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2006年07月号

党学校通信

党学校機関紙 A4判月1回発行 頒価100円

今月の内容 レーニン『帝国主義論』

講義概要 P1-5

★-コラム P6

受講レポート P7-12

★一言解説 P12

2006年12月号
通信 バックナンバー
党学校通信 p1-5 講義概要

第2課目 レーニン「帝国主義論」

 
講義概要  講師 秋月丈志

独占論 第1章

 〈独占〉は『帝国主義論』の全体を貫くキーワードです。
 レーニンは繰り返し、帝国主義のもっとも基本的な特質(新たな段階的特質)として〈独占〉をあげています。
 独占とは、生産力と市場がほんの数個の独占体によって支配され、分割されつくしている〈状態〉を表します。

●独占の生成と発展

 独占は、きわめて高度の発展段階にある生産の集積から発生し、その生産の集積・大規模化は、鉄鋼など重工業や原料資源の採掘・生産を中心に徹底的に進みました。
 数個の大企業で一定の産業分野の生産力と市場を独占的に支配し、分割するほどに独占が進行すると、企業間相互の協定(生産と市場の独占)が可能となります。
 この独占がもたらす生産の社会化の結果は、「少数独占者のその他の住民にたいする」(岩波文庫版p43)抑圧、支配・強制であり、「独占に、その圧迫に、その専横に服従しないものの独占者による絞殺である」(同p44)。
 かくして独占の支配は確立します。この暴力性が独占=帝国主義の本性です。独占の形成過程は平和的、「純経済的」な過程ではなかったのです。
 独占による価格や生産量の「調整」も、独占がもたらす生産の社会化や技術の巨大な発展も、資本主義の矛盾を緩和したり恐慌を排除したりはしません。むしろ矛盾を激化させ、恐慌の新しい形態をつくり出します。独占が進んだ産業とそうでない産業との間の不均衡、工業と農業の発展の不均衡、技術や新産業の発展と金融投機の異常な高まりとの結びつきが、資本主義経済総体の混沌状態を強めるのです。
 この恐慌はまた「非常な程度で、集積と独占への傾向をつよめる」(同p49)。

金融資本と金融寡頭制 第2章〜第3章

 独占の形成、その真の力と意義は、銀行の役割を抜きに考えることはできません。銀行の資本の集積とその取引高の増加にともなって、銀行は、単なる「仲介者」から「資本家と小経営主との総体の貨幣資本のほとんどすべてと、またその国やいくたの国々の生産手段および原料資源の大部分とを自由にする、全能の独占者」(同p51)に成長転化します。
 銀行業務の集積、独占形成にともなう銀行による「資本主義経済の社会化」「資本配分の意識的統制」は、「なにものか」(社会主義)への過渡の現れです。しかし、帝国主義の下では「『完全に組織化された』ひとにぎりの独占者による公衆の略奪」(同p65)を強めるだけです。

●銀行と産業資本の融合

 銀行業の発展にともなう銀行と産業との緊密な結びつきの結果、「銀行にたいして産業資本家がますます完全に従属するようになる」(同p68〜69)。銀行と産業との「人的結合」が、政府との「人的結合」によって補足され、発展します。
 その結果は、銀行資本と産業資本とのますます大きな融合あるいは癒着と、他方での「真に『普遍的性格』をもった施設への銀行の成長転化である」(同p72)。これも、「なにものかへの過渡」(同p75)の現れです。
 レーニンは、「生産の集積、そこから発生する独占、銀行と産業との融合あるいは癒着−これが金融資本の発生史であり、金融資本の概念の内容である」(同p78)と言っています。
 重要なことは、レーニンは独占の意義を、産業資本の銀行資本への従属の一面的強調ではなく、双方の融合にあるとしているということです。

