ZENSHIN 2001/09/03(No2019
p06)
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(1)
本年四月に出版された宝島社の『公安アンダーワールド』の序章−「工作」および同時に出回ったその原本において、公安調査庁東北公安調査局の樋口憲一郎による小野田襄二、小野田猛史および三島浩司(旧姓山本)へのスパイ工作が記されており、その中で九五年から九六年にかけて宮崎学への工作が行われていたという記載があることが判明した。
この問題について革共同は独自の真相究明の調査を行うとともに、五月以来、宮崎学と数度にわたって真実の告白と自己批判を求める真剣な討論を行うなど事実の解明に全力をあげてきた。その結果、今回の『公安アンダーワールド』と原本(以下樋口報告書とする)に掲載されている内容について、わが革共同と日本の革命運動・大衆運動の破壊のために国家権力−公安調査庁がきわめて大がかりな一連のスパイ工作を展開してきたという事実の確証を得るにいたった。ここに、この公調スパイ事件に対する革共同の厳正な態度を明らかにするとともに、すべての労働者人民に公調解体・スパイ分子追放の闘いにともに決起されるよう訴える。
(2)
まず前提的なこととして、権力による文書や報告書の常であるが、樋口報告書に記載されている事柄は、事実のねつ造や歪曲、あるいは誤認が多く、虚構性がきわめて強いということである。スパイ分子やスパイ工作の対象者が得手勝手なデマを告げている場合もあれば、公調の担当者が意図的に脚色したり、誇大に記して報告書を上げている場合もある。いずれにせよ権力の作成した文書をそのまま事実としてうのみにするのではなく、階級的警戒心をもって批判的に対することは、労働者人民の原則的な態度であることを共通の確認としたい。
その上で第一に、このスパイ工作の全体の出発点には、わが革共同から逃亡した脱落・敵対分子である小野田襄二が存在し、暗躍していることである。小野田が身も心も完全に権力の手先となって、知りうる限りの人物と情報を権力=公調に売り渡し、革共同破壊のために跳梁(ちょうりょう)していることを、革共同は断じて許しておくことはできない。小野田は、自ら積極的に反革命的な情報集めのために立ち働くだけでなく、何人もの人間を公調に引き合わせ、スパイの道に引き込む仲介人としての役割を買って出ているのである。その一人が実兄の小野田猛史である。両人ともかつて革共同の最高幹部でありながら、党から脱落し転向し、最も恥ずべきスパイに成り下がったものであり、その階級的犯罪はまことに重い。
そもそも小野田襄二は、六七年に脱落・逃亡し、敵対分子になり果て、六九年に埼玉大生・滝沢紀昭同志を虐殺した集団の最高責任者である。加えて、職業的スパイ分子としての悪行を重ねている小野田襄二は、最悪の反革命転向・腐敗分子として、革共同と日本の労働者階級の名誉にかけて断罪・処断されなければならない。
第二に、小野田襄二を介して公安調査庁の積極的な協力者に成り下がった今一人の職業的スパイ分子が三島浩司である。三島ほどあけすけにスパイ活動をしてきた人物をわれわれは知らない。戦前・戦後における日本の革命運動の中でも特筆されるべき悪質なスパイ分子であり絶対に許すことはできない。
三島はかつて社青同解放派の幹部であり、六五年に再建された都学連の委員長についたという経歴と弁護士という社会的な地位を利用し、公調からの高額のスパイ工作資金を当てにして、自ら権力の手先となって、救援運動を闘う隊列の内部から、ありとあらゆる情報を権力に売り渡してきたのである。
三島が、小野田を介して公安調査庁の樋口と最初に接触するのは九〇年代初めであるが、三島が積極的に樋口との接触を要求し始めるのは九四年の朝鮮侵略戦争の切迫情勢下においてである。まさに、米帝の対日争闘戦の激しい展開が朝鮮侵略戦争への突入をも辞さずに追求されている情勢の中で、危機を深める日帝の対北朝鮮政策の空隙(くうげき)をついて、職業的なスパイ分子としての投機的野心をもって公調との接触を三島自らが要求したのである。
以後、三島は何かと口実をつくっては北朝鮮情報と革共同情報などと称して公調に頻繁に会い、「大物ぶり」を演出して、公調から多額の金を受け取ってきている。
