ZENSHIN 2007/04/30(No2293 p10)

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週刊『前進』(2293号7面1)(2007/04/30 )

 改憲投票法案粉砕へ

 攻勢的に改憲阻止の闘いに立とう

 憲法と人権の日弁連をめざす会 鈴木達夫弁護士にインタビュー

 改憲とはまさにクーデター

 労働者解放の革命への好機

 4月13日に改憲投票法案の衆院通過を強行した安倍政権は、5月中の成立を狙って攻撃を強めている。闘いはいよいよ正念場の決戦攻防に入った。この法案の意味するものと、今、いかに闘うべきかを鈴木達夫弁護士にうかがった。(聞き手/本紙・長沢典久)

 改憲の発議へ一直線に進む

 ――改憲投票法案阻止を掲げて闘われた4・11行動を終えての手ごたえ・総括についてお聞かせ下さい。
 全国の弁護士約200名が呼びかけ、昼の国会前行動に300名、夕方からの弁護士会館講堂の集会から銀座デモへ800名を超える労働者市民が結集しました。銀座では沿道で一緒にシュプレヒコールをやる人や、デモに加わった人もいました。
 「改憲手続き法の問題は分かりにくい」とか「国民投票そのもので決着を着ければいい」という議論を克服して、法案阻止に向けた大衆的な運動の場を形成できたと思います。
 「改憲に一直線」という危機感を表現できる場がもっともっと必要です。本格的に開始された改憲阻止の闘いの出発点において、「人権擁護」を使命とする弁護士がなんとかその役割を果たせたと、みな意気が上がっています。
――戦後憲法と改憲攻撃を、労働者階級はどうとらえるべきですか?
 憲法とは、国家の骨組み、統治の基本を決め、人民はいかなる権利を有し義務を負うかを定めている最高法規ですから、当然「革命の子」であって、新たに国家権力を握った階級によってその性格は異なります。
 例えば、1789年のフランス革命による憲法と、1917年のロシア革命直後にできた憲法を比べれば明らかです。フランス革命をやったのは新興資本家階級つまりブルジョアジーでした。その憲法が前提とする社会は資本主義社会、「自由・平等」といっても基本は金もうけの自由、資本家どうしの平等であって、労働者にとっては「餓死の自由」です。
 一方、ロシア革命の主体は労働者階級です。だからその憲法は、搾取を廃止し、国際的に労働者が連帯して社会主義の建設に向かう宣言になっている。のちに、ソ連社会もその憲法もとてつもない変質を遂げますが。
 憲法を変えるには、もう一つにクーデターがあります。さきごろタイでクーデターがあり、現憲法を停止し、「新憲法」の制定に向かっている。
 結局、憲法は革命かクーデターによって変えられてきたということです。
 この観点から現行憲法を見れば、ブルジョア憲法です。憲法29条1項は「財産権は、これを侵してはならない」と宣言しています。
 しかし同時に、憲法はその資本家階級の支配にタガをはめています。日米の帝国主義強盗どうしの戦争で勝利した米英やスターリン主義ソ連が、日本が再び軍事大国として台頭することを許さないという政策をとったことが、その背後にありました。この政策は、中国革命の勝利と朝鮮戦争で転換し、警察予備隊から自衛隊への「再軍備」に至ります。
 また、2千万人の犠牲を払って日本帝国主義をたたき出したアジアの人民の闘いが、戦後日本の出発点でこうしたタガを強いたのです。
 そして、310万人の命を奪われた日本人民の「二度と侵略戦争の銃は持つまい」という決意を込めて闘われた敗戦直後の労働運動の高揚です。これは「戦後革命期」と言われているように、激しい闘いでした。
 この憲法9条のように、戦争放棄をうたい、戦力は一切持たないと定めている憲法は、資本主義大国つまり帝国主義国の中では、ほかにありません。また、基本的人権保障の手厚い条項。憲法28条では、労働者の団結権、団体交渉権、争議権が制限なしに認められています。
 自民党の新憲法草案は、こうした制約を踏み破り、まったく別の支配の原理を打ち立てるものです。しかし、資本家階級の支配が変わるわけではないという意味で、この改憲はクーデターにほかなりません。
――改憲への動きがここまで激しくなっている理由は何でしょうか?
 改憲問題というと、「よりましな安全保障は何か。非武装中立か、それとも自衛軍を持つべきか」という議論が確かに根強い。事実、自民党の新憲法草案は第2章のタイトルを「戦争放棄」から「安全保障」に変え、マスコミは「北朝鮮の脅威」を拉致問題を利用して大宣伝しています。特に最近のNHKは目に余るものがある。
 しかし、改憲問題はいわゆる安全保障の問題ではない。再び日本が侵略戦争に打って出る、そのための改憲だ。このことをはっきりさせる必要がある。
 今日の改憲攻撃の震源は、05年1月18日の日本経団連の提言「わが国の基本問題を考える」と、今年1月1日の御手洗ビジョンにあります。特に前者は、「9条と96条に改憲の対象を絞れ」と自民党に強く迫っています。いま中国に何万社もの日系企業が進出している。反日デモに対しては軍隊を送って権益を守れ、と公然と語られ出しています。
 「自衛戦争」という言い方ほど欺瞞(ぎまん)的なものはありません。明治以来十数度にわたる出兵やアジア太平洋戦争は、「日本の自存自衛のため」とされました。
 もう一つの改憲震源地は、日米同盟です。日米間の矛盾は深まりながら、しかし日本が資本主義・帝国主義として生き残るためには、アメリカの同盟者として世界中に侵略戦争を展開する以外にない。安倍政権は、イギリスやイタリアまでが動揺する中で、自衛隊のイラク駐留2年間延長を決めました。
(写真 改憲投票法案阻止へ「憲法と人権の日弁連をめざす会」の弁護士たちを先頭に国会行動に立った【4月11日】)

 改憲原案の作成が直ちに始まる

――改憲投票法案が通った場合、改憲に向けてのプロセスはどういう形で進むと考えられますか?
 この法案の末尾に「国会法の一部改正案」が加わっています。衆参両院に憲法審査会をつくり、さらにその両院合同審査会も設置して憲法改正原案を作成・起草し、各院の審査会に勧告する権限を持つ。つまり、自民党・公明党が現在圧倒的多数を占める衆議院の力関係を参議院にも及ぼして、改憲発議まで一直線に進もうとしています。
 この国会法改正は、今国会で成立すれば、秋の臨時国会の召集日から施行され、憲法審査会設置と改憲原案作成への動きが始まります。
 安倍首相は「参院選は改憲を前面に闘う」「改憲を必ずスケジュールにのせる」と言明しています。具体的改憲作業が、いよいよ開始されようとしている事態です。

 ずばり労働組合を狙い撃ち

――改憲投票法案の問題点は主要にはどこにありますか?
 「公務員等と教育者」の反対運動制限は重大です。「地位を利用」しなければ問題にされないのではという見方も一部にあります。しかし、国会審議でも、「教育者が生徒から改憲に賛成か反対かと聞かれて、理由を言って自分の考えを述べたことが親に伝われば、それは地位を利用して投票に影響を与えたことになる」と論じられています。大学で憲法学者が行う講義等も、「学術的な見解表明」ではないとされれば、禁止の対象です。
 「教育者」とは、幼稚園も私立学校も含む広範な教育労働者を指しています。その教育者は、要するに、改憲に一言も触れるな、子どもから聞かれても黙っていろ、ということです。
 これは、公務員の政治活動制限と連結した問題です。国家公務員法・人事院規則や地方公務員法によって、公務員の政治活動は大幅に制限されています。例えば、人事院規則は、禁止される政治活動の定義として「政治的目的のために職名、職権又はその他の公私の影響力を利用すること」と言っている。これでは権力の恣意(しい)で何でも含まれてしまう。
 こうした公務員の政治活動規制に違反したとして有罪とされた判例に、有名な「猿払事件」や「書道家南龍事件」があります。いずれも全逓労働者が、勤務時間外に、職場外で、氏名を名乗ることもなく、選挙ポスターを公営掲示板に張った、あるいは候補者の応援演説をしたという事案です。つまり、公務員でありさえすれば、その政治活動は違法で有罪とされてきたのです。
 この問題は、与党修正案で刑事罰はなくなったものの、同時に、原案にあった「公務員法は適用しない」という規定も削除されました。そして、改憲投票法が施行されるまでの3年の間に、どういう形で規制するかを検討するとなった。
 刑事罰はなくても、違法とはされますから、今、東京都が教員に対して行っているような行政処分はできるわけです。免職にもできます。公務員等と教育者550万人の反対運動を恐れた予防規制です。連合の有力単産の自治労と日教組の現場組合員の闘いを抑え込み、それによって連合全体を改憲推進勢力に仕立てあげる意図がミエミエです。
――反対運動を禁止されるのは公務員労働者や教育労働者だけですか?
 「組織的多数人買収罪・利害誘導罪」の新設も絶対に見逃せません。「組織により、多数の投票人に対し、憲法改正案に対する賛成又は反対の投票を勧誘し、その投票をし又はしないことの報酬として、金銭もしくは投票に影響を与えるに足りる物品その他の財産上の利益を供与」する行為、さらには「その申込みもしくは約束を」する行為も、3年以下の懲役・禁固に処せられます。労働組合であれ市民運動であれ、人びとが団結して団体として反対運動をすることを狙い撃ちにしている。
 利害誘導罪では、ずばり「組合」が条文に挙げられています。
 集会でワッペンやパンフレットを無料で配れば、「投票に影響を与えるに足りる物品の提供」と判断をされうる。労働組合が全国動員をかけて、交通費や弁当代を出したら、この罪は成立してしまう。
 こうなると、改憲反対の運動、そのための言論は、どういう形になるのか。労働組合・市民運動などの「組織」には、この刑罰の網がかけられる。大がかりで目立つのは唯一テレビや新聞のマスコミということになります。