●金融寡頭制

 資本主義的独占体の「支配」の下では、「不可避的に金融寡頭制の支配になる」(同p78)。
 それは、参与制度による支配、子会社をとおした不正(貸借対照表、帳簿のごまかし)、様々な社会的収奪システム(会社の創立、有価証券の発行、国債等々)、不況期の整理再建事業、土地投機などをとおしてうち固められます。また、汚職・政治腐敗も必然化します。だから、金融資本は、その本質からしてダーティーなのです。
 巨大化する金融資本の活動は、国家の金融・経済政策、通商・外交政策、そして軍事・戦争政策などの諸政策との結びつきをますます必要とし、「経済機関と政治機関のうえに、従属関係の濃密な網をはりめぐらしている金融寡頭制」(同p200)が成立します。これこそが、独占の「もっともあざやかな現われ」(同)です。

資本輸出と世界分割 第4章〜第6章

 独占が支配している最新の資本主義にとっては、植民地的超過利潤の獲得や資源の独占をめざす資本の輸出が典型的となります。
 「資本を輸出する国は、比喩的な意味で、世界を自分たちのあいだで分割した。ところが、金融資本はまた世界の直接的な分割をももたらした」(同p111)。
 このような「世界の分割」は、発展の不均等性や戦争や破産などによる力関係の変化にともなう「再分割を妨げるものではない」(同p116)。
 経済的分割とならんで、またこれと関連して資本主義諸国家による植民政策が強化され、帝国主義的な世界の領土的分割・再分割のための闘争が激化します。この金融資本の植民政策・帝国主義は、原料資源、資本輸出、「勢力範囲」、そして最後に領土一般の独占・分割をめざす「資本主義的帝国主義」です。
 レーニンは、「金融資本の政治やイデオロギーは、植民地征服の熱望をつよめる」(同p139)と指摘しています。帝国主義の侵略と戦争は、経済的な諸原因を基盤にしつつも、そこから生じる政治的・イデオロギー的要因によって決定的に促進されるのです。
 こうして帝国主義が引き起こす国内階級矛盾の激化は、強烈な排外主義の政治とイデオロギーを生み出します。

帝国主義と世界戦争 第7章

 レーニンは、「独占と金融資本との支配が成立し、資本の輸出が顕著な意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、最大の資本主義諸国による地球上の全領土の分割が完了した」(同p146)とまとめられる「5つの基本的標識」(同p145)を挙げ、帝国主義を、「資本主義の発展の特殊の段階」と定義しました。この定義は、〈独占〉を軸にした「基本的な純経済的概念」(同p146)から導き出された定義です。
 レーニンは、「帝国主義と社会主義の分裂」(1916年10月執筆、12月に党非合法機関紙に発表)において、<@独占(的)資本主義であり(基本的な純経済的定義)、A寄生的な、または腐朽しつつある資本主義であり(社会的・政治的定義)、B死滅しつつある資本主義である(歴史的位置に関する定義)>という「帝国主義のできるだけ正確で、かつ完全な定義」を与えています。
 重要なことは、帝国主義段階という規定は「個々の国々の資本主義の状態」を表しているのではないということです。世界資本主義は、19世紀末から20世紀初頭にかけて世界を完全に分割し尽くし、ひとつの世界史的な段階に達しました。レーニンは、この資本主義の〈世界史的な発展段階〉を帝国主義段階と規定したのです。
 ところが、カウツキーは、帝国主義を「資本主義の一段階」と見ることを拒み、帝国主義とは「金融資本の『好んでもちいる』政策」(同p151)だとします。そして、国際カルテルや国際トラスト(今日では多国籍企業とかグローバル企業などと称されているもの)といった独占が発展していけば「一個の世界的独占」が生まれ、やがて資本主義は全世界の帝国主義の闘争の段階ではなく、その合同の段階(「国際的に結合した金融資本による世界の共同搾取」の段階)に移るという超帝国主義論を第1次帝国主義世界戦争のただ中で主張しました。
 レーニンは、この超帝国主義論を、帝国主義同士が激しい死闘を繰り広げながらますます矛盾を激化させている「現代世界経済の具体的=経済的現実」(同p154)を対置して論駁します。ここでレーニンが突きだしたのが「不均等発展論」です。
 「個々の企業、トラスト、産業部門、および国の均等な発展は、資本主義のもとではありえない」(同p193)という発展の不均等性ゆえに、必ず既存の世界経済編成は変動せざるをえない。ここから世界再分割に向けての衝動が生まれ、この経済的変動を基礎とした政治的・軍事的対立の独自的エスカレーションも発生していきます。
 この不均等発展―既存の世界分割の変動と帝国主義間の経済的・政治的・軍事的対立の激化→再分割=世界戦争の爆発という帝国主義の基本的動向は、今日までの世界史を根底的に規定し続けています。

