ZENSHIN 2001/03/12(No1996
p08)
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週刊『前進』(1996号4面1)
2001年3・14アピール
松崎・JR総連が決定的に離反分裂カクマル完全打倒かちとれ
都議選決戦勝利・改憲阻止へ
団藤 清
本多延嘉書記長
1934年2月6日、東京に生まれる。54年早稲田大学入学。早稲田大学新聞編集長。日共早大細胞を指導。56年ハンガリー革命の衝撃を受けスターリン主義の問題を根本的にとらえ返す。トロツキー教条主義との闘いをつうじて(革共同第一次、第二次分裂)、59年革共同全国委員会を創設。以降、革共同書記長。63年黒田一派の卑劣な分裂・逃亡と闘う。69年4月27日、4・28沖縄闘争を前に破防法40条で逮捕、2年間の獄中闘争。二重対峙・対カクマル戦争を最先頭で指導しているさなかの75年3月14日、反革命カクマルの卑劣な憎むべき襲撃を受け暗殺される。享年41歳。
【写真左】 1968年7月14日 全学連大会(法政大学)
はじめに
ついにファシスト・カクマルを完全打倒し、三・一四復讐戦を貫徹していく絶好の時を迎えた。
われわれは、カクマル組織を黒田・カクマルと松崎・JR総連(カクマル)へと大分裂させる勝利をかちとった。これは、「黒田=松崎」としてのみ存在し得たカクマルという党派を、本質的な意味で崩壊させるところに追い込んだものである。
一九六二〜三年に革共同から逃亡して以来、反帝・反スターリン主義の仮面をつけた現代のファシストとして数限りない悪業を繰り返し、革命的共産主義運動に敵対してきた反革命カクマルを、われわれはついに打倒・一掃し、勝利の戦闘宣言を発する時が来たのだ。
われわれは、ここに対カクマル戦がひとつの決着点を迎えたことを確認し、同時にこの勝利にとどまることなく猛然と決起し、追撃戦に打って出て、文字どおり三・一四復讐戦貫徹=総反攻完遂、カクマル完全打倒を戦取することを固く決意するものである。
一九七五年三月十四日。革命的共産主義運動の創設者であり、反帝・反スターリン主義世界革命−日本革命の首領・本多延嘉革共同書記長が、ファシスト・カクマルに暗殺されてから二十六年。われわれは、あらためて「三・一四をみすえ、そそぎ、のりこえよ」「三・一四反革命をあいまいにするな」を鮮明にし、カクマルへの革命的報復を激しく決意するものである。
本多書記長は、わが同盟の創設者であり、理論的、政治的、組織的指導者であった。革命的共産主義の思想と理論を身をもって示し、また黒田の反革命性を見抜き、六二年の三全総(革共同第三回全国委員会総会)を結節点にして反スターリン主義・革命的共産主義運動の飛躍を指導した同志である。
三・一四反革命を受けたわれわれは、ファシスト・カクマルへの復讐戦を誓い、この戦争に勝利することを一切の活動の軸にすえて闘ってきた。革命党の党首の虐殺という行為は、明らかに日本革命そのものの圧殺を意味した。われわれ一人ひとりが、自己の革命的情熱と階級的精神を解き放ち、革命への確信と中核派魂を支えに、本多書記長の屍(しかばね)をのりこえ、「ひとたび死んだ」地点から、革命と革命党を復権させるために闘った。
そして先制的内戦戦略の第二段階へと進み、八〇年代の日帝・中曽根の大反動攻撃と不屈・非転向に闘い、三里塚闘争と動労千葉という階級的基本骨格を守り抜いて、ついに九一年「五月テーゼ」をもって、再び本格的に「労働者の中へ」を実践する地平に立つことができた。
われわれは五月テーゼ路線のもと、革命的共産主義運動を本格的に前進させるために、一から学び直しながら、労働運動への全面的取り組み、政治闘争の大衆的爆発のために猛然と闘ってきた。それはあらゆる局面でカクマルとの接近戦をとおして戦取したものである。何よりも、JR総連カクマルと同じ戦場で闘ってきた動労千葉・動労総連合、国労共闘の国鉄戦線の労働者が、営々と切り開いてきた国鉄決戦の大きなうねりが、カクマル=JR総連に決定的打撃を与え続けたことは明らかである。
こうしたファシストとのすべての闘いが、ついにカクマルを分裂させ、完全打倒の時をたぐり寄せたのだ。
われわれは、対カクマル戦での勝利をはっきりさせ、今こそ全戦線でカクマル完全打倒の闘いに猛然と打って出ることを確認したい。全人民の怒りを組織し、革命的大衆闘争を爆発させ、カクマル打倒・一掃の闘いに総決起しよう! すべての職場、学園、地域からファシスト・カクマルを追放しよう!
改憲阻止決戦の大爆発、都議選決戦勝利、労働運動の新潮流運動の躍進という二十一世紀第一年の決定的勝利をもってこの歴史的闘いを推し進めよう!
今こそ、黒田、松崎、土門の三頭目を処刑し、三・一四復讐戦貫徹=総反攻完遂、カクマル完全打倒、日本革命勝利の大事業へと驀進(ばくしん)しようではないか。
第1章 松崎との分裂は黒田の死だ「松崎批判」できぬカクマル
(1)五月テーゼ路線が大分裂を引き出す
黒田の「組織現実論」の唯一で最大の実体であったJR総連が今、カクマルの思想、理論、運動、実践、組織で完全に行きづまり、ぶざまに難破した姿をさらしている。カクマルは党派として本質的に死んだのであり、黒田の死臭ふんぷんたる残骸と、腐敗しきった一握りの白色軍事力だけが残されている。
カクマル組織をここまで追い込んだ直接的な要因として、以下の三つをあげることができる。
第一は、わが革命的内戦の勝利を土台に開始した、五月テーゼ路線に基づく革命的大衆闘争の爆発と国鉄決戦の不屈の階級的前進ということである。とりわけガイドライン闘争の爆発と、国鉄決戦の展開は決定的打撃をカクマルに強制した。五月テーゼ路線のもとでの対カクマル戦−戦略的攻勢としての革命的大衆闘争の威力をはっきりと確認できる。
第二は、カクマル頭目=黒田の組織指導の全面的破産ということである。JR総連指導に限らず、黒田のカクマル組織指導そのものに原因がある。特に「賃プロ」主義(=賃プロ魂注入主義)による指導問題と「神戸謀略論」デマ運動の破産が決定的であった。
第三は、国鉄の分割・民営化における黒田=松崎による裏切り路線の必然的帰結ということである。松崎が今日までやってきたことは、カクマルの反革命方針の実行であり、日帝の攻撃の前に敵の先兵となって公然と屈服し、裏切って延命を図るというものである。しかしこれでは「革命の仮面をかぶった反革命」として立ち行かなくなったのだ。
(2)「階級敵」の打倒はどうなったのだ!?
