ZENSHIN 2001/08/13(No2017 p10)

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週刊『前進』(2017号1面1)

特別声明
全党・全人民へ−革共同第六回全国大会開催の報告
 革命的共産主義者同盟政治局

 革命的共産主義者同盟全国委員会は、第六回全国大会を二〇〇一年前半に開催し、権力の弾圧態勢から大会を完全に防衛し成立させた。このことを革共同、マルクス主義青年労働者同盟、マルクス主義学生同盟のすべての同志と労働者階級人民の皆さんに報告する。
 革共同の全国大会は実に二十年ぶりの開催であり、大会開催の公表は六六年の第三回大会以来、三五年ぶりのことである。言うまでもなく、全国大会は党(同盟)の最高議決機関であり、同時に全国大会は全国委員を選出する責任を負う(革命的共産主義者同盟規約)。
 本第六回大会の開催は、それ自体が革共同の闘い、とりわけ七一年の二重対峙・対カクマル戦突入以来の闘いの飛躍的前進を示す歴史的意義をもつものとなった。
 大会では革共同の結成以来の闘いの歴史を総括した。とりわけ七〇年代−八〇年代の先制的内戦戦略フェーズT・フェーズU(第一段階・第二段階)の歴史的総括と九一年五月テーゼ以来の実践的総括を行った。その地平に立ち、ソ連スターリン主義崩壊以後、現代帝国主義が二九年型世界大恐慌過程に入り、世界戦争的激動情勢に突入している中で、二十一世紀の早い段階での反帝国主義・反スターリン主義世界革命−日本革命の達成が急務であることを確認した。
 ここに本大会の重要な議事を全同志ならびに労働者人民の皆さんに報告する。近く『革命的共産主義者同盟第六回全国大会報告・決定集』を刊行する予定である。