寄生性と労働運動の2つの潮流 第8章

 寄生性論=「労働運動の内部における2つの基本的傾向と帝国主義との関係」論は、独占論とならぶ帝国主義論の要です。
 労働運動の内部にあって、日和見主義者は、帝国主義に固有の「腐朽性と寄生性」という経済的・社会的基礎と結びつき、全世界を略奪する帝国主義の巨額の超過利潤によって買収され、培養される。レーニンはこれが帝国主義段階に固有の問題であり、労働運動内における日和見主義的潮流との闘いは帝国主義段階におけるプロレタリア革命の死活的課題であることを明確に対象化しました。
 レーニンは、「日和見主義は、もはや今日では、……ある一国の労働運動における完全な勝利者となることはできない」(同p176)と言い切っています。なぜなら、帝国主義は超過利潤によって「一握りのプロレタリアートの上層分子」の買収を可能にするが、帝国主義同士の世界再分割をめぐる必死の闘争と帝国主義戦争は「プロレタリアートと半プロレタリアートの大衆をますます激しくおしつけ、抑圧し、滅ぼし、苦しめ」(「帝国主義と社会主義の分裂」)ずにはおかないからです。「帝国主義国の労働者階級全体が腐敗している」わけではないのです。
 「われわれが引きつづき社会主義者でありたければ、もっと下層に、もっと深く、真の大衆のところにはいっていくことが、われわれの義務である。これこそ、日和見主義との闘争の全意義であり、この闘争の全内容である」(同)

カウツキー批判 第9章〜第10章

 レーニンにとって、「カウツキー主義」批判は、日和見主義・カウツキー主義の労働者、労働運動への影響を断ち切るための、最も差し迫った実践的課題でした。
 カウツキーは、「帝国主義の諸矛盾の深さと、この深さからうまれる革命的危機の不可避性を塗りつぶし」(岩波文庫版p20〜21)、帝国主義の基礎の上でも恒久平和が可能であるかのように主張します。そして日和見主義的潮流との非和解的闘争に反対し、これとの統一・融合を説きます。
 レーニン『帝国主義論』の全編を貫いているカウツキー批判をとおして押し出されているのは、帝国主義にたいするマルクス主義的批判です。
 すなわち、帝国主義の諸矛盾の激化(大衆収奪・物価騰貴、農業問題、全面的反動と腐敗、排外主義と民族抑圧、戦争)を、帝国主義の経済的基礎である独占(金融資本の支配、帝国主義同士の世界分割・再分割をめぐる死闘の展開)と不可分のものとしてとらえるということです。
 カウツキー主義とは「過去のもの」「特殊なもの」ではありません。カウツキー主義批判は、きわめて現代的な、帝国主義段階における普遍的な課題であり、「ブルジョアジーによって愚弄されている小経営者と多かれ少なかれ小ブルジョア的な生活条件のなかにおかれている数百万の勤労者とをブルジョアジーから奪いかえさなければならない、プロレタリアートの党の義務である」(同p21)。
 「帝国主義との闘争は、それが日和見主義にたいする闘争と不可分に結びついていないならば、一つの空疎で虚偽な空文句にすぎない、ということを理解しようと欲しない人々ほど危険なものはない」(同p203)