カクマルは昨年十二月八日の党声明をもって、「JR総連労働運動の終焉(しゅうえん)」を宣言し、JR総連執行部を「階級敵」と断罪し、その打倒を宣言した。しかしカクマルは今になって、松崎と東労組を含むJR総連の丸ごとの離反という現実を隠ぺいし、ぺテン的情報操作で組織維持をはかることに懸命である。党としてJR総連の打倒を宣言しておきながら、分裂の首謀者・松崎を弾劾できずにいる。
二月四日のカクマル春闘集会では、JR総連をなんら路線的に批判できず、「打倒」を引っ込めてしまった。分裂が焦点化してはまずいからだ。そして黒田への個人崇拝、忠誠運動をもって組織を固めることに全力をあげている。カルト的な黒田的私党として生き延びようということである。
(3)松崎の一層のファシスト化
一方、松崎・JR総連(カクマル)は、カクマルの党派的規制から離れることでますますファシスト労働運動化を強め、資本への迎合、労資一体化、組合員への犠牲の強要、戦争協力の道をひた走り、自らの利益だけを追求する道を転げ落ちている。
松崎とJR総連は、これまで「ニアリー・イコール論」をもって、組合として積極的にリストラ攻撃を労働者へ強制し、資本と対決する動労千葉や国鉄労働者の原則的で階級的な闘いを敵視し、その一掃を叫んできた。いわく、「会社倒産運動の一掃」「ストライキでは解決しない」「理性をもった行動」「効率化をめざせ」「会社の利益を守ろう」などなどと。
そして、カクマル=JR総連はことあるごとに「一企業一組合」を標榜(ひょうぼう)し、「強靭(きょうじん)な労使協力体制」なるJR資本との一体化で動労千葉や国労の破壊を追求し、またJR組合員の労働者としての権利の剥奪(はくだつ)を自ら推し進めてきた。彼らは資本との癒着と結託を原理として、ストライキを敵視し、会社を守る立場でファシスト運動を進めてきた。そしてこの十数年、こうした関係で甘い汁を吸って来たのだ。
第二の分割・民営化攻撃ともいうべきJR十万人体制攻撃、その一環である「ニューフロンティア21」計画というJR東の一万人首切り合理化攻撃は、動労千葉や国労組合員だけでなく、JR東労組(JR総連)組合員そのものの首切りすらも不可避とするものである。ここで松崎は再び労働者を裏切り、JR総連組合員の首切り・リストラをも自ら展開することでJR東労組・JR総連(カクマル)の組織としての延命を図るという反革命的決断をしたのである。それは、分割・民営化において黒田=松崎がとった反革命的方針の再現である。
すでに昨年十二月九日、松崎はJR東労組の全支部委員長会議で「『資本の法則』として人件費部分を削っていくというのは、これは避けられないですよ。…『暗黒の時代』なんですよ。…真っ暗なんです」と、開始された首切り攻撃を受け入れよと強要している。資本との結託はとどまるところを知らないものとなっている。
一方カクマルは、JR総連と東労組の「ダラ幹」批判を繰り返し、「ケルンをつくれ」「革命理論で武装しろ」「黒田の本を読め」などと言っているが、JR資本への忠実な奴隷になりきることで自分たちだけが生き残るという方針は、分割・民営化の時のカクマルの方針そのものなのである。
しかし、首を切られるJR一般組合員の怒りの爆発を絶対に抑えることはできない(背景にあったカクマルの白色軍事力を失った分、なおさらだ)。何よりも闘争団を守り、闘っている国鉄労働者の階級的闘いの存在がある。この原則的な闘いは必ずやJR組合員との大合流をもたらし、ファシスト的過疎支配を大崩壊させるものになるのだ。
問題は、今の資本攻勢が、日帝危機の深さに規定されて、これまでとは比較にならない攻撃性をもっているという点である。
(4)副議長・松崎がカクマルを捨てた
JRの完全民営化(カクマルの言う「国鉄改革の完遂」)を前にして日帝、資本は、かつての分割・民営化において黒田=松崎が選択した裏切り路線をさらに前に進めることを求めたのだ。一般組合員を裏切るだけでなく、一切のごまかしがきかない形で松崎とJR総連に「カクマルを捨てるか、JRを捨てるか(首切り対象となるか)」を迫ったのである。
この事態に直面した松崎とJR総連は、「JR資本のほかには組織的影響を一切受けない(=カクマルを捨てる)」ことを誓い、今後も日帝・JR資本に抱え込んでいってもらう道をはっきりさせたのである。それはJR総連がファシスト労働運動をますます強めていくということでもある。
カクマルの情勢認識は、「ネオ・ファシズム体制が確立し、権力万能の謀略が吹き荒れ、暗黒の時代が続く」というものである。これは、JR総連が資本との結託体制に浸りきっている限り、ほかに選択の余地のないものだった。
それは帝国主義の危機の深刻さからくる激しい資本攻勢に対して、黒田とカクマルのイデオロギー、路線、組織論ではまったく対抗できないことを示している。カクマル副議長・松崎が最後に黒田とカクマルにではなく、JR資本に救いを求めたことは、JR総連の腐敗というだけで片付けられるものではなく、黒田とカクマルの本質的な破産そのものに根拠があるのだ。
それは日帝・資本と対決し、「一人の首切りも許さない」として階級的に闘う、革命的で戦闘的な国鉄労働者の対極にあるものである。
(5)全産別に波及する深刻な党是的危機
カクマルの最大の問題は、あたかも小田、坂入などの「七人組」が問題であるかのように言って、事態の真相をひた隠しにしなければならない点にある。
それは第一に、この分裂が、松崎をとおした黒田のJR総連指導の行き着いた結果であり、黒田の組織指導そのものに原因があるからである。カクマル組織が黒田=松崎として一体のものであり、JR総連の離反は、ほかの誰でもない黒田その人の指導責任問題としてあるのだ。
第二に、黒田の「組織現実論」そのものの大破産を意味してしまうことである。JR総連の組織丸ごとの離反ということは、「組織現実論」の難破であり、無力化の自己暴露である。それはカクマルの「場所的現在においては党づくり」の核心である、カクマルの革命観と「組織現実論」の空中分解であり、カクマル党是の破産ということなのだ。JR総連の存在があって黒田の「組織現実論」が意味をもつという関係だったからだ。