 改憲派の有料広告は野放し

 ――国会で改憲が発議された場合、マスコミはどういう状況に置かれますか?
 国民投票法案の最初の案では、「虚偽報道」の禁止など直接にマスコミ規制を図りました。これに対してはマスコミ界も大反発した。そこで、与党はこれを引っ込めて、公営放送による改憲案の宣伝に転じた。
 これは、衆参両院に設置される広報協議会が「改憲案の要旨とその解説、公報原稿の作成、広報事務」の一切を取り仕切る。この協議会は各院10人ずつで、「各会派の議員数の比率により割り当てられる」となっています。
 他方、有料広告は野放しで資金力にまかせられます。
 ある弁護士が調べたデータを引用させてもらうと、05年9・11の小泉政権下の「郵政選挙」の時のテレビコマーシャルには、東京キー局だけで、自民党が2億6000万円、公明党が2億円、民主党が3億円、共産党が1600万円使った。社民党はゼロで、合計7億6600万円。全国で仮に4倍とすれば30億円を超える。この選挙は2週間という短期間でしたが、投票法案では、改憲の発議から投票までが60日から180日となっています。仮に運動期間を140日とすれば300億円、180日とすれば390億円になる。
 昨今流れている話では、何百億円市場の到来だと、大手広告会社が目の色を変えて動き出したと言われる。
 ことは改憲です。衆院選挙の比ではない。トヨタの年間純益が約2兆円。仮に1兆円使っても、戦争国家が買い取れれば、日本経団連や自民党にとっては安いものでしょう。
 こんな大金を労働者人民は出せるはずがない。しかも、労働者人民に残された言論手段であるビラまきが、すでに今でもあらゆる口実で日々弾圧されています。
 要するに、労働者人民が、ビラやデモ・集会で改憲について議論し運動することは許さない、ただテレビの前に座っていろ、と言っている。そうすれば圧倒的多数で改憲が承認されるだろうと、実に悪らつなことを考えている。
 だから、この改憲投票法案に反対しないで、国民投票で有権者の過半数の反対を取ればいいという考えは間違っていると思います。
 その「過半数」についても、最低投票率の定めがなく、しかも有権者数ではなく「有効投票数」の過半数ですから、仮に40%の投票率、うち無効票が10%出たとすると、全有権者の18%で「承認」されてしまう。
――民主党は、こうした投票法案を推進し、改憲にも賛成しています。
 民主党は05年10月31日、自民党の新憲法草案が出た翌々日に「憲法提言」を発表しています。その主題は「より確かな安全保障」です。現状を安全保障の危機ととらえ、より確かな安全保障というのですから、PAC3もイージス艦ももっと増強しろということにならざるをえない。「安全保障基本法の制定」とは、国際貢献の名による海外派兵の合法化です。
 さらに、民主党の改憲提言は、「日本の文化と伝統の尊重」と言う。この政治用語が天皇制を指すことは明白で、だから民主党は、教育基本法改悪で自民党案以上にひどいものを提案した。
 この民主党を支持しているのが、日本の労働者のナショナルセンターと言われる連合です。支配階級は、民主党を水路に連合傘下の数百万の労働者をまとめて改憲勢力に取り込んで、改憲の先頭を走らせようとしています。ですから、階級的労働運動の復権こそが改憲阻止のかなめです。

 自治労と日教組の決起が鍵

――改憲攻撃と投票法案に対して、労働者はどう闘うべきでしょうか?
 まず、この法案で名指しで標的とされている自治労や日教組の労働者が当事者として立ち上がることがカギだと思います。
 また、「新憲法の制定」へと戦後憲法体制を覆そうとしている支配階級の本当の姿を見抜くことが必要でしょう。「凶暴な攻撃の嵐が吹き荒れ、お先真っ暗だ」ということではけっしてない。私たちにとってこの事態は、もっと攻勢的で積極的な意味を込めて見ることができるのではないか。
 今、青年を始め、すべての労働者が生きることそのものを奪われかねないギリギリのところに追いやられています。このむごい格差、労働する者がこんなにもひどく扱われていることに、皆が怒っています。
 改憲は、日本の資本主義が行き詰まり、命脈が尽き、大企業と大銀行、支配階級がこれまでどおりではやっていけなくなった情勢で登場している。クーデターをやって、この社会のあり方、支配の形態を根本的に転換させなければ、彼らは生き延びられなくなっている。しかも、彼らは言葉の上だけでも、より自由で豊かな未来を語っているでしょうか。「自己責任」などという人民見殺しと、「朝鮮・中国憎し」の戦争動員だけではないですか。
 したがって、改憲情勢を労働者人民の側から見れば、一刻も早く彼ら支配階級にその座からお引き取り願い、彼らに取って代わって自分たちが社会の主人公になる、その絶好のチャンスが到来しているのだと私は考えます。

 戦後革命の息吹よみがえらせて

  さらに、事実としてこの資本主義の命脈が尽き、向こうもその現状打破として改憲を叫んでいるのだから、われわれの側も現状維持というわけにはいきません。労働者階級は、現憲法の出発点、いわゆる「戦後革命期」の息吹をよみがえらせ、未完のまま終わった労働者階級解放の闘い、革命を対置することだと考えます。
 それは、日本国籍者のみの人権を保障していることに典型的に現れているような、現憲法におけるアジアの人たちとの分断や、また沖縄に集中的に押しつけられた犠牲を、今度こそ労働者階級の手で打ち破り、ともに闘うことでもあります。
 最も大事なことは、労働運動を復権させ、労働運動が闘いの中心を担っていくことが、改憲阻止の成否を決する位置を持つということです。
 労働者の闘いをつぶさなければ新憲法制定に行き着かないことは、実は支配階級も自覚しているのです。中曽根元首相が、「国労を解体し総評を解散させる。それで社会党−総評ブロックを解体する。もって、お座敷をきれいにし、立派な憲法を床の間に安置する」と言って87年に国鉄分割・民営化を強行した。敗戦直後からの政治生活を「自主憲法制定」で開始した彼は、労働組合運動をつぶして翼賛化することがない限り、改憲攻撃は成就しないことを戦後史の実態からつかんでいた。
 だから、国鉄分割・民営化反対のストライキに敢然と立った動労千葉の闘いは、今につながる改憲阻止の闘いでもあったということです。
 今、階級的労働運動を闘う労働者は、連合などの「資本主義と折り合いをつける」労働運動と徹底的に対決しながら、職場で労働組合運動を復権・創造しようと立ち上がってきています。その場合、何よりも歯に衣を着せない率直な議論が、今こそ必要だと思います。
 3月18日の日比谷野音におけるイラク反戦・青年労働者集会で発せられた、「労働運動の力で革命をやろう」という宣言には、私も深く心を揺さぶられました。これは「プレカリアート」にも大きな波紋を呼び起こしています。
 現在、戦後革命期を思わず彷彿(ほうふつ)とさせるような労働組合の結成が報じられています。
 こうした闘いをたたきつぶし、労働者を絶望に陥れ、「希望は、戦争」というところに持ち込むのが改憲攻撃です。だから、改憲阻止闘争は階級的労働運動の文字どおり背骨をなす闘いです。しかも、今まで述べてきたように、その絶好の条件は生まれてきています。
 皆さん、いかがでしょうか。改憲阻止の闘いは、「労働運動の力で革命を!」の職場での闘いにふさわしい課題ではないでしょうか。大陣容で改憲阻止の攻防に立ち、元気に、攻勢的に闘って勝利しましょう。
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◆鈴木達夫弁護士略歴◆

 日放労長崎分会分会長として68年のエンタープライズ佐世保寄港阻止闘争を闘う。東京への不当配転反対闘争で逮捕・起訴休職。全国反戦青年委員会代表世話人。罰金1万円の判決確定後、NHKを懲戒免職。91年に弁護士登録。動労千葉顧問弁護団。

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週刊『前進』(2293号8面1)(2007/04/30 )