●まとめと結論

 レーニンは、独占という帝国主義の経済的本質から、帝国主義戦争の必然性、寄生性と日和見主義の発生の問題を解明し、「より高度の社会=経済制度(共産主義)への過渡」「死滅しつつある資本主義」「プロレタリアートの社会革命の前夜」という帝国主義の歴史的地位に関する定義をしています。
 資本主義における「生産力と生産関係の矛盾・衝突」が、帝国主義段階において極点に達し(経済的・政治的諸矛盾の先鋭化・世界戦争)、その中で階級闘争が徹底的にたたかいぬかれ、〈資本主義から共産主義への世界史的過渡期の時代〉つまりプロレタリア世界革命の時代が嵐のように進む。
 そして、プロレタリア革命の勝利、プロレタリア独裁権力による金融資本の解体・ブルジョアジーの収奪をとおしてはじめて、独占が生み出した「生産の社会化」は、共産主義を実現する物質的諸条件となります。
 レーニンが最後の結論として言いたかったことは、世界戦争を引き起こすにいたった帝国主義の中に新しい社会=共産主義への移行を実現する諸条件が成熟しきっていること、プロレタリア革命の現実性は、すぐ目の前にあるということです。 (了)

 講義は、第1章〜第6章と第7章〜第10章の上・下2回に分けて行われましたが、一括して掲載しました。

党学校通信 p6 コラム

コラム 野口正敏

 レーニン独占論と宇野弘蔵の帝国主義論について

 レーニンの『帝国主義論』をどう読むのかは、われわれが日本共産党、スターリン主義と決別して革共同をつくってくる過程で、さらにカクマルと決別し、今日のわれわれをつくりあげてくる過程で、この理論的作業なしには今日の革共同の綱領的立場はないといっていいほどに決定的な理論的作業でした。
 その中で、宇野弘蔵の果たした役割というのは、あえて言えば決定的に大きかった。全世界でスターリンが絶対的な権威をもっていた1952年にスターリン論文というのが発表される。宇野は、この論文を読んで、これはマルクス、レーニンの理論とは違うと指摘しえたほとんど唯一の学者でした。
 その上で、宇野は、経済学者、大学の先生で、実践には非常に興味を持ってはいたけど実践家ではありませんでした。そういう立場から、一つの経済学−政策論として、『帝国主義論』の論理を純化させていきます。
 これに対して、レーニンの理論的出発点はきわめて実践的で、今目の前で戦われている帝国主義世界戦争とはいったいなにものなのか、プロレタリアートはいかなる実践的立場をとるべきなのか、ということを明らかにするために書かれたのが『帝国主義論』なのです。だから、学者的整合性を求める立場とは違います。
 レーニンは、「自由競争の中から独占が生まれた」と書いています。この文章を読んで、自由競争からどうやって独占が生まれるのかということを理路整然と経済学的に説明しろと言ったら難しい問題です。自由競争からどうやったら独占が生まれるのかということだけを取り上げて理論的に説明しろと言ったら、難しいことなのです。
 だけど、レーニンの説明は、そんなことではない。現実に独占は生まれて、その独占によって世界戦争が引き起こされているという、この現実から『帝国主義論』は書かれています。
 ところが、宇野弘蔵は、論理的に独占という概念は経済的にはなじまないとしてしまいます。そして、繊維産業から重工業への移行にともなう固定資本の巨大化の中で、株式会社が生まれて銀行との癒着が進行し、と説明すれば、レーニンの『帝国主義論』での説明が、より整合的にいくのではないかと考えたということなんです。
 われわれは、マルクス主義基本文献学習シリーズ4「レーニン『帝国主義論』」(島崎光晴著)に至る理論的作業をとおして、レーニンに立ち戻って、この独占という概念をしっかりと軸に据えることによって、「レーニンの言うように自由競争と、その否定としての独占的分割・再分割戦が併存するものに歴史的に変貌(へんぼう)してきていることについて、それとして、帝国主義論の必須不可欠の決定的エレメントとして措定」(上記島崎著本p196)することができたのです。