 一、第六回全国大会開催の経過

 まず、第六回全国大会の開催にいたる経過と手続きについて報告する。
 第一は、長期にわたり大会を開催できなかった理由である。
 革共同は六六年の第三回大会以来、大会とそれに準じる全国委員会総会の開催を公表してこなかった(九五年一九全総以降公表)。その理由は、六七年十・八羽田闘争以来の国家権力との全面対決、とりわけ六九年四・二七破防法適用下の革命党絶滅攻撃の激化である。
 党の指導体制の絶対的防衛が革命党の死活的な課題であった。破防法発動情勢のもとでは、党指導部を本質的に非公然のものとして建設できなければ、それ自体が致命的敗北である。それは公然主義への転落であり、権力による党指導体制の捕捉、逮捕・拘束を許す敗北主義である。
 そうした確固たる立場から、われわれは、党中央指導部の非公然体制を築きつつ、なおかつ公然部門と非公然部門との有機的一体性を保持する闘いに全力をあげてきた。この闘い自身が権力と反革命カクマルとの死活的攻防点であった。
 そのため本来の規模での大会と全国委員会総会の開催は困難をきわめ、回数と規模の縮小を余儀なくされてきた。また、大会での全国委員の選出と全国委員会総会での政治局員の選出に関しても、戦争体制下の制約のもとでのぎりぎりの党内民主主義のあり方を追求することを余儀なくされた。大会開催の公表それ自体を制限してきた理由も同様である。
 そうした苦闘の歴史をふまえて、今大会を第六回全国大会として本来の大会級の規模をもって開催した。
 第二に、革共同の全国大会の歴史的経過を整理しておきたい。
 革共同は五七年に創設され、第一次分裂−第二次分裂を経て、革共同全国委員会は五九年に結成をかちとった。そして、六一年に第一回全国大会を行い、六三年のカクマルとの第三次分裂後、六五年に第二回大会を開催し、六六年には歴史的な第三回大会を実現した。そして、六七年の第四回大会をもって同年十・八羽田闘争以後の激動を切り開き、七〇年安保・沖縄決戦の発展と爆発をかちとった。
 この七〇年決戦を前後し、大会の開催は大きな制約を受けることになった。日帝・国家権力の六九年四・二七破防法攻撃とカクマルの七一年十二・四反革命という二重の反動に対する絶対的な勝利が、党存立の前提条件として突きつけられたからである。以後革共同は、七五年三・一四反革命を頂点とする二重対峙・対カクマル戦の熾烈(しれつ)きわまる戦局下で、非公然指導部と公然指導部が一堂に会する全国委員会総会を非公然的に開催することで大会機能を代替し、七〇年代の先制的内戦戦略フェーズT下における戦争と闘争および党建設の指導を保証してきた。
 そして、ようやく第五回大会の開催にこぎつけたのは、フェーズUに突入した八一年から八二年にかけてであった。数回に分散した形態での開催となったこの第五回大会での報告−討論−決定が、八〇年代の国鉄決戦と三里塚闘争の基本政策および指導方針になった。
 ただし、この大会は完全に非公然的に開催されたものであり、組織的にも対外的にも公表しなかった。開催の事実は、今回の第六回大会において初めて正式に報告され、確認された。
 第五回大会においては、八〇年代中ごろに第六回大会の開催を計画すること、そしてその後の大会の定期的開催方針も確認したが、八六年五・七宣言体制下の国家権力の激烈な弾圧攻撃の中で、この計画は断念を余儀なくされた。極限的な弾圧体制下で、縮小した形態での全国委員会総会の開催をもって大会を代行する以外になかったのである。
 われわれは、九〇年決戦の勝利と九一年五月テーゼ路線への飛躍のもと、九五年に一九全総、九七年に二〇全総を非公然的に準大会級の規模でかちとった。そして、二〇全総で清水丈夫議長−天田三紀夫書記長を始めとする指導体制を選出し、このもとに四、五年計画で第六回大会を本来の大会級の規模でかちとることを確認した。
 その後の政治闘争や労働運動の発展と非公然部門支持活動の強化により二〇〇一年前半、ついに今第六回大会を非公然的にかちとることに成功したのである。
 第三に、本第六回大会開催の手続きについて報告する。
 本来の全国大会は、全同盟員による代議員選出選挙を行うことが基本であるが、非公然的開催ゆえの困難な条件下で、政治局の責任において、以下の基準での代議員選出を可能なかぎり民主的に行い大会を開催した。
(1)党員数〇〇人に一人の割合での代議員を、各地区・地方委員会、諸組織の責任者の推薦を受け、政治局が指名した。これによる「選出代議員」は〇〇人である。(2)選出単位をもたない中央指導部メンバーおよび党の機能の全体性を確保するための代議員、さらに各産別の中心的労働者党員が最大限参加するための代議員を政治局の責任で指名した。この「指名代議員」は〇〇人である。指名代議員は、五月テーゼ路線の全面的発展のため、労働運動、理論戦線、統一戦線などにかかわる任務についている党員を選出基準として重視した。

 二、第六回大会の意義と責務

 時代認識の確立と革命党の義務

 革共同第六回大会の意義とその責務は実に大きい。
 第一は、ソ連スターリン主義が崩壊し、帝国主義の基本矛盾が全面的爆発過程に突入した時代における、革命党および革命党員の義務を明確にするという問題である。
 時代は、帝国主義間争闘戦の爆発的拡大とブロック化、市場再分割戦と侵略戦争が激発する段階にはっきりと突入した。七〇年代中ごろから表面化した世界的な過剰資本・過剰生産力は、八〇年代には日本経済の高度成長を終焉(しゅうえん)させ、欧州経済を停滞させ、二〇〇〇年においてついに基軸国アメリカ帝国主義の「不況なき経済成長」をも崩壊させた。世界経済は疑いもなく二九年型世界大恐慌過程に突入している。基本的に第三次世界大戦的激動が避けられない情勢への突入である。
 具体的には、米帝ブッシュ政権の対日争闘戦激化政策(市場再分割と軍事的動員の要求)は一線を越え始めた。中国スターリン主義および北朝鮮への軍事圧力を露骨なまでに強めていることが決定的な特徴である。米帝はアジアでの侵略戦争を実際に発動・遂行することでアジアでの帝国主義的支配を強めることを世界政策の第一にすえた。それをもって欧州、中東、ロシア、東欧での権益をも護持するという戦略である。帝国主義の深刻な没落の危機を、残存スターリン主義の転覆ととりこみの侵略戦争を突破口として、暴力的にのりきろうという姿勢がむきだしになっている。
 この米帝の軍事戦略を基軸とするアジア政策、対日争闘戦激化政策に対する日帝の対応も一線を越えつつある。米戦略への協力(日米安保堅持−新ガイドライン体制強化)という形式をとりつつ、明らかに日帝独自の侵略戦争政策を採用し、敗戦帝国主義としての戦後の清算と戦争国家への転換をもって米帝の対日争闘戦に打ち勝とうとしている。日帝支配階級の未曽有(みぞう)の危機が生み出した小泉反革命政権の「改革」路線は、労働者人民の抵抗を粉砕し、本格的な戦争国家への暴力的転換を指向するものである。
 支配階級の延命のために、果てしない戦争と大失業を労働者人民に強制する時代への回帰。まさに第三次世界大戦の不可避性が浮かび上がってきているのであり、革命的情勢の急速な接近である。革命党が「三大義務」の遂行を待ったなしに要請される「戦争と革命の時代」の現実化である。
 わが革共同は、この二十一世紀の早い段階で反帝・反スターリン主義世界革命−日本革命の課題を達成することを宣言し、まさに命がけの飛躍をかちとる決意を固めている。
 革共同第六回大会はそうした課題を正面からすえて闘いとられた。総括、「二十世紀の総括と二十一世紀革命の展望にかんする革共同の基本的見解」、情勢、任務・方針、各課題のすべての報告は、二十一世紀における現代革命達成の観点から打ち出された、綱領的意義をもつ革共同の新たな戦闘宣言である。