第三に、首謀者・松崎を弾劾することが、カクマルの全産別の組織問題を大爆発させてしまうという恐怖がある。
JR総連は、「戦闘的労働運動の伝統の火をもやし続けている労働組合運動」(九六年の黒田の議長辞任メッセージ)であり、「先輩同志の闘いと教訓から学ぶ」べき手本となる労働組合であり、連合の中では「反戦、護憲」を唯一掲げる素晴らしい模範的な組合であると、カクマル内で賛美され続けてきた。すなわちJR総連はカクマルの労働者、学生のアイデンティティーを構成してきたのである。
それが「九州労の一部反党陰謀分子」の露見だけでカクマル組織は大混乱し、「情けない」「どうなっているんだ」「自分たちが手本としてきた組織がなぜこうなってしまったのか」という発言が続出している。ましてやJR東労組、JR総連がカクマルから組織丸ごと離反したという現実は、そのカクマルとしてのアイデンティティーの解体、喪失なのである。
また、カクマルの産別指導部それぞれが自己の指導の全面的な破産を突き付けられたということを意味する。JR総連以外のカクマル産別指導部は、多かれ少なかれ松崎を手本にして、松崎と同じ手法と論理で産別組織建設の指導を行ってきた。その手本としてきた松崎が、黒田カクマルから離反し、分裂したことは、全産別カクマル指導部がこれまでのあり方ではやっていけなくなったということなのだ。実際、自治労、教労を始めとする産別組織の大々的な分裂・離反問題はまさにこれから火を噴こうとしている。
松崎がカクマルとの絶縁をはっきりさせているのに、カクマルはまったく批判できないのだ。
松崎はカクマルの事情を見透かし、当初から自己の立場を表さず、沈黙してきた。なぜなら、松崎の側にもそうしなくてはならない理由があったからだ。
カクマルからの離脱にあらためて言及した途端に、実はつい最近まで自分がファシスト・カクマルの副議長であったこと、カクマルの白色テロ部隊に巨額の資金を提供してきたことなどが明らかになるからである。これまで勝共連合機関紙や「自由新報」に登場して、「カクマルをやめた」と言ってきたことすべてが、ペテンであり、大うそであったことがはっきりし、その責任が追及されかねないからである。
また、カクマル白色暴力への恐れから、カクマルとの関係の悪化を松崎の側から起こしたくないからである。
しかし、カクマルによる坂入拉致・監禁という事態を受けて、松崎は自分の立場を資本と権力、JR総連組合員の前にはっきりさせることを迫られた。
「『大塚体制粉砕』などとおっしゃる方もいらっしゃるようですけれども、私は大塚体制で非常によかったと思っているわけです。心から歓迎しているわけですから、これは『打倒せよ』という人と意見が違うのは当然ですね」
「われわれの闘いに真っ向から反対し、会社の社宅に『進撃』という機関紙を配っているカクマル派は、私のことをブルジョアに完全に染まった組織の裏切り者と言っている。……私を組織にとどめておけば資金の提供も十分にしてもらえると思い、われわれに対抗するような新聞などを投げ込んで、私を苦しめて楽しんでいる。……万が一にも、私が彼ら(カクマル)の軍門に下るようなことがあれば、私は皆さんの前から姿を消します」(十二・九JR東労組全支部委員長会議での講演)
松崎は間違いようのない形でカクマルへの決別宣言をしたのだ。
第2章 黒田の無責任で反革命的な組織指導の破産こそが元凶
(1)運動路線なき内部思想闘争の帰結
カクマルの大分裂は、黒田のカクマル組織指導の破産に一切の原因がある。しかし、黒田はこれを自ら切開したことは一度としてない。むしろ自分を絶えず「雲の上」に置き、指導の問題をその時々の指導部の交代や組織員の未熟さ、経験の少なさにすりかえてのりきってきた。黒田無謬(むびゅう)神話を維持しようとする黒田その人が、実はカクマル組織の最大の問題だったのである。
@84〜85年 PS(労働者学校)提起
黒田は、国鉄の分割・民営化の裏切り路線の組織総体への徹底を図るために、松崎に全産別指導部に対して講演させ、「労働組合主義と言われるくらいに」まで徹底的に、動労カクマル(当時)のように組合運動に埋没せよという方針をとった。〔PS提起〕
その結果、全産別組織が丸ごと組合主義に埋没し、カクマル労働者党員は資本・当局の先兵となり、機関紙『解放』も読まず、会議に出席もせず、「組合内フラク作りのため」にゴルフや遊び、酒場に入り浸るという生活の腐敗が激しく進行して、組織瓦解的事態となった。
A89年 3・5春闘集会提起
黒田は急激な党組織の腐敗の進行と、党員の減少という事態に直面し、八九年三・五集会提起をもって「組合主義的偏向の一掃」を指示した。しかし、黒田自らの指示が生んだ事態への総括的切開もないことや、一方で腐敗した生活や組合運動の現実を容認する労対指導部の「妨害」などで、変革は遅々として進まなかった。〔三・五提起〕
B91年 DIの登用
これに苦り切った黒田は、元全逓労働者DI(土井)を抜擢(ばってき)し、既存産別指導部にぶち当てた。DIは、組合主義に浸りきった組織の腐敗状況を前に、黒田のお墨付きを得て「賃金プロレタリアートの立場に立て」と称し、いわゆる「賃プロ魂注入主義」をもって内部思想闘争と組織の「再創造」に入った。組合主義者は、徹底した内部思想闘争をもって断罪される激しいものだった。
この内部思想闘争と称する白色テロ恫喝に耐え切れず、九一〜二年ころには、自治労を中心にカクマルからの集団的脱走が相次いだ。この内部思想闘争は党員再登録運動として進められた。組合主義者批判は、自治労や教労そして沖縄組織だけでなく、当然にもJR総連幹部に対する批判へと発展していった。
九一年六月には「ダラ幹・松崎批判」が公然と『解放』紙上で展開された。また九二年三月には、沖縄教労の高橋利雄が内部テロで殺された。
さらに九二年五月のカクマル集会では、土門、朝倉、森、山里らのカクマル古参指導部が壇上に並ばされて自己批判させられるところまで進んだ。
こうしたやり方で「組織の解体的再創造」と称した運動を進めたのは、黒田その人だったのだ。
C93年夏 DIの粛清
