ZENSHIN 2001/09/17(No2021 p06)

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週刊『前進』(2021号5面1)

日本を戦争のできる国に改造しようとする小泉を打倒せよ
「聖域なき構造改革」粉砕へ(上)
 城戸通隆

 はじめに

 「ある程度、失業者が増えるのはやむを得ない」「生みの苦しみだ」(首相・小泉純一郎)。「予想できた範囲(!)」(経財相・竹中平蔵)。七月の完全失業率が過去最悪の五%の大台に乗り、大失業時代への突入が明白になった事態に対して、小泉と竹中はこのようにうそぶいた。許しがたい言辞だ。ここに小泉「聖域なき構造改革」路線の反人民的、反労働者的な正体が凝縮されている。
 これに先立つ八月十三日、小泉は朝鮮・中国―アジア人民を始めとする内外の激しい批判と弾劾の声を押し切り、「あの困難な時代に祖国の未来を信じて戦陣に散っていった方々の御霊(みたま)の前に」「追悼の誠をささげる」と公言し、天皇の神社=靖国神社参拝を強行した。そのことで小泉は゛国家と天皇のために再び侵略の銃をとれ″゛命をささげよ″と扇動したのである。
 オーストリアのハイダーのような極右的人物、都知事・ファシスト石原と同様の思想と主張の持ち主、小泉純一郎が政権の座についてから四カ月余が過ぎた。
 この間にも、帝国主義世界経済、米帝経済・日帝経済の破局的危機が激しく進行し、日経平均株価は連日、バブル崩壊後最安値を更新し、「構造改革」がまだほとんど実行されていない段階で失業率は五%台に突入した。労働者人民に無慈悲な「痛み」と「我慢」を強制する小泉の極右的ファシスト的正体も日々一層あらわとなってきている。
 小泉反革命とは、世界史が一九二九年型の、あるいはそれ以上の大恐慌・大不況に突き進む中で、日帝とその金融独占資本が帝国主義間争闘戦にうち勝って生き残るための新型の極右的、ファッショ的な国家大改造である。小泉の「聖域なき構造改革」とは、日本を戦争のできる国に変えようという大反革命なのだ。
 それは具体的には、一方で改憲(九条改憲)と有事立法、集団的自衛権行使、靖国神社公式参拝などに踏み切るものである。他方で「痛みを伴うが我慢すべきだ」と叫んで戦闘的労働運動を破壊し、階級的なものすべてを暴力的に一掃し、労働者人民に恐慌・不況の激化と倒産ラッシュ、リストラ・大失業と社会保障の解体、大増税などの犠牲を徹底的に強制する大攻撃なのである。
 そのために小泉は、帝国主義の危機を開き直り的に積極的に振りかざし、「このままでは日本の未来はない! 自民党を変え、日本を変える! 構造改革なくして景気回復なし!」と単純なデマゴギーのスローガンを叫び、疑似体制変革の世直しムードをあおって、「平時」では考えられない高支持率をつくりだしてきたのである。
 だが、われわれは声を大にして訴える。小泉改革への異常に高い支持率や何がしかの「期待」は、確実に再び侵略と戦争と破滅への道となるものである。労働者人民にリストラ・大失業、社会保障解体と福祉切り捨て、大増税、生活破壊という死の「痛み」が強制される地獄への道だ。
 一九二九年七月に成立した浜口雄幸内閣(蔵相・井上準之助)は、戦前における典型的「金融独占資本の内閣」と言われた。だが、それは金解禁(金本位制復帰)とそれに伴う厳しいデフレ政策を強行し、中小零細企業と弱小銀行の整理・倒産、独占強化を進めた一方で、労働者人民に激しい首切り・失業、賃下げを強制し、農民を窮乏のどん底に追いやった。そして世界大恐慌の嵐(あらし)の中で、徹底した恐慌対策としての独占資本救済と大合理化を強行し、労働運動・農民運動圧殺を強め、ついには、戦争経済化、軍部の台頭、中国・アジア侵略戦争へと転落していった。
 小泉政権を存続させることによって、このような戦前の道を二度と絶対に繰り返してはならない。一刻も早く小泉反革命を打倒するために、労働者階級が総決起して闘うときである。小泉への幻想も今や確実にはげ落ちつつある。恐慌と戦争と大失業にしか延命の道のない資本主義・帝国主義の命脈は、すでに尽き果てているのだ。
 教科書闘争、八・六広島―八・九長崎の反戦反核闘争、靖国闘争、八月沖縄人民の決起、九・一自衛隊有事出動演習粉砕闘争の爆発と高揚で、アジア人民・在日アジア人民と国際主義的に連帯した小泉反革命打倒の闘争陣形が切り開かれた。これを突破口に小泉政権打倒・改憲阻止へ、党の大変革と階級的大反撃をかけて、二〇〇一年秋の決戦を闘い抜こう。