党学校通信 p7-12 受講レポート

受講レポートから ★レーニン『帝国主義論』下のレポートです。

【T】

 本日の提起で、8、9章にポイントを置いて読みかえし、「独占論」と並ぶ帝国主義論の要として、日和見主義との闘いを据え直すことができて、大変良かった。
 これまでは、あえて言えば、第1章〜6章→まとめ7章という骨格で読んでおり、8〜9章は、今日の提起のようにはつかめていなかった。
 講師が言っていたように、新指導路線下の読み方、実践的な接近ができたので、非常に良かったです。革命論として、しっかりと読むこと〔講師が言っていた通り、自分も「反戦運動論」(帝国主義戦争の不可避性論)というものとして読んでいた〕が重要だし、そういう方向で、革命に開かれたものとして読み返していく方向性が与えられたと思います。

【A】

◇帝論が、反戦運動ではなく、プロレタリア革命の綱領としてあることが大切。
◇「党の革命」の最中に考えた(考えている)ことは、党の理論学習のミッシング・リンクになっているのは「イギリスの労働者階級の状態」(エンゲルス)だということ。これはMSL指定9文献にも入っていない。労働者の現実(搾取・収奪の現実と、労働組合運動をはじめとする労働者の闘いの双方)を私たちが掴めない、掴もうとしないこと、理論闘争における私達のスタンスの問題としてあるのではないか。レーニンの時にはプラウダなどの現場の報告がそれにあたるものだろうし、「俺鉄2」もその位置にあたるものだと思う。(ちなみに、私は「イギリス〜」をまだ読んでいない。)イメージとしては1人1人がイストとして鎌田慧のルポルタージュみたいなものを、「前進」に投稿するなどして、積み重ねていくと、やがて一定のものができるかな、と思った。
◇第三次安保・沖縄闘争の「敗北」(「」つき。沖縄人民は敗北していないが、党が沖縄人民(在本土含む)を獲得できなかったという現実)にひきつけて言えば、沖縄人民は、70年安保・沖縄闘争においても、「労働者こそが主人公」のあらわれとして、全軍労が登場して闘ったということがある。しかし、第三次〜においては、そこが結局掴めないままにきたと思う。(論じると長くなるので、問題意識だけ。)

【O】

われわれとの関係で、実践的観点の立場に立ってのレポート。
1:まず初めに、プロレタリアートが社会変革(革命)の主人公であることを政治的、経済的にも、明らかにしていくことが決定的である。これ自体が国家権力、資本の職場支配、総じて国家機構との激烈なたたかいであるが。
2:国際連帯闘争のたたかいの死活的重要性を鮮明にさせた。排外主義とのたたかい、また帝国主義内における「労働代官」を育成していく物質的根拠へのたたかいは決定的である。自国帝国主義打倒としての強力な観点を堅持した国際連帯闘争は、決定的な階級闘争の前進を切り開く(開いている)。
3:プロレタリア党の絶対的必要性(党の中身)。これも、国際性と排外主義、差別主義とのたたかいを統一的に豊かにかちとっていく党の絶対性を確認した。
4:現代、現在のカウツキーとの徹底したたたかいの死活性。これは、世界戦争の不可避性、資本(帝国)主義とのプロレタリアートの絶対的非和解の確認と「帝国主義はプロレタリア革命の前夜=死滅しつつある資本主義」を明らかにした。
5:上記理論と「国家と革命」(とくに国家論)の革命的暴露は決定的である。
6:プロレタリアが実体的にも社会の多数派であり、革命の主体であることを明らかにした。下層プロレタリアの怒り、不満を真に組織していくここにこそ、革命勝利の確信的たたかいがある。労働代官、排外主義者、差別主義者は、本質的にも現実的にも少数派である。
7:「帝国主義論=革命の現実性」として、とらえきる。「革命の現実性」をマルクスのパリ・コミューン時代として、あるいは20世紀のレーニンの帝論から、あるいはわれわれの主体的力量からとらえるのか。その物質的根拠を全面的に明らかにしたこの時代こそが、まさに「戦争と革命」の時代としてとらえきろう。