 労働運動の力で改憲阻止し日本帝国主義打倒へ

 戦後革命期の闘いと憲法

 労働者階級は廃虚の中から嵐のように帝国主義打倒へ決起した

 坂本千秋

 9条改憲攻撃の本質は何か

 「憲法を変えて日本を美しい国にする」と宣言して登場した安倍晋三政権。同じく改憲と「希望の国」を掲げて日本経団連の会長に就任した御手洗富士夫。昨年発足したこの安倍と御手洗の路線は、戦争・改憲・労組破壊にまっしぐらに突き進む路線であることがますます明らかとなってきた。改憲攻撃の本質は、日帝ブルジョアジーによる、全労働者階級人民に対する一個の反革命クーデターにほかならない。
 実は現在の憲法も、敗戦直後の革命と反革命の未曽有(みぞう)の大激突の中で、プロレタリア革命の敗北と妥協の産物として誕生した。まさに今、60年前と同様の巨大な階級的激突情勢の真っただ中で、21世紀の革命をやりぬくか否かという問題が労働者階級の前に突きつけられている。
 安倍政権を始めとする改憲派は、そのスローガンとして「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げている。第2次大戦後に制定された現憲法と、そのもとでの国家と社会のあり方の全面的な否定と破壊が、このように公然と掲げられたこと、ここに現在の改憲攻撃の、それまでとは次元の異なるきわめて重大な本質がある。
 日本の支配階級である帝国主義ブルジョアジーが今や憎しみを込めてその解体を叫んでいる、「戦後体制」とは何だったか。それは一言でいえば、1945年8月15日の敗戦を契機に、旧「大日本帝国」が崩壊した後に、旧体制に代わる新たな統治形態として打ち立てられた体制のことである。
 8・15以前の日本国家は、巨大な植民地帝国としてアジアを支配し、米英仏独など他の帝国主義列強との間で、資源・領土の略奪や勢力圏の再分割をめぐって激しい争いを繰り広げた。明治維新後の日本資本主義の発展の中で権力を握ったブルジョアジーは、労働者階級への支配を貫くために土地貴族=地主階級と同盟し、天皇を頂点とする強大な軍事独裁国家をつくりだし、そのもとで侵略戦争・世界戦争に次々とのりだしていった。その結果がアジア人民数千万人の大虐殺であり、沖縄戦や東京大空襲、広島・長崎の原爆の惨禍だった。
 敗戦は、この日本帝国主義の完全な破産を意味した。帝国主義戦争への労働者階級の怒りの爆発がプロレタリア革命に転化することを恐れた資本家階級は、この革命を防ぐことを唯一の目的に、米占領軍=GHQ(総司令部)の助けを借りて統治形態の大転換に踏み切った。旧天皇制国家の強大な軍事独裁機構の代わりに、広範なブルジョア民主主義が導入され、「主権在民・平和主義・基本的人権」をうたう新憲法が誕生した。軍国主義は否定され、天皇制は象徴天皇制に姿を変えた。そこには憲法9条という、ブルジョア国家としては特異な徹底した非武装条項さえも含まれていた。
 しかしこれは、労働者階級にとってはまったくの欺瞞(ぎまん)でしかなく、19世紀以来の日帝の侵略と戦争の歴史に終止符を打つものでは断じてなかった。戦後憲法がその看板に掲げる「平和と民主主義」は現実には、資本の搾取に対する労働者の怒りを体制内改良主義のもとに吸収して抑え込む役割を果たした。憲法9条はその裏で、沖縄に矛盾と犠牲を集中する日米安保体制を不可欠とした。日帝ブルジョアジーは、自前の軍隊による代わりに、米帝の軍事力による戦後世界支配を積極的に支えることで、日帝自身の肥大化する海外権益をもむしろ安上がりな形で守ってきたのである。
 だが今日、この戦後体制は完全に命脈が尽き、日帝はもはやこれまでどおりには労働者階級を支配していけなくなった。トヨタやキヤノンに代表される日帝の資本家階級は、彼ら自身の戦後の延命と発展を支えた体制を今や反革命的に転覆し、再び戦前型の強権的・独裁的な国家体制をつくりだそうとしている。帝国主義の末期的な危機が深まる中で、一握りの独占資本家階級が生き延びるためなら侵略戦争はもとより世界戦争でも何でもやる、それができる国に力ずくでも変えていくということだ。その中心が今日の改憲攻撃だ。
 2年前の05年、日本経団連は改憲提言を発表し、財界の総力を挙げて9条改憲の反革命クーデターに公然と突き進むことを明言した。これに対して私たちは、『改憲攻撃と労働者階級』という本を出し、「20世紀の歴史がやり残した課題に労働者階級の側から革命的決着をつける時がきた」と宣言した。「やり残した課題」とはほかでもない、プロレタリア革命の完遂による日本帝国主義の打倒である。
 1945年の敗戦直後、日本の労働者階級はまぎれもなく、革命権力をほとんどその手につかみかけていた。1917年ロシアにおける2月革命時にも匹敵するような、巨大な革命的情勢が現にこの日本に存在していたのだ。これは歴史の真実である。だが、戦後革命を敗北に導いた張本人である日本共産党を始めとして、ほとんどの人がこのことを認めず、当時の労働者階級の誇りに満ちた闘いの真実を抹殺したまま今日に至っている。それは「日本の労働者には革命をやる力がない」などという、労働組合と労働運動に対する絶望と敗北の思想をまきちらしてきた一原因ともなっている。
 3・18集会で青年労働者が訴えた、「労働運動で革命をやろう」ということは、現実離れした空叫びなどではけっしてなく、戦後革命期の労働者階級がまさに身をもって実践した闘いそのものである。私たちに必要なのは、憲法9条への賛美でもなければ、改憲阻止=日帝打倒の革命を現実の労働者階級と切り離された観念の世界でもてあそぶことでも断じてない。改憲攻撃が本格化した今こそ、60年前の労働者階級の血と汗の闘いとその思いを今日にしっかりと受け継ぎ、発展させ、彼らが直面して越えられなかった壁を断固としてのりこえて進むことである。
 改憲阻止決戦の大爆発をかちとるために、戦後革命期の労働者階級の闘いと憲法との関係をあらためて振り返っておきたい。

 T 日帝支配の崩壊と46年春の激突

 (1) 旧「大日本帝国」は敗戦と同時に内部から崩壊した

 
 

〔上〕45年10・10政治犯釈放にGHQ前で万歳を叫ぶ在日朝鮮人 〔中〕第1次読売新聞争議(10月23日)〔下〕板橋造兵廠に隠匿されていた食糧を人民配給(46年1月)

 1945年8月15日、日本は連合国に無条件降伏した。日本の同盟国だったナチス・ドイツはその前に降伏しており、ここに第2次大戦は終結した。
 それは同時に、1931年の中国東北部侵略に始まる日帝のいわゆる「15年戦争」の終結だった。また台湾出兵から日清・日露戦争、韓国併合、第1次大戦、シベリア出兵などを経て、中国侵略戦争へと突き進んだ日本帝国主義の侵略と戦争の全歴史が、最後に行き着いた破局でもあった。
 15年戦争の間に日帝の軍隊が虐殺した朝鮮・中国・アジア人民の数は、少なく見積もっても2千万人に達した。兵士として戦場に駆り出された日本の人民はのべ1千万を超え、非戦闘員を含めて310万人が犠牲になった。その大半は戦地での餓死・病死、原爆や空襲、沖縄戦での日本軍による死の強制によって命を失った人びとだった。
 この戦争を支えた旧天皇制国家の巨大な軍事機構は、降伏とともに、瞬く間に内部から崩壊していった。800万の陸海軍は、わずか数日のうちに自ら解体して消滅した。「最後の一兵まで戦え」と叫び、特高警察という名の思想警察による暴力支配で固められていたはずの国家総動員体制は、敗戦の一撃で砂のように崩れ落ちたのだ。

 戦争犯罪の隠蔽

 天皇・皇族と財閥、大地主、軍需産業に群がった資本家どもと高級軍人・官僚など、旧「大日本帝国」を支配してきた連中が、敗戦の瞬間に最も恐怖したものは何か。それは、戦勝軍=米軍による占領よりも、敗戦に伴って起こる労働者階級人民の戦争責任追及の怒りの爆発であり、革命であった。
 彼らが真っ先にやったことは、自らが行った数々の戦争犯罪についての証拠隠滅だった。8月15日の降伏から、占領軍最高司令官・マッカーサーが厚木飛行場に降り立つ8月末までの2週間に、軍と政府の手によって膨大な文書が大慌てで焼却された。日帝はアジア侵略戦争の過程で、南京大虐殺、731部隊による細菌戦や人体実験、朝鮮人・中国人への強制連行と軍隊慰安婦政策など、ナチスのユダヤ人大虐殺にまさるとも劣らない極悪の所業を繰り返してきた。その国家犯罪をつぶさに暴く記録や公文書類が、こうして卑劣にも闇(やみ)に葬られた。
 安倍は今、慰安婦問題で「軍による強制を直接示す証拠はない」などとうそぶいているが、まさに敗戦時の大々的な証拠隠滅に依拠して、この恥知らずな開き直りを図っているのだ。
 支配階級は同時に、敗戦の責任は天皇ではなく国民にあり、逆に戦争の終結は「天皇の英断」によってもたらされたという話をデッチあげ、「一億総ザンゲ」を扇動した。他方でGHQが政治犯釈放を命じるまでの2カ月間、特高警察の活動を継続し、横浜事件の例に見るように治安維持法による政治犯への有罪判決をも下し続けた。
 「国体護持」とは、当時の日帝支配階級が、他の何ものにも優先するとしてこぞって掲げたスローガンだった。その最大の核心は何よりも、天皇の戦争責任の免罪によって支配階級全体の延命を図るところにあったのである。

 (2) 大衆の飢えと困窮よそに物資略奪に走る支配階級

 崩壊しつつある天皇制国家が戦争責任の隠蔽(いんぺい)と同時にまずやったことは、独占資本家階級の救済のために、国家の保有する物資と資金をすべて放出することだった。
 降伏の前日、政府は軍需物資を「占領軍に没収される前に分配すべし」と決定。軍は秘密指令を出して倉庫に保管していた物資の緊急放出を指示した。鉄鋼、石炭、木材、繊維、油脂などの資材と食糧がただ同然で民間企業に引き渡され、あるいは軍の幹部や高級官僚の間で分配・隠匿された。敗戦時、軍の備蓄資材は平時経済の4年分を満たせる量があったと言われている。その7割が8月末までに資本家階級によって私物化されたのである。
 さらに、敗戦処理内閣として登場した東久邇(ひがしくに)内閣、続く幣原(しではら)内閣は、軍需生産にかかわった企業への未払金や損失補償金の支払いを最優先で行った。金融資本は厚顔無恥にも、戦争中に政府が銀行に約束していた総額750億円もの軍需補償金の即時支払いを要求した。その結果、日銀券発行額はうなぎのぼりに増大し、それはインフレーションの激しい進行となって労働者人民に襲いかかった。

 膨大な失業者群

 労働者階級の状態は恐るべきものであった。帝国主義戦争とその敗北は、膨大な労働者人民から住む家を奪い、職を奪い、さらに食糧始めあらゆる生活手段そのものを奪った。
 鉱工業生産は、1935〜37年平均の9%以下に低下した。当時の人口7800万人中、1300万人を超える失業者が街にあふれ、文字どおり路頭をさまよっていた。内訳は復員兵士761万人、工場廃止による解雇者413万人、中国大陸や朝鮮半島からの引揚者約150万人、計1324万人(45年末政府の議会答弁)であった。
 戦時中から始まっていた食糧の遅配・欠配は一層激しく進行した。45年の米の収穫は40年ぶりの凶作となった。配給では生活できず、闇市での価格は公定価格の40倍にものぼった。今や本物の飢餓が迫っていた。大衆は芋のツルまで争って食べ、栄養失調で死ぬ者が続出した。
 空襲で家を焼け出された人びとは、バラックに身を寄せ合うか、路上生活者となるしかなかった。6畳一間に大人と子ども合わせて7〜8人が寝起きした。被差別部落の民衆は、住んでいた部落が丸ごと消失・解体する中で流民化することを強いられた。
 ブルジョアジーによる国家財産の横領は、この労働者人民を激しいインフレの渦中に投げ出すことによって、隠匿物資の値上がりによる法外な利得をせしめるものともなったのである。人民の怒りが沸騰点に達するのはもはや時間の問題であった。