しかし、DI(賃プロ主義者)が「組織現実論のようなクチャクチャしたものはどうでもよい」と言って黒田「組織現実論」の破産を公言し、またJR総連との対立が緊張するに至って、ついに黒田は「清算主義となじられようとも」と、自ら抜擢したDIの粛清に踏み切った。
問題は、カクマル全組織の混乱と破壊をもたらした「賃プロ」の発生と粛清が、黒田によるDIの抜擢とその組織指導によって行われたものであり、既存指導体制の一掃という意図をもって行われたことである。
黒田は、「自分は冬眠していた」として、何ひとつ自己批判もしないままに、「なぜ賃プロ主義者を批判できなかったのか。賃プロへの免疫がなかったのはなぜか」などと言って、卑劣にも自らの指導責任を下部へ責任転嫁している。「黒田理論の主体化ができていず、組織員が未熟だからだ」と結論づけたのだ。「賃プロ主義者」に「ダラ幹・松崎」と呼ばれ、打倒対象とされた松崎とJR総連にとって、黒田のこの「組織総括」はとうてい容認できないものであった。この時からカクマルとJR総連の分裂は始まったのである。JR総連は九四年以降、カクマル機関紙『解放』を組合員に売ることを禁止する事態となった。
この組織総括をめぐってカクマルは一七回大会を開催したが、それは九三年夏から九四年夏の一年間に及ぶ、計三回にもわたる続開を必要としたものであった。そして翌九五年一月のカクマル政治組織局会議で、ついに黒田の議長辞任が議題となったのである。
D96年 黒田の議長辞任
黒田は、自作自演の「列車妨害=鉄道謀略」事件を指令したことが権力に発覚し、追及される恐れから、「カクマル二〇回大会の決定に基づき」、ついに九六年に議長を辞任し、植田琢磨の新議長就任となった。
黒田の議長辞任は、権力からの追及から逃れることと、「賃プロの総括」という形をとった黒田による松崎・JR総連取り込み策でもあった。
E95年〜 「謀略論」へののめり込みと破産
賃プロ総括をめぐるカクマル組織内の混乱と、九五年以降も第二「賃プロ」的な偏向が次々と発生するのを見て、黒田は「権力の謀略」論によるカクマル組織固めを推進していった。
F98〜99年 第三次安保・沖縄闘争の爆発とカクマルの孤立
ガイドライン闘争の大衆的高揚に対してカクマルは根底的な動揺に陥った。カクマルは、学生カクマルだけでのりきれなくなってJR総連を動員した。九九年六月、その動員されたJR総連組合員は会場にも入れてもらえず、労働者階級人民から「JR総連=カクマル=白色テロ集団」として弾劾、非難のあらしを浴びせられた。これがJR総連に決定的な衝撃を与え、分裂を決断させる動力となったことは明らかである。九九年夏、JR総連のカクマルからの離反がさらに明確に進展していった。
(2)黒田の権威失墜=「神戸謀略論」デマ運動の破産
▼「謀略論」の組織的意義とそのデマゴギー性
カクマルによる「権力の謀略」論の特徴は、権力の謀略を解明したり、その権力と闘うものではまったくないということである。「謀略だ」とする結論がまずあり、その「謀略」を認めるかどうかを迫り、「謀略」を否定する者を「権力の手先」「スパイ」などと呼んで攻撃するものである。
またカクマルは、謀略論を、戦闘的大衆闘争の爆発や階級的激動に際して、カクマル組織員はもとより労働者階級人民を決起させないための対抗的な運動として、極めて恣意的に登場させる。政治課題を闘わないだけでなく、それに対立させるものとして持ち込み、混乱を引き起こし、闘いの発展を押しとどめるためのものである。しかも「権力と闘う」という仮構をとって、カクマルの「反権力性」をペテン的に押し出すものとしても使うのである。そのファシスト運動の中で、大衆運動の高揚にも動揺しないで反革命的な組織づくりを進めていくというカクマルの組織建設路線である。
「権力の謀略」論は、今や、カクマルの世界観の核心そのものであり、ファシスト運動の組織論であり、白色戦争論であって、カクマルの反革命基本路線となっているのである。
▼カクマルの「権力の謀略」論の歴史
@「権力の謀略」論の出生(74年)
カクマルの謀略論は、K=K(警察=カクマル)連合路線のもとに初期的優位さをもっていたカクマルが、われわれの闘いの前進に追いつめられて、自らの戦争的・軍事的敗北をごまかす組織内情報操作のために、「中核派の戦果は権力の謀略部隊がやったもの」と得手勝手に唱えたことに始まる。
カクマルは、ことあるごとに「あと一撃」論や「勝利宣言」を発し、「最後的決着」「中核派解体宣言」などと言いなしてきたが、その破産の行き着いた先が「権力の謀略」論だった。
A「水本謀略論」での反革命的飛躍(77年)
七七年から始まった「水本謀略論」デマ運動は、この時期にカクマル学生の脱落、逃亡が相次ぐ中で、水死体で発見された水本を、「水本は権力に謀殺され、死体はすりかえられた」と言い出したものである。当時の動労が組合をあげて取り組み、文化人、労働者、学生、市民を巻き込んで「国民運動」と称した集会を開くなど一大「謀略」デマ運動を展開した。「水本謀略論」にくみしない者を、「権力の謀略と闘わないのか」と恫喝し、白色テロルをちらつかせてカクマルへの屈服を迫った。
「水本謀略論」をもってカクマルの謀略論はファシスト的に飛躍した。これまでのカクマル組織内の情報操作の枠をこえて、デマで社会全体を情報操作し、撹乱(かくらん)し、自らそれを運動化するまでに至った。
「水本謀略論」デマ運動を、当時の動労カクマルは、襲いかかる国鉄の大合理化攻撃に屈服、協力していく口実にした。「謀略の吹き荒れる時代だから」として「貨物安定輸送宣言」(七八年)、「国鉄合理化案妥結」(八〇年)、「働こう運動」(八二年)と屈服を深め、「ネオ・ファシズム体制が確立した」「労働運動は冬の時代だ」という主張と結合させて、「現代は謀略が吹き荒れる冬の時代だから労働組合は闘ってはならない」として分割・民営化の裏切りの道を突進していった。
B「謀略論」の自己展開
水本事件でエスカレートした「権力の謀略」論は、黒田の謀略論政治の始まりとなった。黒田は、この後、自らと組織に都合が悪いことや組織指導上の困難に直面した場合、「政治判断」と称して根拠のない謀略論やデマ物語をデッチあげていくのである。それは黒田によるカクマル組織内部の情報操作政治であり、それを主導する黒田への忠誠運動、黒田帰依運動でもあった。