【M】

「宣言」のあたりから徐々に鮮明になってきていたが、やはり帝国主義論に至って明確な転換(正置)がはっきりしたと思う。(実際には、「党の革命」の実践によってブレークスルーしたということだと思う。)
1.独占の意義も、極限的な搾取ということがあってはじめて生きた理解となる。(現実にも、「空前の利益とプロレタリアートの現実」ということへの肉迫。非和解性の爆発的進展とプロレタリアートの決起の圧倒的現実性として)
2.実際、労働運動の現実が大前提というか、労働運動=革命運動として語られているということがリアルに迫ってくるということについてはまったく同感です。
3.ある意味で帝が「一部」ではなく「プロレタリアート全部」を買収しているかのような理解の状態を完全に打ち破って、むしろ、プロレタリアートを買収することなどできないから、一部の極端な買収(腐敗)がある。
4.「革命の現実性」はプロレタリアートの生きた存在そのものの中にあるということ。
5.「宣言」を直接に引き継ぐものとして「帝論」が読めた。
6.討論での「搾取と全世界の略奪・収奪を一体でとらえる」「ブルとプロの非和解性の爆発形態として、恐慌−そして戦争をとらえる」等々は、かなり重要な理論的意味(解答)があると思う。それは明らかに「党の革命」の実践が決定的にブレークしていると言い切っていいのではないか。

【Y】

1.自分としての「帝論」の読み方が変わった。かつて(学生の頃か)は、帝国主義戦争の不可避性についての理解にポイントがあった。今回の中では、と同時に、労働運動の中における日和見主義との闘いについて論じていることが分かった。
 今日、連合運動の中で、“この連合−組合幹部をひっくり返していく中に帝国主義打倒−革命の道がある”ということをつかむためには、「帝論」の学習・武装がすごい力になると思った。「労働者を主体にして」すべてを学び直すことがあらためて必要だと思う。
2.レポート2pにある「帝国主義段階という規定は『個々の国々の資本主義の状態』をあらわしているのではなく、あくまでも資本主義の〈世界史的な発展段階〉についての規定」という指摘は、スタの「32テーゼ」批判の核心というレポートは、“そうだったのか”とつかめた。

【W】

 『帝国主義論』がカウツキー主義・日和見主義的潮流と闘うことの重要性が、新指導路線の立場からハッキリさせた学習会だと思いました。
 8章以下の展開が『帝国主義論』の核心だと改めて思いました。帝国主義とは何なのかという経済的基礎をハッキリさせた上で、革命を訴え、反動的潮流との闘いを訴えることがいかに大切で、レーニンがどれほど必死になっていたのかを思い知らされてしまった。
 われわれは連合を内側から変革していくことを考えているが、レーニンの時代も実は同じテーマを抱えていたのだということを実感しました。組合のカネを使っていろいろと買収していくシステムなんかも帝国主義論の生身の現実だと思います。そういう点で、組合でたたかう潮流を作っていくことの必須の文献として痛感しました。
 『帝論』をこれまで、戦争はなぜ起こるかという視点で読んでいたが、帝の反動性が戦争もそうだが、根底には独占そのものにあり、その腐敗と爛熟・寄生−労働貴族、日和見主義・社会排外主義との闘いなんだということ。これに勝ちぬくことを抜きに革命は不可能だし、そういう連中との闘いに勝利するということは、プロレタリア革命そのものと一体でもあるのだというふうに理解しました。
 討論の中で、反グローバリズム運動とのたたかいの件が話されましたが、日本の労働運動の中における日和見主義運動の実体を鮮明にさせないと、打倒しようにも掛け声倒れになってしまうのではないでしょうか。その点、いろいろ資料をおろして下さい。

【C】

 『帝論』について「まっとうなマルクス主義の観点からおさえる」ことの重要性がわかった。日和見主義者との闘争が大きく出されていることの意味はかなりわかった気がする。たしかに『国革』と『帝論』は「反戦闘争のため」に読まれていたという感じだ。