 (3) ソビエトとプロレタリア権力樹立に向けての萌芽

 戦争中に労働組合も政党もたたきつぶされ、団結と組織を完全に奪われていた労働者階級は、8・15後、確かにいったん虚脱状態を強いられた。だが餓死寸前に追いやられる中で、階級的怒りに急速に目覚め、ひとたび団結して闘いを開始するや、みるみるうちに社会変革の主人公としての本来の力を圧倒的に発揮し始めた。

 在日決起が口火

 闘いの口火を切ったのは、強制連行されてきていた在日朝鮮人・中国人労働者の決起であった。
 日帝は国内の労働者を侵略の戦場に兵士として駆り立てる一方で、不足する労働力を補うためにおびただしい数の朝鮮人・中国人を強制連行した。そのほとんどが炭鉱・鉱山や土木建設現場で、監獄同然の監視下におかれてきわめて劣悪な条件下での重労働を強制された。すでに45年の6月、秋田県の花岡鉱山で中国人労働者が虐待に耐えかねて蜂起したが、8月15日の解放は、日本帝国主義の過酷な植民地支配と民族抑圧に対する彼らの怒りを決定的に解き放った。北海道の炭鉱地帯では朝鮮人労働者らが直ちに、虐待した職制への制裁と処罰、待遇の即時改善を求めて続々と立ち上がっていった。
 朝鮮人・中国人労働者の決起は日本人労働者を階級的に目覚めさせ、励まし、団結を取り戻していく大きなきっかけをつくった。さらに10月10日の政治犯釈放とGHQによる労働組合の合法化は、労働組合の結成を一挙に促進した。
 大原社研の『日本労働年鑑』によれば、45年10月に8組合・4000人だった組織労働者の数は、同年12月末には約700組合・38万人、46年6月末には1万1500組合・375万人、46年12月末には1万7000組合・485万人と、45年秋から爆発的に増えていった。組合の結成は直ちに争議への突入となった。あるいは争議が開始されると同時に組合が誕生した。
 食糧難と激しいインフレの中で、労働者階級は闘わなければ明日生きられる保証さえなかった。賃金の即時3倍〜5倍引き上げ、8時間労働制確立、同一労働同一賃金(賃金差別撤廃)の要求は、全職場に共通していた。それと並んで「戦争責任者の退陣」「悪徳職制の追放」「職場の民主化」が一斉に掲げられた。職員と工員の身分差別を始め、それまであらゆる職場を覆っていた工場内での労働者への徹底した差別分断支配は、階級的団結の回復とともに、一夜にして打ち破られていった。職場の全労働者が丸ごと組合に組織され、組合は同時にいわば全員参加の闘争委員会となった。

 生産管理の発展

 さらに重要なのは、生産管理闘争の発展である。資本家階級はインフレを逆に大衆を犠牲にしたボロもうけの手段として、生産の再開よりも私利私欲による投機に突っ走っていた。この中で、賃金も払えない資本家にとって代わって労働者が自ら生産を管理するという闘いが急速に発展したのである。
 始まりは、45年10月の第1次読売新聞争議だった。正力社長の戦争責任追及に始まる闘いは、労働者による編集局占拠、全従業員による職場の業務管理に発展した。続いて12月には京成電鉄、三井美唄炭鉱が生産管理に突入し、46年1月に入るや、日本鋼管鶴見、日立精機、関東配電、沖電気……と瞬く間に拡大していった。新たに生産管理に入った工場は、政府に報告された数だけでも46年1月13件、2月20件、3月39件、4月53件、5月56件(労働省統計)と急増し、実際にはその数倍に達したと言われている。
 生産管理闘争は、始まるや否や、労働者階級の根源的な自己解放的エネルギーを解き放つものとなった。総同盟左派の中心にいて後に総評事務局長となった高野実の回想によれば、当時の労働者の諸要求の中には「すでに、社会変革を熱望してやまない火薬がつまっていた」。しかもそれは、「あいつも、こいつも、職制も重役もおれたちをこき使った戦犯者ではないか!」という激しい怒りと結びついていた。それを爆発させる契機となったのが生産管理への突入だった。
 「どこの職場でも、要求が沢山(たくさん)あったし、要求を出すか出さないうちに、ストライキに突込んでいた。暴動的なふんいきがあふれていた。職場の労働者にとっては、どこかに姿をかくしてしまった事業者にとってかわって、自分らの手で職場を守り抜くよりなくなった。労働者にはやれそうもない事業経営が、集団討議の中で立派にやりとげられた。労働組合が決議しさえすれば、倉庫の扉をひらくことができた。隠匿物資を掘りだすこともできた。食糧の買出しも、食糧の公平な配分もできた。――この職場の主人はおれたちだという確信が湧(わ)き上ってきた」(高野実)
 ほんの半年前までは、国家と資本の奴隷として生きることを自己の運命と思い込まされていた労働者が、逆に自分たちこそ社会の主人公という自覚と誇りをつかんだ時、闘いはまったく新たな段階に突入した。生産管理は、もはや資本に労働者の要求をのませるための争議手段の一形態にとどまるものではなく、資本を追放して職場の全支配権を労働者が握る闘い、資本の支配を根底から覆す闘いへと発展した。そして労働組合は今や、職場生産点における労働者階級の団結と闘いの砦(とりで)であるだけでなく、飢餓からの脱出を求める地域の民衆すべてをその周りに結集した全人民的な闘いの拠点となっていった。そこには明らかに、ソビエトの形成とプロレタリア独裁樹立へ向けての萌芽(ほうが)が生まれ始めていた。

 食糧の人民管理

 生産管理闘争の発展と並んで食糧の人民管理を求める闘いが始まった。すでに45年秋、労働組合の結成に先立って、路頭にほうり出された戦災者と失業者の生きるための必死の闘いが始まっていた。45年10月には渋谷駅前に5千人が集まり、資本家階級と結託した行政機関の不正・腐敗を弾劾し、「飢えと寒さで死なないための食糧や毛布の即時放出」「大邸宅を接収して家のない者に住まわせろ」と要求した。この戦災者・失業者の闘いは、46年に入ると労働組合と直に結合し、労働組合がむしろその中心にすわる中で、隠匿物資の摘発や不正配給の糾弾、食糧の人民管理を掲げた荒々しい大衆行動へと発展していった。
 46年1月には東京・板橋で、隠匿物資摘発闘争に1万人が決起した。軍の倉庫にデモをかけてその扉を開かせ、その場で食糧人民管理委員会を結成して自主配給を開始した。同様の闘いは大都市を中心に続々と起こった。関東では、2月に入ると各地の闘争組織を統一戦線的に結集して関東食糧民主協議会が設立された。そこには労働組合や戦災者同盟とともに、農民組合や漁業組合、主婦を先頭にした生活防衛のための地域の協同組合などが党派を超えて参加した。

 闘う農民と合流

 都市における食糧闘争は3月に入って、ついに農民の闘争と本格的に結合し始めた。戦時統制経済を引き継いだ国による食糧管理制度が崩壊寸前となる中で、政府は2月、緊急勅令を発して農家に対する米の強制収用に踏み切った。全国の農民は憤激し、強権供出反対の大闘争が巻き起こった。3月下旬から4月にかけ、青森、秋田、山形、茨城、栃木、山梨、長野、新潟、富山、石川、三重、岡山、福岡、大分の各県で、数千から万をこえる農民がむしろ旗を掲げて県庁を包囲した。三多摩の農民は4月8日、東京都庁におしかけ、「政府は米の代金も払わず肥料も農具も寄こさない。これでどうして働けるか!」という怒りをたたきつけた。
 農民の強権供出反対闘争は、その最先端では、都市に形成されつつあった食糧人民管理委員会への、農民組合による米の自主供出の闘いを伴っていた。三多摩の農民が掲げたむしろ旗には「都市勤労者を餓死させるな」という、労働者階級との連帯を求めるスローガンが大きく書かれていた。
 
〔上〕46年4・7首相官邸デモ 〔下〕5・19食糧メーデー

 (4) 街頭に進出した労働者と国家権力との激突始まる

 今や、個々の資本や地域の行政当局との対決を超えて、国家権力との直接対決が日程に上った。「民主人民政府の樹立」が掲げられ、労働者階級は職場から一斉に街頭に進出し始めた。

 首相官邸に突入

 最初の激突は4月7日だった。この日、日比谷公園で幣原内閣打倒人民大会が開かれた。社・共両党と自由主義者も含めた大統一戦線の呼びかけで開かれたこの集会は、目前に迫った総選挙へのカンパニアとして設定されたものだった。だが全国から集まった7万の労働者人民は主催者をのりこえて、集会終了後直ちに首相官邸へとおしかけた。国鉄5千、東芝5千、東交2千、教員組合2千を先頭とする組織労働者が警備の警官をけちらし、門を破って官邸内に突入した。警官隊はピストルを乱射したが、デモ隊はこれを袋だたきにして逆にピストルを取り上げた。6台の米軍装甲車とMP(米陸軍憲兵隊)が鎮圧に出動し、こん棒をふるってようやく解散させたのだ。
 4月12日には、生産管理弾圧反対労働者大会が開かれ、争議組合による共同闘争委員会が発足した。食糧の遅配が深刻化する中で、東京では4月下旬から5月上旬にかけ、19件の大規模な米よこせデモが闘われた。5月1日、復活したメーデーには東京で50万人、全国で125万人が参加した。皇居前広場(労働者は人民広場と呼んだ)で読み上げられた決議文は、「現在のわれわれは住むに家なく、着るに衣服なく、食うに米がない。しかも、戦争をたくらみ、戦争でもうけた憎むべき資本家、地主、官僚どもは、われわれの苦しみをぼう然とながめて、何の手もうとうとしない!」と弾劾した。「戦犯者を根こそぎ追放しろ」のスローガンが掲げられ、「人民政府即時樹立」の叫びがとどろいた。