 第1章 なぜ小泉は靖国参拝を強引に行ったのか

 小泉反革命=小泉改革の内実を構成する第一の柱は、改憲とそこに向けての集団的自衛権行使および有事立法制定である。第二の柱は労働運動圧殺と一大リストラと福祉切り捨てのすさまじい資本攻勢、戦後的諸権利一掃の攻撃である。この両者が日帝とその金融独占資本の生き残りをかけた新型の極右的・ファッショ的な国家改造計画として小泉政権において統一、結合され、きわめて凶暴な攻撃として振り下ろされてきているのだ。
 小泉が日本を戦争のできる国=戦争国家につくり変えようという意志において実に凶暴で、急進的であることは、靖国公式参拝の攻撃の激しさの中に示されている。
 小泉は自民党総裁選の過程から一貫して、「尊い命を犠牲にして日本のために闘った戦没者たちに敬意と感謝の誠を捧げるのが政治家として当然」「いかなる批判があろうと必ず参拝する」と言い続けてきた。中国と韓国からの厳しい批判と抗議に対しても、ごう然と拒否する態度を取り続けた。しかも特攻隊と『ああ同期の桜』に涙し感動し、特攻隊の心を自分の政治信条の基礎にしていると公言してはばからなかった。
 小泉は靖国神社参拝を正当化するのに゛個人の心情″に訴えて扇動する手法をとった。しかし小泉は単なる個人でも私人でもない。内閣総理大臣なのだ。小泉の参拝自体が、日帝の国家としての行為であり、血ぬられた靖国のイデオロギーと帝国主義的民族主義(ナショナリズム)、愛国主義・排外主義を日帝の体内から噴出させ、公然と扇動する意図と役割をもっていたのだ。
 靖国神社とは、第二次大戦−太平洋戦争を頂点とした明治以来の日帝の戦争=侵略戦争を肯定・美化し、そこで国家=天皇のために戦死させられた者たちを「英霊」「神」として祭る「戦争神社」(欧米での呼称)であり、靖国イデオロギーのもとに新たな戦争動員を担う軍事施設である。祭られているものは天皇のために死んだ犠牲者のみであり、天皇と対立した「朝敵」や「賊軍」は選別排除されている。沖縄戦や広島・長崎や大空襲で死んだ膨大な民間人も基本的に祭られていない。しかも靖国に祭られた「英霊」の頂点に東条英機ら十四人のA級戦犯がいるのだ。
 神社内には戦争博物館「遊就館」などに人間魚雷゛回天″や人間爆弾゛桜花″など侵略戦争の忌まわしい武器類が展示され、数々の戦争の遺品や特攻隊の遺書が並べられている。「かく闘えり。近代日本」などの特別展が毎年、開催される。その存在自体が唾棄(だき)し解体すべき施設なのだ。
 「靖国」のイデオロギーとは何か。社頭の掲示板に月替わりで展示されている次の特攻隊員の遺書を見よ。(今年七月展示)
 「御父さん、お母さん、いよいよ隆茂は明日は敵艦目がけて玉砕します。…明日は戦友が待っている靖国神社へ行く事が出来るのです。…隆茂は本当に幸福です。では又靖国でお会いしませう。待って居ります」
 死んだら靖国神社に行ける、靖国神社で会える、靖国神社に祭ってもらえる――この観念的に転倒した悲惨極まる戦死強制のイデオロギー、それが「靖国」の本質なのだ。
 天皇=「国体」護持のために、日帝の金融独占ブルジョアジーの利益と延命のために、侵略戦争に動員され、駆り出されて、戦死と玉砕を強制されることは、侵略戦争での無残な犬死にであった。喜んで特攻作戦に出撃し玉砕したものなど一人もいない。だれもがいやいや、泣く泣く、強制されて死んでいった。それを「聖戦」と強弁し、゛靖国神社に神として祭ってやるから喜んで戦って死ね、玉砕しろ″と強制する戦争動員の非人間的な装置、それが靖国神社であり、国家神道なのである。
 小泉はこの「靖国」イデオロギーの反革命的核心を百パーセント自覚している。国会答弁でも「いやなことがあると、あの特攻隊員の気持ちになってみろと……あの『ああ同期の桜』の本を思い起こしたときの感動を忘れずに、そのいやなことに立ち向かってきた」などと叫んでいる。
 憲法を変え、軍事大国化し、戦争国家の体制をつくっても、再び天皇のため、お国のために喜んで侵略の銃をとり、戦死していく人間がいなかったら次の新しい戦争はできない。そのためにこそ日帝と小泉は、靖国神社公式参拝にこだわり、内外の批判と弾劾を拒否して、参拝を強行したのだ。八月十三日に参拝したことで、何ひとつ攻撃の本質が変わるわけではない。
 一方で小泉は、「二度と戦争をしてはならないという気持ちを込めて参拝する」と繰り返し強弁してきた。だがこれは許しがたいペテンである。「二度と戦争をしない」のだったら絶対に靖国参拝など行ってはならないし、行うはずがない。それどころか、靖国神社という「戦争神社」そのものを否定し、粉砕・解体しなければならないのだ。
 小泉の靖国神社参拝強行の攻撃に、あらためて怒りを爆発させ、朝鮮・中国―アジア人民との国際連帯を強め、小泉政権打倒に総決起していこうではないか。