また、三島は弁護士としての資格を利用して、九四年当時すでに大きな社会問題となりつつあったオウム真理教をめぐる刑事・民事裁判にもかかわる中で、自らの利益のためのみの目的で公安調査庁への接触を強めていった。オウム真理教が宗教の形態をとった新しい型のファシスト集団であることが、日々全人民的に明らかになりつつあった時に、元都学連委員長で弁護士という経歴・肩書きを利用して私腹を肥やすという、人間としては絶対にやってはならないことを三島は「職業」とするに至っていた。最も唾棄(だき)すべき卑しい人間に成り下がった三島浩司は、労働者人民の戦線、救援戦線から放逐されなければならない。
(3)
第三に、宮崎学が、この三島のスパイ活動の一端を担っていたのである。そのことは、われわれに対して宮崎が告白したところから完全に明らかである。この問題に関して、わが革共同はまずもって、盗聴法・組対法反対闘争以来、宮崎を労働者人民の闘いの隊列に受け入れ、闘いの先頭に押し上げてきたことに対して、重大な責任を負っていることを、全労働者階級人民に心から謝罪する。同時に革命党としての不明を恥じ、深く自己批判しなければならない。
われわれは、かつてスターリン主義日本共産党に籍を置き階級的敵対関係にあり、しかもその後左翼的矜持(きょうじ)とは縁を切った宮崎と年月を経て接点ができて以来、宮崎にいくつかの要請をし、一定の重要な協力を受けてきた。宮崎は革共同への期待を表明してきた。そこにおいて独特の経歴とスタンスを取る宮崎が果たして共同闘争者たりうる人物かどうかの革命党としての死活的な見極めが当初から根底になければならなかったが、われわれは宮崎への評価と対応を決定的に誤ったのである。
今回、樋口報告書が出回る以前の段階では、宮崎は公調への裏切り的協力について、革共同に対しても、労働者人民に対しても口を拭って隠してきた。われわれが追及するや最初は事実を否定したのである。
このような対権力の無節操な人物を運動の前面に登場させ、あたかも闘う人士であるかのように多くの労働者人民に思わせてしまった責任は、わが革共同にある。また革共同は、宮崎が運動の中に入り込んで活動する過程で、いたたまれずに自らのスパイ活動を進んで明らかにし、潔く労働者人民の批判を受けるという見地に立つにいたる思想的葛藤をなすような緊張ある関係をつくることができなかった。これらの点でわれわれの責任を認め、すべての闘う労働者人民に謝罪する。
実際、今回の事実調査を通じてつかむにいたったが、日帝権力・公調は、われわれのこの対宮崎関係の弱点を突いて、革共同への重大な組織破壊攻撃をかけてきていたのである。党として、宮崎問題を権力の組織破壊とりわけスパイ化攻撃との闘いの血の出るような教訓としなければならないと考える。
(4)
冒頭に述べたように、わが革共同は五月以来、宮崎との真剣な討論を行ってきた。公安調査庁は労働者人民の闘いを破壊するための国家権力機関そのものであり、その国家権力と接触をもち情報を提供することは人民的・人間的な正義とは相入れないものであること、自己のスパイ行為に関して真摯(しんし)な自己批判が必要であることを繰り返し厳しく批判してきた。しかし七月中旬段階で、われわれは、宮崎の口先での謝罪と自己批判は信用できないと判断し、八月上旬時点で、党として宮崎自身の思想問題にまで深めた全面的自己批判の表明と、一切の大衆運動から身を引くことを厳しく要求し、関係の決別を通告した。
宮崎が労働者階級人民に自己批判しなければならない問題は何かについて明らかにしておく必要がある。
九五年二月二十一日、三島を介して東北公安調査局の樋口と会談した件に関しては、宮崎の記憶では時期が「三月初旬である」という見解の相違はあるが、「ちゃんこ鍋吉葉」において会談したことは事実である。さらに二度目は九五年八月か九月に、京都のブライトン・ホテルの「ほたる」という店で会った。三回目は九六年四月頃、帝国ホテルのレインボーラウンジで会った。二回目と三回目の会合については出回っている樋口報告書の限りでは記載がないが、事実として宮崎は告白し、認めている。
つまり、宮崎学は公安調査庁がいかなる存在であるのか十分に自覚していたにもかかわらず、直ちに席を蹴って退席するという態度をとらなかったのである。それどころか、おそらく二時間近くもその場に同席し会話を交わし続けたのである。しかも重大なことは、三回目は、宮崎の側から三島を介して公調に会談を申し入れたこと、その目的がなんとオウム真理教の関係者からの依頼に基づく裏取引であったということである。