 天皇糾弾のデモ

 糾弾の矛先はついに天皇にも向けられた。5月12日、世田谷の米よこせ大会に集まった労働者、復員兵士、子どもを背負った母親など3千人は、「天皇は戦争のため資本家地主の利益のため勅語を乱発するが、この人民大衆の苦痛と餓死状態に見て見ぬふりして豪遊している。人民大衆は立ち上った。天皇よ人間ならば人民大衆の悲痛な声をきけ、即時宮城内の隠匿米を人民大衆に開放せよ」と声明し、その場で代表を選んで皇居へのデモを敢行した。
 トラックに分乗して坂下門にのりつけたデモ隊は、皇宮警察の制止を実力で突破し、赤旗を押し立て、革命歌を歌って皇居内に進撃した。そして皇居内の台所に特上の肉や魚、白米が大量にあるのを摘発した。この知らせは怒りとともにたちまち全都に伝わった。5月19日には食糧メーデーが人民広場(皇居前)に25万人を結集して闘われたが、そこには天皇を真っ向から糾弾する、「朕(ちん)はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね」の衝撃的なプラカードが登場した。

 瓦解寸前の権力

 こうした闘いの爆発は、天皇と日帝支配階級を恐怖のどん底にたたきこんだ。4〜5月の闘いは、首都を半無政府状態に陥れていた。
 4月10日の総選挙実施後、幣原内閣が4月22日に総辞職に追い込まれて以降、日帝中枢は、約1カ月間にわたって次期政権の組閣ができないという重大な危機にたたき込まれた。政治権力の完全な空白が生じ、労働者階級の怒涛(どとう)の進撃との間に一種の二重権力状態が生まれつつあった。社会党右派を抱き込んだ連立政権工作などが二転三転した後に、最終的に吉田茂が組閣に着手するが、食糧メーデーの爆発はこの吉田を正面から直撃した。
 5月19日のデモ終了後から翌20日にかけて、各労組の代表を先頭に数千人が徹夜で首相官邸を包囲し、座り込んだ。吉田は官邸を逃げ出し、他の反動政治家どもと身を寄せ合ってふるえながら、「もはやこれまで」といったんは組閣を断念するところに追い込まれた。事態を逆転させたのは、20日朝のマッカーサーの「暴民デモ禁止」の声明であった。吉田は息を吹き返し、22日にようやく新政権(第1次吉田内閣)発足にこぎつけた。
 しかしながら、危機は何ひとつ解決せず、食糧問題の一層の治安問題化は明白だった。この危機突破のため、吉田は5月24日、天皇をNHKのマイクの前に立たせた。天皇ヒロヒトが放送をつうじて国民に直接、肉声で訴えたのは、8月15日の終戦放送とこの時だけである。放送は正午、午後7時、午後9時の3回行われ、ヒロヒトは全国民が「家族国家のうるわしい伝統に生き」「乏しきを分かち、苦しみをともに」せよと訴えた。しかしこれは逆に労働者人民の憤激を呼び起こした。天皇制の権威は地に落ち、そのイデオロギーはもはやかつての「国民統合」の力を失ってしまっていた。
 まさに、日帝権力はこの時、打倒寸前まで追いつめられ、GHQの必死の介入でかろうじて救出されたに過ぎなかった。闘いの波は一時後退するが、すぐに一層鋭い激突となって47年2・1ストへと上り詰めていくのである。

 (5) 日本共産党中央が演じたきわめて反階級的な役割

 闘いを組織する先頭に立ったのは、日本共産党員だった。しかもその主力は、労働運動の爆発の中で急速に階級的成長をとげ、45年暮れから続々と入党を開始した青年労働者たちだった。

 急拡大する党勢

 共産党の再建は、45年10月の政治犯釈放による戦前の党幹部の出獄に始まる。45年12月の党再建大会時に1083人だった党員は、46年2月には6847人となり、47年12月にはその10倍に拡大した。共産党機関紙『赤旗』は、復刊からわずか3カ月の間に、実に25万部を超えるまでに急増した。
 当時の『赤旗』は表と裏の2ページしかない新聞で、最初は週1回、46年2月からは5日に1回、47年2・1スト当時は3日に1回発行されるだけだった。だが立ち上がり始めた労働者階級は、乾いた土が水を求めるように、闘いの武器となる思想と路線を争って求めた。共産党は唯一、戦争に反対し続けた党として、その権威は他とは比較にならない大きさをもっていた。
 とりわけ労働運動への影響力は絶大だった。党の機関紙はあらゆる労働組合の中に持ち込まれ、手から手へわたされた。闘いの爆発は同時に共産党の工場細胞の建設とその拡大を伴っていた。46年8月、労働運動のナショナルセンターとして産別会議と総同盟が結成されるが、共産党指導下の産別会議は21単産162万人を結集し、社会党指導下の総同盟(85万人)をしのぐ圧倒的な勢いを誇っていた。
 46年以降の生産管理闘争の発展、食糧人民管理の闘い、4〜5月大闘争の爆発は、もはや単なる自然発生的な闘いではなかった。党の工場細胞・地域細胞が労働者階級と固く結びつき、一体となって組織的闘争を実現していった結果であった。闘いの中で党がつくられ、党がさらに闘いの前進を切り開いていったのだ。

 指導部の犯罪性

 問題は獄中から出て、あるいは亡命先から帰国してそのまま党の実権を握った徳田球一、志賀義雄、野坂参三、宮本顕治らの最高指導部にあった。
 そもそも戦前の共産党は、党としては完全に壊滅させられ、労働者階級とは無縁な存在に転落していた。しかもその思想・理論は、ロシア革命を変質させたスターリンによってゆがめられた、労働者自己解放の思想としてのマルクス主義とはまったく異質なものに染め上げられていた。だが彼らは戦前の運動の敗北についての真剣な総括を一切拒否し、「獄中18年」の権威を利用してひたすら自己の絶対性のみをふりかざすという腐敗を深めていた。
 その最たるものが、米占領軍に対する「解放軍」規定と、プロレタリア革命を否定する二段階革命論である。
 徳田らは出獄したその日、「人民に訴う」と題する声明を発表し、占領軍を「解放軍」として全面賛美した。それは、第2次大戦を帝国主義戦争ではなく「ファシズムと民主主義の戦争」と規定し、アメリカ帝国主義を「民主主義の擁護者」として美化したスターリン主義の当然の帰結であった。彼らはGHQは労働運動を弾圧しないと信じ切っており、逆に米軍が鎮圧に動き出すや否や、恐怖にふるえあがって闘争の即時中止を指令する大裏切りを、46年5月と47年2・1スト時の2度にわたって演じたのである。
 いまひとつ、共産党は日本の当面する革命はプロレタリア革命ではなくブルジョア民主主義革命だという立場を一貫してとっていた。プロレタリア革命は究極の目標に過ぎず、現実の闘いは後者の枠内にとどめるべきだとしていたのだ。そのことを典型的に示すものが生産管理闘争への対応だった。
 すなわち共産党中央は、生産管理闘争が始まった直後の11月、『赤旗』紙上で次のように言っていた。「もし資本家が不当に労働者を犠牲として高率配当を行ったり、また生産をサボるならば、工場委員会は一時的に工場管理を行わねばならぬ場合もあるであろう。しかし忘れてならないことは、資本主義下において工場委員会が工場管理を行うということは常道ではないということである。原則的には工場委員会による工場管理は民主主義革命遂行の後に行われることである。我々は当然経なければならぬ段階を飛び越えてはならない」
 ここでは、生産管理闘争の発展を資本の支配の転覆、ソビエトの形成、さらに権力奪取への一斉武装蜂起に導いていくプロレタリア革命の思想は真っ向から否定されている。だが現実の労働者階級の闘いは、それをものりこえて進むものをはらんでいた。

 U 制憲議会の攻防と2・1スト敗北

 (1) 新憲法制定と「民主主義」による統治形態の転換

 46年4〜5月の危機をからくも脱出した日帝支配階級が、帝国主義としての本格的な延命と再建への道を歩むためには、どうしても越えなければならないハードルがあった。それが新憲法の制定と議会制民主主義の導入による統治形態の大転換である。

 GHQのあせり

 危機感と焦りをつのらせていたのは、天皇と日帝以上にむしろ戦勝国であるアメリカ帝国主義=GHQの側であった。米帝は、ナチス・ドイツと結託して米英帝国主義への世界再分割戦を挑んだ日本帝国主義を、二度と自らに対抗できないまでにいったんたたきつぶすことを必要とした。だがしかし、戦後の日本にプロレタリア革命が起きることは、米帝による戦後世界の帝国主義的再建のプランを根底から危機にさらすもので、絶対にあってはならないことだった。
 すでにヤルタ協定で米帝は、ソ連スターリン主義との間に戦後世界を分割して支配する密約を交わしていた。ヨーロッパでは東欧をソ連の、西欧を米英仏帝国主義の勢力圏として確保することを互いに認める。ドイツも東西に分割する。アジアにおいては朝鮮半島を北緯38度線で分割し、北はソ連軍、南は米軍が占領する。蒋介石政権を中国の唯一の正統政府として承認し、毛沢東の人民軍は解体する。日本は連合国の名で米軍が単独占領し、ソ連は旧ロシア帝国主義が日本と争って獲得できなかった海外領土や権益をすべて譲り受ける――というものである。
 その核心は、西欧や日本における戦後のプロレタリア革命圧殺と引き換えに、ソ連の東欧支配を容認することにあった(日本共産党の路線はこれに従うものだった)。だが労働者階級と被抑圧民族人民の決起はヨーロッパでもアジアでも、帝国主義者やスターリン主義者の思惑を超えて巻き起こった。とりわけ東アジアでは、日帝の敗戦と同時に、朝鮮人民・中国人民の朝鮮革命・中国革命へ向けての怒涛の進撃が開始された。日本の労働者階級の革命的決起がこれと結合するならば、1917年ロシア革命時をも上回る巨大な世界革命情勢が一挙に生みだされるのは明らかだった。そこでは、日帝の死は同時に米帝の死を意味していた。
 これを阻止するには、一刻も早く、「上からの民主革命」によって旧天皇制国家をいったん破壊・解体して再編することが必要だった。そこに労働者人民の増大する怒りと闘いのエネルギーをペテン的に吸収して、新たな体制のもとに封じ込める以外に道はなかった。