 第2章 改憲と戦争国家化に突き進む小泉反革命

 9条改憲

 小泉は歴代首相の中でも際立ったゴリゴリの改憲論者だ。自民党総裁選の過程でも、新総裁会見でも、首相就任会見でも、露骨に改憲(九条改憲)を主張してきた。
 「将来は改正すべきだ。自衛隊が軍隊でないというのは不自然だ。どの国も侵略への抑止力が必要だとして軍隊を持っている。解釈によっては自衛隊は憲法違反だと取れるようなものはおかしい。いざという場合には命を捨てるというものに対しては敬意を持つような憲法をもったほうがいい」(新総裁会見)
 小泉は「将来」と言っているが、遠い未来の話ではない。すでに与野党が一体となって衆参両院に憲法調査会が設置され、数年後の改憲を射程に入れて、憲法論議=改憲論議が繰り返されている。そうした現実に立って、歴代総裁・首相としては初めて、きわめて露骨に改憲(九条改憲)を公言したのである。対米、対アジア、対日本国内階級関係における戦後的なあり方を反革命的暴力的に転覆して、戦争国家に突き進むという野望をむき出しにしているのが小泉なのだ。
 小泉はどこの国も「侵略への抑止力」として軍隊を持っているとうそぶく。しかし自衛隊はただの軍隊ではない。すでに米軍に次いで世界で第二位という質と規模を有した、戦争を実際にやることのできる精強な帝国主義軍隊なのだ。しかも日帝は世界第二の経済大国であり、かつての侵略戦争・植民地支配の反省も謝罪も行わず、政府と国家が先頭に立って靖国参拝、「つくる会」教科書採択、「日の丸・君が代」強制を推進している帝国主義国なのである。
 とりわけ重大なのは、小泉が自衛隊を「いざという場合には命を捨てる」ものと位置づけ、それに「敬意」を持つように改憲すべきだと言っていることだ。小泉は「再び天皇とお国のために銃をとれ!」と扇動するために靖国参拝を強行したが、九条改憲によって再び自衛隊を軍隊として海外に、アジアに派兵し、日本帝国主義(金融独占資本)の延命をかけた市場、勢力圏、諸権益の分割・再分割の侵略戦争、帝国主義戦争を本気でやろうとしているのである。「いざという場合には命を捨てる」とは、そういうことなのだ。