【G】

 今日の学習会では、レーニンが、労働運動もっと言えば労働組合権力を支配している日和見主義・社会排外主義を完全に打倒して、革命的プロレタリアートのヘゲモニーをかちとっていくのかという問題意識を貫いて『帝国主義論』を書いたのだということが、新鮮につかめました。『帝論』におけるカウツキー批判、第2インター批判も、これまでは一般的な党派闘争の次元で読んでいたが、そうではなくて労働運動(労働組合運動)における党派闘争として行われているのだということ。第7〜第10章での論争的展開は、今日の連合指導部との闘争、日共スタとの闘争でも、その核心点において完全に通用すると思いました。

【D】

☆帝国主義段階というものが、世界体制としての段階として規定されているということは、なるほど。解放派との論争で「当時ロシアは帝国主義ではない」というものがあった。それをもってレーニン主義=革共同を否定するような。それはスッキリした。胸をはって「お前はスタか!」と言い返そう。
☆反グローバリズム潮流…ネグリ「帝国」的理論として復活するカウツキー。彼らは戦争に「抗議」はするものの、戦争を止めようとしない。「革命はムリだ、今の戦争で血が流れていることも社会が発展するために必要なギセイだ」という論理で帝国主義の暴虐を容認していく。全く許せない。提起者の言うように、米帝軍隊が13万(?)投入されようが、日本の首都圏くらいのイラクを屈服させられない。または沖縄では基地建設を止めている。戦争など止められる。だからこそ、小泉やネグリを許してはならないのだ。核心は、革命の最大の推進力を「生産力の社会化」に切り縮めるのではなく、帝の矛盾の爆発、労働者階級の怒りの爆発、闘いにこそあるということだ。
☆生産の社会化と、他方で財産は私的に動いているという中で、共産主義の物質的根拠がブルジョアジーがメチャメチャにもうけるシステムに成り下がっている状態。本当にブルジョアジーは許せん。やっぱ革命だと思いました。

【H】

 今回の8、9、10章、日和見主義、カウツキー主義との闘いを、今日、現実の闘いにふまえて、より豊かにしていくものとして勉強になった。
 時代認識として、『帝論』は自分の中で大きく位置していた。結論的には戦争→革命の大きな激動期と日和見主義との路線闘争的位置が大きかった。今回の『帝論』の学習において、プロレタリアートの現実の下で全面的にプロレタリアートが決起すること→そのことが、プロレタリア革命の中でとらえかえされる、そうした全面性をとくに、レーニンは説得的に、獲得的に8、9、10章が提起されていること。このレーニンの方法、プロレタリアートへのたたかいをあらためて接することを、このことを、今日、わかりえただけでも重要である。
 その上で、『帝論』を「レーニン主義の継承として」の党派闘争をたたかうにあたって、今日われわれの革命的努力は不可避であり、何としてでも成し遂げなければならない。今日的実践からもっと『帝論』を学びきることを、あらためて今回をバネにしていきたいと思う。

【U】

 「帝国主義」論の読み方の深化。カウツキー批判、労働運動の日和見潮流批判の観点から読むことが提起、討論されたが、これはまったく同感。カウツキー批判は、本文の論点だけでなく、カウツキー自体、ドイツ革命とワイマール体制下の役割(「第二インター崩壊」論など)と合わせて提起すると、さらにわかりやすいのではないか。