 新憲法草案作成

 かぎを握っていたのは新憲法の制定であった。GHQは早くから日本政府に新憲法草案の作成を指示していた。幣原内閣のもとで45年10月に松本国務相を責任者とする委員会がつくられ、作業が開始されたが、その結果は明治憲法の微修正の域を一歩も出るものではなかった。危機感をもったマッカーサーは46年2月3日、GHQ民政局に、日本政府に代わって極秘に草案を作成することを命じた。民政局のスタッフが1週間の突貫作業で作成した原案が日本側に手渡されたが、それは日帝にとっては思いもかけない、大変なショックを与えるものだった。
 なぜなら、そこには、明治憲法の最大の柱であった「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」に始まる天皇大権の全面的な剥奪(はくだつ)と、象徴天皇制への移行が盛り込まれていた。代わって主権在民が宣言され、基本的人権の不可侵性と、議会制民主主義の全面導入がうたわれていた。天皇制を支えた家父長的家族制度の解体=婚姻における男女の平等も入っていた。さらに戦争放棄の第9条が存在した。
 「これは革命だ」「これでは国体は護持できない」。必死に抵抗する日本政府に、GHQは、天皇が戦争責任者として裁かれることを防ぐためにはこれしかないと説得した。民政局長ホイットニーは、日帝支配階級が「天皇を護持し、彼らになお残されている権力を保持したければ、決定的に左にかじを切った憲法を受け入れるしかない」と言い切った。
 窓の外では、労働者階級の決起がすでに日一日とその勢いを増していた。日帝にとってはもはやGHQ案を受け入れる以外の選択肢はなかった。3月6日、政府は「憲法改正草案要綱」を発表し、新憲法制定へのプロセスが本格的に始まった。

 総選挙の実施へ

 首相官邸突入闘争が闘われた直後の4月10日、戦後初の総選挙が実施された。吉田茂や鳩山一郎らの自由党が第一党を占めたが、社会党も93議席を獲得し、共産党も5人が当選した。この選挙では、女性が初めて参政権を行使し、39人の女性議員が誕生した。
 GHQはこの選挙を、GHQのもとでの「日本の民主化」を軌道にのせ、かつ世界に示す機会として重視した。その看板が婦人参政権の導入だった。
 45年秋のGHQの女性解放指令がもたらした本当の意義は、労働組合の合法化と並んで、労働者階級の闘いが一切の制動から解き放たれて爆発していく契機となったことにある。戦時下で「銃後の生産」に大量に動員されていた女性労働者は、敗戦とともに真っ先に首切りにさらされ、飢えた家族を抱えて職場で街頭で、青年労働者とともに続々と闘いに決起した。総選挙は、この決起を逆に議会主義の枠内に押し込むものだった。日帝は、家族制度解体には猛反対したが、参政権の付与は女性大衆を体制の安全弁に変える効果があるとしてむしろ支持したのだ。
 女性が参政権を獲得した一方で、沖縄県民と在日朝鮮人・中国人はそれを逆に失った。沖縄は本土と切り離され、本土でGHQによる間接統治が実施されたのとは異なり、米軍政によるむきだしの軍事支配下に置かれていた。GHQと日帝は、沖縄の声を本土に届けるその手段すら奪った。
 さらに、在日朝鮮人・中国人は「国民ではない」として、日本社会で生活しながら戦後憲法体制の外にある存在として徹底的に差別・排除された。その背景には、在日朝鮮人連盟などの闘いが、戦後革命の牽引(けんいん)車となると同時に、朝鮮革命と日本革命を結ぶ結節環となることへの帝国主義者の恐怖があった。47年5月3日の新憲法の施行は、その前日に公布された外国人登録令による、日朝人民の分断攻撃とワンセットになっていた。

 (2) 天皇の「戦争責任免罪」の代償として登場した9条

 日本国内の労働者階級の嵐のような決起と並んで、米帝・GHQが強烈な緊張感をもって対応していたのが、極東国際軍事裁判(東京裁判)の開始である。
 東京裁判は46年5月3日、日帝の政治危機が頂点に達しているその真っただ中で開廷された。この裁判は、ナチスに対するニュルンベルク裁判と並んで世界の注目を集めていた。その焦点は、日本帝国主義が引き起こした戦争の最高責任者であり最大の戦犯である昭和天皇ヒロヒトが、そこで裁かれるか否かにあった。日帝の侵略戦争によって言語に絶する苦しみを味わった朝鮮・中国・アジア人民は、圧倒的にヒロヒトへの憎しみと怒りを燃やし、その処刑を要求した。国際世論は天皇の責任追及を求めて沸騰した。
 だが米帝は、天皇を免罪する腹を早くから固めていた。労働者階級の飢餓からの脱出を求める闘いと戦争責任追及の闘いとが結合し、天皇に代表される日帝中枢こそ一切の元凶として上り詰めていった時、ただならぬ情勢が生まれてくるのは明らかであった。すでに事態はその方向に動き出していた。時間はなかった。6月18日、キーナン主席検事は天皇ヒロヒトを訴追しないと正式に発表した。その代償として用意されたのが憲法9条であった。
 憲法9条は、日本国家が二度と戦争を行わないという宣言とともに、その保証として軍隊を一切保有せず、国の交戦権も認めないことを内外に誓っていた。資本主義・帝国主義の国としては通常ありえない、国家としての自己否定にも等しい条項だった。ところが日帝支配階級は、旧天皇制国家の解体と再編には「国体護持」を掲げて激しく抵抗したが、この第9条についてはほとんどまったく争わずに即座に容認したのである。何よりも、日帝の15年戦争に対するアジア人民と国内の労働者階級人民の怒りはきわめて深かった。そこに本格的に火がつけばたちまち打倒されることを日帝自身が誰よりもよく知っていたからである。
 東京裁判での訴追を逃れるために、天皇ヒロヒト自身も必死になって動いた。46年3月、側近を集めて「自分は立憲君主として内閣と軍部の決めたことを裁可しただけだ」という、歴史を偽造する文書を口述筆記で作成した。一切は東条英機ら一部の軍人の「暴走」によるものとすることで、天皇・日帝とGHQは完全に一致していた。

 吉田の国会答弁

 6月20日から始まった憲法制定議会では、政府・与党はこぞって憲法9条を礼賛した。疑問を出したのはむしろ野党側だった。共産党の野坂参三は、9条は自衛権の放棄だと言って反対した。これに対して首相の吉田は次のように答弁した。
 「近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変しかり、大東亜戦争またしかりであります。今日わが国に対する疑惑は、日本は好戦国である、いつ再軍備をなして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分からないというのが、日本に対する大いなる疑惑であり、また誤解であります。まずこの誤解を正すことが今日われわれのなすべき第一のことであると思うのであります」
 9条はまさに、天皇と日帝をぎりぎりのところで守るための「最後の避雷針」として制定された。当時の労働者人民の闘いは、そこまで彼らを追いつめていたのである。

 (3) 労調法制定を契機とする労働運動の体制内化攻撃

 4〜5月危機をのりきった吉田内閣とGHQは、必死の巻き返しにのりだした。吉田は政権発足後、直ちに生産管理を否認する声明を出し、6月13日には「生産管理は企業組織を破壊するもので断じて認めがたい」「労働争議における暴力は断固取り締まる」という、社会秩序保持に関する声明を発表した。
 さらにGHQは、6月から開始された第2次読売争議に公然と介入した。新聞課長のインボデン少佐が自ら読売新聞社にのりこんで、全従業員の前で演説を行い、組合幹部の首切りを承認しなければ新聞社を閉鎖すると脅迫した。九州の三菱炭鉱で闘われたストライキでは、GHQがスト参加者への米の配給停止を指示。これに抗議するハンストが始まると、ハンスト中の労働者を「家宅侵入罪」で逮捕するよう警察署長に命令した。
 だが労働者階級の闘いは、弾圧を実力で突破して進んでいった。読売争議団は武装警官隊とMPによっていったん社屋からたたき出されるが、組合はこれに屈せず、すぐそばのビルに本拠を移して新聞発行を完全に停止するストライキに突入した。
 労働運動の勢いを止めるには、強権的弾圧だけではいかないことが明らかになった。7月13日、労働関係調整法案が議会に提出され、新憲法より早く9月20日に議会を通過・成立した。
 労調法は、労働委員会の斡旋(あっせん)と調停によって労働争議の予防を図るものであった。その柱は運輸・郵便・通信・水道・電気・ガス・医療などの公益事業職場におけるストライキの制限と、現業を除く公務員労働者の争議権の剥奪にあった。労働委員会への調停申請後、一定期間はストを禁止するというものである。鉄鋼や石炭などの重要産業を一時的に「公益事業」と指定して、同様の制限を課す道も開かれていた。政府による強制調停措置も盛り込まれた。
 これに続いて、若手財界人で結成された経済同友会(その中心人物は日清紡績の桜田武、日本製鉄の藤井丙午や永野重雄など、後の日経連創立の主役となる面々だった)が、経済復興会議の設立に動き始めた。「日本経済の復興」を錦の御旗に掲げ、労資が「対等の立場」で相互に協力しあうことを労働組合に呼びかけ始めたのだ。
 そもそも45年末の労組法の制定も、新憲法での労働基本権の確立も、GHQにとっては労働運動の体制内化こそが一貫してその目的であり、大前提となっていた。今や日帝ブルジョアジーの中からも、現存する労働組合を戦前のように暴力的に圧殺することを狙うだけでなく、労資協調路線に引き込むことを重視する路線が登場した。