宮崎は、三回の会談内容について弁解に終始するのみで一部について以外、ついにわれわれに明らかにしなかった。特に権力・公安調査庁と裏取引をしたことを開き直り、「自分は清く正しく美しく生きているつもりはまったくない」などと公言した。会談内容も回数も大いに疑念が残されているのである。
また宮崎は、九四年頃、ある同志の病気療養のための場所をわれわれに提供したことがあるが、その提供が終わった後にその件を三島に話したことを明かした。しかし、たとえ病気療養のためであっても、このような形をとった革命党幹部への住居の提供の事実を第三者に漏らすこと、まして職業的なスパイである三島に漏らすことは、最悪の場合は生命にかかわる問題であり、階級的・人間的信義に反することであって、とうてい許されないことである。さらに関連して、当時不動産業をやっていた宮崎の事務所および関係重要書類が公調による情報収集の対象とされていたこと、重要書類が公調の入手するところとなっていたことも判明した。革共同は、この問題について革命党の組織的死活にかかわるものとして、他の問題とは区別して宮崎の謝罪と自己批判を求めてきたのである。
(5)
宮崎は、この討論の中で一定の重大な事実を告白し始め、自らのスパイ行為について謝罪を表明したが、参議院選挙における「新党・自由と希望」(いわゆる白川新党)からの自らの出馬問題を提起してきた。これに対して革共同は《何といっても白川勝彦は自治相・国家公安委員長までやったことのある、権力中枢と直結する人物である。自民党を離脱したといっても、その新党の綱領的内容をなす『自民党を倒せば日本は良くなる』という彼の著書を見れば明らかであるが、何ら自民党当時の階級的立場の転換に基づく離党ではないのである。むしろ公明党との連立政権に反対して、自民党単独政権論を主張しているのである。この白川勝彦を党首とする白川新党からの立候補は、宮崎が階級敵と手を結んだことを意味する。革共同は、いかなる意味でも敵階級と手を結んだ人と運動を共にすることはできない》ということを全力で提起し、出馬を断念することを説得したのである。
だが、宮崎はわれわれの説得を踏みにじり、真相解明と自己批判の討議も一方的に打ち切り、白川新党からの立候補に踏み切った。そうである以上、革共同としてはそれまで取ってきた「共に闘う立場から真実を解明していく」という共同の立場を継続することはできなくなったと最後的に判断した。敵階級の中枢と直結する人物と席を同じくしている人物と、権力のスパイ攻撃との共同の闘いを継続することはいかなる意味でも不可能だということである。
わが革共同は、宮崎学が権力のスパイ工作に応じるという転落を遂げたところから再起し、今回の公調スパイ事件の全容の真実を告白し、労働者階級人民に対する真摯な自己批判をなしとげるよう全力を尽くしてきた。だが、宮崎がスパイ行為とまったく同根の、より開き直った誤りを積み重ね、自己批判の闘いを自ら放棄したことをわれわれは重大視し、宮崎との決別を宣言し、権力のスパイ攻撃との断固たる闘いを貫徹することを宮崎に通告した。
この点に関連して、われわれは、小野田襄二、小野田猛史、三島浩司ら転落スパイ分子と宮崎を同列におくつもりはない。前者は完全な粉砕の対象である。しかし、宮崎が大衆運動の場に登場することについては絶対に反対であり、全面的自己批判を要求し続けるものである。
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革共同は今回の公安調査庁による一連のスパイ攻撃に対して、労働者階級人民の闘いを守り発展させるために、革命党と大衆運動の破壊のためにのみ存在する公安調査庁の解体を断固訴えるものである。
そもそも、公安調査庁は、戦後革命を鎮圧するために米軍占領下で公布された団体等規正令を継承する破壊活動防止法が制定された五二年に設置された行政機関であり、破防法を適用して労働者階級の闘う組織(当然にも革命党は第一の対象)を解体するためにのみ存在する調査機関である。その発足以来、労働者人民の内部に潜入し、闘う人びとの生活的人間的苦しみや困難を逆手にとって金で篭絡(ろうらく)することをこととしてきた国家機関である。
