ZENSHIN
2001/05/28(No2006 p06)
憲法の基本原理を全面否定し 改憲と戦争あおる公民教科書
「つくる会」教科書 国際主義貫き採択阻止へ
五月十五日、中学校教科書の見本本(検定に合格した後の完成版)の展示が始まった。その中には許しがたいことに「新しい歴史教科書をつくる会」編集の歴史・公民教科書も含まれている。見本本展示に踏み切ったこと自身、日帝・文科省が、韓国政府による三十五項目の再修正要求を一蹴して「つくる会」教科書の採択へ突き進んでいることを示すものだ。他方、中国人民の怒りの中で、中国政府も十六日、日本政府に対して八カ所の修正を要求した。韓国、中国の再修正要求を断固支持して闘おう。東京・杉並を先頭に全国で「つくる会」教科書採択阻止の大運動を巻き起こせ! その闘いの中で都議選決戦勝利=けしば候補当選をかちとろう。
「国防の義務」掲げ憲法第9条を攻撃
「つくる会」公民教科書の最大の特徴は、戦争美化の歴史教科書と結びつき、戦後憲法を徹底的に排撃し、戦争国家化=改憲を扇動している点にある。子どもたちに改憲の必要性を説き、さらには「改憲後」の価値観をたたきこむためにつくられた教科書なのである。それは同時に、戦後階級闘争の全地平とその中で労働者階級人民が形成してきた「あやまちは二度と繰り返さない」という意識そのものを破壊することを狙うものである。以下、「つくる会」公民教科書がいかに戦後憲法を排撃しているかを中心に批判していく。
まずこの教科書では、現行憲法の「平和主義」を積極的に確認する個所は一カ所もない。憲法前文にいたっては一言も出てこない。まったく逆に九条改憲をあおる言葉が随所にちりばめられている。
「主権国家には国際法上、自衛権があるとされ、世界各国は相応の防衛力をもっている。……しかし、日本国憲法には『戦力』の不保持が謳われていて、この憲法のもとで自衛のための武力がもてるのかということが、たえず議論されてきた。……憲法の規定と自衛隊の実態との整合性については議論が続いている」
白表紙本では「憲法の改正が強く主張されている」と記していた最後の一文だけが、検定で修正させられたものである。「憲法論議と第九条」のコラムでは、
「自衛のための組織である自衛隊は主権国家として当然の存在であるが、日本国憲法における自衛隊の位置づけが不明瞭ならば、憲法の規定自体を変えるべきだとの意見もある。さらに、自衛隊が積極的に国際協力できるよう、集団的自衛権を憲法に明記すべきとの主張もある」
いずれも、検定意見によって表現は若干変わったものの、九条改憲を扇動する核心的内容にはなんの変わりもない。さらに、
「日本国憲法は国民の義務として、子どもに普通教育を受けさせる義務、勤労の義務、納税の義務の三つを定めている。……しかし、憲法の理念に沿って国民生活を営むということは、この三つの義務を果たしてさえいればよいというわけではない」
と記し、同じページに「各国の憲法に記載された国防の義務」と題した囲み資料を置いた。各国憲法から「国防の義務」条項を引用し、「これらの国の憲法では国民の崇高な義務として国防の義務が定められている」と明記している。
白表紙本は本文で「その意味で重要なのは、国家に対する忠誠の義務と国防の義務である。これらの義務は日本国憲法には定められていないが、諸外国の憲法には国民の崇高な義務として明記されている」と記していた。検定意見により削除になったその内容を、囲み資料で生き残らせたのだ。検定による修正のペテン性を示している。
また巻頭グラビア「大国日本の役割」では、自衛隊の写真をちりばめ、
「日本の役割は私的な感情ではなく、公的な国益から考えられなければならない」
と記している。朝日新聞の世論調査でも九条改憲に反対が七四%と発表されているが、「つくる会」教科書は、この九条改憲に反対する圧倒的大多数の労働者人民に対して「『戦争反対』などという『私的感情』は捨てよ。国益こそが重要だ」とわめいているのだ。今日の日帝の改憲攻撃の最大の焦点である九条改憲を扇動しているものだ。
「天皇は国の中心」と明治憲法を賛美