 首相公選制

 小泉の改憲(九条改憲)の野望と一体のものとして首相公選制論がある。首相公選制の狙いは三つある。
 第一は、小泉が「憲法はこうすれば改正できると国民に理解されやすいと(私が)思っているのが首相公選制だ。……その際にはほかの条項には触れない」(首相就任会見)と公言しているように、いきなり九条改憲や人民の権利・自由の抑圧に踏み込めば抵抗が大きすぎるので、首相公選制でまず改憲の突破口を開こうということである。
 第二は、首相公選制を急進的な「構造改革」路線の反革命的なシンボルとして押し出し、世直しと疑似体制変革のムードを生み出そうとしていることだ。「首相を選ぶ権利を国会議員から一般国民に引き渡す」「政界の規制緩和とも言える」という一見、口当たりのいいデマゴギーで、改憲・戦争国家化と大失業時代を強制する小泉「改革」に人民大衆を引き込む魂胆なのである。
 第三に、首相公選制の最大の本質は、戦後的議会制民主主義(議院内閣制)の解体とボナパルティズム的統治形態への移行にある。ブルジョアジーに有利な統治形態である議会制民主主義のもとにおいても今日、日帝の政治支配、階級支配は極限的な危機に直面している。森政権ではそれが行き着くところまで行った。
 こうした中で、あらゆる政治機構やマスコミを握るブルジョア支配階級が、極右的ファシスト的な扇動政治家を押し立てて準大統領的な首相を生み出し、議会制的な選挙に左右されずに強権的、ボナパルティズム的な政治体制をつくり、戦争国家化に突き進もうとするもの、それが首相公選制なのだ。

 集団的自衛権

 小泉の改憲・戦争国家化路線との対決で今ひとつ決定的なものが、集団的自衛権行使への踏み切り攻撃だ。首相就任会見で小泉は次のように公言している。
 「集団的自衛権は日本政府はいまの解釈を変えないと言って今までやってきた。……憲法を変えないで集団的自衛権を行使できるのが無理だったら、憲法を改正するのが望ましい」
 「もし日本近海で、日米が一緒に共同訓練や共同活動をしているときに、米軍が攻撃された場合、日本が何もしないことが本当にできるのか。……あらゆる事態について研究する必要がある」
 集団的自衛権とはもともと一九四五年に制定された国連憲章(第五一条)に押し込まれた概念で、米帝などがアジア、中東などの新植民地主義体制諸国に介入したり侵略戦争を行う「論拠」として主張されてきた。
 小泉は「日本近海で米軍が攻撃された場合」と言うが、その時米軍はいったい何をしているのか。
 米本国から一万`も離れたアジアで、朝鮮や中国に対して、強大な軍隊を動かし、軍事介入し、侵略戦争を行っているのだ。それに相手国から一定の反撃が加えられたら、日帝も集団的自衛権を行使し、参戦するということは、日帝・自衛隊が米軍や多国籍軍と一体となって、再びアジアに侵略戦争を開始するということ以外の何ものでもない。これはもはや九条改憲どころか、戦後憲法の廃止そのものであり、戦時への突入である。

 有事立法

 さらに有事立法である。これについて小泉は「『治にいて乱を忘れず』は政治の要諦(ようてい)……平時に有事のことを考えるのは政治で最も大事だ。そういう観点から、有事の体制の研究をする。いつの時点で法案を整備するかは今後の問題だ」(首相就任会見)と主張。具体的には九月末からの臨時国会に対して中間報告を出して審議し、来年一月開会の通常国会にも有事立法を提出しようと狙っている。
 日帝と小泉は北朝鮮や中国などを想定して、「日本に攻め込んでくる外国の軍隊を撃退する」ために有事立法(有事体制)が必要だと言うが、事態はまったく逆だ。沖縄を始め日本全土に強大な米軍を駐留・展開させ、世界第二の経済力と軍事力を持つ帝国主義国である日帝こそが今やアジアの脅威であり、朝鮮・中国−アジアに再び侵略戦争をやろうとしているのだ。日米争闘戦=帝国主義間争闘戦にうち勝ち、没落帝国主義から凶暴に延命するために、改憲・戦争国家化に突き進みつつあるのだ。
 有事立法や集団的自衛権行使への踏み切りは、日帝・小泉が日米安保ガイドラインと一体のものとして、「自衛」とか「有事」の名のもとに、米帝・米軍と共同しながら、再び朝鮮・中国−アジア侵略戦争に突き進む大攻撃である。国家総動員体制を確立する攻撃そのものである。
 沖縄名護の巨大新基地建設や三里塚暫定滑走路建設=開港の攻撃、教科書・教育改革攻撃、司法改革攻撃など、そのすべてが改憲・戦争国家化と直結した大反革命である。労働者階級人民の革命的大衆行動を爆発させ、小泉政権打倒、改憲阻止をかちとろう。