わが革共同に対しても七〇年闘争に対する第三次破防法攻撃まで加え、九〇年天皇・三里塚決戦においては組織解散の適用を全力で追求した。だが、天皇制・天皇制イデオロギーを打倒して日本革命に突き進むわれわれの不屈の闘いと決意の前になすすべもなく敗れ去り、公安調査庁の組織そのものの存亡の危機に立たされたのである。
公安調査庁は、そのような危機の中で迎えた九四年の朝鮮侵略戦争の切迫情勢を奇貨として、労働組合から住民団体まで戦争に反対し平和を願う人民を「国家の敵」として破防法の対象に設定し、あくどい「調査(スパイ活動のこと)」活動を繰り広げて生き残りを図るという一層の反革命的策動を行ってきたのだ。
本年の四月から七月にかけて、京都・大阪・奈良・神戸市において、在日朝鮮人の外国人登録原票の写しを合計百五十九人分(請求したのは二百人以上)も大量に取り寄せていることが判明している。在日朝鮮・中国・アジア人民の存在それ自体を破防法適用の対象として調査するという断じて許すことのできない排外主義的な、悪質で不法な攻撃を行っているのである。
わが革共同は、七〇年の三次にわたる破防法攻撃との闘い以来、党の非合法・非公然体制を強化し、スパイ攻撃に対してはレーニン主義的党組織の建設をもって党の骨格を守り抜いてきた。とりわけ、九〇年代に入ってから激化しているスパイ政策の展開に対して、全党における原則的な闘い、党生活の三原則の貫徹をとおして勝利してきた。
われわれはあらためて、労働者人民の闘いを解体する目的のためにのみ存在する国家機関=公安調査庁は、労働者階級人民の闘いで解体しなければならないこと、その手先となったスパイ分子は戦線から放逐し打倒しなければならないことを怒りをもって心から訴えるものである。
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日帝・小泉政権は、三〇年代を超える帝国主義の体制的危機が世界戦争として爆発していく情勢の中で、従来の自民党政治ではどうにも身動きがとれない日帝の体制的な危機を背景に、あたかも体制変革者であるかのような手法で登場してきたものである。小泉自身が、鉄面皮で恥知らずなデマゴギーを駆使して、直接に労働者人民を反動的に扇動し、国家主義・排外主義・天皇主義に組織しようとする手法をとっているのである。日本帝国主義の最も反動的で侵略的なエネルギーを解き放つことによって、戦争国家体制の構築のための「国民」の名による独裁政治、強権政治を目指しているのである。さらには、労働者人民に「痛みに耐えよ」と襲いかかって労働運動を祖国防衛主義に転落させ、侵略戦争に労働者を動員する攻撃をかけてきているのである。
だが、労働者階級人民に「痛みを強制する」小泉政権の反革命的な攻撃が、何の抵抗も受けずに進められることなどあり得ない。小泉の靖国神社参拝粉砕に猛然と決起し、日帝のアジア侵略と侵略戦争を賛美する「つくる会」教科書の採択を阻止した労働者人民の闘いは、アジア人民・在日アジア人民の闘いと連帯した、小泉反革命に対する巨大な闘いの開始なのである。
この本質的に革命的祖国敗北主義を貫いている労働者人民の闘いの深部に革共同が存在していることは決定的であり、そのことに恐怖する日帝権力の組織破壊攻撃が一層激化することもまた不可避である。
われわれは、破防法−組対法・団体規制法攻撃と一体の革命党に対するスパイ攻撃に対して、レーニン主義的な組織原則をもって党と大衆運動を防衛しぬかなければならない。党生活の三原則の貫徹こそ組織建設の核心問題なのであるが、とりわけ権力のスパイ攻撃に勝利する闘いの核心点は基本会議における徹底した政治討論をとおして党的一致をかちとることにある。
また、日帝・国家権力の組織破壊のためのスパイ攻撃に対する闘いできわめて重要なことは、権力の攻撃があった時や、またどのような偶然的な事態から生じた権力との接触であれ、軽重にかかわらずすべてを速やかに党中央に報告することである。
この党的な政治的・思想的一致の力こそが、権力による系統的で執拗(しつよう)なスパイ攻撃を見破り、明るみにし、摘発・粉砕する力となる。権力のスパイ攻撃を真っ向から粉砕する闘いは、党を守り、大衆運動と労働者人民の団結を守る、階級闘争の第一級の共同の課題である。怒りも新たに、公調解体・スパイ分子放逐の闘いを強化していこう。ともにレーニン主義の党建設に勝利しよう。