 対カクマル戦勝利の決定的地平

 第二には、対カクマル戦の決定的な勝利の地平を全党のものにすることである。六二年第三回全国委員会総会(三全総)を契機とする第三次分裂から四十年に及ぶ二重対峙・対カクマル戦の勝利の地平はとてつもなく大きい。革共同は本大会において、階級闘争への反革命カクマルの制動を解き放ち、日本革命の全課題を本格的に発展させる時代が到来したことを宣言した。
 カクマルの本格的な白色テロル襲撃の継続的開始は七一年十二・四反革命だが、その根拠は、黒田・カクマルとの組織的・路線的な全面的決別としてかちとられた三全総にまでさかのぼる。三全総で革共同が打ち出した地区党建設方針は、初期段階からの本格的な革命党建設方針だった。
 黒田は、革命党がブルジョア議会選挙へ参加する革命的議会主義に反対したが、核心的な問題は地区党建設の根本的否定であった。黒田は、党建設のためには産別委員会の強化で十分として、地区党建設の本質的意義を否定した。これは、黒田組織論が労働者階級解放の革命戦略的任務は「場所的現在においては党づくりである」としてしまう日和見主義に陥っていることを示す。つまり黒田組織論は、全政治的課題、共産主義的課題、革命運動の諸課題を今日的に労働者階級に提起していく中で階級形成をかちとり、党を建設していくというレーニン主義的党建設論に敵対するものであった。
 歴史的・具体的に見れば、このことは八〇年代の国鉄分割・民営化攻撃で「国労解体・総評解散」をめざす中曽根反革命の階級決戦攻撃に対して、全労働者階級の階級的利益に立ってひとつの階級決戦を闘いぬくというあり方を真っ向から裏切り、支配階級と手を組んでも、当時の動力車労組のカクマル支配の延命を追い求めていった黒田=松崎の組織論として、その正体をさらけ出したのである。
 黒田の三全総からの敵対・逃亡は、小ブルジョア的著述家としての黒田自身が革命的実践への自己批判的参加という課題から全面的に退却するものであった。
 われわれは本多延嘉書記長を先頭に断固としてこの黒田・カクマルと闘い、第三回大会とその革命的実践であった七〇年安保・沖縄決戦の大高揚をかちとった。そして、先制的内戦戦略フェーズT・フェーズUの二十年に及ぶ二重対峙・対カクマル戦をやりぬき、今日の革共同を築きあげてきた。
 本多書記長が虐殺された七五年三・一四反革命で、革共同はひとたび死んだ。われわれはこのように断固として総括した。そして、灰燼(かいじん)の中から決起する革命家精神を爆発させていった。反戦青年委員会世話人であり、マルクス主義青年労働者同盟議長でもあった橋本秀次郎同志の虐殺(七六年二月二十六日)、全逓中郵の労働運動の若き指導者であった高橋範行同志の虐殺(七四年九月十日)など幾多の同志が殺される大反革命に直面した。その中でわれわれは血みどろになって闘いぬき、今日ついに黒田・カクマルと松崎・カクマルJR総連派との分裂という決定的な地平を闘いとり、黒田哲学に対する全面的な批判・弾劾を完遂し、「黒田哲学の死」を宣言するにいたった。これは階級闘争からカクマルとカクマルJR総連派を全面的に追放する闘いの地平、カクマル完全打倒の闘いを階級闘争の全面的発展として闘いとる地平への到達である。
 その地平の全党的確認を第六回大会は実現した。