 第3章 大恐慌−争闘戦激化−世界戦争への危機

 では、小泉は、なぜ「聖域なき構造改革」を唱え、なぜあのように問答無用とも言うべき凶暴さをもって靖国参拝を強行し、リストラ・大失業の「痛み」を強制し改憲と戦争国家化に突っ走ろうとしているのか。
 ソ連スターリン主義崩壊以後の帝国主義が今やその基本矛盾を全面的に爆発させ、二九年型の、いやそれ以上の空前の世界大恐慌と大不況にのめり込み、分裂化とブロック化、帝国主義間争闘戦を激化させ、その第三次世界大戦への転化の情勢が歴史的に到来しているからである。
 革共同六回大会第三報告が明らかにしているように、基軸帝国主義・米帝の九〇年代における長期「成長」と異様な超バブル経済化は、二〇〇〇年四月の株価大暴落をもって、ついに全面的崩壊を開始した。そして今、二九年型世界大恐慌の過程が、「世界同時不況」「世界的なIT不況」の到来という形で完全に本格化している。帝国主義経済の分裂化・ブロック化と帝国主義間争闘戦は新段階に突入し、戦後史を一変させる政治反動、一大資本攻勢と帝国主義的侵略戦争、帝国主義戦争、世界戦争への動きが激化している。
 こうした中で登場した米帝ブッシュ政権は、国益最優先のユニラテラリズム(一方的外交、単独行動主義)を振り回し、ミサイル防衛計画を推進し、中国・朝鮮侵略戦争の発動を構え、その力で他帝国主義、とりわけ日帝をゆさぶり粉砕しようとしており、世界戦争・核戦争に訴えても絶望的延命を求める道に突き進み始めている。
 これに対し日帝は、小渕−森政権の天文学的な恐慌対策が全面破産して、九七−九八年の金融恐慌・経済恐慌突入の情勢へとラセン的回帰(再激化)を深め、二九年世界大恐慌型の「デフレ・スパイラル」にのめり込みつつある。日帝は膨大な不良債権と過剰債務を解決できず、その重圧にあえいでいる。世界経済は今や、日米帝の深刻な恐慌と不況が相乗作用を引き起こし、危機を激化させる過程に転落し始めたのだ。
 この情勢の中で日帝と金融独占資本が生き残るためには、一方で労働者階級人民と中小零細企業、高齢者にいかなる犠牲を強いても「聖域なき構造改革」路線をやり抜くしかない。他方で日米争闘戦、帝国主義間争闘戦にうち勝ち、アジアと崩壊したスターリン主義、残存スターリン主義をめぐる勢力圏と市場の分割・再分割に勝ちぬくための大反動、改憲・戦争国家化路線に本格的に踏み出すしかない。そこで登場したのが小泉政権なのである。
 日帝・小泉は差し当たって露骨な親米路線、安保強化路線を取り、米帝ブッシュのミサイル防衛計画に協力と理解を示している。しかし根底には深刻な日米争闘戦と帝国主義の延命をかけた対立と抗争がある。安保強化の道を通って日帝は歴史的な改憲と戦争国家化に突き進み始めたのだ。
 小泉打倒の闘いは、第三次世界大戦の道か、反帝・反スターリン主義プロレタリア世界革命の道かをかけた闘いである。
(つづく)

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