C第三次安保・沖縄闘争への恐怖
われわれは五月テーゼ路線のもと、大衆運動の組織化に全力をあげ、また九五年の一九全総での「松崎・二つの講演」批判を皮切りに、カクマル=JR総連ファシスト労働運動の全面的暴露と批判を行い、国鉄闘争への決戦的な踏み込みを進めていった。これに対してカクマルは、謀略論へ深くのめり込んでいった。それは、カクマルの組織危機をファシスト的に固めるものとしても重要だった。カクマルはさまざまな謀略論を出しては引っ込めていった。オウム真理教による地下鉄サリン事件(九五年)、列車妨害、「O−157」事件(九六年)などがすべて「謀略」とされた。
D黒田指導の破産の紋章=「神戸謀略論」デマ運動
そして九七年、神戸小学生連続殺傷事件を「CIAによる謀略」と黒田が政治的に「判断」することをもって、「神戸謀略論」デマ運動は全カクマル組織をあげて取り組まれることになった。
これは、カクマルの組織危機の中で、第三次安保・沖縄闘争の爆発に恐怖し、これを混乱させる狙いをもって企てられたものである。同時に、カクマル組織の「賃プロ」的動揺を封じる目的をもっていた。
さらに決定的なのは、カクマルとの距離をとり始めたJR総連に、カクマルとしての党派性を回復させ、JR総連をカクマル組織にとどめておくための最後の手段としてもあった。
しかし問題は、この「神戸謀略論」デマ物語が、カクマルの記者会見発表後、十日ももたずに、犯人(A少年)が逮捕されたことで、たちまちグラグラになってしまったことだった。
黒田は、自らの決定で始めたこの謀略論を立て直す必要から、カクマルの白色軍事力を使ってA少年宅の盗聴、両親の尾行や、少年の精神鑑定をした県立病院への侵入、窃盗、盗聴へと全力をあげたのである。
組織的にも朝倉を先頭に「五六年のハンガリー革命を主体的にとらえ」たことに匹敵する(『解放』九八年新年号)と鳴り物入りで推進したが、出発点的に破産していたのだ。そのために、JR総連が参加することはなかった。黒田の重要な狙いの一つは頓挫(とんざ)した。
しかも「神戸謀略論」デマ運動は、破産に破産を重ね、権力とカクマルとの間にあつれきを生み出し、K=K連合の再調整を必要とする事態に発展した。
権力による東京・練馬区豊玉の軍事アジトの摘発と、間髪を入れずにわれわれが「豊玉アジトはJR東労組書記・林和美の住居と同じマンションにある(松崎と一体)」という事実を暴露したことは、松崎その人を直撃する事態となった。松崎にとって、それまで利用してきたカクマル軍事部隊が、権力とのあつれきの中で逆に重荷となるに至ったのである。それはカクマルとJR総連の関係にさらに亀裂を入れることとなった。
「神戸謀略論」デマ運動の破産に直面しても、黒田は『政治判断と認識』を出版し(九九年)、「神戸謀略論」運動を決断した黒田の政治判断はいかに正しかったかと居直り、それが分からないのは松崎を始めとするJR総連メンバーが「あきないびと」「俗人」であるからだと切り捨て、非難した。「賃プロ」指導の総括問題に続く「神戸謀略論」デマ運動の破産と、黒田のこの開き直った態度は、権力の重圧下にあった松崎とJR総連にとって、カクマルとの関係の清算に踏み切らせるものとなっていった。
何よりも、この過程において国鉄分割・民営化攻撃に屈せず闘う動労千葉・動労総連合、国労の労働者による国鉄決戦の爆発が、JR総連を追いつめていたことは決定的である。
同時にわれわれは、JR総連の「連合・新政治方針への対案」(九九年秋)に対して「戦争協力を推進するJR総連」という批判を徹底的に展開した。この暴露は、カクマル=JR総連、JR総連=カクマルの関係を最後的決裂へと追いつめるものとなった。
第3章 内戦的死闘と五月テーゼ下の戦いが切り開いた大勝利
次に、カクマルを大分裂させるに至った対カクマル戦におけるわれわれの勝利の歴史的地平を確認しておきたい。
(1)七〇年闘争へのK=K連合反革命
カクマルは七〇年安保・沖縄決戦での破産から七一年十二・四反革命を凶行し、以降白色武装襲撃を次々と行った。
革共同は、六六年第三回大会をもって七〇年安保・沖縄決戦を準備し、労働者の初歩的武装闘争を含む階級闘争の革命的・内乱的・武装的発展を主導的に切り開き勝利した。この七〇年決戦を主導した革共同は、社会党・日本共産党に代わって新たな労働者党として日本の階級闘争と政治の一角に登場し、その位置を確立しつつあった。そのことへの恐怖から、カクマルは徹底的な革共同破壊と解体のための暴力的襲撃に出たのだ。
カクマルは、七〇年安保・沖縄決戦の革命的質の高さと広さ、内容の深さにうちのめされ、この闘いの中に自らの死を感じ取った。そこで「権力と闘う党派への暴力行使」「首ねっこ・急所論」をもって、K=K連合のもとに革共同へ徹底した武装襲撃を加えた。権力と一体となって、権力ができない直接的武装襲撃・肉体的抹殺攻撃を加えてきたのだ。
(2)三・一四反革命をのりこえた闘い(フェーズTの闘い)
当初劣勢であったわれわれは、戦略的防御−対峙−総反攻という段階的前進戦略に立って闘った。初期の防御戦から七三年九・二一戦闘をもって革命的対峙の段階を戦取した。
われわれは、これ以降、カクマル指導中枢(土門、朝倉)を始め次々とせん滅戦の勝利をかちとった。「機関紙戦争」をめぐる勝利、カクマル全学連委員長の完全せん滅、カクマル本部の解放社や学生カクマルの創造社への攻撃。こうした中で、カクマルは謀略論を出さざるをえないまでに追いつめられた(七四年六月)。
七四年八月、本多書記長はカクマルへの総反攻完遂の檄(げき)を飛ばした。
この年、われわれはさらに大勝利を次々戦取した。関西でのカクマルアジト三カ所同時攻撃(十二・一)、東京でのカクマル・アジト三カ所同時攻撃(十二・十六)、『解放』発行人完全せん滅(七五年三・六)などを敢行し、総反攻完遂に向かって闘いは一気に前進した。
完全に死の縁に追いつめられたカクマルの凶行が、三・一四本多書記長虐殺だった。