 小泉反革命との全面対決の方針

 第三は、小泉反革命政権の登場という恐るべき情勢の到来に対して、小泉政権との全面対決の方針を明確にしたことである。
 小泉政権は「八〇%以上の支持率」を背景に、日帝の戦後体制を右側から破壊し、戦争国家への国家改造を一気になしとげようとする反革命政権である。小泉政権は、日帝の危機と窮状を積極的に扇動し、その打開運動に国民を動員し、愛国主義と排外主義、国家主義への反動的決起をうながし、極右的・ファシスト的な国家改造計画(「聖域なき改革」)をやりとげようとする政権である。
 階級的激動(戦争か革命か)を引き起こす戦争の道を恐れず、そこにしか日帝の延命の道はないという決断なのだ。
 第三次安保・沖縄闘争の本格的発展、憲法改悪阻止闘争の大衆的爆発は、この小泉政権との全面的・階級的対決としてしかありえない。それは侵略戦争への動員・屈服の道か革命的内乱かの革命的分岐を労働者人民に決定的なかたちで突きつける。「平和」な時代に「戦争反対」はだれでも(社会民主主義者でも)言える。だが、支配階級の危機が戦争以外に突破できない時代の反戦闘争は、体制の打倒を含む内乱の決意と体制がなければ貫徹できない。戦前、大政翼賛会政治に最終的に全政党が屈服し、「挙国一致」の戦時体制に労働者人民が動員された歴史の教訓が、今まさに小泉政権の登場の中で問われているのである。
 改憲阻止決戦、教育改革攻撃粉砕決戦、国鉄決戦を闘いぬくわが革共同と労働者人民の階級性と勝利への不退転の決意が問われているのだ。第六回大会はこのことを全体の一致をもって確認した。

 党勢二倍化の大方針が実践的結論

 第四に、革共同の主体力量と現情勢から要請される任務の大きさとの現在的ギャップを真正面から見すえ、新たな党建設の闘いに邁進(まいしん)することである。
 革命的情勢が急接近する中で、わが革共同が闘う労働者人民の多数派を形成することなくして革命の未来はない。われわれは断固そこにふみこむ決意を固めた。二〇〇一年『前進』新年号政治局論文で打ち出した党勢二倍化の方針は、この第六回大会の最大の実践的結論でもある。
 革命の戦線は無限に広がっている。「人がいない。しかし人はいる」。労働者人民の中に革命を担うべき同志は無尽蔵に存在する。本大会は、この現実に確信をもち、『前進』拡大を武器に、党勢二倍化に向かって目的意識的・計画的に突進していく時であることを確認した。

 三、第六回大会と第二一回全国委員会総会の経過報告

 第六回大会に提出された報告、および採択・承認事項は以下のとおりである。
第一報告 総括と党建設の基本問題−−対カクマル戦の勝利と革共同が切り開いた地平
 T 総括−−歴史的到達点と展望
 U 党建設の基本問題−−大会の獲得すべき課題
第二報告 二十世紀の総括と二十一世紀革命の展望にかんする革共同の基本的見解
第三報告 情勢分析
 T 基軸国米帝の超バブル経済の全面的崩壊の開始の重大な歴史的意義
 U 日本経済の基本動向
 V 今日の資本攻勢の歴史的重大性と階級情勢−−いまこそ五月テーゼの革命的貫徹を
 その他
第四報告 当面する任務・方針について
第五報告 いまこそ黒田「哲学」の総括・批判・打倒の闘いに立ちあがろう−−全面的危機にあえぐカクマルの黒田「哲学」への逃亡を許すな
第六報告 「黒田哲学」を全面的に批判する−仲山良介
第七報告 世界大恐慌と革命の時代の到来−島崎光晴
 さらに改憲闘争、沖縄闘争、入管闘争、部落解放闘争、反核闘争などの報告が行われた。
 (このうち第六報告と第七報告および入管闘争、部落解放闘争にかんする報告は、すでに革共同政治機関誌『共産主義者』第一二七号と第一二八号に掲載されている)
 白井朗弾劾の報告がなされ、大会の名において除名を決定した。
 同盟規約と規約前文の改定が提案され、承認された。
 第六回大会出席の全代議員の選挙により全国委員が選出された。
 大会後、直ちに第二一回全国委員会総会を開催した。二一全総では政治局員の選出を行い、二〇全総で選出した清水議長−天田書記長体制の継続を確認した。

