいている闘争である。本質的にも現実的にも、労働者階級の勝利を照らしだすたたかいである。
 このたたかいの中に、本日テーマとなった「資本の労働力商品化」に対する根源的な人間性をかけたたたかい、プロレタリア自己解放の怒りの決起がある。
3)本日の討論の中で、職場闘争をいかに組織していくのかというわれわれの切実で、意欲的な討論が行われた。学習会(マルクス主義)と職場闘争が一体となって動きはじめている。実に健全で積極的な学習会となっている。理論=原理的な学習が、職場で組織活動する意欲を確実につくりだし、職場での問題に理論が応えていく学習会となっている。
 本来あるべき、政治闘争・経済闘争・理論闘争の一体的たたかいを実現し、なんとしてでも11月1万決起をたたかいとろう。

【H】

 結論的に、マルクスが労働者、労働者階級とはどういう存在なのかを、賃金、職場の実態にもとづいて相当に力をこめて説得していること。これはマルクスの闘いなくして出来ないことを、かなり真剣にうけとめなければならない。
 したがって、職場闘争を通しての団結、闘いのつくり出し等々を、この第2回の学習会で手がかりを非常に感じた。やはり個々の闘う仲間との話し合いに向けて、原理を自らのものにしていく努力が第一級の課題(今日的)と感じた。
 そのうえで、マル・エン全集を若干ひろい読みしたが、労働災害、鉄道分析、アイルランド問題、等々、きわめて今日的なことが書かれている。その中での『賃・価・利』のマルクスの提起について、次回まで、もうひとつ学習を深めて行きたいと思う。

【K】

 今日の提起では、「第8節 剰余価値の生産」という所を、階級全体に、いかにバクロしていくのかということが、中心問題である、ということをとらえ返したことが重要だった。
 提起にもあったように、現実には「賃金形態は、資本家と労働者の本当の関係を覆い隠している」(第9節)。労働力の価値または価格は、必然的に「労働の価値または価格」として現れる(→その必然性、レジュメp8)。
 それ故に、討論でも出されたが、現実の労働現場での怒りは、直接には、職制の理不尽な扱いであったり、不平不満として爆発する。どちらかというと、剰余労働の搾取に“直接”の怒りが向きにくい構造にある(残業代未払いなどのあまりにわかりやすい例は別として)。
 しかし、労働者支配から、ありとあらゆるものが、一切は剰余労働の搾取をいかに徹底的に行うかという観点からやられている。いや、そもそも、“正当な”労働契約を通して、搾取が貫徹されているのだ、ということを知った日には、プロレタリアートの怒りは、とことん爆発する、ということだと思う。
 しかし、Eさんの話のとおり、その突破口が本当にむずかしいように思うが……。