【K】

 討論の中心にもなりましたが、日和見主義との闘いということ、改めてこれまでの受けとめ方の転換を迫れるという点、新鮮な感動をおぼえました。
 とりわけ、カウツキー批判を戦争への協力・屈服、排外主義としての批判という形でみてきたと思いますが、労働者階級とどう向き合うか、労働運動をどうみていくのか、というものとしてとらえ返した点は大きいと思います。
 党の革命を推進していく闘いの中で、振り返ってみた場合、本当にわれわれ自身が労働運動−労働者階級の自己解放闘争としての運動がすえられていたのかということと同義のものです。共産主義の運動とは労働者の自己解放闘争であり、労働者階級自身の事業という点が、いま一度すえ直された提起でした。
 5月テーゼ〜6回大会、新指導路線がいま一歩行けなかった問題の根源的な突破の問題含めて、ここで出された日和見主義との対決、カウツキー思想との対決の中に真に労働者階級の獲得の展望を見いだすことができます。
 また、帝国主義が社会主義の前夜であることの内容について、あらためて今回の講義で確信を深めています。帝国主義の危機−ブルジョア階級とプロレタリア階級の非和解的対決が革命の問題として現実化しています。可能性と展望をもつ時代の到来を改めて確信します。

【F】

(1)目の前の帝国主義間戦争・侵略戦争の爆発に対して、マルクス主義者・労働者階級はどういう態度をとるべきか!! レーニンは労働者階級自己解放の立場から、独占論を明らかにし、世界革命に向かって、今こそプロレタリア革命の前夜であると闘った。(2)その闘いは、カウツキー主義−第二インターの崩壊にあって、その日和見主義・社会排外主義と徹底的に闘うことなくして世界革命・ロシア革命はない!!と決断し、帝国主義戦争を内乱へ!として闘った。
(3)レーニン・独占論は、日和見主義の経済的基礎を明らかにし、帝国主義国は資本主義の独占段階にあり、金利生活者国家になっている、労働者の一部上層部が買収されている、これと徹底的に闘わなければならないとしたのである。
(4)レーニンは、『帝国主義論』は帝国主義の歴史的地位、そこに独占(体)の「生産の社会化」をみてとり、今労働者階級の目の前に、働く場・闘いに共産主義社会の物質的基礎があることを明らかにしたのです。それは、帝国主義戦争を内乱に転化する、プロレタリアートの革命的決起−4月テーゼとして打ちだされたのです。
(結)『帝国主義論』の学習の提起は、日和見主義と闘い、我々が労働者階級の立場に立ちきって労働組合・労働運動の主流になることを鮮明にしました。
(追)講師は、第10章、帝国主義の歴史的地位で、米帝の、帝国主義の戦争が航空宇宙産業、コンピューター、医療(生物化学兵器)、化学工業等の急速な発達と大企業化(巨大軍需産業)を促すことを、提起されました。重要な提起と受けとめています。

【E】

 レーニン「帝国主義論」を現代的によみがえらせていくことの決定的重要性を改めて認識した。
 第3次世界戦争の過程に突入している中で、戦争の不可避性、帝国主義を打倒し、プロレタリア革命を実現していくために、現代社会を解明し、勝利の道筋を明らかにする上で、決定的位置をもっている。しかし、「帝国主義」という段階論自身が、革共同の党派性というような現状がある。この間、自分の関わっている団体のビラ等で、「帝国主義」という言葉を使用してこなかったが、「帝国主義」を使わずに日帝の戦争と改憲攻撃を生き生きと暴露することが出来ないと考え、使い始めている。しかし、労働者階級とのギャップもあるのではと思っている。
 労働運動における日和見主義との対決を、プロレタリア革命の成否を決するものとして、位置づけていることの重要性が、新指導路線の中ではっきりととらえられた。日和見主義の経済的根拠と、帝間争闘戦の激化の中で、日和見主義の勝利は一時的であることが明確になった。
 労働組合の既成指導部が、帝国主義の危機の中で日和見主義となっていることの暴露、労働者階級の獲得という現実的に闘っている中で、大きな意味がありました。

党学校通信 p12 一言解説 
一言解説

 カルテル(「連合」の意)は、価格や生産量などを協定し、独占価格を社会に押しつける独占団体。カルテルは、参加企業の抜け駆けを防ぎ協定をより強固にするためにシンジケート(注文・生産・利潤を分配する共同の中央事務機関)を生み出す。さらに独占が進むと諸企業は一つの新しい企業の内に解消される→トラスト(企業合同)。