 (4) ゼネストへと上り詰めた闘いと戦後革命の敗北

 46年夏は転機だった。吉田政権は、労調法制定攻撃に続き8月、経済安定本部を発足させた。企業への軍需補償を打ち切って生産の再開に転じると同時に、経済を政府の強力な官僚統制下において、国家独占資本主義のもとでの日帝経済の再建に着手しようというものだった。それは大規模な企業整理=人員整理を不可欠とした。資本はようやく息を吹き返し、労働者階級への攻勢に出始めた。

 反転攻勢の開始

 まず国鉄で第1次7万5千人、海員で4万3千人の大量首切りが発表された。だがこれは、労働者階級の怒りを再結集し、逆に47年2・1ゼネストへと上り詰めていく新たな反転攻勢の突破口を開くものとなった。
 すでに産別会議と総同盟という労働組合の2大全国組織が発足し、労調法制定反対闘争が激しく闘われていた。何よりも、社会保障制度が存在しない中での首切りは、労働者とその家族が直ちに路頭に迷うことを意味した。海員組合は9月10日、下部組合員が右翼ボスによる組合支配を打倒して歴史的な全船ストに突入し、首切りを撤回させた。国鉄では首切りの対象とされた青年労働者と女性労働者が最先頭で決起し、国鉄当局は9月15日のスト決行前夜に白旗を掲げて全面降伏した。
 国鉄・海員ストは、産別会議の10月闘争に引き継がれた。産別会議は首切り絶対反対を掲げて共同闘争委員会を結成し、各単産で続々とストに入った。中でも10月7日に始まった電産争議は、政府が決めた物価と賃金統制の枠を実力で突破し、生活保障を柱にすえたいわゆる電産型賃金体系を日帝資本に強制するものとなった。政府は電産スト阻止のため成立したばかりの労調法を繰り上げ施行したが、組合はそれを蹴破って大規模停電ストへと突き進み、ついに日帝を屈服させた。
 この過程は同時に新憲法の成立と11月3日の公布、10月21日の第2次農地改革案の議会通過・公布を伴って進んだ。後者は農民の闘いを労働者の闘いから切り離し、分断を図るのが目的だった。だがそれらは労働運動の大高揚の前に事実上吹き飛ばされていた。

 総蜂起の始まり

 今や労働者の実力闘争が、資本の攻撃を個別に打ち砕きながら組合的団結をますます固め、下からの労働戦線統一をぐいぐいと推進し始めていた。総同盟でも全国金属の決起を先頭に、産別会議が推進する労働攻勢への総同盟系組合の合流が開始された。10月下旬には中立系組合を集めて日労会議が結成されたが、これも直ちに闘争の輪に加わった。全労働者階級の総蜂起がついに始まった。
 11月26日、国鉄、全逓、全官公労などの呼びかけで、全官公庁共同闘争委員会が結成された。この全官公庁共闘が、翌年の2・1ゼネストを準備していく闘いの中心にすわった。インフレが再び激化する中、吉田内閣は石炭と鉄鋼に国家財政を集中投入する傾斜生産方式をとり、そのためには労働者の生活水準を切り下げることも辞さないと公言した。資本家階級も労働者階級ももはや必死であり、互いに一歩も後へ引くことはできなかった。経済ストは同時に吉田内閣打倒の巨大な政治ゼネストを求めるものへと発展した。
 47年の元旦、吉田はラジオでゼネストに立とうとしている労働者を「不逞(ふてい)のやから」とののしった。全労働者は憤激し、1月15日には全労働団体、総数400万人を結集した全闘(全国労働組合共同闘争委員会)が結成された。非和解の大激突が始まった。窮地に陥った政府は5月危機の時と同様、社会党との連立工作による右派社民の裏切りに最後の望みをかけた。だがゼネスト体制を切り崩すなど問題にもならなかった。
 労働者階級は全国で一糸乱れぬ闘争配置につき、官憲との血みどろの激突をも覚悟し、弾圧に備えて指導部を地下に潜らせる準備をも整えた。GHQは労働組合の幹部を直接呼びつけてスト中止を勧告し、しまいには指導者全員を監獄にぶち込むと脅迫したが、全闘の代表は「たとえ投獄されてもこのストはやめられない」と言い切った。後は合図の鐘を待つだけだった。

 共産党の裏切り

  2・1ストはしかし、最後のぎりぎりの土壇場で闘争体制を自ら解体して中止された。裏切ったのは右派社民ではなく、なんと闘いの先頭に立っていたはずの日本共産党だった。
 GHQはゼネストへの警告を何度も発していた。日本だけでなく、東アジア全体が大激動の中にあった。朝鮮人民は米軍政と激突して46年10月の大邱(テグ)人民蜂起から47年春の済州島(チェジュド)でのゼネスト・武装蜂起に進もうとしていた。中国では蒋介石政権と毛沢東の人民解放軍との内戦が激しく戦われていた。戦後帝国主義世界体制の中心に座り始めた米帝にとって、日本の2・1ゼネストの圧殺には、帝国主義が東アジア全体を制圧できるか否かの死活がかかっていた。
 しかし日本共産党中央は、1月29日になっても「占領軍は中止命令など絶対に出さない。脅しているだけだ」と主張し続けていた。現場の闘いとはまったく異質な平和主義・合法主義にどっぷりつかっていたのである。そしてスト前日の1月31日、マッカーサーがスト禁止命令を出すや否やこれに完全に屈服し、すぐさま中止を決定して全力で火消し役に回ったのだ。
 31日午後9時、全官公庁共闘議長・井伊弥四郎の涙ながらのスト中止放送を、全国の労働者は血の気がひく思いで聞いたという。戦後革命を最終的に破産させたのは、まさにこの2・1スト前夜の闘わずしての大敗北であった。それは労働者階級の団結を破壊し、その戦闘精神に最も深いところで打撃を与えた。もし闘っていたならば、仮に大弾圧を受けて多大の犠牲を払う結果になったとしても、その中から一層強固な団結が形成され、新たな、より根底的な革命の炎が必ず成長してくる。蜂起とはそういうものである。日共スターリン主義者の大裏切りは、革命の息の根を止めたのだ。
 2・1ストの挫折を土台にして初めて、日帝は、新憲法の施行と第2次農地改革の実施による統治形態の転換、それをとおした資本家階級の再結束に突き進んだ。日本帝国主義再建への道がそこに開かれたのである。
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 戦後革命期の動き

【1945年】
8・15 敗戦
    在日朝鮮人・中国人労働者の決起始まる
9・2 降伏文書調印。占領開始
10・10 政治犯釈放
10・11 GHQ5大改革指令
10・23 第1次読売争議開始
10・28 渋谷駅前で戦災者5000人集会
12・22 労働組合法制定・公布
12・29 第1次農地改革開始
【1946年】
1・1 天皇の「人間宣言」
1・4 公職追放指令
1月〜 生産管理闘争が本格的に拡大
1・19 板橋で隠匿物資摘発闘争
1・26 野坂帰国歓迎大会
2・3 マッカーサーがGHQに新憲法草案作成を指示
2・11 関東食糧民主協議会結成
2・16 新円切り替えと預金封鎖
3・6 新憲法草案発表
3月下旬 農民の強権供出反対闘争
4・7 幣原内閣打倒人民大会
4・10 第1回総選挙
4・12 生産管理弾圧反対労働者大会
4・22 幣原内閣総辞職
4・30 経済同友会創立
5・1 復活メーデー
5・3 東京裁判始まる
5・12 世田谷で米よこせ大会
5・19 食糧メーデー
5・20 マッカーサーがデモ禁止声明
5・22 第1次吉田内閣発足
5・24 「国民融和」訴えの天皇放送
6・13 社会秩序保持に関する政府声明/第2次読売争議開始
6・20 制憲議会始まる
8月  総同盟、産別会議結成
8・12 経済安定本部発足
8〜9月 国鉄・海員の解雇撤回闘争
9・20 労働関係調整法成立
10・1 産別会議の10月闘争始まる
10・7 新憲法案の議会通過・成立
10・19 電産、5分間の停電スト敢行
10・21 第2次農地改革決まる
11・3 新憲法公布
11・26 全官公庁共同闘争委員会結成
11月末〜 各地で吉田内閣打倒集会
12・27 傾斜生産方式採用
【1947年】
1・1 吉田が「不逞の輩」発言
1・15 全闘結成
1・28 吉田内閣打倒人民大会
1・31 2・1スト中止を決定
2・6 経済復興会議が発足
4・25 衆議院選挙(社会党第一党)
5・2 外国人登録令公布・施行
5・3 新憲法施行
6・1 片山内閣発足

 V 戦後憲法体制のもつ危機的構造

 (1) 労働者階級に対し決定的な譲歩を強いられた日帝

 戦後革命をめぐる激動の真っただ中で形成され、プロレタリア革命の敗北の上に確立した戦後憲法体制とは、どんな構造と問題性をもっていたのか。以下は紙面との関係で、結論のみ簡単に述べておきたい。