われわれは、ファシスト・カクマルへの激しい復讐戦を決意し、猛然と決起していった。直後の三・一四復讐戦は、文字どおり全党の蜂起の中で、解放社幹部など十人を六月までに次々と完全せん滅した。カクマルはわれわれの怒りの爆発に耐え切れず、七五年三・二八「暴力行使の一方的停止声明」なるペテン的停戦策動によって復讐戦から逃れようとした。だがわれわれは、革命党の党首への「虐殺のための虐殺」という希代の反革命をけっして許さず、カクマル=反革命規定の全階級的確認を貫く戦争的打撃を強制していった。
そして八〇年十・三〇、本多書記長虐殺下手人五人完全せん滅戦闘を戦取したのだ。これを一つの区切りに、われわれは激化する日帝の攻撃と対決するために、八一年九月、先制的内戦戦略フェーズU(PU)へ向かったのであった。
(3)革命的武装闘争と対カクマル戦(フェーズUの闘い)
政治的反動の激化、特に「戦後政治の総決算」を唱えた当時の首相・中曽根が加えた攻撃は、階級闘争の大衆運動的大地と労働運動的基盤を解体し、奪い去っていくものであった。
革共同は、この政治的大反動攻撃と対決し、労働運動と大衆運動の拠点を守っていく立場から、カクマルとの力関係の転換を踏まえつつ、先制的内戦戦略の重点を組み替えることでこたえたのだ。それは、対カクマル戦が何ひとつ終わっていない現実にあって「労働者階級の中へ」の闘いにいまだ全面的に踏み切れない中で、大衆闘争の爆発を革命的武装闘争を先頭にして切り開いていく闘い方であった。これは結果的には五月テーゼ的大転換の準備期に位置することになる。
中曽根反革命は、戦後史に残る歴史的大反動であり、階級的な労働運動、農民運動、住民運動、学生運動を解体・一掃するものとしてあった。労働者階級の階級的団結を解体する目的で動労カクマルを抱き込んで国鉄分割・民営化(国労の解体策動)を強行し、総評を解体し、他方で、全国の住民運動、階級的闘いのシンボルであった三里塚闘争を解体する攻撃を加えてきたのだ。
これは侵略戦争体制構築のための、国内支配の反動的転換を狙ったものであった。この中曽根の攻撃の前に、体制内的、改良的な運動と勢力はことごとく屈服・転向していった。戦後民主主義に依拠することで運動的に対決しようとした勢力は、中曽根反動の前に崩壊したのだ。その意味で社会的な総転向状況がこの過程で進行したのである。
革共同はこの中曽根反革命と真正面から対決し、力の限り闘った。
国鉄の分割・民営化攻撃に対して動労千葉は革命的に決起し、八五年十一月、八六年二月ストライキをもって闘った。わが革共同・革命軍は八五年十一・二九浅草橋戦闘に決起した。三里塚闘争は、八三年三・八分裂や二期着工攻撃を粉砕し、八五年十・二〇戦闘などを闘い、度重なる反対同盟破壊を打ち破って大衆闘争、全国住民闘争の不動の司令塔として屹立(きつりつ)した。
日帝が、革命党の絶滅と大衆運動破壊、労働運動解体を、上からの内乱的な方法で、力で押し通してくることに反撃するには、階級的非和解性、実力的反撃、武装闘争性が求められたのである。
したがって、ここでの闘いは、日本階級闘争の歴史上初めての対権力闘争の本格的な武装的展開となった。それは、わが党が革命に至る党の武装と武装闘争、非合法・非公然活動とその党建設などの闘いにおける基礎的ではあるが、決定的な経験と教訓を手にする過程でもあった。全党のこの教訓は、革命的情勢の切迫の中で、今日ますます決定的意義をもっている。
東京サミット(八六年)攻撃や天皇制攻撃(八七年、八九〜九〇年)との闘いは、文字どおり日帝との間でせん滅戦的に闘われた。日帝は八六年五月七日、革命軍解体の弾圧宣言(五・七宣言)を出し、デッチあげによる長期重刑攻撃を加えた。弾圧と反動のあらしは苛烈(かれつ)を極めた。それは党に武装闘争の放棄と転向を迫るものとしてあった。われわれはこの攻撃と敢然と対決し、打ち破って九〇年天皇・三里塚決戦の軍事的蜂起戦の輝かしい闘いを戦取するに至るのである。
転向を拒否し、武装闘争を貫いてでもこの攻撃と対決して闘いぬいた革共同のみが、革命党と階級闘争の基本的骨格を守りぬき、その後の激しい攻撃をはね返して今日の階級的激動を担いぬいているのである。
そして、こうした対日帝戦争の爆発は、中曽根と一体化していたカクマルを追いつめるものとなった。
(4)五月テーゼ下の闘い
われわれは、九〇年天皇・三里塚決戦の大勝利をもって、レーニン的オーソドキシーを踏まえた労働者階級自身による階級的自己解放の闘いの道、五月テーゼ路線へと踏み切った。それは党の活動の戦略的重心を労働者党建設と戦闘的大衆運動の組織化に置き、労働者階級本隊の巨大な階級的総決起による一斉武装蜂起を実現していくための、本格的な「労働者の中へ」の闘いの推進である。
これは対カクマル戦という観点から言うならば、党建設と大衆運動を基軸として、その戦闘的な大衆運動をカクマルに対して戦略的打撃あるものとしてつくりだし、その爆発でカクマルを全人民的に包囲し、政治的、運動的、理論的、組織的に追いつめ、完全打倒していくという、新たな対カクマル戦の段階(質的に飛躍した第三段階ともいうべきもの)ということである。
一九全総でのJR総連=カクマルのファシスト労働運動の完膚なきまでの暴露と批判、二〇全総以降の国鉄決戦への党を挙げた取り組みと戦略的前進は、確実にカクマル=JR総連、JR総連=カクマルに打撃を与えた。またガイドライン闘争、第三次安保・沖縄闘争の革命的大衆運動の爆発は、カクマル=JR総連を運動場面に引きずり出し、グラグラにしてしまった。そして、ついに分裂を強制するまでに至ったのだ。
二〇〇〇年の三大決戦は、ますますカクマルに重圧を加えた。われわれは、あらためて自らのこれまで営々と闘ってきた労働運動、大衆闘争に確信をもち、ついに来たカクマル完全打倒への勝利を自らの闘いでなしとげるために総決起しなければならない。
第4章 「謀略論」と白色テロルが「黒田哲学」の反革命的正体
(1)「黒田哲学」に死を宣告した仲山論文