 四、全党・全人民は第六回大会路線で武装し前進しよう

 第六回全国大会後、最初の決戦であった都議選においてわれわれは敗北した。きわめて貴重な九四五〇票を獲得しつつも、当選にはいたらず、定数六の第九位であった。
 小泉反革命が吹き荒れる中での闘いであった。小泉「改革」が戦争に向けた国家改造攻撃であり、日本が侵略戦争の道に本格的にふみ出したことを労働者人民に暴露し、これと真っ向から闘いぬくべき選挙戦であった。しかし、この闘いを選挙戦の中で貫徹・適用することに中央指導部がたじろぎ、敗北した。
 今回の都議選において、小泉反革命の登場という巨大な情勢転換を全面的にとらえ対決しきるという点で、党としての闘いの組織化は不十分であった。「八〇%を超える支持」という情勢下で、小泉反革命によって決定的な犠牲を強いられる労働者人民の中で革命的暴露を的確に組織し、小泉政権との階級的対決の死活性を全面的に宣伝・扇動し、反撃の闘いを組織することにおいて日和見主義・敗北主義に陥り、敗北したのである。
 このことを徹底的に自己批判し、この総括をふまえ、革共同は二〇〇一年後半戦において、小泉反革命との対決を基軸的政治闘争として明確にし、労働運動においてもこれと真っ向から闘いぬくこと、さらに四年後の都議選決戦に向かって断固たる革命的飛躍を闘いとることを宣言するものである。
 革命的議会主義は、反スターリン主義・革命的共産主義運動にとって、理論闘争、政治闘争、経済闘争のすべてにかかわる重要な闘争課題であり、政治闘争の死活的な一部分をなしている。革共同はこの革命的議会主義、選挙闘争を決定的に重視し、次なる勝利に向かって全力で闘いぬく決意である。
 大会報告と決定の基本的内容は『革命的共産主義者同盟第六回全国大会報告・決定集』として公表される。この『大会報告・決定集』を全同盟員が学習し、十分な討議を組織することを要請する。
 第六回全国大会には労働者党員が代議員として数多く参加した。革共同の方針形成に労働者党員が常任活動家とともに一丸となって参加した。この『大会報告・決定集』を、「連合」のもと、また全労連のもとで階級的労働運動を守りぬこうとしている労働者、全労協や国労の中で闘いぬいている労働者、そして差別・抑圧と闘う人びとに広めていかなければならない。
 また、革命的共産主義運動の若き担い手である学生戦線の諸君の中に広め、ぜひ読んでもらいたい。
 第六回大会の路線で党と労働者階級・人民大衆全体が武装しきった時、日本の階級情勢は激変し、政治闘争や労働運動は大いに発展すると確信する。
 第六回大会をもって革共同は、二十世紀最後の凶悪な反革命であるカクマルに対し、理論的にも(「黒田哲学」を含む)、政治的にも革命的決着をつけ二十一世紀に躍り出た。
 時代は戦争と大恐慌の時代であり、国内にはファシズム的装いをもった小泉政権が登場し、侵略戦争への本格的露払いを始めている。革共同は、この第三次世界大戦の危機とそのもとでの小泉政権と全面的に対決し、六〇年安保闘争、七〇年安保・沖縄闘争を超える第三次安保・沖縄決戦、改憲阻止決戦、国際連帯闘争の巨大な爆発へ進撃する決意である。
 (二〇〇一年七月二十九日)

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