第二に「国民主権」の否定である。現行憲法の「国民主権」とは、明治憲法下で天皇主権のもとに日帝が暗黒政治と植民地支配、侵略戦争を強行した歴史を背景に、天皇主権を否定して国民主権を明記したという性格のものである。
では「つくる会」教科書はいかに記しているのか。まず、明治憲法とそのもとでの天皇制の全面肯定と徹底的な美化である。
「この憲法(大日本帝国憲法)では、……わが国は万世一系の天皇が統治する立憲君主制であることを明らかにした。天皇は国の元首であり、国の統治権を総攬(広く監視)する者であると定められたものの、その統治は憲法の条規に従うとされた。……この憲法は、アジアで初の近代憲法として内外ともに高く評価された」
続いて戦後憲法については、明治憲法下の天皇制との断絶性を否定し、その連続性を強調している。
「日本国憲法では天皇について……国民主権のもとで伝統的な天皇制を維持することを確認している」
「わが国の歴史には、天皇を精神的な中心として国民が一致団結して、国家的な危機を乗りこえた時期が何度もあった。明治維新や第二次世界大戦で焦土と化した状態からの復興は、その代表例である」
要するに、“明治憲法下の天皇制支配はまったく正しかったし、それは戦後憲法でも変わらずに引き継がれている゜と描いているのである。
天皇制ボナパルティズム支配こそ、「国体」を掲げた治安維持法体制による階級闘争圧殺の暗黒政治であり、日帝の植民地支配と侵略戦争への道をつくったものであった。「天皇の警察」が暴威をふるい、「天皇の軍隊」こそが世界史的にも類例を見ない残虐極まりない南京大虐殺や日本軍軍隊慰安婦制度を生み出した。「つくる会」教科書が戦前・戦中・戦後を連ねて天皇制を徹底賛美しているのは、再び天皇を元首とし、天皇制ボナパルティズム支配体制の確立を狙う宣言そのものである。
また「信教の自由」を、以下のように記している。
「政教分離とは、国家や地方自治体などが宗教とかかわることを禁止することである。しかし、現実には政治と宗教とをはっきりと分けることはむずかしい場合があるので、政治を通じて宗教的な価値観に誘導したり、特定の宗教に有利なとりはからいをするなど、ゆきすぎたかかわりを禁じることだと考えられている」
憲法の「信教の自由」条項とは、国家神道を廃止し、政治と宗教の一体化を禁止したものだ。これに対して「政治と宗教とをはっきりと分けることはむずかしい」と政教分離を公然と踏みにじり、再び天皇を「現人神」とする国家神道の復活を狙っているのだ。
しかも同じページに「国会議員による靖国神社参拝」の写真が掲載されている。日帝・小泉が「いかなる反対があろうと、総理大臣として靖国神社に参拝する」と公言しているのと一体の攻撃だ。靖国神社とはA級戦犯を始め「天皇のため」に死んだ日本軍兵士を「英霊」としてまつった国家神道の頂点に位置した神社である。「つくる会」教科書は、靖国参拝を正当化し、再び「天皇のため、お国のために命を投げ出せ」と主張しているのだ。
“基本的人権よりも国益が優先”と説く
第三に「つくる会」教科書の際立った特徴は、フランス革命以来の基本的人権思想(とその戦後憲法への独特の反映)に対する憎悪と全否定である。この教科書では、基本的人権の尊重について記した個所にはすべて「しかし……」「だが……」など、その内容を否定し制限する言葉が続く。
「人権保障の基本は、一人ひとりの人間をかけがえのない存在として大切にすること(個人の尊厳)である。それと同時に、権利の主張、自由の追求が……社会の秩序を混乱させたり社会全体の利益を損なわないように戒めている。憲法に保障された権利と自由は……濫用してはならず、つねに公共の福祉のために利用する責任があるとしている」
「憲法は、国民にさまざまな権利や自由を保障しているが、これは私たちに好き勝手なことをすることを許したものではない。……社会全体の秩序や利益を侵す場合には権利や自由の行使が制限されることもある。……憲法はこれを『公共の福祉』という言葉を用いて表現している」