すでにカクマルは、綱領的、路線的に完全破産している。帝国主義論が欠落し、帝国主義間争闘戦が位置づかない。スターリン主義発生の革命論的解明がなく、その階級的規定もなく大混乱している。カクマルは、綱領的破産からソ連スターリン主義崩壊以後、統一的な世界認識を明確にさせられないのだ。かつての「ソ連起動力」論の反動性、デタラメさに輪をかけて「ナショナリズムの相克」論、「宗教=民族の対立」論、「新東西対立」論など、現象を追いかけては破産を繰り返している。
またアメリカ帝国主義を「ヤンキー帝国主義」と呼ぶなど、黒田のファシスト的な反米民族排外主義の地金もむき出しとなる一方である。
組織的危機はJR総連との分裂をもって最後的に深まった。
今、カクマルは、唯一最後の逃げ場を「黒田哲学」へのしがみつきに求め、黒田崇拝のカルト的私党として生き残ろうとしている。だが、われわれはけっしてこれを許さない。その巨弾が『共産主義者』一二七号「『黒田哲学』を全面的に批判する」(仲山良介論文)である。
この「黒田哲学」批判をもって、われわれは黒田とカクマルに一切の逃げ場を与えず、完全打倒する決定的地平を確立したのだ。
大分裂にのたうつカクマルのファシスト的思想的根拠を全面的に粉砕し、革共同から逃亡して以来の、そしてとりわけ三十年間にわたる対カクマル戦を完全に総括し、あらゆる意味でカクマルを完全打倒する準備が完了した。
結論的に言えば、「黒田哲学」の実践的帰結は謀略論と白色テロルでしかない。それが黒田哲学の必然的帰結であること、そしてこの「黒田哲学」はすでに完全に死んだということ、残っているのは腐乱し、腐臭を放つ黒田の残骸(ざんがい)だということを断言する。
「黒田哲学」は、革共同の創成において積極的な役割を果たしながら、黒田が三全総の飛躍から逃亡し、求められた革命的共産主義者としての実践と飛躍を拒否した結果、黒田自身いったんは開始していた思想的、理論的限界の自己変革的な突破の作業をなし得ず、小ブル的哲学者の枠に固定化することをもって自己を絶対化し、思想的にも理論的にも変革どころかトコトン腐敗して反動的に開き直ることをもって謀略論と白色テロルの哲学へ転落していったものである。
それは、黒田自身の現実の階級闘争との生きた関係を拒否する閉鎖的な態度、革命的共産主義運動から逃亡し、革命にではなく哲学の革新を自己目的化した小ブル哲学者としての腐敗、本多書記長を虐殺した陰謀的軍事主義者としての反革命ファシスト性に規定されている。
ファシスト哲学者・黒田が白色軍事部隊を使って展開したのが、白色テロルと謀略論である。われわれは徹底して「黒田哲学」の核心を批判し尽くし、その惨めな残骸をさらしてやろう。
(2)観念論的転倒で「謀略論」を生み出す
仲山同志は「黒田哲学」の三部作をとりあげ、特にその核心である『ヘーゲルとマルクス』を徹底粉砕している。
「それは文字どおりの観念論なのである。実践の物質性を基軸にすえきった実践的唯物論とはおよそ似ても似つかない。それは物質というカテゴリーそのものに絶対性を付与した『物質の形而上学』でしかない」(一二一n)
「人間の労働および社会的実践における意識性=意識的な目的形成の契機を、現実の労働を蒸発させてそれだけとりだし、ヘーゲルの概念論の論理を当てはめながら自己運動させて、それを物質の自己運動として解釈したものが『ヘーゲルとマルクス』である」(一三八n)
「その根本的な問題性は、唯物論と称しながら、唯物論的な人間実践(その物質性)が一切の基礎としてしっかりとすえつけられていないということ、したがって、人間の認識活動が実践の内的契機としてとらえられるのではなく、それ自身として物質的な活動(対象的・現実的・感性的な人間実践)の本質にされ、物質的活動そのものにとって代わっていることにある」(一三九n)
謀略論はここから引き出される。
この黒田の論理は、黒田が頭の中で「これは謀略だと判断する」ことをもって、それは「既に現実に実在」したものと認識されるという構造をもっている。カクマル謀略論は、単なる黒田の過ちなどではなく、革共同から逃亡し、唯物論的実践を観念的操作にすりかえてしまった黒田の「哲学」そのものにほかならない。ファシスト的謀略論が「黒田哲学」なるものの本当の姿なのだ。
黒田は、「政治判断によって現実認識は決定される」ことを主張する『政治判断と認識』を出版したが、それは謀略論哲学の論理そのものである。
それは、実践という契機をもたず、概念をひとり歩きさせ、その自己展開が現実だとする黒田哲学の転倒した観念的操作の結論そのものなのである。そこには生きた人間の実践(労働)という契機がない。「黒田哲学」が謀略論を生み出すゆえんである。
(3)カルト的な「黒田崇拝運動」打ち砕け
「神戸謀略論」デマ運動の展開は、カクマル組織が、黒田のカルト的私党になりきった記念碑といえるものである。なぜならカクマル組織が、黒田の直観(=組織操作のための独善的判断)を金科玉条にして組織を運営し、生きた現実をめぐる組織討議が不可能な状態であることを示しているからだ。
黒田の直観に基づく謀略論デマ運動がカクマル組織内で物質化されて行く構造は以下のように「理論化」されている。
「場所的立場にたつわれわれの実践的直観が、常識人的直観と異なるのはいうまでもない」、しかし「一口に実践的直観といっても、これは実際的には、それほど容易に獲得できるものではない」「組織実践の深浅、思想性・組織性の高低にかかわる」(『政治判断と認識』二五〜二六n)。つまり、ファシストの実践的直観は常識人と違うし、黒田しか下せないということである。
「生きた現実が提起する問題のすべてが、党の取り組むべき課題となるわけではない。党が何を組織的に闘争課題として設定するのか。……すなわち特定の現実問題が、党の発展と命運にかかわる問題が、取り組むべき闘争課題として設定されるのである」と断言される。
本来、大衆闘争は、現実の日帝の戦争国家化攻撃や政治動向に対して労働者階級人民の階級的利益の大きさがまずその基準におかれて課題化されていかなければならないものだ。階級闘争にあっては、その大地である労働者階級の利益が失われるならば結局、党的な利益も失われる。階級的な党にとって、その党の利益は階級の利益と一体のものである。階級的利益と党の利益を対立するものとしたり、あるいはそれと別個にあるものとするのは間違いだ。カクマルにとって運動がカクマル組織づくりの手段であるように、大衆運動の課題設定の一切の基準は、カクマル組織の「発展」と「命運」なのだ。そこにカクマルが、労働者階級の利益と敵対し、謀略論をねつ造して国鉄大合理化に屈服した水本運動やガイドライン闘争時の「神戸謀略論」デマ運動など、労働者の階級的利益と敵対する運動を展開するファシストの原理がある。