 上からの「革命」

 最も重要なことは、戦前の天皇制ボナパルティズムの国家から、議会制民主主義への統治形態の大転換である。
 1945年以前の旧天皇制国家は、欧米諸国に遅れて世界史に登場してきた日本のブルジョアジーが、自らの支配を貫くためにとった特殊な国家形態であった。彼らは、すでに激化していた列強による世界の分割戦に後発帝国主義として参入するために、相次ぐ侵略戦争に訴え、その恒常的な戦争体制を国家として維持し続けることを不可欠とした。他方では国内の労働者階級と農民の増大する反乱を、国家的テロルを駆使して絶えず強権的に抑え込むことのできる体制を必要とした。それが「絶対不可侵」の天皇を頂点とする、ブルジョアジーと地主階級との同盟によって成立したボナパルティズム型の軍事独裁国家であった。
 戦後の日帝ブルジョアジーは、この旧天皇制国家を解体し、新たな統治形態を採用した。それは農地改革による地主階級の切り捨てを伴っていた。いわゆる「国体護持」をめぐる論争は、実はこの点での動揺を示している。だがブルジョアジーは最終的に、農民に土地を与えて戦後の農村を保守政党の安定した基盤とすることを選んだ。
 天皇制は、象徴天皇制として、首の皮一枚だけ残してからくも生き残った。しかし生き残ったことで、将来の復活の余地を残した。それは日帝が再び政治支配の重大な危機に直面した場合、ブルジョアジーの最後のよりどころとなるように位置づけられていた。

 階級的力と9条

 第二に、戦後憲法は、労働者階級にとっては革命の敗北と引き換えに与えられたものだが、そこには彼らが資本家階級に力で強制してもぎとったものがはっきりと刻みつけられていた。
 最大のものは言うまでもなく憲法9条である。とりわけ9条2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という規定は、どんな解釈改憲によっても突破できない壁として今日に至るも日帝権力を縛っている。さらに、国家非常事態=戒厳令に関する条項も現憲法にはない。これは「階級支配の機関」としてのブルジョア国家に不可欠な、内乱鎮圧についての規定がまったく存在しないことを意味している。
 また基本的人権にかかわる条項については、労働基本権や生存権なども含めて、労働者人民の諸権利という点でかなり画期的内容が盛り込まれている。その一つひとつが、戦前のような暗黒社会や労働者人民の無権利状態を二度と許さない決意のもとに、労働者階級の闘いによってもぎとられたものだ。戦後憲法の中に刻み込まれたこの階級的力関係が、戦後の国家と社会を根底から規定し続けてきた。ここに、日帝支配階級が現憲法への憎悪を一貫してつのらせてきた原因がある。

 (2) 安保・沖縄と戦争責任の問題は日帝の抱える矛盾

 戦後憲法体制は第三に、最初から根本的な矛盾を抱えていた。これは戦後日帝にとって本質的に解決不能な矛盾であった。それゆえに、戦後の日本階級闘争において絶えず政治危機の発火点となり、そのつど日帝の階級支配の根幹を揺るがす大問題となってきた。戦後憲法と戦後体制のもつきわめて危機的な構造がそこに現されている。
 ひとつは、安保・沖縄問題との関係である。憲法9条は、実際には沖縄の本土からの分離と米軍政のもとへの完全な売り渡しを条件として、初めて成立した。沖縄をアジア全域に対する米軍の一大軍事要塞(ようさい)として確保しさえすれば、日本本土は非武装でも構わないというのが憲法制定時のマッカーサーの主張だった。それはさらに、講和条約締結に伴う日米安保体制の成立を不可欠とした。
 こうして、表は「戦争放棄」を掲げながら、裏では米軍への基地提供と自衛隊による再軍備が進行した。今日その矛盾はもはや誰にも明らかな、爆発寸前のところに行きついた。
 いまひとつは、天皇と天皇制の延命と残存によって不可避につきつけられてくる、戦争責任問題の政治問題化・外交問題化である。
 ドイツと違って戦後の日本は、いわば「日本のヒトラー」だった天皇ヒロヒトを、処刑どころか何ひとつ処罰もせず、逆に憲法の第1章で「象徴」とはいえ国家の頂点に再び据えた。それは戦後日本革命圧殺のために米帝自身が迫られた決断だった。そのことは、アジア人民にとっては日帝の侵略と戦争の責任が完全に不問に付されることと同義だった。事実、日帝は戦争犯罪を隠蔽し、後には公然と居直った。
 また日本の人民にとっては、天皇と天皇制の延命は、労働者階級が戦後革命期の闘いによって憲法に書き込ませた「不戦の誓い」を真っ向から踏みにじるものだった。それらは今日、「靖国問題」「軍隊慰安婦問題」「日の丸・君が代」問題などとして火を噴き、日帝の重大な危機をつくりだしている。
 そして今や、戦後憲法体制の抱えるこのきわめて矛盾した危機的構造は、日帝ブルジョアジー自身にとって、もはや一日も耐えがたいものとなり、根底から爆砕する以外になくなったということだ。ここに改憲攻撃の本質がある。それは労働者階級に対する反革命クーデターそのものだ。

 改憲阻止決戦の壮大な爆発へ

  戦後60年を経て、今や帝国主義の危機はその最末期を迎えた。イラクでの石油略奪の戦争とその果てしない継続。全世界に広がるワーキングプア。金融資本・大資本による野放図な投機経済へののめり込み。そして世界大恐慌・世界戦争の切迫。もはやこんな世界には生きられない! 帝国主義の支配を根底から覆すしかないという叫びが全世界で上がっている。第2次大戦後の戦後革命期に匹敵する、否、それをもはるかに上回る新たな巨大な革命的情勢が到来した。
 この革命的情勢を、今度こそ本物のプロレタリア世界革命に転化しよう。日本帝国主義打倒の革命をその突破口としてやりぬこう。
 改憲阻止の闘いは、まさにこの革命を実現していく闘いと不可分一体である。それはすでに、日帝支配階級との正面からの激突として激しく開始されている。現在、安倍・御手洗路線のもとで吹き荒れている戦争と民営化・労組破壊の攻撃は、そのことごとくが、戦後憲法体制とそれを支えた戦後の階級関係を根底から破壊し解体して、帝国主義のむきだしの暴力支配をストレートに貫こうとする改憲攻撃そのものである。日帝ブルジョアジーによるこの反革命クーデターが勝つか、それとも6千万労働者階級があらゆる制動をかなぐり捨てて総反撃に決起し、資本家階級を打ち倒す革命によって改憲阻止=日帝打倒を実現するのか。中間の道はない。
 改憲阻止闘争とはその意味で、労働者階級とその党にとってもはや一般的な政治決戦としてあるのではない。21世紀のプロレタリア革命を本気でやりぬく闘いであり、権力奪取の一斉武装蜂起とその勝利まで行き着くことなしには終わらない闘いである。問題は、そこへの道はどのようにして切り開かれるのかということだ。
 「革命」とか「武装蜂起」というものをただ頭の中で夢想する人びととは違い、私たちマルクス主義者は、社会を変革する力は唯一、労働者階級自身の団結した闘いの中にこそあることを確信するところから出発する。労働組合と労働運動こそが一切のかぎである。敵階級もまた、反革命の成否は労働運動の圧殺にかかっているとして、日教組・自治労つぶしを始め4大産別の労組破壊攻撃に全力を挙げている。これに対して私たちは、体制内労働運動と決別して動労千葉のように闘えば勝てることを、今こそ全労働者に訴え、6千万労働者階級の中に秘められた自己解放の力を全面的に解き放つために闘うのだ。そこに階級的労働運動路線の核心がある。
 この闘いをやりぬく上で、戦後革命期の闘いとその敗北を正しく総括し、そこから多くの教訓をつかみとることは、今日の私たちに課せられた重要課題の一つである。本稿では、この総括そのものに深く立ち入ることはできていない。その前にまず、戦後革命期における労働者階級の闘いの真実の姿を真正面からとらえ返すことが必要だと考えたからである。
 ブルジョア学者やスターリン主義者によって抹殺されてきた日本労働者階級の誇りある闘いの歴史を、今こそ奪い返して闘おう。本稿がその一助となれば幸いである。
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【本稿執筆に際して参照した文献】

 信夫清三郎『戦後日本政治史 1945〜1952』勁草書房/田川和夫『戦後日本革命運動史T』現代思潮社/高野実『日本の労働運動』岩波新書/岩田英一「赤旗が宮城に入るまで」(三一書房刊『運動史研究』第8巻所収)/山本潔『戦後危機における労働運動』御茶の水書房/斎藤一郎『二・一スト前後』社会評論社/『ものがたり戦後労働運動史』(同刊行委員会編)第一書林/塩田庄兵衛・中林賢二郎・田沼肇『戦後労働組合運動の歴史』新日本新書/日本共産党中央委員会出版局『「赤旗」の六十年』

【参考文献】

 中野洋『戦後労働運動の軌跡と国鉄闘争』アール企画/坂本千秋・野沢道夫・大谷一夫『改憲攻撃と労働者階級』前進社/『本多延嘉著作選』前進社

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週刊『前進』(2293号10面1)(2007/04/30 )

新刊紹介 コミューン 6月号

 胡錦濤「和諧」路線

 「改革・開放路線」を推進し、「世界の工場」「世界第3の貿易大国」と言われるまでに経済成長した中国の前には、米帝の没落、帝国主義間対立の激化、世界戦争の開始という帝国主義の最末期の姿がある。中国スターリン主義は帝国主義の戦争・恐慌に巻き込まれ、いっそう労働者人民への裏切り路線を深め、労働者階級人民に打倒される以外にない。
 第1章は、3月開催された全人代を中心に第2期胡錦濤政権の基本路線である和諧(調和)路線を批判している。それは改革・開放路線の矛盾(貧富格差、都市と農村の所得格差、内陸部と沿岸部の地域格差、環境破壊)を抑えつけるためのものだ。
 第2章は、スターリン主義の政治体制を堅持したままでの資本主義化政策の矛盾が、限界ぎりぎりに達していることを暴いている。その象徴が今年2月の上海発の世界同時株式暴落だった。
 第3章は、改革・開放路線がもはや労働者人民にとって耐えがものになっていることを描いている。汚職蔓延(まんえん)、農民暴動、三農問題、農民工急増などだ。
 第4章は、北朝鮮をめぐる6カ国協議の軸に米帝の朝鮮侵略戦争があることを突き出している。
 翻訳資料「アーミテージ報告改訂版」(中)の主な内容は「日米同盟を正しく導く」。

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