「憲法には思想・良心の自由、信教の自由、集会・結社の自由、表現の自由、学問の自由が保障されている。……その中でも、とくに重要なのは表現の自由である。……しかし表現の自由は他方で、……社会の秩序や道徳を侵す危険を合わせもつので、注意する必要がある」
要するに労働運動や、反戦闘争、沖縄闘争、狭山闘争、三里塚闘争などの集会やデモを憎悪し攻撃して、“基本的人権よりも国益が優先される゜ことを説く教科書なのだ。とりわけ大失業時代の到来により不可避に巻きおこる労働者の総反乱への恐怖と憎悪がある。
これはイデオロギー的には、昨年五月に発表された「読売新聞第二次改憲試案」が新たに「公共の利益」という概念を打ち出したことにつながっている。「公共の利益」とは一見、現行憲法に記された「公共の福祉」とまぎらわしい言葉だが、その中身は「国益」にほかならず、基本的人権という概念を徹底的に攻撃の対象とし、“個に対する公の優先゜の論理を持ち出したものである。
「つくる会」教科書は、「公」による「私」の否定という論理も満展開する。
「社会をつくって生活する人間は、つねに二つの側面をもつだろう。一つは、社会の中で他人とかかわりながらも、もっぱら自分の利益を追い求めたり、自分の権利を追求したりする面であり、もう一つは、自分の利益や権利よりも、むしろ国家や社会全体の利益や関心という観点から行動しようとする面である。前者が『私』を中心とするなら、後者は『公』を中心としている。……とくに後者を中心に市民をみたとき、これを『公民』とよぶ」
「『公民』とは、ただ『私』の利益や『私』の好き嫌いの世界に安住するのではなく、その『私』が属している国の歴史と文化をふまえて、『私』の属する国の未来への展望をもとうとする『市民』のことをさす」
何度もくり返される“よき公民であれ゜という主張は、「私」を“自分勝手なエゴイズム゜と描いて否定し、「公」への忠誠と奉仕を要求するものだ。この「公民」という概念は、労働者人民の階級的な利害にもとづくものなのか。まったく違う。“国なくして個人なし゜“私を捨て、国益のために生きよ゜と、ブルジョア国家への奉仕を強制するイデオロギーなのだ。
労働者人民にとっては「天皇のため」に最後は命までも投げ出させられた歴史の再現そのものである。
二度とあやまちを繰り返さぬ闘いを
このように「つくる会」教科書は、現行憲法の「平和主義・国民主権・基本的人権の尊重」の基本原理をすべて否定し、改憲を正面から扇動している。この攻撃との対決は改憲阻止決戦そのものである。社民党のように単なる護憲としての護憲の立場では勝ちぬくことはできない。
言うまでもなく現行憲法は帝国主義憲法である。それは「象徴天皇制」というかたちで天皇制を護持し、「戦争放棄」をうたいながら、日米安保体制を形成し、沖縄を「基地の島」として米軍政下に売り渡し、憲法一〇条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」として在日アジア人民を入管体制のもとで管理し抑圧する、ということと表裏一体のものであった。
しかし同時に現行憲法は、日帝の敗戦という現実と、戦後革命の高揚とその敗北の中で生み出されたことに規定され、またその後の六〇年安保闘争、七〇年安保・沖縄闘争、国鉄を始めとする労働運動など、今日にまでいたる戦後階級闘争の地平に規定されている。そのため、帝国主義憲法として決定的な制約をもっている。日帝にとっては、天皇制と帝国主義軍隊を全面的に復活させ侵略戦争に打ってでるために、絶対に突破しなければならない制約になっているのだ。
「つくる会」教科書が今日の社・共と連合の裏切りに力を得て、帝国主義的祖国擁護を前面に押しだし、憲法の全面解体攻撃を最先端で担っていることに対して、労働者人民は「あやまちは繰り返さない」の誓いを貫き、断固自己の権利と階級的な利益を対置して闘おう。そしてこの闘いの中で、戦後憲法を無条件に賛美してきた社・共の指導下で克服されずにきた排外主義・差別主義への屈服をのりこえ、七・七路線とプロレタリア国際主義を貫き、階級性を鮮明化させていくことが求められている。
歴史教科書とともに、「つくる会」公民教科書の七月採択を絶対に阻もう。
〔大西 晶〕