「神戸謀略論」デマ運動の破産で示されたものは黒田の「組織現実論」、運動論の破産であり、謀略論哲学=「黒田哲学」の腐乱した現実なのである。
第5章 3・14復讐戦の貫徹をかけ、分裂カクマル徹底追撃せよ
(1)帝国主義の危機と革命的情勢の切迫
日米争闘戦に追いつめられた日帝が、没落帝国主義として自らの生き残りと利権をかけて戦争国家化−改憲攻撃を加え、戦後的なものの一切を最後的に粉砕する凶暴な攻撃を加えてきている。
日帝の戦争と大失業攻撃に対して、闘う労働者階級人民は、〈戦争国家化阻止=改憲粉砕・日帝打倒! 闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱へ! 米軍基地撤去=沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒!〉の改憲阻止決戦の三つの戦略的スローガンのもと、文字どおり戦後階級闘争のすべてをかけた歴史的大決戦に打って出ようとしている。それは革命的情勢の切迫を告げ知らせている。まさにこうした時にファシスト・カクマル完全打倒が現実的な課題となったということは、けっして偶然ではない。
われわれは、米帝経済のバブル崩壊への突入と二九年型世界大恐慌の本格化、没落日帝の破局的危機というすさまじい激動の中で闘われる、戦後最大の階級決戦の爆発的展開過程の真っただ中で、ファシスト・カクマルを完全打倒し、日帝を打倒していく時を迎えたということなのである。カクマル完全打倒の情勢の成熟は、この面からも革命的情勢の切迫を知らせるものである。
戦後最大の階級決戦の大爆発の中で、現代のファシスト・カクマルを労働者階級人民の怒りの業火で完全打倒・一掃するということである。われわれは、日本革命戦取の戦略的な一環として、カクマル完全打倒を今一度はっきりさせ、三・一四復讐戦貫徹=総反攻完遂、カクマル完全打倒をあらためて固く決意しなければならない。
(2)カクマル全産別の分裂と崩壊の合図
この十年の間に、カクマルの拠点といわれたところが次々と崩壊している。沖縄組織しかり、早稲田カクマルしかり、そしてついにJR総連というカクマル最大の組織実体の離反である。それはカクマルの全産別の分裂と崩壊の合図である。カクマルを完全打倒する条件は完全に成熟したのだ。われわれは、この闘いの勝利を必ず実現する。
その闘いは、五月テーゼ下の対カクマル戦の爆発的推進としてかちとらなければならない。
第一に、革命的大衆運動を戦略的に爆発させ、党建設を圧倒的に前進させることである。
森政権打倒・教育改革粉砕―改憲阻止の闘いを大爆発させること、闘争団を防衛し、国鉄決戦勝利を柱にすべての産別と地域で階級的労働運動を組織し、新潮流運動を躍進させること、そして何よりも今年前半の最大最高の闘いとしての都議選決戦に勝利することである。
革命的大衆闘争の前進は、カクマルをますます追いつめるのだ。あらゆる職場、学園、街頭へうって出て、教育改革粉砕−改憲阻止決戦を爆発させよう!
国鉄決戦を爆発させ、JR総連傘下の組合員の闘う労働組合への積極的合流をかちとり、松崎・カクマルを労働戦線から一掃するために闘おう。
超長期の獄中同志を大衆的怒りの爆発で奪還しよう!
何よりも革共同の党としての前進が、分裂カクマルを奈落((ならく)の底にたたき落とす決定的な闘いである。都議選決戦の勝利、けしば誠一候補の当選をなんとしてもかちとらなければならない。
そして、新たな労働者党建設としての、革共同の党的飛躍、党員倍増への闘いを強力に推進していくことである。圧倒的な党の強化と非合法・非公然の革命党建設に力を入れよう。
われわれは、対カクマル戦で大勝利した地点に立っている。これを党建設へと物質化するのだ。三全総−三回大会−五月テーゼの道、闘う労働者党建設の道を今こそ邁進(まいしん)しよう。
第二に、革命的武装自衛で戦闘的大衆闘争を守り発展させることである。
カクマルは「党派として死んだ」とはいえ、彼らは生き残りのために残存白色武装力を行使しようとしている。崩壊の淵でもがくカクマルは、断末魔的に凶暴化して、闘う大衆運動の破壊に出てくることは間違いない。しかし敗残カクマルの白色暴力は、革命的武装自衛体制で闘えば、必ず粉砕・一掃できるのだ。
第三に、カクマルの理論、思想、路線への壊滅的な批判、イデオロギー闘争を完全打倒まで繰り返し、さらに強力に突きつけていくことである。この間のJR総連、カクマルへのイデオロギー批判は、カクマルを大分裂させていく決定的な武器となった。ますます容赦のない批判を浴びせかけよう。
とりわけカクマルは、謀略論と白色テロルの哲学でしかない「黒田哲学」にしがみつく以外に生き残る道を失っている。「黒田哲学」を粉砕し尽くし、カクマルの組織的解体を促進していこう。
第四に、カクマルとの闘いは、最後は軍事的決着で総括していくことが求められる。革命軍の戦略的攻撃体制を強化し、全党の索敵情報活動を圧倒的に充実させていかなくてはならない。
そして最後に、何よりも重要なことは、本多延嘉書記長の虐殺下手人、反帝・反スターリン主義世界革命への反革命であるファシスト・カクマルへの深い怒り、絶対に許さないという強い意志、勝利するという固い決意である。血を流してファシストを打倒するという気概と精神で闘おう。われわれは、自らの闘いと革命の大義への確信に立ち、ファシスト・カクマルを一人残らず打倒する。
改憲阻止決戦の大爆発、都議選勝利、労働運動における新潮流運動の躍進という二十一世紀第一年の決定的勝利を核心に、全党全人民はファシスト・カクマルへの追撃戦にうって出よう!
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